第99話 開ける前に確かめること
朝の旧保養施設では、厨房から焼きたてのパンの匂いが流れ始めていた。
生活区画では子供たちの話し声が聞こえ、廊下を歩く職員の足音も増えている。その一方、中央棟の監視室では、昨夜の記録を囲んだガルム、リディア、フェリクスの三人が、朝食へ向かう前にもう一度だけ内容を確認していた。
「中央寄りの青白い発光が三時十一分」
ガルムが記録紙を指で押さえる。
「三時十三分、西壁側で小音一回。発光は三時十五分に消えた。ほかに設備変化なし」
「はい」
リディアが頷いた。
「夜間担当二名とも西側から聞こえたとしています。ただし、正確な発生位置は特定できていません」
「北じゃないことは?」
「少なくとも二人とも北からとは感じていません。ですが、建物内部で音が反響した可能性は残ります」
「なら、『西壁側から聞こえた』までだな」
「はい」
フェリクスは腕を組み、昨夜の記録と机の端に置かれた透明な保管容器を交互に見ていた。
容器の中には、北壁近くで見つかった小さな金属片がある。
古い保守台帳に記された「張力逃がし爪」と形状、材質、複数の寸法が近い。少なくとも、単なる建物の釘や装飾金具より、旧設備部品である可能性の方が高くなっていた。
それでも、昨夜の音は西側だった。
「フェリクス」
「はい?」
「黙ってる時のお前は余計に怖い」
「失礼ですね」
「何考えてる」
フェリクスは少し迷ってから答えた。
「北壁だけを見てはいけない、と思っています」
「ほう」
「回収した金属片が張力逃がし爪だったとして、そこから『北壁の設備が動いた』と考えたくなっていました。でも昨夜は西壁側から音がした」
「うん」
「なら、少なくとも建物全体の旧線配置を見直すべきです」
「壁を開けずに?」
「図面で」
「よし」
「その確認はもう必要ないのでは?」
「お前には必要だ」
「最近の信用度を数値化したら、かなり上がっていると思うんですが」
「最初が低い」
フェリクスが何とも言えない顔をする。
リディアは笑いをこらえながら、別の図面を机へ広げた。
「実は、夜間担当から引き継ぎを受けたあとで一つ気づきました」
「何だ?」
「北系統第二線です」
図面の中央棟北側を指す。
「これまで、北壁付近の旧張力逃がしに注目していました。でも『北系統』という名称が、設備の設置位置そのものを意味するとは限りません」
フェリクスの表情が変わる。
「接続先」
「はい。北側施設へ向かう系統だから北系統、と呼ばれていた可能性があります」
「つまり、線そのものは中央棟の別方向を通っていてもおかしくない」
「そうです」
ガルムが図面へ顔を近づける。
「西壁も通る?」
「今の図面だけでは分かりません。建設当初と改修後で経路が変わっていますから」
「また図面探しか」
「そうなります」
フェリクスが嬉しそうに立ち上がる。
「朝飯」
「まだ何も言ってません」
「顔で分かる。先に食え」
「資料を一冊だけ――」
「飯」
「……はい」
フェリクスが渋々廊下へ向かう。
その背中を見ながら、リディアが小さく笑った。
「ずいぶん扱いに慣れましたね」
「慣れたくなかった」
「聞こえてますよ」
「聞かせてる」
フェリクスの声が遠ざかっていった。
◇
同じ頃、名前のない子供も目を覚ましていた。
寝台から身体を起こしたあと、最初に低い台を見る。
木片。
「みち」。
「やすみ」。
昨夜、自分で並べたままだ。
「……あった」
小さく呟く。
すぐには起き上がらない。
毛布を腰まで掛けたまま、しばらく三つを見つめている。
やがて寝台から降りると、木片へ近づいた。
手を伸ばす。
触れる。
持ち上げる。
今日は、そのまま胸元へ寄せた。
扉が軽く叩かれる。
「おはよう」
ナディアだった。
「おはよう」
「入っていい?」
「うん」
ナディアが入る。
子供が木片を持っていることには触れない。
「眠れた?」
「うん」
「お腹は?」
「すいた」
「今日はパンと卵とスープ」
