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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第89話 決めなかった時間にも、ちゃんと意味がありました

 朝食を終えたあとも、名前の分からない子供は布鞄を肩へ掛けたままだった。


 食堂を出る時、ナディアが「部屋へ戻る?」と尋ねると、子供は少し考えてから首を横へ振り、窓の向こうを指した。


「そと」


「庭?」


「うん」


「分かった。上着は着ようか。今朝は少し冷えるから」


 子供は素直に頷いた。


 昨日と同じ薄い上着を羽織り、玄関を出る。夜のうちに雨は降らなかったものの、朝露が草の先へ細かな水滴を残しており、歩くたびに靴の横へ冷たい雫が触れた。


 空はよく晴れていた。


 けれど秋へ向かう風は少しずつ冷たくなっていて、日向と木陰では体感する温度が違う。


 子供は庭の中央まで歩いたところで立ち止まった。


「ここ?」


 ナディアが尋ねる。


「うん」


「座る?」


「まだ」


「じゃあ、少し歩く?」


「うん」


 二人はゆっくり庭を歩いた。


 ナディアは子供の歩数を数えない。


 子供も数えなかった。


 途中、小さな黄色い花の前で止まり、しゃがみ込む。


「これ」


「咲いたね」


「きのう?」


「昨日も咲いてたと思うよ」


「ぼく、みた?」


「私は覚えてないな」


 子供は花を見る。


「みてなくても、あった?」


「たぶんね」


「ぼくが、しらなくても?」


「うん」


「じゃあ」


 指先を伸ばしかけて、花には触れずに止める。


「しらないの、いっぱい?」


「いっぱいあると思う」


「ナディアも?」


「私も」


「アルも?」


「きっと」


「フェリクスも?」


 ナディアが笑う。


「本人は全部知りたがるだろうけどね」


「さわる」


「最近は我慢してるよ」


「ちょっと?」


「かなり頑張ってるんじゃないかな」


 子供がくすくす笑った。


 やがて木陰まで来ると、自分から椅子へ座った。


 布鞄は肩から下ろす。


 膝へ置く。


 両手で抱えるわけではない。


 ただそこにある。


「ナディア」


「なに?」


「きょう、もった」


「うん」


「でも、いま、おいた」


「うん」


「もってない?」


「肩には掛けてないね」


「でも、ここ」


「膝の上にはある」


 子供は鞄を見る。


「もつって、どれ?」


 ナディアは少し考えた。


「何を知りたい?」


「かばん」


「うん」


「かた、ない。でも、ここ」


「それを持ってるって言うかどうか?」


「うん」


「私は、どっちでもいいと思うよ」


「どっちでも?」


「肩に掛けてる時だけを『持ってる』って言ってもいいし、膝に置いて自分で預かってるから『持ってる』って言ってもいい」


「きめない?」


「決めたい?」


 子供は首を横へ振った。


「じゃあ決めなくていい」


「また」


「便利でしょ?」


「アルも、いう」


「似てきたかな」


「ナディア、アル?」


「違うよ」


 子供が笑った。


 少しして、その笑みが静かになる。


 膝の鞄へ手を置く。


「これ、ぼくの」


「うん」


「でも、せんせい、もてって」


「そう言われたんだね」


「うん」


「今は?」


「ぼく、もった」


「今日は自分で?」


「うん」


「それなら、今日はそうなんだね」


 子供はしばらく黙った。


「おなじ?」


「何が?」


「せんせいが、もて。ぼくが、もつ」


 ナディアはすぐには答えなかった。


 同じ動作。


 けれど、同じ意味とは限らない。


「外から見たら、同じに見えるかもしれないね」


「おなじ?」


「鞄を持ってるってところは。でも、どうして持ってるかは違うかもしれない」


「どうして?」


「前は先生に言われたから。今日は自分で持とうと思ったから?」


 子供はゆっくり頷いた。


「じゃあ、ちがう?」


「私は違うところがあると思う」


「でも、かばん、おなじ」


「うん」


「しるしも」


「うん」


「ぼくも、おなじ?」


 子供の手が布鞄の口を押さえる。


 中には木片が入っている。


 ナディアは鞄へ手を伸ばさなかった。


「昨日のあなたと今日のあなた?」


「せんせいのとき」


「あの頃のあなたと今のあなた?」


「うん」


「それは、私には簡単に決められないな」


「なんで?」


「同じあなたが続いてきたとも思う。でも、今は自分で選べることが増えてるから、変わったところもあると思う」


