第96話 見つからないことも記録する
朝の旧保養施設は、夜の冷気をまだ石壁の奥へ残していた。
東側の窓から差し込んだ光は細く、長い廊下の床を斜めに照らしている。生活区画では朝食を運ぶ台車の車輪が小さく軋み、厨房の方角からは温めた麦粥と焼いたパンの匂いが漂っていた。
名前のない子供が目を覚ましたのは、その匂いが部屋まで届き始めた頃だった。
寝台の上で身体を起こし、眠そうに目を擦る。
最初に見たのは扉ではなく、昨日増えた低い台だった。
そこには「みち」と「やすみ」が置かれている。
元からあった卓には、木片と丸を描いた紙、それからまだ名前をつけていない短い線。
昨夜と変わっていない。
「……ある」
子供は小さく呟いた。
寝台から降りると、低い台の前まで歩く。「みち」の紙へ触れたあと、「やすみ」へも指先を置いたが、どちらも持ち上げなかった。
次に木片を見る。
こちらにも手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「おはよう」
開いた扉の向こうからナディアが声をかけた。
子供は振り返る。
「おはよう」
「眠れた?」
「うん」
「朝ごはん、もう少しでできるよ」
「パン?」
「今日はパンもあるって」
子供の表情が少し明るくなる。
ナディアは部屋へ入ったが、卓にも低い台にも近づかなかった。
「食堂へ行く?」
「うん」
子供は一度、木片へ視線を戻した。
それから何も持たずに扉へ向かう。
ナディアも尋ねない。
廊下へ出て数歩進んだところで、子供が自分から振り返った。
「これ」
「うん?」
「このまま」
視線の先には木片がある。
「分かった」
「あとで」
「うん」
昨日の朝と似た言葉だった。
けれど、「あとで」が何を意味するのかは聞かなかった。
後で持つのかもしれない。
後で考えるのかもしれない。
ただ、後で見るというだけかもしれない。
その意味を今決める必要はなかった。
◇
中央棟では、夜間担当者からリディアへの引き継ぎが始まっていた。
「三時十四分、中央棟北寄りで金属音を確認。最初の二回は約六秒間隔です。その後、三時十九分に三回目。三回目は前二回より少し長く、擦れるように聞こえました」
担当者が記録紙を指でなぞる。
「発生位置は?」
「正確には取れていません。北壁内部か、床下か、それより奥か。二人とも北寄りとは判断しましたが、それ以上は分けられませんでした」
「計器は?」
「地下振動として拾える変化なし。統合盤の発光なし。旧職員詰所側の表示も変化なし。細型金属片にも目視変化なしです」
「音の前後は?」
「三時前後の記録はこちらです」
別紙が差し出された。
リディアは黙って読む。
三時〇〇分、変化なし。
三時十四分、金属音二回。
三時十九分、金属音一回。
三時二十一分以降、変化なし。
「子供は?」
「睡眠継続。起こしていません。生活区画の夜間担当にも、反応確認を頼んでいません」
「ありがとうございます」
リディアはそこで初めて顔を上げた。
「それでいいです」
「一つ、気になったことが」
「はい」
夜間担当者が少し迷う。
「前にも、三回の何かがありましたよね」
「ありました」
「短いのが二回、そのあと長いのが一回」
「はい」
「似てると思いました」
リディアは否定しなかった。
「私も、記録を読めば思い出します」
「でも書きませんでした」
「それも確認しました」
「書いた方がよかったですか?」
「観測記録の本文には、今の形でいいと思います」
「じゃあ、似てるって感じたことは?」
「それ自体を捨てる必要もありません。観測者所見として、別欄に残しましょう」
担当者が少し驚く。
「残すんですか?」
「はい。ただし、『過去の現象と同じ』ではなく、『過去の三回構成を想起した』と」
「想起した?」
「人が何を連想したかも、後から記録を読む時には役立つことがあります。逆に隠してしまうと、無意識にその連想へ引っ張られていたことが分からなくなりますから」
リディアは新しい紙を一枚取った。
