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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第98話 落ちてきたもの

 朝の光が中央棟の廊下へ差し込んでも、北壁近くに落ちた小さな金属片の印象はほとんど変わらなかった。


 錆びている。


 指先ほどの大きさしかなく、形も整っていない。薄い板の一部にも、小さな留め具が欠けたものにも見えるが、距離を取ったままではそれ以上のことは分からなかった。


 ガルムは床へ置かれた目印の外側に立ち、壁と金属片を交互に眺めていた。


「最初に確認する」


 低い声に、リディアとフェリクスが顔を上げる。


「こいつが落ちる瞬間を見た者はいない。合ってるな?」


「はい」


 リディアが答える。


「夜間担当者が見たのは、音がした直後に床へ何かがある状態です。落下そのものは確認していません」


「つまり、『壁から落ちた』もまだ事実じゃない」


「はい」


「床に金属片が現れた。それだけ」


「正確には、三時〇七分の北寄り小音を記録したあと、三時〇八分に北壁付近の床上で金属片を確認、ですね」


 フェリクスが補足する。


 ガルムは頷いた。


「それで残す」


「昨夜以前から床にあった可能性も、完全には否定できません」


 リディアが壁際を見る。


「清掃記録では昨日夕方にこの廊下を確認しています。ただ、床の隅まで一つずつ見ていたわけではありません」


「掃除した人間は?」


「呼べます」


「事情聴取みたいにするなよ。覚えてたら聞く程度でいい」


「はい」


 フェリクスが小さく手を上げる。


「では、回収しても?」


「待て」


「まだですか?」


「記録が先だろ」


「もちろん記録してからです」


「お前の場合、その『もちろん』が信用されるまで時間がかかる」


「最近の私はかなり慎重ですよ」


「最近だからだ」


 ガルムの返答に、リディアが口元を緩めた。


 フェリクスは何か言い返そうとしたが、結局諦めて肩を落とす。


「信用の回復には時間がかかりますね」


「当たり前だ」


「分かっています」


 軽口のようでいて、フェリクスは本当に理解しているらしかった。


 以前なら興味が先に立ち、未知の設備へ手を伸ばしていた。今は自分から一定の距離を保ち、観察用の道具にも触れていない。


 リディアは壁面の記録へ移った。


「まず、現在の状態を残します」


 測距用の目盛り板を、金属片へ触れない位置に置く。


 撮影用の魔導具も床から十分離して固定し、複数の角度から記録した。正面、左右、上方。金属片だけでなく、北壁の補修材との位置関係も含める。


「魔力反応は?」


 ガルムが尋ねる。


「弱い受動測定だけならできます」


「設備側に干渉しない?」


「この距離なら問題ありません。対象へ魔力を当てる方式ではなく、周辺に漏れているものを拾うだけです」


「やれ」


 リディアが測定具を起動する。


 淡い光が一度だけ明滅し、そのまま静かになった。


「……目立った反応なし」


「完全にない?」


「そこまでは言えません。周囲の古い設備残留魔力と区別できるほどの反応がない、です」


「それで記録」


「はい」


 フェリクスが金属片をじっと見ている。


「何か?」


「形です」


「分かるんですか?」


「分かりません」


 即答だった。


「ただ、破断面らしき部分があるように見えます」


「らしき?」


「距離がありますから。錆の凹凸かもしれません」


「回収後ですね」


「はい」


 フェリクスは珍しく素直に引いた。


 その間に、清掃を担当していた職員が呼ばれてきた。


 四十代ほどの女性で、名はベアテ。旧保養施設が保護拠点として使われ始めてから、食事の手伝いや清掃を担っている。


「朝からごめん」


 ガルムが言う。


「いえ。それより、何か危ないものが?」


「今のところ危険は確認されてない。昨日、この辺を掃除した?」


「はい。夕方に」


「床に、あれがあったか覚えてる?」


 ガルムは金属片そのものを指差さず、床の一角を示した。


 ベアテは少し離れたところから目を凝らす。


「……分かりません」


「見てない?」


「床は掃きました。でも、壁際は埃が少なかったので、箒を軽く通しただけです。小さいものなら気づかなかったかもしれません」


