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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第90話 残されていた名前は、答えではありませんでした

夜明け前に見つかった刻みは、朝になっても消えていなかった。


 旧保養施設の中央棟。統合型表示盤の左端で数ミリ下がった細い金属片は、昨夜から同じ位置に留まっている。その下に露出した部分へ斜めから朝の光が差し込むと、暗い監視灯の下では傷にも見えた細い溝が、何かを刻んだ痕跡らしいことだけは少し分かりやすくなった。


 だが、読めない。


 露出している幅が狭すぎる。


「触ってないな?」


 中央棟へ入ってきたガルムの第一声に、夜勤の監視員が頷いた。


「はい。位置変化を確認してから、誰も接触していません」


「灯りは?」


「角度を変えただけです。盤そのものには触れていません」


「発光は」


「ありません」


「振動、音、外壁、第二線」


「すべて変化なしです」


「子供は?」


「まだ寝ています。昨夜も途中覚醒はありません」


「よし」


 ガルムは表示盤から一歩離れた位置で足を止めた。


 ほどなくしてリディアとフェリクスも入ってくる。


 フェリクスは表示盤を見た瞬間に歩調を速めかけたが、ガルムが振り返る前に自分で止まった。


「止まりましたよ」


「まだ何も言ってない」


「顔が言っていました」


「成長したな」


「毎回それを言うのはやめてください」


 リディアは二人のやり取りを横で聞きながら、昨夜撮影された記録画を確認する。


「午前四時二十七分の記録から、刻みらしきものが確認されています。それ以前の記録画にも同じ部分は写っていますが、光の角度の関係で判別できません」


「つまり、四時二十七分に新しく出たとは限らない?」


「はい。金属片が下がった時点ですでに露出していた可能性があります」


「そこは分けて記録」


「承知しました」


 フェリクスが表示盤へ顔を近づける。


 もちろん、触れない距離で。


「文字の上部……でしょうか」


「そう見えるだけかもしれない」


 リディアが答える。


「少なくとも人工的な刻線である可能性は高そうですが、文字か番号か記号かも未確定です」


「金属片そのものが識別票だったなら、その下に別の文字があるのは変ではありませんね」


「逆かもしれません」


「逆?」


「下に見えている方が識別票で、ずれた細い金属片は識別票を固定していた覆いかもしれません」


「なるほど」


 フェリクスの目が楽しそうに細くなる。


「楽しくなってきました」


「触るなよ」


「触りません」


「引っ張るな」


「引っ張りません」


「隙間から器具入れるな」


「……それは少し考えました」


「考えるな」


「実行していません」


 ガルムが額を押さえる。


 リディアは表示盤から視線を外さず、小さく笑った。


「まず別冊二を確認しましょう。こちらを動かさずに分かることがあるなら、その方が安全です」


「賛成です」


 フェリクスは即答した。


「珍しいな」


「私は最初から記録を重視しています」


「設備を見ると目の色変わる奴が何言ってんだ」


「研究者として正常です」


「一般人としては心配だ」


 三人は中央棟を出た。


 表示盤はそのまま。


 金属片もそのまま。


 露出した数ミリの刻みも、そのまま残された。


     ◇


 その頃、名前の分からない子供は自分の部屋で目を覚ましていた。


 最初に見たのは天井だった。


 次に窓。


 それから卓の上。


 昨日から残っている紙がある。


 描きかけだった四角。


 その横の「ちがう」。


 そこから別方向へ伸ばした線。


 どれも消えていない。


 子供は寝台から降りると、紙の前まで歩いた。


 触れずに見る。


「……ある」


 小さく呟く。


 扉が二度鳴った。


「ナディアだよ。起きてる?」


「うん」


「入っていい?」


「うん」


 扉が開く。


「おはよう」


「おはよう」


「よく眠れた?」


「うん」


「痛いところ、苦しいところは?」


「ない」


「気持ち悪くない?」


「うん」


 短い体調確認が終わる。


 ナディアは紙を見るが、内容について尋ねなかった。


 子供の方から紙を指す。


「きのう」


「うん」


「きめなかった」


「そうだね」


「でも、ある」


「紙?」


「うん」


「残ってるね」


「きめてないのも?」


 ナディアは少し考える。


「昨日、決めなかったこと?」


「うん」


「それも昨日のあなたがしたことだと思うよ」


「しなかった」


「決めることはしなかったね」


「なのに、した?」


「決めないでおくことはしたんじゃないかな」


 子供が眉を寄せる。


「むずかしい」


「私も言っててちょっと難しいと思った」