「パン、ちいさい?」
「昨日と同じくらいの小さいのもあるよ」
子供は考える。
「きょうは、おおきい」
「分かった」
「でも」
「うん?」
「のこすかも」
「いいよ」
「おおきいって、いったのに?」
「うん」
「あとで、ちいさいのがよかったっていうかも」
「それも言っていい」
子供は少し笑う。
「じゃあ、おおきい」
「分かった」
ナディアが扉へ向かう。
子供もついてくる。
今日は木片を持ったままだ。
廊下へ出たところで、ナディアが歩き出そうとすると、子供が止まった。
「ナディア」
「何?」
「きかない?」
「何を?」
「きょう、もってる」
子供は木片を少し持ち上げた。
「うん。持ってるね」
「なんでって」
「聞いてほしい?」
子供が黙る。
木片を見る。
「……わかんない」
「じゃあ、今は聞かない」
「でも、いいたいかも」
「言いたくなったら聞くよ」
「きかなくても?」
「自分から話してもいい」
子供の目が少し大きくなる。
「じぶんから?」
「うん」
「きかれてなくても?」
「うん」
子供は数歩歩いた。
それから突然止まる。
「きょうは」
「うん」
「もちたかった」
ナディアも立ち止まった。
「そっか」
「それだけ」
「うん」
「きのうは、おきたかった」
「置きたかった?」
「うん」
「今日は持ちたかった」
「うん」
子供は木片を胸元へ寄せる。
「それだけ」
「分かった」
また歩き出す。
子供の足取りは、ほんの少し軽くなっていた。
◇
塔では、王立魔導研究院へ送る目録照会文がほぼ完成していた。
アル、アンナマリー、ブラートの三人が卓を囲んでいる。
セリーは少し離れた場所で茶を用意し、エルは照会文に含まれる固有名詞と年代の確認をしていた。
「これならどう?」
アルが紙を二人へ回す。
ブラートが読み始める。
「『旧王立保護記録庫より移管された、帰還管理・保護行政・特殊処置関連資料について、現存する記録群の目録、移管先、現行保管部署および閲覧条件の照会を求める』」
「うん」
「個人記録の内容開示は、現時点では求めない」
「そこは明記した」
「理由は?」
「歴史的制度の確認と、現在発見されている旧施設資料の出所確認」
ブラートは紙を置いた。
「悪くないと思います」
「元王太子の名前、必要?」
「申請者名としてアルフォンス様の名は必要でしょう」
「身分は?」
「そこですね」
アンナマリーが茶へ手を伸ばす。
「『元王太子』と書けば、研究院側が通常照会ではなく王家案件として扱う可能性がある」
「やっぱり」
「でも、名前だけで気づく可能性も高いわ」
「だよなあ」
アルは額を押さえた。
「アルで出す?」
ブラートが苦笑する。
「正式照会で通称はまずいでしょう」
「分かってるけど」
「身分欄が必須なら、現在の法的立場を正確に書く必要があります」
「俺の現在の法的立場って何?」
部屋が少し静かになる。
アルは自分で言ってから笑った。
「いや、笑い事じゃないんだけどさ」
「王太子位を失ったことは明確です」
アンナマリーが慎重に言う。
「王族としての扱いが現在どこまで残っているかは、王都側の処理を確認しないと断言できないわ」
「追放された元王太子、じゃ駄目?」
「正式身分欄に『追放された』とは書かないでしょう」
「そっか」
セリーが茶を置く。
「主様」
「何?」
「身分欄が必須かどうかを、先に確認されてはいかがですか?」
アルが止まる。
「……それだ」
ブラートも苦笑する。
「私たちは今、書き方を決める前に、書く必要があるかを確認していませんでしたね」
「危なかった」
アルはエルを見る。
「現行の一般目録照会、身分欄必須?」
『確認します』
少し待つ。
『必須ではありません。申請者名、連絡先、照会目的が必須。所属・身分は任意項目です』
「じゃあ書かない」
アルは即答した。
「名前は正式名。連絡先は塔じゃまずい?」
『公的な連絡受領先として町役場を指定することも可能です』
「役場に頼んでいいかな」
