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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第87話 残しておくことと、待たせることは違いました

朝の旧保養施設では、夜の冷たさがまだ石壁の奥に残っていた。


 窓から差し込む光は明るくなり始めていたが、廊下を歩けば足元から薄い冷気が上がってくる。厨房の方からは焼いたパンと温かなスープの匂いが流れ、生活区画では職員たちが声を抑えながら朝の準備を進めていた。


 名前の分からない子供は、布鞄を部屋へ置いたまま食堂へ向かった。


 手には何も持っていない。


 昨夜まで卓に置かれていた「やすみ」と書いた紙も、二本の線と描きかけの四角が残る紙も部屋にある。


 食堂へ着くと、子供は入口で少しだけ立ち止まった。


「どうしたの?」


 ナディアが尋ねる。


「あそこ」


 子供が指した先には、昨日まで使っていた壁から二つ目の席がある。


「昨日の席?」


「うん」


「座る?」


 子供はすぐには答えなかった。


 食堂を見回す。


 窓際。


 壁際。


 入口に近い席。


 それから、いつもの席。


「こっち」


 選んだのは昨日とは違う場所だった。


 窓から少し離れた、食堂の中央寄りの席。


「分かった」


 ナディアは理由を聞かなかった。


 子供は椅子へ座り、運ばれてきた朝食を見る。


 丸パン。


 豆の入ったスープ。


 薄く焼いた卵。


 小さく切られた果物。


「パン」


「うん」


「きょう、おおきい」


「昨日より?」


 子供は両手で大きさを作ろうとして、途中で止めた。


「……わかんない」


「じゃあ、分からないね」


「くらべない?」


「比べたかったら比べてもいいよ」


「きょう、たべる」


「うん」


 子供はパンを手に取った。


 大きさを測らない。


 昨日のパンを思い出そうともしない。


 ただ、今日のパンをちぎってスープへ少し浸した。


 向かいの席にいた年配の男が、それを見て眉を上げる。


「今日は数えんのか?」


 子供の手が止まった。


 ナディアも男を見る。


 悪意のある声ではない。


 以前、焼き菓子や豆の数で子供と軽口を交わしていた男だった。


 けれど、子供の表情から笑みが消えている。


「じいさん」


 近くの職員が声をかける。


「ん?」


「今日はその話やめとこう」


「……おお」


 男は子供を見る。


 何かを察したらしい。


「悪かったな。食え。パンは逃げん」


 子供は少しの間、男の顔を見ていた。


「おじいさん」


「なんだ」


「きょう、かぞえない」


「おう」


「でも、きのうは、かぞえた」


「そうだったか?」


「うん」


「なら昨日は昨日だな」


 男は自分のパンをちぎった。


「今日は俺も数えん。面倒くさい」


「……なんで?」


「腹に入れば同じだからだ」


 子供の口元が少しだけ緩んだ。


「おおきいのは?」


「大きい方が嬉しい」


「ちいさいのは?」


「二個あれば嬉しい」


「かぞえてる」


「しまった」


 男が真顔で言ったため、子供が小さく笑う。


 ナディアも息を抜いた。


 その後、子供はパンを食べた。


 いくつにちぎったか、誰も数えなかった。


     ◇


 塔へ届いた朝の報告には、昨夜の北外壁で確認された滴状物についても記されていた。


 午前零時前に確認。


 雨なし。


 外壁の古い補修跡付近。


 接触、採取なし。


 零時十八分までに目視できなくなった。


 同時刻帯に、中央棟統合型表示盤、第二線、旧職員詰所表示、地下振動、西壁音の変化は確認されていない。


「液体かどうかも分からない?」


『はい。目視のみです』


「前に室内で見つかった滴と同じかは?」


『確認できません』


「じゃあ別記録のまま」


『承知しました』


 エルの返答を聞きながら、俺は朝食の皿へ視線を戻した。


 セリーが焼いた卵と野菜、それにパン。


 昨日より大きいかどうかは分からない。


(……いや、そこで比べる必要ないだろ)