「かわったら、ぼくじゃない?」


「そうは思わないよ」


「なんで?」


「私も昨日と今日で少しずつ変わるけど、ナディアだから」


「なまえあるから?」


「名前だけじゃないと思う」


 子供は黙った。


 まだ自分には名前がない。


 それを気にしているのかもしれない。


 ナディアは名前を付けようとはしなかった。


 やがて子供が膝から鞄を下ろし、椅子の横へ置いた。


「いま、もたない」


「うん」


「でも、あとで、もつかも」


「うん」


「せんせい、いない」


「うん」


「ぼくが、きめる?」


「今はね」


 子供は鞄を見る。


 そして、小さく頷いた。


     ◇


 同じ頃、塔ではアンナマリーが持ち込んだ資料を、俺とセリー、ブラートの三人で確認していた。


 昨日見つかった「保留前申告を再開時の本人意思とみなしてはならない」という古い規則。


 そこから時代が下るにつれて、再確認が簡略化され、やがて「変更申出なき場合は継続意思として処理可」という文言が現れる。


 今日は、その間に挟まる資料が見つかっていた。


「これが、簡略化を始めた頃?」


 俺が尋ねると、アンナマリーが頷く。


「年代から見る限り、その可能性が高いです。ただし同じ制度群に属するかは確定していません」


「内容は?」


「再確認負担に関する検討記録です」


 彼女が紙を一枚前へ出す。


「『同一意思を連日確認することにより、保護対象者の精神的負担が増大する事例あり』」


「やっぱり、最初は負担を減らすためか」


「少なくとも、この資料を書いた者はそう考えていたようです」


 アンナマリーは続きを読む。


「『意思変更の兆候なき場合、確認間隔を延長することを検討』」


「確認をなくすじゃなくて、間隔を延ばす」


「はい」


「次は?」


「『ただし、前回申告を将来意思として固定してはならない。本人より新規申告ある場合は、確認予定日前であっても最新申告を優先すること』」


 俺はその一文をもう一度読む。


「この時点では、かなり慎重だな」


「そうですね」


 ブラートが横から資料を覗く。


「合理的にも見えます。毎朝同じことを聞かれ続けるのは、相手によってはかなり嫌でしょう」


「俺も嫌だと思う」


「アルフォンス様は三日目くらいで『昨日と同じだ』と不機嫌になりそうですね」


「昔の俺なら一日目から言ってたかも」


「否定なさらないのですね」


「今さらだろ」


 セリーが静かに口を挟む。


「主様は現在でも、同じ質問を何度もされれば不機嫌になられる可能性がございます」


「味方いないな」


「事実確認です」


 アンナマリーが小さく笑った。


 その笑いが収まってから、次の紙を広げる。


「問題はこちらです。数年後の運用評価に、確認間隔を延ばした結果が記録されています」


「悪かった?」


「一概には言えません」


「どういう意味?」


「負担軽減については、肯定的な記録があります。確認を嫌がっていた人が落ち着いた例、毎日の質問で不安が強まっていた人が安定した例もあります」


「じゃあ良い面もあった」


「はい」


「悪い面は?」


 アンナマリーの指が、紙の下部へ移る。


「確認予定日前に本人が小さな変更を口にしていたにもかかわらず、正式確認ではないとして主記録へ反映されなかった例があります」


「小さな変更?」


「『今日は少し迷う』『前ほど帰りたくない』『もう少しここにいたいかもしれない』などです」


 胸の奥が重くなる。


「それ、十分変化だろ」


「現在の私たちなら、そう扱うと思います」


「当時は?」


「日常会話記録へは残されています。ただし、意思確認記録には反映されていません」


「正式に聞いた時の答えじゃないから?」


「そのようです」


 ブラートの表情も険しくなる。


「記録を分けたこと自体が問題だったわけではないでしょうが……」


「分けた後、片方を軽く扱った」


「はい」


 アンナマリーが別の行を示す。


「後の監査で問題視されています。『非定例時発語であっても、既存申告との不一致を示す場合は次回確認を待たず意思確認機会を設けること』」


「直そうとはしたんだ」


「はい」


「でも、さらに後には変更申出がなければ継続扱いになる」


「そうです」


 俺は椅子へ背を預けた。


 単純に、昔は良かった、後は悪くなったという話ではない。


 昔の仕組みにも負担はあった。


 それを減らそうとした。


 実際、楽になった人もいた。


 けれど、負担を減らすための簡略化が、いつの間にか小さな変化を拾わない仕組みへ変わった。


(良くしようとして変えたものが、別のところを壊すこともある)


