第88話 途中のままでも、選び直せました
夜明け前まで薄く残っていた雲は、朝になると東の空から少しずつ切れ始めていた。
旧保養施設の窓には淡い光が差し込み、長い廊下の石床へ細い四角をいくつも並べている。厨房から鍋の蓋が触れ合う音が聞こえ始めた頃、名前の分からない子供は寝台の上で目を開けた。
昨夜、水を飲むために一度起きたことは覚えている。
それからまた眠った。
枕元に置かれた水差しを見たあと、子供は卓へ目を向けた。
二本の線。
途中まで描いた四角。
昨日も完成させなかった紙が、昨夜と同じ場所に残っている。
床には布鞄もあった。
子供は布団から出ると、最初に紙のところへ行った。
しばらく見る。
鉛筆には触れない。
次に布鞄を見る。
こちらにも触れない。
扉の外から、控えめなノックが響いた。
「おはよう。ナディアだよ」
「うん」
「入っていい?」
「うん」
扉が開き、朝の冷たい空気と一緒にナディアが入ってきた。
「眠れた?」
「うん」
「夜に一度起きたって聞いたけど、今は喉どう?」
「だいじょうぶ」
「体、痛いところは?」
「ない」
「気持ち悪くない?」
「うん」
必要な確認だけを終えると、ナディアは卓の紙にも鞄にも触れなかった。
「朝ごはん、もう少しでできるよ」
「うん」
「着替える?」
「うん」
子供は用意されていた服を取った。
着替えが終わり、靴を履く。
それから扉へ向かいかけて、足を止めた。
「ナディア」
「なに?」
「きのう」
「うん」
「ぼく、よる、おきた」
「そうだね」
「なんで?」
「喉が渇いたって言ってたよ」
「ひかり?」
ナディアの表情は変わらなかった。
「何の光?」
「……わかんない」
「部屋で光った?」
子供は首を横へ振る。
「じゃあ、何か光ったと思った?」
「わかんない」
「そっか」
ナディアはそれ以上推測しなかった。
中央棟で夜中に表示盤が光ったことを、子供は知らない。
伝える必要も、今のところない。
「何か怖い?」
「いま?」
「うん」
子供は少し考えてから首を横へ振った。
「じゃあ、ご飯行く?」
「うん」
扉へ向かう。
布鞄は今日も置いたままだった。
◇
塔で朝の報告を聞いた俺は、紅茶のカップを持ったまま黙っていた。
『夜間の中央寄り発光は、午前一時二十六分から一時四十四分まで継続。途中で一度輝度低下がありましたが、完全消灯はありませんでした』
「十八分くらいか」
『はい』
「他の変化は?」
『同時間帯に地下振動、西壁音、北外壁滴状物、第二線の目視変化、旧職員詰所表示変化は確認されておりません』
「子供が起きたのは?」
『生活記録上、設備記録との詳細な時刻照合は行っておりません』
「それでいい」
昨夜の報告を聞いた時にも、ガルムとリディアは同じ判断をしている。
設備の発光。
子供の夜間覚醒。
今のところ、両者を結びつける理由はない。
『なお、今朝本人よりナディアへ「ひかり?」との発言がありました』
カップを置く。
「……何について?」
『本人も「わかんない」と回答しています。ナディアは中央棟の発光について伝えておりません』
「他に何か?」
『ありません』
「怖がってる?」
『現在の本人申告では否定しています。身体状態にも急変はありません』
「なら、そこまで」
『承知しました』
気になる。
当然、気になる。
(光って何だ)
昨夜、中央棟では実際に光が点いていた。
子供は知らないはずだ。
それでも朝になって「ひかり?」と言った。
偶然かもしれない。
夢かもしれない。
部屋へ差し込んだ月明かりや、廊下の灯りのことかもしれない。
あるいは、まったく別の何か。
「主様」
セリーの声で、思考が戻る。
「うん」
「パンを持ったまま止まっておられます」
見ると、本当に右手にちぎったパンを持っていた。
「……危なかった」
「何がでしょう」