「そのうえで、相違点も並べます。以前は振動でした。今回は音です。場所も一致確認できていない。時間間隔も違う。音質の一致も確認できない。設備反応も同時には観測されていません」
「似てるけど、同じとは言えない」
「そうです」
「似てないとも言えない?」
「そこまで決める必要もありません」
担当者が苦笑する。
「最近、そればっかりですね」
「何がです?」
「決めなくていいって」
リディアの手が止まった。
昨日までなら、そのまま「そうですね」と答えていたかもしれない。
だが、今は少し違った。
「決めたいことまで、決めなくていいわけではありませんよ」
「え?」
「必要なことは決めます。今日の監視担当、観測範囲、触れてはいけない場所、異常が起きた時の退避手順。そういうものは曖昧にしません」
リディアは記録紙を閉じた。
「分からないものだけ、分からないまま置いておくんです」
「……なるほど」
「全部保留にしたら、それは慎重ではなく、仕事をしないだけですから」
「耳が痛いです」
「私もです」
そこへ、資料室側から足音が近づいてきた。
「素晴らしい話をしていますね」
フェリクスだった。
腕には分厚い本を一冊だけ抱えている。
その後ろからガルムが来る。
「その本は何だ」
「一冊です」
「厚さを聞いてる」
「冊数制限には反していません」
「だから昨日から、その理屈をやめろ」
夜間担当者が吹き出し、張りつめていた空気が少し緩んだ。
◇
ガルムは夜間記録を読み終えると、中央棟北寄りの壁を見た。
見たところで何か分かるわけではない。
だから近づきすぎもしない。
「音源探しは?」
「非侵襲でできる範囲なら」
リディアが答える。
「壁を叩くのはなし」
「もちろんです」
「強い探査もなし」
「はい」
「床を剥がすのもなし」
「それは言われなくてもやりません」
「フェリクスがいるから言ってる」
「私はまだ何も言っていませんよ」
「言う前に止めてる」
フェリクスは不満そうに本を机へ置いた。
「でしたら、既存図面と改修記録を照合しましょう。音がした辺りに、現在使われていない金属部材が存在する可能性を調べるだけなら、何も壊しません」
「それはいい」
「ほら、私も成長しています」
「自分で言うな」
リディアが壁から少し離れた位置に立ち、古い平面図を広げる。
中央棟は何度も改修されている。
建設当初の図面。
北受所が使われていた頃の図面。
夜間監視統合後。
設備管理室の改修後。
さらに、統合型表示盤へ更新された後。
同じ場所でも、壁の中を通る線や管の数が違っていた。
「現在の北壁がここです」
リディアが指す。
「昨夜の二人が音源を感じた範囲は、この辺りからこの辺り」
「広いな」
「音だけですから」
フェリクスが古い図面を一枚重ねる。
「建設当初だと、ここには細い通気管が二本。それと……」
指が止まる。
「何だ?」
「記号が読めません」
「読めないのかよ」
「二千年前の現場略号を全部知っていると思わないでください」
「お前なら知ってる顔しただろ」
「顔は関係ありません」
リディアが別の図面を寄せる。
「後年の改修図では消えていますね」
「撤去?」
「それも分かりません。図面から消えただけです」
ガルムが頷く。
「『図面にない=撤去済み』にするな」
「はい」
フェリクスは古い図面の記号を紙へ写した。
「記号表を探します」
「何冊?」
「必要なだけ」
「一冊ずつ」
「非効率です」
「お前の机が崩れるより効率的だ」
「崩したことはありません」
「昨日、端の紙落としただろ」
「あれは崩落ではなく落下です」
「同じだ」
リディアは二人のやり取りを聞きながら、昨夜の音の位置と古い図面を別々の紙へ記した。
まだ線は引かない。
古い設備記号が何なのか。
現在も残っているのか。
昨夜の音と関係するのか。
全て未確認だった。
◇
塔で報告を受けたアルは、朝の茶を飲みながら眉を寄せた。
「三回か」
『はい』
エルの声が腕輪から返る。
「子供は寝てた?」
『生活区画記録では睡眠継続。夜間担当者による声掛け、反応確認は行われていません』
