第92話 同じ一文字でも
白鴉療養所へ着いた頃には、午後の日差しが西へ傾き始めていた。
山の斜面に沿って建つ古い建物の窓には橙色を帯びた光が差し込み、廊下を歩く人々の影を長く床へ伸ばしている。薬草園からは乾いた葉と土の匂いが風に乗って届き、遠くでは誰かが水桶を動かす音がしていた。
アルは転移地点から療養棟へ向かいながら、一度だけ振り返った。
旧保養施設で聞いた子供の言葉が、まだ頭の中に残っている。
――『要』だったら?
意味を尋ねた本人が、その言葉を口にしたことすら覚えていなかった。
(気になる。でも、気になるからって答えを急いだら、また同じことになる)
別冊二に記されていた管理要求受付の識別文字も「要」だった。
偶然ではないと考えたくなる。
けれど、古い施設で一文字の略号が重複することなど珍しくないかもしれない。そもそも子供が口にした「よう」が、文字としての「要」を意味していたのかさえ確定していない。
アルがそう考えていると、隣を歩くセリーがこちらを見た。
「まだ考えておられますね」
「顔に出てた?」
「歩幅が少し狭くなっています」
「そこまで分かる?」
「長く見ておりますので」
「便利なような、逃げ場がないような」
「逃げたいのですか?」
「今は別に」
そう答えると、セリーはそれ以上追及しなかった。
二人の間には、旧保養施設からここまで続いている小さな距離がある。手を伸ばせば触れられるほど近いが、どちらも触れようとはしない。
アルはその距離を意識している自分に気づき、前を向いた。
(設備のこと考えてたはずなのに)
少しだけ可笑しくなった。
重いことばかりを考え続けなくてもいい。
それも最近ようやく分かってきたことだった。
◇
保存されていた少年は、窓際の椅子に座っていた。
歩行練習を終えたばかりらしく、膝には薄い布が掛けられ、傍らの小卓には水と小さく切られた白いパンが置かれている。頬にはわずかに運動後の赤みが残っていたが、呼吸は落ち着いていた。
ヨアヒムは少年の脚を確認し終えると、アルへ手招きした。
「今日は一周で本人から終わりにした」
「脚が重かった?」
「少しな」
少年自身が答えた。
「途中じゃなくて、一周したあと」
「痛かった?」
「痛くない。重い」
「そっか」
「だからやめた」
少年はそう言ってから、少し得意そうに笑った。
「やめるの、できた」
アルも笑う。
「できたね」
口にした瞬間、胸の奥で別の「できた」が重なりかけた。
旧保養施設の子供が話した、先生の「できた」。
薬を飲ませ、恐怖について繰り返し尋ね、最後に「怖くない」と答えた時の「できた」。
アルはほんのわずかに言葉を失った。
少年が首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや」
アルはすぐに首を横へ振った。
「やめるって自分で決められたの、いいなと思って」
「うん」
同じ「できた」という言葉でも、意味は違う。
誰かが外から評価して数える「できた」と、自分自身が「今日はここまでにできた」と感じること。
同じ言葉だからといって、同じものではない。
少年はパンを一切れ持ち上げる。
「これ、今日ちょっと小さい」
「また大きさ見てるの?」
「見る」
「味は?」
「それも見る」
「忙しいな」
「パンだから」
「パンだから?」
「大事」
隣でヨアヒムが笑った。
「この子の中では、歩行とパンの評価は同じくらい重要らしい」
「パンの方が上かも」
少年が真面目に言う。
「それは困るな」
「なんで?」
「歩くのも大事だから」
「でも、今日はやめた」
「うん。それでいい」
少年は白いパンを一口食べ、ゆっくり噛んだ。
「明日は二周するかも」
「うん」
「一周かも」
「うん」
「歩かないかも」
「それも明日決めればいい」
「うん」
それだけの会話だった。
けれど、アルには妙に心へ残った。
以前なら、昨日より今日、今日より明日と、少しずつ増えることを「回復」だと思っていたかもしれない。
実際、身体が強くなることは大切だ。