「主様」


「うん」


「考え込んでおられます」


「町の制度も同じだなって」


「支援制度でしょうか」


「うん。書類を減らせば楽になる。でも確認まで減らしすぎたら、必要な人を見落とすかもしれない」


 ブラートが頷く。


「逆に確認を増やしすぎれば、申請するだけで疲弊します」


「正解一個じゃないな」


「だからこそ、運用を見る者が必要なのでしょう」


「でも、その人に全部任せたらまた同じだ」


「ええ」


 俺はアンナマリーを見る。


「この資料、町の支援制度を見てる人たちにも見せられる?」


「古代制度の原本をそのまま、という意味ですか?」


「いや。考え方だけ。確認を減らすと楽になるけど、小さい変化を拾えなくなる場合があるって」


「それでしたら、現代の制度に合わせて整理する必要があります」


「俺じゃなくて、町側でやってもらえる?」


「もちろんです」


「代表会議に渡して、必要なら向こうで変える。俺の承認はいらない」


 ブラートが少し笑った。


「ずいぶん自然におっしゃるようになりましたね」


「何が?」


「『俺の承認はいらない』と」


「だって町の制度だろ」


「以前のアルフォンス様なら、関わった以上は最後まで確認なさったと思います」


 否定しようとして、できなかった。


「……そうかも」


「今は?」


「必要なら相談には乗る。でも、俺がいなくても回る方がいい」


 言ってから、自分の胸の内を探る。


 寂しくないわけではない。


 自分が必要とされなくなることへの、小さな空白。


 けれど、その空白よりも、町の人間が自分たちで決められることの方が嬉しい。


「少し寂しいですか?」


 アンナマリーに聞かれた。


「ちょっと」


「それでも任せる?」


「うん」


「でしたら、その寂しさも消さなくていいと思います」


「……最近みんな、俺にそれ言うな」


「何をです?」


「消さなくていいって」


「主様が何でも整理して片付けようとなさるからでは?」


 セリーが平然と言う。


「俺、そんな?」


 三人とも答えなかった。


「そこ黙るのやめない?」


     ◇


 旧保養施設では、昼を過ぎても設備に目立った変化はなかった。


 中央棟の統合型表示盤は消灯したまま。


 地下振動もない。


 北外壁の滴状物も現れない。


 フェリクスは設備室ではなく資料室にいた。


 それだけで、巡回してきたガルムが妙に感心した顔をする。


「何です、その顔」


「いや。ちゃんと座ってるなと思って」


「私は犬ではありません」


「犬の方が待てできるぞ」


「失礼な」


 リディアが笑いを堪えながら、古い保守簿をめくる。


「こちらに少し気になるものがあります」


 フェリクスがすぐ横を向く。


「どこです?」


「触らないでください。私が読みます」


「資料にも触らせてもらえなくなったのですか?」


「今持っている頁が脆いので」


「それなら納得です」


 リディアが指先で紙を押さえる。


「統合盤更新後の点検記録です。『識別票一部欠損』」


 ガルムが近づく。


「いつの記録だ」


「年代は欠けています。ただ、統合型への更新後です」


「続き」


「『旧系統三、追加系統二。識別票一部欠損につき、原系統台帳との照合まで仮番号管理』」


 フェリクスの目が鋭くなる。


「旧系統三、追加系統二」


「数は記録してください。ただし現在見えている表示窓と直結させないでください」


「分かっています」


 リディアがさらに読む。


「『仮番号は位置順とせず、台帳照合順に付与』」


「位置順じゃない?」


 ガルムが眉を寄せる。


「はい」


「じゃあ、一番上が一番とか、右から一番二番とかじゃない」


「少なくとも、この点検時の仮番号は違います」


 フェリクスが紙へ顔を近づけるが、触れない。


「原系統台帳は?」


「添付欄があります」


「あるのですか?」


「『別冊二』」


 三人の視線が机の周囲へ動く。


 資料棚。


 保管箱。


 壁際に積まれた古い帳簿。


 ガルムが先に口を開いた。


「探すのはいい」


「はい」


「でも今日中に見つける必要はない」


「……まだ何も言っていません」


「顔が言ってる」


「別冊二ですよ?」


「そうだな」


「原系統台帳かもしれない」


「かもな」


「表示の由来を切り分けられる可能性がある」


「可能性はな」


「探しましょう」


「休憩してから」


 フェリクスが天井を仰ぐ。


「なぜです?」


「昼からずっと読んでるからだ」


「まだ三時間です」


「三時間だ」


「研究者にとっては短時間です」


「人間にとっては長い」


「私は研究者です」


「人間やめたのか?」


 リディアがとうとう笑った。


「フェリクスさん、休みましょう。私も目が疲れました」


「リディアさんまで」


「別冊二が逃げるわけではありません」


 フェリクスが棚を見る。


「……それは、以前なら納得できない理屈でした」


「今は?」


「少しだけ理解できます」


「成長したな」


「隊長に言われると腹が立ちます」


     ◇


 午後、俺は町へ降りた。


 支援窓口の様子を見るためでも、代表会議へ命令するためでもない。


 頼まれていた古代制度の資料要点をアンナマリーが整理したので、それを町へ届けるついでだった。


 窓口では、若い職員が一人の女性と話していた。


「こちらの欄ですが、ご本人では書きにくいですか?」


「字が、あまり……」


「でしたら私が代筆できます。内容は一つずつ確認しますね」


「いいんですか?」


「はい。ただ、私が勝手に決めて書くことはできませんので、分からないところは分からないままで一度止めます」


 俺は少し離れたところで足を止めた。


 女性は何度も謝りながら椅子へ座る。


 職員は急かさない。


 後ろには二人ほど待っている人がいるが、不満を口にする者はいなかった。


 受付の別の職員が待っている人へ声をかけ、急ぎの用件かどうかを確認している。


「アル?」


 後ろから声をかけられ、振り返る。


 代表の一人、ベンノだった。


「来てたのか」


「今来た」


「何か問題?」


「いや。資料届けに」


「また古い塔のやつか?」


「制度の考え方だけな」


「難しいのは勘弁してくれよ」


「アンナマリーが町向けにしてくれた」


「じゃあ読めるか」


「俺が作ったら読めないみたいに言うな」


「王子様の文章なんて堅そうだろ」


「元だって」


「知ってる」


 ベンノは笑ってから、窓口を見る。


「あの人、昨日も来たんだ」


「そうなの?」


「書類途中で帰った」


「何かあった?」


「疲れたって」


「今日は続き?」


「いや、最初からやり直すか聞いたら、昨日書いたところは残したいって」


 俺は女性の手元を見る。


 紙には、途中まで記入された欄がある。


「残せるの?」


「本人が残したいなら。間違ってるところだけ直す」


「そっか」


「前は、途中で帰ったら最初から書き直しにしてたんだよ」


「何で?」


「その方が職員が分かりやすいから」


 ベンノは苦笑する。


「でも、書く方はしんどいだろ」


「うん」


「だから変えた」


「誰が決めた?」


「窓口と代表会議」


「俺に聞かず?」


「聞く必要あった?」


「ない」


 即答すると、ベンノが笑った。


「じゃあいいだろ」


「うん」


 胸の奥に、少しだけ変な感覚があった。


 自分の知らないところで制度が変わった。


 けれど、それは嫌な感覚ではない。


(本当に、俺がいなくても変わっていくんだな)


