第97話 残っている場所
夜明け前の旧保養施設では、窓の外にまだ薄い青灰色の闇が残っていた。
中央棟の監視室では夜間担当者が記録紙を揃え、交代に備えている。机の上には、青白い発光についての記録と北寄りの金属音についての記録が別々に置かれていた。時刻を照らし合わせれば、発光が続いている最中に金属音が一度あったことは分かる。だが、二枚の間に因果関係を示す線は引かれていない。
午前二時四十七分、統合盤右寄りに弱い青白い発光。
二時五十分、中央棟北寄りで金属音一回。
二時五十二分、発光消失。
その前後に、計器で確認できる地下振動はなし。西壁側の音もなし。旧職員詰所表示の変化もなし。
それ以降、夜明けまで新しい変化は観測されなかった。
「お疲れ」
交代に来たリディアが、まだ温かい湯の入った小さな杯を二つ置いた。
「ありがとうございます」
「先に飲んで。記録は逃げないから」
夜間担当者二人は顔を見合わせたあと、素直に杯を取った。
窓の外が少しずつ明るくなっていく。
リディアは二人が湯を飲み終えるまで紙へ触れなかった。徹夜に近い監視を終えた直後の人間へ、記憶が鮮明なうちにと質問を浴びせれば、記録の精度を上げるどころか、かえって疲労の中で曖昧な答えを引き出しかねない。
「落ち着いたら、確認だけさせてください」
「はい」
「まず発光。右寄りとのことですが、以前の発光位置と同じですか?」
担当者の一人が首を傾けた。
「近く見えました。でも、同じとは言い切れません」
「理由は?」
「光が弱かったのと、見る角度が少し違いました。昨夜は私がこちら側に座っていたので」
男は監視位置を指した。
「分かりました。『以前の右寄り発光位置に近く見えたが、同一点か未確認』で残します」
「はい」
「金属音は?」
もう一人が答える。
「昨夜の三回と似た場所から聞こえた気はします」
「音そのものは?」
「最初の二回に近いです。長く擦れる感じじゃなくて、小さく鳴っただけで」
「何かが引かれたような?」
そこまで言って、リディアは自分で口を閉じた。
質問された男も答えず、少し待つ。
「……ごめんなさい。今のは誘導になりますね」
「俺も、言われたらそんな気がしてきました」
「だから取り消します。どう聞こえました?」
男は目を閉じ、しばらく考えた。
「金属が一回、軽く当たった感じ……だと思います。ただ、壁の向こうだったから、実際に何が当たったかは分かりません」
「ありがとうございます」
リディアはそのまま記した。
何が鳴ったのかではなく、どう聞こえたのか。
それ以上は足さない。
「発光と音が重なった時、何か操作しましたか?」
「何も」
「近づいた?」
「いいえ」
「子供への確認は?」
「してません。寝てました」
「分かりました」
リディアは二枚の記録を揃えた。
「これで引き継ぎます。休んでください」
「お願いします」
二人が部屋を出たあと、リディアは窓を少しだけ開けた。
冷たい朝の空気が入り、紙の端がわずかに揺れる。
(時間は重なった。でも、それだけ)
発光と音。
関連している可能性はある。
無関係な可能性もある。
同じ原因から別々に生じた可能性も、片方がもう片方を生じさせた可能性も、単に偶然近い時刻だった可能性もある。
候補はいくらでも作れる。
だが候補を増やすことと、分かったことを増やすことは違う。
「おはようございます」
廊下からフェリクスの声がした。
「早いですね」
「寝ましたから」
「何時間?」
「時間ではなく質が重要です」
「何時間ですか?」
「……四時間ほど」
「朝食後にもう少し休んでください」
「ガルムさんと同じことを言いますね」
「ガルム隊長は?」
「食堂です。私が資料室へ直行しないよう見張っています」
「見張られているのに、ここへ来ていいんですか?」
「監視室は資料室ではありません」
フェリクスは妙に堂々としている。
リディアは少し笑った。
「夜の記録を見ます?」
「ぜひ」
「先に条件があります」
「触らない、決めつけない、勝手に設備へ近づかない」
「もう一つ」
「朝食を食べる」
「分かってるじゃないですか」
「皆さんが繰り返しますからね」
フェリクスは不満そうにしながらも、記録紙を受け取った。
しばらく無言で読む。
「……発光中に音」
「はい」
「張力逃がしが鳴った、と考えたくなりますね」
「考えるだけなら」
「昨日、北壁付近に機械式張力逃がしが設計されていた記録が見つかった。夜には同じ北寄りで金属音。しかも統合盤が発光している最中」
