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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第94話 直すために残すもの


 旧保養施設の夜は、何も起こらないまま半分を過ぎていた。


 中央棟の監視室では二人の担当者が交代で統合盤を見守り、もう一人が記録紙へ時刻を書き込んでいる。窓の外では夜風が木々を揺らしていたが、分厚い石壁に遮られた室内へ届くのは、時折かすかに聞こえる枝葉の擦れる音だけだった。


 午後十一時二十分。


 変化なし。


 午前零時十五分。


 地下振動なし。


 午前一時四分。


 西壁音なし。


 午前一時五十八分。


 統合盤各表示、変化なし。


 午前二時三十一分。


 旧職員詰所側表示、目視変化なし。


 担当者の一人が椅子の背へ軽く身体を預けた。


「今夜は静かですね」


「静かなままなら、それも記録だ」


「はい」


 返事をした直後だった。


 統合盤の前に立っていたもう一人が、右手をわずかに上げる。


「待ってください」


 誰も動かなかった。


「どこです?」


「中央より少し左。下側」


 視線だけが集まる。


 これまで青白い光が確認された位置とも、黄白色の光が現れた小窓とも違っていた。


 細い隙間の奥に、赤みを帯びた弱い光が見える。


「時刻、二時三十四分」


「記録します」


「色は?」


「……橙。いや、赤橙に見えます」


「私には橙寄りです」


「色判断に差あり、と残してください」


「了解」


 誰も「赤」と決めなかった。


 誰も「橙」とも決めなかった。


 見る角度や暗さで色が違って見える可能性もある。


「細型金属片?」


「位置変化なし」


「刻線奥?」


「発光なし」


「左側小窓?」


「発光なし」


「地下?」


「現時点、振動なし」


 光は弱いまま続いた。


 二分。


 三分。


 午前二時三十八分。


 西側の壁から、小さな音が一度だけ響いた。


 硬いもの同士が軽く触れたような音。


「西壁音、一回」


「時刻二時三十八分」


「発光継続」


「関連付けないでください」


「了解」


 四分の差。


 近いと言えば近い。


 だが、それだけだった。


 午前二時四十分。


 発光が一度だけ弱くなる。


 再び元の程度へ戻る。


 午前二時四十三分。


 消えた。


「発光終了。約九分」


「西壁、追加音なし」


「地下振動なし」


「旧線変化なし」


「細型金属片変化なし」


 担当者は記録を続けた。


 ――中央左下側隙間、弱い発光。色は観察者間で赤橙/橙の差あり。


 ――約九分後、自然消灯。


 ――発光開始約四分後、西壁小音一回。


 ――時間的近接あり。ただし関連不明。


 ――他表示、目視変化なし。


 最後の一行を書き終えた担当者が、小さく息を吐いた。


「また違う場所ですね」


「そうだな」


「増えてます?」


 もう一人が少し考えてから首を横へ振る。


「何が増えているのか分からない」


「光る場所?」


「それなら、観測した場所の種類は増えている。ただ、それを設備の状態が進んでいるって意味にするのは違うだろ」


「そうですね」


 統合盤は再び暗くなっていた。


 誰も近づかない。


 誰も隙間を覗き込もうとしない。


 暗くなったからといって、何かが終わったとも書かなかった。


     ◇


 朝。


 塔の寝室へ柔らかな日差しが差し込んでいた。


 アルが目を覚ますと、枕元の腕輪には夜間報告が届いていることを示す小さな表示が浮かんでいる。


 以前なら、そのまま開いていた。


 だが今日は一度だけ表示を見てから、寝台の上で身体を起こした。


「緊急?」


『緊急報告ではありません』


「じゃあ後で」


『承知しました』


 アルは伸びをする。


 窓の外には薄い雲が広がっているものの、雨は降っていない。


 寝室を出ると、廊下の先から食器の触れ合う音が聞こえた。


 食堂へ入れば、セリーが朝食を並べている。


