4幕 始まりから波乱
「「海だぁぁぁぁぁ!!!」」
目的地に到着するなり、目の前の海をみて海老名兄妹がそう叫んだ。今まで車酔いで沈黙していたのが嘘のようである。あの美月ですら今はまだ復活していないのだ。まあそれも時間の問題なのだろうが。
目元を眠たそうに擦っている和那は水無月の服をギュッと掴んでおり、その懐きように水無月は感動を覚えていた。普段は美月に妹扱いされている反動か、和那が無性に可愛く見えるのだろう。
「和那ちゃんかわいいよぉ~」
「こーちゃん、くるしい……」
そんな和那をぬいぐるみのように抱き締める水無月。もはやデレデレと誇張表現しても良い。和那もまだ意識が覚醒していないからか反応は鈍い。
荷物を放ったらかしにしている他の面々とは違い、一色は渡邊と咲良と共に車から荷物を降ろしていた。
「……やっぱり一色くんはいい子よ、玲。次期部長は彼で決まりね」
「海老名さんがしっかり省いているところに私怨を感じるよ。……僕も同意はするけどね」
そもそも咲良がさーちゃん、などとあだ名で呼ばれるようになった原因は初香である。別に心の底から恨んでいるわけではないが、生徒とは適切な距離を保ちたい彼女にとって、周りから来られる距離感は近すぎるのだ。
咲良の距離感はどちらかといえば一色に近いもので、そのため一色とは相性が良いのかもしれない。
「にしても貴音先輩の荷物が多いですね」
「そうだね。一人で二つも大きなカバンを持ってきているし……しかも片方は大きさの割には軽いね」
渡邊は美月の鞄の一つを持ってそう言った。……確かに二泊三日にしては荷物が多い。一色なんて和那と合わせても美月の鞄の一つにも満たないのだ。
……何より変なのは、その鞄が若干低反発なところだ。服を入れただけではこうはならない。一色はフニフニとその鞄を突いているときだった。
――ビュンと。今まで車酔いでノックアウトしていた美月が血相を変え、渡邊からその鞄を引き剥がしたのだ。
その一瞬の形相はまさしく鬼であり、あまりにも異常な行動に一色は余計に興味をそそられた。
「貴音先輩、どうしたんですか? 渡邊先生が親切で荷物を降ろしているのに、それは流石に失礼ですよ。……それとも見られたくないものがそこにあるんですか?」
「そ、そ、そんなことない! これは私の私物で……そう、枕だ!! 私は枕が変わると眠れないんだよ!!」
「へぇ、枕――でも可笑しいですね。枕の割りには形が歪ですよ。鞄がボコボコしていますよ」
目を細めて笑う一色。彼の言う通り、布製の大きな鞄は中身の物を無理やり詰め込んだためか、ひどく凹凸ができていた。
一色はこの時点で既にその正体が何であるかを突き止めていた。しかし美月の反応を面白がって、あえて最後までは言わないのである。
……一色千尋も美術部の洗礼を受けて、それなりに悪影響が出始めていた。
「貴音先輩は大雑把ですから、適当に服を入れそうですよね」
「そ、そうだぞ! 私は自他ともに認める大雑把だ!! いやぁ、私は収納が苦手で苦手で、本当に女として恥だなー!!」
「……でもおかしいですね。どうしてもう一つの鞄は綺麗に収納できているんですか? それに重さも違いますよね」
少しずつ美月を追い詰めていく一色。美月はそのたびに唇を噛んで目を見開き、ダラダラと冷や汗を掻いていた。
――そろそろ止めてあげようと考える一色は、まだまだ甘いのである。これが渡邊や雪彦であったならば、しばらくは弄り続けていただろう。一色は一気に核心を突いた。
「あ、でも枕は正しいかもしれませんね。だってその中身は抱き――」
「わー、わー!! 一色、後で買い出しに行ったときになんでも好きなものを買ってやろー、あははは!!」
美月は慌てた様子で一色の口元を抑える。
その不可解な行動が、一色の予想の裏付けとなるのだが、事を知られなくない美月にとってそんなことはどうでもよかった。
色々とキャラ崩壊を繰り返す美月であるが、ここまで一環として男子的側面が強い女の子ということだけは貫いてきた。しかしまさかあの貴音美月に抱き癖があるなんて、誰も思わないだろう。