けれど、一周で止められることも回復の一部だった。
自分の身体の重さを感じ、それを言葉にし、今日はここまでだと決める。
それは誰かが用意した段階を一つ上がることとは違う。
「アル」
「ん?」
「パン食べる?」
「くれるの?」
「小さいの」
「大きい方じゃなく?」
「大きいのはぼく」
「知ってた」
少年が笑いながら小さい方を差し出す。
受け取ろうとしたアルの横から、セリーが静かに言った。
「夕食前です」
「一口だよ?」
「一口ですので許可いたします」
「許可制なんだ」
「健康管理です」
少年がまた笑った。
その笑い声が、夕方の静かな病室に柔らかく残った。
◇
三〇八号室へは、アルだけが短時間立ち寄った。
扉は今日も内側から開けられ、少年は寝台の上で赤い布包みを横へ置いていた。二通目の手紙は取り出されていない。
「今日は読まない」
アルが何も尋ねる前に、少年が言った。
「分かった」
「薬も同じ」
「うん」
「減らしたいのは、まだある」
「うん」
「でも今日は減らさない」
「分かった」
少年はアルをじっと見る。
「それだけ?」
「何が?」
「聞かないの?」
「何を?」
「なんで減らさないとか」
「話したい?」
「……別に」
「じゃあ聞かない」
少年は少し不満そうな、それでいて安心したような複雑な顔をした。
「変なの」
「よく言われる」
「誰に?」
「最近だと、子供に」
「子供?」
「別の場所にいる子」
「そいつも変なの?」
「どうだろう」
アルはそこで言葉を止めた。
名前不明の子供のことを、この少年へ必要もないのに詳しく話す理由はない。
三〇八号室の少年も、それ以上尋ねなかった。
代わりに赤い布包みへ視線を落とす。
「これ」
「うん」
「読まないって決めてるけど」
「うん」
「捨てたいわけじゃない」
「分かってる」
「読まないのと、いらないのは違う?」
「俺は違うと思う」
「じゃあ、持ってていい?」
「あなたの物として扱ってるから、持ってていいよ」
「読まなくても?」
「うん」
少年は布の端を指で摘まみ、少しだけ整えた。
「先生は、読めって言うかな」
アルの胸がわずかに強張る。
「先生?」
「手紙に書いてある先生」
「うん」
「迷ったら自分で決めるなって」
「そう書いてあったね」
「読まないって決めるのも、迷ってることになる?」
「あなたはどう思う?」
少年は眉を寄せる。
「また聞く」
「答えたくなければ答えなくていい」
「……ずるい」
「ごめん」
「でも」
少年は赤い布から手を離した。
「今は読まない」
「うん」
「先生に聞かない」
「うん」
「明日は知らない」
「分かった」
アルはそれ以上何も言わなかった。
先生。
教師。
同じような言葉が別々の場所で出ている。
だが、この少年が語る「教師」と、旧保養施設の子供が語る「先生」が同じ人物である証拠はない。
(似ているからって、一人にしたら駄目だ)
アルは自分へ言い聞かせるように、その区別をもう一度胸の中へ置いた。
◇
白鴉療養所を出る前に、エルから連絡が入った。
『フェリクス・ハルトマンより、旧資料中の「要」表記について一次調査結果が届いております』
「早いな」
『本人曰く、「触れない代わりに読む速度は止められていない」とのことです』
「元気だな」
アルは廊下の窓際で足を止めた。
「内容は?」
『現時点では、同時代から後世にかけての関連資料二十三冊中、単独の「要」表記が七種類確認されています』
「七?」
予想より多かった。
「出して」
腕輪の上に淡い光が浮かび、簡潔な一覧が表示される。
要――管理要求受付。
要――要確認。
要――要再検。
要――要保護。
要――必要処置あり。
要――要員呼出。
要――要交換部品。
アルは思わず黙った。
「多いですね」
隣から覗いたセリーが言う。
「うん」
ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
子供が「要」と口にした瞬間、別冊二の管理要求受付と強く結び付けそうになった。
