第98話 落ちてきたもの
朝の光が中央棟の廊下へ差し込んでも、北壁近くに落ちた小さな金属片の印象はほとんど変わらなかった。
錆びている。
指先ほどの大きさしかなく、形も整っていない。薄い板の一部にも、小さな留め具が欠けたものにも見えるが、距離を取ったままではそれ以上のことは分からなかった。
ガルムは床へ置かれた目印の外側に立ち、壁と金属片を交互に眺めていた。
「最初に確認する」
低い声に、リディアとフェリクスが顔を上げる。
「こいつが落ちる瞬間を見た者はいない。合ってるな?」
「はい」
リディアが答える。
「夜間担当者が見たのは、音がした直後に床へ何かがある状態です。落下そのものは確認していません」
「つまり、『壁から落ちた』もまだ事実じゃない」
「はい」
「床に金属片が現れた。それだけ」
「正確には、三時〇七分の北寄り小音を記録したあと、三時〇八分に北壁付近の床上で金属片を確認、ですね」
フェリクスが補足する。
ガルムは頷いた。
「それで残す」
「昨夜以前から床にあった可能性も、完全には否定できません」
リディアが壁際を見る。
「清掃記録では昨日夕方にこの廊下を確認しています。ただ、床の隅まで一つずつ見ていたわけではありません」
「掃除した人間は?」
「呼べます」
「事情聴取みたいにするなよ。覚えてたら聞く程度でいい」
「はい」
フェリクスが小さく手を上げる。
「では、回収しても?」
「待て」
「まだですか?」
「記録が先だろ」
「もちろん記録してからです」
「お前の場合、その『もちろん』が信用されるまで時間がかかる」
「最近の私はかなり慎重ですよ」
「最近だからだ」
ガルムの返答に、リディアが口元を緩めた。
フェリクスは何か言い返そうとしたが、結局諦めて肩を落とす。
「信用の回復には時間がかかりますね」
「当たり前だ」
「分かっています」
軽口のようでいて、フェリクスは本当に理解しているらしかった。
以前なら興味が先に立ち、未知の設備へ手を伸ばしていた。今は自分から一定の距離を保ち、観察用の道具にも触れていない。
リディアは壁面の記録へ移った。
「まず、現在の状態を残します」
測距用の目盛り板を、金属片へ触れない位置に置く。
撮影用の魔導具も床から十分離して固定し、複数の角度から記録した。正面、左右、上方。金属片だけでなく、北壁の補修材との位置関係も含める。
「魔力反応は?」
ガルムが尋ねる。
「弱い受動測定だけならできます」
「設備側に干渉しない?」
「この距離なら問題ありません。対象へ魔力を当てる方式ではなく、周辺に漏れているものを拾うだけです」
「やれ」
リディアが測定具を起動する。
淡い光が一度だけ明滅し、そのまま静かになった。
「……目立った反応なし」
「完全にない?」
「そこまでは言えません。周囲の古い設備残留魔力と区別できるほどの反応がない、です」
「それで記録」
「はい」
フェリクスが金属片をじっと見ている。
「何か?」
「形です」
「分かるんですか?」
「分かりません」
即答だった。
「ただ、破断面らしき部分があるように見えます」
「らしき?」
「距離がありますから。錆の凹凸かもしれません」
「回収後ですね」
「はい」
フェリクスは珍しく素直に引いた。
その間に、清掃を担当していた職員が呼ばれてきた。
四十代ほどの女性で、名はベアテ。旧保養施設が保護拠点として使われ始めてから、食事の手伝いや清掃を担っている。
「朝からごめん」
ガルムが言う。
「いえ。それより、何か危ないものが?」
「今のところ危険は確認されてない。昨日、この辺を掃除した?」
「はい。夕方に」
「床に、あれがあったか覚えてる?」
ガルムは金属片そのものを指差さず、床の一角を示した。
ベアテは少し離れたところから目を凝らす。
「……分かりません」
「見てない?」
「床は掃きました。でも、壁際は埃が少なかったので、箒を軽く通しただけです。小さいものなら気づかなかったかもしれません」