「おはようございます」


「おはよう」


「夜間報告が届いております」


「知ってる」


「既に確認されましたか?」


「緊急じゃないって聞いただけ」


 セリーの手が止まった。


「どうしたの?」


「いえ」


「何?」


「少し驚きました」


「俺だって成長するよ」


「はい」


「疑ってる?」


「いいえ。今朝の主様が、起床直後に報告を開かなかったという事実をそのまま受け取っております」


「昨日の俺から判断しない?」


「参考にはいたします」


「そこはするんだ」


「昨日までの情報を全て捨てる必要はありませんので」


「それもそうか」


 アルは席へ座る。


 今日の朝食は野菜を煮込んだスープと、薄く焼かれた卵、それにパンだった。


「食べてから見る」


「はい」


「セリーはもう見た?」


「概要のみ」


「気になる?」


「気にはなります」


「すぐ行きたい?」


「いいえ」


「なんで?」


 セリーはスープの器をアルの前へ置く。


「現地にはガルム様たちがおります。緊急でもありません」


「うん」


「それに」


 そこで少し間があった。


「今は、主様と朝食を取りたいです」


 アルの手が止まった。


 ほんの一瞬だけ、セリーも視線を逸らす。


「……そっか」


「はい」


「俺も」


 それ以上の言葉はなかった。


 けれど、朝の静かな食堂の空気が、少しだけ変わったように感じた。


     ◇


 朝食を終えたあと、アルはセリーと一緒に夜間記録を開いた。


「今度は中央左下」


「はい」


「色は赤橙か橙」


「観察者間で判断が分かれています」


「九分くらい」


「はい」


「四分後に西壁音が一回」


「はい」


 アルは記録を最後まで読む。


「分けてるな」


「発光と西壁音を別事象として記録し、時間的近接のみ併記しています」


「いいと思う」


 昨夜までの発光位置を簡易図へ重ねる。


 右側。


 左側小窓。


 刻線奥。


 中央寄り。


 そして今回の中央左下。


 複数の場所で光が確認されている。


 だが、それぞれ色も継続時間も違う。


「これだけ見ると、盤全体が起き始めてるようにも見える」


 アルが言う。


「その可能性は否定できません」


「でも、そうじゃない可能性もある」


「はい」


「元々ずっと動いてて、今まで俺たちが見てなかっただけとか」


「あり得ます」


「設備ごとに別々に動いてるだけとか」


「あり得ます」


「故障表示とか」


「それも候補です」


「……候補、多いな」


「減らすために壊すことはできません」


「うん」


 アルは簡易図を閉じた。


「今日はどうする?」


「主様はどうなさりたいですか?」


 問い返され、アルは少し考えた。


「町へ行きたい」


「旧保養施設ではなく?」


「うん。昨日の会議の続きが気になる」


「承知しました」


「セリーは?」


「同行したいです」


「じゃあ一緒に行こう」


     ◇


 名前のない子供は、目を覚まして最初に卓を見た。


 木片がある。


 「みち」がある。


 「やすみ」がある。


 昨夜、自分で並べたままだ。


 子供は寝台から降り、裸足のまま卓へ近づいた。


 木片へ手を伸ばす。


 触れる。


 だが持ち上げない。


「……ある」


 小さく呟いた。


 ナディアが扉を軽く叩く。


「起きてる?」


「うん」


「入っていい?」


「うん」


 ナディアが入ると、子供は卓を指した。


「ある」


「あるね」


「だれも、とらなかった」


「うん」


「よるも?」


「私は取ってないし、他の人も触ってないよ」


「ずっと?」


「記録上、誰も触れてない」


 子供は木片を見る。


「ぼく、ねてた」


「うん」


「もってなかった」


「うん」


「でも、ぼくの?」


「今もあなたはそう思う?」


「うん」


「じゃあ、そう扱うよ」


「……そっか」


 子供は少し考え、木片から手を離した。


「きょう、これ、ここ」