 子供が笑った。


「ナディアも?」


「うん」


「わかんない?」


「分からないこと、いっぱいあるよ」


「アルも」


「たぶんね」


「アル、わかんない、いう」


「うん」


「おとななのに」


「大人でも分からないものはあるから」


 子供はしばらく紙を見ていたが、やがて床の布鞄へ目を移した。


 昨日の夜、部屋へ置いたものだ。


「きょう」


「うん」


「まだ」


「まだ決めない?」


「うん」


「分かった」


 ナディアは鞄を取らない。


 子供も取らない。


「ご飯行く?」


「うん」


 扉へ向かう。


 途中で一度、鞄を見る。


 それでも戻らなかった。


 今朝は持たない。


 けれど、それを一日の決定にはしなかった。


     ◇


 資料室では、保護箱が机の中央へ置かれていた。


 昨夜見つかった帳簿。


 表紙には薄れた文字で、


 ――統合監視原系統台帳。


 その下に、かろうじて「別冊二」と読める痕跡がある。


 リディアが綴じの状態を確かめる。


「一晩置いたことで、昨日よりは安定しています」


「開けられる?」


 ガルムが尋ねる。


「慎重に。一気には無理です」


「読めるところだけでいい」


「はい」


 フェリクスはすでに椅子へ座っている。


「近い」


「触りません」


「顔が近い」


「視力は普通ですので」


「下がれ」


「はい」


 不満そうに数センチ椅子を引く。


 リディアが表紙を開いた。


 乾いた紙が、かすかな音を立てる。


 一枚目。


 目録。


 誰も声を出さない。


「……あります」


 リディアの指が、文字へ触れない位置で止まる。


「何が?」


「系統分類」


 ゆっくり読み上げる。


「旧夜間線第一系統。旧夜間線第二系統。旧受所確認系統」


 フェリクスの目が鋭くなる。


「三つ」


「数だけで現在の表示窓と対応させないでください」


「言われなくても分かっています」


「昨日から何度目だ」


「隊長が信用しないからでしょう」


「実績だ」


 リディアが続きを読む。


「追加系統……身体状態監視補助。管理要求受付」


 部屋が静かになる。


「旧系統三、追加二」


 ガルムが言った。


「昨日の点検記録と数は合うな」


「はい。ただし」


「現在の盤に全部残ってるかは分からない」


「その通りです」


 フェリクスが身を乗り出しかけ、途中で止まる。


「識別票の配置は?」


「次の頁かもしれません」


 慎重にめくる。


 紙の端が一部崩れている。


 読めない箇所も多い。


「……統合盤配置」


「ある?」


「あります。ただし図の右側が欠損しています」


 机の上へ光を調整する。


 そこには簡単な矩形が描かれていた。


 五つの印。


 だが、位置が現在の盤と一致するかは分からない。


「番号があります」


「位置番号?」


「違います」


 リディアが目を細める。


「『識別番号』と書かれています」


「昨日の仮番号とは?」


「別物のようです」


 フェリクスが息を吐く。


「面倒ですね」


「嬉しそうだな」


「面倒な資料ほど面白いのです」


「続けて」


 リディアが読む。


「旧夜間第一――識別、N一」


「N?」


「おそらく夜間の頭文字か何かでしょうが、断定しません」


「次」


「旧夜間第二――N二」


「旧受所確認は?」


「R……」


 文字が欠けている。


「Rの後が読めません」


「追加系統は?」


「身体状態監視補助――M三。管理要求受付――」


 リディアが止まる。


「どうした」


「欠損しています」


 その部分だけ紙が大きく破れている。


 フェリクスが残念そうに息を吐いた。


「肝心なところが」


「肝心かどうかもまだ分かりません」


「管理要求受付ですよ?」


「現在の金属片と対応する証拠はありません」


「はいはい」


「返事が雑だぞ」


「理解はしています」


 次の頁。


 今度は保守時の識別票交換記録だった。


「『統合時、旧識別票は原則継続使用。ただし形状不適合の場合、新規票へ転記』」


「じゃあ、古い票と新しい票が混在した可能性がある?」


「はい」


「現在見えてない識別票は?」


「後の点検で一部欠損とありました」


「なくなった時期は?」


「まだ分かりません」


 さらに数頁進む。


 そこで、リディアの手が止まった。


「……交換履歴があります」


「読む」


「『管理要求受付票、固定具破損につき交換』」


 フェリクスの表情が変わる。


「形状は?」


「待ってください」


 次の行。


「『旧票撤去。新票、細型へ変更』」


 三人の視線が自然に中央棟の方向へ向いた。


 ガルムが先に口を開く。


「似てるな」


「はい」


「でも、まだだ」


「はい」


 フェリクスも今度はすぐに頷いた。


