第91話 光った理由を、まだ決めない
朝食を終えたあとも、アルフォンスはすぐには旧保養施設へ向かわなかった。
塔の食堂には焼いたパンの香りがまだ残り、開けた窓から入り込む朝の風が、テーブルの端に置かれた薄い紙をわずかに揺らしている。その紙には昨夜から今朝にかけて旧保養施設で観測された出来事が、意味を付け加えられることなく時刻順に並べられていた。
午前一時十三分、地下から弱い振動。約二秒。
午前三時三十八分、中央棟統合盤左端の細型金属片下部、露出刻線奥から微弱な青白色発光。
約九分後、自然消灯。
金属片そのものの位置変化なし。他表示窓の変化なし。西壁音なし。第二線に目視可能な変化なし。
そして、生活区画で眠っていた子供にも変化はなかった。
アルは最後の一文まで読み返してから、紙をテーブルへ戻した。向かいではなく斜め隣に座ったセリーが空になった皿を片付けているが、その動作はいつもと変わらず静かだった。
「行かれますか?」
セリーが皿を重ねながら尋ねる。
アルはすぐに答えず、もう一度記録へ目を落とした。
(見たいのは、見たい)
数ミリだけずれた金属片。その奥に現れた刻線。そして、表示窓とは違う場所から生じた青白い光。
気にならないはずがない。
だが、アル自身が現場へ行ったところで、昨夜決めた調査方針は変わらない。金属片は動かさず、隙間へ器具も入れず、強い魔力走査も行わない。現在できるのは、記録と現物を非接触で比較することだけだ。
「リディアから追加連絡は?」
『午前七時四十二分時点で、新たな位置変化および発光は確認されていません』
腕輪のエルが答える。
「フェリクスは?」
『資料室におります』
「中央棟じゃなく?」
『ガルム隊長より、「朝食前に表示盤へ張り付くな」と指示されています』
「ちゃんと守ったんだ」
『不満は述べております』
「そこはいつも通りか」
思わず笑うと、セリーも小さく口元を緩めた。
「では、急いで主様が向かわれる理由は少なそうですね」
「うん」
アルは椅子の背へ身体を預けた。
以前なら、何かが起きたと聞いた時点で自分の目で確認したくなっていた。誰かへ任せたとしても、胸のどこかに「自分が見なければ」という感覚が残っていた。
今も、それが完全に消えたわけではない。
(俺が見れば何か分かるかもしれない、って思ってる。でも、それは俺にしか分からないって意味じゃない)
リディアは設備の観察に慣れている。フェリクスは古い魔導具と記録の比較に強い。ガルムは二人が余計なことをしないよう全体を見ることができる。
自分がそこへ加わる必要があるかどうかは、別の問題だった。
「午前中は塔にいる」
「承知しました」
「子供が呼んだら行く」
「はい」
「設備側で危険が出たら、その時も」
「はい」
「それ以外は任せる」
言葉にすると、胸の奥にわずかな落ち着かなさが残った。
セリーはそれを見抜いたらしい。
「気になりますか?」
「かなり」
「それでも行かれないのですね」
「気になることと、俺が行く必要があることは同じじゃないから」
セリーの目が柔らかくなる。
「はい」
「何?」
「いえ。良い判断だと思いました」
「褒められた」
「褒めました」
「じゃあ青い菓子もう一個」
「朝食は終わりました」
「褒めた直後に厳しいな」
「昼食までお待ちください」
いつもの調子で返され、アルは苦笑した。
旧保養施設で何かが光った朝も、塔の朝食は普通に終わる。
それでよかった。
◇
旧保養施設の中央棟では、アルが来ないことを聞いたフェリクスが少し意外そうな顔をしていた。
「来ないのですか?」
「ああ」
ガルムは壁際の机へ昨夜の記録画を並べながら答えた。
「必要になったら呼べ、だと」
「珍しいですね」
「お前が言うな。昨日から俺も同じこと思ってる」
「アルさんなら、こういうものは自分で見たがると思っていました」
