第93話 残っているもの、変わったもの
夜明け前に届いた旧保養施設からの報告を、アルが確認したのは朝食の席だった。
塔の食堂には焼きたてのパンと温かなスープの香りが漂い、窓の向こうでは朝露をまとった庭木が淡い光を受けている。昨夜はよく眠れたらしく、頭は普段よりすっきりしていたが、腕輪の上に表示された記録を読み始めると、アルの手はパンへ伸びる途中で止まった。
午前三時二十七分。
統合盤左側の古い小窓に、薄い黄白色の発光。
約十五分継続したのち、自然消灯。
細型金属片に位置変化なし。
その下の刻線奥に発光なし。
地下振動なし。西壁音なし。旧線に目視可能な変化なし。
生活区画にも確認可能な異常なし。
「……今度は黄色っぽいのか」
アルが呟くと、向かいではなく隣に座っていたセリーがカップを置いた。
「昨夜とは異なる場所ですね」
「うん。色も違う」
「時間も異なります」
「十五分」
そこでアルは言葉を止めた。
数えること自体は悪くない。設備の発光時間を正確に残すのは必要なことだ。
問題は、その十五分という数字に意味を与えることだった。
(昨日が九分で、今日は十五分。だから何かが進んだ――なんて言えない)
場所が違う。
色も違う。
そもそも同じ系統なのか分からない。
「エル。夜間担当は、この二つを関連現象としてまとめてないよね?」
『はい。前夜の事象は「刻線奥青白色発光」、昨夜の事象は「左側小窓黄白色発光」として別記録です』
「よかった」
『なお、発生順序を示す通し番号も付与しておりません』
アルは少し驚いて腕輪を見る。
「そこまで?」
『名前不明の子供が「数えられること」へ不安を示している事情とは別に、設備調査上も発生順序のみで一連の過程と誤認する可能性を避けるためです。日時は各記録へ保持されています』
「日時があれば、後から順番は確認できるもんな」
『はい』
「じゃあ、それで」
アルは腕輪の表示を閉じ、止まっていた手をパンへ伸ばした。
そこでセリーの視線に気づく。
「何?」
「食事を続けられるようになりましたね」
「前も食べてたよ」
「以前でしたら、今の報告を受けた時点でパンを置かれていた可能性があります」
「……そんなに?」
「はい」
「行くって言って?」
「はい」
「朝食途中で?」
「はい」
即答が三度続き、アルは苦笑した。
「信用ないなあ」
「過去の実績に基づく評価です」
「昨日までの記録で今日を決めるの?」
何気なく返した言葉に、セリーが瞬きをした。
アルも自分で気づいた。
「あ」
「主様」
「いや、責めてないよ」
「承知しております」
「でも今の、ちょっと面白いな」
「何がでしょう」
「過去の実績は参考になる。でも、今日も絶対そうするって決める材料にはならない」
セリーはしばらくアルを見つめ、それからほんの少し口元を緩めた。
「では、本日の主様は朝食を最後まで召し上がる方として扱います」
「そうして」
「ただし、明日は未定です」
「俺、明日そんなに信用ない?」
「明日の主様は明日の主様ですので」
「便利な使い方覚えたな」
セリーの表情が少しだけ楽しそうになった。
アルはパンをちぎり、スープへ浸す。
設備は昨夜も光った。
けれど朝食は朝食だった。
それを途中で投げ出さなくても、旧保養施設にはガルムもリディアもフェリクスもいる。
朝の時間まで謎へ差し出す必要はない。
◇
旧保養施設では、リディアが日の出直後から昨夜の記録を整理していた。
中央棟の窓から入る朝日は、古びた統合盤の表面へ斜めに差し込んでいる。昨夜発光した小窓は今では何の光も持たず、周囲の金属と同じように鈍い色を返していた。
問題の細型金属片も、前日から約三・二ミリ下がった位置を保っている。
その下の刻線も、増えても減ってもいない。