「朝も聞かなくていい」
『その方針は既に共有されています』
「ありがとう」
アルは椅子へ深く座り直した。
三回。
以前にも、三回に分かれた現象があった。
(似てる、って思うよな)
そう思った自分を否定する必要はない。
けれど、似ていると感じたことと、同じ原因だと判断することは別だ。
「主様」
セリーが果物を切り分けながら声をかける。
「何?」
「その顔で旧保養施設へ行かれるおつもりですか?」
「どんな顔?」
「気になっている顔です」
「そんな顔ある?」
「ございます」
「じゃあ、行かない方がいい?」
「私が決めることではありません」
セリーは皿を置いた。
「行きたいのですか?」
「……ちょっと」
「理由は?」
「三回の音が気になる」
「主様が現地へ行くことで、分かることは増えますか?」
アルは口を閉じた。
「壁を見ても分からないな」
「はい」
「音ももう止まってる」
「はい」
「リディアとガルムがいる」
「はい」
「フェリクスもいる」
「そこだけ少し不安ですね」
「そこは俺も思った」
二人で笑う。
アルは切られた果物を一つ口へ入れた。
「じゃあ行かない」
「決めましたか?」
「うん。少なくとも、音を見に行くためには行かない」
「承知しました」
「でも、研究院のことはフェリクスと話したい」
「通信でも可能では?」
「それでいいか」
「まずは」
「うん」
アルは腕輪へ視線を落とした。
「エル。フェリクス、今話せる?」
『資料を開こうとしてガルム様に止められています』
「何してんだあいつ」
『一冊ずつという指示に対し、索引だけなら冊数に含まれるか交渉中です』
「元気だな」
『通信を繋ぎますか?』
「お願い」
数秒後、腕輪からフェリクスの声がした。
『アル様?』
「おはよう。忙しい?」
『非常に重要な交渉中でした』
後ろからガルムの声が入る。
『重要じゃない。さっさと話せ』
「研究院の旧記録庫について聞きたい」
フェリクスの声色が変わった。
『そちらですか』
「心当たりがあるって?」
『あります。ただし、私が在籍していた頃の話です』
「どんな場所?」
『正式名称は何度か変わっています。私がいた頃は、旧資料保全区画と呼ばれていました。研究院本棟ではなく、西側の別棟地下です』
「入ったことある?」
『あります』
「何があった?」
『古い研究報告、廃止部署の記録、統合前組織から移された資料。あとは、誰も整理したがらないものですね』
「最後のが一番多そう」
『実際多いです』
フェリクスは少し間を置いた。
『ただ、帰還管理所の記録を見た覚えはありません』
「ない?」
『見ていないだけかもしれません。私は精神魔法と魔導具関連の資料を中心に使っていましたから』
「全部自由に見られた?」
『いいえ』
「やっぱり?」
『区画ごとに閲覧権限が違います。一般旧資料、研究制限資料、王家関連、医療個人記録。それぞれ申請先も違いました』
「本人の記録は?」
『私が患者本人として請求したことはありませんから、そこは分かりません』
「そっか」
アルは一度頷いた。
分からないことを、経験で埋めさせる必要はない。
「今も入れる?」
『私ですか?』
「うん」
『たぶん無理です』
「たぶん?」
『退職者ですので。研究院の身分証も返却しています』
「じゃあ俺は?」
通信の向こうが少し静かになる。
『元王太子としてですか?』
「その聞き方、嫌だな」
『ですが重要です』
「分かってる」
アルは小さく息を吐いた。
「今の俺が、昔の王族権限みたいなので入れるのかって話だよね」
『はい』
「それは使いたくない」
『ならば通常の記録照会手続きを調べるのが先です』
「そうしよう」
『ただし』
「何?」
『もし記録が王家機密指定のままなら、通常照会では開かない可能性があります』
「その時考える」
『承知しました』
「あと、レイハンが研究院にいた件とは分けて」
『外部協力者です。所属ではありません』
「うん。それも含めて別で」
『既に分けています』
後ろからガルムが言う。
『俺が言った』
「聞いた。ありがとう」