「このまま考え始めたら、朝食終わらなくなるところだった」
「では、お食べください」
「はい」
パンを口へ入れる。
セリーが満足そうに紅茶を飲んだ。
「でも、気になるな」
「それは当然かと存じます」
「聞きに行きたい」
「本人へでしょうか」
「……いや」
自分で答えてから、少しだけ肩の力が抜けた。
「本人が何の光か分からないって言ってるのに、こっちから設備の光を教えて『これ?』って聞いたら、答えを渡すことになる」
「はい」
「それに、もし違ってても、後から本人の中で混ざるかもしれない」
「その可能性はございます」
「じゃあ聞かない」
「よろしいかと」
「でも気になる」
「それも消す必要はないのでは?」
俺はセリーを見る。
「俺が知りたい気持ち?」
「はい」
「知りたい。でも聞かない」
「両立すると思います」
「最近そういうの増えたな」
「どちらか一方へ決める必要のないことが、以前より見えるようになったのではございませんか」
俺は少し考える。
知りたい。
でも、今は聞かない。
心配だ。
でも、本人を怖がっていることにはしない。
設備が気になる。
でも、開けない。
昔の記録を調べる。
でも、今の人間へそのまま当てはめない。
「面倒だな」
「はい」
「そこは否定してよ」
「ですが、主様は少し楽しそうです」
「そう見える?」
「以前よりは」
否定できなかった。
◇
朝食後、旧保養施設の資料室にはフェリクスがいた。
昨夜の発光を知った彼は、予想通り早い時間から資料を読んでいる。
ただし、設備室には行っていない。
ガルムが扉のところから室内を覗く。
「寝たか?」
「はい」
「何時間」
「十分です」
「時間を聞いてる」
「十分な時間です」
「フェリクス」
「六時間ほど」
「ならいい」
「信用がありませんね」
「実績があるからな」
フェリクスの前には、新しく見つかった要求元識別記録の運用補足と、統合盤の保守資料が並んでいた。
「昨夜の中央寄り表示、十八分」
「聞いた」
「現行観測では最長です」
「だから?」
「記録上、です」
「うん」
「意味があるとは言っていません」
「先回りするようになったな」
「隊長との会話を短縮するためです」
ガルムが向かいへ座る。
「で、何見てる」
「要求の終了条件です」
「昨日の続き?」
「はい。表示が消えたことと、要求そのものが終了したことが同じなのか確認しています」
ガルムの表情が少し変わる。
「違う可能性がある?」
「あります」
「説明」
フェリクスは一枚の古い資料を差し出した。
「この運用例では、本人申告による保護継続要求が登録されています。統合表示は受付後に消灯していますが、原系統側の要求記録は『継続』のままです」
「つまり?」
「表示灯は『今そこに要求が存在する』ことをずっと光って示すものとは限らない」
「受付したら消える場合もある?」
「この例では」
「他は?」
「医療担当者からの身体負荷確認要求では、確認が終わるまで点灯継続。その後、確認結果登録と同時に消灯しています」
「同じ表示盤でも消える条件が違う?」
「要求種別や原系統によって異なる可能性があります」
ガルムが眉間を揉む。
「また分からんこと増えたな」
「素晴らしいでしょう」
「お前だけだ、そこで喜ぶの」
そこへリディアが入ってくる。
「何か見つかりました?」
「表示が消えることと、要求が終わることは同義ではない可能性が出ました」
「……では、以前の『ひとつ、ねた』も」
「結びつけない」
フェリクスが即答した。
リディアが少し驚く。
「早いですね」
「学習しています」
「誰だお前」
「隊長?」
「冗談だ」
フェリクスは資料を指で押さえる。
「子供の『ねた』が何を指していたかは不明です。表示が消えたことを本人が知覚していたかも不明。そもそも表示消灯が要求終了を意味するとは限らない。したがって現時点では別です」