ガルムは少し離れた机で夜間担当の原記録を読み、フェリクスは別冊二と別の補修台帳を見比べていた。
「小窓の形状、旧図面と合うものは?」
ガルムが尋ねる。
「候補が三つあります」
リディアが答えた。
「三つも?」
「現在の盤が統合後に少なくとも一度改修されていますので」
「候補が減らんな」
「無理に減らすよりはよいかと」
「それはそうだ」
フェリクスが一冊の台帳から顔を上げる。
「その三つ、何です?」
「旧受所確認系統の補助表示、身体状態監視補助の副窓、それから管理要求受付増設後に追加された転送確認窓です」
「転送確認?」
フェリクスの声が少し高くなる。
ガルムがすぐに見る。
「座ってろ」
「立っていません」
「気持ちが立った」
「気持ちまで監視されるのですか」
「お前はされろ」
リディアが笑いをこらえながら、転写した記録を二人の前へ置いた。
「管理要求受付の増設からさらに数年後の補修記録です。『中央受付後、原系統への転送状態確認を補助窓にて表示』とあります」
「色は?」
「記載なし」
「位置は?」
「旧図では左寄りです。ただし――」
「今の左側と同じとは限らない」
フェリクスが自分から続けた。
「はい」
「分かっています」
「先に言えるようになったな」
ガルムが感心したように言う。
「学習しますから」
フェリクスは補修記録へ視線を戻した。
「もし昨夜の黄白色小窓が転送確認窓だった場合――」
「仮に、だぞ」
「はい。仮にそうだった場合でも、何が転送されたのかは分からない」
「要求主体も分からない」
「要求内容も分からない」
「対象区画も分からない」
リディアが続ける。
「さらに、転送状態を示す光だったのかどうかも分かりません」
フェリクスが息を吐いた。
「見事に分かりませんね」
「嬉しそうだな」
「候補が整理されるのは嬉しいです」
「減ってないぞ」
「増え方が整理されています」
「研究者って面倒だな」
「最高の褒め言葉です」
ガルムは返事を諦め、記録へ目を落とした。
しばらくして、ある行で指が止まる。
「これ」
「どこです?」
「転送確認窓の補修理由」
リディアが覗き込む。
古い文字は一部が掠れていたが、読める部分は残っていた。
「『受付表示と転送表示の混同報告あり』」
フェリクスの顔から笑みが消えた。
「続きは?」
「『色別のみでは夜間判別困難。識別票および配置間隔を変更』」
「配置間隔」
「はい」
リディアは現在の統合盤を見る。
「もしかすると、細型識別票への交換や配置余地確保は、単に表示が増えたからだけではなかった可能性があります」
「人が見間違えたから?」
「可能性です」
「だから札を細くして間隔を取った?」
「それも候補です」
ガルムは腕を組んだ。
「昔の連中も混同したのか」
「そう読めます」
フェリクスが静かに答えた。
「少なくとも、当時の担当者が『受付』と『転送』を間違えた事例はあった」
「それで改修した」
「はい」
「なのに今は識別票が欠けてる」
ガルムの声が低くなる。
「見分けるために付けたものが、今はない」
誰もすぐには返事をしなかった。
窓から入った朝の光が、統合盤の古い傷を浮かび上がらせている。
設備は残っている。
だが、設備を正しく読むために後から加えられた工夫の一部は失われている。
「これなら」
フェリクスがゆっくり言う。
「現物だけ見て意味を判断するのは、当時より難しい可能性がありますね」
「そうだな」
「当時の人間ですら間違えて、識別方法を変えたのですから」
「今の俺たちが色と場所だけで当てられると思うな、ってことか」
「はい」
ガルムは統合盤を見つめたあと、はっきり告げた。
「なら、なおさら触らない。表示が出ても、名前を付けるのは資料と照合できてからだ」
「賛成です」
「私もです」
その判断はすぐに夜間担当へも共有された。
◇