「朝はここに置く?」


「うん」


「分かった」


「あとで、もつかも」


「うん」


「もたないかも」


「うん」


「きめなくていい?」


「今決める必要はないよ」


 子供は頷いた。


 そして「みち」の紙を手に取る。


「これは、もってく」


「朝食へ?」


「うん」


「分かった」


 ナディアは記録紙へ手を伸ばしかけて、止めた。


 子供がそれを見る。


「かかない?」


「必要なら書くけど、朝食へ紙を持っていくことまで毎回記録しなくてもいいかなって」


「なんで?」


「危ないことじゃないし、あなたの全部の行動を記録する必要はないから」


 子供は目を瞬いた。


「のこさない?」


「残したい?」


「……わかんない」


「じゃあ今は書かなくてもいいよ」


「あとで、かきたいっていったら?」


「その時に書ける」


「わすれたら?」


「忘れたことまで全部困るわけじゃないよ」


「でも」


 子供は「みち」の紙を胸の前で持つ。


「せんせい、いっぱい、かいた」


 ナディアの表情がわずかに変わる。


「先生が?」


「うん」


「何を書いたか覚えてる?」


「ぼくの」


「あなたのこと?」


「うん」


「どんなこと?」


 子供は眉を寄せた。


「……いっぱい」


「思い出すの、嫌?」


「ちょっと」


「じゃあ止めよう」


「いいの?」


「うん」


「でも、いった」


「『先生が自分のことをたくさん書いていた』って話してくれたことだけ残す?」


「……うん」


「内容は思い出したくない、も?」


「うん」


「分かった」


 ナディアは短く記録した。


 子供はそれを確認する。


「いっぱい、って?」


「そのまま書いたよ」


「なにを、ってない?」


「ないよ」


「よかった」


 子供は「みち」を持って朝食へ向かった。


 木片は卓に残った。


     ◇


 朝の旧保養施設資料室では、フェリクスが昨夜の発光記録を前に頭を抱えていた。


「触りたい」


 ガルムが顔を上げる。


「駄目だ」


「まだ何をとは言ってません」


「統合盤だろ」


「なぜ分かるんです?」


「顔」


「顔で研究対象を判断されるようになった」


「誇るな」


 リディアが資料の束を抱えて入ってくる。


「触らなくても、少し分かるかもしれませんよ」


 フェリクスが即座に顔を上げた。


「何です?」


「昨夜の発光位置に近い旧配置記録がありました」


「見せてください」


「座ったまま」


「座っています」


 リディアが机へ図面を広げる。


 紙の端は傷み、中央には何度も書き直された跡がある。


「統合盤への更新前、中央左下付近には二種類の補助表示が配置されていた時期があります」


「二種類?」


「一つは『記録保持確認』」


 ガルムが眉を寄せる。


「記録?」


「もう一つは『事後説明待ち』」


 部屋の空気が変わった。


 フェリクスが図面へ顔を近づけかけ、途中で自分から止まる。


「……事後説明」


「はい」


「どの制度の?」


「そこが問題です」


 リディアは別紙を出した。


「この図面単独では対象制度が分かりません。さらに、現在の統合盤へ更新された際、両方とも同じ位置に残ったとは限りません」


「じゃあ昨夜の光が『事後説明待ち』だとは言えない」


「言えません」


「記録保持確認とも言えない」


「はい」


 ガルムが腕を組む。


「でも、そういう表示が存在したこと自体は分かった」


「はい」


「何のためだ?」


 リディアは資料をめくる。


「記録保持確認については一部残っています」


 古い運用説明書。


 そこには、処置や移送などで本人の現在意思と異なる対応を行った場合、その理由と本人の拒否・保留記録を別々に保持し、後から照合できる状態を確認する、とあった。


 フェリクスの指が紙の上で止まる。


「これ……」


「読みます」


 リディアが静かに続ける。


「『緊急保護その他の理由により本人申告と異なる措置を行った場合、本人申告記録を上書きせず、措置理由記録と併存させること』」