 自分で考えて、自分で少し笑ってしまった。


「主様?」


「いや。何でもない」


「何でもない時のお顔には見えませんでしたが」


「パンの大きさ比べようとしてた」


「昨日とですか?」


「うん」


「比較なさいますか?」


「しない」


「承知しました」


「止めないんだ」


「主様が比較したいのであれば、止める理由がございません」


「でも今はしたくない」


「では、なさらなければよろしいかと」


「簡単に言うなあ」


「難しくする必要がございますか?」


「ない」


 パンをちぎる。


 今日のパンは今日のパンだ。


「旧保養施設の子は?」


『朝食中です。布鞄は部屋へ置いたままです』


「本人が何か言った?」


『今朝、「きょう、まだ、もたない」と発言しています』


「それだけでいい」


『はい』


「昨日の設備発光との時間照合は?」


『行われておりません』


「うん」


 そこで話を終えようとしたところで、エルが続けた。


『ただし、アンナマリー様より新たな資料が見つかったとの連絡があります』


「設備?」


『要求元識別記録に関する資料です』


 俺の手が止まる。


「昨日の続きか」


『はい。ただし旧保養施設の現設備と直接対応するとは未確認です』


「そこ大事だな」


『アンナマリー様も同様に明記しております』


「朝食終わったら聞く」


『承知しました』


 俺はパンを口へ運ぶ。


 すると、セリーがじっとこちらを見ていた。


「何?」


「朝食を終えてから、とご自身でおっしゃいました」


「言ったね」


「素晴らしい進歩です」


「そんな褒められ方ある?」


「以前でしたら、パンを持ったまま資料をご覧になった可能性がございます」


「否定できない」


「今は食べておられます」


「うん」


「では、私は満足です」


 セリーが自分の紅茶を飲む。


 最近、彼女は俺と同じ卓で自分の食事や茶を取ることが増えた。


 それを俺は嬉しいと思う。


 けれど、毎回理由を確かめる必要はない。


 昨日、彼女はここへ座りたいと思った。


 今日も座っている。


 同じ理由かもしれないし、違うかもしれない。


(今のセリーがここにいる。それでいいか)