名前のない子供は、朝食へ向かう前に布鞄を手に取った。
寝台の横に置かれていた鞄を持ち上げ、肩へ掛ける。
そこで一度、顔をしかめた。
ナディアは扉の近くにいたが、何も言わない。
子供は肩紐を少し動かし、それから鞄を下ろした。
「おもい」
「うん」
「きょう、もとうとした」
「うん」
「でも、おもい」
「うん」
子供は鞄を見下ろす。
「じゃあ」
少し考える。
「あとで」
「分かった」
「もとうとしたの、のこす?」
ナディアは尋ね返す。
「残したい?」
「……うん」
「どうして?」
「もたなかっただけだと」
子供は言葉を探す。
「ちがう」
「持たなかったけど、持とうとはした?」
「うん」
「じゃあ、そのまま残そうか」
「うん」
ナディアは小さな記録紙へ書く。
――朝、本人が自発的に鞄を持とうとした。肩へ掛けた後、「重い」と述べ、自ら下ろす。「あとで」と発言。
子供が横から覗き込む。
「もてなかった?」
「そうは書いてないよ」
「なんで?」
「あなたは『持てない』とは言ってないから」
「おもい、っていった」
「うん」
「おもいと、もてない、ちがう?」
「違うこともあると思う」
「ぼく、もてる」
「うん」
「でも、おもい」
「うん」
「だから、いま、もたない」
「分かった」
子供は少し満足したように頷いた。
そして布鞄を寝台脇へ戻し、朝食へ向かった。
◇
食堂でパンを食べている途中、昨夜一緒に土へ川を描いた子供が隣へ座った。
「かわ、きえた」
「なんで?」
「あさ、あめ」
「雨ふった?」
「ちょっと」
名前のない子供は窓の外を見る。
地面にはまだ薄く湿った部分があり、庭の土はところどころ色が濃い。
「みず、きたのに?」
「うん」
「かわ、きえた?」
「線が」
「じゃあ、かわじゃない?」
「かわ」
「なんで?」
「きのう、かわだったから」
「いま、ない」
「でも、きのうあった」
名前のない子供はパンを持ったまま考える。
「なくなっても?」
「うん」
「きのうの、かわ?」
「うん」
「きょうは?」
「またつくる」
「おなじ?」
「わかんない」
「じゃあ、ちがう?」
「わかんない」
二人とも黙る。
少しして、名前のない子供が笑った。
「わかんない、おおい」
「うん」
それで話は終わった。
食事のあと、二人は庭へ出た。
昨日の川は、夜の小雨と朝露でほとんど消えていた。わずかに線の跡らしい窪みが残っているだけで、知らなければそこに川が描かれていたとは気づかないだろう。
「ここ」
昨日描いた子供が指す。
「ほんと?」
「うん」
「みえない」
「ちょっとある」
名前のない子供はしゃがみ込み、指で土へ触れた。
薄い窪みがある。
「のこってる」
「うん」
「でも、かわ、ない」
「またかく」
「きのうの、つづき?」
「どっちでもいい」
「どっち?」
「ここからかいてもいいし、ちがうとこでもいい」
「……そっか」
名前のない子供は、自分の部屋にある「みち」を思い出した。
道は紙の上に残っている。
休みも残っている。
でも、使わない日もある。
木片も自分の物だが、持たない時がある。
「きえたら」
子供が呟く。
「なに?」
「きえたら、おわり?」
「かわ?」
「うん」
「またかく」
「じゃあ、おわっても、また?」
「うん」
子供はしばらく湿った土を見つめていた。
「……そっか」
◇
朝食を終えたアルのもとへ、ガルムから新しい資料が届いた。
アルは塔の小部屋でそれを読み、途中からアンナマリーとブラートも加わった。
「受付表示と転送表示の混同」
アンナマリーが該当箇所を読み上げる。
「当時から起きていたのですね」
「だから識別票と配置間隔を変えたらしい」
アルが答える。
「今はその識別票が欠けてる」
「全部ではありませんが、少なくとも一部は」
「それなら現物だけから判断するのは危険ですね」