「今も見たがってるだろ」
「では、なぜ?」
ガルムはフェリクスを見る。
「俺たちがいるからじゃないか」
短い答えだったが、フェリクスは少し黙った。
窓から差し込む朝日は中央棟の床へ長く伸びている。問題の統合盤は昨夜と同じ状態を保ち、左端の細い金属片も約三ミリ下がった位置から動いていない。
その下に露出した刻線は、朝の光の角度でも完全には読めなかった。
リディアは盤から十分な距離を保ちながら、昨夜の発光記録と別冊二から転写した図を見比べている。
「発光箇所は、表示窓ではありません」
「それは昨夜も確認した」
ガルムが答える。
「はい。ただ、もう少し正確に言えます。金属片の裏側でもありません」
フェリクスが顔を上げた。
「刻線の奥?」
「そう見えます」
「光源がさらに内部にある可能性は?」
「あります。ただし、隙間が狭いので視認だけでは深さを判断できません」
「光の色は?」
「既に観測された青白色と近いですが、同一とは断定できません。明るさが違いすぎます」
「魔力波形は?」
「昨夜の記録では弱すぎて特徴抽出できませんでした」
フェリクスは腕を組み、盤を見つめる。
「強い走査をすれば――」
「しない」
「最後まで言わせてください」
「言ったところでしない」
「分かっています」
フェリクスは肩を落としたものの、盤へ近づかなかった。
ガルムが記録紙を指で叩く。
「今ある材料だけで考えろ」
「それなら、まず発光箇所と識別票の関係ですね」
「細型金属片が識別票かどうかも未確定だ」
「はい。ですから仮に、です」
最近のフェリクスは、その一言を以前より頻繁に付けるようになった。
「仮にこの金属片が別冊二に記載された管理要求受付の細型識別票だった場合、その奥が発光したことになります。しかし、別冊二には識別票そのものが発光するとは書かれていません」
「管理要求受付の表示は別にある?」
「その可能性があります」
リディアが別冊二の転写を確認する。
「『本表示は要求主体を示すものにあらず』という記述がありますから、少なくとも何らかの表示機能が存在したことは確かです。ただ、それが識別票付近だったか、別の表示窓だったかは、この頁だけでは分かりません」
「じゃあ昨夜の光を『管理要求が来た』とは呼べない」
「はい」
ガルムは頷く。
「記録上も『刻線奥発光』のままにする」
「妥当です」
フェリクスが素直に同意したところで、リディアが別の紙を取り上げた。
「もう一つ気になることがあります」
「何だ」
「統合盤更新時の配線記録です。旧系統三、追加系統二を一つの盤へまとめたことは分かっていますが、追加系統の二つが同じ時期に増設されたとは書かれていません」
フェリクスが目を細める。
「身体状態監視補助と管理要求受付?」
「はい。昨日までは便宜上どちらも『追加系統』として扱っていましたが、追加された年代が同じとは限りません」
「そこを混ぜるなってことか」
「そうです」
ガルムが小さく息を吐く。
「また分からないことが増えたな」
「正確には、今まで一緒にしていた可能性のあるものを分けられた、です」
フェリクスが言う。
「お前、アルみたいなこと言うようになったな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「半分くらいな」
「残り半分は?」
「面倒くさくなった」
「研究者には重要な資質です」
リディアが笑いを堪えながら、別冊二の次の頁を慎重に確認した。
「年代を追える資料を探しましょう。現在の盤へ触れなくても、追加順序が分かれば配線位置を絞れる可能性があります」
「それでいく」
ガルムが決める。
「現物はそのまま。今日の午前は記録側を調べる」
フェリクスは統合盤を一度だけ振り返った。
そこには答えが隠れているように見える。