「何か金属を拾った記憶は?」
「ありません」
「音は?」
「夕方は聞いてません」
「ありがとう。それで十分」
ベアテは少し戸惑った。
「もっと思い出した方がいいですか?」
「いや」
ガルムは首を振る。
「覚えてないものを無理に思い出さなくていい」
「でも、役に立たないんじゃ」
「『分からない』も記録になる」
ベアテは少し安心したように頷いた。
「じゃあ、本当に分かりません」
「それでいい」
彼女が仕事へ戻ったあと、フェリクスが小声で言った。
「以前なら、壁際まで掃いたか、箒が何かに当たらなかったか、金属音がしなかったか、かなり細かく聞いていたかもしれません」
「聞く必要が出たら聞く」
ガルムは金属片を見た。
「今聞いても、昨日の掃除を頭の中で作り直させるだけだ」
「はい」
「で、記録は終わったか?」
「位置、外観、周囲、受動魔力測定、夜間記録との時刻関係まで完了です」
リディアが答える。
「回収できる?」
「できます」
「二人でやれ」
「はい」
リディアともう一人の記録担当が前へ出る。
薄い手袋をつけ、金属片へ直接触れないよう、小さな木製の挟み具を使う。
フェリクスは二歩後ろ。
ガルムが確認するまでもなく、その位置を守っていた。
金属片が持ち上がる。
床との接触面には、細かな錆の粉が残っていた。
「待って」
リディアが動きを止める。
「床にも残留物」
「記録してから」
「はい」
金属片を一度、用意していた無処理の石板へ置く。
床の錆粉を撮影し、位置を記録する。
その後、金属片は透明な保管容器へ収められた。
「これで見られますね」
フェリクスの声が少し弾んだ。
「見るだけだぞ」
「分かっています」
「削るな」
「しません」
「薬品かけるな」
「しません」
「魔力流すな」
「しません」
「折るな」
「折りませんよ!」
「念のためだ」
「私を何だと思ってるんですか」
ガルムは少し考えた。
「フェリクス」
「名前を答えないでください」
リディアが吹き出した。
◇
金属片は中央棟の明るい部屋へ運ばれた。
生活区画からは離れている。
子供たちの朝の動線も変えない。
何かが見つかったからといって、施設全体を事件現場のように扱えば、そこで暮らしている者たちへ余計な不安を与える。
透明な容器越しに拡大鏡を当てると、ようやく形が見えてきた。
「薄い板……というより」
フェリクスが眉を寄せる。
「留め具?」
リディアが言う。
「可能性はあります」
金属片は、細長い板の一端が曲がったような形をしていた。
長さは指の第一関節より少し短い。
片側に小さな穴。
反対側は不規則に欠けている。
「穴は人工的ですね」
「たぶん」
「そこは言い切っていいんじゃないですか?」
「錆で広がっている可能性があります」
「元から穴だったか、腐食で穴になったか」
「はい」
「材質は?」
「見た目だけなら鉄系。でも、古い魔導設備には複合材も使われています」
「非破壊で分かる?」
「表面反応なら」
「強い魔力を使わないならやっていい」
ガルムの許可を受け、リディアが簡易分析具を使う。
容器の外から反応を読む。
「鉄が主成分。微量に……銀?」
「魔力伝導補助材かもしれません」
フェリクスの声が少し低くなった。
「古い設備で、鉄に銀系素材を少量混ぜる例はあります」
「帰還管理設備に?」
「それは分かりません。一般的な古代後期から近世初期の魔導設備です」
「年代は?」
「成分だけじゃ絞れません」
ガルムが頷く。
「じゃあ、古い魔導設備に使われることがある材質。それ以上なし」
「はい」
フェリクスは不満を見せなかった。
むしろ、何か考えている。
「昨日見つけた改修確認表を持ってきても?」
「一冊だけ」
「紙一枚です」
「ならそれだけ」
「本当に信用が……」
「早く行け」
フェリクスは資料室へ向かった。
戻ってきたのは数分後だった。
