第95話 残す場所を選ぶ
夜が明けるまで、旧保養施設の統合盤には新しい発光が現れなかった。
午前三時、変化なし。午前四時、地下振動なし。西壁からの音もなく、旧職員詰所側の表示にも目視できる変化はない。午前五時を過ぎても細型金属片の位置は前日から変わらず、中央左下の隙間も、左側の古い小窓も暗いままだった。
監視担当者は、それらを一つずつ記録した。
最後に「夜間を通して新規変化なし」とまとめるのではなく、確認した時刻と対象を残す。何も起きなかった時間にも幅があり、その間ずっと全てを見続けていたわけではないからだ。
朝の交代に来たリディアは記録紙を受け取ると、最初から最後まで目を通した。
「お疲れさまでした」
「今夜は静かでした」
「はい」
「こういう夜の方が楽ですね」
「身体は?」
「それもありますけど……」
夜勤の男は、暗い統合盤を振り返った。
「何か光ると、どうしても意味を考えたくなるので」
リディアは少し笑った。
「分かります」
「考えるなって言われると、逆に考えますし」
「考えることまで禁止しているわけではありませんよ」
「記録に混ぜるな、ですよね」
「はい。思いついた仮説は仮説として別に残せます。でも、見たものと同じ欄へ書くと、次に読む人が事実だと思うかもしれません」
「昨夜は仮説も出ませんでした」
「それも悪くありません」
リディアは記録紙を閉じた。
「何も起きなかった夜があると分かっただけでも、使えます」
「毎晩必ず動く設備じゃないかもしれない?」
「そうです。ただし、一晩何も観測できなかっただけですから、『毎晩は動かない』とまで決めるのもまだ早いですね」
「難しいですね」
「ええ」
リディアは笑みを残したまま頷いた。
「だから、今日は『観測した範囲では新規変化なし』で十分です」
◇
名前のない子供が目を覚ました時、部屋の卓は昨夜と同じように少し窮屈だった。
木片、「みち」、「やすみ」、丸が描かれた紙、まだ名前のない短い線。
寝台から降りた子供は、卓の前まで歩いて一つずつ確認した。
誰も動かしていない。
「……ある」
それだけ言うと、木片ではなく「やすみ」の紙を手に取った。
少し眺めてから元の位置へ戻す。
廊下から足音が近づき、扉が二度軽く叩かれた。
「起きてる?」
「うん」
「入っていい?」
「うん」
ナディアが顔を出す。その後ろには、小さな台を二つ抱えた職員が立っていた。
昨日話していたものだった。
「台、持ってきてもらったよ」
子供の視線がナディアの後ろへ移る。
一つは低く横長で、今の卓と同じくらいの色をした木製の台。もう一つは少し高く、脚が細い。
「二つ?」
「選べるようにって。でも、どっちも嫌なら使わなくていいよ」
子供はすぐには近づかなかった。
「ここ、もってくる?」
「今は廊下で見てもいいし、部屋に一つずつ入れて見てもいい」
「ふたつ、いっしょ?」
「それでもいいよ」
「……みる」
「どこで?」
子供は少し考えた。
「ここ」
「部屋?」
「うん」
職員はまず横長の台を運び入れた。
卓には触れない。
ナディアが子供を見る。
「どこに置く?」
子供は部屋の中を見回した。
今の卓の右側。
左側。
窓の近く。
「となり」
「どっち側?」
子供は右を指した。
「ここ」
職員がゆっくり台を下ろす。
今ある卓とは指一本ほどの隙間を空けた。
子供が眉を寄せる。
「はなれてる」
「近づける?」
「うん」
「どのくらい?」
子供は二つの台の間へ指を入れ、それを抜いた。
「ここ、ない」
「くっつける?」
「うん」
職員が横長の台を少しだけ動かし、卓の側面へ合わせる。
「これでどう?」
子供は正面から見る。
今まで使っていた卓が広くなったように見えた。
だが、元の卓そのものは動いていない。
「……ひろい」
「もう一つも見る?」
ナディアが尋ねる。
子供は今の台を見る。
廊下に残っているもう一つを見る。
「これ」
「今のがいい?」
「うん」
「じゃあ、もう一つは戻してもらう?」
「うん」
職員が頷く。
「分かった」
それだけで終わるはずだったが、子供が慌てて呼び止めた。
「まって」
職員の足が止まる。
「どうした?」
「あとで、あっちがいいってなったら?」
「もう一つの台?」
「うん」
「倉庫へ戻すけど、まだ使われてなければ持ってこられるよ」
「つかわれてたら?」
「別の台を探すことになるかな」
「おなじ、ない?」
「同じのがあるかは分からない」
子供は黙り込んだ。
選んだら、選ばなかった方が消える。
そう感じたのかもしれない。
ナディアは急がせなかった。
「今日は二つとも置いておく?」
子供が顔を上げる。
「いい?」