数ミリ動かせば、刻まれた文字が読めるかもしれない。細い器具を差し込めば、光源の位置も分かるかもしれない。
だが、フェリクスは資料室へ向かって歩き出した。
◇
生活区画では、名前のない子供が朝食を終えたあと、自分の部屋へ戻っていた。
布鞄は寝台の横に置かれている。
昨夜は持った。
今朝は持たなかった。
誰も理由を尋ねなかった。
卓の上には「みち」と「やすみ」、そして描きかけの紙が並んでいる。四角のような形の横には、子供自身が書いた「ちがう」という文字があり、そこから別の方向へ細い線が伸びていた。
子供は椅子へ座ると、その線の先へ鉛筆を置いた。
少し動かす。
止める。
また動かす。
今度は小さな丸を描きかけたところで、手が止まった。
「……ちがう」
消しゴムを取ろうとして、途中で止まる。
しばらく丸を見つめたあと、そのまま残した。
部屋の入口近くにいたナディアが、声をかけずに洗濯物を畳んでいる。
子供が振り向いた。
「ナディア」
「うん?」
「これ」
紙を指す。
「丸?」
「ちがう」
「そっか」
「でも、けさない」
「うん」
「ちがうのに」
ナディアは畳んでいた布を膝へ置いた。
「消したくない?」
「……うん」
「じゃあ残していいんじゃない?」
「まちがい?」
「あなたが『違う』と思ってるなら、今考えてるものとは違うのかもしれないね」
「まちがいと、ちがう、ちがう?」
「同じ時もあるし、違う時もあると思う」
子供の眉が寄る。
「むずかしい」
「私も難しい」
「また?」
「また」
子供は紙へ戻る。
丸の横へ、今度は小さく「ちがう」と書いた。
「これなら?」
「何が?」
「ちがうって、わかる」
「うん」
「けさなくていい」
「うん」
鉛筆を置く。
子供はしばらく紙を眺めたあと、布鞄へ視線を移した。
「きのう」
「うん」
「せんせいの、はなした」
「うん」
「フェリクスも」
「聞いていいって言ったね」
「うん」
「変えたい?」
子供は考える。
「いまは、いい」
「分かった」
「あとで、だめっていえる?」
「言えるよ」
「きいたあとでも?」
ナディアは少しだけ言葉を選んだ。
「もう聞いたことを、聞かなかったことにはできない。でも、これから誰に話していいかは変えられる」
「フェリクス、わすれる?」
「それは難しいと思う」
「そっか」
子供は少し黙る。
共有を許したあとで、その情報を相手の頭から消すことはできない。
選択には戻せない部分もある。
それを「いつでも変えられる」という言葉だけで隠すことはできなかった。
「じゃあ」
子供が膝の上で指を組む。
「きのう、いっていいって、いったの、なくならない?」
「なくならないよ」
「あとで、だめっていっても?」
「昨日言っていいと思ったことは、昨日のあなたの選択として残る。でも、今日から先は話さないでって言うこともできる」
「ふたつ?」
「そうなるね」
子供は少し考えたあと、紙の丸を見る。
「これみたい」
「どれ?」
「ちがうけど、けさない」
ナディアはすぐには返事をしなかった。
やがて穏やかに頷く。
「似てるところはあるかもしれないね」
子供は自分の紙を見つめた。
間違ったから消すのではない。
変わったから、前をなかったことにするのでもない。
今と違うものが、以前そこにあったことは残せる。
「アル、くる?」
「今は塔にいるよ」
「なんで?」
「今日はまだ、ここへ来る必要がないと思ってるみたい」
「ひかったのに?」
ナディアの手が止まった。
「光ったこと、知ってたの?」
「いま、いった」
「あ」
自分の言葉に気づき、ナディアは目を瞬いた。
子供が首を傾げる。
「なに?」
「ごめんね。設備が少し光ったことは本当。でも、あなたに今伝える必要があるか確認してから話すべきだった」
「だめ?」
「危ないことではないよ。今のところはね」
「じゃあ、なんで?」
「あなたが設備の記録を見たくない時は見なくていいって決めてるから」