「主様」


「今度は食べてる」


「はい。存じております」


「じゃあ?」


「ジャムをお使いになりますか?」


「あ、欲しい」


 セリーが小さな瓶を寄せてくる。


 青い砂糖ではなく、今日は赤い果実のジャムだった。


「珍しいな」


「保存食の確認を兼ねて開封いたしました」


「仕事?」


「はい」


「そっか」


「ですが、主様がお好きかもしれないとも考えました」


「……そっか」


「なぜ二度目は嬉しそうなのでしょう」


「気のせい」


「そういうことにしておきます」


     ◇


 朝食後、俺は執務室でアンナマリーと通信を繋いだ。


 机にはまだ町の閲覧用書類が残っているが、急ぎのものではない。


『お時間よろしいでしょうか』


「うん。要求元識別記録?」


『はい。昨日確認した保守担当者日誌と同じ資料群から、運用補足が見つかりました』


「施設は?」


『名称欠損です。設計局印と統合盤型式番号は一致していますが、旧保養施設のものと断定はできません』


「分かった」


『まず、「要求元識別記録」は統合盤内部ではなく、原系統側の記録を正とする、という昨日の記載を補強する内容です』


「うん」


『原系統側で記録される項目として、「要求主体」「要求種別」「受付状態」「継続・終了」が挙げられています』


「要求主体……」


『はい』


「本人か、職員か、設備か、みたいな?」


『例示があります』


 紙をめくる音。


『「本人申告」「保護担当者」「医療担当者」「受所担当」「設備自動要求」』


「設備自身も要求元になる?」


『少なくとも、この運用資料ではそのようです』


「じゃあ、表示が光ったからって、誰か人間が何か望んでるとは限らない」


『はい』


 これは大きい。


 今までだって断定してはいなかった。


 けれど、「要求」という言葉を見ると、どうしても誰かの意思を連想してしまう。


「設備自動要求って何?」


『具体例が二つだけあります。「定期状態確認要求」と「保持異常確認要求」です』


「どっちも、人の意思じゃない」


『はい』


「本人申告と同じ盤に出る?」


『統合盤の表示形式次第では、同じ監視面へ集約されるとあります』


「……本当に統合盤って名前そのままだな」


『複数の異なるものを、一か所で監視するための設備だった可能性があります』


「便利だけど、今みたいに元の意味が分からなくなると最悪だ」


『そのためか、注意書きもあります』


「どんな?」


『「統合表示を要求主体の意思表示として代用しないこと」』


 俺は黙った。


「もう一回」


『「統合表示を要求主体の意思表示として代用しないこと」です』


「……なるほど」


 胸の奥に、ゆっくり重みが落ちる。


 表示が点いた。


 だから誰かが帰りたい。


 表示が消えた。


 だから誰かが眠った。


 そんなふうには扱えない。


 昔の担当者たちも、それを分かっていたらしい。


「続きある?」


『はい。「本人意思を要する処理については、原意思記録を別途確認」と』


「原意思記録」


『昨日まで確認していた、本人発語や所定の意思表示記録と繋がる可能性はあります。ただし、同じ制度かどうかはまだ確認できません』


「そこは分けよう」


『はい』


「じゃあ今の設備表示は……」


 言いかけて止める。


(意味を決めたくなってる)