手には昨日の記録の複写だけ。
「これです」
机へ置く。
『北棟旧伝達線設備』
『第一線――中央監視へ統合』
『第二線――休止保持器へ移行』
そして読みにくい一行。
『旧張力逃がし――残……』
さらに、
『識別札 壁内側』
「形については何もない」
ガルムが言う。
「はい。ただ、張力逃がし設備の保守記録が別にあれば、部品図が残っているかもしれません」
「探す?」
「探したいです」
「壁を開けるよりはいい」
「では」
「昼まで」
「短くありません?」
「休憩込み」
「それなら実質もっと短い」
「嫌なら午前中は休め」
「探します」
フェリクスは即答した。
◇
塔では、アルが旧王立魔導研究院への目録照会文を作っていた。
文章を何度も書き直している。
「これ、広すぎるかな」
卓の向かいでアンナマリーが読む。
「『旧帰還管理制度および関連保護施設に関する移管資料の現存状況』……少し広いわね」
「やっぱり?」
「でも、最初から狭くしすぎるのも危険だと思う」
「なんで?」
「私たちが今持っている分類が、当時の分類と同じとは限らないから」
アンナマリーは紙の端を指で押さえた。
「たとえば『帰還管理』だけで照会して、本当は『保護行政』や『特殊処置』へ移されていた資料を落とすかもしれないでしょう?」
「なるほど」
「逆に『アルフォンス・ガイゼンに関する記録を全部』なんて出せば、あなた自身の記録と、保存されていた子の記録と、別の何かまで一緒にされる危険もある」
「それは避けたい」
「ええ」
アルは紙へ視線を戻す。
「じゃあ、人名じゃなく制度と施設由来で聞く」
「まずは目録だけ」
「個別記録の中身は求めない」
「それがいいと思う」
アンナマリーが別紙を差し出した。
「それと、旧王立保護記録庫の移管履歴を追ったら、一つ気になる記述があったわ」
「何?」
「移管の時、全部が同じ基準で整理されたわけじゃないみたい」
「どういうこと?」
「元の施設名を残した記録群と、移管時に新しい分類名を与えられた記録群がある」
「つまり、今探してる名前で残ってない可能性がある?」
「あるわ」
「面倒だな」
「長い時間が経っているもの」
アンナマリーは苦笑した。
「それに、分類は整理のために必要だけれど、分類の仕方が変われば見え方も変わる」
「人と同じか」
「そうね」
アルは少し黙った。
旧保養施設。
白鴉療養所。
帰還管理所。
王立魔導研究院。
王立保護記録庫。
同じ時代に関わっていた可能性のある施設や制度は増えている。
けれど、それらを一本の線へまとめる証拠はまだない。
「アンナマリー」
「何?」
「俺たち、たぶん今、一番危ない時期だよね」
「危ない?」
「情報が増えて、何でもつながって見える時期」
アンナマリーの表情が少し真剣になる。
「そうね」
「名前が似てる。時代が近い。王家が関わってる。子供がいる。精神系の処置がある。帰還って言葉もある」
「ええ」
「全部同じ計画だったって考えたら、すごく分かりやすい」
「でも、分かりやすいことと正しいことは別」
「うん」
アルは椅子へ深く座り直した。
(俺自身が関係しているから、余計につなげたくなる)
七歳の自分と同じ顔をした少年。
三〇八号室で自分こそ本物だと思っている少年。
名前のない子供。
「帰還」と刻まれた木片。
帰還管理制度。
自分の名が記された精神安定化計画。
並べれば、一つの大きな秘密へ向かっているように見える。
けれど、見えるだけだ。
「俺が全部同じだって言い始めたら止めて」
「前にも似たお願いをされたわね」
「今も有効」
「分かった」
アンナマリーは迷わず頷いた。
「ただし、あなたが関連の可能性を考えることまで止めないわよ」
「うん」
「考えることと、決めることは違うもの」
「それでお願い」
そこへエルの声が響いた。
『旧保養施設より連絡です』
「何かあった?」