「完璧ですね」
「でしょう」
「調子に乗るな」
ガルムの言葉に、フェリクスは肩をすくめた。
「ただ、もう一つ気になる記述があります」
「今度は何だ」
「『要求保留』です」
「保留?」
「はい」
フェリクスが別の資料を開く。
「要求を終了せず、実行もせず、保留状態へ移す運用が存在します」
「本人の意思?」
「例によって違います」
リディアも机へ寄る。
「本人申告の帰還要求。身体負荷が許容範囲を超えたため、本人へ説明した上で保留。本人が『治ってからもう一度決める』と発言」
「その場合、最初の帰還希望は?」
「消していません。ただし、実行待ちにもしていない」
「どう記録されるんです?」
「『要求保留。再開条件を本人再申告とする』」
ガルムが資料を見る。
「勝手に治ったら再開じゃないんだな」
「はい。身体状態が改善しても、本人がもう一度希望しない限り動かさない」
「昨日の意思を今日の命令にしない」
リディアが静かに言った。
「そのように見えます」
フェリクスが頷く。
「ただし別の例では、設備自動要求が保留されています」
「そっちは?」
「交換部品待ち。部品交換後、担当者が再開確認をして解除」
「本人意思とは関係ない」
「はい」
ガルムが大きく息を吐く。
「同じ『保留』でも、戻す条件が違う」
「だから原系統側記録が必要だったのでしょう」
「統合盤だけじゃ分からないわけだ」
「おそらく」
「おそらく?」
「まだ旧保養施設の現物と同一運用だった証拠がありません」
ガルムが頷く。
「そこ忘れんなよ」
「もちろんです」
◇
昼前。
名前の分からない子供は庭へ出た。
今日は布鞄を持っている。
朝食後、一度部屋へ戻った時に自分から持ち上げた。
ナディアは「今日は持つの?」と確認しただけだった。
子供は「うん」と答えた。
昨日まで持たなかった理由も、今日持つ理由も聞いていない。
木陰へ着くと、子供は布鞄を自分の横へ置いた。
「きょう、もった」
「うん」
「きのう、もたなかった」
「そうだね」
「ちがう」
「うん」
「でも」
子供が鞄へ手を置く。
「きのう、まちがい?」
「どうして?」
「きょう、もったから」
「今日持ったら、昨日持たなかったのが間違いになる?」
「……わかんない」
ナディアは隣へ座らず、少し離れた椅子に腰を下ろした。
「私は、ならないと思うよ」
「なんで?」
「昨日は持たないって決めたんでしょ?」
「うん」
「今日は持つって決めた」
「うん」
「決めた日が違うから」
子供が眉を寄せる。
「きょうのぼくと、きのうのぼく、ちがう?」
「同じところもあるし、違うところもあるんじゃないかな」
「なまえ、ない」
突然の言葉に、ナディアは少しだけ息を止めた。
子供自身から、名前について触れることは多くない。
「うん」
「なまえ、ないから、ちがう?」
「名前がなくても、昨日ここにいたあなたと、今日ここにいるあなたはいるよ」
「おなじ?」
「私は、同じあなたが昨日から今日まで生きてると思ってる」
「でも、ちがう?」
「気持ちは変わることがある」
子供は鞄を見る。
「もつ、かわった」
「うん」
「ぼく、かわった?」
「持ちたい気持ちは変わったね」
「ぜんぶ?」
「全部変わったように感じる?」
首を横へ振る。
「じゃあ全部じゃないのかも」
子供はしばらく考えていた。
風が木の葉を揺らす。
「アルフォンス」
「うん?」
「いっぱい、いる?」
ナディアはすぐに意味を決めなかった。
「どういうこと?」
「アル」
「アルさん?」
「ちいさいアルフォンス。へやのアルフォンス。アル」
ナディアは息を整える。
この子が、白鴉の保存されていた少年や三〇八号室の少年について、どこまで知っているか。
職員から詳細を説明したことはない。
ただ、「アルフォンス」という名前を持つ人が複数いるらしいことは、以前の会話や施設内の断片から感じ取っている可能性がある。