しかも大きな熊の抱き枕を抱いて寝ないと眠れないなど、きっと誰もが予想しないことだ。確実に引かれるのは目に見えている。
引かれるだけならまだしも、これをネタにしばらく弄られることは確実だ。故に美月はこれを隠し通さねばならなかった。
「必死すぎるでしょう。別に心配しなくてもあの二人には言いませんよ。……面倒ごとを押し付けられない限り」
「ぜ、善処しよう……」
ボソリと一色が呟くと、美月はそう言った。冷や汗を掻きながら一色との交渉を繰り広げる美月。これによって一色が得たのは美月からの弄りが来ない一時の平穏であった。
「……ちなみに熊の名前は?」
「……アリス」
恥ずかしがる美月を見て、何か目覚めてはいけないものが目覚めそうになる一色なのであった。言えることはただ一つ……それは確実に目覚めさせてはいけないということだけである。
……そんな冗談は置いておくとして、とりあえず一行はロッジの中に入る。木で作られたウッドハウスであるが、使うのは一年ぶりなのにも関わらず清掃が行き届いていた。
このウッドハウスは一階に皆で食事を摂るリビングルームがあり、二階には寝室がある部屋が数室ある。各部屋には窓があり、そこから少し遠くに海が見え景色も良い。
荷物を室内に運び、一色は最初にキッチンを確認する。
ガスコンロが三口あり、更に大きな冷蔵庫、調理器具も一式揃っている。シンクなどの水回りも綺麗で且つ広い。水無月と二人で料理するにも申し分ない広さの台まで備えており、料理をするには最適な環境がそこにはあった。
「……これはテンションが上がるな」
「れ、レアだな。千尋が自分からそんなことを言うなんて」
その素晴らしいキッチンを前に多少浮足立つ一色。それは一色だけではなく、水無月が最初に合宿でここに来たときも同じであった。
一色の反応を見てうんうんと頷いている水無月。共感を嬉しく思っているのだろう。全く以て分かりやすい反応だ。
……時刻は丁度お昼過ぎ。数時間前に軽食を食べたためそこまでお腹は減ってはいないが、それも時間の問題だろう。それを見越してか、渡邊は生徒たちに提案した。
「僕は食材調達に車で行ってくるよ」
「あ、それなら俺も行きます。一応何を作るとかは大体決まったので」
一色は車の中で水無月と相談して決まった食材を書いたメモを見せてそう言った。
「私も行こっか?」
「いや、荷物が多いから俺が行くよ。水無月は和那の相手、してもらってていいか?」
子供ながらロッジの中を楽しそうに探検している和那を指さして一色はそう水無月にお願いした。
「分かった。じゃあ和那ちゃんは私に任せてね!」
水無月はそう意気込んで、一人で動き回っている和那の方に駆け足で寄っていった。
それを見計らい、一色は美月から合宿で使うための財布を受け取る。合宿に掛かる費用は部員それぞれから最低限集金し、そして学外活動として学校から支給される部費を使うことになっている。しかも宿泊場所は美月からの提供であるから、実質食費だけで済んでいるのだ。
一色と渡邊は再度車に乗り込む。一色は行きとは違い助手席に乗ると、近くの食料品店に向かって出発した。
「……楽しいかい、一色くん」
「楽しいって、始まったばかりじゃないですか」
渡邊の質問に一色はそう返答した。渡邊は「それもそうだけどね」と苦笑しながら続けた。
「僕が知っている君は、教室にいつも一人でいる一色くんだからね。だから今の君は凄く新鮮に見えるんだよ」
「……いつもとそんなに変わりませんよ。実際に話しかけられなければ、俺はいつも通りですし」
「確かに一色くんは能動と受動の割合が極端だけどね――でもやっぱりいつもと違うよ。話しかけられて、そこから話題を膨らませる。少なくともその辺りが変わったと思う。四月に見ていた君が、これまでずっと変わらず君のままであったのだとしたら特にそう思うよ」
「――でも、変わらない部分もあります。今もどこかで、あの人たちに自分のことを話せていません」