『夜間に確認された金属片を回収。受動的な材質分析では鉄を主成分とし、微量の銀系成分を含む可能性があります。古い魔導設備部品の可能性はありますが、用途・年代・設備との関連は未確認です』
「壁から落ちたの?」
『落下元は未確認です』
「了解」
アルはすぐに言い直す。
「金属片が床で見つかった、だね」
『はい』
アンナマリーが小さく笑った。
「ずいぶん慎重になったわね」
「今はその方が楽なんだ」
「楽?」
「決めなくていいものを、決めなくていいから」
アル自身、口にしてから少し驚いた。
昔は逆だった。
分からない状態こそ苦しかった。
答えを出さなければ落ち着かなかった。
「変わったわね」
「そう?」
「ええ」
「良い方に?」
アンナマリーは少し考えた。
「それを私が決める必要はないでしょう?」
アルは一瞬きょとんとしてから笑った。
「それもそうだ」
◇
昼前。
名前のない子供は部屋へ戻り、低い台の前に座っていた。
朝、木片は置いたままにした。
朝食後も取りに戻らなかった。
庭へ行く時も持たなかった。
今もそこにある。
子供は手を伸ばし、木片へ触れる。
持ち上げる。
胸の前へ寄せる。
少しして、また置く。
ナディアは部屋の入口近くで待っていた。
「ナディア」
「うん」
「きょう、ずっとここだった」
「うん」
「なくならなかった」
「うん」
「でも」
「うん」
「ぼくがみてたから?」
ナディアは少し考える。
「ずっと見てた?」
「……みてない」
「朝ごはんも行ったね」
「うん」
「庭も」
「うん」
「その間もあった」
「うん」
「だから、少なくとも今日は、ずっと見てなくてもここにあったね」
子供は木片を見る。
「でも、あしたは?」
「分からない」
「なくなる?」
「誰かが勝手に持っていかないようにはするよ。でも、絶対に何も起きないとは言えない」
「……そっか」
「怖い?」
「ちょっと」
子供は木片を膝へ置く。
「もってたら、なくならない?」
「それも絶対とは言えないかな」
「なんで?」
「持ってても、落とすかもしれないでしょう?」
子供が目を丸くする。
「おとす」
「うん」
「ぼく、なくす?」
「なくすって決まってないよ。そういうこともあるってだけ」
「せんせい、なくすなって」
「うん」
「なくしたら、もどれないって」
「そう言われたんだね」
「うん」
「でも今は、木片を持っているかどうかだけで、どこかへ戻らなきゃいけないとは考えてないよ」
「……アルも?」
「アルもそう言ってたでしょう?」
「うん」
子供はしばらく黙る。
「これ、なくしたら」
「うん」
「ぼく、どうなる?」
ナディアは息を整えた。
「分からない」
子供の顔に不安が浮かぶ。
だからこそ、曖昧な安心を作らない。
「分からないけど、木片がなくなったからって、あなたまでいなくなるわけじゃない」
「ぼくは、いる?」
「いるよ」
「もどれなくても?」
「今、戻る場所がどこなのかも、戻らなきゃいけないのかも分かってない」
「……うん」
「だから、木片は大事にする。でも、あなたと木片を同じものにはしない」
子供はその言葉をすぐには理解できなかったようだった。
「おなじじゃない?」
「木片はあなたのもの。でも、木片があなたそのものじゃない」
「ぼくの、しるし」
「うん。前にそう言ってたね」
「でも、ぼくじゃない」
「うん」
子供の指が止まる。
以前、自分で言った言葉だった。
「しるし、ぼくの」。
「ぼくじゃない」。
子供はゆっくりと木片を台へ戻した。
「じゃあ」
「うん?」
「なくなったら、いやだけど」
「うん」
「ぼくは、いる」
「うん」
「……ここに?」
「ここにいたいなら」
子供がナディアを見る。
「いたくないっていったら?」
「その時、どうしたいか一緒に考える」
「すぐ、もどす?」
「戻す場所も決まってないのに?」
子供が少し笑った。
「そっか」
「うん」
その笑いは長く続かなかった。
けれど、木片を握る指の力は少し弱くなっていた。