「誰のことを言ってるか、私は全部は分からないな」
「アル、いる」
「うん」
「ほかも?」
「その話を誰から聞いた?」
子供は首を傾げる。
「きいた?」
「誰かが教えた?」
「……わかんない」
「そっか」
ナディアは追わなかった。
「アルさん本人に聞きたい?」
「いまは、いい」
「分かった」
「ぼく、なまえない」
「うん」
「あとで、つける?」
「つけたくなったら?」
「つけなくても?」
「私は困らないよ」
「ずっと?」
「呼ぶ時には困ることもあるかもしれないけど、その時はどう呼んでほしいか一緒に考えられる」
「なまえじゃなくても?」
「うん」
子供は少し笑った。
「へんなの」
「そう?」
「みんな、なまえある」
「そうだね」
「ナディア」
「うん」
「アル」
「うん」
「セリー」
「うん」
「ガルム」
「うん」
子供は指を折りかけて、途中でやめた。
「かぞえない」
「うん」
「でも、いっぱい」
「そうだね」
「ぼくは?」
ナディアは子供を見る。
「今は、あなた」
「あなた?」
「うん」
「へん」
「じゃあ、どう呼ぼうか」
「……きょうは」
子供が考える。
「ぼく」
「『ぼく』?」
「うん」
「私が呼ぶ時も?」
子供が首を傾げる。
少し考えてから、笑う。
「へん」
「でしょ?」
「じゃあ、まだ」
「まだ決めない?」
「うん」
「分かった」
名前は決まらなかった。
それで会話は終わった。
◇
昼食後、俺のところへナディアの報告が届いた。
「名前の話を自分から?」
『はい』
「アルフォンスが複数いるみたいな話も?」
『本人の言葉では、「ちいさいアルフォンス。へやのアルフォンス。アル」です』
俺は黙る。
ちいさいアルフォンス。
保存されていた七歳の少年か。
へやのアルフォンス。
三〇八号室の少年か。
そう考えたくなる。
でも。
「本人に確認してない?」
『ナディアは意味を確定する質問を行っておりません』
「うん。それでいい」
『誰から聞いたかについては一度確認しましたが、本人は「わかんない」と回答しています』
「じゃあそこまで」
『はい』
通信を終えようとして、止める。
「本人は名前を欲しがってる?」
『現時点では、「あとで、つける?」という質問はありましたが、今すぐ名付けたいという申告はありません』
「こっちで付けるのはなし」
『承知しております』
「仮名も?」
『記録上は引き続き「保護児・本人名未申告」で管理しております』
「それで」
通信を切る。
セリーが近くで書類を整理している。
「主様」
「うん」
「お気になさっておりますね」
「名前?」
「はい」
「まあね」
名前。
アルフォンス。
それを巡って、何人もの子供が揺れている。
一人は俺とほぼ同じ魔力波形を持ち、俺の七歳の頃と同じ顔で保存されていた。
一人は自分こそ本物のアルフォンスだと教え込まれている。
そして旧保養施設の子は、まだ名前を名乗っていない。
(だからって、全部を同じ問題にするな)
俺は自分へ言い聞かせる。
「名前って何なんだろうな」
「難しいご質問ですね」
「セリーは最初からセリー?」
「はい。私の登録名です」
「自分で付けたわけじゃない」
「そうですね」
「変えたいと思ったことある?」
セリーは手を止める。
「ございません」
「じゃあ、セリーでいたい?」
「今は、そう思っております」
「そっか」
「主様は?」
「俺?」
「アルフォンスという名を、変えたいと思われたことはございますか」
考える。
王太子だった頃。
追放された頃。
塔へ来た頃。
町で「アル」と名乗り始めた頃。
「捨てたいと思ったことはある」
「今は?」
「アルフォンスでも、アルでもいいかな」
「どちらも主様ですか」
「うん。でも、王太子殿下って呼ばれるのは嫌」
「それは名前ではございません」