だが、古い施設群で「要」という一文字は、特別なものではなかった。
「これ、全部同じ施設?」
『いいえ。旧保養施設、帰還管理関連施設、王立研究系保護施設、物資管理棟の資料を含みます』
「じゃあ、なおさら一文字だけじゃ無理だ」
『はい』
「フェリクスは何て?」
『「残念ながら、面白いほど絞れません」と』
「楽しそうだな」
『音声記録上は楽しそうでした』
セリーが小さく笑う。
「ですが、重要な結果ではありませんか?」
「うん」
アルは一覧をもう一度見る。
「『要』が管理要求受付だって決めなくて済む」
「はい」
「子供が口にした言葉を、こっちの資料に合わせなくていい」
「はい」
アルは表示を閉じた。
答えが遠ざかった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、早すぎる答えから一歩離れられた気がする。
「エル、これ子供の証言記録には自動で付けないで」
『承知しております。設備側調査記録として分離保持します』
「共有範囲は?」
『設備調査班内のみです』
「そのままで」
『承知しました』
通信が終わる。
アルは廊下の先を見る。
窓の外はもう夕暮れに近かった。
「塔へ戻りますか?」
「うん」
「旧保養施設へは?」
「今日は行かない」
「承知しました」
「気になるけどね」
「それも承知しております」
◇
一方、旧保養施設ではフェリクスが七枚の小札を机へ並べていた。
それぞれに確認した「要」の用例が書かれている。
ガルムはその光景を見て眉をひそめた。
「なんで札にした」
「見やすいので」
「並べ替える気だろ」
「資料上の分類だけです」
「現物と合わせるなよ」
「しません」
「子供の言葉とも」
「しません」
「本当に?」
「信用がないですね」
フェリクスは不満そうに言ったが、その手は札の上で止まっている。
以前なら、子供が口にした「要」を中心に置き、周囲へ可能性を並べていたかもしれない。
今は違う。
子供の言葉を書いた札は、ここにはない。
「設備資料だけで七種類」
リディアが向かいの椅子へ座る。
「しかも略記規則が統一されていませんね」
「時代も部署も違いますから」
「管理要求受付だけが『要』を使ったとは言えない」
「はい」
「現在の細型金属片の刻線が『要』だったとしても、それだけでは管理要求受付とは確定しない」
「その通りです」
ガルムが机へ肘をつく。
「じゃあ昨日より分からなくなったか」
「いいえ」
フェリクスが首を振った。
「『一文字が一致したから同じもの』という間違いを一つ減らせました」
「またアルみたいなこと言ってるな」
「今日は二回目です」
「数えてるのか」
「安全な数なので」
リディアが吹き出した。
ガルムも口元を緩める。
「まあいい。それで次は?」
「『要』そのものではなく、識別票の形状を追います」
フェリクスは七枚の札を端へ寄せる。
「別冊二には、管理要求受付の旧票が固定具破損で交換され、新票は細型へ変更されたとあります。文字が読めなくても、寸法、固定方法、材質、交換年代が分かれば候補を絞れるかもしれません」
「現物には触らない」
「はい」
「測るために器具を差し込まない」
「はい」
「金属片を元の位置へ戻さない」
「はい」
「光らせようとしない」
「はい」
「分かってるならいい」
フェリクスは一度頷いたあと、少し考える。
「隊長」
「何だ」
「私、かなり信用されるようになってきたと思うのですが」
「どこがだ」
「確認事項が四つで済みました」
「前はもっと言ってたな」
「でしょう?」
「喜ぶところか?」
「進歩です」
リディアがまた笑う。
資料室の空気が少しだけ軽くなった。
◇
夕食の時間、名前のない子供は布鞄を持たずに食堂へ来た。
朝も持たず、昼も持たず、夕方も持たない。
だが、誰も「今日は一日持たなかった」とまとめなかった。
まだ一日は終わっていないし、そもそも一日の評価を作る必要もない。
子供はスープを半分ほど飲んだところで、向かいに座っていた別の子供へ尋ねた。
「きょう、かわ、どうした?」