一色は自分の目元を抑えて、そう言った。鋭い渡邊はその意味をすぐに理解し、運転しながら話し続ける。
「彼女たちは信頼をおける人たちであると思うけど。……いや、そんなことは君が一番よく理解しているか」
「……さぁ。ただ結局どこまで行ってもこれは俺の心の問題なんです。だから今は、今ある目の前のことを全力で楽しもう。なんてあの人らの前で言ったら笑われますよね」
「あはは、そうだね。きっと笑われて、弄られて……きっと、嬉しがるんだろうね」
……それ以上渡邊は踏み込むことはしなかった。もう聞きたいことを聞きだせたのだろう。
――積み重なった心の壁をすぐに破壊することはきっと難しい。自分ではどうにかしたいと思っていても、心の奥底の深層心理で、無意識にそれを阻んでしまうのだ。
だからこそ人は一から十まで心を許せる人でないと全てを打ち明けることができない。中途半端に、触れてほしくない点をひた隠しにする。
「……羨ましいです。水無月と、貴音先輩が」
一色はふと、渡邊にそう言った。
一色が自発的にそんなことを言ってくると渡邊も思っていなかったのか、ひどく驚いていた。一色がそう言った時、ちょうど目的に到着する。
しかし渡邊からすればそのことよりも今の一色の発言が気になって仕方がない。
「……あの二人の凄いのは、互いを信頼しきっているところです。遠慮がないというか。……すごく自然なんです。互いを分かりきっていて、だからこそ適切な距離で気を遣うことなく一緒にいる。きっと貴音先輩も水無月も、お互いのためなら何でもしますよ」
「……そうですね。本当の関係は、互いを叱れて正せることにあります。だから家族以上の絆が生まれ難いとも言えますね」
体裁だけの仮面を被っていても何も生まれない。もちろん仮面も社会を生きていく上では必要不可欠なものだ。
本音だけでは生きてはいけないから建前を用意する。本音と建前を使いこなし、上手に人間関係を築いていく。
それが顕著なのが海老名兄妹だろう。非常に高いコミュニケーション力で交友関係が互いに広く、噂はどうであれ人望は高く人気者だ。
……だけれど、一色が心底羨ましいと思うのは、水無月と美月の関係性だった。
それに加え、幼馴染という単語が彼の心に影を落とした。
「貴音先輩の良さも悪さも全部ひっくるめて、水無月は大切にしています。貴音先輩もそんな水無月をいつも可愛がっていて、番犬染みたことをしていますし」
「それで何度も問題を起こしているんだけどね」
美月が一年生の時の過去を思い出し、渡邊はげんなりとする。しかし、美月の芯の強さを彼もまた知っているため、納得した。
「確かにあの二人の関係性は素晴らしいものだと思うよ。きっとあの二人は何があっても互いを裏切るようなことをしないだろうから」
「――ッ」
……一瞬、一色がその言葉に反応した。
「……とりあえず、買い物に行こうか」
渡邊は一色の表情の変化を察し、ドアを開けて車外に出た。それにつられて一色は渡邊についていく。買い物かごを店の前で取り、店内に入った。
食料品店とはいっても、都会などに大きな店舗ではない。どちらかといえば地元の人々が持ち寄って一つの店を構えている複合店舗である。近くに海と山があるといった自然豊かな風土柄、水産物や野菜などの穀物も多く、補えない分には地元の近くにある農家から出荷するという形で成り立っているのが、一色と渡邊がいる店舗の特徴である。
二人は店舗内でメモを元に食材を買い物かごに入れ込んでいく。
「新鮮な野菜を直送がウリだそうですよ、ここは」
渡邊はポリ袋に瑞々しいトマトを入れながらそう言った。渡邊の言う通り、地元の畑からとれた野菜を直送で販売しているため、鮮度抜群なのだ。
色の概念が分からない一色でも、色の濃淡さと手触り、そして経験でそれは分かる。食材選びは普段は和那に手伝ってもらっており、一色が水無月の申し出を断った本当の理由はそこにあった。一緒に買い物に行った場合、高確率で自分の秘密を知られてしまう危険性があるからだ。