ブラートが資料を受け取る。
「色も頼れない?」
「夜間は色別だけでは判別困難だったって」
「なるほど」
ブラートは椅子の背へ少し身体を預けた。
「面白いという言い方は不謹慎かもしれませんが、制度の記録と似ていますね」
「どういう意味?」
「元々、間違いを減らすために仕組みを増やしたのでしょう」
ブラートは資料の一行を指す。
「受付と転送を混同した。だから識別票を変え、配置を離した。ところが時間が経ち、識別票が欠けた。そうなると、後の人間にはなぜ配置がそうなっているのか分からない」
「……うん」
「制度も同じです。本人へ何度も確認する負担を減らすため確認間隔を延ばした。その時は『前回の意思を将来へ固定しない』という注意も一緒にあった。しかし、後に注意だけが薄れ、『変更申出がなければ継続』という運用が残った」
アンナマリーが頷く。
「目的を知らずに形だけ残る」
「あるいは、形の一部だけが残る」
アルは二つの資料を見比べた。
一つは設備。
一つは制度。
どちらも、最初から悪く作られたとは限らない。
むしろ何かを守ろうとして追加された仕組みがあった。
それが長い時間の中で一部を失い、別の意味に使われる。
(じゃあ、今俺たちが作ってる仕組みだって同じかもしれない)
考えた瞬間、背筋に少し冷たいものが走った。
「アンナマリー」
「はい」
「町へ渡す案に、理由も残した方がいい」
「理由?」
「確認を毎日しない、だけじゃなくて。なんでそうするのか」
アンナマリーの目が少し大きくなる。
「本人の負担を減らすため。ただし、変更する機会を失わせないため」
「うん。それを規則と一緒に残す」
「将来、回数だけが残らないように?」
「そう」
ブラートがゆっくり頷いた。
「良いと思います。ただし、理由を書けば永遠に守られるわけではありません」
「分かってる」
「解釈は変わります。文章も一部だけ引用されるかもしれない」
「うん」
「それでも?」
「何も残さないよりはいい。それと、一つの文章だけで守ろうとしない」
「と言いますと?」
「町の人が、変だと思った時に変えられるようにする」
アルは少し考えてから続けた。
「規則を守ることより、何のための規則だったかを聞き直せる仕組みを作る」
アンナマリーはすぐには答えなかった。
机の上の古い記録へ視線を落とす。
「定期的な見直し?」
「それも。でも、定期日まで待たなくていい。使ってる人が『これ、困る』って言ったら、その時に検討できる」
「なるほど」
「ただし、誰か一人の判断だけで全部変えない」
「代表会議と窓口担当、利用者側の意見も入れる?」
「できれば」
ブラートが笑う。
「殿下らしくなくなりましたね」
「もう殿下じゃない」
「失礼。では、アルらしくなりましたね」
「どういう意味?」
「以前なら、ご自分が将来まで壊れない制度を作ろうとしたでしょう」
アルは反論しかけて、止まった。
(たぶん、そうだ)
完璧な制度を作ればいい。
正しい規則を残せばいい。
王太子だった頃なら、本気でそう考えていたかもしれない。
「今は?」
アルが尋ねる。
「壊れるかもしれない前提で、直せるようにしようとしている」
ブラートの答えに、アルはしばらく黙った。
「そっちの方がいい?」
「私はそう思います」
アンナマリーも静かに頷く。
「私もです」
「じゃあ、町へ持っていこう」
「はい。ただし」
「何?」
「代表会議が『そこまで複雑にしたくない』と言う可能性もあります」
「その時は話し合えばいい」
「アルフォンス様の案だから採用、にはしませんよ?」
「しないで」
アルは笑った。
「むしろ反対されたら理由聞きたい」
◇
昼前、名前のない子供は自分の部屋へ戻った。
布鞄は朝と同じ場所にある。
今度は肩へ掛けず、床に座って鞄を開いた。
中から木片を取り出す。