「何か金属を拾った記憶は?」


「ありません」


「音は?」


「夕方は聞いてません」


「ありがとう。それで十分」


 ベアテは少し戸惑った。


「もっと思い出した方がいいですか?」


「いや」


 ガルムは首を振る。


「覚えてないものを無理に思い出さなくていい」


「でも、役に立たないんじゃ」


「『分からない』も記録になる」


 ベアテは少し安心したように頷いた。


「じゃあ、本当に分かりません」


「それでいい」


 彼女が仕事へ戻ったあと、フェリクスが小声で言った。


「以前なら、壁際まで掃いたか、箒が何かに当たらなかったか、金属音がしなかったか、かなり細かく聞いていたかもしれません」


「聞く必要が出たら聞く」


 ガルムは金属片を見た。


「今聞いても、昨日の掃除を頭の中で作り直させるだけだ」


「はい」


「で、記録は終わったか?」


「位置、外観、周囲、受動魔力測定、夜間記録との時刻関係まで完了です」


 リディアが答える。


「回収できる?」


「できます」


「二人でやれ」


「はい」


 リディアともう一人の記録担当が前へ出る。


 薄い手袋をつけ、金属片へ直接触れないよう、小さな木製の挟み具を使う。


 フェリクスは二歩後ろ。


 ガルムが確認するまでもなく、その位置を守っていた。


 金属片が持ち上がる。


 床との接触面には、細かな錆の粉が残っていた。


「待って」


 リディアが動きを止める。


「床にも残留物」


「記録してから」


「はい」


 金属片を一度、用意していた無処理の石板へ置く。


 床の錆粉を撮影し、位置を記録する。


 その後、金属片は透明な保管容器へ収められた。


「これで見られますね」


 フェリクスの声が少し弾んだ。


「見るだけだぞ」


「分かっています」


「削るな」


「しません」


「薬品かけるな」


「しません」


「魔力流すな」


「しません」


「折るな」


「折りませんよ!」


「念のためだ」


「私を何だと思ってるんですか」


 ガルムは少し考えた。


「フェリクス」


「名前を答えないでください」


 リディアが吹き出した。


     ◇


 金属片は中央棟の明るい部屋へ運ばれた。


 生活区画からは離れている。


 子供たちの朝の動線も変えない。


 何かが見つかったからといって、施設全体を事件現場のように扱えば、そこで暮らしている者たちへ余計な不安を与える。


 透明な容器越しに拡大鏡を当てると、ようやく形が見えてきた。


「薄い板……というより」


 フェリクスが眉を寄せる。


「留め具?」


 リディアが言う。


「可能性はあります」


 金属片は、細長い板の一端が曲がったような形をしていた。


 長さは指の第一関節より少し短い。


 片側に小さな穴。


 反対側は不規則に欠けている。


「穴は人工的ですね」


「たぶん」


「そこは言い切っていいんじゃないですか?」


「錆で広がっている可能性があります」


「元から穴だったか、腐食で穴になったか」


「はい」


「材質は?」


「見た目だけなら鉄系。でも、古い魔導設備には複合材も使われています」


「非破壊で分かる?」


「表面反応なら」


「強い魔力を使わないならやっていい」


 ガルムの許可を受け、リディアが簡易分析具を使う。


 容器の外から反応を読む。


「鉄が主成分。微量に……銀?」


「魔力伝導補助材かもしれません」


 フェリクスの声が少し低くなった。


「古い設備で、鉄に銀系素材を少量混ぜる例はあります」


「帰還管理設備に?」


「それは分かりません。一般的な古代後期から近世初期の魔導設備です」


「年代は?」


「成分だけじゃ絞れません」


 ガルムが頷く。


「じゃあ、古い魔導設備に使われることがある材質。それ以上なし」


「はい」


 フェリクスは不満を見せなかった。


 むしろ、何か考えている。


「昨日見つけた改修確認表を持ってきても?」


「一冊だけ」


「紙一枚です」


「ならそれだけ」


「本当に信用が……」


「早く行け」


 フェリクスは資料室へ向かった。


 戻ってきたのは数分後だった。


 手には昨日の記録の複写だけ。


「これです」