アンナマリーが頷く。
「町の記録制度にも関わる調査だから、理由はある。ただし先に代表会へ確認した方がいいわ」
「そうする」
ブラートがアルを見る。
「以前なら、王太子だったことを使った方が早いと判断していましたね」
「うん」
「今は?」
「早いのは魅力的」
「正直ですね」
「でも、それでしか開かないものなら、開ける前に理由を知りたい」
「理由?」
「なんで普通の手続きじゃ駄目なのか。機密だからなのか、個人情報だからなのか、王家が隠したいからなのか、それとも単に古すぎて整理されてないだけなのか」
アルは照会文を見下ろす。
「最初から昔の権限で開けたら、それが分からなくなる気がする」
ブラートはしばらく黙ったあと、静かに頷いた。
「それでよろしいと思います」
「じゃあ、まず町に連絡」
『手配します』
エルの返答を聞き、アルはようやく背もたれへ身体を預けた。
「一個終わった」
「まだ送ってませんよ」
セリーが言う。
「そういうこと言わないで」
「事実です」
「達成感が消える」
「では、一段階終わりました」
「それでお願い」
セリーがわずかに微笑んだ。
◇
朝食後の旧保養施設。
フェリクスは約束通り食事を済ませてから資料室へ入った。
ガルムも一緒だ。
「見張るんですか?」
「ついでだ」
「何のついでです?」
「お前が余計な本を積むのを止める」
「それは見張りでは?」
「ついでの見張りだ」
「意味が分かりません」
リディアは二人の後ろで笑いながら、古い図面目録を開いた。
「探すのは、北系統第二線の経路が分かる図面。それと、張力逃がし爪の個別配置」
「西壁側を通っていたかも確認」
フェリクスが続ける。
「あと、昨夜の西壁音と結びつけるのはまだなし」
「分かっています」
「じゃあ始めよう」
資料は多かった。
同じ中央棟でも時代によって呼称が違う。
北棟。
第二保護棟。
中央管理棟。
中継棟。
建物そのものが増改築され、方角を示す名称が実際の位置と合わなくなった時期もある。
「これはひどい」
ガルムが図面を見て顔をしかめる。
「北棟って書いてあるのに中央じゃねえか」
「建設当初は北端だったんでしょう」
フェリクスが答える。
「南側に増築されたあとも名称が残った」
「名前変えろよ」
「行政施設ではよくあります」
「兵舎もあるな。旧東倉庫が西側にあるとか」
「なぜです?」
「移築したのに名前そのまま」
「それも大概ですね」
リディアが一枚の図面を抜き出した。
「これ、見てください」
二人が寄る。
「北系統第二線?」
「たぶん。記号が同じです」
細い線が、旧北棟から中央部へ入り、そのまま西側へ伸びている。
「西壁を通る」
ガルムが言う。
「ように見えます」
リディアはすぐに言い直す。
「縮尺と壁位置を現行図へ重ねないと確定できません」
「重ねられる?」
「できます。ただし建物の基準点を合わせる必要があります」
「やろう」
机の上へ現行図を広げる。
古い図面を薄い透写紙へ写し、柱や外壁角など、年代が変わっても位置が動いていない可能性の高い箇所を基準に合わせる。
何度かずれる。
「ここじゃない」
「南へ半間」
「いや、この柱は後年追加です」
「じゃあ基準に使えない」
やり直す。
一時間近くかかった。
ようやく三つの基準点が合う。
フェリクスが息を止める。
「……通っています」
北系統第二線の一部は、現在の中央棟北壁付近を経由したあと、西側へ折れている。
昨夜音が聞こえた西壁側にも近い。
「でも」
ガルムが言う。
「線が昔ここを通ってた。それだけだ」
「はい」
「今もあるか分からない」
「はい」
「昨夜鳴ったかも分からない」
「はい」
フェリクスは頷きながら、図面の別の場所へ目を向けた。
「ただ、これ」
「何だ?」
「点検口の記号です」
北壁に一つ。
西壁にも一つ。
「二つ?」
「少なくとも、この時期の図面では」
リディアが記号表を確認する。
「『機械保持部点検口』」
「張力逃がし?」