◇
午後になって、フェリクスは一冊の薄い保守台帳を見つけた。
「ガルムさん」
「今度は何だ」
「見つけました」
「何を?」
「張力逃がしの保守記録らしきものです」
「らしき?」
「表紙に『旧北系統・機械保持部』としかありません」
「中は?」
「まだ全部見てません」
「なら座って読め」
「はい」
ガルムが少し驚いた顔をする。
「なんです?」
「いや。勝手に結論持ってくる前に読めるようになったなと思って」
「私だって成長します」
「そうか」
「もう少し感動してください」
「読め」
「はい」
フェリクスは机へ戻る。
リディアも向かいに座った。
二人で頁を追う。
古い設備名。
交換日。
点検。
注油。
張力調整。
固定具交換。
識別札。
「ここ」
リディアが指を止める。
「『張力逃がし爪』」
「爪?」
「部品名みたいですね」
その下に簡単な線画がある。
小さな細長い部品。
一端に穴。
もう一端が少し曲がっている。
二人とも黙った。
ガルムが近づく。
「似てる?」
「……似ています」
フェリクスが慎重に答えた。
「どの程度?」
「形状上の共通点があります。一端に穴があり、細長く、反対側が曲がる構造」
「違いは?」
「回収した金属片は先端が欠けているように見えるので、完全比較できません。寸法もまだ測定していません」
「同じ部品だと言える?」
「まだ言えません」
「よし」
フェリクスが少し悔しそうな顔をした。
「ただし、比較する価値はあります」
「それは認める」
保守台帳をさらに読む。
「交換基準……『変形、摩耗、穴部拡大時』」
「材質は?」
「あります。『鉄銀混成材』」
部屋が静かになった。
リディアが回収容器を見る。
鉄主体。
微量の銀系成分。
形も近い。
「一致が増えましたね」
フェリクスの声が低い。
「でもまだ確定じゃない」
ガルムが言う。
「はい」
「寸法は?」
「旧規格で書かれています。換算できます」
「非破壊で測れ」
「はい」
測定が行われた。
金属片は容器から出さず、外部目盛りと画像補正を使う。
完全な部品ではないため全長は比較できない。
穴の直径。
板の幅。
厚み。
三項目。
「穴径……ほぼ一致」
「板幅も誤差範囲」
「厚みも近い」
フェリクスが息を吐く。
「これはかなり――」
「かなり?」
ガルムが見る。
「……『張力逃がし爪』の一部である可能性が高くなりました」
「それならいい」
リディアが台帳の次頁を見る。
「待ってください」
「何?」
「取り付け位置」
そこには簡略図がある。
張力逃がし爪は、線そのものへ直接ついているのではない。
保持器から少し離れた位置。
張力が一定以上になった際、機械的に逃がすための補助部。
「北壁側……」
フェリクスが呟く。
「でも、この図がこの施設の配置とは限らない」
リディアが言う。
「一般保守図かもしれません」
「頁上部は?」
「『北系統第二線』」
三人が黙る。
ガルムが最初に口を開いた。
「それでも、今の壁の中に残ってる証拠じゃない」
「はい」
「床で見つかった金属片がこの部品だとしても、いつそこへ来たか分からない」
「はい」
「昨夜壊れたとも限らない」
「はい」
「でも」
ガルムは台帳と容器を交互に見た。
「調べる理由は一つ増えたな」
「ええ」
リディアが頷く。
フェリクスは嬉しそうだったが、すぐに真顔へ戻った。
「点検口です」
「何?」
「この図。張力逃がし爪の交換には、点検口から手を入れる必要があります」
「つまり?」
「設備を残置したなら、保守可能な開口部も残していた可能性があります」
「今は見えない」
「後の内装で覆われたか、場所が違うか」
「壊して探すのはなし」
「分かっています」
「図面で位置を詰めろ」
「はい」
◇
夕方、アルはその報告を塔で受けた。
「かなり近づいた?」
『金属片が旧第二線系統の「張力逃がし爪」と同種部品である可能性は上がりました』
エルが正確に答える。