表には「帰」「還」。
裏には三重の四角と斜線。
子供はしばらく眺めてから、木片を両手で持った。
ナディアは入口近くで別の作業をしている。
「ナディア」
「うん?」
「これ」
「木の札?」
「うん」
「どうしたの?」
「もつ」
「今から?」
「うん」
「分かった」
ナディアはそれだけ答えた。
子供は木片を布鞄へ戻そうとして、手を止める。
「これだけ」
「鞄は持たない?」
「おもい」
「じゃあ木片だけ?」
「うん」
子供は木片を手にしたまま立ち上がった。
数歩歩く。
それから振り返る。
「いい?」
「何が?」
「ふくろ、なくても」
「あなたがそうしたいなら」
「せんせい、ふくろにいれた」
ナディアの動きが止まる。
だが、すぐに質問はしなかった。
子供は木片を見る。
「これ、ふくろに」
「先生が入れた?」
「……うん」
「思い出した?」
子供は少し考える。
「たぶん」
「『たぶん』?」
「うん」
「じゃあ、そう残す?」
「うん」
ナディアは記録紙を取る。
「先生が木片を鞄に入れたと思う。本人は『たぶん』と表現、でいい?」
「うん」
「鞄に入れた理由は?」
「わかんない」
「聞かないでおく?」
「うん」
「分かった」
記録を終える。
子供は木片だけを持って部屋を出ようとした。
しかし扉のところで、また止まる。
「ふくろなくても」
「うん」
「これ、ぼくの?」
「あなたはどう思う?」
「ぼくの」
「じゃあ、今はそう扱うよ」
「せんせい、ふくろにいれたのに?」
「先生がどうしたかと、今あなたがどう持ちたいかは別に考えていいと思う」
子供は木片を胸の前で持つ。
「じゃあ、これだけ」
「うん」
今度こそ廊下へ出た。
庭へ向かう途中、木片を右手から左手へ持ち替える。
それから胸へ抱える。
誰も「正しい持ち方」を教えなかった。
◇
庭では、朝の二人が新しい川を描いていた。
昨日とは違う場所だった。
名前のない子供は木片を持ったまま近づく。
「ここ?」
「きょうのかわ」
「きのうと、ちがう」
「うん」
「きのうの、かわは?」
「あっち」
薄く跡の残った土を指す。
「ふたつ?」
「きょうはこっちだけ」
「でも、きのうもあった」
「うん」
名前のない子供はしゃがもうとして、木片が邪魔になることに気づいた。
右手に持つ。
左手で土へ触ろうとする。
やりにくい。
「おく?」
隣の子供が尋ねた。
名前のない子供は木片を見る。
地面を見る。
「……ここ」
近くの平たい石の上へ置く。
手を離す。
一瞬だけ緊張したように木片を見つめたが、何も起きない。
誰も取らない。
「おいた」
「うん」
「ぼくの」
「うん」
「でも、おいた」
「うん」
名前のない子供は少し笑った。
両手が空く。
枝を拾い、川の横へ別の線を描き始めた。
木片は石の上にある。
手に持っていなくても、消えない。
鞄に入っていなくても、そこにある。
しばらく遊んだあと、子供は自分から木片を取り戻した。
「もう?」
「もつ」
「なんで?」
「いま、もつ」
「そっか」
理由はそれだけだった。
◇
午後、フェリクスが識別票の形状に関する記録を見つけた。
旧保養施設の中央棟資料室には、昼を過ぎても乾いた紙の匂いがこもっている。窓は開けられていたが、風は弱く、頁をめくる音だけがやけに大きく聞こえた。
「ありました」
フェリクスの声に、ガルムが露骨に嫌そうな顔をする。
「その言い方するとろくなことないんだよ」
「今回は紙です」
「昨日も紙だっただろ」
「大丈夫です。触ってよい紙です」
「当たり前だ」
リディアも席を寄せる。
フェリクスが示したのは、統合盤の部品交換一覧だった。
「管理要求受付票。新票寸法、縦四・八センチ、幅〇・九センチ」
「細いな」
「はい。材質は銀混合青銅。表面に識別文字一字。下部固定爪二箇所」