「可能性はありますが、機械保持部全体の点検口かもしれません」
フェリクスは図面をさらに追う。
「北側の点検口は、昨日推定していた位置と近い。西側は……」
現在の廊下図へ指を移す。
「ここ」
「今、何がある?」
ガルムが尋ねる。
リディアが現行図の部屋番号を確認する。
「物品庫の外壁側です」
「生活区画?」
「違います。中央棟の管理用物品庫」
「使ってる?」
「清掃道具と予備の寝具が少し」
「人は常駐してない」
「はい」
ガルムは少し考えた。
「目視だけなら行けるな」
「行きましょう」
フェリクスが立ち上がる。
「走るな」
「歩きます」
◇
物品庫は中央棟の西端近くにあった。
古い棚が並び、折り畳んだ毛布や掃除用具、空の木箱が置かれている。
窓は小さい。
朝の光が十分に入らないため、リディアが照明魔導具を点けた。
「図面だと、この辺り」
現行図と古図を照合する。
壁の前には木製棚がある。
「棚、動かす?」
フェリクスが尋ねる。
ガルムはすぐに答えなかった。
「この棚は固定?」
リディアが確認する。
「床固定なし。壁固定も見える範囲ではありません」
「中身は?」
「予備布と空箱だけです」
「動かすことで壁に影響は?」
「接触しているだけならないと思います。ただ、背面はまだ見えません」
ガルムは棚を見る。
「二人以上で、中身を先に出す。壁に擦らない。異常があったら止める」
「はい」
棚の中身を一つずつ移す。
何をどこから出したかも簡単に記録する。
最後に棚を少しずつ手前へ動かした。
木の脚が床を擦らないよう、下へ布を挟む。
三十センチ。
五十センチ。
壁が見える。
「止めて」
リディアが言った。
全員の動きが止まる。
西壁の下部。
周囲と少し色の違う長方形がある。
大きさは両手を広げたほどではない。
縦に細長い。
表面は後年の塗材で覆われているが、輪郭だけがわずかに残っていた。
「……点検口?」
フェリクスが小さく言う。
「らしき輪郭」
リディアが訂正する。
「取っ手は?」
「見えません」
「隙間?」
「ほとんど埋まっています」
ガルムは近づかない。
「触らない」
「はい」
「記録」
「はい」
写真記録。
寸法。
現行図上の位置。
古図との照合。
壁面の状態。
魔力反応は、距離を取った受動測定のみ。
「弱い残留魔力はあります」
「周りと違う?」
「少し高いですが、古い線が壁内にあるならその影響かもしれません」
「点検口が動いてる証拠にはならない」
「はい」
フェリクスが壁を見つめる。
「開けたいです」
「正直でよろしい」
ガルムが答える。
「でも、開けません」
「それも分かってるならよろしい」
「ただ、理由を整理しましょう」
「何の?」
「開けない理由と、開けるために必要な条件です」
ガルムが少し眉を上げる。
「続けろ」
「今のところ、壁内に危険な反応はない。緊急性もない。点検口らしきものの向こうに何があるか分からない。開けることで古い設備へ物理的な変化を与える可能性がある」
「うん」
「一方、旧線が現存するか確認できれば、夜間現象の理解には役立つ可能性がある」
「それだけ?」
リディアが加える。
「点検口自体が後年封鎖されている理由も不明です。単なる内装変更なのか、安全上の封鎖なのか、設備廃止に伴うものなのか」
「それも調べる必要がありますね」
「開ける前に、封鎖記録を探す」
「あと、この壁の向こうに現在使われている配管や設備がないか」
ガルムが言う。
「古図だけ見て開けたら、今の設備壊すかもしれん」
「現行設備図も確認」
「さらに」
ガルムは少し考える。
「生活区画への影響。何か起きた時の退避。開けるなら昼間。子供たちを見世物みたいに遠ざける必要はないが、危険範囲に入れない」
「はい」
フェリクスが笑った。
「開けない話をしていたのに、ずいぶん開ける条件が増えましたね」
「開けると決めたわけじゃない」
「分かっています」
「開けるかどうかを判断できる状態にするんだ」