「部屋が狭くならない置き方なら。ただ、ずっと二つを取っておけるとは約束できないよ。他の人が使いたいかもしれないから」
「……そっか」
「今日見比べて、あとで決めてもいい」
「きょう?」
「今日じゃなくても、いつまで置けるか職員さんに聞いてみようか」
職員が答える。
「急ぎで使う予定はないから、明日の朝までは大丈夫だよ」
子供はしばらく考えた。
「じゃあ、きょう、ふたつ」
「分かった」
もう一つの台も部屋へ入れられた。
今度は窓際に置く。
二つの台を見比べた子供は、少し安心したように息を吐いた。
「まだ、えらばない」
「うん」
ナディアは頷いた。
「明日の朝になったら絶対選ばなきゃいけない、って意味でもないからね。必要なら、その時また相談しよう」
「うん」
子供は元の卓へ目を戻した。
「これ、うごかなかった」
「うん」
「ひろくなった」
「そう見えるね」
「なくしてない」
「うん」
その言葉のあと、子供はようやく笑った。
◇
塔では、アルが朝食後に旧保養施設から届いた夜間記録を確認していた。
「何もなし」
『正確には、観測範囲内で新規変化を確認せず、です』
エルの訂正に、アルは苦笑した。
「そうだった」
『夜間担当も同様の表現で記録しています』
「いいと思う」
アルは表示を送る。
発光なし。
地下振動なし。
西壁音なし。
旧線の目視変化なし。
細型金属片位置変化なし。
静かな夜だった。
だが、前の夜に発光があったからといって、今夜も何かが起こるとは限らない。
「主様」
セリーが机の端へ茶を置く。
「ん?」
「町へ行かれる前に、こちらを」
差し出されたのは一枚の紙だった。
「何?」
「昨日の町の試行案を拝見して、気になった点を書きました」
アルは受け取る。
上から読んでいき、途中で眉を上げた。
「『記録を残すこと自体が本人の負担になる場合』」
「はい」
「そこ考えてなかった」
「旧保養施設の子供との会話を見ていて気になりました」
「全部記録する必要はない、ってナディアが言ったやつ?」
「はい」
セリーはアルの向かいではなく、今日も隣の椅子へ腰を下ろした。
「本人の言葉を消さないことと、本人の生活を全て記録することは同じではありません」
「うん」
「町の窓口でも、困り事を一度話した方の行動を、その後ずっと記録する必要はありません」
「むしろ嫌だよな」
「嫌ではない方もいるでしょう」
「そっか」
「記録が残ることで安心する方もいれば、残ること自体を怖いと感じる方もいるかもしれません」
「……うん」
アルは紙へ目を戻した。
昨日まで、残すことばかりを考えていた。
消さない。
上書きしない。
現在と過去を分ける。
理由を残す。
変更の経緯も残す。
それは必要だと思う。
けれど、何でも残せばいいわけではない。
(残す側が安心したいだけになったら駄目だ)
「町の人に話そう」
「はい」
「でも、セリー」
「何でしょう」
「これ、いつ考えた?」
「昨夜です」
「休んだあと?」
「はい」
「仕事してるじゃん」
「考えただけです」
「それ仕事に入らない?」
セリーが少しだけ目を逸らした。
「……考えてしまいました」
「俺と同じことしてる」
「否定できません」
アルは笑った。
「じゃあ次の休み、仕事のこと考えたらどうする?」
「考えないよう努力します」
「それ、休みが仕事になるやつ」
セリーが黙る。
二人の間に短い沈黙が落ちたあと、どちらからともなく笑った。
「考えちゃったら?」
アルが尋ねる。
「考えたことに気づいて、それ以上追わないようにする、でしょうか」
「追いたくなったら?」
「……後で紙へ書けるよう、一言だけ覚えておきます」
「覚えるのも仕事っぽい」
「では、どうすればよいのですか?」
「分からない」
「主様」
「だって本当に分からないし」
セリーは困ったようにアルを見る。
やがて小さく息を吐いた。
「次に試してみます」
「何を?」
「決めずに休むことを」
「それが一番難しそうだな」
「はい」
「俺も一緒にやる?」
セリーの視線がアルへ向く。
「よろしいのですか?」
「俺も練習必要だし」
「では」
ほんの少し間を置いてから、セリーは答えた。
「一緒にお願いします」
◇
白鴉療養所では、保存されていた少年が朝の歩行を始める前に、自分の脚を両手で軽く押していた。
ヨアヒムが少し離れた場所から見守る。
「どうだ?」
「今日は軽い」
「痛みは?」
「ない」
「歩きたい?」
「うん」
「どれくらい?」
少年は廊下の先を見る。
昨日は一周で止めた。
一昨日も、その前も、日によって違う。
「二周」
「最初から二周すると決める?」
少年は少し考えた。
「……一周してから」
「分かった」
アルが白鴉へ着いたのは、その一周目が終わる少し前だった。