「一色くんがどうして自分をひた隠しするのか。その気落ちは何があっても僕には分からない。だから気休めの言葉なんて言わないよ。だけど僕は、彼女たちは信頼におけると思う。少なくとも、君がさっき反応した言葉のようなことはしないよ」
「……鋭すぎると嫌われますよ、先生」
「あはは、でも一色くんは嫌いじゃないだろ? 僕のこと」
どうにも頭が上がらないと一色は思った。渡邊の客観的な観察眼によって自分が丸裸にされているような感覚に囚われる。それについてあまり良い感情は生まれないが、しかし自分のことを心配してくれているという点。これを理解できるから、渡邊のことが嫌いにはなれないのだ。
それすらも理解して発言しているのが渡邊という男である。一色はこういう周到な点が、あの咲良御子を落としたのだと確信した。
「先生って敵に回すと絶対に面倒臭いですよね」
「それ、よく言われる。……まぁ色々と考えなよ。この合宿は一色くんにとって、とても大切なものになると思う。君もそれをどこか楽しみにしていたんだろう?」
「……知りません」
一色はふいと視線を渡邊から外し、少し早足で先に進む。
……どこまでも見通す渡邊とこれ以上話していたら危険であると思ったのだろう。自己防衛に近いかもしれない。周りからすれば別段おかしくない一色の反応も、渡邊からすれば当惑する年相応の高校生に映った。
「さて、あちらはどうなっているだろうね。……御子には僕が楽な方を選んだって恨まれているだろうけど」
渡邊の想像通りの展開がロッジで繰り広げられており、そして咲良が恋人を恨んでいるのはまさにその通りなのであった。
「ところで渡邊先生、ずっと気になっていたことがあるんですが」
「なんだい?」
不意に一色は渡邊に話しかける。実は一色にはずぅと気になっていたことがあったのだ。それは意外にも下世話なものであった。
「――咲良先生とはいつから付き合っているんですか?」
「……一色くんからそんな話題が出てくることに驚きを隠せないよ」
案の定の反応である。しかし渡邊の驚きは至極真っ当である。誰もが一色が色恋沙汰の質問をするなど思いもしないだろう。
「なんとなく気になっただけですよ」
「まあそれも良い変化と思っておくよ。……そうだね。実は高校生の頃からの付き合いなんだよ。僕と御子は同じ高校の同級生でね、それから縁があって今に至っているんだよ。今では半同棲状態でね。御子はしっかりしているようで結構抜けているところがあるからそこも可愛くて――」
……後に一色はこのことを聞いたのを後悔する。普段から温厚で冷静な渡邊。しかしその実、自分の恋人至上主義の惚気たがりであったのだった。
全てが終わる頃、一色は「はい、そうですね」としか言えない相槌人形に成り果てていることは言うまでもなかった。
○●○●
地獄絵図。この世の負を寄せ集め、それを克明に描写した、身の毛もよだつ凄惨な絵のことをそう表現する。
一色と渡邊がロッジに帰って来た時、最初に思った率直な表現である。まさに地獄絵図。何が地獄絵図といえば、咲良の表情がそれを物語っていた。
「い、一色くん……玲……やっと帰ってきたわね」
――若くて綺麗なことで評判の咲良が、ゲンナリのし過ぎで老けてしまっていた。
手足はがくがくに震えていて、本当に何があったかと聞きたくなるような状態に、流石の渡邊も顔が引きつる。
「……奴らが暴走しましたか」
察するのは一色である。渡邊が買い物に出かけ不在、しかも合宿が始まってテンションが最上限に達した美月、雪彦、初香はの三人は、それはもう厄介であった。
「貴音ちゃんは夜に花火をするぞとか言って花火を買いに行ったの。別にそれは良かったわ。それに海老名ちゃんもついていって帰ってきたと思ったら、海老名くんに向かってロケット花火を打ったのよ。それにプツンときた海老名くんが何故か用意していた水風船とホースを片手にそこの庭で大戦争を……へっくち」
「……それを止めようとして巻き添えを喰らったと。……御子、お風呂にでも入ってきなよ。ここは僕が収めておくから」
「……うん」