 寂しさが少し。


 安心がそれより多い。


 窓口の女性が、職員の代筆した文章をゆっくり確認している。


「ここ……昨日は、働けないって書いたんですけど」


「はい」


「今日は、午前だけならできるかもって思って」


「では、昨日の申告を消して今日の内容へ変えますか? それとも、昨日は難しかったことも残しますか?」


 女性が迷う。


「……残したら、駄目ですか?」


「大丈夫ですよ。昨日の状態と今日の状態を分けて書けます」


「じゃあ、それで」


 俺はその会話を聞きながら、何も言わなかった。


 口を出す必要がない。


 町の人間が、町の人間へ確認している。


 昨日と今日が違うことを、どちらかの嘘にしない。


 それだけでいい。


     ◇


 塔へ戻ったのは夕方だった。


 扉を開けると、セリーが玄関近くにいた。


「お帰りなさいませ、主様」


「ただいま」


「町はいかがでしたか?」


「俺いらなかった」


「それは何よりです」


「即答だな」


「主様が望んでおられたことでしょう?」


「うん」


 外套を渡す。


「でも、ちょっと寂しい」


「それも何よりです」


「何で?」


「主様が町を大切に思っておられる証拠ですので」


「そういうもの?」


「私はそう考えます」


 セリーは外套を掛け、それから俺を見る。


「ところで主様」


「何?」


「本日の予定を覚えておられますか?」


 嫌な予感ではない。


 でも何かを忘れている気がする。


「夕食?」


「それもございます」


「報告?」


「緊急のものはございません」


「……何だっけ」


 セリーが無言になる。


「あ」


「思い出されましたか?」


「二時間」


「はい」


 非緊急の仕事をしない時間。


 以前、二人でやってみようと話した。


 いつにするかは、その日の状態を見て決めることになっていた。


「今日?」


「私は可能です」


「俺も……たぶん」


「『たぶん』とは?」


「何か来るかもしれない」


「緊急であれば対応いたします」


「緊急じゃなかったら?」


「二時間後です」


「本当にやる?」


「主様が本日やめたいのであれば、やめても構いません」


 俺は少し考える。


 町から持ち帰った資料。


 旧保養施設の別冊二。


 夜の設備観測。


 気になることはたくさんある。


 でも、どれも今すぐ俺がやらなければ人が死ぬものではない。


「やる」


「承知しました」


「何する?」


「何もしないのでは?」


「……二時間ずっと?」


「その予定だったかと」


「難しくない?」


「始める前から変更なさいますか?」


「いや」


 セリーの口元がわずかに上がる。


「では、まずお茶を淹れます」


「それ仕事じゃない?」


「私も飲みたいので」


「便利な理屈覚えたな」


「主様から学びました」


     ◇


 二人で塔の居間へ移った。


 書類は持ち込まない。


 エルには、生命・身体の危険、施設の重大異常、町で即時対応が必要な事件以外は二時間後にまとめてもらうよう頼んだ。


『承知しました』


「本当に大丈夫?」


『現在、主様の即時判断を必要とする案件はありません』


「そっか」


『なお、確認ですが』


「何?」


『二時間の間、私も通常報告を控える認識でよろしいでしょうか』


「うん」


『では、主様』


「何?」


『お休みください』


「エルにまで言われた」


 通信が静かになる。


 セリーが茶を二つ置く。


 今日は赤い果実の茶だった。


 俺は椅子へ座る。


 セリーも向かいではなく、隣へ座った。


「……何する?」


「先ほどもお答えしました」


「何もしない」


「はい」


 一分ほど経つ。


 時計を見る。


「主様」


「はい」


「時計をご覧になるのも禁止にいたしますか?」


「そこまで厳しいの?」


「お任せします」


「じゃあ、見ない」


「承知しました」


 窓の外を見る。


 森。


 夕暮れ。


 鳥が数羽、木々の上を横切っていく。


 風が枝を揺らす。


 塔の中は静かだった。


「セリー」


「はい」


「暇?」


「少し」


「俺も」


「そうですか」


「……会話はしていい?」


「何もしないことに、会話を禁じる条件はなかったと思います」


「よかった」


 少し安心する。


「セリーは、こういう時間あった?」


「以前はほとんどございませんでした」


「俺が寝てる時は?」


「塔の管理、整備、記録整理などを行っておりました」


「ずっと仕事してた?」


「私にとっては自然なことでした」


「今は?」


 セリーは茶を一口飲む。


「今は、こうして座っていることも悪くないと思います」


「暇なのに?」


「暇だからでしょうか」


「どういうこと?」


「まだ分かりません」


「そっか」


 それで会話が途切れる。


 気まずくはない。


 けれど、何かをしなければいけない気がする。


 俺は無意識に机を探し、そこに書類がないことへ気づく。


(落ち着かないな)