「現在下がった金属片が、その『細型』だという証拠はありません」


「よし」


「ただし候補にはなります」


「それは記録していい」


 リディアがさらに行を追う。


「交換理由……『周辺表示増設に伴う配置余地確保』」


「いつ頃?」


「日付が一部欠けています。ただ、統合盤更新より後です」


「じゃあ現在の盤のどこかに、細い管理要求受付票があった可能性は高い?」


「可能性は上がりました」


 フェリクスが机へ手を置く。


「刻みの内容が確認できれば」


「動かさない」


「分かっています」


「台帳から他に分からないか」


「探します」


 誰も中央棟へ走らなかった。


 答えに見えるものが近づいたからこそ、距離を取る。


     ◇


 朝の塔で、その報告を聞いた俺は、珍しく食事を止めなかった。


 パンを食べる。


 スープも飲む。


 セリーが向かいから見ている。


「何?」


「いえ」


「ちゃんと食べてるだろ」


「はい」


「成長した?」


「昨日、休まれた効果でしょうか」


「一日でそんな変わる?」


「少なくとも、報告を聞いた瞬間に立ち上がられませんでした」


「行ってもやることないからな」


 別冊二。


 管理要求受付。


 細型識別票。


 中央棟で下がった細い金属片。


 確かに気になる。


 かなり気になる。


 でも、今俺が行っても金属片を触らないのなら、できることはない。


「フェリクスが我慢できてるなら、俺も我慢しないとな」


「比較対象として適切でしょうか」


「失礼だな」


「どちらに対してでしょう」


「俺かな」


 セリーが小さく笑う。


「主様」


「うん」


「昨日の二時間はいかがでしたか?」


「最初は苦痛」


「はい」


「途中から少し楽」


「はい」


「最後は……悪くなかった」


「私も同じです」


「またやる?」


 聞いてから、少しだけ緊張する。


 セリーはすぐには答えなかった。


 紅茶のカップへ視線を落とし、それから俺を見る。


「はい」


「そっか」


「ただし、毎日二時間を義務化するのは反対です」


「何で?」


「休むことが新しい義務になります」


「ああ……」


 それは嫌だ。


「じゃあ、やりたい時?」


「必要な時、できそうな時、あるいは何となくそうしたい時でもよろしいかと」


「何となくでも?」


「はい」


「セリーが何となく休みたいって言う日もある?」


「今後は、あるかもしれません」


「その時教えて」


「主様も」


「うん」


 昨日の二時間を、今日もやらなければならない決まりにはしない。


 昨日休めたから、今日も休めるはずだとも決めない。


 休むことさえ、固定された命令にしない。


「今日は?」


 俺が尋ねる。


 セリーは少し考えた。


「今は、朝食を終えたいです」


「同意」


     ◇


 白鴉療養所では、保存されていた少年が歩行訓練の準備をしていた。


 昨日より脚の重さは少ない。


 だからといって、歩く回数はまだ決めていない。


「今日はどうする?」


 ヨアヒムが尋ねる。


「いっかい」


「一周?」


「うん。いっかいあるいて、それからきめる」


「了解」


 少年は手すりへ手を置く。


 少し離れたところでは、例の老人がパンを食べながら見ていた。


「今日は小さいな」


 少年が老人のパンを見る。


「そっちも」


「これは朝だからだ」


「きのうも、あさ」


「昨日とは腹の具合が違う」


「ずるい」


「何がだ」


 ヨアヒムが笑う。


「歩く前にパンの大きさで喧嘩しない」


「けんかじゃない」


「比較だ」


「二人とも同じこと言うんだな」


 少年は笑ってから歩き始めた。


 一周。


 ゆっくり。


 途中で立ち止まらず、戻ってくる。


「脚は?」


「ちょっと」


「重い?」


「ちょっとだけ」


「もう一周したい?」


 少年は考える。


 以前なら、「昨日できたから」と答えていたかもしれない。


 今日は自分の脚を見る。


「……やめる」


「了解」


「きのうより、できない?」


「昨日と今日は別だよ」


「でも、いっかい」


「一回歩けた」


「うん」


「それで今日は終わりにするって決めた」


 少年は少し考え、頷いた。


「じゃあ、できた」


「何が?」


「やめるの」


 ヨアヒムは笑った。


「それはできたね」


 老人がパンを齧りながら口を挟む。


「やめるのも大事だぞ。わしなんか働くのをやめてからずいぶん元気になった」


「あなたはもう少し動いてください」


「医者はすぐそれを言う」


「治療者です」


「似たようなもんだ」


 少年がまた笑った。


 歩いた回数は増えなかった。


 けれど、それを後退と呼ぶ者はいなかった。


     ◇


 三〇八号室では、白い薬の確認が行われていた。


 少年は寝台へ腰掛け、扉は今日は少しだけ開いている。