リディアが現在の細型金属片を遠目に確認する。
「現物は露出している部分だけで縦寸法を測れません」
「幅は?」
「非接触画像から推定で約〇・八から一・〇センチ」
「範囲には入る」
ガルムが先に釘を刺す。
「それだけだな」
「はい」
フェリクスは素直に頷く。
「材質は?」
「非接触観測では銅系合金の可能性があります。ただし表面劣化が強く、銀混合の有無は分かりません」
「固定爪は見えない」
「はい」
「文字も一部しか見えない」
「はい」
「なら候補止まり」
「その通りです」
ガルムが逆に戸惑った顔をした。
「今日は素直だな」
「いつも素直です」
「それは違う」
リディアが資料の続きを見る。
「交換後の配置図もあります」
「位置は?」
「左側。ただし現在の改修前です」
「また左」
ガルムが眉を寄せる。
「候補は少し強くなるか?」
「形状、当時位置、交換理由の三点は合います」
リディアは慎重に答える。
「ただし、その後に盤面再配置があるため、現在の細型金属片が同一部品かは確定できません」
「発光したのは札そのものじゃない」
「はい。札の下の刻線奥です」
「なら、仮に札が『要』でも、昨夜の青白い光の意味までは分からない」
「その通りです」
フェリクスは記録へ一行加える。
――現細型金属片、管理要求受付新票との形状類似あり。位置履歴に一部整合。ただし同定不可。
それだけだった。
文字を読みたくても動かさない。
材質を知りたくても削らない。
固定爪を見たくても持ち上げない。
分かることだけを増やし、分からない部分は残す。
◇
夕方、アルは町役場へ足を運んだ。
代表会議へ持ち込む資料をアンナマリーと一緒に渡すためだった。
役場前には荷車が一台停まり、窓口には数人の住民が並んでいる。以前のような重苦しい沈黙は薄れ、待っている者同士が小声で話す姿も見られた。
アルが入っても、全員が一斉に立ち上がることはない。
軽く会釈する者がいる程度だ。
それがアルには心地よかった。
「昨日の人、来たよ」
窓口担当の女性がアルへ声をかける。
「昨日の?」
「途中で疲れて帰った人」
「ああ」
「今日は午前だけ働けそうって言ってた人ね」
「どうだった?」
「昼前にまた来て、『やっぱり今日は働かない』って」
アルは少し驚いた。
「記録は?」
「昨日の『働けない』、今朝の『午前だけなら働けるかも』、昼前の『今日は働かない』。三つ残してる」
「どれを今の状態に?」
「最後の」
「前の二つは?」
「消してない」
「理由は?」
「本人が『朝は本当にそう思ってた』って言ったから」
女性は何でもないことのように答えた。
「あと、『嘘ついたと思われる?』って心配してたから、別に嘘じゃないでしょって」
アルはしばらく返事ができなかった。
「アル?」
「あ、ごめん」
「なんかまずかった?」
「逆。すごくいいと思う」
「ならよかった」
女性は笑って窓口へ戻る。
アンナマリーが隣で静かに言った。
「先ほど作った案、もう一部は実践されていますね」
「うん」
「どうします?」
「そのまま持ってく」
「必要ないとは?」
「思わない。今やってることを、なんでそうしてるか話す材料になる」
「なるほど」
「それで、現場の方がいいやり方知ってたら、そっち使えばいい」
アンナマリーは小さく頷いた。
アルは窓口の向こうを見る。
自分がいないところで、人が考えている。
自分が命令しなくても、昨日と今日を別々に残している。
そのことが、以前ほど寂しくない。
(俺がいなくても、ちゃんと変わっていく)
胸の奥にわずかな空白はある。
けれど、その空白へ無理に自分を押し込もうとは思わなかった。
◇
代表会議では、案をそのまま採用することにはならなかった。
「定期見直しはいいけどよ」
肉屋のハンスが腕を組む。
「利用者から『困る』って言われるたび会議開くのは無理だぞ」