 青白く光る。


 位置が変わる。


 長さが変わる。


 滴が現れる。


 音がする。


 何かは起きている。


 けれど、それが誰かの願いとは限らない。


「今の設備表示は、今のところ設備表示。それ以上じゃないな」


『私もそう考えます』


「子供の言葉とも別」


『はい』


「木片とも」


『はい』


「でも、資料としては残す」


『もちろんです』


「フェリクスは?」


『非常に静かです』


「それ怖くない?」


『先ほどから資料を読み直しております』


「もっと怖いな」


 アンナマリーが少し笑った。


『ガルム隊長が横におります』


「じゃあ大丈夫か」


     ◇


 実際、フェリクスは静かだった。


 旧保養施設の資料室。


 机の上には昨日までの観測記録と、新たに届いた運用補足の写しが並んでいる。


 ガルムは向かいで腕を組み、リディアは少し離れた場所から古い図面を見ていた。


「面白い」


「静かだったのに結局言うのか」


「これは言わせてください」


「一回だけな」


「要求主体が設備である可能性が明記されたのですよ」


「読めば分かる」


「これまでの発光を、人間側の意思や受所側の返答だけで考える必要がなくなりました」


「元々そう決めてなかっただろ」


「決めてはいません。しかし候補としては強かった」


 フェリクスは昨日までの記録を一枚ずつ見る。


「たとえば、長く点灯した右寄り表示」


「うん」


「設備自動要求だった可能性もある」


「可能性はな」


「逆に、人の要求だった可能性も残る」


「そうだな」


「受所側の確認かもしれない」


「かもな」


「保持異常かもしれない」


「かもな」


「何も分かりません」


 フェリクスが満面の笑みを浮かべた。


「何で嬉しそうなんだよ」


「間違った絞り込みをしなくて済むからです」


 ガルムが額を押さえる。


「お前、研究以外でもその考え方できればもっと楽に生きられそうだな」


「どういう意味です?」


「知らん」


 リディアが図面から顔を上げる。


「ただ、これで一つ確認できますね」


「何です?」


「統合盤だけを見て、子供の『まだ』や『ひとつ』と対応させる根拠はさらに弱くなりました」


「同意します」


 フェリクスの返事は早かった。


「本人が何を指していたかは、本人が話せる範囲以上には決められません」


「よし」


「何ですか、隊長」


「いや。普通のこと言えるようになったなって」


「私は以前から普通です」


「そこは議論しない」


 ガルムは立ち上がった。


「で、次どうする」


 フェリクスはすぐに設備室へ行くとは言わなかった。


 資料を見下ろす。


「原系統側記録を資料から探します」


「現物は?」


「触りません」


「北は?」


「掘りません」


「壁は?」


「開けません」


「子供は?」


「聞きません」


「完璧だな」


「私を何だと思っているのです」


「成長途中の研究者」


「評価が少し上がりましたね」


     ◇


 昼前、名前の分からない子供は自分の部屋へ戻っていた。


 朝の食事を終えた後、庭へは行かなかった。


 行きたくないとは言っていない。


 ただ、「へや」と言った。


 だから部屋にいる。


 卓の上には、二本の線と描きかけの四角が残る紙。


 子供は椅子に座り、それを見ていた。


 ナディアは窓際で洗った布を畳んでいる。


「ナディア」


「なに?」


「これ」


 子供が紙を指す。


「昨日から描いてる紙?」


「うん」


「どうしたの?」


「しかく」


「途中だね」


「きのう、やめた」


「うん」


「きょう、かく?」


 ナディアは布を畳む手を止めた。


「私に決めてほしい?」


「……わかんない」


「じゃあ、決めなくてもいいよ」


「でも、きのう、のこした」


「残したね」


「のこしたら、つづき、する?」


「しなくてもいいんじゃないかな」


 子供が紙を見る。


「なんで?」


「残しておくのは、続きをしなきゃいけないって意味じゃないから」


「でも、まだ、ある」


「あるね」


「まってる?」


 ナディアは少し考えた。


 紙が待っている。


 描きかけの四角が待っている。


 そんなふうに感じているのかもしれない。


「紙は、怒らないと思うよ」


「おこらない?」


「今日描かなくても」


「かなしい?」


「私は紙の気持ちは分からないな」


 子供が少し首を傾げる。


「ナディア、わかんない?」


「分からないこといっぱいあるよ」


「おとななのに?」


「大人でも」


「アルも?」


「アルさんも、分からないって言うことあるでしょ?」


「うん」


「じゃあ私も」


 子供は紙へ視線を戻した。


「のこしたら、しないと、だめじゃない?」


「私はそう思うよ」