既に体力の限界を感じていた咲良に、渡邊は心遣いと優しさの塊のような接し方をする。着替えを持っていくことさえを忘れている彼女のために着替えを用意し、お風呂上りに何か甘いものを用意しようとするほどの気遣いだ。
だが、彼の仕事はまだある。それは未だ、ロッジの近くで危険な火遊びをしている馬鹿共の粛清だ。
「一色くん、食材を冷蔵庫の中にしまっていて持っても良いかな。僕はちょっと外の空気でも吸ってくるよ」
「はい――徹底的にお願いします」
「無論だよ」
渡邊がその場から消えると、それまで様子を見計らっていたのか、二階の方から水無月と和那が降りてきた。
騒がしい連中からきっと逃げていたのだろう。非常に賢明な判断だと言える。水無月は一色の姿を確認すると、少し小走りで彼の近くに寄った。
「おかえりなさい、一色くん! 約束通り和那ちゃんと安全なところに避難しました!」
「ああ、ありがとう」
一色の顔を見るなり事後報告をする水無月。びしっと敬礼をするのが実に愛らしい。するとこれまた愛らしい仕草でテクテクと彼の元に歩いてくる和那。そしてクイッと彼の服の袖を引っ張った。
「おにいちゃん、和那もてつだう」
「じゃあいつも通り野菜の皮むきでも手伝ってもらおうかな」
子供というのは身近な人を見様見真似して成長していく年頃だ。私生活がきちんとしている一色は良き見本の兄であり、和那も見習って普段から良く手伝いをしているのだ。
「和那ちゃんは偉いねー。じゃあ私と一緒に野菜の皮を剥こうね!」
「うん」
一色からすれば和那も水無月も癒しに近い存在であるため、合宿が始まってある意味では最も平和な時間が訪れる。何しろうるさい連中が近くにいないのだ。平和に夕食を作れることがどれだけ嬉しいことか。きっと誰にも分からないささやかな幸せである。
「カレーは少し置いておいた方がおいしいから、少し早いけど作るか?」
「そうだね。丁度皆もいないことだし。……それに渡邊先生もたぶんかなり怒ってるから、当分帰ってこないだろうし」
「……そうだな。あの人が気味悪いほどの笑顔だったからな」
「……渡邊先生は怒らせないようにしないとね」
安心して良いだろう。水無月と一色に関しては、渡邊を怒らせるようなことは決してしないだろうから。
水無月は自前のエプロンを付ける。一色は特にエプロンはつけないため、ワイシャツの裾を折り捲り、水道水で手を流した。
「一色くん、エプロンなら予備あるから貸してあげるよ?」
「……絶対にヒラヒラついてるだろ」
今、水無月がつけているエプロンはいわば「女子力の塊のようなエプロン」である。そこから予想できる通り、水無月の予備のエプロンもよく似たものだ。少なくとも男子がつけるようなものではない。
「い、一色くんなら着こなせるよ!!」
「お前、その状態で先輩たちが帰ってきたらどうする。絶対に笑いの的だろ」
「……それはそれで見てみたいかも」
「――お前の嫌いなものもしっかり買ってきているから、覚悟しておけよ」
一色はレジ袋からそっと取り出すインゲンを見せると、水無月はハッと驚く。
……そう、インゲンは水無月な数少ない苦手な食べ物の一つなのだ。一色はあらかじめ聞いていた皆の嫌いな食べ物を敢えて買っている。
理由はといえば……面倒なことを吹っかけてきたら、問答無用で食卓にそれを出すため。
「い、一色くん! それは他の皆の対策でしょ!? だからわざわざ車の中で私の嫌いなものも聞いたんだね!?」
「保険だよ、保険。まさか本当に使うとは思っていなかった」
「ごめんなさい! だからインゲンだけは止めて! 本当に苦手なの!!」
あの水無月がここまで拒否して取り繕うのも珍しい。一色はその反応を見てそこまで嫌うものなのか、と思った。
彼はあまり食べ物に好き嫌いがない。水無月に対しても好き嫌いがあるようには思っていなかったため、本当に意外な一面であると思った。
「冗談だよ。……でも何でそんなに嫌いなんだ? 確かに好き好んで食べようとは思わないけど、そこまで恐れるほどの味でもないだろう」