 昨日より狭い。


 だが閉じてはいない。


 セリーから引き継いだ担当者が薬を見せる。


「今日も同じ量でいい?」


 少年は薬を見る。


「……うん」


「減らしたい気持ちは?」


「ある」


「増やしたい?」


「ない」


「今すぐ減らす?」


「……しない」


「分かった。同じ量ね」


「うん」


 確認はそれだけだった。


 少年は薬を飲み、水を口へ含む。


「ねえ」


「うん?」


「きのう、減らしたいって思ってた」


「うん」


「今日も思ってる」


「うん」


「でも減らさない」


「うん」


「変?」


「私は変だと思わないよ」


「どうして?」


「減らしたい気持ちと、今すぐ減らすかどうかは別だから」


 少年は少し黙る。


「アルも?」


「何が?」


「そういうの、ある?」


「本人に聞いたら?」


「……今度」


 少年は机の上の赤い布を見る。


 中には、まだ読み終えていない手紙がある。


 今日は触れない。


「手紙は?」


 担当者は確認だけする。


「読まない」


「分かった」


「でも、捨てない」


「うん」


「明日は?」


「明日決めればいいんじゃない?」


 少年は少しだけ笑う。


「みんな、それ言う」


「嫌?」


「……前は嫌だった」


「今は?」


「ちょっと、楽」


 扉の隙間から朝の光が細く差し込んでいた。


     ◇


 午前の終わり頃、旧保養施設の資料室で別冊二の確認が進んだ。


 すべてを一度に開くことはしない。


 読める範囲。


 傷めない範囲。


 必要な箇所だけ。


 やがて、リディアが一枚の頁で止まった。


「管理要求受付の運用補足です」


「内容は?」


 ガルムが椅子を寄せる。


「『本表示は要求主体を示すものにあらず』」


 フェリクスの顔から笑みが消えた。


「もう一度」


「『本表示は要求主体を示すものにあらず』」


「つまり?」


「管理要求受付の表示が出ても、誰が要求したかは表示だけでは分からない」


 ガルムが低く息を吐く。


「本人かもしれない。職員かもしれない。設備かもしれない?」


「少なくとも、要求主体は別記録で確認する必要があるようです」


 続きがある。


「『要求内容、要求主体、対象区画を原系統台帳にて確認後、対応を開始すること』」


「表示だけ見て動くな、ってことか」


「そう読めます」


「今の表示盤がそれだとしても」


「はい。光ったから本人が何か望んだ、とは言えません」


「そもそも今の発光が管理要求受付かも未確定」


「はい」


 フェリクスが腕を組む。


「むしろ、分からないことが明確になりましたね」


「どういう意味だ」


「今までは、光の意味が分からなかった。今は、仮に管理要求受付系統だったとしても、それだけでは要求主体も内容も分からないと分かった」


「答えが一個減ったんじゃなくて、間違った答えを避けられるようになった?」


「その表現が近いです」


 リディアが次の行を見る。


「もう一つあります」


「何だ」


「『受付表示消灯後も、原要求が継続する場合あり』」


 昨日調べた別施設の記録と一致する。


 表示が消えること。


 要求が終わること。


 それは同じではない場合がある。


「この系統でもか」


「少なくとも、この台帳の運用ではそうです」


「消灯条件は?」


「受付処理完了、転送完了、保留登録、原系統解除……複数あります」


「やっぱり、光が消えたから何かが終わったとは言えない」


「はい」


 ガルムが椅子から立つ。


「中央棟へ行く」


「触るためではないですよね?」


 フェリクスが尋ねる。


「お前に言われる日が来るとは思わなかった」


「確認です」


「見比べるだけだ。台帳の図と現物を、位置じゃなく形状で」


「私も行きます」


「当然だ」


     ◇


 中央棟へ戻った三人は、統合盤の前へ立った。


 細い金属片はまだ下がったまま。


 位置変化なし。


 その下の刻みも同じだけ露出している。


 リディアは別冊二そのものを持ち出さず、写した形状記録だけを持ってきた。


「細型識別票の寸法記録があります」


「合う?」


「幅は近いです」


「近いだけ?」


「完全一致ではありません。現在のものを触らず正確に測れないため、誤差があります」


「長さは?」


「露出部分だけでは不明です」


 フェリクスが少し横へ移動する。


「固定具の位置は?」


「記録図では上部二点固定」


「現在の金属片は上側が枠内に入っています」


「一致する可能性はあります」


「可能性」


「はい」


 ガルムが念を押す。


「じゃあ今言えるのは?」


 リディアが整理する。


「別冊二には、管理要求受付の識別票が後年『細型』へ交換された記録がある。現在ずれている金属片は、形状と配置からその識別票である可能性がある。ただし現物を動かしていないため確定していない」