「はい」
「非常に魅力的です」
「仮説としては」
「だから危険ですね」
リディアがフェリクスを見る。
フェリクスは記録紙を机へ戻した。
「綺麗につながりすぎます」
「私もそう思います」
「今の情報だけなら、物語としては気持ちがいいんですよ。表示が点く、どこかへ信号が通る、古い線へ張力がかかる、壁の中の金具が鳴る」
「でも、現在もその金具が残っている証拠がない」
「線がつながっている証拠もない。発光がその系統由来だという証拠もない。そもそも統合盤の右寄り表示が何を示すかも確定していない」
「音源も壁内部とは限らない」
「はい」
フェリクスは残念そうに息を吐いた。
「いい仮説ほど疑え、ですね」
「誰の言葉です?」
「今、私が言いました」
「そうですか」
「記録してもいいですよ」
「しません」
「なぜです?」
「必要ないので」
フェリクスが少し傷ついた顔をしたところで、廊下からガルムが現れた。
「いた」
「逃げていませんよ」
「朝飯の途中で消えただろ」
「食べ終わりました」
「皿に卵残ってたぞ」
「あれは好みの問題です」
「戻れ」
「夜間記録を確認していました」
「確認終わった?」
「終わりました」
「じゃあ戻れ」
フェリクスはリディアを見る。
「助けてください」
「卵を食べてから資料を探しましょう」
「味方がいない」
ぼやきながら連れていかれる背中を見送り、リディアはもう一度二枚の記録へ目を落とした。
起きた現象よりも、それをどう扱うか。
今の彼らにとっては、そちらも同じくらい重要だった。
◇
生活区画では、名前のない子供がまだ眠っていた。
昨夜、自分で「今日は休みたいから」と言って寝台へ入ったあと、一度も起きていない。
低い台には木片と「みち」と「やすみ」が並んでいる。
元の卓には丸の紙と、まだ名前のない短い線。
ナディアは扉を少しだけ開け、中を確認する。
呼吸は穏やかだ。
毛布から片足だけ出ている。
それを直そうとして、手を止めた。
寒そうには見えない。
部屋の温度も問題ない。
なら、眠っている子供へ触れる必要はない。
静かに扉を戻す。
廊下へ出ると、朝食を運んでいた女性職員のエッダが待っていた。
「まだ寝てる?」
「うん」
「起こす?」
「朝食、少し遅くしても大丈夫?」
「大丈夫。パンも取っておけるよ」
「じゃあ寝かせておこう」
エッダは頷いた。
「昨日の残したパンのこと、気にしてた?」
「少し。でも、今いらないって言えた」
「そっか」
「朝に決めたことを夜に変えても怒られないって、何度か確かめたかったみたい」
エッダの顔から笑みが少し消える。
「前は怒られたのかな」
「分からない」
「……そうだね」
ナディアは小さく頷いた。
推測はできる。
けれど、子供が言っていない過去を作る必要はない。
「今日のパン、少し小さめにする?」
エッダが尋ねる。
「それ、本人に聞く?」
「起きてからでいいか」
「うん。普通の大きさと小さいの、どっちも見せられる?」
「できるよ」
「じゃあそうしよう」
「また選ばせることにならない?」
エッダの問いに、ナディアは少し考えた。
選択肢を用意する。
それは以前なら無条件に良いことだと思っていた。
けれど今は、少し違う。
「毎朝二種類出して、必ず選ばせるのはやめよう」
「じゃあ?」
「昨日残したから、今日は『昨日と同じくらいでいい?』って普通に聞いてみる。本人が少なくしたいって言ったら、その時変えよう」
「なるほど」
「選べるって知ってれば、毎回選ばなくてもいいから」
エッダは頷いた。
「分かった」
二人はそのまま廊下を離れた。
誰も、眠っている子供へ昨夜の発光や音を知らせに行かなかった。
◇
子供が目を覚ましたのは、それから四十分ほど後だった。
廊下から聞こえる足音に気づいたのか、ゆっくりと瞼を開く。
しばらく天井を見る。
それから身体を起こし、低い台へ目を向けた。
「……ここ」
木片が昨日と同じ場所にある。
子供は寝台を降りた。
木片へ触れる。
持ち上げない。
その隣の「みち」を少しだけ右へ動かす。
さらに「やすみ」を手前へ寄せた。
丸の紙は元の卓のまま。
名前のない線も動かさない。
そこへ、ナディアが扉を叩いた。
「おはよう」
「おはよう」
「よく寝てたね」
「いっぱい?」
「いつもより少し長かった」
子供が不安そうにする。
「だめ?」
「どうして?」
「ごはん」
「待ってるよ」
「おそい?」
「少し。でも大丈夫」