『お前も同じこと言うと思ったからな』
「行動読まれてるな」
『悪い意味じゃない』
その言葉に、アルは少しだけ笑った。
「じゃあ、研究院へ行く話はまだなし。まず照会手続きと、記録が今もあるか」
『分かりました』
「フェリクス」
『はい』
「勝手に帰らないでね」
『研究院へですか?』
「うん」
『私はそこまで無謀ではありません』
ガルムが即座に返す。
『信用できん』
『酷いですね』
「俺もガルム側」
『アル様まで?』
通信の向こうでリディアの笑い声がした。
◇
午前の食堂で、名前のない子供はパンを半分残した。
体調が悪いわけではない。
先に麦粥を多く食べたからだ。
「あとで食べる」
子供が言う。
ナディアは皿を見る。
「取っておく?」
「うん」
「昼まで?」
子供は少し考えた。
「わかんない」
「じゃあ、厨房に聞いてみよう。安全に置いておける時間があるから」
「すてる?」
「長く置いて悪くなったら、食べない方がいいこともある」
「ぼくが、あとでって言っても?」
「うん。食べたらお腹を壊すくらい悪くなった時は、理由を話して捨てることになるかもしれない」
子供は残したパンを見る。
「いまは?」
「今なら取っておけるよ」
「じゃあ、とっておく」
「分かった」
ナディアが小皿へ布をかける。
子供はそれを見たあと、ふと尋ねた。
「あとで、いらないって言ってもいい?」
「いいよ」
「たべるって言ったのに?」
「今は『あとで食べるかもしれないから取っておく』だよね」
「うん」
「後でいらなくなったら、その時そう言えばいい」
「パン、こまらない?」
「パンは困らないと思う」
「ナディアは?」
「少しもったいないなとは思うかもしれない」
子供の顔が曇る。
ナディアはすぐに続けた。
「でも、私がもったいないと思うことと、あなたがお腹いっぱいなのに食べなきゃいけないことは別だよ」
「……おこらない?」
「怒らない」
「ほんと?」
「うん」
子供は布のかかった皿を見る。
「じゃあ、あとで」
「分かった」
食堂を出たあと、子供は自分の部屋へ戻った。
扉を開け、元の卓を見る。
木片はそこにある。
子供は近づいた。
手を伸ばす。
持ち上げる。
少しだけ胸元へ寄せた。
ナディアは黙って見ている。
子供は木片を持ったまま低い台へ移動した。
「みち」の隣へ置く。
「ここ」
「そこに置く?」
「うん」
「分かった」
木片は初めて、元の卓から追加した低い台へ移った。
ナディアは意味を尋ねなかった。
「みち」の隣だからといって、木片が道を示すと決まったわけではない。
子供自身も、そう言っていない。
「これ」
子供が木片を指す。
「うん」
「ここにいていい?」
「台の上?」
「うん」
「あなたが置きたいなら」
「じゃあ、ここ」
子供は木片から手を離した。
「もたない」
「うん」
「でも、へや」
「うん」
「ぼくの」
「うん」
子供は満足したように頷いた。
そして丸の紙を元の卓から持ってきて、木片とは少し離れた場所へ置いた。
「これは、こっち」
「うん」
名前のない線だけは元の卓へ残した。
物の位置が変わった。
それだけだった。
けれど、その「それだけ」を誰も勝手に物語へ変えなかった。
◇
昼前、フェリクスはようやく古い設備記号表を見つけた。
「ありました」
声を上げた瞬間、ガルムが顔をしかめる。
「静かにしろ」
「これは声を上げる価値があります」
「何だった?」
リディアが近づく。
フェリクスは朝の図面と記号表を並べた。
「これです」
古い北壁付近に描かれた、小さな菱形と二本線。
記号表には短い説明がある。
「『機械式張力逃がし』」
リディアが読む。
「線が急に引かれた時、力を逃がす装置?」
「おそらく。こちらに補足があります」
フェリクスが別頁を示す。
「『長距離伝達線、呼出線、保持線等に用いる。過張力時、固定部破損を避けるため可動金具を介す』」
ガルムが北壁を見る。
「金属?」
「可動金具ですから、少なくとも一部は金属だった可能性が高いです」
「昨夜の音?」
「まだ分かりません」