廊下の向こうから少年が歩いてくる。
以前より歩幅は安定している。
それでも急がない。
ヨアヒムはすぐ横ではなく、手を伸ばせば届く程度の距離を保っている。
「アル」
少年が気づいた。
「おはよう」
「見てた?」
「今来た」
「もう一周した」
「どうだった?」
「今日は軽い」
少年は椅子へ座った。
「二周目行く?」
アルが尋ねると、少年は水を飲みながら少し考えた。
「休んでから」
「うん」
「でも、行くかはあとで」
「分かった」
「昨日は一周だった」
「うん」
「今日は、いま一周」
「うん」
「昨日より弱くない?」
アルはすぐに答えず、少年の顔を見る。
「昨日一周で止めたこと?」
「うん」
「弱かったと思ってる?」
「ちょっと」
「どうして?」
「今日は軽いから」
「昨日は重かったんだよね?」
「うん」
「じゃあ、昨日の身体で一周だったことと、今日の身体で一周したことを、そのまま比べなくてもいいんじゃない?」
少年は眉を寄せた。
「でも、数はおなじ」
「数はね」
「二周したら、今日は強い?」
「俺はそういう決め方しないかな」
「なんで?」
「二周できても、無理してたら困るから」
「じゃあ、なにで強い?」
アルは少し困った。
「難しいな」
「分かんない?」
「うん」
少年が笑う。
「アル、分かんない多い」
「最近よく言われる」
「ぼくも」
「一緒だな」
少年は水の入ったコップを両手で持った。
「じゃあ、今日、二周しなくてもいい?」
「もちろん」
「してもいい?」
「身体と相談して、ヨアヒムとも話してね」
「うん」
「でも、二周しなきゃ昨日より強くなったことにならない、とは思わなくていいよ」
少年は少し考えた。
「やめるのも、できた?」
「昨日?」
「うん」
「できた」
「じゃあ昨日も、なんかできた」
「そうだね」
少年は満足そうに頷いた。
その後、十分ほど休んだ。
脚の重さを確かめ、ヨアヒムと話し、結局二周目へ向かった。
ただし、二周したことを誰も「昨日より進んだ」とは記録しなかった。
今日の身体で、本人が歩きたいと考え、休んだ後に二周目を選んだ。
それだけが残された。
◇
三〇八号室の少年は、今日も二通目の手紙を開かなかった。
白い薬も、減らした後の量を維持している。
アルが部屋へ入ると、少年は赤い布包みではなく、三枚の紙を寝台の上へ並べていた。
それぞれに「アルフォンス」と書かれている。
形は少しずつ違う。
「これ」
「うん」
「一枚、しまいたい」
「どれ?」
少年は真ん中の紙を指す。
「これ」
「捨てる?」
「違う」
「じゃあ、どこへ?」
「見えないところ」
「分かった」
「でも」
少年の指が止まる。
「見えなくしたら、なくなる?」
「紙は残るよ」
「どこに置いたか分からなくなったら?」
「置き場所を決めておけばいい」
「エルに残す?」
「紙そのもの?」
「違う。どこに置いたか」
「あなたが望むなら」
少年は真ん中の紙を見る。
「……それは、やだ」
「じゃあ記録しない」
「でも忘れたら?」
「忘れた時に困る?」
「分かんない」
「なら、今決めなくてもいいんじゃない?」
少年は少し苛立ったようにアルを見る。
「またそれ」
「ごめん」
「なんでも決めなくていいって言う」
「嫌?」
「ちょっと」
アルは黙った。
少年の眉間には小さな皺が寄っている。
「決めたい時もある」
「うん」
「決めなくていいって言われると、決めちゃ駄目みたい」
アルの胸へ、その言葉が真っ直ぐ入った。
(ああ。やった)
選ばせないことを避けようとして、今度は「選ばなくていい」を押しつけかけた。
「ごめん」
アルは今度ははっきり謝った。
「決めたいなら決めていい」
「うん」
「俺が止めるのは、危ない時とか、今決めたら戻せないのに情報が足りない時とか、そういう時に理由を言う」
「これは?」
「紙をしまうこと?」
「うん」
「危なくない。あとで出せる場所なら戻せる」
「じゃあ決める」
「うん」
少年は三枚を見比べる。
「真ん中、しまう」
「分かった」
「記録しない」
「うん」
「場所は」
部屋の小さな棚を見る。
「下の引き出し」
「分かった」
「ぼくが入れる」
「うん」
少年は自分で紙を持ち、棚まで歩いた。
下の引き出しを開ける。
中には薄い布が一枚入っているだけだった。
紙をその上へ置き、閉じる。
「しまった」
「うん」
「二枚になった」
「見えてるのはね」
「三枚ある」
「うん」
「でも、一枚見えない」
「うん」
少年は少し笑った。
「これ、いい」
「そっか」
「全部見えてなくても、ある」
「うん」
その言葉に、アルは旧保養施設の子供を思い出しかけた。
だが、口には出さなかった。