「まだある」
「みずきた?」
「こなかった」
「じゃあ、かわ?」
「かわ」
「そっか」
納得したように頷く。
ナディアは少し離れた場所から、その会話を聞いていた。
名前のない子供は食事を終えると、自分の部屋へ戻った。
布鞄は朝と同じ場所にある。
子供はすぐには手を伸ばさなかった。
先に卓へ行き、「みち」と「やすみ」を確認する。
朝に描いた丸も残っている。
「ちがう」と書いた丸。
子供は椅子へ座り、しばらくそれを見た。
やがて紙の端へ鉛筆を置く。
新しい線を一本だけ引く。
その線は「みち」へは繋がらない。
四角にも繋がらない。
丸にも繋がらない。
独立した短い線だった。
「これは?」
入口からナディアが尋ねる。
「まだ」
「名前ない?」
「うん」
「そっか」
「ナディア」
「うん?」
「きょう、アル、きた」
「うん」
「ぼく、『よう』っていった?」
ナディアは少し間を置いた。
「言ったよ」
「なんで?」
「それは私には分からない」
「ぼくも」
「うん」
「わすれてた?」
「言った直後には覚えてなかったみたい」
「へん?」
「少し不思議だね」
「わるい?」
「悪くないよ」
子供は鉛筆を指の間で転がす。
「せんせい、いってたかな」
ナディアは反応を急がなかった。
「思い出した?」
「ちがう」
「うん」
「おもっただけ」
「じゃあ、『思っただけ』で残す?」
「……うん」
「誰に話していい?」
子供は少し考える。
「アル」
「うん」
「セリー」
「うん」
「ガルム」
「うん」
「リディア」
「うん」
そこで止まる。
「フェリクスは?」
ナディアから促さず、子供自身が考える。
「……あとで」
「分かった」
昨日、共有していいと言ったから、今日も自動的に共有していいわけではない。
ナディアは紙へ短く記録する。
――本人発言。「先生が言っていたかもしれない」と考えたが、記憶ではなく推測と本人が区別。
――共有範囲、アル、セリー、ガルム、リディア。フェリクスは保留。
書き終えたところで、子供が紙を覗く。
「ぼく、おもっただけって、かいた?」
「書いたよ」
「ほんとって、かいてない?」
「書いてない」
「よかった」
子供は安心したように息を吐いた。
「あとで、ほんとになる?」
「思い出したら?」
「うん」
「その時は、その時に『思い出した』って別に残せるよ」
「いまの、けさない?」
「消さない」
「まちがってても?」
「今は『そう思った』ことがあったからね」
子供は朝の丸を見る。
「これと、おなじ」
「似てるね」
「ちがうって、のこす」
「うん」
「あとで、ほんと、ちがったら?」
「それも残せる」
子供はしばらく考え込んだ。
「いっぱいになる」
「何が?」
「かみ」
「なるかもね」
「たいへん」
「必要なら新しい紙を使うよ」
「なくならない?」
「大事な記録は残す」
「ぜんぶ?」
「全部を永遠に同じ場所へ置くのは難しいけど、あなたが言ったことを勝手に反対の意味に変えたりはしない」
子供はその答えをゆっくり受け取った。
「じゃあ、いい」
そして鉛筆を置いた。
布鞄には最後まで触れなかった。
◇
夜、塔へ戻ったアルは、ナディアから送られてきた記録を読んでいた。
セリーは同じ机の隣で、自分の腕部の簡単な点検をしている。小さな工具を使う手元は正確で、金属が触れ合う微かな音が静かな部屋に響いていた。
「『先生が言ってたかな』か」
「記憶ではないと本人が区別していますね」
「うん」
「重要です」
「うん」
アルは紙へ視線を落としたまま、しばらく黙る。
「俺、あの時すぐ聞いちゃった」
「『どこで聞いた』と?」
「うん」
「自然な反応ではあります」
「でも、子供は覚えてなかった」
「はい」
「そこで質問を続けてたら、俺たちが答えを作らせてたかもしれない」
セリーの手が止まる。
「途中で止められました」
「うん」
「それも記録に残っています」
「うん」
アルは椅子へ深く座り直した。
(間違えないことなんて無理なのかもしれない)
自分だって驚く。
気になる。