 直接そう思う。


 仕事をしていない。


 調査もしていない。


 誰かを助けているわけでもない。


 町を見ていない。


 子供たちの状態を確認していない。


 何もしていない。


 胸の奥が少しざわつく。


「主様」


「うん」


「落ち着きませんか?」


「分かる?」


「先ほどから三度、何もない机をご覧になっています」


「そんな見てた?」


「はい」


「……落ち着かない」


「おやめになりますか?」


 俺はセリーを見る。


 やめる。


 仕事へ戻る。


 そうすれば、たぶんすぐ楽になる。


 でも。


「もう少しやってみる」


「承知しました」


「無理してる感じある?」


「少し」


「止めた方がいい?」


「主様は苦しいですか?」


「苦しいほどじゃない。ただ、何かしないとって思う」


「では、その気持ちがあることを確認したまま、もう少し座ってみますか?」


「うん」


 また静かになる。


 今度は机を見ない。


 窓を見る。


 夕暮れの色が少しずつ濃くなる。


 セリーが隣にいる。


 何もしていない。


 それでも時間は進む。


「セリー」


「はい」


「前にさ、何もしないのも考えるって言ってたよな」


「はい」


「今、どう?」


「思っていたより難しいです」


 思わず笑った。


「セリーも?」


「はい」


「よかった」


「何がでしょう」


「俺だけじゃなかった」


「私も、何かするべきではないかと何度か考えております」


「何したい?」


「棚の埃が少し気になります」


「見ちゃ駄目」


「主様も先ほど机をご覧になっていました」


「じゃあお互い様」


「はい」


 二人で笑う。


 何もしていない時間の中で、初めて少し力が抜けた。


     ◇


 その頃、旧保養施設ではフェリクスたちが別冊二を探していた。


 ただし、休憩を終えてから。


 保管箱を一つずつ確認し、表紙と目録だけを見る。


 無理に開かない。


 脆いものはリディアが状態を確認してから扱う。


「別冊一」


「次」


「設備補修記録」


「次」


「夜間勤務引継簿」


「次」


「……『統合監視原系統台帳』」


 フェリクスの声が止まった。


 ガルムがすぐ横を見る。


「別冊二?」


 表紙の下部。


 薄れた文字。


「別冊……」


 リディアが灯りの角度を変える。


「二、に見えます」


「開くな」


 ガルムが先に言う。


「まだ触っていません」


「顔が開いてる」


「顔は関係ないでしょう」


 表紙は乾燥している。


 綴じ紐の一部が劣化し、端には虫食いもある。


 リディアが慎重に状態を確認する。


「今ここで開くより、保存処置をしてからの方がいいです」


「どれくらい?」


「明日の朝まで置いた方が安全です」


 フェリクスが固まる。


「明日」


「はい」


「朝」


「はい」


「今は?」


「開きません」


「一頁だけ」


「駄目です」


「表紙の裏だけ」


「駄目です」


「目録だけ」


「駄目です」


 ガルムが肩を叩く。


「待て」


「見つけたのですよ?」


「見つけたからこそ壊すな」


「……正論なのが腹立たしい」


「休止を優先、だろ?」


 フェリクスが黙る。


 少しして、長く息を吐いた。


「分かりました」


「本当に?」


「明日の朝まで待ちます」


「勝手に夜中来るなよ」


「来ません」


「本当に?」


「……資料室には」


「おい」


「冗談です」


 リディアが台帳を保護箱へ移す。


 その時、廊下から監視員が入ってきた。


「隊長」


「どうした」


「中央棟、変化です」


 フェリクスの目が輝く。


 ガルムが先に立つ。


「何が起きた」


「発光ではありません」


「音?」


「いいえ。統合盤の左端付近で、細い表示片のようなものが少し下がっています」


「触った者は?」


「いません」


「いつ気づいた」


「定時確認時です。直前の記録では変化なし」


「子供は?」


「夕食中です。設備の話はしていません」


「よし。リディア」


「行きます」


「フェリクス」


「はい」


「見るだけ」


「分かっています」


 三人が資料室を出る。


 保護箱の中には、見つかったばかりの別冊二が残された。


 答えが書いてあるかもしれない。


 何も書いていないかもしれない。


 けれど今夜は開かない。


     ◇


 中央棟の統合型表示盤。


 左端。


 これまでほとんど注目されていなかった細い金属片が、確かに数ミリ下へずれていた。


「これ、表示窓ですか?」


 フェリクスが距離を保ったまま尋ねる。


 リディアが首を横へ振る。


「分かりません。枠の一部かもしれません」


「前の写真」


 監視員が記録画を出す。


 昼。


 夕方。


 現在。


 三つを並べる。


「……下がってるな」


 ガルムが言う。


「三ミリ程度でしょうか」


「測る?」


「非接触で外形だけなら」


「やれ」


 リディアが簡易測定具を使う。


「三・二ミリ前後。誤差を考えても位置変化はあります」


「他は?」


「発光なし。第二線変化なし。地下振動なし。西壁音なし」


「外壁?」


「滴状物なし」


「時刻だけ残せ」


「はい」