似ていることがあっても、二人の経験は別だ。
三〇八号室の少年は、自分で一枚をしまった。
それだけでいい。
◇
町役場へ着いた頃には、昼を少し過ぎていた。
試行中の窓口には三人の住民が待っている。
アルは邪魔にならない場所へ座り、セリーと一緒に様子を見た。
一人目は屋根の修理支援について。
二人目は仕事の紹介。
三人目は食料の相談だった。
食料の相談に来た女性は、窓口へ座るなり周囲を気にして声を落とした。
「これ、残るの?」
担当者の女性がすぐに答える。
「何を残すか、一緒に確認できますよ」
「全部?」
「全部じゃなくて大丈夫です。支援に必要な情報と、次に来た時にもう一度話さなくて済む方がいいことを相談して決めます」
「名前は?」
「支援を出す手続きには必要です。でも、相談内容の全部を名前付きで残す必要はありません」
「夫に見られる?」
担当者の表情が変わった。
アルもわずかに身体を起こす。
だが、口を挟まない。
「見られたくない理由を聞いてもいいですか? 話したくなければ、話さなくても大丈夫です」
女性は手を握り締めた。
「……怒るから」
「相談に来たことを?」
女性が頷く。
「お金のこと、外で話すと怒る」
担当者はすぐに書き始めなかった。
「今、ご自宅へ帰るのは危ないですか?」
「殴るとかじゃない」
「はい」
「でも怒鳴る」
「お子さんは?」
「いる」
女性の声がさらに小さくなる。
担当者は隣の職員へ目配せした。
「イーダさんへ相談してもいいですか? あなたが話した内容を全部ではなく、今後の支援方法を考えるために必要なところだけ」
「診療所?」
「はい」
「病気じゃない」
「病気として扱うためじゃありません。こういう時に、どこまで記録を分けた方が安全か相談したいんです」
女性は迷った。
「名前、言う?」
「あなたが許可するまでは伝えません」
「……じゃあ、まだ言わない」
「分かりました」
担当者は紙を二枚に分けた。
一枚には、食料支援を希望していること。
世帯人数。
必要な量。
もう一枚には、家族に相談内容を知られることへの不安があり、共有範囲を本人と再確認する必要があること。
後者には、まだ名前を書かなかった。
「これでいい?」
担当者が女性へ見せる。
女性は文字を追う。
「怒鳴る、って書かないの?」
「書いてほしい?」
「……分かんない」
「支援を考える時に大事な情報かもしれません。でも、名前と一緒に残すことが怖いなら、今すぐ決めなくてもいいです」
女性は紙を見る。
長い沈黙のあと、小さく言った。
「名前なしで、残せる?」
「『家族から怒鳴られることへの不安を話した相談者がいる』という形なら」
「じゃあ、それ」
「分かりました」
担当者はその通りに記した。
アルは何も言わず、そのやり取りを見ていた。
(残すことが守るとは限らない)
必要な情報がなければ支援できないこともある。
だが、情報を一つの場所へ集めることで危険になる人もいる。
町で作り始めた制度には、まだその視点が足りなかった。
◇
女性が帰ったあと、窓口担当者が大きく息を吐いた。
「これ、難しい」
「うん」
アルが答える。
「名前ないと後で分からなくなる。でも名前残すの怖いって言われたら、どうしたらいいの」
「俺も今考えてる」
「決めてよ」
「俺が?」
「元王子でしょ」
「元王子だからって何でも分からないよ」
「役に立たないなあ」
「ひどい」
周囲から小さな笑いが起きた。
緊張していた担当者の肩も少し下がる。
セリーが口を開いた。
「一人で決める必要はないのではありませんか?」
担当者が振り向く。
「どういうこと?」
「今の方の名前を共有せず、事例だけを代表会議や診療所へ相談する方法を先に決めてはいかがでしょう」
「匿名で?」
「この町で完全な匿名が可能かは分かりません」
セリーは慎重に答える。
「世帯人数や状況だけで推測されることもあります。ですので、何を伏せれば安全かも含めて検討が必要です」
「なるほど」
アルも頷いた。
「それと、本人が後で『やっぱり残したくない』って言った時どうするかも必要だな」
「消す?」
担当者が尋ねる。
アルはすぐには答えなかった。
「全部消せるようにすると、支援した記録までなくなって困るかもしれない」
「でも残したくないって言われたら?」
「だから、何を消せるか、何を支援実績として残さなきゃいけないか、分ける?」
「分けたらまた書類増えるよ」
「うん」
「また増える」
「……うん」
アルが困った顔をすると、担当者が笑った。
「今度はあんたが困る番ね」
「そうみたい」
完璧な答えは出なかった。
午後の代表会議へ持ち越すことになった。
◇