子供は少し考えた。
「いま、ききたい」
「分かった。どこまで?」
「ひかった?」
「うん。夜中に、中央棟の設備の一部が弱く光った」
「なんこ?」
問いかけた直後、子供自身が口を閉じた。
視線が揺れる。
「……やめる」
「うん」
「なんこ、きかない」
「分かった」
ナディアは答えなかった。
子供が息を吐く。
「ぼく、ねてた?」
「寝てたよ」
「おきなかった?」
「うん」
「じゃあ」
少し考える。
「ぼく、しらなかった」
「そうだね」
「ひかったの、ぼくのせい?」
ナディアは首を横へ振る。
「それは分からない。でも、あなたのせいだっていう証拠は何もないよ」
「せんせいの、はなしたから?」
「それも分からない。時間もかなり離れてる」
「じゃあ、ちがう?」
「違うともまだ決められない」
子供が頬を膨らませた。
「みんな、わかんない」
「今日は特に多いね」
「フェリクス、よろこぶ?」
「たぶん」
子供が吹き出した。
その笑いが消えてからも、設備の光について追加の質問はなかった。
ナディアも話さなかった。
◇
昼前、塔ではアンナマリーが新しい整理資料を持ってきていた。
アルは執務室ではなく、窓の広い小部屋で彼女と向かい合っている。昨日までなら机いっぱいに資料を広げていたところだが、今日は必要な三冊と数枚の紙だけだった。
「町へ渡す案をまとめました」
アンナマリーが一枚目を差し出す。
「確認回数を減らすこと自体を目的にしない?」
「はい。目的は本人の負担を減らすことです。ですから、回数だけ減らして、変更を伝える機会まで減らしてしまっては意味がありません」
アルは紙を読む。
定期確認を毎日行わない。
ただし、本人が途中で変更を申し出られることを明確に伝える。
窓口での正式申告だけでなく、支援担当者との会話の中で明確な変更意思が示された場合、本人へ確認の上で正式記録へ反映する。
疲労や混乱が強い時は、その場で最終決定を迫らない。
「いいと思う」
「ただ、町側で実際に使えるかは代表会議で検討してもらいます」
「俺たちが決めるんじゃなく?」
「はい」
アンナマリーは当然のように答えた。
「私たちは過去の制度から危険になり得る点を示せますが、現在の町で何が負担になるかは、窓口の人や実際に申請する人の方がよく分かります」
「そっか」
アルは紙を机へ置く。
(こういうのも、前なら俺が最後に決めようとしてたのかな)
王太子だった頃の自分なら、案を読み、問題点を指摘し、最終承認を与えるところまでを自分の仕事だと思っていたかもしれない。
今は違う。
自分が知らない場所で決まることを、不安だけでは見なくなった。
「アルフォンス様?」
「ん?」
「何か問題が?」
「いや。俺の承認欄がないなと思って」
アンナマリーが一瞬だけ目を丸くしたあと、笑った。
「必要ですか?」
「いらない」
「では、このままで」
「うん」
迷いのない返事に、アルも笑う。
「昔だったら、ちょっと寂しかったかも」
「今は?」
「少しは寂しい」
「まだ?」
「まだ」
アルは肩をすくめた。
「でも、それより楽」
「それは良い変化だと思います」
「セリーにも似たこと言われた」
「では、間違いないのでしょう」
「二人とも俺に厳しくない?」
「甘やかす役目はセリーさんだけで十分かと」
「セリー、そんなに甘やかしてないぞ」
部屋の入口から声がした。
「聞こえております」
茶器を持ったセリーが入ってくる。
アンナマリーが口元を押さえる。
「失礼しました」
「事実と異なる点のみ訂正いたします」
「どの辺が?」
「私は主様の健康維持に必要な範囲で適切に対応しております」
「青い菓子くれる」
「量は管理しております」
「昼だから一個増える?」
「増えません」
アンナマリーがとうとう笑った。
資料の話は重要だった。
だが、重要な話をしている間ずっと緊張している必要もない。