 机へ置く。


 『北棟旧伝達線設備』


 『第一線――中央監視へ統合』


 『第二線――休止保持器へ移行』


 そして読みにくい一行。


 『旧張力逃がし――残……』


 さらに、


 『識別札 壁内側』


「形については何もない」


 ガルムが言う。


「はい。ただ、張力逃がし設備の保守記録が別にあれば、部品図が残っているかもしれません」


「探す?」


「探したいです」


「壁を開けるよりはいい」


「では」


「昼まで」


「短くありません?」


「休憩込み」


「それなら実質もっと短い」


「嫌なら午前中は休め」


「探します」


 フェリクスは即答した。


     ◇


 塔では、アルが旧王立魔導研究院への目録照会文を作っていた。


 文章を何度も書き直している。


「これ、広すぎるかな」


 卓の向かいでアンナマリーが読む。


「『旧帰還管理制度および関連保護施設に関する移管資料の現存状況』……少し広いわね」


「やっぱり?」


「でも、最初から狭くしすぎるのも危険だと思う」


「なんで?」


「私たちが今持っている分類が、当時の分類と同じとは限らないから」


 アンナマリーは紙の端を指で押さえた。


「たとえば『帰還管理』だけで照会して、本当は『保護行政』や『特殊処置』へ移されていた資料を落とすかもしれないでしょう?」


「なるほど」


「逆に『アルフォンス・ガイゼンに関する記録を全部』なんて出せば、あなた自身の記録と、保存されていた子の記録と、別の何かまで一緒にされる危険もある」


「それは避けたい」


「ええ」


 アルは紙へ視線を戻す。


「じゃあ、人名じゃなく制度と施設由来で聞く」


「まずは目録だけ」


「個別記録の中身は求めない」


「それがいいと思う」


 アンナマリーが別紙を差し出した。


「それと、旧王立保護記録庫の移管履歴を追ったら、一つ気になる記述があったわ」


「何?」


「移管の時、全部が同じ基準で整理されたわけじゃないみたい」


「どういうこと?」


「元の施設名を残した記録群と、移管時に新しい分類名を与えられた記録群がある」


「つまり、今探してる名前で残ってない可能性がある?」


「あるわ」


「面倒だな」


「長い時間が経っているもの」


 アンナマリーは苦笑した。


「それに、分類は整理のために必要だけれど、分類の仕方が変われば見え方も変わる」


「人と同じか」


「そうね」


 アルは少し黙った。


 旧保養施設。


 白鴉療養所。


 帰還管理所。


 王立魔導研究院。


 王立保護記録庫。


 同じ時代に関わっていた可能性のある施設や制度は増えている。


 けれど、それらを一本の線へまとめる証拠はまだない。


「アンナマリー」


「何?」


「俺たち、たぶん今、一番危ない時期だよね」


「危ない?」


「情報が増えて、何でもつながって見える時期」


 アンナマリーの表情が少し真剣になる。


「そうね」


「名前が似てる。時代が近い。王家が関わってる。子供がいる。精神系の処置がある。帰還って言葉もある」


「ええ」


「全部同じ計画だったって考えたら、すごく分かりやすい」


「でも、分かりやすいことと正しいことは別」


「うん」


 アルは椅子へ深く座り直した。


(俺自身が関係しているから、余計につなげたくなる)


 七歳の自分と同じ顔をした少年。


 三〇八号室で自分こそ本物だと思っている少年。


 名前のない子供。


 「帰還」と刻まれた木片。


 帰還管理制度。


 自分の名が記された精神安定化計画。


 並べれば、一つの大きな秘密へ向かっているように見える。


 けれど、見えるだけだ。


「俺が全部同じだって言い始めたら止めて」


「前にも似たお願いをされたわね」


「今も有効」


「分かった」


 アンナマリーは迷わず頷いた。


「ただし、あなたが関連の可能性を考えることまで止めないわよ」


「うん」


「考えることと、決めることは違うもの」


「それでお願い」


 そこへエルの声が響いた。


『旧保養施設より連絡です』


「何かあった?」


『夜間に確認された金属片を回収。受動的な材質分析では鉄を主成分とし、微量の銀系成分を含む可能性があります。古い魔導設備部品の可能性はありますが、用途・年代・設備との関連は未確認です』