「おこられない?」
「誰に?」
子供は答えなかった。
ナディアも答えを求めない。
「体はどう?」
「へいき」
「お腹すいた?」
「すいた」
「じゃあ食べようか」
「うん」
子供は扉へ向かう。
途中で止まり、低い台を振り返った。
「きょうも、ここ」
「木片?」
「うん」
「分かった」
「もたない」
「うん」
「あとで、もつかも」
「うん」
子供が少し眉を寄せる。
「……きかない?」
「何を?」
「いつ、もつ?」
「今、決めてないんでしょう?」
「うん」
「じゃあ聞かないよ」
子供はしばらくナディアを見た。
「きめたら?」
「言いたかったら教えて」
「いわなくても?」
「自分で持ったり置いたりしていいよ」
「……うん」
少しだけ口元が緩んだ。
食堂へ向かう途中、子供は昨日よりゆっくり歩いた。
眠気が残っているらしい。
ナディアは急かさない。
食堂では、昨日とほぼ同じ大きさのパンが用意されていた。
「これでいい?」
エッダが尋ねる。
子供はパンを見る。
「きのうと、おなじ?」
「だいたい同じ」
「ちいさいのもある?」
「あるよ」
「みる」
エッダが小さなパンも持ってくる。
二つが並ぶ。
子供は見比べた。
「こっち」
小さい方を指す。
「分かった」
「でも」
「うん?」
「たりなかったら?」
「追加できるよ」
「おおきいの、あとでもらえる?」
「大きいのを丸ごと追加すると多いかもしれないから、足りなかった分だけ追加するのはどう?」
子供は考える。
「ちぎる?」
「うん」
「じゃあ、それ」
大きい方は下げられ、小さいパンが残る。
子供はそれを両手で持った。
「えらんだ」
「うん」
「あとで、たりないって言っていい?」
「もちろん」
「おおきいのにしなかったのに?」
「小さい方を選んだら、追加を頼んじゃいけないなんて決まりはないよ」
子供はパンを見つめる。
「……きめても、おわりじゃない」
ナディアの胸の奥がわずかに詰まった。
けれど、表情には出しすぎない。
「うん。後で変えられることもあるよ」
「ぜんぶ?」
「全部ではないかな」
子供が顔を上げる。
「たとえば、食べちゃったパンを元に戻すことはできない」
「うん」
「でも、次にどうするかはまた決められる」
「そっか」
「戻せないこともあるから、そういう時は先に説明する」
「……うん」
子供は納得したように、小さいパンを一口食べた。
◇
塔では、エルが王立魔導研究院に関する古い公開規則を集めていた。
アルは朝食後、執務室ではなく居間の小さな卓でそれを読んでいる。
昨日、研究院へ直接向かわないと決めた。
だからといって、何もしないわけではない。
「一般照会、学術照会、本人記録照会、司法照会……多いな」
『年代により名称と管轄が変化しています』
「今使えるのは?」
『現行規則として確認できる範囲では、一般記録照会と本人関連記録開示申請があります。ただし王家関連、医療保護関連、研究機密関連は個別審査対象です』
「俺が本人だって言えば見られる?」
『何の本人であるかによります』
「そうなるよな」
アルは頬杖をついた。
求めているのは、古い帰還管理制度の原記録だ。
そこに自分の名前があるとは限らない。
名前のない子供の記録があるとも限らない。
三〇八号室の少年や保存されていた少年の記録がある可能性はあるが、それすら確定していない。
「制度の調査として照会するなら?」
『学術・行政史資料としての照会が最も自然ですが、個人情報を含む原記録は閲覧制限される可能性が高いです』
「じゃあ、まず資料が存在するかだけ聞ける?」
『可能性があります』
「中身じゃなくて、どの記録群がどこに移管されたか」
『目録照会ですね』
「それなら本人の記録を勝手に見ることにもならない」
『はい』
「まずそれにしよう」
アルは紙へ書きつける。
帰還管理系。
医療保護系。
研究対象系。
旧王立保護記録庫からの移管資料。
現存の有無。
保管部署。
閲覧条件。
「フェリクスに聞けば、もっと具体的な旧部署名が出るかな」
『可能性があります』
「通信お願い」
『その前に』
「何?」
『セリー様より伝言があります』
「嫌な予感する」
『「午前中は仕事を詰め込みすぎないと昨日お約束されました」と』
「……言ったっけ?」
『記録があります』
「エル、そういう時だけ記録出すのやめない?」
『重要な記録です』
「誰にとって?」
『主にセリー様にとってです』
アルは天井を仰いだ。
扉が開く。
「主様」
「本人来た」