 フェリクスは金属片を見つめている。


「何か言いたそうだな」


「言っていいですか?」


「推測だって最初に言えば」


「推測です」


「よし」


「識別票の一部だった可能性があります」


 ガルムもリディアも黙った。


「理由」


「位置です。表示窓そのものにしては細すぎる。さらに、以前の修理記録では『由来識別票を併設』とありました」


「でも識別票がどんな形か分かってない」


「はい。だから可能性です」


「もし識別票なら?」


「裏や下に文字がある可能性があります」


「触らない」


「分かっています」


「明日の台帳待ち」


「……はい」


 フェリクスの返事に、少しだけ悔しさが混じる。


 だが近づかない。


 金属片は三・二ミリほど下がったまま。


 誰も戻さなかった。


     ◇


 旧保養施設の食堂では、その頃、名前の分からない子供がスープを飲んでいた。


 布鞄は椅子の横。


 昼は持った。


 夕食へ来る時には持たなかった。


 部屋に置いてきた。


「ナディア」


「なに?」


「かばん」


「部屋にあるね」


「うん」


「取りに行きたい?」


 首を横へ振る。


「でも、きょう、もった」


「うん」


「いま、もってない」


「うん」


「きょう、どっち?」


 ナディアは笑う。


「両方じゃない?」


「りょうほう?」


「持ってた時間もあって、持ってない時間もある」


「ひとつ、きめない?」


「決めたい?」


「……いらない」


「じゃあ両方でいいと思う」


 子供はスープを一口飲む。


「きょう、もった。きょう、もたなかった」


「うん」


「へん?」


「私は変だと思わないよ」


「せんせい、どっちって」


 ナディアの手が止まる。


「先生が、どっちか決めたの?」


「うん」


「何を?」


 子供は答えない。


 ナディアも待つ。


「できた。できない」


「そう言われた?」


「うん」


「何かを?」


「うん」


「何かは、まだ言いたくない?」


 頷く。


「分かった」


「できたら」


 子供はスプーンを置く。


「ひとつ」


 ナディアは反応を抑える。


「先生が?」


「うん」


「『できたら、ひとつ』って言った?」


「うん」


「その先は、今話したい?」


 子供は少し考え、首を横へ振った。


「きょう、ここまで」


「分かった」


「かかない?」


「今の話を?」


「うん」


「記録しないでほしい?」


 子供は迷う。


「……アル、だけ?」


「アルさんだけに伝える?」


「セリーも」


「うん」


「エル」


「うん」


「ガルム」


「うん」


「リディア」


「うん」


「アンナマリー」


「うん」


 少し止まる。


「フェリクス」


 ナディアが待つ。


「……まだ、だめ」


「分かった」


「おこる?」


「たぶん残念がる」


「また?」


「また」


 子供が少し笑った。


「でも、触らないように頑張ってるみたいだよ」


「えらい?」


「それは本人に聞いてみようか」


「きかない」


「そっか」


 子供は再びスープを飲み始めた。


 ナディアはすぐには記録を書かなかった。


 食事が終わってから。


 本人の前で。


 話した言葉を、できるだけそのまま残す。


 「できたら、ひとつ」。


 それ以上の意味を付けずに。


     ◇


 二時間という時間がどれほど長いのか、俺はその日初めて知った気がした。


 途中で時計を見なかったから、正確にどれくらい経ったかは分からない。


 セリーと話した。


 しばらく黙った。


 窓の外を見た。


 茶をもう一杯飲んだ。


 途中でセリーが棚の埃へ目を向け、俺が笑った。


 俺も何度か書類のことを考えた。


 それでも取りに行かなかった。


「主様」


「うん」


「少し眠そうです」


「何もしてないからかな」


「お休みになりますか?」


「寝たら二時間終わりそう」


「それでもよろしいのでは?」


「……確かに」


 椅子へ深く座る。


 セリーも隣で背を預けている。


「セリー」


「はい」


「今、何したい?」


 少し考える。


「このままで」


「俺も」


「そうですか」


「うん」


 目を閉じる。


 眠るほどではない。


 ただ、何もしない。


 何かを決める必要もない。


 時間を有効に使う必要もない。


(これ、最初からできたら楽だったのかな)


 そう思って、すぐに答えを出すのをやめる。


 昔の自分に、今の答えを押しつける必要もない。


 その時の俺には、その時できることしかなかった。


「主様」


「寝てない」


「存じております」


「じゃあ何?」


「手が近いです」


 目を開ける。


 椅子の間。


 俺の右手と、セリーの左手。


 触れてはいない。


 けれど、少し動かせば触れる距離だった。


「あ、ごめん」


 手を引こうとする。


 その前に、セリーの指が少しだけ動いた。


 触れない。


 ただ、逃げもしない。


「セリー?」


「何でしょう」


「いや」


 手をそのままにする。


 セリーもそのまま。


 触れていない。


 だから何も起きない。


 けれど、妙に意識する。


(落ち着かない)