「壁から落ちたの?」


『落下元は未確認です』


「了解」


 アルはすぐに言い直す。


「金属片が床で見つかった、だね」


『はい』


 アンナマリーが小さく笑った。


「ずいぶん慎重になったわね」


「今はその方が楽なんだ」


「楽?」


「決めなくていいものを、決めなくていいから」


 アル自身、口にしてから少し驚いた。


 昔は逆だった。


 分からない状態こそ苦しかった。


 答えを出さなければ落ち着かなかった。


「変わったわね」


「そう?」


「ええ」


「良い方に?」


 アンナマリーは少し考えた。


「それを私が決める必要はないでしょう?」


 アルは一瞬きょとんとしてから笑った。


「それもそうだ」


     ◇


 昼前。


 名前のない子供は部屋へ戻り、低い台の前に座っていた。


 朝、木片は置いたままにした。


 朝食後も取りに戻らなかった。


 庭へ行く時も持たなかった。


 今もそこにある。


 子供は手を伸ばし、木片へ触れる。


 持ち上げる。


 胸の前へ寄せる。


 少しして、また置く。


 ナディアは部屋の入口近くで待っていた。


「ナディア」


「うん」


「きょう、ずっとここだった」


「うん」


「なくならなかった」


「うん」


「でも」


「うん」


「ぼくがみてたから?」


 ナディアは少し考える。


「ずっと見てた?」


「……みてない」


「朝ごはんも行ったね」


「うん」


「庭も」


「うん」


「その間もあった」


「うん」


「だから、少なくとも今日は、ずっと見てなくてもここにあったね」


 子供は木片を見る。


「でも、あしたは?」


「分からない」


「なくなる?」


「誰かが勝手に持っていかないようにはするよ。でも、絶対に何も起きないとは言えない」


「……そっか」


「怖い?」


「ちょっと」


 子供は木片を膝へ置く。


「もってたら、なくならない?」


「それも絶対とは言えないかな」


「なんで?」


「持ってても、落とすかもしれないでしょう?」


 子供が目を丸くする。


「おとす」


「うん」


「ぼく、なくす?」


「なくすって決まってないよ。そういうこともあるってだけ」


「せんせい、なくすなって」


「うん」


「なくしたら、もどれないって」


「そう言われたんだね」


「うん」


「でも今は、木片を持っているかどうかだけで、どこかへ戻らなきゃいけないとは考えてないよ」


「……アルも?」


「アルもそう言ってたでしょう?」


「うん」


 子供はしばらく黙る。


「これ、なくしたら」


「うん」


「ぼく、どうなる?」


 ナディアは息を整えた。


「分からない」


 子供の顔に不安が浮かぶ。


 だからこそ、曖昧な安心を作らない。


「分からないけど、木片がなくなったからって、あなたまでいなくなるわけじゃない」


「ぼくは、いる?」


「いるよ」


「もどれなくても?」


「今、戻る場所がどこなのかも、戻らなきゃいけないのかも分かってない」


「……うん」


「だから、木片は大事にする。でも、あなたと木片を同じものにはしない」


 子供はその言葉をすぐには理解できなかったようだった。


「おなじじゃない?」


「木片はあなたのもの。でも、木片があなたそのものじゃない」


「ぼくの、しるし」


「うん。前にそう言ってたね」


「でも、ぼくじゃない」


「うん」


 子供の指が止まる。


 以前、自分で言った言葉だった。


 「しるし、ぼくの」。


 「ぼくじゃない」。


 子供はゆっくりと木片を台へ戻した。


「じゃあ」


「うん?」


「なくなったら、いやだけど」


「うん」


「ぼくは、いる」


「うん」


「……ここに?」


「ここにいたいなら」


 子供がナディアを見る。


「いたくないっていったら?」


「その時、どうしたいか一緒に考える」


「すぐ、もどす?」


「戻す場所も決まってないのに?」


 子供が少し笑った。


「そっか」


「うん」


 その笑いは長く続かなかった。


 けれど、木片を握る指の力は少し弱くなっていた。


     ◇


 午後になって、フェリクスは一冊の薄い保守台帳を見つけた。


「ガルムさん」


「今度は何だ」


「見つけました」


「何を?」


「張力逃がしの保守記録らしきものです」


「らしき?」


「表紙に『旧北系統・機械保持部』としかありません」


「中は?」


「まだ全部見てません」


「なら座って読め」


「はい」


 ガルムが少し驚いた顔をする。


「なんです?」


「いや。勝手に結論持ってくる前に読めるようになったなと思って」


「私だって成長します」


「そうか」


「もう少し感動してください」


「読め」


「はい」


 フェリクスは机へ戻る。


 リディアも向かいに座った。


 二人で頁を追う。


 古い設備名。


 交換日。


 点検。


 注油。


 張力調整。


 固定具交換。


 識別札。


「ここ」


 リディアが指を止める。


「『張力逃がし爪』」


「爪?」


「部品名みたいですね」


 その下に簡単な線画がある。


 小さな細長い部品。