セリーが茶を持って入ってくる。
「フェリクス様への通信は、お茶の後になさってください」
「あとちょっとだけ」
「昨日も同じことをおっしゃいました」
「昨日は休んだよ」
「はい。ですから今日も休めます」
「その理屈強いな」
セリーはアルの向かいではなく、隣へ座った。
昨日までなら、それだけで少し意識したかもしれない。
今も意識はする。
けれど、以前ほど身体が固くならなかった。
「セリー」
「はい」
「昨日の夜」
「はい」
「……いや、何でもない」
「そうですか」
セリーは追わない。
アルは茶を飲む。
少しして、卓の下で手を置く場所を変えた時、二人の指先が軽く触れた。
偶然だった。
どちらもすぐには離さない。
アルが横を見る。
セリーもこちらを見る。
「今日は?」
アルが小さく尋ねた。
「はい」
セリーは短く答えた。
昨日のように小指だけではない。
手の側面が少し触れている。
それでも握らない。
そのまま茶を飲む。
(これ、休憩になってるのかな)
そう考えたところで、アルは自分で少し笑った。
「どうされました?」
「休めてるか確認しようとした」
「それでは仕事になりますね」
「やっぱり?」
「はい」
「じゃあ確認やめる」
「それがよろしいかと」
二人の手は触れたままだった。
◇
午前の終わり頃、フェリクスから通信が入った。
『旧部署名がいくつか分かりました』
「早いな」
『朝食後、規定時間休みましたので』
後ろからガルムの声がする。
『三十分な』
『十分でしょう』
「喧嘩しないで」
『喧嘩ではありません』
『こいつが休まないだけだ』
「それで、部署名は?」
紙の擦れる音がする。
『旧王立保護記録庫から研究院へ移った資料について、移管一覧の断片がありました。少なくとも三系統に分かれています』
「三つ?」
『一つ目、「保護行政記録群」。施設運営、規則、申請、職員配置など。二つ目、「個体医療記録群」。診療、投薬、身体状態など。三つ目が……』
フェリクスが少し間を置く。
『「特殊処置関連原記録群」』
アルの指が止まった。
「原記録」
『はい。ただし、これが以前見つけた本人申告原記録を意味するかは分かりません』
「名前だけじゃ分からないね」
『その通りです』
「移管先は?」
『保護行政記録群は研究院資料保全部。個体医療記録群は王立医療局との共同保管。特殊処置関連原記録群は……』
「どこ?」
『記載が途中で切れています』
「また?」
『古い資料ですから』
アルは息を吐いた。
「読めるところは?」
『「別棟地下第三――」までです』
「第三?」
『その先が欠損しています。区画、保管室、封鎖庫、何でもあり得ます』
「研究院の西側別棟地下?」
『可能性はあります。ですが、それもまだ一致確認できません』
「フェリクスが入った旧資料保全区画は?」
『西別棟地下第二層です』
「第三じゃない?」
『私が使っていたのは第二層です。その下があるという話は聞いたことがあります』
ガルムの声が割って入る。
『入ったことは?』
『ありません』
「なんで?」
『権限がありませんでした』
「何があるって聞いてた?」
『噂なら色々』
「噂はいらない」
『そう言うと思いました』
「事実だけで」
『事実としては、地下第二層の一部通路に下り階段がありました。扉は常時施錠。私の身分証では認証されなかった。それだけです』
「十分」
『気になりませんか?』
「すごく気になる」
『ですよね』
「でも、今行って扉開けたいとは思わない」
『……アル様は本当に変わりましたね』
アルは少し黙った。
「昔なら?」
『王太子時代なら、権限を確認して、その日のうちに開けていたと思います』
「否定できない」
アルは苦笑した。
(権限があるなら使う。それが責任だと思ってた)
王太子だった頃、自分には知る責任があると思っていた。
知らないことがあるのは怠慢。
判断を他人へ任せるのは逃避。
自分が決められるなら、自分が決める。
それが正しいと信じていた。
けれど、その「正しさ」がどれほど多くのものを一人へ集めていたのか、今なら少し分かる。
「今回は、目録照会からでいい」
『承知しました』
「下の区画が本当に保管先かも分からないし」
『はい』
「俺の昔の権限が使えるとしても、先に使わない方法を探す」
ガルムが静かに言った。
『それがいい』
「うん」
◇
午後、旧保養施設ではフェリクスとリディアが残置設備の個別記録を探していた。
ガルムは別室で警備担当との打ち合わせ中だ。