「俺もそう思う」
アルが答える。
ハンスが拍子抜けした顔をする。
「お前の案じゃねえの?」
「案だよ」
「反対しねえの?」
「なんで?」
「いや……」
隣でマルタが笑った。
「王子様の案に逆らったら牢屋行き、みたいなの期待してた?」
「誰がだ!」
「声大きい」
「お前が変なこと言うからだろ!」
小さな笑いが会議室へ広がる。
アルも笑った。
「毎回会議じゃなくていいなら、どうする?」
日雇いのエドが手を上げる。
「窓口で『困った』って言われたのを、一旦ためるのは?」
「ためる?」
「名前じゃなくて内容だけ。似た困り事が何件か出たら代表に回す」
診療所のイーダが首を傾げる。
「一件でも危ない内容だったら?」
「それはすぐ?」
「誰が危ないって決める?」
今度はベンノが口を挟む。
「窓口一人じゃ重いだろ。二人で確認したら?」
「二人いない時間もある」
「じゃあ診療所か代表の誰かに連絡?」
「夜は?」
「夜まで窓口開いてないだろ」
「あ、そっか」
話が行きつ戻りつする。
アルは口を挟まず聞いていた。
最初に考えた形から、どんどん変わっていく。
だが、不快ではない。
むしろ、町で実際に使える形へ近づいている。
最終的に、その日の会議では結論を出さなかった。
窓口担当者にも意見を聞き、数日試せる簡単な方法を作ってからもう一度話すことになった。
「決まらなかったな」
会議後、ハンスが言う。
「うん」
「いいのか?」
「今日決めなきゃ困る?」
「いや」
「じゃあ次でいいんじゃない?」
「お前、王子っぽくねえな」
「元だから」
「そういう問題か?」
アルは笑って役場を出た。
◇
塔へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
セリーが夕食後の茶を用意している。
「本日は休まれますか?」
「その聞き方、ちょっと義務っぽい」
セリーの手が止まった。
「確かに」
「俺も昨日まで気づかなかったけど」
「では、言い直します」
「うん」
「今、何をなさりたいですか?」
アルは少し考えた。
「お茶飲みたい」
「それは既に用意しております」
「じゃあ、飲みながら何もしない」
「承知しました」
「セリーは?」
「私は……」
彼女は一度、作業棚を見る。
そこには昼間途中で止めた整備道具が置かれている。
「今日は整備を続けたい気持ちもあります」
「じゃあやる?」
「ですが、アルとお茶も飲みたいです」
「両方したら?」
「両方?」
「お茶飲んでから整備」
セリーは瞬きをする。
「どちらか一つを選ばなくてもよいのですね」
「時間あるし」
「では、そうします」
二人で窓際へ座った。
今夜も隣だった。
カップから上がる湯気が、窓に映る灯りを少し揺らしている。
「今日、町で俺の案に反対された」
「それは良かったですね」
「普通そこ、慰めない?」
「主様が望まれていたことでしょう?」
「まあね」
「でしたら良いことです」
「セリーも反対する?」
「内容によります」
「例えば?」
「今から資料を読む、と仰った場合」
「反対されそう」
「強く」
「じゃあ言わない」
「賢明です」
アルは笑い、茶を飲む。
しばらく二人とも話さなかった。
沈黙は以前ほど気まずくない。
何かを話さなければならない時間でもない。
窓の外では塔の庭が暗闇に沈み、風に揺れる葉の音だけが聞こえている。
アルの手は椅子の上に置かれていた。
隣のセリーの手も近い。
指先同士の距離は、ほんのわずかだった。
前なら意識した瞬間に離していたかもしれない。
今日は、そのままにした。
セリーも動かさない。
触れてはいない。
それでもアルは、妙に落ち着いた。
◇
同じ頃。
旧保養施設の名前のない子供は、寝る前に木片を布鞄へ戻そうとしていた。