 さっきとは違う意味で。


「主様」


「何?」


「お顔が赤いです」


「今度は部屋暑くない?」


「適温です」


「知ってた」


 セリーが笑う。


 俺も笑った。


 結局、その手は最後まで触れなかった。


 けれど、どちらも遠ざけなかった。


     ◇


 二時間が終わったことを告げたのはエルだった。


『設定時間が経過しました』


「……もう?」


『はい』


「意外と最後は早かったな」


『通常報告を再開してよろしいでしょうか』


「うん」


『では三件ございます。いずれも現時点で緊急性はありません』


「聞く」


 一件目。


 町の代表会議が、確認頻度と申告負担について次回会議で検討することを決定した。


 二件目。


 旧保養施設で「統合監視原系統台帳・別冊二」と思われる帳簿を発見。保存状態のため今夜は開かず、翌朝以降に確認予定。


 三件目。


 中央棟統合盤左端の細い金属片が約三・二ミリ下方へ移動。接触なし。原因不明。


「子供は?」


『夕食を終え、現在は生活区画です。身体状態に問題ありません』


「本人から何か?」


 エルがわずかに間を置く。


『本人の許可範囲内で新たな証言があります』


 俺は姿勢を正した。


「聞く」


『先生に関する記憶として、「できた。できない」と区別されていた。「できたら、ひとつ」と言われた、との発言です』


 胸の奥が冷える。


「それ以上は?」


『本人が「きょう、ここまで」としております』


「じゃあそこまで」


『はい』


「誰まで共有?」


『主様、セリー、私、ガルム隊長、リディア、アンナマリー。フェリクスには現時点で共有不可です』


「分かった」


 セリーが隣で静かに聞いている。


「設備の記録とは?」


『別管理です』


「絶対に繋げないで」


『承知しております』


 「できたら、ひとつ」。


 先生が数えていた。


 何かができるたびに。


 終われば「もどる」。


 子供は以前そう話していた。


 それだけなら、繋がって見える。


 だから危険だ。


「アル」


 珍しく、セリーが主様ではなく名前に近い呼び方をした気がして、俺は顔を向けた。


「……今、アルって言った?」


「はい」


「何で?」


「今は、そちらの方がよいかと思いました」


「そっか」


「考えすぎないでください、とは申しません」


「うん」


「ですが、今夜答えを出す必要はございません」


「うん」


「二時間休まれたことも、無駄にはなりません」


「……それ、俺が今から仕事したら休んだ分を取り返さなきゃって考えてるの分かった?」


「はい」


「怖いな」


「長い付き合いですので」


 俺は椅子へ背を預ける。


「台帳、明日なんだよな」


『はい』


「金属片もそのまま?」


『はい』


「子供の続きも、本人が話したくなるまで待つ」


『はい』


「じゃあ今日は終わり」


『承知しました』


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 まだ調べられることはある。


 考えられることもある。


 でも、今日は終わりにできる。


     ◇


 夜。


 名前の分からない子供は、自分の部屋へ戻った。


 布鞄は朝とは違い、卓の横に置かれている。


 子供は紙を広げた。


 昨日の描きかけの四角。


 横に書いた「ちがう」。


 そこから別の方向へ伸びた線。


 ナディアは扉の近くにいる。


「描く?」


「……きょうは、かかない」


「分かった」


「でも、みる」


「うん」


 子供は紙を見る。


 しばらくして、自分で言った。


「きょう、できた?」


 ナディアは問い返さなかった。


「何かできたと思う?」


「わかんない」


「そっか」


「せんせいなら」


 子供の声が少し小さくなる。


「できた、できない、いう」


「うん」


「ナディアは?」


「私は言わない」


「なんで?」


「あなたが何をしようとしてるのか、私は全部知らないから」


「でも、みてた」


「見てたよ」


「かばん、もった」


「うん」


「おいた」


「うん」


「また、もった」


「うん」


「できた?」


 ナディアはゆっくり首を横へ振る。


「それを『できた』にする必要があるのか、私には分からない」