 ガルムの目が細くなる。


「さらに?」


「『記録保持確認が成立しない場合、事後説明完了扱いとしてはならない』」


「二つ、繋がってるのか?」


「少なくとも、この運用文書上では関係しています」


「表示位置が近い理由もそれ?」


「可能性はあります。ただし断定できません」


 フェリクスが続きを追う。


「ここ」


 別の行を指す。


「『本人が事後説明を拒否した場合、説明拒否を本人申告として保持し、説明済扱いへ変更しない』」


 ガルムはしばらく黙った。


「拒否したら?」


「説明できなかったことを、そのまま残す」


「それで終わり?」


「次の本人申告があるまで待つ、という記載があります」


「毎日聞くな?」


「似た趣旨です。『再説明は本人申告または身体安全上必要な情報更新時に限る』」


 フェリクスが椅子へ深く座り直した。


「かなり丁寧ですね」


「ああ」


「少なくとも初期は」


 その一言で、全員の視線が別の資料へ向いた。


 後世の改訂。


 そこに何が起きたか。


「追います?」


 フェリクスが尋ねる。


 ガルムは少し考えた。


「追う。ただし今日は、これを今の子供に結び付けるな」


「分かっています」


「『先生が拒否を消した』って証言と似ててもだ」


「はい」


「こっちは一般制度の記録。あっちは本人の証言。別だ」


「はい」


 リディアも頷く。


「共有も設備・制度調査側だけにします」


「そうしてくれ」


     ◇


 町役場では、昨日の代表会議を受けて窓口担当者たちが集まっていた。


 アルとセリーが着いた時には、既に小さな会議が始まっている。


「だから『困った』を全部同じ箱に入れるのは駄目だって」


「なんで?」


「屋根の修理が遅いのと、今日食べる物がないのじゃ違うでしょ」


「じゃあ緊急と普通?」


「二つだけでいい?」


「三つにすると分かりにくくない?」


「でも診療所案件は?」


「それはイーダさんに回す?」


 アルは入口で立ち止まった。


 誰もこちらに気づいていない。


 セリーが小声で尋ねる。


「入られますか?」


「もうちょっと聞いてたい」


「承知しました」


 窓口担当の女性が紙へ何かを書きながら言う。


「そもそも、分類したせいで困ってる人を後回しにしたら意味ないよ」


「でも分類ないと回らない」


「分類は使う。でも、分類に合わないから駄目、にはしない」


 アルは思わず笑った。


 昨日まで話していたことを、もう彼ら自身の言葉で考えている。


「あとさ」


 若い職員が手を上げる。


「『困った』って言った本人に、毎回詳しく説明させるのも大変じゃない?」


「どういうこと?」


「昨日来たおばあさん、同じ話三回してたよ。受付変わるたびに」


「ああ……」


「記録を見れば分かるところは聞き直さない。でも、本人が変えたいなら変えられる」


「それいい」


「ただ、記録が間違ってたら?」


「本人に見せる?」


「読めない人は?」


「読む?」


「人前で?」


「それは嫌な人いるよね」


 また議論が始まる。


 アルはようやく中へ入った。


「おはよう」


 一斉に顔が上がる。


「いつからいたの?」


「ちょっと前」


「聞いてた?」


「うん」


「だったら早く入ってよ」


「面白かったから」


「何が?」


「俺いなくても話進んでる」


 女性職員が呆れたように笑う。


「そりゃ仕事だからね」


「うん」


 その当たり前が、嬉しかった。


     ◇


 話し合いは昼近くまで続いた。


 結論として、試行する仕組みは驚くほど単純なものになった。


 窓口で出た「困り事」は、本人の許可がある範囲で簡単に記録する。


 分類は担当者が探しやすくするために付けるが、分類に当てはまらないことを理由に受付を拒まない。


 同じ人が再度来た場合、以前の記録を本人の許可なく「現在も同じ」とは扱わない。ただし、一から全て説明させる必要もなく、以前の記録を確認したうえで「今はどうか」を必要な範囲だけ確かめる。