「きのう、やめた」


「うん」


「きょうも、やめる?」


「それは今日のあなたが決めていい」


 子供は鉛筆を取った。


 描きかけの四角へ近づける。


 けれど、線を引かない。


「……かかない」


「うん」


「でも、けさない」


「うん」


「ここに、ある」


「置いておこうか」


「うん」


 鉛筆を置く。


 子供は少し安心したように息を吐いた。


 その視線が、今度は床の布鞄へ向かう。


「かばんも?」


「うん?」


「のこしてる」


「そうだね」


「もたない。でも、ある」


「うん」


「もたないと、かばん、まってる?」


 ナディアはすぐに答えなかった。


「鞄がどう思うかは分からない。でも、私はあなたが持つのを待たせてるとは思わないよ」


「なんで?」


「鞄は、必要な時に使えるようにそこに置いてあるだけだから」


「つかわなくても?」


「うん」


「ずっと?」


「もしずっと使わなくなったら、その時どうするか考えればいい」


「いま、きめない?」


「今決めたい?」


「……きめない」


「じゃあ決めない」


 子供は鞄を見た。


 少しして、ぽつりと言う。


「せんせい、まってた」


 ナディアの手が止まった。


 けれど、振り返る動きは急がなかった。


「先生が?」


「うん」


「何を待ってたの?」


 子供は答えない。


 ナディアはそれ以上聞かなかった。


 数秒。


 十数秒。


 窓の外で鳥が鳴く。


「ぼくが」


 小さな声。


「うん」


「できるの」


「何かを?」


「うん」


「何をできるようになるのか、今言える?」


 子供が首を横へ振る。


「分かった」


「せんせい、まってた」


「うん」


「まだっていうと」


 子供の指が膝の布を掴む。


「せんせい、こまる」


 ナディアは椅子から立たなかった。


 近づかない。


 同じ距離のまま話す。


「先生が困ってた?」


「うん」


「それで?」


「ぼく、はやくする」


「何かを早くしようとした?」


「うん」


「嫌だった?」


 子供はすぐには頷かなかった。


「……わかんない」


「分からない?」


「はやくしたら、せんせい、こまらない」


「そう思ったの?」


「うん」


「あなたは?」


 子供が顔を上げる。


「ぼく?」


「先生が困るかどうかじゃなくて、あなたは早くしたかった?」


 長い沈黙。


 子供は紙を見る。


 描きかけの四角。


「……まだ」


 ナディアはゆっくり頷いた。


「そっか」


「でも、せんせい、まってる」


「今、その先生はここにいる?」


 首を横へ振る。


「私、待ってる?」


 子供がナディアを見る。


「……わかんない」


「私はね、あなたが続きを描くのを待ってないよ」


「なんで?」


「描きたくなったら描けばいいし、描かなくてもいいから」


「ずっと?」


「うん」


「こまらない?」


「困らない」


「ほんと?」


「うん」


 子供の肩から、ほんの少し力が抜けた。


「アルも?」


「アルさんがどう思うかは、私が代わりに決められないな」


「きく?」


「聞きたい?」


 子供は考える。


「……きょう、きく」


「アルさんを呼ぶ?」


「うん」


「今?」


「ごはん、あと」


「分かった」


 ナディアはそこで初めて記録紙へ手を伸ばした。


 けれど、書く前に確認する。


「今話してくれたこと、記録していい?」


 子供は紙を見る。


「アル、みる?」


「今までと同じなら、見せる人を決められるよ」


「アル」


「うん」


「エル」


「うん」


「ガルム」


「うん」


「リディア」


「うん」


「セリー」


「うん」


 少し間が空く。


「アンナマリー」


「今度は入れていい?」


「うん」


「フェリクスさんは?」


 子供はしばらく考え、首を横へ振った。


「まだ」


「分かった」


「おこる?」


「フェリクスさんが?」


「うん」


「たぶん残念がるかもしれないけど、怒っていいことじゃないと思う」


「ざんねん?」


「知りたがりだから」


 子供の口元が少し動く。


「さわる?」


「最近は前より我慢してるみたい」


「へん」


「ちょっとね」


 子供が小さく笑った。


     ◇


 昼食後、俺は旧保養施設へ向かった。


 呼ばれたからだ。


 セリーも一緒だった。


 子供は彼女が来ることも許可している。


 古い石造りの廊下を歩きながら、俺はナディアの記録を思い返していた。


 先生が待っていた。


 自分が何かをできるようになるのを。


 「まだ」と言うと先生が困る。


 だから早くしようとした。


 何をできるようになるのかは、まだ話せない。


(急ぐな)