フェリクスは即答した。
ガルムが少しだけ眉を上げる。
「偉いな」
「何ですか、その子供を褒めるような言い方は」
「前なら『これですよ!』って壁に走ってた」
「私にも学習能力があります」
リディアは図面を確認する。
「この装置、後年の図面では消えています」
「はい。ただし撤去記録が見つかっていません」
「残置の可能性」
「あります」
「撤去された可能性も」
「あります」
「昨夜鳴った可能性」
「あります」
「無関係の可能性」
「あります」
ガルムが顔をしかめた。
「何も決まらんな」
「一つは決まりました」
フェリクスが図面を指す。
「建設当初、この辺りに金属可動部を持つ設備が設計されていた」
「それだけ?」
「今は、それだけです」
ガルムはしばらくフェリクスを見ていた。
「本当に成長したな」
「だからその言い方をやめてください」
リディアが笑いをこらえながら、別の記録簿を開く。
「撤去・残置の記録を探しましょう。ただし、北壁だけを掘るような探し方はしません」
「改修台帳から?」
「はい。設備名が変わっている可能性もあるので、用途からも追います」
「張力逃がし、過張力、可動金具、伝達線、保持線」
「それと廃止設備の残置規則」
ガルムが言う。
「使わなくなった設備を壁の中へ残す時の決まりがあるかもしれん」
「それです」
フェリクスの目が輝く。
「一冊ずつだぞ」
「……はい」
◇
午後、塔へ戻った報告には、もう一つ情報が加わっていた。
古い北壁付近に「機械式張力逃がし」が設計されていた。
ただし現存不明。
昨夜の音との関連不明。
アルはその二行を二度読んだ。
「金属音がした場所に、昔は金属の動く部品があった」
『はい』
「でも今あるか分からない」
『はい』
「音を出したかも分からない」
『はい』
「……すごく気になる」
『フェリクス様も同様の発言をしています』
「一緒にしないで」
『内容はほぼ同一です』
「嫌だなあ」
セリーが隣で笑う。
「主様も研究者向きなのではありませんか?」
「触らないよ?」
「フェリクス様も最近は触れておりません」
「監視されてるからでしょ」
『本人もその点は認めています』
アルは表示を閉じた。
「でも、今は記録探しでいい」
「はい」
「もし残置って分かっても、すぐ壁開けない」
「はい」
「開ける必要があるか、その時また考える」
「承知しました」
そこでアルは、朝から机の端に置いてあった別の紙を見た。
町の相談記録制度についての試案だった。
「セリー」
「はい」
「これ、午後から町に持っていこうと思う」
「研究院の件は?」
「エルが照会方法を調べてくれてる。旧保養施設はガルムたちがいる」
「では、町へ?」
「うん」
「私も同行してよろしいですか?」
アルは少し意外そうにセリーを見る。
「もちろん。なんで聞くの?」
「昨日、私は記録について意見を申し上げましたので、その後も気になっています」
「仕事として?」
セリーが一瞬止まった。
「……それを尋ねますか?」
「ちょっと気になった」
「仕事でもあります」
「うん」
「ですが、それだけではありません」
アルの表情が少し緩む。
「そっか」
「はい」
「じゃあ一緒に行こう」
「はい」
セリーが紙を持つ。
その指先を見た瞬間、昨夜の中庭を思い出した。
触れた小指。
どちらも離さなかった時間。
(意識すると駄目だな)
アルが少しだけ視線を逸らす。
「主様?」
「何でもない」
「そうですか?」
「うん」
セリーは追及しなかった。
けれど、部屋を出る時、二人の距離は以前よりほんの少しだけ近かった。
◇
町役場では、昨日の試案を受けて早くも問題が一つ起きていた。
「これ、どっち?」
若い窓口担当者が二枚の紙を持っている。
「何が?」
アルが覗き込む。
「本人の言葉か、担当者所見か」
「内容は?」
「『最近、仕事が減って不安だ』って言った人がいて、そのあと『でもまだ困ってはいない』って」
「両方本人の言葉じゃない?」
「そうなんだけど、私から見たらもう困ってるの。食事減らしてるって言ってたから」