「なんで?」


「持ちたかった時に持って、置きたかった時に置いただけかもしれないから」


「それ、だめ?」


「全然」


「できた、じゃない?」


「『できた』って呼びたいなら呼んでもいい。でも、呼ばなくてもいいと思う」


「ひとつ?」


「数えたい?」


 子供はすぐに首を横へ振った。


「じゃあ数えない」


「なくなる?」


「何が?」


「きょう」


 ナディアは子供を見る。


「数えなくても、今日があったことはなくならないよ」


「ほんと?」


「うん」


「なにも、できてなくても?」


「うん」


 子供は黙った。


 やがて、紙をゆっくり畳む。


「きょう、なにも、きめてない」


「そう?」


「なまえ、きめてない」


「うん」


「え、なまえ、きめてない」


「うん」


「かばん、ずっともつか、きめてない」


「うん」


「しかく、きめてない」


「うん」


「せんせいの、つづき、いってない」


「うん」


「いっぱい、きめてない」


「そうだね」


 子供は不安そうにナディアを見る。


「だめ?」


「私は、だめだと思わないよ」


「でも、きょう、おわる」


「うん」


「きめてないのに?」


「決めてないまま一日が終わってもいいんじゃないかな」


「……いい?」


「うん」


 子供は寝台を見る。


「じゃあ」


 少しだけ表情が緩む。


「きょう、おわる」


「うん」


「ねる」


「うん。おやすみ」


「おやすみ」


 灯りが落とされる。


 卓の上には、答えの出ていない紙が残っている。


 布鞄もある。


 木片も中にある。


 子供の名前はまだない。


 先生の記憶も途中。


 設備の意味も分からない。


 中央棟では、ずれた金属片がそのまま残されている。


 資料室では、別冊二が保護箱の中で朝を待っている。


 何も決まっていないことが、いくつもあった。


 けれど、その夜はそれで終わった。


     ◇


 深夜の監視記録には、短い記載だけが増えていった。


 午後十一時三十分。


 統合盤左端金属片、位置変化なし。


 発光なし。


 地下振動なし。


 西壁音なし。


 北外壁滴状物なし。


 第二線、目視変化なし。


 午前零時四十分。


 変化なし。


 午前一時五十分。


 変化なし。


 午前三時十分。


 変化なし。


 監視員は眠気を追いながら記録を続ける。


 何も起きない時間も残す。


 そして午前四時二十七分。


 中央棟の外が、夜明け前の薄い青へ変わり始めた頃だった。


 統合盤左端の、三・二ミリ下がったままの細い金属片。


 その下。


 昨日までは金属枠の影に隠れていたごく狭い部分に、文字のような刻みが見えていることへ監視員の一人が気づいた。


「……待って」


 隣の監視員が顔を上げる。


「どうした」


「これ」


 指は差すが、触れない。


 灯りの角度だけを変える。


 細い影。


 その奥。


 露出したのは、ほんの数ミリ。


 文字全体ではない。


 読めるほどでもない。


 それでも、ただの傷とは少し違って見えた。


「記録画」


「取る」


「拡大は後で」


「リディアさん呼ぶ?」


「緊急じゃない」


「朝まで待つ?」


 二人は顔を見合わせる。


「待とう」


「うん」


 金属片には触れない。


 引き下げない。


 押し戻さない。


 文字らしき刻みが見えても、読もうとして設備を動かさない。


 記録画だけを残す。


 朝になれば、保護処置を終えた別冊二も確認できるかもしれない。


 けれど、その二つが同じ答えを示すとは限らない。


 夜明け前の監視室で、誰も続きを急がなかった。


 見えているのは、ほんの数ミリ。


 分からないものは、まだ分からない。


 それでも、昨日より一つだけ確かなことがある。


 答えを決めなかった時間は、空白ではなかった。


 触らなかったから残ったものがあり、開かなかったから守れたものがあり、聞かなかったから子供自身の言葉として出てきたものがある。


 待つことと、何もしないことは同じではない。


 そして、決めなかった一日もまた、確かにそこに残っていた。

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