「なるほど」
フェリクスは壁から一歩下がった。
「それなら、先に記録探しですね」
「そういうことだ」
◇
昼過ぎ。
町役場では、アルが代表会の数人と話していた。
研究院への照会文の連絡先として、町役場を使わせてもらえるか。
それだけの確認のつもりだった。
だが、ハンスが腕を組む。
「別に構わんが、一つ聞いていいか?」
「何?」
「研究院から返事来たら、誰が開ける?」
アルが止まる。
「……考えてなかった」
「おい」
「いや、俺宛てだから俺かなって」
「役場を連絡先にするんだろ?」
「うん」
「じゃあ役場の職員が受け取る」
「そうなるね」
「王家の秘密とか書いてあったら?」
「目録照会だから、中身は来ないと思う」
「思う、だろ」
「うん」
イーダも口を挟む。
「封がされていて『本人のみ』なら開けない。でも普通の行政文書として届いたら、受付が開ける可能性はあるわね」
「じゃあ、俺に回してもらう?」
「それだと、町を連絡先にする意味が受け取り代行だけになる」
「駄目?」
「駄目じゃない。でも決めておいた方がいい」
アルは頷いた。
「じゃあ、研究院からの返答はまず役場で受領。封書の指定を確認。俺個人宛てで本人開封指定なら開けずに俺へ。それ以外の行政回答なら……」
そこで止まる。
「町の人も読む?」
「内容によるんじゃない?」
ハンスが言う。
「町に関係する制度の記録なら、俺たちも知っていいかもしれん。でも患者の名前が入ってたら別だろ」
「そうだね」
イーダが続ける。
「受け取る前から、全部公開か全部秘密かを決めない方がいいと思う」
「じゃあ、届いた文書の区分だけ先に確認して、内容を見る人を決める」
「それが無難ね」
「俺一人で決めない」
「それも」
ハンスが笑う。
「お前、本当に王子だったのか?」
「元ね」
「王子ってもっと『俺が見る』って感じかと思ってた」
「昔はそんな感じだったかも」
「今は?」
「みんなに止められてる」
「いいことだな」
アルは苦笑した。
「それ、本人に言う?」
「言う」
周囲の代表たちが笑った。
話し合いの末、町役場を連絡先に使うことは了承された。
ただし、研究院から届く文書の扱いは、封書区分と記載内容の種類を確認してから決める。
目録や保管部署一覧など制度情報は、町側と塔側で共有可能。
個人記録や医療情報が含まれる場合は、対象者と閲覧権限を確認する。
王家機密指定があれば、その時点で改めて扱いを協議する。
「これで送れる」
アルが照会文を畳む。
「一段階終わった?」
隣のセリーが尋ねる。
「そう。それ」
「覚えておりました」
「ありがとう」
「達成感は維持できましたか?」
「できた」
ハンスが二人を見る。
「何の話だ?」
「こっちの話」
アルが答えると、セリーがわずかに笑った。
◇
午後の白鴉療養所では、保存槽から出た少年が歩行訓練をしていた。
以前より足取りは安定している。
それでも、無理はしない。
一周。
少年は立ち止まる。
ヨアヒムが横にいる。
「どうする?」
「……まだ、あるける」
「うん」
「でも」
少年は自分の脚を見る。
「ちょっと、おもい」
「じゃあ?」
「やめる」
「分かった」
少年は自分で椅子へ座った。
少し息が上がっている。
けれど表情は明るい。
「きょうも、やめられた」
「上手くなったな」
「やめるの?」
「うん」
少年は不思議そうにする。
「あるくのじゃなくて?」
「歩くのも。止まるのも」
「どっちも?」
「どっちも自分で決めたなら」
少年は少し考えたあと笑った。
「じゃあ、ふたつできた」
「そうだな」
そこへミラが小さな皿を持ってくる。
「パンあるよ」
「おおきい?」
「今日は普通」
「ジャム?」
「ある」
少年の顔が一気に明るくなった。
「たべる」
「休んでからね」
「うん」
白鴉療養所の時間は、旧保養施設の謎とは別に流れていた。
誰かが何かを調べている間も、少年は歩き、止まり、食べ、眠る。