「それは本人が言った?」
「うん」
「じゃあ、それも本人の言葉?」
「そうなる」
担当者が頭を抱える。
「本人の言葉ばっかりになる!」
アルが笑った。
「別にいいんじゃない?」
「所見欄いらない?」
「いや、あなたが『支援案内が必要だと思った』なら、それは所見じゃない?」
「ああ」
担当者は紙へ書こうとして止まる。
「でも本人は『困ってない』って言ってる」
「だから、『困っている』って書かない方がいいんじゃない?」
「じゃあ何て?」
アルも止まった。
横からセリーが紙を見る。
「『食事量を減らしているとの本人申告あり。担当者は生活支援制度の案内が有用と判断』ではいかがでしょう」
担当者が目を丸くする。
「それだ」
「本人が困っている、と担当者が決めたわけではありません」
「うん」
「ただし、制度を案内した方がよいと担当者が考えたことは残せます」
「なるほど……」
担当者は書き始める。
「セリー、役場で働く?」
「主様のお世話がありますので」
「即答だ」
アルが言うと、担当者が笑った。
「じゃあアルが役場で働けば?」
「俺?」
「セリーさんがついてくるでしょ」
「俺が付属品みたいになってない?」
「どっちが付属品なの?」
近くにいた職員まで笑い出す。
アルは反論しようとして、セリーを見る。
セリーは少し考えてから答えた。
「どちらも付属品ではありません」
「ありがとう」
「ですが、主様を一人で役場へ置いて帰るのは少々心配です」
「なんで?」
「昼食を忘れそうですので」
「子供じゃないんだけど」
「先月、二度ございました」
「覚えてるの?」
「もちろんです」
窓口担当者が声を上げて笑った。
役場の中に、少し明るい空気が広がる。
その後も試案は何度も止まった。
本人の言葉と事実はどこまで分けるのか。
担当者の所見が本人の評価へ変わっていないか。
本人が見たくない記録まで「本人には閲覧権があるから」と無理に見せる必要があるのか。
見たい時に見られることと、毎回見せることは違うのではないか。
新しい問題が出るたび、紙には訂正線が増えた。
夕方には、朝より試案が汚くなっていた。
だがアルは、その紙を見て少し嬉しくなった。
(きれいな紙より、こっちの方がいいのかもな)
使って、困って、直した跡がある。
誰か一人の頭の中だけで完成させた制度ではない。
◇
旧保養施設では、夕食前に一つの記録が見つかった。
フェリクスが読み上げる。
「『廃止設備残置基準』」
ガルムが椅子を引き寄せる。
「北壁のやつに関係ある?」
「まだ分かりません。一般規則です」
「読め」
「『撤去により壁体、基礎、隣接線路へ損傷のおそれある場合、機能停止後も設備本体を残置可』」
「あるな」
「はい。さらに、『残置時は可動部を固定し、張力を解放し、識別札を付す』」
リディアが顔を上げる。
「識別札」
「また札か」
ガルムが低く呟く。
統合盤でも、本来あるはずの識別票が現在見つかっていない。
「続きます。『残置設備を再使用してはならない。再使用必要時は設備状態確認、固定解除、線路確認を経て新規設備として再登録すること』」
「昨夜鳴ったなら、固定されてない?」
「それはまだ言えません」
フェリクスは自分から首を振った。
「そもそも昨夜の音源がこれか分かりません。それに、可動金具以外の金属部材が鳴った可能性もあります」
「よし」
「何がです?」
「今の言い方」
「また褒めるんですか?」
「嫌ならやめる」
「……別に嫌とは言っていません」
リディアが笑う。
フェリクスは咳払いして、資料へ視線を戻した。
「問題は、個別の残置記録です」
「ない?」
「まだ見つかっていません」
「じゃあ探す」
「はい」
「今日中じゃなくていい」
ガルムの言葉に、フェリクスが顔を上げる。
「まだ夕方ですよ」
「だから何だ」
「あと三時間は」
「一時間」
「二時間」
「一時間」
「一時間半」
「市場じゃないんだぞ」
「では一時間十五分」
リディアが口を挟む。
「一時間で切り上げましょう。続きは明日でも資料は逃げません」