旧保養施設の資料室では、フェリクスが「記録保持確認」と「事後説明待ち」の改訂履歴をさらに追っていた。
ガルムは途中で一度外へ出て巡回し、戻ってきた時には机の上に新しい資料が三冊増えている。
「一冊って言わなかったか?」
「今日は冊数制限されていません」
「昨日までの精神を引き継げ」
「規則は明文化してください」
「お前、そういう時だけ制度を厳密に使うな」
リディアが笑いながら一冊を閉じた。
「でも、面白いものが出ました」
「お前までフェリクスみたいな言い方するな」
「失礼ですね」
「どっちに?」
「両方です」
ガルムは椅子へ座った。
「で?」
リディアが一枚の古い規則書を差し出す。
「記録保持の保存先です」
「保存先?」
「初期規則では、本人申告原記録と措置理由記録は同じ案件番号で管理しますが、同じ紙へ統合しないよう定められています」
「なんで?」
フェリクスが答える。
「後から措置理由が修正されても、本人申告まで書き換えられないようにするためです」
ガルムの顔が引き締まる。
「続けろ」
「さらに、閲覧権限も別です」
「本人申告の方が厳しい?」
「逆です」
「逆?」
「本人申告記録は、原則として本人が閲覧可能。措置理由記録には職員側の安全判断や第三者情報を含む場合があるため、一部制限可能」
「……なるほど」
「ただし、本人に対して『措置理由が存在すること』自体を隠してはいけない」
リディアが該当箇所を指す。
「『詳細開示制限時も、措置理由記録の存在、作成主体、措置目的を本人へ告知すること』」
「全部見せられなくても、裏で何か書かれてること自体は知らせる」
「はい」
「後は?」
「本人は、自分の申告記録に補足を追加できる」
「削除は?」
「原則削除ではなく、訂正申出を別記録として追加」
フェリクスが別の頁を開く。
「例えば『前日の発言は薬の影響で混乱していたと思う』と本人が後から言った場合、前日の発言を消すのではなく、その後の本人申告として追加する」
「逆も?」
「あります。『昨日は同意したが、今日は撤回する』。昨日の同意記録は残るが、現在意思欄は撤回へ更新される」
ガルムは黙って読み進めた。
「これ、かなりよくできてるな」
「初期は」
「またそれか」
「はい」
フェリクスが次の改訂を示した。
約十二年後。
保管量増大への対応として、本人申告原記録の一部を中央保管へ移し、現場には最新状態と要約を置く方式へ変更。
さらに後。
中央保管された原記録の閲覧には管理責任者の承認が必要となる。
さらに後。
長期閉鎖案件について、本人からの閲覧申請がない場合は要約記録のみを現場保存。
「また同じだ」
ガルムが低く言う。
「最初は守るために分けた」
「はい」
「量が増えて別保管にした」
「はい」
「別保管したら、見るのに承認が要るようになった」
「はい」
「最後には、普段は要約しか見なくなった」
「そう読めます」
「原記録そのものを捨てた記録は?」
「今のところありません」
「なら、残ってる可能性は?」
フェリクスとリディアが顔を見合わせた。
「あります」
フェリクスが答える。
「ただし、どこに保管されたかが問題です」
「中央保管って?」
「初期は王立保護記録庫」
「現存?」
「名称変更を三回しています。その後、王立魔導研究院の記録部門へ一部統合された可能性があります」
「一部?」
「全部ではありません。帰還管理系、医療保護系、研究対象系で移管先が分かれています」
ガルムは額を押さえた。
「また分かれたか」
「分かれていた方が安全だった時期もあります」
「今探す側には地獄だな」
「はい」
フェリクスはなぜか少し嬉しそうだった。
「楽しそうにするな」
「資料が残っている可能性が上がったので」
「探しに行くとか言うなよ」
「まだ言ってません」
「顔が言ってる」
リディアが資料を整理しながら口を挟む。
「ただ、これは大きいですよ」
「何が?」
「今まで私たちは、後世の要約記録だけを見て『本人の拒否が消えた』と思っていた事例の一部について、原記録が別保管されている可能性が出ました」
「消されたんじゃなく、見えない場所へ移された?」
「可能性です」
「でも」
ガルムは資料を指で叩く。
「本人から見えないなら、結果はかなり近いだろ」
「はい」
「しかも承認が必要なら、自分の言葉を見るために管理者へ頼むことになる」
「そうなります」
フェリクスの表情から笑みが消えた。
「残っていることと、使えることは別ですね」
「そういうことだ」
◇
昼過ぎ、名前のない子供は二つの追加台を見比べていた。
横長の低い台。
窓際の少し高い台。
朝から何度か近づき、離れ、そのたびに触っている。
だが、まだ決めていない。
ナディアも尋ねなかった。