 一端に穴。


 もう一端が少し曲がっている。


 二人とも黙った。


 ガルムが近づく。


「似てる?」


「……似ています」


 フェリクスが慎重に答えた。


「どの程度?」


「形状上の共通点があります。一端に穴があり、細長く、反対側が曲がる構造」


「違いは?」


「回収した金属片は先端が欠けているように見えるので、完全比較できません。寸法もまだ測定していません」


「同じ部品だと言える?」


「まだ言えません」


「よし」


 フェリクスが少し悔しそうな顔をした。


「ただし、比較する価値はあります」


「それは認める」


 保守台帳をさらに読む。


「交換基準……『変形、摩耗、穴部拡大時』」


「材質は?」


「あります。『鉄銀混成材』」


 部屋が静かになった。


 リディアが回収容器を見る。


 鉄主体。


 微量の銀系成分。


 形も近い。


「一致が増えましたね」


 フェリクスの声が低い。


「でもまだ確定じゃない」


 ガルムが言う。


「はい」


「寸法は?」


「旧規格で書かれています。換算できます」


「非破壊で測れ」


「はい」


 測定が行われた。


 金属片は容器から出さず、外部目盛りと画像補正を使う。


 完全な部品ではないため全長は比較できない。


 穴の直径。


 板の幅。


 厚み。


 三項目。


「穴径……ほぼ一致」


「板幅も誤差範囲」


「厚みも近い」


 フェリクスが息を吐く。


「これはかなり――」


「かなり?」


 ガルムが見る。


「……『張力逃がし爪』の一部である可能性が高くなりました」


「それならいい」


 リディアが台帳の次頁を見る。


「待ってください」


「何?」


「取り付け位置」


 そこには簡略図がある。


 張力逃がし爪は、線そのものへ直接ついているのではない。


 保持器から少し離れた位置。


 張力が一定以上になった際、機械的に逃がすための補助部。


「北壁側……」


 フェリクスが呟く。


「でも、この図がこの施設の配置とは限らない」


 リディアが言う。


「一般保守図かもしれません」


「頁上部は?」


「『北系統第二線』」


 三人が黙る。


 ガルムが最初に口を開いた。


「それでも、今の壁の中に残ってる証拠じゃない」


「はい」


「床で見つかった金属片がこの部品だとしても、いつそこへ来たか分からない」


「はい」


「昨夜壊れたとも限らない」


「はい」


「でも」


 ガルムは台帳と容器を交互に見た。


「調べる理由は一つ増えたな」


「ええ」


 リディアが頷く。


 フェリクスは嬉しそうだったが、すぐに真顔へ戻った。


「点検口です」


「何?」


「この図。張力逃がし爪の交換には、点検口から手を入れる必要があります」


「つまり?」


「設備を残置したなら、保守可能な開口部も残していた可能性があります」


「今は見えない」


「後の内装で覆われたか、場所が違うか」


「壊して探すのはなし」


「分かっています」


「図面で位置を詰めろ」


「はい」


     ◇


 夕方、アルはその報告を塔で受けた。


「かなり近づいた?」


『金属片が旧第二線系統の「張力逃がし爪」と同種部品である可能性は上がりました』


 エルが正確に答える。


「同じものとはまだ言えない?」


『はい。形状、材質、複数寸法が近似しています。ただし欠損があり、製造刻印も確認されていません。また発見位置と本来の設置位置の関係も未確定です』


「昨夜壊れたかも分からない」


『はい』


「昨夜の音との関係も」


『未確認です』


「分かった」


 アルは椅子の背へ身体を預けた。


 セリーが夕食前の茶を置く。


「行かれますか?」


「旧施設?」


「はい」


「……今日は行かない」


「そうですか」


「明日は分からない」


「はい」


 セリーはそれ以上聞かなかった。


 アルは茶へ手を伸ばす。


「セリー」


「はい」


「俺さ」


「はい」


「最近、『分からない』って言う回数増えたよね」


「増えました」


「即答だな」


「事実ですので」


「格好悪くない?」


「なぜです?」


「昔の俺なら、もっと何でも決めてた気がする」


「決めていましたね」


「やっぱり」


「知らないことも」


 アルの手が止まる。


「……そこまで?」


「はい」


「ひどい」


「主様ご自身がお尋ねになったので」


「もう少し優しく言ってよ」


「では、勇敢に決めておられました」


「悪化してる」


 セリーの口元がほんの少し上がる。


 アルも笑った。


「でも、今の方がいい?」


 セリーはすぐに答えなかった。


「私は」


「うん」


「今の主様と話す方が好きです」


 アルの指が杯の取っ手で止まる。


「……そういうの、急に言うよね」


「質問されましたので」


「聞いた俺が悪い?」


「悪いとは申しておりません」


「昨日から心臓に悪い」


「体調不良ですか?」


「そういう意味じゃない」


「分かっています」


「分かってるの?」


「はい」


 セリーは涼しい顔で茶を飲む。


 アルは横顔を見る。


(どこまで分かってるんだろう)