回復そのものを、謎の答えのために急がせる必要はなかった。
◇
三〇八号室の少年は、窓際の椅子に座っていた。
今日も白い薬の量は変えていない。
赤い布に包まれた手紙も開いていない。
ブラートが訪れると、少年は最初に尋ねた。
「今日は、あいつ来ないの?」
「あいつ?」
「偽物」
アルのことだ。
「今日は来ていない」
「ふーん」
「会いたかった?」
「違う」
「分かった」
「……聞かないの?」
「何を?」
「なんでって」
少年が少し不満そうにする。
ブラートは椅子を引く。
「聞いてほしいのか?」
「別に」
「なら聞かない」
「……変なの」
「そうか?」
「前はみんな聞いた」
「何を?」
「どうして嫌なのか。どうして信じないのか。どうして手紙を読まないのか」
少年の視線が赤い布へ向く。
「答えたら?」
「また聞いた」
「同じことを?」
「言い方変えて」
ブラートは黙った。
「答えが変わるまで?」
「知らない」
少年は膝を抱える。
「先生は、答えが変わったら、そっちが本当って言った」
ブラートの表情がわずかに固くなる。
だが、すぐに問いを重ねない。
「今、それを記録していいか?」
少年がこちらを見る。
「なんで?」
「大事な話かもしれない。でも、お前が残したくないなら、今は残さない」
「……先生のこと?」
「うん」
「偽物に見せる?」
「許可なく見せない」
「王様は?」
「今のところ、誰にも」
少年はしばらく考えた。
「書いて」
「分かった」
「でも」
「うん」
「ぼくが言ったって書いて」
「そうする」
「先生がほんとにそうしたって、決めないで」
ブラートは一瞬、息を止めた。
「どういう意味だ?」
「ぼく、まちがってるかもしれない」
「覚えてることが?」
「うん」
「分かった。『本人はそう記憶しているが、正確かは自信がないと話した』まで残す」
「……うん」
「誰に共有していい?」
「今は」
少年は赤い布を見る。
「偽物には、まだだめ」
「分かった」
「おまえと、医者」
「ヨアヒム?」
「うん」
「二人だけ?」
「うん」
「分かった」
ブラートは記録紙を出す。
少年はそれを見ながら言った。
「消さない?」
「消してほしくなったら?」
「消せる?」
「記録の種類による。安全のために残さなきゃいけないものもある。その場合は理由を説明する」
「じゃあ、これは?」
「今の段階では、お前が共有範囲を変えたいと言ったことも一緒に残せる」
「消すのは?」
「勝手には消さない」
少年は少し考える。
「じゃあ、書いて」
「分かった」
ブラートはゆっくり書き始めた。
◇
夕方、旧保養施設では、西壁の点検口らしき輪郭について調査が続いていた。
ただし、誰も開けてはいない。
現行設備図。
後年の内装改修記録。
廃止設備の封鎖規則。
生活区画への影響。
フェリクスは資料室。
リディアは現場記録。
ガルムは警備と退避経路。
役割を分けている。
「ありました」
資料室からフェリクスが戻ってくる。
今日は走っていない。
「何が?」
「西壁側の内装改修記録です」
机へ一枚の複写を置く。
「『旧点検凹部、表面閉鎖』」
リディアが読む。
「理由は?」
「その下」
文字が続く。
『設備休止に伴い、誤操作防止のため表面閉鎖。内部機械部は撤去せず。再開時は管理責任者二名以上立会いのもと状態確認後、開放可』
部屋が静かになった。
「撤去せず」
ガルムが呟く。
「この記録が、今見つけた西壁の輪郭を指しているなら」
フェリクスが言う。
「中に機械部が残っている可能性があります」
「この記録が同じ場所なら、な」
「はい」
「再開時ってある」
リディアが紙を指す。
「今は再開するつもりはありません」
「でも、状態確認のために開ける場合の規定は?」
「別にあるかもしれません」
「探そう」
ガルムが言った。
フェリクスが少し驚く。
「開ける方向ですか?」
「まだだ」
「ですよね」
「ただ、閉じた理由が『危険だから絶対開けるな』じゃない可能性が出た」