「古い資料は湿気で傷みます」
「今夜急に二千年分傷むとは思いません」
「……分かりました」
フェリクスは渋々頷いた。
◇
夕食後。
名前のない子供は、朝に残したパンを見た。
厨房で安全に保管され、食べられる状態のまま戻されている。
「食べる?」
ナディアが尋ねる。
子供はパンを見る。
少し触る。
それから首を横に振った。
「いらない」
「分かった」
「……おこらない?」
「怒らないよ」
「もったいない?」
「少しね」
子供の指が止まる。
ナディアはその表情を見て、穏やかに続けた。
「でも、朝に取っておきたいって思ったことが間違いになったわけじゃないよ」
「たべなかったのに?」
「朝は、後で食べるかもしれないと思ったんでしょう?」
「うん」
「だから取っておいた。今はもういらない。朝と今で気持ちが変わっただけ」
「パン、のこった」
「うん」
「それは?」
「厨房の人と相談する。まだ使えるなら別の形で使えるかもしれないし、安全に使えないなら処分する」
「ぼくが、わるい?」
「悪くないよ」
子供はしばらくパンを見つめた。
「じゃあ」
「うん」
「つぎも、あとでって言っていい?」
「いいよ」
「ほんとに?」
「うん。ただ、食べ物はずっと置いておけないから、その時はまた説明する」
「わかった」
子供はパンから手を離した。
部屋へ戻る途中、窓の外は薄い夕焼けに染まっていた。
廊下の角を曲がり、自分の部屋へ入る。
低い台には、朝移した木片が「みち」の隣に置かれている。
子供はそこへ近づいた。
「これ」
「うん」
「きょう、ここだった」
「そうだね」
「よるも、ここ」
「分かった」
「でも」
子供は木片へ触れず、指だけを近くへ置いた。
「あしたは、しらない」
「うん」
ナディアはそれだけ答えた。
子供は満足そうに頷く。
そして「やすみ」を手に取った。
「これも」
「うん」
「きょう、やすむ」
「もう夜だから?」
「ちがう」
子供は少し笑った。
「やすみたいから」
ナディアも笑った。
「そっか」
◇
夜。
塔の中庭へ出たアルは、今日は一人だった。
セリーは厨房で明日の保存食を確認している。
休むために来たわけではない。
少し風に当たりたかっただけだった。
石造りの長椅子へ座る。
昨夜、セリーと並んで座った場所。
アルは無意識に、自分の右側を見る。
誰もいない。
(……寂しいってほどじゃない)
そう思ってから、自分で苦笑する。
(でも、いた方がいいな)
以前なら、こういう感情にも理由をつけようとしたかもしれない。
長く仕えてくれているから。
世話をしてくれるから。
信頼しているから。
安心できるから。
どれも間違ってはいない。
けれど、それだけで全部を説明する必要もない気がした。
昨夜、触れた指を離したくなかった。
セリーも、このままがいいと言った。
それは事実だ。
今は、それで十分だった。
「主様」
背後から声がした。
振り返ると、セリーが立っている。
「終わった?」
「はい」
「座る?」
「よろしいですか?」
「もちろん」
セリーは昨日と同じ側へ座った。
けれど、今日は指が触れない。
ほんのわずかな隙間がある。
アルはそこを見る。
セリーも気づいているのかもしれない。
それでも、どちらもすぐには動かなかった。
風が吹く。
木々が揺れる。
「今日」
アルが口を開いた。
「はい」
「役場、一緒に来てくれてよかった」
「私も行きたかったので」
「うん」
「主様」
「何?」
「昨日のことを、気にされていますか?」
アルの肩が少し固まった。
「昨日?」
「手です」
「ああ」
誤魔化しても仕方がない。
「気にしてる」
「嫌でしたか?」
「逆」
答えたあと、アルは少しだけ俯いた。
「だから気にしてる」
セリーは黙った。
アルは自分の手を長椅子の上へ置く。
昨夜と同じ場所。
「セリーは?」
「私も、気にしております」
「嫌だった?」
「いいえ」
「じゃあ……」
そこでアルは止まった。
触れていいか。
そう聞こうとして、少し考える。
昨夜よかったからといって、今日も同じとは限らない。