「同じものとはまだ言えない?」
『はい。形状、材質、複数寸法が近似しています。ただし欠損があり、製造刻印も確認されていません。また発見位置と本来の設置位置の関係も未確定です』
「昨夜壊れたかも分からない」
『はい』
「昨夜の音との関係も」
『未確認です』
「分かった」
アルは椅子の背へ身体を預けた。
セリーが夕食前の茶を置く。
「行かれますか?」
「旧施設?」
「はい」
「……今日は行かない」
「そうですか」
「明日は分からない」
「はい」
セリーはそれ以上聞かなかった。
アルは茶へ手を伸ばす。
「セリー」
「はい」
「俺さ」
「はい」
「最近、『分からない』って言う回数増えたよね」
「増えました」
「即答だな」
「事実ですので」
「格好悪くない?」
「なぜです?」
「昔の俺なら、もっと何でも決めてた気がする」
「決めていましたね」
「やっぱり」
「知らないことも」
アルの手が止まる。
「……そこまで?」
「はい」
「ひどい」
「主様ご自身がお尋ねになったので」
「もう少し優しく言ってよ」
「では、勇敢に決めておられました」
「悪化してる」
セリーの口元がほんの少し上がる。
アルも笑った。
「でも、今の方がいい?」
セリーはすぐに答えなかった。
「私は」
「うん」
「今の主様と話す方が好きです」
アルの指が杯の取っ手で止まる。
「……そういうの、急に言うよね」
「質問されましたので」
「聞いた俺が悪い?」
「悪いとは申しておりません」
「昨日から心臓に悪い」
「体調不良ですか?」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
「分かってるの?」
「はい」
セリーは涼しい顔で茶を飲む。
アルは横顔を見る。
(どこまで分かってるんだろう)
聞きたい。
でも、昨日と同じように、急いで名前をつける必要はない。
触れたいと思った。
昨日はセリーからだった。
今日は自分からでもいいだろうか。
アルは卓の上へ置いていた手を少し動かす。
セリーの手の近く。
指一本分の距離。
そこで止めた。
セリーが見る。
「今日は主様からですか?」
「まだ触ってない」
「そうですね」
「……嫌?」
「いいえ」
それだけ聞いて、アルは小指を少し伸ばした。
触れる。
セリーも離さない。
「これってさ」
「はい」
「俺たち、何してるんだろうね」
「手を触れ合わせています」
「そういう説明じゃなくて」
「では、何でしょう」
「それが分からないから聞いた」
「私も分かりません」
「そっか」
「はい」
アルは笑った。
「じゃあ、まだ分からないままでいいか」
「私は構いません」
「俺も」
二人の小指はそのままだった。
◇
その夜。
名前のない子供は、寝台へ入る前に木片を低い台へ置いた。
昨日と同じ場所。
ただし、「みち」と「やすみ」の位置を少し変える。
木片を中央。
左に「みち」。
右に「やすみ」。
丸の紙と名前のない線は、元の卓。
「これでいい」
子供が言う。
ナディアは頷いた。
「分かった」
「よるも、ここ」
「うん」
「さわらない?」
「勝手には触らないよ」
「フェリクスも?」
「ここには来ないよ」
「でも、きたら?」
「触らないよう伝えてある」
「うん」
子供は安心したように寝台へ入る。
「ナディア」
「何?」
「きょう、ずっともたなかった」
「うん」
「でも、ぼくの?」
「あなたはそう思ってる?」
「うん」
「じゃあ、今はあなたのものとして扱うよ」
「……うん」
「明日変わってもいいし、変わらなくてもいい」
「あした」
子供は少し考えた。
「もつかも」
「うん」
「もたないかも」
「うん」
「きかない?」
「必要がなければ聞かないよ」
「ぼくが、いう」
「うん」
子供は目を閉じた。
少しして、また開く。
「ナディア」
「うん?」
「きょう、なくならなかった」
「うん」
「ぼくも」