「……小さい頃に、食べさせられて以来、どうしても苦手意識が取れなくてね」
「食べさせられた?」
「うん――美月ちゃんが、私が食べた瞬間に『インゲンって人間の体の一部らしいぞ』なんて言ってきて……それ以来、どうにも食べることに抵抗がね」
「結局あの人のせいかよ」
凄まじくどうでもいいような理由で一色は肩をすかすのであった。
……ともあれ二人は調理を始める。
和那をピーラーで器用に野菜の皮を剥いており、水無月は和那に注意しながら彼女の剥いた野菜を一口サイズに切り分けていた。その隣で一色は一口大に切り分けた鶏肉を醤油やミリン、料理酒、にんにくなどで下味をつけていた。
「あ、結局唐揚げにするんだ」
「ああ。これなら数時間置いておいたら味がしっかりと馴染むからな。少し多めに漬けておけば、炒め物とかの時に使い勝手が良いし、残った汁を遣えば炊き込みご飯にも再利用できるから」
「い、一色くんすごいね。なんかお母さんみたい」
「……主婦の大変さを学生のうちに分かるのは貴重な経験だよ」
一色の手際と考えの深さに感心する水無月。しかしながら水無月も彼に劣らず中々の手際だった。素早い手つきだが切られた野菜は等しい大きさで、普段から包丁を扱うことが慣れているように伺える。
普段から自炊をしている一色から見ても、その手つきは慣れていると思えた。
「水無月は普段から料理をしているんだな」
「うん。一応一色くんと同じで毎日自炊しているんだよ。それに美月ちゃんも結構な頻度でお邪魔してくるから」
「お邪魔してくるって、面白い表現だな」
「うん、五回に一回は本当にお邪魔な時があるから」
流石は幼馴染、言葉に遠慮というものが一切なかった。ただ口ではそう言っているが、実際には歓迎しているのが水無月である。美月も水無月に甘いが、彼女も彼女で美月には甘いのだ。
しかし納得である。水無月のそれは毎日包丁に触れているところからくる経験であるのだ。
……そんな二人を見つめるのは、幼い和那である。和那の年頃は非常に過敏な年代で、意味は分からずとも二人の雰囲気を見て思うところがあった。
「……こーちゃんとおにいちゃん、なかよし?」
「んー、そうだね。一色くんと私はとっても仲良しさんだよ! ね、一色くん」
「……その表現は恥ずかしいから止めてもらえるか?」
水無月が恥ずかしげもなくそんなことを言うものだから、一色はぶっきらぼうにそう言い返した。すると和那は少し表情をムッとさせる。
……先ほどまでは一色、水無月、和那の順番でキッチンに立っていたのだが、和那は突如、その二人の間に割って入った。
二人はその行動にどうした、と思ったが……次の瞬間に、その行動の意味が分かる。
「――こーちゃん、きらい」
「…………え?」
子供ながらの可愛げのある分かりやすい嫉妬だ。大好きなお兄ちゃんと取られると思っての行動で、裏などは一切ない。
しかし先ほどまでずっと仲良く遊んでいたお気に入りの女の子にはっきりと嫌いと言われた水無月は、はっきりと狼狽していた。
「か、和那ちゃん? わ、私は和那ちゃんのこと、大好きだよ?」
「……き、きらいだもん」
実は嫌いではないが、意地を張って嫌いと連呼する和那。一色からすればとても分かりやすい愛情表現であるのだが、あろうことか純粋な水無月はそれを言葉通りに受け止めてしまった。
「き、きらわれた……和那ちゃんに――ッ」
シュババと包丁とまな板をシンクに入れ、その場から風のように逃げる水無月。
その光景を見つめる一色兄妹。ふと一色は水無月がしていた作業を見る。そこには丁寧に切られた野菜があり、全ての下準備が終わっていた。
「……和那。心にもないことを言うなよ。水無月、めちゃくちゃ悲しんでいたぞ」
「し、知らないもん……こーちゃんなんて、知らないもん!」
珍しく駄々をこねる和那は、エプロンを脱いでリビングにあるソファーに顔を埋めるのであった。
……どうして和那があんたことを言ったのか理由も大体わかるのだが、どうすればいいのかは分からない一色。