 頭の中で、自分へ言う。


 「できる」。


 「待つ」。


 「まだ」。


 設備にも似た言葉がある。


 待機。


 応答待ち。


 確認未了。


 だからこそ繋げてはいけない。


 子供が話しているのは、今のところ人との記憶だ。


「主様」


「うん」


「難しいお顔です」


「繋げたくなってる」


「何をでしょう」


「子供の『待つ』と、設備の『待ち』」


「同じものだと?」


「いや。同じじゃないって、自分に言ってる」


「でしたら、そのままでよろしいかと」


「うん」


 子供の部屋の前へ着く。


 ナディアが待っていた。


「今、中にいます。アルさんを呼んでほしいと本人から再確認できています」


「セリーは?」


「一緒でいいそうです」


「分かった」


 ノックする。


「アルだよ」


「はいって」


 扉を開ける。


 子供は卓の前に座っていた。


 描きかけの紙が置かれている。


 布鞄は床。


 木片は中だ。


「来たよ」


「うん」


「セリーも一緒」


「うん」


 俺は子供から少し離れた椅子へ座った。


 セリーは俺の隣ではなく、少し後ろへ座る。


「聞きたいことがあるって聞いた」


「うん」


「何?」


 子供は紙を見る。


「これ」


「描いてた紙?」


「うん」


「昨日、途中で止めたんだって?」


「うん」


「今日も描かなかった?」


「うん」


「そっか」


 それ以上言わない。


 子供が顔を上げる。


「アル」


「うん」


「まってる?」


「何を?」


「これ、かくの」


「俺が?」


「うん」


「待ってないよ」


 子供の目が少し大きくなる。


「なんで?」


「それ、お前の紙だから」


「でも、アル、みる」


「見せてくれたら見る。でも、完成するのを待ってるわけじゃない」


「かかなくても?」


「うん」


「ずっと?」


「うん」


「こまらない?」


「困らない」


「ほんと?」


「本当」


 子供は紙を見る。


「せんせい、こまった」


「お前が『まだ』って言った時?」


「うん」


「先生が困ってるのを見た?」


「……うん」


「怒ってた?」


「ちがう」


「悲しそう?」


「ちがう」


「じゃあ、どう見えた?」


 子供は眉を寄せた。


「はやく」


「急いでるように見えた?」


「うん」


「そっか」


「ぼく、まだ」


「うん」


「でも、はやくする」


「先生が急いでたから?」


「うん」


 俺は息を吐く。


 怒りそうになる自分を抑えるためではない。


 今、俺が怒った顔をすれば、この子はまた「自分が何かを間違えた」と思うかもしれない。


「アル?」


「いるよ」


「ぼく、わるかった?」


「何が?」


「まだって」


「悪くない」


「せんせい、こまった」


「先生が困ったことと、お前が悪いことは同じじゃない」


「でも」


 子供の指が紙の端へ触れる。


「まってるひと、いたら、はやくする?」


 俺はすぐには答えなかった。


 簡単に「しなくていい」と言うだけでは足りない気がした。


「場合による」


「ばあい?」


「たとえば、俺とお前が一緒にご飯を食べる約束をしてて、俺が先に食堂で待ってるとする」


「うん」


「お前が靴を履くのに時間がかかってる。でも急げば転ぶかもしれない」


 子供が足元を見る。


「その時、俺は待つ」


「こまる?」


「腹は減る」


「おなか」


「うん。でも、それでお前が悪いわけじゃない」


「はやくしなくていい?」


「できる範囲で来てくれたらいい。急げないなら待つ」


「ずっと?」


「ずっと来ないなら、どうしたのか見に行く。でも、怒るためじゃない」


「なんで?」


「困ってるかもしれないから」


 子供は考える。


「せんせい、みにきた」


「お前が『まだ』って言った時?」


「うん」


「それで?」


「できる? って」


「何をできるかは、まだ言いたくない?」


 頷く。


「じゃあ言わなくていい」


「きかない?」


「今は聞かない」


「あとで?」


「お前が話したくなったら」


「アル、まってる?」


 また同じ言葉。


 けれど、今度は意味が違う気がした。


「話してくれるのを?」


「うん」


「待ってない」


 子供が戸惑う。


「でも、しりたい?」