「そうだけど、俺にとっては名前みたいな時期があった」
どこへ行っても、王太子殿下。
役割が先に来る。
俺自身よりも。
「アルは楽だった」
「短いからでしょうか」
「それもある。でも、町でアルって呼ばれた時、何も決めなくていい感じがした」
「今もお好きですか」
「うん」
セリーは小さく頷いた。
「では、私はこれからも主様とお呼びいたします」
「話聞いてた?」
「もちろんです」
「そこはアルじゃないの?」
「検討いたします」
「検討なんだ」
「はい」
少しだけ笑った。
◇
午後、旧保養施設では資料調査が続いていた。
アンナマリーから追加で送られてきた写しを、リディアとフェリクスが確認している。
ガルムは設備担当から巡回報告を受けていた。
「北外壁は?」
「滴状物なし」
「中央盤?」
「午前中は発光なし」
「第二線?」
「変化なし」
「西壁?」
「音なし」
「地下?」
「微弱振動もなし」
「よし」
担当者が去る。
フェリクスが資料から顔を上げた。
「隊長」
「今度は何だ」
「保留要求の再開条件について、さらに古い版がありました」
「さっきのと違う?」
「基本は同じです。ただし、明文化の仕方がより厳しい」
リディアが読み上げる。
「『本人意思を要する要求について、保留前申告を再開時の本人意思とみなしてはならない』」
「やっぱりもう一回聞くんだな」
「はい。さらに、『保留解除は処理再開許可ではなく、再確認可能状態への復帰を示す』」
ガルムが眉を上げる。
「つまり、治ったから帰還処理再開、じゃない?」
「そうです。治ったから、改めて聞いてもいい状態になるだけ」
「本人がそこで嫌って言えば?」
「別例では終了扱いです」
「保留前に帰りたいって言ってても?」
「はい」
フェリクスは別の記録を出す。
「高熱で帰還処理を保留された人物。三日後に解熱。担当者が再確認し、本人は『今は帰りたくない』と回答。旧帰還要求は終了。新規の保護継続申告を登録」
「前の帰りたいは?」
「残っています」
「間違い扱い?」
「されていません」
「……徹底してるな」
ガルムが椅子へ深く座る。
「最初は」
リディアが静かに言った。
「そうですね」
フェリクスの表情から少し笑みが消える。
「問題は、後の改訂です」
「あるのか」
「あります」
紙を一枚めくる。
「時期はかなり後です。『保留前に複数回同一申告が確認され、かつ本人状態が安定していた場合、保留解除後の再確認を簡略化できる』」
「簡略化って?」
「ここではまだ、『本人へ前回申告内容を提示し、変更有無のみ確認』です」
「聞いてはいる」
「はい」
「もっと後は?」
フェリクスが黙る。
ガルムが目を細める。
「あるんだな」
「さらに後の補足では、『安定申告について変更申出なき場合、継続意思として処理可』」
「……本人から変更を言わなければ、前のまま?」
「そう読めます」
リディアが資料を机へ置いた。
「でも、本人がその処理を知っているとは限らない」
「そこです」
フェリクスが頷く。
「初期版では、再確認する側に責任がありました。後になるほど、変更を申し出る側へ責任が移っている」
「黙ってたら前の意思が続く」
「はい」
「さらに、以前見つけた『継続的判断不安定』の規則と組み合わさったら?」
ガルムの問いに、部屋が静かになる。
フェリクスはすぐには答えなかった。
「危険です」
「どう危険?」
「過去の安定申告を継続意思として扱い、現在の異なる発言を一時的変動として参考記録へ移せる可能性が生じます」
「昔の『帰りたい』を残して、今の『嫌だ』を弱く扱える?」
「制度上、その余地が出ます。ただし」
「分かってる。旧保養施設で実際そうした証拠じゃない」
「はい」
リディアが腕を組む。
「最初は、保留したら改めて本人へ聞く仕組みだった。それが、同じ答えが続いているなら確認を簡単にしてもいい、になって、さらに変更がなければ継続扱いへ変わった」