「下の刻みは?」


「不明です」


「よし」


 フェリクスが刻みを見る。


「でも、光の位置と」


「言うな」


「まだ何も」


「顔で分かる」


「最近皆さん、私の顔を読みすぎでは?」


「分かりやすいんだよ」


 その時だった。


 中央棟の扉が開く。


 監視員が顔を出す。


「隊長」


「何だ」


「生活区画から連絡です。子供がアルさんを呼んでいます」


 三人の空気が変わる。


「体調は?」


「問題ありません」


「怖がってる?」


「落ち着いています」


「理由は?」


「本人は、『きのうの、つづき』と」


 ガルムは表示盤を見る。


 それからフェリクスを見る。


「お前はここ」


「はい」


 意外なほど素直な返事だった。


「リディア」


「私も共有許可がありますが、本人がアルさんを指定しているなら、ここに残ります」


「そうしよう」


 ガルムは通信具を取った。


     ◇


 連絡を受けた時、俺は塔の資料室にいた。


『本人が「きのうの、つづき」を話したいと。アルを呼んでいます』


「俺だけ?」


『現時点では、アルさん、とだけ』


「分かった。行く」


 立ち上がる。


 セリーもこちらを見る。


「私も?」


「聞いてみる」


 エルを介して確認する。


 少しして返事。


『本人より、「セリーも」とのことです』


「行こう」


「はい」


 転移の準備をする。


 急がない。


 でも待たせすぎない。


 旧保養施設へ到着すると、ガルムが入口にいた。


「設備側で少し進展した」


「聞いた。今は子供が先」


「ああ」


「設備の話は本人にしない」


「もちろん」


「フェリクスは?」


「中央棟」


「拗ねてる?」


「意外と大人しくしてる」


「成長したな」


「俺も言った」


 俺とセリーは生活区画へ向かった。


 廊下には朝より強くなった日差しが入っている。


 子供の部屋の前で止まる。


 ノックする。


「アルだよ」


「セリーもおります」


 少し間がある。


「はいって」


 扉を開ける。


 子供は卓の前にいた。


 布鞄は床。


 今朝は持たなかったままらしい。


 卓には紙がある。


 描きかけの形。


 「ちがう」の文字。


 別方向へ伸びた線。


 俺は紙を見たが、何も言わない。


「呼んだ?」


「うん」


「ここ座っていい?」


「うん」


 俺は少し離れた椅子へ座る。


 セリーは俺の隣。


「昨日の続きって聞いた」


「うん」


「今、話したい?」


「うん」


「途中でやめてもいい」


「うん」


「記録は?」


 子供はエルを見る。


「エル」


『はい』


「かく?」


『あなたがよければ記録します』


「きのうのひと」


『共有する人も昨日と同じでよろしいですか』


「うん」


「フェリクスは?」


 子供は少し考える。


「まだ」


『承知しました』


 俺は待つ。


 子供が自分の指を見る。


 一本。


 二本。


 けれど、途中で握る。


「せんせい」


「うん」


「できたら、ひとつ」


「うん」


「ぼく、できたって」


「先生が言った?」


「うん」


「何ができたか、話したい?」


 子供は黙る。


 俺は待つ。


「……こわくない」


「それが?」


「うん」


 胸の奥が冷える。


 でも顔には出さない。


「先生が、『怖くない』って?」


「うん」


「あなたは?」


 子供の指が震える。


「こわかった」


「うん」


「でも」


 口が止まる。


 セリーも動かない。


「せんせい、こわくないって」


「うん」


「ぼく、こわいって、いった」


「うん」


「ちがうって」


 子供の目が下がる。


「誰が?」


「せんせい」


「先生が、あなたの『怖い』を違うって言った?」


 頷く。


「おくすり」


 俺の呼吸が一瞬止まりそうになる。


 けれど、ここで三〇八号室の少年と結びつけない。


 薬が同じだとは限らない。


 先生も同じ人物とは限らない。


「薬があった?」


「うん」


「今ここで使ってる薬?」


 子供は首を横へ振る。


「ちがう」


「分かった」


 それ以上、種類を聞かない。


「おくすり、のんだ」


「うん」


「せんせい、きいた」


「何を?」


「こわい?」


「うん」


「ぼく、こわいって」


「うん」


「まだって」


 俺は眉を寄せそうになる。


「先生が、『まだ』って?」


「うん」


「その後は?」


 子供の両手が膝の上で握られる。


「また、おくすり」


「うん」


「ねむい」


「うん」


「また、きいた」


「怖いかって?」


「うん」


「その時は?」


「……わかんない」


「覚えてない?」


「ちがう」


 子供が首を振る。


「わかんないって、いった」


「あなたが?」


「うん」


「先生は?」


「もうちょっと」


 セリーの指がわずかに動く。


 俺は自分の膝へ置いた手を握り込まないよう意識する。


「それで?」


「また」


「薬?」


 頷く。


「その後も聞かれた?」


「うん」


「怖いか?」


「うん」


「何て答えた?」


 長い沈黙。


 子供の唇が震える。


「……こわくない」


 声が小さい。


「あなたがそう言った?」


「うん」


「その時、本当に怖くなかった?」


 聞いたあとで、少しだけ迷う。


 答えを誘導していないか。


 子供はしばらく黙った。


「わかんない」


「そっか」


「でも」


「うん」


「せんせい、できたって」


 一本の指が立つ。


「ひとつ」


 部屋が静かになる。


 俺はその指を見ないようにする。


 数へ意味を与えない。


「その『ひとつ』が、怖くないって言えたことだった?」


「……うん」


「先生がそう数えた?」


「うん」


「他にもあった?」


 子供の顔が強張る。


 俺はすぐ止める。


「ごめん。今は答えなくていい」


「……ある」


「あるんだね」


「でも、きょうは」


「ここまで?」


「うん」


「分かった」


 そこで終える。


 本当に終える。


 何個あったのか聞かない。


 次は何だったのか聞かない。


 薬の名前も聞かない。


 先生の顔も聞かない。


 木片との関係も聞かない。


「アル」


「うん」


「ぼく」


 子供が胸へ手を置く。


「こわいって、いった」