ただ一つだけわかることは
「――面倒くさ」
全く以ってその通りである。
結果的に一人で料理をすることになった一色は、全ての具材を鍋の中に入れてお湯を張って煮込む。その中に下味で塩胡椒と少しだけコンソメを入れ、煮立ったところで固形のカレーの元を入れ、更にそこから数種のスパイスを振りかけて鍋に蓋をした。
一連の準備を終えてさて何をしようと思った時、ちょうどお風呂から上がった咲良がリビングに現れる。
一色は事前に作っておいた麦茶をコップに注ぎ、机のうえにコトンと置いた。
「咲良先生、よければどうぞ」
「ありがと、一色くん。……あれ? いつの間に作ったの、麦茶なんて」
「料理中に平行して」
「本当にしっかりしているわね、一色くんは」
抜かりない一色に咲良は驚きつつも感心する。下手をすれば自分よりもしっかりしている彼を見て、若干危機感を得た。何せ、咲良としては渡邊と交際しているため、一色が何気なくしている行動は真似しなければならないのである。いずれは結婚も念頭においた真剣恋愛だからこそ、少し自分を見直そうとまで考えていた。
「すみません、うちの先輩たちがご迷惑を……いえ、大変なご迷惑をおかけして」
「うん、その表現であっているわ。ちょっと舐めてかかっていたもの。あの玲がつい愚痴っちゃうくらいの生徒だものね」
渡邊の苦労の一端を知った咲良は、次は普段その大変さを味わっている一色に同情する。その視線が分かりやすいからか、一色もそう思われていることにすぐに気付いた。
「ところで和那ちゃんはどうしてソファーに埋もれているの?」
「拗ねているだけですよ。しばらく放っておいたらいいです」
今回に関しては一方的に和那が悪いため、一色も心を鬼に変えて和那には触れなかった。
しかし自分まで敵になれば和那も心情的に辛い。そのため、咲良にこう耳打ちした。
「和那、水無月にやきもちを焼いたんです。それでちょっと喧嘩してしまって……ちょっとだけで良いんで、気にしてもらえませんか? 二人の」
「可愛らしいけど、水無月ちゃんなら真に受けちゃうよね――分かったわ。ちょっと水無月ちゃんの様子を見てくるね」
咲良は麦茶を飲み干すと、グラスをシンクに入れて二階に上がった。
とりあえず問題のフォローは出来たということで、一色は和那が拗ねているソファーに腰かける。その瞬間、和那は一瞬顔を上げて兄を見つめた。
しかし目線を合わせない一色。明らかに構ってほしいということは分かるが、ここで構えば彼女は反省しないだろう。だから一色は何も言わないのだが……和那もまた、厄介だった。
相手にされないと分かってなお、じりじりと兄に近づくのだ。芋虫のように近づく。
「……和那。あいつ、本当に悲しそうだったぞ」
「し、しらない」
「嘘つくなよ。実は言ってしまったことを後悔してるんだろ? 今ならすぐに仲直りできるから、二階に行って来いよ」
「――やだ!!」
和那は変に意固地になって、ソファーから飛び降りて、そのまま自室へと走りっ去っていく。
その様を見て一色は思った。……これが反抗期なのかと。
「反抗期、ついに和那にも来たか。だけどここで甘やかしてもな」
難しい年頃だから、一色も頭を悩ませるところ。
普段は聞き分けが言い分、和那は一度拗れれば非常に頑固だ。こうなってしまえば自分から非を認めることができなくなる。言いだしてしまった手前、引っ込みがつかなくなってしまうのだ。
……ギシッと床の軋む音がした。そちらを見ると、咲良が二階から降りてきていた。
「ダメ。よっぽど和那ちゃんのことが気に入っていたのね。それはもう、落ち込みようが失恋した時のようだったわ」
「……和那もダメでした。しばらくはあのまま頑固が続くと思いますよ」
咲良の例えが的確すぎるためか、一色は後で自分も様子を見に行こうと思うのであった。
ともかく二人の関係が拗れたことは一色としても無視できない。片や妹で、片や一色にとっては重要な人物である。