机には一冊ずつ。
フェリクスは本当に一冊ずつしか出していない。
ただし、読み終わる速度が妙に速い。
「ちゃんと読んでます?」
「失礼ですね」
「頁をめくる音が速すぎます」
「探している語が決まっていますから」
「見落としません?」
「だから二回見ています」
「二回でも速いです」
「才能です」
「自分で言います?」
「事実です」
リディアは呆れながら自分の台帳へ戻った。
廃止設備。
残置。
固定。
識別札。
北壁。
旧線。
張力。
似た語を追う。
しばらくして、フェリクスの手が止まった。
「……リディアさん」
「ありました?」
「たぶん」
「たぶん?」
「これ」
差し出されたのは、設備改修時の確認表だった。
文字は薄い。
いくつかの欄は水染みで読めない。
「『北棟旧伝達線設備』」
「中央棟じゃない?」
「当時の呼称が違う可能性があります。図面を確認しないと」
「続きは?」
「『第一線――中央監視へ統合』」
「これは既知情報と合う」
「次です。『第二線――休止保持器へ移行』」
「これも」
「その下」
リディアが目を細める。
「『旧張力逃がし……』」
その先が滲んでいる。
「読めます?」
「『残……』」
「残置?」
「そう見えます。でも断定できない」
二人は顔を近づける。
フェリクスが光の角度を変えた。
「『残置』に見えますね」
「次の文字は?」
「固定……かな」
「『固定済』?」
「いや、最後が違う」
リディアが別の角度から見る。
「『固定具』?」
「それもあり得ます」
「無理に読まない方がいいですね」
「画像記録して、別の人にも確認してもらいましょう」
フェリクスはそこで止めた。
以前なら、読みたい文字へ寄せてしまったかもしれない。
今は違う。
読めないなら読めない。
「ただ」
リディアが下の欄を指す。
「ここは読めます」
短い文字列。
『識別札 壁内側』
二人とも黙った。
「壁内側?」
「はい」
「残置設備の識別札を、壁の中に?」
「改修後も点検口から確認できる構造だった可能性があります」
「今、その点検口は?」
「見つかっていません」
フェリクスの目が輝きかける。
だが、自分で一度息を吐いた。
「探しましょう。壊さずに」
「はい」
「図面から」
「はい」
「壁を叩かず」
「はい」
「床も剥がさず」
「はい」
「ガルムさんに褒めてもらえますかね」
「それが目的になってません?」
「少し」
◇
名前のない子供は午後、庭へ出た。
木片は部屋に置いたままだ。
持っているのは「やすみ」だけ。
昨日と同じ紙だが、今日は折らずに両手で持っている。
庭の端にある長椅子へ座る。
少し離れたところでは、別の保護されている子供が石を並べていた。
「きょうも、やすみ?」
その子が尋ねる。
「うん」
「みちは?」
「へや」
「いかないの?」
名前のない子供は考えた。
「いまは」
「あとで?」
「しらない」
「ふーん」
それだけで相手の子は石へ戻った。
大人なら、そこから意味を探したかもしれない。
なぜ道を持たないのか。
なぜ休みだけ持ってきたのか。
昨日と同じなのか。
何を象徴しているのか。
子供同士の会話には、それがなかった。
名前のない子供も、しばらく「やすみ」を膝に置いて庭を眺めていた。
風が吹く。
紙の端が揺れる。
子供は押さえる。
「とぶ」
「石のせる?」
隣の子が言う。
「いや」
「なんで?」
「ぼくが、もつ」
「そっか」
また会話が終わる。
ナディアは少し離れた場所から見守っていた。
やがて名前のない子供が立ち上がる。
部屋へ戻るのかと思ったが、違った。
庭をゆっくり一周する。
「やすみ」を持ったまま。
一周して、また長椅子へ座る。
「あるいた」
隣の子が言う。
「うん」
「やすみなのに?」
名前のない子供は紙を見る。
「やすみ、もってても、あるける」
「へんなの」
「へんじゃない」
「じゃあ、ぼくも」
相手の子は石を一つ持ったまま立ち上がり、意味もなく長椅子の周りを一周した。
「ぼくもあるいた」
「それ、やすみじゃない」
「いし」
「いしだね」
二人が笑う。
ナディアも思わず口元を緩めた。
休みを持っているから、動いてはいけないわけではない。
道を部屋へ置いたから、歩いてはいけないわけでもない。
大人が作れば難しい説明になりそうなことを、子供たちはあっさりと生活の中でやっていた。
◇
夕方、町役場から塔へ一通の連絡が届いた。
昨日相談に来た、家族へ内容を知られることを恐れていた女性についてだった。