「うん」


「でも、さいご、こわくないって」


「うん」


「どっち?」


 その質問に、すぐ答えるのは危険な気がした。


「俺には、どっちか一つに決められない」


「なんで?」


「最初に怖いって言ったのは、あなたが言ったことだろ?」


「うん」


「最後に怖くないって言ったのも、あなたが言った」


「うん」


「でも、その間に薬を飲んで、眠くなって、何度も聞かれた」


「うん」


「だから、最後の言葉だけ見て、最初の『怖い』が間違いだったとは俺は思わない」


 子供の目が揺れる。


「でも、せんせい、できたって」


「先生はそう言ったんだね」


「うん」


「俺は、あなたが何を『できるようになった』のか、まだ分からない」


「こわくない」


「本当に怖くなくなったのか、怖いって言いにくくなったのか、薬で感じ方が変わったのか、眠くて分からなくなったのか。今の俺には決められない」


「わかんない?」


「うん」


「おとななのに」


「大人だから、分からないのに分かったって言わない方がいいと思ってる」


 子供が少しだけ俺を見る。


「アル、へん」


「よく言われる」


 セリーが静かに口を開く。


「私は、主様のその点は良いところだと思っております」


「その点は?」


「他にもございます」


「今言う?」


 子供が小さく笑った。


 張り詰めていた空気が少しだけ緩む。


「セリー」


「はい」


「ぼく、こわいっていったの、のこる?」


「残ります」


「こわくないも?」


「あなたが残してよいとおっしゃるなら、残します」


「ふたつ?」


「はい」


「ちがうのに?」


「違っていても、どちらもあなたが言った言葉です」


「せんせい、さいごが、ほんとって」


 俺は息を吐く。


「先生はそう言った?」


「うん」


「俺たちは、そう決めない」


「なんで?」


「最後だから本当とは限らないから」


「さいしょは?」


「最初だから本当とも限らない」


「じゃあ、どれ?」


「今は分からない」


「また」


「うん。また」


 子供はしばらく俺を見ていた。


 やがて、肩から少し力が抜ける。


「じゃあ、ふたつ」


「二つ残す?」


「うん」


「エル」


『はい』


「本人の許可通り。最初の『怖い』と、後の『怖くない』をどっちも残して。間に薬と繰り返し確認があったことも」


『記録します』


「先生の『できた』『ひとつ』も、先生の評価として分けて」


『承知しました』


 子供がエルを見る。


「ぼくのと、せんせいの、ちがう?」


『分けて記録します』


「うん」


 子供は頷いた。


 それから、床の布鞄を見る。


「きょう」


「うん」


「まだ、もたない」


「分かった」


「あとで、かわるかも」


「うん」


「それも、ふたつ?」


「今持たないことと、あとで持つかもしれないこと?」


「うん」


「どっちもあっていいと思う」


 子供は少し笑った。


「いっぱい、ある」


「そうだな」


「めんどう」


「それも、よく分かる」


     ◇


 部屋を出ると、ガルムが廊下の先で待っていた。


 共有許可はある。


 けれど、本人の前へ勝手には入らなかった。


「聞いた」


「うん」


「大丈夫か?」


「俺?」


「お前も」


 少し考える。


「腹は立ってる」


「俺もだ」


「でも、先生が誰かはまだ分からない」


「ああ」


「三〇八号室の先生と同じとも限らない」


「ああ」


「薬も同じか分からない」


「ああ」


「『ひとつ』が他に何を数えてたかも分からない」


「ああ」


「でも、本人が怖いって言った後に、薬を使って繰り返し聞いて、最後に怖くないと言わせたように見える」


「そこは記録通りだ」


「うん」


 壁へ背を預ける。


「嫌だな」


「何が」


「最後の答えだけ取れば、本人が納得したように見える」


 ガルムが黙る。


「記録の作り方次第じゃ、『最終確認で恐怖なし』って書ける」


「書けるな」


「その前を消さなくても、下に埋めるだけで」


「ああ」


 昨日まで調べていた制度。


 最初の意思。


 後の意思。


 安定申告。


 最新申告。


 参考記録。


 判断不安定。


 確認簡略化。


 どれも、それだけなら理由がある。


 だが、扱い方次第で人の言葉を変えられる。


「設備側は?」


 俺が聞く。


「別冊二で、ずれた金属片が『管理要求受付』の細型識別票である可能性が出た」


「確定?」


「してない」


「下の刻みは?」


「不明」


「光は?」


「仮に管理要求受付系統だったとしても、表示だけじゃ誰の要求かも内容も分からないことが判明した」


「そっか」


「見に行くか?」


 考える。


「今日は見なくていい」


「いいのか?」


「見ても触らないんだろ?」


「ああ」


「ならリディアとフェリクスに任せる」


「分かった」


 ガルムが少し笑う。


「変わったな」


「昨日休んだからかな」


「何だそれ」


「二時間何もしなかった」


「お前が?」


「セリーと」


「……そうか」


「何その顔」


「いや」


「何だよ」


「別に」


「絶対何かあるだろ」


 ガルムは答えず歩き出した。


     ◇


 昼過ぎ。


 別冊二の最後に近い部分から、もう一つの記録が見つかった。


 フェリクスが最初に気づいた。


「リディアさん」


「はい?」


「ここ」


 指は触れない。


 視線だけで示す。


「『識別票転記一覧』」


 リディアが慎重に読む。


「……ありますね」


「管理要求受付は?」


「待ってください」


 一覧は一部欠けている。


 旧夜間第一。


 旧夜間第二。


 受所確認。


 身体状態監視補助。


 そして。


「管理要求受付」


 三人の空気が止まる。


「転記文字」


 ガルムが言う。


 リディアが読む。


「『要』」


「一文字?」


「そのようです」


「識別票には『要』と刻まれてた?」


「この記録をそのまま読むなら」


 フェリクスが中央棟の方向を見る。


「今見えている刻みは」


「まだ言うな」


「分かっています」


「形は?」


「露出しているのは数ミリです。『要』の一部かどうか、今の状態では判断できません」


「他の識別票は?」


「夜間第一が『夜一』、夜間第二が『夜二』、受所確認が『受』、身体状態監視補助が『身』」


「管理要求受付だけ『要』」


「はい」


 ガルムはしばらく黙った。