 本人が「今日は話したくない」と言った場合、それ自体を申請撤回とは扱わない。


 危険が差し迫る場合は安全確保を優先するが、その理由と本人の言葉を別々に残す。


 そして、窓口の仕組み自体に困り事が出た場合、その内容を集め、代表会議へ回す。


「完璧じゃないな」


 ハンスが完成した試行案を見て言った。


「うん」


 アルも答える。


「抜けあるだろ」


「あると思う」


「いいのか?」


「使ってみないと分からないこともあるし」


「お前、前より適当になった?」


「柔らかくなったって言って」


「似たようなもんだろ」


 マルタが笑う。


「三日試す?」


「一週間は?」


「長くない?」


「じゃあ五日」


「なんで真ん中なんだよ」


「別にいいでしょ」


 最終的に五日間の試行となった。


 五日後に必ず続けるわけでも、必ず変えるわけでもない。


 途中で危険や大きな不都合が出れば、その時点で止めてよい。


「止めたら失敗?」


 若い職員が尋ねた。


「問題が分かって止めたなら、失敗だけではないんじゃない?」


 アルが答える。


「じゃあ成功?」


「それも違う気がする」


「どっち?」


「試した結果?」


「便利な言葉だな」


「俺も今そう思った」


 会議室に笑いが起きた。


     ◇


 昼食後、名前のない子供は木片を持たずに庭へ出た。


 朝食には「みち」を持っていったが、それも今は部屋に戻してある。


 今日は何も持っていない。


 昨日の川を描いた子供が、また土をいじっている。


「きょう、かわ?」


「ちがう」


「なに?」


「いけ」


「いけ?」


「うん」


 土には丸い窪みが作られていた。


「みず、ない」


「あとでいれる」


「どこから?」


「もってくる」


「かわじゃない」


「いけ」


「そっか」


 名前のない子供も隣へしゃがむ。


 小さな枝で、池の横に線を一本引く。


「それなに?」


「まだ」


「みち?」


「ちがう」


「かわ?」


「ちがう」


「じゃあなに?」


「まだ」


「そっか」


 昨日なら、名前を考えたかもしれない。


 今日は考えない。


 ただ線だけがある。


 それでも困らなかった。


 しばらく遊んでいると、リディアが庭の端を通った。


 子供が顔を上げる。


「リディア」


「こんにちは」


「きのう、ひかった?」


 リディアは足を止めた。


「夜の設備?」


「うん」


「光った場所はあったよ」


「なにいろ?」


「見る人によって、橙色っぽく見えたり、赤っぽい橙に見えたりした」


 子供は眉を寄せる。


「ちがう?」


「二人が同じ光を見て、少し違う色に見えたみたい」


「どっち、ほんと?」


 昨日と似た問いだった。


 リディアは少し考える。


「二人とも、自分にはそう見えたって記録してる」


「まちがい?」


「どちらかが間違いだと決める材料は、今はないよ」


「おなじなのに?」


「同じものを見ても、違って見えることはあるから」


「ぼくも?」


「何が?」


「こわいと、こわくない」


 リディアはしゃがまず、子供との距離を保ったまま答えた。


「その話は、あなたが話していいと思う相手にだけ話してね」


 子供は少し驚いた顔をした。


 リディアは続ける。


「私は少し知ってるけど、今ここで詳しく聞かなくてもいいと思ってる」


「なんで?」


「庭で遊んでる途中だから」


 子供は自分の枝を見る。


「いま、あそんでる」


「うん」


「じゃあ、あと?」


「話したくなったら」


「わすれたら?」


「その時は、その時」


 子供はしばらく考え、また土へ線を引いた。


「じゃあ、いま、あそぶ」


「うん」


 リディアはそのまま歩き去った。


 名前のない子供は追いかけなかった。


     ◇


 夕方になってから、旧保養施設の資料室で新しい記録が見つかった。


 事後説明と記録保持に関する改訂履歴だった。


 フェリクスが読み、リディアが横で年代を確認する。


 ガルムは窓際に立っていた。


「初期規則」


 フェリクスが読み上げる。


「本人申告と異なる措置を行った場合、本人申告記録と措置理由記録を併存。事後説明未了時は未了状態を保持。本人が説明を拒否した場合、その拒否を保持し、説明済みへ変更しない」