ナディアは返事を急がなかった。
子供が何を言いたいのか、勝手に補いたくなかった。
「ぼくも、いた」
「うん」
それだけ答える。
子供は今度こそ目を閉じた。
◇
深夜。
中央棟では、北壁付近の監視が続いていた。
金属片が見つかったからといって、観測方法は変えない。
音を起こすための試験もしない。
壁へ触れない。
点検口らしき場所を探すために叩くこともしない。
午後十一時四十一分。
変化なし。
午前零時二十二分。
統合盤、発光なし。
午前一時〇八分。
地下振動なし。
午前一時五十三分。
北壁側、音なし。
午前二時二十六分。
旧職員詰所表示、変化なし。
静かな夜だった。
夜間担当者は眠気を追うように温かい湯を飲む。
午前三時十一分。
統合盤の中央寄りに、ごく弱い青白い光が現れた。
「発光」
「三時十一分」
触れない。
近づかない。
位置と時刻だけを記録する。
三時十二分。
継続。
三時十三分。
わずかに弱まる。
その時。
北壁ではない。
西壁側から、小さな音がした。
二人の視線がそちらへ向く。
「西」
「三時十三分」
「一回」
統合盤はまだ光っている。
三時十四分。
発光継続。
三時十五分。
消失。
担当者の一人が紙へ書く。
もう一人は何も言わず、壁と統合盤を交互に見る。
昨夜は北寄り。
今夜は西壁。
発光位置も同じとは限らない。
「……つなげない」
一人が小さく言った。
「うん」
「発光と西壁音、時間が近い。それだけ」
「うん」
記録へ、そのまま残す。
午前三時三十七分。
変化なし。
午前四時十二分。
変化なし。
そして夜が明けた。
◇
朝一番、報告を受けたフェリクスは、記録紙を前に腕を組んでいた。
「面白いですね」
ガルムが睨む。
「言い方」
「失礼。重要ですね」
「何が?」
「昨夜の発見だけを見れば、北壁の旧張力逃がし設備が今も何らかの形で動いていて、発光と連動した結果、部品が外れた……という仮説へ寄りたくなります」
「うん」
「でも今夜は、発光中に西壁から音がした」
「そうだな」
「もし発光と音が関連しているとしても、北壁だけの現象ではない可能性が出る」
「関連していればな」
「はい」
フェリクスは少し笑った。
「せっかく一つ分かりそうになると、また分からなくなる」
「嫌か?」
ガルムが聞く。
フェリクスはしばらく考えた。
「前なら嫌だったと思います」
「今は?」
「面白いです」
「結局そこか」
「でも」
フェリクスは記録紙を机へ置く。
「分からないまま触らずに残したから、今夜の違いが見えたんですよ」
リディアが頷いた。
「昨日、北壁を開けていたら?」
「何か変化させていたかもしれません。線が残っていたなら張力も変わったかもしれない。表示状態も変わったかもしれない。そうなれば、今夜の現象が自然なものだったのか、こちらの操作後のものだったのか分からなくなる」
「だから、まだ開けない」
ガルムが言う。
「はい」
朝の光の中で、三人は昨夜の記録を眺めた。
床から回収された金属片は、古い張力逃がし爪とよく似ている。
それは昨日までより一歩進んだ情報だった。
だが、その一歩によって答えが一つに絞られたわけではない。
むしろ、新しい違いが見えた。
北壁の音。
西壁の音。
統合盤の発光。
旧第二線。
休止保持器。
壁内側に残された識別札。
それぞれが同じ仕組みの一部なのか、それとも別々のものなのか。
まだ分からない。
そして今は、それでよかった。
分からないものを分かったことにせず残しておけば、次に現れる違いを、違いのまま見ることができる。
旧保養施設の朝は、いつものように始まっていた。
食堂からパンの匂いが流れ、庭では誰かが水桶を運んでいる。生活区画では子供たちが起き始め、昨夜低い台へ置かれた木片も、「みち」も、「やすみ」も、まだそこにある。
誰かが急いで答えを決めなくても。
誰かがずっと握りしめていなくても。
残るものは、残っていた。