「写真で比べる」


「はい」


 中央棟の現物には触れない。


 高解像度の記録画。


 台帳に残る転記文字。


 文字の線幅。


 刻み方。


 比較する。


 フェリクスが何度も角度を変える。


「……一致とは言えません」


「違う?」


「違うとも言えません」


「つまり?」


「露出部分が少なすぎます」


 ガルムが頷く。


「それでいい」


「悔しいですね」


「動かせば見えるぞ」


「誘惑しないでください」


「する気?」


「ありません」


 リディアが笑う。


「では、『管理要求受付の細型識別票には「要」と刻まれていた記録あり。現在ずれている金属片との一致は未確認』で残します」


「それで」


「はい」


 答えは近づいた。


 だが、まだ届かない。


 誰も金属片を動かさなかった。


     ◇


 午後、俺とセリーは塔へ戻った。


 子供の言葉が頭に残っている。


 怖い。


 分からない。


 怖くない。


 そして先生の「できた」。


「アル」


「うん」


 今日はセリーがもう一度、そう呼んだ。


「何?」


「お茶になさいますか?」


「うん」


「甘いものは?」


「ある?」


「ございます」


「じゃあ欲しい」


「承知しました」


 いつもの席へ座る。


 セリーが青い砂糖を少しだけ乗せた焼き菓子を出す。


「青だ」


「はい」


「何かのご褒美?」


「食べたいと思ったので作りました」


「セリーが?」


「はい」


「俺のためじゃなく?」


「主様にも差し上げます」


「そっか」


 妙に嬉しい。


 セリーが自分のために何かを作る。


 それを俺にも分ける。


 以前なら、俺の世話として作っていたかもしれない。


「何ですか?」


「いや。いいなと思って」


「焼き加減でしょうか」


「それも」


 一つ食べる。


 甘い。


「今日、二時間休む?」


 俺が尋ねる。


「今日は一時間ほどがよいです」


「何で?」


「夕方に行いたい整備がございます」


「仕事したい?」


「はい」


「休みたくないからじゃなく?」


「仕事もしたいです」


「そっか」


 昨日休んだから、今日も同じだけ休む必要はない。


 セリー自身が一時間を選ぶ。


「じゃあ一時間」


「主様は二時間休みたいのでしたら、お一人で続けてもよろしいのですよ」


「……その発想なかった」


「一緒でなければ休めないわけではございません」


「でも、一緒もいい」


「はい」


 セリーが微笑む。


「私もそう思います」


 心臓が少しだけ速くなる。


 昨日、触れなかった手を思い出す。


 今日はそこまで近くない。


 それでいい。


     ◇


 夕方。


 旧保養施設の子供は、朝から置いたままだった布鞄を持ち上げた。


 ナディアは何も言わない。


 子供が自分から口を開く。


「いま、もつ」


「うん」


「きょう、あさ、もたなかった」


「うん」


「いま、もつ」


「うん」


「どっちも、ぼく」


「そうだね」


「こわいも?」


 ナディアは子供を見る。


「うん」


「こわくないも?」


「あなたが言った言葉として、どっちも残ってるよ」


「でも」


 鞄を抱く。


「こわくない、いったとき、ぼく?」


「そこにいたのは、あなたなんだと思う」


「おくすり」


「うん」


「ねむかった」


「うん」


「でも、ぼく?」


「私はそう思う。でも、その時にどれくらい自分で考えられたのかは、私には分からない」


「アルも、わかんない」


「うん」


「みんな、わかんない」


「そうだね」


 子供は少し考える。


「せんせいだけ、わかった?」


 ナディアは答えを急がなかった。


「先生は、分かったと思っていたのかもしれない」


「ほんとに?」


「それは分からない」


「また」


「まただね」


 子供が少し笑う。


「ナディア、わかんない、おおい」


「アルさんより多いかも」


「フェリクスは?」


「分からないことを見つけると喜ぶ人」


「へん」


「うん」


 少し間を置いて、子供が言う。


「フェリクス」


「うん」


「きょうの、はなし」


 ナディアは待つ。


「いっていい」


「今日話した先生と薬のこと?」


「うん」


「フェリクスさんにも?」


「うん」


「どうして変えたか、聞いていい?」


「……さわらなかった?」


「何に?」


「ぼくの」


「木の札?」


「うん」


「触ってないよ」


「きのうも?」


「触ってない」


「きょうも?」


「触ってない」


「じゃあ」


 子供は布鞄を少し強く抱いた。


「いっていい」


「分かった」


 共有範囲が一人増えた。


 誰かが説得したわけではない。


 フェリクスが頼んだわけでもない。


 触らないことを続けた。


 その結果を、子供が自分で見ていた。


     ◇


 フェリクスへ共有許可が出た時、本人は資料室にいた。


 ガルムが伝える。


「子供から許可が出た」


「何の?」


「昨日と今日の先生の話」


 フェリクスが動きを止める。


「私にも?」


「ああ」


「理由は?」


「お前が木片に触らなかったかららしい」


 しばらく返事がなかった。


「フェリクス?」


「……そうですか」


「嬉しい?」


「少し」


「少し?」


「かなり」


 素直だった。


「じゃあ聞くか」


「はい」


 ガルムが内容を伝える。


 薬。


 恐怖の確認。


 「怖い」から「分からない」、そして「怖くない」。


 先生による「できた」。


 「ひとつ」。


 フェリクスは最後まで口を挟まなかった。


「どう思う」


「推測でよければ」


「言え」


「段階評価です」


「何の?」


「感情反応の抑制、あるいは恐怖反応の低下を何らかの処置達成条件としていた可能性があります」


「薬で?」


「可能性です。薬だけとは限りません」


「白鴉の薬と関係ある?」


「分かりません」


「三〇八号室は?」


「分かりません」


「王家精神安定化計画は?」


「分かりません」


 ガルムが少し笑う。


「お前も分からない増えたな」


「研究とはそういうものです」


「先生が怖くないと言わせた?」


「それも断定できません。本人が本当に一時的に恐怖を感じにくくなった可能性もある。眠気や認知変化で答え方が変わった可能性もある。繰り返し質問されたことで期待される答えを学習した可能性もある」