「そこまでは朝見たな」


「はい。次の改訂です」


 紙を一枚めくる。


「約九年後。『事後説明の反復が本人負担となる場合、説明予定を一時保留し、本人状態安定後に再提示可』」


「それだけなら悪くない」


「はい」


「次」


「さらに六年後」


 フェリクスの声が少し低くなる。


「『長期保留時、担当者判断により説明実施困難として処理可』」


 ガルムの眉が動く。


「処理って?」


「別紙に定義があります」


 リディアが探し出す。


「『説明実施困難――本人状態、拒否継続、所在変更その他の理由により事後説明完了の見込み低しと判断されたもの』」


「拒否が入った」


「はい」


「最初は拒否したら未了のまま残した」


「はい」


「後は拒否が続くと『実施困難』にできる」


「そう読めます」


「さらに?」


 フェリクスが次の改訂を見る。


「あります」


 数年後。


 事後説明実施困難とされた記録について、一定期間経過後、管理者確認をもって閉鎖処理できる。


 ただし原記録は保存する、とある。


「原記録は残すのか」


 ガルムが言う。


「この段階では」


 フェリクスが答える。


「この段階では?」


「さらに後の保管規則で、閉鎖済み案件の詳細記録を要約記録へ統合できるようになっています」


「要約」


「はい」


「本人が何て言ったかは?」


「要約項目に必須ではありません」


 部屋が静かになる。


 リディアが古い紙へ視線を落とした。


「消してはいない」


「でも、見えにくくなる」


 フェリクスが言う。


「原記録が別保管へ移されれば、日常運用では要約だけを見る」


「そこに本人の拒否がなければ?」


「後の担当者には、説明が終わった案件に見える可能性があります」


 ガルムは長く息を吐いた。


「最初から誰かが『拒否を消そう』って作ったわけじゃない」


「少なくとも、今見つかっている資料だけではそうは読めません」


「負担を減らすために保留した」


「はい」


「長く保留された案件を整理するため『実施困難』を作った」


「はい」


「閉鎖できるようにした」


「はい」


「記録が増えすぎたから要約した」


「その可能性があります」


「結果として、拒否が普段見る記録から消える」


「……はい」


 ガルムは窓の外を見る。


 夕日が森の向こうへ落ちようとしていた。


「怖いな」


 誰も否定しなかった。


 悪意がなくても、削れていく。


 負担軽減。


 業務整理。


 保管効率。


 一つ一つには理由がある。


 それでも最後に残った形だけを見れば、本人の言葉が見えなくなることがある。


「アルに送る」


 ガルムが言った。


「ただし、子供の先生がこれを使ったとは書くな」


「もちろんです」


「制度の変化としてだけ」


「はい」


     ◇


 塔へ戻ったアルは、夕食後にその報告を受け取った。


 町で作ったばかりの試行案が、まだ机の端に置かれている。


 隣には旧制度の改訂履歴。


 セリーも一緒に読む。


「……似てるな」


 アルが呟いた。


「町の案と?」


「うん」


 困っている本人へ何度も同じ説明をさせない。


 過去の記録を使う。


 本人の負担を減らす。


 どれも今日、町で話したことだった。


「悪いことじゃない」


「はい」


「でも、そのまま何年も使われて、理由が抜けて、確認が省略されて……」


 アルは言葉を切る。


「俺たちが作ったものだって、こうなるかもしれない」


「可能性はあります」


 セリーは否定しなかった。


「じゃあ、作らない方がいい?」


「主様はそう思われますか?」


「思わない」


 答えはすぐに出た。


「今困ってる人がいるなら、今の仕組みは必要だと思う」


「はい」


「でも、正しい仕組みを作ったって安心するのは違う」


「はい」


「直せるようにするだけでも足りないのかな」


 セリーは少し考える。


「直した理由と、直す前に何を守ろうとしていたかも残す必要があるのかもしれません」


「……うん」


「さらに、それを読む方がいる必要もあります」


「残ってても読まれなきゃ意味ない」


「はい」


 アルは町の試行案を手に取る。


「五日後の見直しで、変更点だけじゃなくて、変えなかったところも理由聞こうかな」


「なぜ維持したか?」


「うん。それと、誰が困ったかだけじゃなく、誰が楽になったかも」


「良いと思います」


「でも、それもずっと続けると書類増えるよな」