「効率化だな」
ガルムが低く言う。
「おそらくは」
「悪意がなくても壊れるか」
「はい」
フェリクスは資料を見る。
「毎回同じことを聞くのは、本人にとって負担になる場合もあります。職員側の手間も増える。だから確認を簡略化する理由自体は理解できます」
「でも、簡単にした結果」
「今日の本人を見なくなる」
リディアの声は静かだった。
「そういうことです」
◇
夕方前、俺にもその報告が届いた。
町から戻ってきたアンナマリーが塔へ寄り、直接説明してくれた。
セリーも同席している。
「最初の制度では、保留後に必ずもう一度聞く」
「はい」
「後の制度では、前の申告を見せて変更があるかだけ確認」
「はい」
「さらに後は、変更申出がなければ継続」
「現時点で確認できた資料では、その流れです」
アンナマリーが紙を机へ並べる。
「ただし、すべて同じ施設の資料ではありません。設計局や管理体系に共通点はありますが、運用場所は複数です」
「分かってる」
「そして、簡略化された時期にも、本人が明確に拒否した場合は止めた記録があります」
「じゃあ、いきなり拒否無視になったわけじゃない」
「はい」
「少しずつ?」
「そのように見えます」
俺は資料を読む。
最初は善意だったのかもしれない。
同じ質問を毎日されるのは苦痛だ。
昨日帰りたいと言った人へ、今日も同じことを聞く。
明日も。
その次も。
それを負担と考えた誰かがいた。
だから簡略化した。
(それ自体は、分からなくもない)
問題は、その後だ。
「確認を減らすこと自体が悪いわけじゃない」
「私もそう考えます」
アンナマリーが頷く。
「三〇八号室の少年の薬だって、毎回長く確認してたら疲れる」
「はい」
「だから今は短くしてる。でも、本人が変えたいって言える余地は残す」
「はい」
「同じことか」
「近い部分はあると思います。ただし、現在の私たちの対応と古い制度を同一視する必要はありません」
「分かってる」
俺は椅子へ背を預けた。
「難しいな」
「はい」
「確認しすぎても負担。確認しなさすぎても、昔の意思が今日を縛る」
「その間を、状況ごとに考える必要があるのでしょう」
「決まり一個で全部は無理か」
「おそらく」
アンナマリーの返答は慎重だった。
「アルフォンス様」
「うん?」
「少し、お疲れではありませんか」
「そう見える?」
「はい」
俺は笑おうとして、やめた。
彼女には、俺が昔の自分を重ねすぎた時に止めてもらうよう頼んでいる。
「ちょっとだけ」
「どの部分でしょう」
「過去の意思が今日を縛るところ」
アンナマリーは黙って待つ。
「王太子だった頃に決めたことって、王太子じゃなくなった後も俺の中に残ってたから」
「はい」
「こうしなきゃいけない。逃げちゃいけない。分からないって言っちゃいけない」
言葉にすると、少し胸が重くなる。
「誰かに記録されてたわけじゃないけど、俺自身が昔の申告を継続扱いしてたみたいな感じがして」
アンナマリーの視線がわずかに揺れる。
「それは、今確認している制度と似ている部分を感じた、ということでしょうか」
「うん。でも同じじゃない」
「はい」
「そこは分ける」
「でしたら大丈夫だと思います」
「もし分けられなくなったら?」
「お止めします」
「頼む」
「はい」
少し間を置き、アンナマリーが微笑む。
「以前の私でしたら、そのお言葉を寂しく感じたかもしれません」
「頼ることを?」
「私に止められることを、アルフォンス様が受け入れてくださることをです」
「今は?」
「嬉しいです」
「何で?」
「婚約者としてではなく、今の私を頼っていただけていると思えるからです」
俺は少し驚いた。
「……そっか」
「はい」
「俺も、その方がいい」
彼女は穏やかに頷いた。