子供は低い台へ「みち」を置いた。
高い台へ「やすみ」を置く。
元の卓には木片と、丸と、名前のない線。
三箇所へ分かれた。
「……ちがう」
子供が呟く。
「何が?」
「ばらばら」
「嫌?」
「わかんない」
「うん」
子供は「みち」を取り、高い台の「やすみ」の隣へ置いた。
「これは、いっしょ」
「道と休み?」
「うん」
「じゃあそこに置く?」
「でも」
今度は高い台を少し揺らす。
低い台より脚が細いため、ほんのわずかに動く。
「うごく」
「そうだね」
「やだ」
「じゃあ低い方へ置く?」
子供は二枚を低い台へ移した。
指で軽く押す。
動かない。
「これ」
「低い方がいい?」
「うん」
「じゃあ高い方は戻す?」
子供は高い台を見る。
朝は選ばなかった方が消えることを気にしていた。
だが今度は、少しだけ考えたあと頷いた。
「もどす」
「大丈夫?」
「うん」
「後で欲しくなるかもしれないよ?」
子供はナディアを見る。
「そのとき、きく」
「うん」
「なかったら?」
「別のを探す」
「おなじじゃない?」
「同じじゃないかもしれない」
「……うん」
子供はもう一度高い台へ触れた。
「でも、これ、いま、いらない」
「分かった」
「もどしていい」
「うん」
職員が呼ばれ、高い台を運び出す。
子供はその様子を最後まで見ていた。
扉の向こうへ台が消える。
追いかけない。
「なくなった?」
ナディアが尋ねる。
「ここから」
「うん」
「でも、どっかある?」
「倉庫へ戻すよ」
「そっか」
子供は低い台へ目を戻した。
「これ、えらんだ」
「うん」
「あとで、かえていい?」
「もちろん」
「じゃあ、これ」
その声には、朝より迷いが少なかった。
◇
午後の代表会議には、診療所のイーダだけでなく、窓口担当者二人も参加した。
午前中の相談事例について、本人を特定できる情報は伏せたまま話し合う。
「記録を残すことで危険になる場合か」
ハンスが難しい顔をする。
「家族に見られる可能性があるなら、そりゃ分けた方がいいだろ」
「分けるってどこに?」
ベンノが尋ねる。
「鍵のかかる棚?」
「鍵持つの誰?」
「また一人に集めるの?」
マルタの一言で全員が止まる。
アルも腕を組んだ。
「それは嫌だな」
「でも全員が見られたら意味ないよ」
イーダが言う。
「医療記録でも、誰でも見られるわけじゃない」
「じゃあ、閲覧できる人を決める?」
「決めるとして、本人は?」
窓口担当の女性が尋ねた。
「本人が自分の記録見たいって言ったら?」
「見せるべきじゃない?」
「他の人のこと書いてあったら?」
「そこだけ隠す?」
「隠したら、『何か隠された』って怖くならない?」
アルの脳裏に、つい先ほど届いた旧制度の資料が重なる。
本人申告記録と措置理由記録を分ける。
本人には、自分に関する原記録を見られるようにする。
第三者情報が含まれる部分は制限する。
ただし、別記録の存在そのものは隠さない。
古い仕組みには、参考にできる部分がある。
だが、そのまま持ち込むつもりはなかった。
「昔の制度で、似たことしてたみたい」
アルが言う。
「昔?」
「王国の保護施設。本人が言ったことと、職員側の判断を別に残してた」
「使える?」
「一部は。でも、その後に問題も起きた」
アルは要点だけを説明した。
記録を分けたこと。
保管量が増え、原記録が中央へ移されたこと。
閲覧に承認が必要になったこと。
最後には現場から原記録が見えにくくなったこと。
「じゃあ駄目じゃん」
ハンスが言う。
「全部駄目だったとは思わない」
「どこが?」
「本人の言葉と、職員の判断を同じ文章にしなかったところ」
イーダが頷く。
「それは医療でも大事ね。本人が『痛くない』って言ってるのと、私が『痛みを隠している可能性がある』と思うのは別」
「後者を『本人は痛い』って書いたら駄目?」
「駄目」
「なるほど」
「でも、本人が自分の記録を見られるようにするなら、窓口でも見せられる書き方を意識するようになるかも」
若い担当者が言う。
「見られたら困ること書くな、って?」
「違う。必要なことは書く。でも、勝手に決めつけた言葉を本人の発言みたいに書かない」
「それいいかも」
アルは黙って聞いていた。
議論はまた、自分が想像していなかった方向へ進む。
やがてマルタが紙を一枚取った。
「試しに三つに分けたら?」
「三つ?」
「本人が言ったこと。窓口が判断したこと。支援に必要な事実」
「事実って?」
「例えば家族四人とか、今日食べ物がないとか」
「『今日食べ物がない』も本人が言ったことじゃない?」
「そうか」
「じゃあ難しい」
「ほら、また分類で詰まる」
笑いが起きる。
「分類を増やしすぎない方がいいかも」