「増えます」


「……難しい」


「はい」


「セリー、答えないの?」


「私にも正解は分かりません」


 アルは彼女を見る。


 セリーは穏やかな顔をしている。


「そっか」


「はい」


「分からないまま考える?」


「主様がお望みなら」


「セリーは?」


「私は」


 彼女は少しだけ間を置いた。


「一緒に考えたいです」


 アルの胸の奥が温かくなる。


「じゃあ、そうしよう」


     ◇


 その夜、名前のない子供は寝る前に卓へ戻った。


 木片。


 「みち」。


 「やすみ」。


 そして朝に描いた丸。


 さらに、まだ名前のない短い線。


 子供は一つずつ眺める。


「いっぱい」


 ナディアが笑う。


「増えたね」


「へらす?」


「減らしたい?」


「わかんない」


「じゃあ、今はそのままでもいいんじゃない?」


「せまい」


 確かに卓の半分近くを紙が使っている。


「別の場所へ置く?」


「どこ?」


「箱を用意するとか」


 子供の身体がわずかに強張った。


 ナディアはすぐに気づく。


「箱じゃなくてもいいよ」


「……うん」


「棚でもいいし、紙を重ねてもいい」


「かくれない?」


「隠したくない?」


「うん」


「じゃあ、見えるように置く方法を考えよう」


 子供は少し考えた。


「ここ、ひろくできる?」


「卓を?」


「うん」


「大きい卓に替える?」


「これ、なくなる?」


「今の卓?」


「うん」


「替えるなら別の場所へ移すことになるね」


 子供は卓へ手を置く。


「これは、いる」


「じゃあ替えない」


「でも、せまい」


「横に小さい台を置く?」


 子供は顔を上げる。


「となり?」


「うん。今の卓はそのまま」


「これ、うごかさない?」


「動かさなくて済むと思う」


「じゃあ、それ」


「明日用意してもらおうか?」


「うん」


「どれくらいの大きさ?」


 子供は両手を広げようとして、途中で止まる。


「……わかんない」


「じゃあ、明日いくつか見て選ぶ?」


「えらぶ?」


「うん」


「えらばないも?」


「もちろん」


「じゃあ、あした」


「うん」


 子供は卓の上をもう一度見る。


 増えたものを減らすのではなく、置く場所を増やす。


 残すために、形を変える。


「ナディア」


「うん?」


「せんせい、いっぱい、かいた」


「うん」


「いっぱいだから、へらした?」


 ナディアはすぐには答えなかった。


「それは、私は知らない」


「そっか」


「思い出した?」


「ちがう」


「考えた?」


「うん」


「じゃあ、『そう考えた』だけにしておこうか」


「うん」


 子供は木片へ触れる。


「ぼくの、いっぱい」


「うん」


「なくさない」


「全部?」


「……いまは」


「分かった」


 今日残したいものが、明日も同じとは限らない。


 けれど、明日変わるかもしれないからといって、今日のものを先に捨てる必要もない。


 ナディアは灯りを落とした。


 子供は寝台へ入る。


 卓の上は少し狭い。


 それでも、今夜はその狭さの中に全部が残っていた。


     ◇


 深夜。


 旧保養施設の監視は再び始まっていた。


 統合盤は暗い。


 細型金属片は動かない。


 左側小窓も、中央左下の隙間も光っていない。


 西壁から音もない。


 午前零時。


 変化なし。


 午前一時。


 変化なし。


 午前二時。


 変化なし。


 担当者はその都度、記録へ残した。


 何も起きていないことも消さない。


 起きたことだけを並べれば、設備が毎晩何かを続けているように見えるかもしれない。


 だから、静かな時間も同じ紙の上に置く。


 変化があった夜と、なかった夜。


 光った場所と、光らなかった場所。


 聞こえた音と、聞こえなかった音。


 そのどれか一つだけを選び、都合のよい形へ整えないために。


 古い制度の記録が教えたのは、答えではなかった。


 残しているつもりでも、残し方によっては見えなくなる。


 守るために作った仕組みも、理由を失えば別のものへ変わる。


 ならば今できることは、完璧な仕組みを作ることではない。


 変わった時に、その変化へ気づけるだけのものを残しておくことだった。

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