本人が再び窓口へ来た。
今度は、自分の相談記録を見たいと言ったという。
アルはすぐに町へ向かおうとして、立ち止まった。
「……俺、必要?」
セリーが横を見る。
「窓口からは、判断を求める連絡ではありません」
「報告だけ?」
「はい。試行中の制度で初めて本人閲覧の希望が出たため、共有したとのことです」
「じゃあ、町で対応できる?」
『現在、窓口担当とイーダ様、代表一名が本人と確認中です』
エルが答える。
「問題が出たら?」
『その場合は改めて相談するとのことです』
「……そっか」
アルは椅子へ戻った。
「行かない?」
セリーが尋ねる。
「行かない」
「気になりますか?」
「かなり」
「では、待ちましょう」
「うん」
待つ。
以前のアルにとって、それは何もしないことに近かった。
今は違う。
誰かが判断している最中に、自分が入らない。
それも役割の一つだった。
しばらくして、報告が来る。
女性は本人申告部分を読んだ。
担当者所見も読んだ。
閲覧制限別紙が一枚存在することを説明された。
別紙には、家族へ知られた場合の危険可能性について担当者が記した内容がある。
女性はそれも読みたいと希望した。
第三者の個人情報を含まないため、閲覧可能と判断された。
読んだあと、女性は一箇所だけ修正を求めた。
「『家族に知られると危険』じゃなくて、『家族に知られるのが怖い』にしてほしい」
担当者は所見そのものを書き換えず、本人からの補足として追加した。
さらに担当者側も、自分の記述が事実断定に見えることへ気づき、所見を新たに追記した。
――危険の有無は現時点で未確認。本人は「知られるのが怖い」と申告。安全確保の観点から閲覧制限を設定。
アルは報告を何度か読み返した。
「消してない」
「はい」
「でも、直してる」
「追加によって」
「うん」
アルは少し笑った。
「これでいい気がする」
「完成ですか?」
セリーが尋ねる。
アルは首を振る。
「たぶん、また困ることが出る」
「はい」
「その時また直す」
「それでよろしいのでは?」
「うん」
◇
日が沈む少し前、旧保養施設から追加報告が届いた。
フェリクスとリディアが見つけた「識別札 壁内側」の記録。
さらに古い改修図面を照合した結果、現在の北壁付近に、かつて小さな点検用の凹部があった可能性が出た。
だが現在の壁面には、それらしい開口部がない。
後年の内装改修で塞がれた可能性。
位置自体がずれている可能性。
図面の縮尺誤差。
別の壁を示している可能性。
どれも残っている。
「開けないよね?」
アルが通信越しに聞く。
『開けない』
ガルムが即答した。
『今のところ、壁を壊す理由がない』
「よかった」
『ただ、古い点検口が元々開閉式で、現在も表面を傷つけず確認できるなら話は別だ』
「どうやって調べる?」
『図面と目視。それ以上はまだやらん』
「うん」
『お前、来るか?』
アルは少し考えた。
行きたい。
壁の向こうに何があるのか、気になる。
昨夜の音も気になる。
だが、今のところアルにしかできないことはない。
「今日は行かない」
『了解』
「必要になったら呼んで」
『そうする』
通信が切れる。
アルは息を吐いた。
セリーが隣で見ている。
「寂しい?」
「ちょっと」
「何がです?」
「俺がいなくても、みんな進められるの」
「以前も同じことをおっしゃいましたね」
「うん。でも前より嫌じゃない」
「では?」
「……嬉しい方が大きい」
セリーの表情が柔らかくなる。
「それなら、よかったです」
「ただ」
「はい?」
「たまには必要とされたい」
セリーが目を瞬いた。
アル自身も、口にしてから少し恥ずかしくなる。
「いや、今の忘れて」
「なぜです?」
「格好悪い」
「そうでしょうか」
「元王太子が『必要とされたい』って」
「主様はもう王太子ではありません」
「それもそうだけど」
「それに」
セリーは一歩近づいた。
「必要とされることと、全てを任されることは違います」
アルは黙る。
「私は、主様が必要です」
呼吸が一瞬止まった。
「……それ」
「はい?」
「どういう意味?」
セリーも止まった。
ほんの少しだけ視線が揺れる。
「私にとって、主様は大切な方です」
「世話する相手だから?」
以前なら、それで終わったかもしれない。
セリーはすぐには答えなかった。
窓から差し込む夕方の光が、銀色の髪を淡く染めている。
「それだけではありません」
アルの胸が大きく鳴った。