どうしたものかと考えているとき、玄関が開く音がする。一色はそちらの方に視線を向けると、そこにいるのは渡邊を先頭に怒られた後であろう美月と初香と雪彦であった。
こってり絞られたのであろう。その顔には精気がなく、枯れた草木のようなものであった。あの初香までもがそうなってしまっているのは一色としては予想外である。
「……私もちょっと興味があるわ。何をどうすればあの問題児たちをああも黙らせれるのか」
「――知らない方が良いですよ。知っても多分、それをできるのはあの人だけでしょうから」
基本年下に舐められがちな咲良が真剣に教えを乞おうとしていたため、一色はそう止めた。とりあえず一色は渡邊の方に寄り、話しかけた。
「首尾はどうですか、渡邊先生」
「まあ一応反省はしているようなので――今回は危険ということでそれはもう強く怒ったから、たぶん二度としないと思うよ」
いくらなんでも人に向けてロケット花火を打ち放つのは危険である。例えその相手が雪彦であってもそれは覆らず、渡邊はそれを理路整然と説いたのだ。しかも何より効果的だったのが、それをすることによって起こる最悪のケースを幾つも羅列し、自分の罪の重みを分からせること。基本的に根が良い子である彼らにはそれが効いたのだ。
よって過去にないほど反省している美月と初香。
……ではなぜ、落ち度のない雪彦までもが枯れてしまっているのか。一色はそれが知りたかった。
「雪彦先輩はあまり落ち度がないようにも思ったんですが……」
「――女性に対して問答無用でホースで水を放っていたら、色々な意味で危険なんだよ」
一色はそれを聞いて納得する。今の美月と初香は渡邊が事前に用意したタオルケットを肩から掛けている。びしょびしょに濡れているからだ。
そして二人の服装は夏であるから軽装なのだ。そんなところに大量の水を浴びせれば服はくしゃくしゃになり、しかも下着は一目瞭然に透ける。そんなことを雪彦が分からずにするはずもないのだ。確信犯である。
状況を把握したうえでタオルケットを用意していき現場に駆け付けた渡邊に対し、最初は雪彦も自分は悪くないと言い張った。わざわざ言わなくても良いことを言ったのだ。言わなければ渡邊も雪彦のことを怒らなかっただろう。
それが雪彦に対して説教をする引き金になってしまったのだ。
『海老名くん、君は自分が一切悪くないと言っているけど、果たして本当にそうかな? 僕が駆け付けた時、君は貴音さんや海老名さんの体を凝視していただろう? 君は分かって水をかけたんじゃないか? ――目線を逸らさないで。僕は君と話しているんだよ。確かに今回の発端はこの二人だけど、君も君で反省するところはあると思うけど、君はどう思う? ――え、なんて、聞こえないよ。あとそこの二人、笑っているところ悪いけど、後でもっと指摘することがあるからそのつもりで。逃げたら後が怖いよ?』
……それ以降、ずっと渡邊の説教が続いたというわけだ。こんな長台詞を一切噛むことなく言い続け、なおかつ平等に叱りつけるその能力。まさに天性のものである。
「とりあえず貴音さんと海老名さんは先にお風呂に入ってきなさい。その後で海老名くんだ」
「え、俺もかなり体が臭っていて――いえ、なんでもありません。レディーファーストは良い男の必須条件です」
文句を垂れようとする雪彦に一瞥、笑顔を向ける。すると面白いほどに雪彦は先ほどの文句と正反対のことを言って、自分の部屋に直行した。
部屋の数の問題で、今回の合宿は相部屋になっている。水無月と美月、海老名兄妹、一色兄妹で、最後に渡邊と咲良といった具合だ。
……なお、ここまで雪彦は咲良と渡邊が相部屋であることに気付いていない。大方、渡邊はリビングで眠るものと考えているのだろう。
ここぞというタイミングで言うと決めていたのが、色々なことが重なって皆、完全にそのことを忘れているのであった。
「……和那は拗ねてて水無月は意気消沈。貴音先輩と初香先輩と雪彦先輩は早速やらかして完全に沈黙――なんだこれ」
合宿が始まってまだ二時間も経っていないにも関わらず、この現実。一色は若干頭が痛くなるのであった。