「はい」
「なら、状態確認だけする条件を調べる価値はある」
「分かりました」
リディアはさらに記録の末尾を見る。
「管理責任者二名以上……当時の制度上の責任者ですよね」
「今はいない」
「その代わりを勝手にガルムさんとアル様にしてはいけません」
「当然だ」
ガルムは即答した。
「二千年前の役職を俺たちに当てはめるな」
「では、当時なぜ二名必要だったのかを調べます」
「それだ」
フェリクスが頷く。
「役職名より、理由」
「一人の誤操作防止かもしれない」
「安全確認の分担かもしれない」
「記録改竄防止かもしれない」
「全部かもしれない」
「まだ分からない」
三人の声が自然につながった。
ガルムが最後に言う。
「開ける前に、開けるための昔の決まりを真似するんじゃない。何を守るための決まりだったのかを調べる」
フェリクスは静かに頷いた。
「はい」
◇
夜。
塔へ戻ったアルは、旧保養施設から届いた報告を読み終えた。
「内部機械部は撤去せず、か」
『同一箇所の記録である可能性は高まっていますが、完全一致確認はまだです』
「うん」
エルの補足に頷く。
「開ける?」
隣にいたセリーが尋ねた。
「まだ」
「理由は?」
「開けてもいいかもしれないって情報が出たからこそ、今すぐ開けたくない」
「と申しますと?」
「今まで『危ないかもしれないから開けない』だった。でも今は、『条件を整えれば状態確認できるかもしれない』になった」
「はい」
「なら、その条件をちゃんと知ってから決めたい」
「主様が行かれる必要は?」
「それもまだ分からない」
「はい」
「俺が行くことで何が増えるか、先に考える」
「承知しました」
セリーは報告書を卓へ置く。
アルはその横顔を見た。
「セリー」
「はい」
「今日は手、どうする?」
セリーがアルを見る。
少しだけ目を細める。
「尋ねるのですね」
「嫌?」
「いいえ」
「毎日聞いたら面倒?」
「今は面倒ではありません」
「今は」
「はい」
「じゃあ」
アルは手を卓の上へ置く。
セリーも自分の手を置いた。
今日は小指だけではない。
互いの手の甲が少し触れる位置。
それだけ。
アルは触れた温度を感じながら、息を吐いた。
「なんか、毎日ちょっとずつ変わるね」
「嫌ですか?」
「全然」
「私もです」
セリーの返答は、以前より少し早かった。
アルは思わず笑う。
「今のはすぐ答えた」
「答えが決まっていましたので」
「そっか」
「はい」
それ以上は聞かなかった。
聞かなくても、触れている手は離れなかった。
◇
同じ夜。
名前のない子供は木片を持って寝台の横まで来た。
今日は朝から何度か持ち歩いた。
昼には部屋へ置いた。
夕方にはまた持った。
今も手の中にある。
「ナディア」
「うん」
「きょう、もってた」
「うん」
「でも、ずっとじゃない」
「うん」
「それでいい?」
ナディアは少し考える。
「あなたはどう思う?」
子供は木片を見る。
「……いいと、おもう」
「じゃあ、今はそれでいいんじゃないかな」
「せんせいは」
子供の声が少し小さくなる。
「ずっともってろって」
「うん」
「なくすなって」
「うん」
「でも」
木片を低い台へ置く。
「きょう、もったり、おいたりした」
「うん」
「なくならなかった」
「うん」
「ぼくも、いた」
「うん」
子供はしばらく木片を見つめた。
「せんせい、まちがってた?」
ナディアはすぐには答えなかった。
「分からない」
「わからない?」
「先生が何を知っていて、どうしてそう言ったのか、私は全部知らないから」
「でも、いやだった」
「うん」
「ずっともってるの」
「それは、あなたが知ってることだね」
「うん」
「先生が正しかったかどうかと、あなたが嫌だったことは別に残していい」
子供の目が揺れる。
「いやだったって、ほんと?」
「あなたが嫌だったなら」
「せんせいが、ぼくのためっていっても?」
「うん」
「ぼくが、まちがってても?」