昔の関係を消す必要はない。
けれど、そこへ戻る必要もない。
今の関係は、今の俺たちが作ればいい。
◇
夕食前。
旧保養施設の子供は、部屋の卓へ向かっていた。
庭から持ち帰った布鞄は床へ置いてある。
今日は一日持っていた。
けれど、今はもう肩から下ろしている。
紙を見る。
二本の線。
描きかけの四角。
子供は鉛筆を持った。
ナディアは少し離れた場所にいる。
線を一本引く。
昨日止めた四角の続きを描く。
あと少しで閉じる。
そこで止まった。
「……ちがう」
ナディアが顔を上げる。
「違う?」
「うん」
「どうする?」
子供は四角を見る。
「けす?」
「消したい?」
「わかんない」
「じゃあ、今は消さなくてもいいよ」
「でも、ちがう」
「違うものが残ってるの嫌?」
子供は少し考える。
「……ちょっと」
「じゃあ消す?」
「でも」
「うん」
「かいた」
「描いたね」
「ぼく、かいた」
「うん」
「けしたら、かいてない?」
ナディアは首を横へ振る。
「消しても、描いたことはなくならないと思う」
「みえない」
「見えなくはなるね」
「じゃあ、なくなる」
「紙からは見えなくなる。でも、あなたが描いたことまで起きなかったことにはならない」
子供は鉛筆を置いた。
「いやって、けした」
ナディアの胸が詰まる。
それでも表情を大きく変えない。
「先生が?」
「うん」
「それと同じに感じる?」
子供は四角を見る。
「……わかんない」
「そっか」
「ぼくが、けす」
「うん」
「ぼくの?」
「あなたの紙だよ」
「ぼくが、ちがうって」
「うん」
「けしていい?」
「あなたが消したいなら」
「いやって、けすのと、ちがう?」
ナディアは慎重に言葉を選ぶ。
「私は違うと思う」
「なんで?」
「前の『いや』は、あなたが残してほしかったのに、先生が消したんだよね?」
子供が頷く。
「今の線は、あなた自身が『違う』って思って、自分で消すか考えてる」
「ぼくが、きめる?」
「うん」
「けさなくても?」
「いい」
「けしても?」
「いい」
「あとで、やっぱり、けさないって、できる?」
「消した後だと、同じ線には戻せないかもしれない」
子供の顔が曇る。
「でも、消す前なら待てるよ」
「まつ?」
「うん。消すかどうか、今決めなくてもいい」
子供は長く紙を見た。
やがて、鉛筆も消し具も置く。
「きょう、のこす」
「分かった」
「ちがうけど」
「うん」
「ちがうって、かく?」
「書きたい?」
子供は考える。
紙の端を指差す。
「ここ」
「何て?」
「ちがう」
「私が書く?」
首を横へ振る。
「ぼく」
子供はゆっくり文字を書く。
まだ字形は不揃いだ。
それでも読める。
――ちがう。
描きかけの四角の横に、小さく残った。
「これ」
「うん」
「かいたの、のこる」
「うん」
「ちがうも、のこる」
「うん」
子供は紙を見つめた。
しばらくして、少しだけ笑った。
「これでいい」
◇
その報告が俺へ届いたのは、夕食後だった。
本人の許可範囲内の記録として、エルが読み上げる。
描きかけの四角。
本人が続きを描いた。
途中で「ちがう」と発言。
消去を検討。
過去に先生が拒否記録を消したことを想起。
本人自身が消すこととの違いを確認。
最終的に消さず、横へ本人自身で「ちがう」と記載。
「……そっか」
『はい』
「本人、落ち着いてる?」
『夕食後も状態安定。現在、就寝準備中です』
「よかった」
通信を終える。
俺は窓際へ行った。
夜の塔の外には、森の暗がりが広がっている。
セリーが隣へ来る。
「消さなかったのですね」
「うん」
「間違ったと思った線を」
「線が間違いだったかどうかも、まだ分からないけどな」
「はい」
「でも、自分で『違う』って書いた」
「それも記録ですね」
「うん」
以前の自分。
今の自分。
その間に矛盾があってもいい。