(聞きたい)
何が違うのか。
どこまで違うのか。
自分をどう思っているのか。
けれど、言葉を急がせたくはなかった。
「そっか」
それだけ答える。
セリーが少し意外そうにする。
「聞かれないのですか?」
「聞いてほしい?」
「……分かりません」
「じゃあ、今日はいい」
「はい」
「俺も、まだうまく言えないし」
セリーは静かに頷いた。
二人の間に沈黙が落ちる。
気まずくはない。
昨日より少し近い。
けれど、名前をつけるにはまだ早い。
アルはそっと手を下ろした。
セリーの手の近くへ。
触れない距離。
するとセリーの方から、小指を動かした。
軽く触れる。
アルは笑った。
「今日は聞かないんだ」
「昨日と今日で、少しだけ違います」
「何が?」
「私から触れたかったので」
アルは何も返せなくなった。
ただ、触れた小指を離さなかった。
◇
夜。
名前のない子供は、寝る前に低い台を見ていた。
木片。
「みち」。
「やすみ」。
三つが同じ台にある。
丸の紙と名前のない線は、元の卓。
子供は木片を持ち上げた。
しばらく見る。
裏返す。
三つの四角と斜めの線。
また表へ戻す。
「帰」と「還」。
意味を聞かれたことはある。
でも、今は誰も聞かない。
「ナディア」
「うん?」
「これ」
「木片?」
「うん」
「どうしたの?」
子供はしばらく黙っていた。
「ここに、おいてた」
「うん」
「きょう、もたなかった」
「うん」
「でも、なくならなかった」
「うん」
「だれも、とらなかった」
「うん」
子供は木片を胸へ近づけた。
「……せんせい」
ナディアは息を止めないようにした。
顔も変えない。
ただ待つ。
「せんせいは」
子供の指が木片の縁をなぞる。
「これ、なくすなって」
「うん」
「もってろって」
「前にも、そう話してくれたね」
「うん」
「今、何か思い出した?」
子供は首を傾げる。
「わかんない」
「そっか」
「でも」
小さな眉が寄る。
「おいてたら」
「うん」
「なくなるって、おもってた」
ナディアは黙っている。
「きのうも、おとといも」
「うん」
「なくならなかった」
「うん」
「きょうも」
「うん」
子供は木片を見つめる。
「じゃあ」
声が少し震えた。
「もってなくても、いいのかな」
ナディアはすぐに答えなかった。
「いい」と言えば、それが新しい命令になるかもしれない。
「今、どうしたい?」
問いかけてから、ナディアは少し考える。
「……ごめん。決めなくてもいいし、決めたいなら決めてもいい」
子供がナディアを見る。
「どっち?」
「どっちでも」
「ナディアは?」
「私が決めることじゃないよ」
「でも、こわい」
「うん」
「おいたら、なくなるかもって」
「怖いんだね」
「うん」
「今までここに置いた時は、なくならなかった」
「うん」
「でも、絶対に何も起きないって、私は約束できない」
子供の指が木片を強く握る。
「ただ、誰かが勝手に持っていかないようにすることはできる」
「ガルムも?」
「うん」
「リディアも?」
「うん」
「フェリクスも?」
「特にフェリクスには強く言ってある」
子供が少し笑った。
「フェリクス、だめ」
「うん。勝手に触るのは駄目」
「……じゃあ」
子供は低い台を見る。
木片を持ったまま、しばらく動かない。
やがて腕を伸ばした。
木片を「みち」の隣へ置く。
「きょうは、ここ」
「分かった」
「ねるときも」
「うん」
「もたない」
「うん」
「でも」
子供は木片から手を離したあとも、指先を近くに残していた。
「なくなったら、いや」
「分かった」
「みてて?」
「ずっと部屋の中で見ていることはできないけど、勝手に持ち出さないようにする」
「よるのひとにも?」
「伝える?」
子供は頷く。
「うん」
「じゃあ、『本人がここへ置くことを選んだ。勝手に動かさない』って伝えていい?」
「うん」
「木片を置いた理由も伝える?」
子供は少し考えた。
「いらない」
「分かった。そこは伝えない」
「こわいっても?」
「伝えない?」
「……うん」
「分かった」
必要な情報だけ。
本人が許した範囲だけ。
ナディアはそれを夜間担当へ伝えることにした。
子供は寝台へ入る。
毛布をかける。
灯りを少し落とす。
「ナディア」
「うん?」
「なくならなかったら」
「うん」
「また、おいてもいい?」
「もちろん」
「もっても?」
「もちろん」
子供は少し笑った。
「じゃあ、あした」
そこで止まる。
「……あした、きめる」