「何かを嫌だと感じたことまで間違いにはならないよ」
子供は木片へ手を伸ばさなかった。
「……いやだった」
「うん」
「ずっと、もってろって」
「うん」
「おいたら、だめって」
「うん」
「ぼく、いやだった」
ナディアはそれを聞いた。
ただ聞いた。
少しして、子供が顔を上げる。
「これ、のこす?」
記録のことだと分かった。
「残したい?」
子供は考える。
「……いまは」
長い沈黙。
「のこしていい」
「誰に見せていい?」
「ナディア」
「私だけ?」
「うん」
「分かった」
「アルは?」
「見せない」
「ぼくが、いいっていうまで?」
「うん」
子供は安心したように頷いた。
「じゃあ、のこす」
「分かった」
ナディアはすぐには紙を取り出さなかった。
「言葉、確認していい?」
「うん」
「『先生から木片をずっと持っているよう言われ、置いたら駄目だと言われたことが嫌だった』でいい?」
子供は少し考える。
「なくすな、も」
「『なくすなとも言われた』」
「うん」
「先生が間違っていた、とは書かない」
「うん」
「あなたが嫌だった、は書く」
「うん」
「共有は今のところ私だけ」
「うん」
「あとで変えられる」
「うん」
子供は毛布へ入った。
木片は低い台。
今日は持たずに眠るらしい。
「おやすみ」
「おやすみ」
ナディアが灯りを落とす。
子供は目を閉じる直前、もう一度だけ木片を見た。
「ナディア」
「うん?」
「せんせいが、いいひとでも」
「うん」
「いやだったって、いっていい?」
ナディアは少しだけ胸が痛んだ。
「いいよ」
「わるいひとでも?」
「うん」
「どっちでも?」
「先生がどんな人だったか決めることと、あなたが嫌だったことを話すことは別だから」
子供はしばらく考えた。
「……そっか」
今度こそ目を閉じる。
部屋は静かになった。
◇
深夜。
旧保養施設の西壁にある点検口らしき輪郭は、そのまま残されていた。
誰も開けない。
棚も元の位置へ完全には戻さず、安全に固定した状態で少し離してある。壁面へ触れないためだ。
監視はいつも通り続く。
午後十一時五十六分。
変化なし。
午前零時三十三分。
統合盤、発光なし。
午前一時二十一分。
北壁音なし。
午前二時〇二分。
西壁音なし。
午前二時四十八分。
変化なし。
夜間担当者は淡々と記録する。
今夜は何も起きないかもしれない。
それでもいい。
午前三時十七分。
西壁側から、ごく小さな音がした。
「一回」
「三時十七分」
統合盤に発光はない。
「発光なし」
「記録」
午前三時十八分。
もう一度。
今度は少し高い音。
「二回目」
「三時十八分」
担当者二人が視線を交わす。
西壁の点検口らしき場所へは近づかない。
午前三時二十分。
三回目。
短い。
そして止まる。
「三回」
「三時二十分」
発光なし。
地下振動なし。
北壁音なし。
旧職員詰所表示変化なし。
担当者が紙へ記す。
その時。
監視室とは別の物品庫に設置された、受動式の記録具がごく弱い変化を拾った。
警報ではない。
危険反応でもない。
壁面周辺の残留魔力が、ほんの一瞬だけ基準値を上回った。
すぐに戻る。
「西側受動計器、変化」
「時刻?」
「三時二十分……三回目の音とほぼ同時」
「ほぼ?」
「記録具の刻みだと同じ分。秒は取れてない」
「じゃあ、同時って書かない」
「うん」
記録する。
三時二十分、西壁小音一回。
同時刻帯、西壁周辺受動計器に一時的な微弱変化。
因果関係不明。
それだけ。
誰も点検口を開けない。
誰も設備を動かさない。
午前三時二十二分。
変化なし。
三時三十分。
変化なし。
四時。
変化なし。
夜はそのまま朝へ向かった。
西壁の向こうに何が残っているのか。
古い第二線が今も存在しているのか。
音はそこから出ているのか。
まだ答えはない。
ただ、開ける前に確かめられることは、まだ残っている。
そして彼らはようやく、扉や壁を開くことだけが前へ進む方法ではないと知り始めていた。