 聞きたい。


 でも、昨日と同じように、急いで名前をつける必要はない。


 触れたいと思った。


 昨日はセリーからだった。


 今日は自分からでもいいだろうか。


 アルは卓の上へ置いていた手を少し動かす。


 セリーの手の近く。


 指一本分の距離。


 そこで止めた。


 セリーが見る。


「今日は主様からですか?」


「まだ触ってない」


「そうですね」


「……嫌?」


「いいえ」


 それだけ聞いて、アルは小指を少し伸ばした。


 触れる。


 セリーも離さない。


「これってさ」


「はい」


「俺たち、何してるんだろうね」


「手を触れ合わせています」


「そういう説明じゃなくて」


「では、何でしょう」


「それが分からないから聞いた」


「私も分かりません」


「そっか」


「はい」


 アルは笑った。


「じゃあ、まだ分からないままでいいか」


「私は構いません」


「俺も」


 二人の小指はそのままだった。


     ◇


 その夜。


 名前のない子供は、寝台へ入る前に木片を低い台へ置いた。


 昨日と同じ場所。


 ただし、「みち」と「やすみ」の位置を少し変える。


 木片を中央。


 左に「みち」。


 右に「やすみ」。


 丸の紙と名前のない線は、元の卓。


「これでいい」


 子供が言う。


 ナディアは頷いた。


「分かった」


「よるも、ここ」


「うん」


「さわらない?」


「勝手には触らないよ」


「フェリクスも?」


「ここには来ないよ」


「でも、きたら?」


「触らないよう伝えてある」


「うん」


 子供は安心したように寝台へ入る。


「ナディア」


「何?」


「きょう、ずっともたなかった」


「うん」


「でも、ぼくの?」


「あなたはそう思ってる?」


「うん」


「じゃあ、今はあなたのものとして扱うよ」


「……うん」


「明日変わってもいいし、変わらなくてもいい」


「あした」


 子供は少し考えた。


「もつかも」


「うん」


「もたないかも」


「うん」


「きかない?」


「必要がなければ聞かないよ」


「ぼくが、いう」


「うん」


 子供は目を閉じた。


 少しして、また開く。


「ナディア」


「うん?」


「きょう、なくならなかった」


「うん」


「ぼくも」


 ナディアは返事を急がなかった。


 子供が何を言いたいのか、勝手に補いたくなかった。


「ぼくも、いた」


「うん」


 それだけ答える。


 子供は今度こそ目を閉じた。


     ◇


 深夜。


 中央棟では、北壁付近の監視が続いていた。


 金属片が見つかったからといって、観測方法は変えない。


 音を起こすための試験もしない。


 壁へ触れない。


 点検口らしき場所を探すために叩くこともしない。


 午後十一時四十一分。


 変化なし。


 午前零時二十二分。


 統合盤、発光なし。


 午前一時〇八分。


 地下振動なし。


 午前一時五十三分。


 北壁側、音なし。


 午前二時二十六分。


 旧職員詰所表示、変化なし。


 静かな夜だった。


 夜間担当者は眠気を追うように温かい湯を飲む。


 午前三時十一分。


 統合盤の中央寄りに、ごく弱い青白い光が現れた。


「発光」


「三時十一分」


 触れない。


 近づかない。


 位置と時刻だけを記録する。