アルが言った。
「じゃあ二つ?」
「本人の言葉と、それ以外?」
「雑じゃない?」
「雑だね」
「元王子、もっと頑張れ」
「だからみんなで考えてるんだって」
結局、この日も完成形は決まらなかった。
まずは既存の相談票へ「本人の言葉」と「担当者所見」を分けて書く欄を試験的に追加する。
閲覧範囲が限定される情報は別紙とし、別紙が存在すること自体は本人へ伝える。
本人が自分の相談記録を見たい場合の手順は、実際の窓口負担も見ながら次回までに検討する。
そして、本人が「残さないでほしい」と言った情報については、支援や安全上どうしても必要な場合を除き、記録しない選択肢も検討する。
「また検討ばっかり増えたな」
ハンスが言う。
「増えたね」
「いつ完成するんだ?」
アルは少し考えた。
「完成するのかな」
「おい」
「ずっと直すんじゃない?」
会議室が静かになった。
「人が変われば、困ることも変わるし」
アルは机の上の試行案を見る。
「完成したって思った時が、一番危ないのかもしれない」
イーダが小さく笑った。
「じゃあ、完成しない仕組みを作る?」
「それ、言い方悪くない?」
「でも嫌いじゃないわ」
◇
夕方、旧保養施設からもう一つ報告が届いた。
設備の変化ではない。
資料の移管先についてだった。
王立保護記録庫から移された記録の一部が、王立魔導研究院へ統合された可能性がある。
その名称を見た瞬間、アルは表情を変えた。
「フェリクスがいたところか」
『はい。正確には、フェリクス・ハルトマンが在籍していた王立魔導研究院の記録部門へ、後年一部が移された可能性を示す資料です』
「本人は?」
『既に確認済みです』
「何て?」
『「旧記録庫なら心当たりがある。ただし入れるかは別問題」と』
アルは腕輪の表示を見つめる。
王立魔導研究院。
レイハンが外部医療協力者として関わっていた場所でもある。
精神魔法の後遺症研究。
白鴉療養所。
帰還管理系の古い記録。
いくつもの線が、同じ組織名の周囲へ近づいているように見える。
だが、アルはすぐにそれらを一本へ結ばなかった。
「エル」
『はい』
「レイハンの件と、この移管記録は別で管理して」
『承知しました』
「同じ研究院ってだけで関連ありにしない」
『はい』
「フェリクスにも伝えて」
『既にガルム様から同様の指示が出ています』
アルは思わず笑った。
「先越された」
『ガルム様からは「アルなら同じことを言う」との補足があります』
「読まれてるな」
セリーが隣で微笑む。
「信頼されているのでは?」
「行動が単純になっただけかも」
「両方かもしれません」
アルはもう一度、移管記録を見る。
「研究院へ行く必要あるかな」
「今すぐですか?」
「いや」
その言葉は自然に出た。
「今すぐじゃない」
「はい」
「まずフェリクスに、何を知ってるか聞く。それと、現存してる記録庫の利用条件」
「アルご自身が行かれる必要性も?」
「それも確認する」
セリーが頷く。
「承知しました」
アルは表示を閉じた。
昔なら、王立魔導研究院という名前を見た時点で向かう準備を始めていたかもしれない。
今は、そこに自分が行く必要があるのかを先に考えられる。
少しだけ、自分でもその変化が可笑しかった。
◇
夜になる前、名前のない子供は新しく置いた低い台の前へ座っていた。
「みち」と「やすみ」はそこへ移した。
元の卓には木片。
丸。
名前のない線。
少し余裕ができた。
「ひろい」
ナディアが頷く。
「広くなったね」
「でも、ふえた」
「台が?」
「うん」
「嫌?」
「ちがう」
子供は二つの卓を交互に見る。
「ばしょ、ふえた」
「うん」
「どこにおくか、えらぶ」
「うん」
「……たいへん?」
ナディアは笑わなかった。
「選ぶのが大変な日もあるかもね」
「じゃあ、ふえないほうがいい?」
「あなたはどう思う?」
子供はしばらく考える。
「きょうは、いい」
「うん」
「でも、あした、やだったら?」
「相談しよう」
「なくす?」
「台を戻すこともできるし、置き方を変えることもできる」
「これ」
子供は「みち」を指す。
「こっちって、きめた」
「うん」
「あした、あっちでもいい?」
「いいよ」
「じゃあ、きめるの、こわくない」
ナディアの表情が少しだけ柔らかくなった。
「戻せるから?」
「うん」
子供は紙を一枚持ち上げる。
「せんせい、きめたら」
そこで声が止まった。
ナディアは待つ。
「……かえなかった」
「何を?」
「わかんない」
「思い出せない?」
「うん」
「無理に思い出さなくていいよ」
子供は「みち」を低い台へ戻した。
「でも」
「うん」
「きめたら、かえなかった」
「先生が?」
「……たぶん」