窓の外では風に揺れた枝が葉を擦り合わせ、昼前の明るい光が床へ落ちている。
セリーが三人分の茶を置く。
以前なら、彼女は自分の分を用意しなかったことも多かった。
今は自然に三つある。
アルはそれに気づいたが、口には出さなかった。
◇
旧保養施設の資料室で、リディアが探していた記録を見つけたのは昼を少し過ぎた頃だった。
「年代が分かります」
その声に、フェリクスとガルムが同時に顔を上げる。
午前中いっぱいかけて別冊二と関連台帳を照合し、統合盤へ追加された二系統の導入時期を追っていた。窓の外からは生活区画の子供たちの声がかすかに聞こえ、資料室の乾いた空気の中へ時折笑い声が混じっている。
「どっちからだ」
「身体状態監視補助が先です」
リディアは転写紙を示す。
「旧三系統を統合した際、同時に身体状態監視補助を追加。管理要求受付は、その十二年後に増設されています」
「十二年」
フェリクスが呟く。
「かなり離れていますね」
「はい」
「管理要求受付が最初からあったわけじゃない」
ガルムが確認する。
「少なくとも、この統合盤ではそうです」
「追加理由は?」
「あります」
リディアが次の行を読む。
「『保護区画運用変更に伴い、各室および担当部署からの管理要求を中央監視へ集約するため』」
フェリクスの表情が変わる。
「各室および担当部署」
「本人とは書いてないな」
「はい」
リディアはさらに読む。
「『要求発生時、中央監視担当は要求主体および内容を原記録にて確認』」
「昨日の運用補足と一致する」
「そうですね」
「各室からも要求できたなら、本人が何か操作する場合もあった?」
ガルムが尋ねる。
「可能性はあります。ただ、『各室』が患者本人の操作を意味するのか、各室担当職員を意味するのかはこの文章では分かりません」
「そこは保留」
「はい」
フェリクスは年代を書き留めながら、別の部分へ目を向ける。
「増設時の配線図は?」
「一部だけあります」
「管理要求受付の線はどこへ?」
「中央盤の……」
リディアの指が止まった。
「左側です」
部屋の空気が少し変わった。
ガルムが先に口を開く。
「現在の金属片も左だな」
「はい」
「一致?」
「まだです」
リディアは即答した。
「当時の左側と現在見えている左側が同じ配置とは限りません。後の修理で位置変更された記録があります」
「ですよね」
フェリクスは残念そうに言いながらも、以前のように結論へ飛びつかなかった。
「でも候補としては少し強くなった」
「それは言えます」
「配線の終点は?」
「欠損しています」
「またですか」
「古い資料ですから」
ガルムが腕を組む。
「今分かったのは、管理要求受付が他の追加系統より十二年後に付けられた。目的は要求を中央へ集めること。要求主体と内容は別記録で確認する必要があった。増設当時の配置図では左側に線が入っていた。ただし現在の左端と同じ場所かは分からない」
「その通りです」
「じゃあ、それ以上は言わない」
ガルムがまとめる。
フェリクスは頷いたあと、ふと窓の外を見る。
「子供には?」
「何が?」
「昨夜の発光」
「ナディアが少し話したらしい。本人が聞きたいと言った範囲だけな」
「反応は?」
「自分が寝ていたか確認した。それから、自分のせいか、先生の話をしたせいか聞いた」
フェリクスの表情から研究者らしい興奮が消えた。
「何と答えたのですか」
「証拠はない。違うとも決められない」
「そうですか」
「数を聞きかけて、自分からやめたそうだ」
フェリクスはしばらく何も言わなかった。
机の上には、五系統の記録がある。
旧三系統。
追加された身体状態監視補助。
さらに十二年後に増設された管理要求受付。
数えることは必要だった。
だが、その五という数字を子供へ持ち込む理由はない。
「この資料」
フェリクスが言う。