手が途中で止まる。
「……きょう」
ナディアが振り向く。
「どうしたの?」
「ふくろに、いれなくてもいい?」
「あなたがそうしたいなら」
「ここ」
子供は卓の上を指した。
「置く?」
「うん」
「分かった」
木片を卓へ置く。
「みち」と「やすみ」の横だった。
子供は三つを見比べる。
「これ、せんせい、ふくろにいれた」
「たぶん、って言ってたね」
「うん」
「今も『たぶん』?」
子供は少し考える。
「……うん」
「分かった」
「でも、ぼく、ここにおく」
「うん」
「せんせいと、ちがう?」
「持ち方は違うね」
「だめ?」
「今のところ、危険は確認されてないよ」
「じゃあ、ここ」
「うん」
子供は木片から手を離した。
寝台へ入る。
灯りを少し暗くしてもらい、布団を胸まで引き上げる。
「ナディア」
「うん?」
「きのうの、ひかり」
「うん」
「きょうも、ひかった?」
ナディアは少しだけ考えた。
昨夜の黄白色発光を伝える必要があるか。
子供は自分から尋ねている。
「夜に、別の場所が少し光ったよ」
「べつ?」
「前に聞いた場所とは違うところ」
「なんこ?」
また同じ問いが出る。
子供は自分で口を押さえた。
しばらく黙る。
「……きかない」
「うん」
「いろ?」
「それは聞きたい?」
「うん」
「薄い黄色っぽい光」
「まえは?」
「青白い光」
「ちがう」
「そうだね。少なくとも見え方は違った」
「どっちが、ほんと?」
ナディアは少し驚いた。
「どっちも光ったよ」
「でも、ちがう」
「違う光だったのかもしれないし、同じ設備の違う見え方かもしれない。まだ分からない」
「どっちか、まちがいじゃない?」
「今のところは、どちらも観察した人が見たこととして残してる」
子供は天井を見つめる。
「こわいと、こわくない、みたい」
ナディアの呼吸が一瞬止まった。
だが、続きを促さない。
子供が自分から話すのを待つ。
「ぼく、こわいっていった」
「うん」
「こわくないも、いった」
「うん」
「せんせい、さいごがほんとって」
「そう話してくれたね」
「でも」
子供は布団の端を握る。
「ひかり、ふたつ、のこる?」
「設備の記録では、どちらも残ってるよ」
「じゃあ」
長い沈黙があった。
「ぼくも、ふたつ、のこる?」
ナディアはゆっくり椅子へ座った。
「残してるよ」
「こわいと」
「うん」
「こわくない」
「うん」
「どっちも?」
「どっちも」
子供の手から、少し力が抜けた。
「あとで、ちがうってなっても?」
「その時は、『あとで違うと思った』ことも残せる」
「いっぱい」
「増えるね」
「たいへん」
「そうだね」
「でも」
子供は目を閉じる。
「けさない」
「うん」
その声は、もう眠りへ近づいていた。
「ナディア」
「なに?」
「きょう、これ、ここ」
目を閉じたまま、卓の木片を指すように手を少し動かす。
「木の札?」
「うん」
「分かった。触らないよ」
「……うん」
やがて呼吸がゆっくりになる。
ナディアは灯りをさらに落とした。
卓の上には、「帰」「還」と刻まれた木片がある。
その隣には「みち」。
そして「やすみ」。
先生に持たされたものと、自分で作ったものが、今夜は同じ卓の上に並んでいた。
どれか一つが、他を消すことはない。
過去に持たされたものがあるからといって、今自分で作った道が偽物になるわけでもない。
今日持ったことも、置いたことも、どちらか一方だけを正しいことにする必要はなかった。
中央棟では、今夜も監視が始まっている。
青白い光が出るのか。
黄白い光が出るのか。
何も起こらないのか。
まだ誰にも分からない。
けれど少なくとも、この部屋では一つのことが残った。
違うものが並んでいても、どちらかを消さなくていい。
その小さな理解を抱いたまま、子供は静かに眠っていた。