「どれかを決める材料は?」


「現時点では不足しています」


「じゃあ決めない」


「はい」


 フェリクスは少し黙ったあと、言う。


「隊長」


「何だ」


「触らないというのも、調査になるのですね」


「今さら?」


「理解はしていました」


「実感した?」


「はい」


 フェリクスは自分の手を見る。


「何もしなかったことで、情報が増えました」


「子供が話してくれた」


「はい」


「なら覚えとけ」


「覚えておきます」


     ◇


 夜。


 中央棟の表示盤に発光はなかった。


 ずれた金属片も動かない。


 下の刻みは数ミリだけ見えている。


 別冊二には、管理要求受付の細型識別票が存在した記録と、その転記文字が「要」だった記録が残っていた。


 だが、現物はまだ確認できない。


 誰も動かさない。


 午後十一時。


 変化なし。


 午前零時。


 変化なし。


 午前一時十三分。


 地下から、ごく弱い振動が一度だけ観測された。


 約二秒。


 表示盤に変化なし。


 西壁音なし。


 北外壁滴状物なし。


 第二線、目視変化なし。


 午前一時二十分。


 変化なし。


 午前二時。


 変化なし。


 そして午前三時三十八分。


 監視員の一人が、表示盤の前で足を止めた。


「……あれ」


「どうした」


「金属片」


 二人で見る。


 昨日、三・二ミリ下がった細い金属片。


 位置は変わっていない。


「動いてないぞ」


「そこじゃない」


「何だ」


「下」


 露出した刻み。


 そこへ、ごく弱い青白い光が差している。


 表示盤の窓が光っているのではない。


 刻みの奥。


 細い隙間。


 そこだけが、糸のように淡く光っていた。


「時刻」


「三時三十八分」


「触るな」


「分かってる」


 記録を開始する。


 一分。


 二分。


 光は弱い。


 これまでの発光よりはるかに細い。


 金属片は動かない。


 三分。


 四分。


 五分。


「消えないな」


「リディアさん呼ぶ?」


「呼ぼう。ただし緊急扱いじゃない。観測だけ」


 連絡を入れる。


 光は続く。


 七分。


 八分。


 そして九分を少し過ぎた頃、ゆっくり弱くなった。


 消える。


 金属片はそのまま。


 刻みもそのまま。


 他の表示窓に変化なし。


 地下振動との時間差は二時間以上。


 同時ではない。


 監視員は記録へ書く。


 ――細型金属片下部、露出刻線奥より微弱青白色発光。約九分。自然消灯。接触なし。


 意味は書かない。


 「要」とも書かない。


 「管理要求」とも書かない。


 ただ、見たことだけを残した。


     ◇


 同じ頃。


 名前の分からない子供は眠っていた。


 目を覚まさない。


 布鞄は寝台の横。


 中の木片も動かない。


 卓の紙には、描きかけの形と「ちがう」、そこから別方向へ伸びた線が残っている。


 先生の記憶を話したからといって、紙が変わることはない。


 設備が光ったからといって、子供が起きることもなかった。


 誰も、その二つを結びつけなかった。


     ◇


 朝。


 夜間記録を受け取った俺は、塔の窓際でしばらく紙を見ていた。


「九分か」


『約九分です』


「地下振動とは二時間以上ずれてる」


『はい』


「子供は寝てた」


『はい』


「金属片は動いてない」


『はい』


「別冊二では細型の管理要求受付票があった」


『はい』


「でも、今の金属片がそれとは確定してない」


『はい』


「光ったから要求が来たとも言えない」


『その通りです』


 エルの返答を聞いて、紙を置く。


「分からないな」


『はい』


「でも、昨日より分かってる」


『はい』


 その違いは大きい。


 答えは分からない。


 けれど、何を勝手に答えにしてはいけないかは増えた。


 俺は窓の外を見る。


 朝の森。


 薄い霧。


 遠くで鳥が鳴いている。


 背後からセリーが近づく。


「主様、朝食の準備ができております」


「うん」


「本日は旧保養施設へ行かれますか?」


 少し考える。


「今すぐは行かない」


「承知しました」


「朝飯食べてから決める」


「はい」


 歩き出す。


「セリー」


「何でしょう」


「昨日一時間休むって言ってたけど、結局どれくらい休んだ?」


「一時間です」


「ぴったり?」


「はい」


「俺は?」


「その後、二十分ほど一人で窓を眺めておられました」


「休んでた?」


「私にはそう見えました」


「じゃあ一時間二十分?」


「数える必要はございますか?」


 足を止める。


「……ないな」


「はい」


 また歩く。


 何分休んだか。


 何個できたか。


 何回歩いたか。


 何度持ったか。


 何度拒否したか。


 数えることが悪いわけではない。


 数が必要な時もある。


 薬の量。


 発光時間。


 振動の間隔。


 歩行距離。


 設備の位置変化。


 そこは正確でなければならない。


 けれど、数えたものが、その人の全部になるわけではない。


「アル」


 セリーが呼ぶ。


「うん?」


「止まっております」


「あ」


 また廊下の途中で考え込んでいた。


「朝食が冷めます」


「行こう」


「はい」


 並んで歩く。


 答えはまだ出ていない。


 旧保養施設の地下には、まだ開けていない場所がある。


 表示盤の金属片も動かしていない。


 木片の正体も分からない。


 先生が誰なのかも分からない。


 何を「ひとつ」と数えていたのかも、まだ一つしか明らかになっていない。


 それでも、急いで埋める必要はなかった。


 残された名前。


 残された表示。


 残された記録。


 それらは手掛かりではある。


 けれど、答えそのものではない。


 誰かが昔付けた名前だけで、今ここにいる人間を決めない。


 誰かが昔残した分類だけで、今の意思を決めない。


 そして、たった一つ見つかった言葉だけで、まだ見えていない全体を決めない。


 食堂へ入ると、焼きたてのパンの匂いがした。


 俺は席へ座る。


 セリーも向かいではなく、今日も少し近い席へ座った。


「食べようか」


「はい」


 今朝は、それで十分だった。

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