「子供の共有記録とは別のままですよね」
「ああ」
「その方がいいです」
「言われなくてもそうする」
「確認です」
ガルムが少し笑う。
「お前、本当に変わったな」
「昨日から何回目ですか」
「まだ言うと思うぞ」
◇
午後、名前のない子供は庭へ出た。
布鞄は部屋に置いてある。
持っていくかどうかは聞かれなかった。
子供自身も、部屋を出る時に一度だけ鞄を見たものの、そのまま廊下へ出た。
庭では別の子供が地面へ木の枝で線を描いていた。
「なに?」
「かわ」
「みず、ない」
「いまは」
「あとで、くる?」
「わかんない」
「じゃあ、かわじゃない」
「かわ」
「なんで?」
「ぼくが、かわっていったから」
名前のない子供はしゃがみ込む。
土の上に一本の曲がった線があるだけだ。
「みずなくても?」
「うん」
「かわ?」
「うん」
「へん」
「そっちも、みち、かみ」
「……そうだった」
二人で笑う。
やがて、名前のない子供も枝を拾った。
自分の紙に描いた形を土へ写そうとする。
四角。
途中で止める。
「ちがう」
隣の子供が見る。
「けす?」
「けさない」
「なんで?」
「ちがうって、わかるから」
「へんなの」
「うん」
四角の横から別の線を伸ばす。
少し先で止める。
その先に丸を描こうとして、今度は描かなかった。
「丸は?」
「まだ」
「ないの?」
「まだ」
「あとで?」
「あとでかも」
子供は枝を土へ置いた。
決まっていない場所は、空いたままだった。
それでも線はそこまで伸びている。
◇
夕方近くになってから、アルは旧保養施設へ向かった。
設備を見るためではない。
子供から呼ばれたわけでもない。
ヨアヒムから、保存されていた少年の歩行後の状態について一度直接相談したいと連絡が入ったため、白鴉療養所へ行く予定があり、その前にガルムから資料だけ受け取ることにしたのだ。
セリーも同行する。
転移を終えて旧保養施設の外へ出ると、午後の光はすでに少し傾き、古い石壁の影が長く伸びていた。昼間は暖かかったらしいが、森から流れてくる風にはわずかに冷たさが混じっている。
ガルムは玄関前で待っていた。
「結局来たな」
「設備見に来たんじゃない」
「分かってる」
「資料だけ」
「ああ」
渡された紙へ目を通す。
「十二年後か」
「管理要求受付がな」
「最初から一緒じゃなかった」
「ああ」
「左側へ配線」
「当時は、な」
「今と同じか分からない」
「そこまでセットで覚えろ」
「分かってる」
アルは資料を畳む。
「現物は?」
「そのまま」
「また光った?」
「ない」
「金属片は?」
「動いてない」
「じゃあ見なくていい」
ガルムが少し意外そうに眉を上げた。
「本当に?」
「見たら触りたくなるかもしれない」
「お前が?」
「俺だって気になる」
「フェリクスみたいだな」
「一緒にしないで」
背後から声が飛ぶ。
「聞こえていますよ」
資料室から出てきたフェリクスだった。
「地獄耳だな」
「研究者の耳です」
「違いある?」
「ありません」
アルが笑う。
その時、庭の方から子供たちの声が聞こえた。
アルはそちらへ視線を向けたが、歩き出さなかった。
「会ってく?」
ガルムが尋ねる。
「呼ばれてない」
「見かけるくらいはいいだろ」
「向こうが気づいたらね」
玄関前で話を続ける。
少しすると、庭から戻ってきた子供たちがこちらに気づいた。
名前のない子供もいる。
目が合う。
「アル」
「こんにちは」
「きた」
「うん。ちょっとだけ」
「セリーも」
「こんにちは」
「うん」
子供は二人の前まで来た。
「きょう、もってない」
「鞄?」
「うん」
「そっか」
「へや」
「うん」
「あとで、もつかも」
「分かった」
それだけで終わると思ったが、子供はアルを見上げたままだった。
「どうした?」
「ひかったの」
「聞いた?」
「うん」
「今、話したい?」