けれど、聞くこと自体が悪いわけでもない。
確認をしすぎることが負担になる場合はある。
だからといって、何も聞かずに触れる理由にはならない。
「今日も、触れてたい?」
セリーの瞳がわずかに揺れた。
少しの沈黙。
やがて、彼女は自分の左手を長椅子の上へ置いた。
アルの手との間には、まだ少し隙間がある。
「はい」
セリーが答える。
「今日は、私もそうしたいです」
アルの胸の奥が温かくなる。
「そっか」
「はい」
アルは急がなかった。
セリーも急がない。
先に動いたのは、セリーだった。
左手がほんの少し横へ移動する。
小指が触れる。
昨日と同じ。
けれど、今日は偶然ではなかった。
アルはその違いを感じながら、指先へ力を入れないようにした。
「これでいい?」
「はい」
「俺も」
それ以上は進まなかった。
手を握らない。
指も絡めない。
ただ、触れている。
夜風の中で、その小さな接触だけが確かに残っていた。
◇
同じ頃。
旧保養施設の中央棟では、夜間監視が始まっていた。
昨夜の音があったからといって、人員は増やしていない。
観測項目も変えていない。
音を待つために壁へ近づくこともない。
いつもと同じ位置。
いつもと同じ記録方法。
午後十一時。
変化なし。
午後十一時四十分。
統合盤、発光なし。
午前零時十五分。
地下振動なし。
午前零時五十八分。
西壁音なし。
午前一時三十二分。
北寄り金属音なし。
午前二時〇九分。
変化なし。
担当者は一つずつ書いていく。
昨夜は三回鳴った。
だから今夜も鳴るはずだとは考えない。
鳴らないなら、鳴らない時間を残す。
午前二時四十七分。
統合盤の右寄りに、ごく弱い青白い光が現れた。
「発光」
「時刻、二時四十七分」
「位置?」
「右寄り。以前の右側発光と近く見えるが、同一点かは未確認」
「記録」
光は弱い。
点滅はしない。
誰も近づかない。
午前二時四十九分。
継続。
午前二時五十分。
わずかに弱まる。
その時だった。
北寄りから、小さな金属音が一度だけ聞こえた。
二人の担当者が同時に顔を上げる。
「音」
「二時五十分」
「一回」
「場所、昨夜と同じ?」
「近く感じる。でも断定しない」
「発光は?」
「継続中」
誰も「連動した」とは言わなかった。
午前二時五十一分。
光がさらに弱まる。
午前二時五十二分。
消灯。
金属音の追加なし。
地下振動なし。
西壁音なし。
旧職員詰所側の表示変化なし。
担当者の一人が記録紙へ書く。
もう一人が確認する。
「発光中に音が一回」
「事実としては、時間が重なった」
「関連は?」
「不明」
「そう書く?」
「いや」
担当者は少し考えた。
「発光記録と音記録は別にして、時刻だけ正確に残そう」
「照合する人が後で分かる?」
「分かる」
「じゃあそれで」
二人は記録を分けた。
発光は発光。
音は音。
時刻は同じ紙の上で確認できる。
けれど、一本の線では結ばない。
その頃、生活区画では名前のない子供が眠っていた。
低い台には木片と「みち」と「やすみ」がある。
子供は目を覚まさない。
寝返りを一度打ち、毛布を少し引き寄せただけだった。
誰も起こさない。
誰も反応を求めない。
中央棟で光が現れたことも、金属音が鳴ったことも、今の子供には知らされていない。
必要になれば、必要なことを説明する。
だが、設備が何かをしたたびに、子供へ意味を求めることはしない。
午前三時二十分。
新たな変化なし。
午前三時五十八分。
新たな変化なし。
午前四時三十一分。
新たな変化なし。
記録紙には、起きたことと、起きなかったことが並んでいく。
夜が明ければ、また誰かがそれを読む。
似ているものを見つけるかもしれない。
違うところを見つけるかもしれない。
何も分からないかもしれない。
それでも、分からない部分を埋めるために誰かの言葉を使う必要はない。
答えがまだ見つからないなら、見つからないこともそのまま残せばいい。
旧保養施設の長い夜は、誰かに答えを急がせることなく、静かに朝へ近づいていった。