 三時十二分。


 継続。


 三時十三分。


 わずかに弱まる。


 その時。


 北壁ではない。


 西壁側から、小さな音がした。


 二人の視線がそちらへ向く。


「西」


「三時十三分」


「一回」


 統合盤はまだ光っている。


 三時十四分。


 発光継続。


 三時十五分。


 消失。


 担当者の一人が紙へ書く。


 もう一人は何も言わず、壁と統合盤を交互に見る。


 昨夜は北寄り。


 今夜は西壁。


 発光位置も同じとは限らない。


「……つなげない」


 一人が小さく言った。


「うん」


「発光と西壁音、時間が近い。それだけ」


「うん」


 記録へ、そのまま残す。


 午前三時三十七分。


 変化なし。


 午前四時十二分。


 変化なし。


 そして夜が明けた。


     ◇


 朝一番、報告を受けたフェリクスは、記録紙を前に腕を組んでいた。


「面白いですね」


 ガルムが睨む。


「言い方」


「失礼。重要ですね」


「何が?」


「昨夜の発見だけを見れば、北壁の旧張力逃がし設備が今も何らかの形で動いていて、発光と連動した結果、部品が外れた……という仮説へ寄りたくなります」


「うん」


「でも今夜は、発光中に西壁から音がした」


「そうだな」


「もし発光と音が関連しているとしても、北壁だけの現象ではない可能性が出る」


「関連していればな」


「はい」


 フェリクスは少し笑った。


「せっかく一つ分かりそうになると、また分からなくなる」


「嫌か?」


 ガルムが聞く。


 フェリクスはしばらく考えた。


「前なら嫌だったと思います」


「今は?」


「面白いです」


「結局そこか」


「でも」


 フェリクスは記録紙を机へ置く。


「分からないまま触らずに残したから、今夜の違いが見えたんですよ」


 リディアが頷いた。


「昨日、北壁を開けていたら?」


「何か変化させていたかもしれません。線が残っていたなら張力も変わったかもしれない。表示状態も変わったかもしれない。そうなれば、今夜の現象が自然なものだったのか、こちらの操作後のものだったのか分からなくなる」


「だから、まだ開けない」


 ガルムが言う。


「はい」


 朝の光の中で、三人は昨夜の記録を眺めた。


 床から回収された金属片は、古い張力逃がし爪とよく似ている。


 それは昨日までより一歩進んだ情報だった。


 だが、その一歩によって答えが一つに絞られたわけではない。


 むしろ、新しい違いが見えた。


 北壁の音。


 西壁の音。


 統合盤の発光。


 旧第二線。


 休止保持器。


 壁内側に残された識別札。


 それぞれが同じ仕組みの一部なのか、それとも別々のものなのか。


 まだ分からない。


 そして今は、それでよかった。


 分からないものを分かったことにせず残しておけば、次に現れる違いを、違いのまま見ることができる。


 旧保養施設の朝は、いつものように始まっていた。


 食堂からパンの匂いが流れ、庭では誰かが水桶を運んでいる。生活区画では子供たちが起き始め、昨夜低い台へ置かれた木片も、「みち」も、「やすみ」も、まだそこにある。


 誰かが急いで答えを決めなくても。


 誰かがずっと握りしめていなくても。


 残るものは、残っていた。

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