昔の意思を消さず、今の意思も残す。
どちらかを偽物にしない。
「セリー」
「はい」
「俺、昔は王太子になりたくなかったって思ってたのかな」
「私には断定できません」
「だよな」
「ですが、幼い頃の主様は、王太子として褒められると嬉しそうになさることもございました」
「……そうなの?」
「はい」
「覚えてない」
「そうでしょうね」
「じゃあ、王太子やりたかった時もあったのかな」
「可能性はございます」
「今は絶対嫌だけど」
「存じております」
「昔の俺、間違ってた?」
セリーはすぐには答えなかった。
「私は、そうは思いません」
「何で?」
「その頃の主様が何を望んでいたかと、今の主様が何を望むかは、別だからです」
「そっか」
「はい」
「じゃあ昔の俺が王太子になりたかったとしても、今戻らなくていい?」
「当然です」
即答だった。
「そこは早いな」
「主様を王宮へ返すつもりはございませんので」
「怖い言い方するなあ」
「本心です」
俺は笑った。
◇
深夜。
旧保養施設の設備は静かだった。
中央寄りの細窓に発光なし。
右寄りも、下寄りも変化なし。
北外壁に滴状物なし。
地下振動なし。
西壁音なし。
第二線に目視変化なし。
午前零時を過ぎても、何も起きない。
監視員は記録へ「変化なし」とだけ書いた。
午前一時。
変化なし。
午前二時。
変化なし。
何も起きない夜も、記録される。
光らなかったこと。
鳴らなかったこと。
動かなかったこと。
それらを「正常」と決めるのではなく、ただ観測した事実として残す。
◇
翌朝。
名前の分からない子供は目を覚ますと、卓の紙を見た。
描きかけの四角。
その横の「ちがう」。
昨日と同じだ。
消えていない。
子供は椅子へ座る。
紙を手に取る。
「ちがう」
自分で読む。
それから、少し考えた。
鉛筆を取る。
四角の続きを描く。
昨日止めた場所から。
線を伸ばす。
今度は、閉じない。
四角にしようとしていた形の一辺を外へ伸ばし、その先をゆるく曲げる。
扉をノックする音がした。
「ナディアだよ。入っていい?」
「うん」
入ってきたナディアが、紙を見る。
「描いたんだね」
「うん」
「昨日の『ちがう』は?」
「ある」
「消さなかった?」
「うん」
「今日はどうしたの?」
子供は新しく伸ばした線を指す。
「こっち」
「変えた?」
「うん」
「昨日の線は?」
「のこす」
「『ちがう』も?」
「うん」
「いいの?」
子供は紙を見る。
少し考える。
「きのう、ちがった」
「うん」
「きょう、こっち」
「うん」
「でも」
指先が昨日の四角をなぞる。
「これ、あった」
「うん」
「けさない」
ナディアは微笑んだ。
「分かった」
子供はもう一度、新しい線を見る。
「まだ、なまえない」
「この絵に?」
「うん」
「じゃあ、まだでいいね」
「うん」
布鞄は床にある。
今日はまだ、持つかどうか決めていない。
紙の絵にも名前はない。
子供自身の名前も、まだ決まっていない。
途中のものが、いくつもある。
それでも昨日の続きをそのまま完成させる必要はなかった。
途中から方向を変えてもいい。
昨日描いた線を残したまま、今日の線を別の方へ伸ばしてもいい。
昨日の「ちがう」を消さずに、今日の「こっち」を選んでもいい。
子供は鉛筆を置いた。
「ごはん」
「うん。行こうか」
立ち上がる。
扉の前まで行ってから、布鞄を見る。
数秒考えたあと、戻った。
持ち上げる。
「今日は持つ?」
「うん」
「分かった」
子供は鞄を肩へ掛けた。
昨日も持った。
一昨日は持たなかった。
今日はまた持つ。
どの日も消えてはいない。
廊下へ出た子供の後ろで、朝の光が卓の紙を照らしていた。
描きかけの四角。
「ちがう」という文字。
そこから別の方向へ伸びた、新しい線。
どれも同じ一枚の紙の上に残っていた。