「ちょっと」
「ここでいい?」
子供が周囲を見る。
他の子供たちは先へ行き、近くにはナディアとセリー、少し離れたガルムだけがいる。
「ここ」
「分かった」
アルはしゃがまず、近くの低い石段へ座った。子供の目線より少しだけ低くなる。
「何を知りたい?」
「ぼく、ねてた」
「うん」
「ひかった」
「そうだね」
「ぼく、しらなかった」
「うん」
「なのに、ひかった」
アルは急いで答えなかった。
「そうだね」
「じゃあ」
子供は自分の胸を指す。
「ぼく、いなくても、ひかる?」
その問いに、アルは少し驚いた。
ガルムもわずかに目を細める。
「昨夜について言えば、あなたが寝ていて、何もしていない間に光った」
「うん」
「でも、あなたがここにいたから光ったのか、いなくても光るのかまでは、まだ分からない」
「ぼく、なにもしてない」
「うん」
「せんせいの、はなしただけ」
「それもずっと前だった」
「うん」
「だから俺は、あなたが話したから光ったとは決めてない」
「ぼくのせい、じゃない?」
「少なくとも、あなたが悪いことをしたから光った、とは思ってない」
子供の肩が少し下がった。
「わるくない?」
「話したこと?」
「うん」
「悪くない」
「ひかったのも?」
「設備が光ったこと自体に、良いとか悪いとかはまだ付けられない」
「こわい?」
アルは中央棟の方向を見た。
建物の向こうに統合盤がある。
「少し気になる」
「こわい?」
もう一度聞かれる。
アルは考えた。
(怖くないと言えば安心させられる。でも、それは本当じゃない)
「少し怖い」
子供の目が大きくなる。
「アルも?」
「うん。何か分からないものが勝手に光るのは、少し怖い」
「でも、いく?」
「今日は見に行かない」
「なんで?」
「見ても、まだ触らないから」
「さわらない?」
「うん」
子供はしばらくアルを見ていた。
「フェリクスも?」
「触ってない」
「ほんと?」
少し離れた場所にいたフェリクスが胸を張る。
「本当です」
「えらい?」
「大変立派だと思います」
ガルムが鼻で笑う。
「自分で言うな」
子供も笑った。
「フェリクス、へん」
「なぜですか」
「わかんない、すき」
「それは褒め言葉です」
「ちがうとおもう」
今度はアルまで笑った。
子供は笑い終えると、少しだけ真面目な顔に戻る。
「アル」
「うん」
「ぼく、こわい」
「光ったことが?」
「うん」
「そっか」
「でも、みたい」
アルは何も言わず、続きを待つ。
「ひかるの」
「見てみたい?」
「……ちょっと」
「今?」
子供は中央棟の方向を見る。
すぐには答えない。
「いまは」
足元を見る。
「いかない」
「分かった」
「あとで、みたいかも」
「その時また考えよう」
「みたら、もどる?」
空気がわずかに張った。
アルは慎重に言葉を選ぶ。
「設備を見ただけで、あなたをどこかへ戻すつもりはない」
「ひかったら?」
「それだけでは戻さない」
「『要』だったら?」
アルの呼吸が止まりかけた。
ガルムもフェリクスも動かない。
「……『要』って、どこで聞いた?」
子供は首を傾げる。
「よう?」
「今、言ったよ」
「ぼく?」
「うん」
子供の顔に戸惑いが浮かぶ。
「いった?」
「『要だったら』って」
「……わかんない」
アルはそれ以上近づかなかった。
「思い出せない?」
「うん」
「誰かに聞いた言葉?」
「わかんない」
「見たことある?」
「わかんない」
子供の呼吸が少し速くなる。
アルは質問を止めた。
「もう聞かない」
「でも」
「今は分からなくていい」
「ぼく、いった?」
「言った」
「のこす?」
「残していい?」
子供はしばらく迷ったあと、小さく頷く。
「うん」
「エル、今の言葉だけ。その前後も一緒に残して。意味は付けない」
『承知しました』
「誰に見せる?」
子供が尋ねる。