知りたい。
だから尋ねる。
問題なのは、一度でも質問したことではないのだろう。
相手の反応を見て止められるか。
自分の問いが誘導になっていないか後から確認できるか。
間違えた時、それをなかったことにしないか。
「セリー」
「はい」
「俺が変な聞き方してたら止めて」
「以前から止めております」
「そうだった」
「今後も止めます」
「頼む」
「はい」
セリーは工具を置いた。
「点検、終わった?」
「本日はここまでにします」
「まだできる?」
「できます」
「じゃあ、なんで?」
「したくなくなりました」
アルは目を瞬いた。
セリーが淡々と続ける。
「今は、お茶を飲みたいです」
「そっか」
「はい」
「じゃあ飲もう」
「主様も?」
「俺も」
「仕事は?」
アルは机の上を見る。
旧保養施設の記録。
町の資料。
白鴉からの報告。
まだ読めるものはいくつもある。
「今日は終わり」
「よろしいのですか?」
「セリーが止めたくなったなら、俺も便乗する」
「私を理由にしておられませんか?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「俺も疲れた」
セリーは少し笑った。
「では、お茶にいたしましょう」
立ち上がった彼女が茶器を取りに行く。
アルはその背中を眺めたあと、机の紙を一つにまとめた。
その時、エルから静かな報告が入った。
『旧保養施設より夜間観測開始の連絡です』
「変化は?」
『現時点ではありません』
「了解」
それだけで終える。
今夜また何かが光るかもしれない。
何も起きないかもしれない。
どちらでも記録すればいい。
◇
深夜。
旧保養施設の中央棟は静まり返っていた。
監視担当の二人は、統合盤から距離を取り、決められた位置で記録を続けている。
午後に確認された状態から変化はない。
左端の細型金属片は、約三・二ミリ下がった位置。
露出した刻線もそのまま。
午前零時十二分。
変化なし。
午前零時五十八分。
西壁音なし。
午前一時四十一分。
地下振動なし。
午前二時十六分。
統合盤各表示、変化なし。
午前二時五十九分。
旧職員詰所側表示、目視変化なし。
午前三時二十七分。
監視担当の一人が、左端付近へ目を凝らした。
「……確認」
もう一人が記録紙から顔を上げる。
「どこです?」
「左端。昨日の場所じゃない」
二人とも動かない。
触れない。
近づき過ぎない。
統合盤の左側、細型金属片から少し離れた位置にある古い小窓。
そこに、ごく弱い光が浮かんでいた。
青白色ではない。
薄い黄白色。
昨日、刻線奥で見えた光とは色も場所も違う。
「時刻、三時二十七分」
「記録します」
「細型金属片、位置変化なし」
「確認」
「刻線奥、発光なし」
「確認」
「他表示?」
「現時点なし」
小窓の黄白色は弱いまま続く。
三分。
五分。
八分。
午前三時三十六分。
光は一度だけわずかに強くなった。
だが、その瞬間にも地下振動はない。
西壁音もない。
旧線に目視できる動きもない。
午前三時四十分。
黄白色の光がゆっくり弱くなる。
午前三時四十二分。
消灯。
監視担当は最後まで何も操作しなかった。
「約十五分」
「はい」
「昨日とは別に記録」
「もちろんです」
記録紙には、ただ事実だけが残された。
左側小窓、黄白色発光。
約十五分。
自然消灯。
細型金属片位置変化なし。
刻線奥発光なし。
同時刻の地下振動、西壁音、旧線変化なし。
生活区画の子供たちに確認可能な異常なし。
誰も「二つ目」とは書かなかった。
誰も「次の段階」とも書かなかった。
昨日の青白い光と、今夜の黄白い光。
近い場所で起きた二つの現象が、同じ仕組みに属するのかさえまだ分からない。
だから、二つを一つの物語へ並べることもしなかった。
窓の外では、夜明けにはまだ早い森が静かに風へ揺れている。
答えは増えなかった。
代わりに、同じ場所に見えていたものの中にも、まだ分けなければならないものがあると分かった。
それだけで、今夜の記録には十分な意味があった。