「『たぶん』で残す?」
子供は少し迷った。
「のこさない」
「分かった」
「いまは」
「うん」
「あとで、のこすかも」
「その時に教えて」
「うん」
ナディアは紙へ手を伸ばさなかった。
子供が話したからといって、全てを記録する必要はない。
本人が残したくないと言った言葉まで、守るためという理由で奪うことはできない。
ただし、子供の安全に直結する内容なら別の判断が必要になる。
今の言葉は、そこまで具体的ではなかった。
だから残さない。
それもまた、一つの選択だった。
◇
塔へ戻ったアルは、夕食後にセリーと中庭へ出た。
予定していた休みではない。
どちらからともなく、少し外へ出ようという話になっただけだった。
夜風は冷たすぎず、石畳には塔の窓から漏れる光が細長く落ちている。
以前二人で休んだ場所へ行く。
アルが腰を下ろすと、セリーも隣へ座った。
「今日は何時間?」
アルが尋ねる。
「決めません」
「お」
「前回の反省を活かします」
「俺が聞いたのに?」
「はい」
「じゃあ、何する?」
「決めません」
「徹底してるな」
「主様がおっしゃったのではありませんか」
「そうだけど」
アルは背もたれへ身体を預けた。
しばらく黙る。
風が木の葉を揺らす。
遠くで夜鳥が一度鳴いた。
「セリー」
「はい」
「仕事のこと考えてる?」
「少し」
「俺も」
「どうします?」
「どうもしなくていいんじゃない?」
「それでは、考えてしまいます」
「考えてても休めてるならいいとか?」
セリーが少し考える。
「それを決める必要がありますか?」
「……ないか」
「はい」
また沈黙。
アルは自分の手を見る。
石造りの長椅子の上に置いた右手。
すぐ隣には、セリーの左手がある。
前にも同じような距離だった。
触れないまま、近くにあった。
今日は、少しだけ違った。
風が吹き、セリーの指先がわずかに動いた。
アルの小指へ触れる。
偶然かもしれない。
セリーも動かない。
アルも動かなかった。
(離したくない)
頭の中に浮かんだ言葉に、自分で少し驚いた。
けれど、理由を考えるのはやめた。
指先が触れている。
それだけでいい。
しばらくして、セリーが小さく言った。
「主様」
「ん?」
「手が触れております」
「うん」
「離しますか?」
アルはすぐには答えなかった。
自分の気持ちを確かめる。
「俺は、このままがいい」
セリーの指がほんの少し動く。
「セリーは?」
「私も」
短い答えだった。
それ以上、何も変わらなかった。
手を握るわけでもない。
指を絡めるわけでもない。
ただ、小指同士が触れたまま、二人で夜の庭を見ていた。
数分だったのか、もっと長かったのか。
どちらも時刻を確認しなかった。
◇
同じ夜。
旧保養施設では監視担当者が統合盤の前へ座っていた。
午後十一時四十分。
変化なし。
午前零時二十一分。
西壁音なし。
午前一時七分。
地下振動なし。
午前一時五十二分。
各表示、目視変化なし。
午前二時三十六分。
細型金属片、位置変化なし。
午前三時十四分。
担当者の一人が、記録紙から顔を上げた。
「……音」
「どこ?」
「西壁じゃない」
二人が耳を澄ます。
聞こえたのは、中央棟の北寄り。
壁の奥なのか、床の下なのか判別できない。
小さな金属音が、一度。
数秒後。
もう一度。
今度は少し低い。
「時刻三時十四分。北寄り、金属音二回」
「間隔は?」
「約六秒」
「記録」
誰も動かない。
その後、一分。
二分。
何も起こらない。
発光もない。
地下振動として計器に出る変化もない。
午前三時十九分。
三度目の音。
今度は前の二回より、少し長く擦れるように聞こえた。
「追加一回」
「同じ場所?」
「近いと思う。でも断定しない」
「了解」
午前三時二十一分。
沈黙。
午前三時三十分。
変化なし。
午前三時四十五分。
変化なし。
記録には三回の音だけが残された。
誰も、以前の「短・短・長」に似ているとは書かなかった。
似ているように聞こえても、場所が違う。
音質も同じとは確認できない。
時間間隔も違う。
過去の記録を知っているからこそ、似ているものを探したくなる。
だからこそ、似ているという感想を事実へ混ぜなかった。
その頃、生活区画の名前のない子供は眠っていた。
卓の上には木片。
隣の低い台には「みち」と「やすみ」。
子供は音に気づいた様子を見せない。
誰も起こさない。
誰も「聞こえたか」と確かめに行かない。
中央棟で起きたことは中央棟の記録へ。
子供が眠っていたことは生活区画の記録へ。
別々の場所に、それぞれ残る。
残す場所を分けることは、忘れるためではない。
何かを一つの答えへ押し込めないためだった。