「今まで設備の記録を見ている人へ共有していいか、あなたが決められる」
「ガルム」
「うん」
「リディア」
「うん」
「セリー」
「はい」
「フェリクス」
フェリクスが少し驚く。
「うん」
「アル」
「俺も」
「エル」
『はい』
子供は考える。
「それだけ」
「分かった」
アルは立ち上がらない。
子供もその場にいる。
「こわい?」
アルが尋ねるのではなく、子供が自分から口を開いた。
「ちょっと」
「部屋戻る?」
「まだ」
「じゃあここにいる?」
「うん」
セリーが静かに隣の石段へ腰を下ろした。
アルもそのまま座っている。
誰も中央棟へ走らなかった。
子供が口にした「要」が、別冊二に記録されていた管理要求受付の識別文字と同じだったとしても、それだけで答えにはならない。
偶然かもしれない。
以前どこかで見たのかもしれない。
先生から聞いたのかもしれない。
木片に関係するのかもしれない。
まったく別の「要」かもしれない。
今は、どれも決められない。
しばらくすると、子供が空を見上げた。
夕方の薄い雲が森の上を流れている。
「アル」
「うん」
「きょう、もう、はなさない」
「分かった」
「わすれない?」
「忘れない」
「でも、きかない?」
「今日は聞かない」
「うん」
子供はようやく石段から離れた。
ナディアと一緒に生活区画へ戻っていく。
その背中が廊下の向こうへ消えるまで、誰も動かなかった。
やがてフェリクスが小さく息を吐く。
「……驚きました」
「俺も」
ガルムが答える。
「でも、現物見に行くなよ」
「分かっています」
「アルも」
「分かってる」
「本当に?」
アルは中央棟の方向を見る。
胸の奥では、見たいという気持ちが強くなっている。
(子供が口にした『要』と、台帳の『要』。同じ文字だ。でも、同じ意味だとは限らない)
「今日は見ない」
アルははっきり言った。
フェリクスが目を瞬く。
「本当に?」
「同じこと二回聞くな」
「すみません」
「子供が『要』って言った直後に俺たちが設備へ走ったら、本人はどう思う?」
フェリクスは黙った。
ガルムが腕を組む。
「自分の言葉で何かが動いたと思うかもしれない」
「うん。昨日、先生の話をしたから光ったのかって心配したばかりなんだ」
「なら今日は動かない?」
「危険がないなら」
リディアへ共有する記録だけを送る。
意味は付けない。
照合はできる。
だが、現物への接触も、新しい実験も行わない。
「フェリクス」
「はい」
「資料で調べるのは?」
「本人の証言を検索語に直接使わず、既存の設備記録から『要』の使用例を調べるなら可能だと思います」
「それならいい」
「子供の言葉を答え合わせに使わない?」
「はい」
「頼む」
「承知しました」
フェリクスが歩き出す。
二歩進んだところで止まった。
「隊長」
「何だ」
「資料室へ行くだけです」
「分かってるよ」
「念のため」
「早く行け」
フェリクスは今度こそ資料室へ向かった。
アルはその背中を見ながら、少し笑った。
それからセリーを見る。
「白鴉、行こうか」
「はい」
「子供の『要』、気になる?」
「非常に」
「俺も」
「ですが、今は行かないのでしょう?」
「うん」
「では、参りましょう」
セリーは自然にアルの隣へ並んだ。
歩き出してしばらくすると、二人の手の距離が近くなる。
昨日の休息の時と同じくらいだった。
アルは一瞬だけ手元を見たが、今度は大きく離れなかった。
セリーも何も言わない。
触れないまま、二人は並んで歩く。
背後の旧保養施設では、誰も統合盤を開けていない。
数ミリ下がった金属片も、その奥の刻線も、そのままだ。
子供が口にした一文字も、まだ答えにはしない。
分からないものを、分からないまま残す。
それは何もしないことではなかった。
間違った答えで誰かの言葉を塞がないために、今できることの一つだった。