「うん」
ナディアは扉の近くまで下がった。
「おやすみ」
「おやすみ」
扉を閉める直前、子供の視線は低い台へ向いていた。
木片はそこにある。
「みち」の隣。
「やすみ」の近く。
持っていなくても、今のところ消えてはいない。
それだけの事実を確かめるように、子供はしばらくそこを見ていた。
◇
その夜、中央棟では再び監視が始まった。
昨夜の発光と金属音が重なったことは共有されている。
けれど、観測位置は変えない。
設備へ触れない。
壁を開けない。
音を誘発する試験もしない。
午後十一時二十分。
変化なし。
午前零時〇五分。
統合盤、発光なし。
午前零時四十四分。
地下振動なし。
午前一時十三分。
北寄り金属音なし。
午前一時五十六分。
西壁音なし。
時間だけが過ぎる。
夜間担当者は、何も起きない記録を書き続けた。
午前二時三十一分。
変化なし。
午前三時〇二分。
その時、中央棟北寄りから小さな音がした。
昨夜より低い。
金属が当たったような鋭さはない。
むしろ、何かがわずかに動いたような鈍い音。
「聞こえた?」
「聞こえた」
「三時〇二分」
「一回」
「金属音?」
一人が迷う。
「……分からない」
「じゃあ音で」
「うん」
記録には「北寄り小音一回」とだけ書かれた。
午前三時〇三分。
統合盤変化なし。
地下振動なし。
旧職員詰所表示変化なし。
午前三時〇七分。
もう一度。
今度は少し長い。
擦れる音ではない。
低く、短く、途中で止まる。
「二回目」
「三時〇七分」
担当者が時刻を書く。
その直後だった。
中央棟の北壁近く。
普段は何もないように見える壁面の下部で、ごく小さなものが床へ落ちた。
乾いた音。
二人が同時に立ち上がる。
「近づくな」
「分かってる」
灯りを向ける。
床の上に、小さな金属片のようなものがある。
指先ほど。
暗く錆びている。
壁に穴が開いた様子はない。
どこから落ちたのか、今の位置からは分からない。
「触らない」
「うん」
「位置記録」
「三時〇八分。北壁から約……」
「測るなら近づかない範囲で」
二人は既定の位置から目測し、正確な測定は朝へ回した。
統合盤は光っていない。
地下振動もない。
子供がいる生活区画からも連絡はない。
小さな金属片だけが、石床の上に残っている。
◇
朝。
リディアとガルム、フェリクスが現場へ来た。
一定距離を保ち、まず目視する。
「触るなよ」
ガルムが言う。
「まだ何もしてません」
フェリクスが返す。
「言っておく」
リディアは床の金属片を見た。
小さい。
錆びている。
形は完全な円でも四角でもない。
一部が折れたようにも見える。
「昨日の図面」
フェリクスが呟く。
「張力逃がしの?」
「はい。でも、似ているかどうかすら分かりません」
「図面には部品形状までないからな」
ガルムは壁を見る。
表面に大きな損傷はない。
だが、床に近い部分。
古い石材と後年の補修材の境目に、ほんのわずかな隙間がある。
「昨日からあった?」
「目視記録では分かりません」
リディアが答える。
「小さすぎます」
「ここから落ちた可能性は?」
「あります。でも確定できません」
フェリクスがしゃがみそうになり、ガルムの手が肩を掴んだ。
「近い」
「見るだけです」
「そこで見ろ」
「目が悪いわけではありませんが、細部は距離で変わります」
「後で記録用の拡大鏡使え」
「分かりました」
ガルムは周囲を見る。
「封鎖するほど?」
リディアが少し考える。
「人が踏む可能性だけ避けたいです。設備から危険な魔力反応はありません」
「じゃあ広く封鎖はしない。床の周りだけ目印。子供たちの生活動線は変えない」
「はい」
「拾うのは?」
「まず非接触記録。その後、証拠物として二名以上で回収できます」
「壁は?」
「開けません」
「よし」
フェリクスが金属片を見つめる。
「これが何か分かれば、一歩進むかもしれません」
ガルムが横を見る。
「分からないかもしれんぞ」
「それでも構いません」
「本当に?」
「……少しは残念ですが」
リディアが笑う。
朝の光が、廊下の奥から少しずつ伸びてくる。
石床に落ちた小さな金属片は、その光をほとんど反射しなかった。
何かの一部なのか。
昨夜の音と関係するのか。
古い張力逃がしの部品なのか。
それとも全く別のものなのか。
まだ何も決まっていない。
けれど今回は、音だけではなかった。
触れずに待ち続けていた彼らの前へ、初めて形のあるものが残っていた。