「知りたいよ」


「じゃあ、まってる」


「知りたいことと、お前が話すのを待たせてることは別だと思う」


「べつ?」


「俺は知りたい。でも、お前が話さなくても困らない」


「ずっと、しらなくても?」


 少し難しい。


 もし安全に関わるなら、知らなければならないこともある。


「お前や他の誰かが危ないかもしれない時は、必要なことを聞く場合がある」


「うん」


「でも今、俺たちが分かってる範囲では、無理に聞かなきゃいけない理由はない」


「だから?」


「だから、今は話さなくていい」


 子供は紙へ目を落とした。


「しりたいのに?」


「うん」


「へん」


「俺もそう思う」


「アル、へん」


「よく言われる」


 後ろでセリーが小さく息を吐いた。


「主様の場合、別の意味でも言われることがございます」


「今それ必要?」


「空気を柔らかくするためです」


「絶対違うだろ」


 子供が笑った。


 ほんの少し。


 それから、また紙を見る。


「アル」


「うん」


「これ、のこしてる」


「うん」


「かかない」


「うん」


「でも、すてない」


「うん」


「かくの、まってる?」


「紙が?」


「うん」


「俺には分からない」


「ナディアもいった」


「そっか」


「でも、ぼく」


 子供は胸へ手を置いた。


「ここ、まってるみたい」


「自分が?」


「うん」


「続きを描きたい?」


「……わかんない」


「じゃあ、何を待ってる感じ?」


 子供は長く考えた。


「かきたい、なるの」


「描きたくなるのを?」


「うん」


「それなら、待っててもいいんじゃない?」


「いい?」


「自分で待ちたいなら」


「せんせいの、まつ、ちがう?」


「たぶん違うと思う」


「なんで?」


「先生は、お前が何かできるようになるのを待ってたんだろ?」


「うん」


「今のお前は、自分が描きたくなるかどうかを自分で待ってる」


 子供は紙を見る。


「ぼくが、ぼくを、まつ?」


「そうなるかな」


「へん」


「ちょっとな」


「でも、こまらない?」


「誰が?」


「ぼく」


「待ってて苦しくなったら、やめてもいい」


「やめる?」


「描かないって決めてもいいし、紙をしまってもいい。逆に、描きたくなったら描いてもいい」


「きょう、きめない?」


「決めなくてもいい」


 子供は少し笑った。


「また、それ」


「便利だからな」


     ◇


 話が終わった後、子供は紙を卓へ戻した。


 布鞄にも触れなかった。


 俺たちが立ち上がると、子供がセリーを見る。


「セリー」


「はい」


「セリーも、まつ?」


「何をでしょう」


「アル」


 俺は思わず止まった。


「俺?」


「うん」


 セリーも一瞬黙る。


「何を待つのでしょうか」


「わかんない」


「では、私にも分かりません」


「でも、アル、いっしょ」


「はい」


「ずっと?」


 セリーは俺を見なかった。


 子供だけを見る。


「先のことは、私にも分かりません」


「いまは?」


「今は、一緒にいたいと思っております」


 俺の心臓が一度強く鳴った。


(それ、今ここで言う?)


 直接浮かんだ言葉を飲み込む。


 子供は俺を見る。


「アル?」


「何?」


「かお、へん」


「気のせい」


「赤い」


「部屋暑いんじゃない?」


「主様」


「セリーまで何」


「こちらは適温です」


「裏切ったな」


「事実を申し上げただけです」


 子供が笑う。


「アル、へん」


「今日はそれ二回目だぞ」


「かぞえた」


「あ」


 子供自身も気づいたらしい。


 一瞬、笑顔が止まる。


 俺は何も言わない。


 子供が指を一本、二本と立てかけて、途中で下ろした。


「……いま、かぞえた」


「うん」


「だめ?」


「自分で数えたかったなら、いいんじゃない?」


「かぞえないって、いった」


「前に?」


「うん」


「今、数えたくなった?」


「……ちょっと」


「じゃあ、それでいい」


「かぞえない、なくなる?」


「前に数えたくなかったこと?」


「うん」


「なくならない」


 子供はしばらく自分の手を見る。


「きのう、かぞえない」


「うん」


「いま、ちょっと、かぞえた」


「うん」


「どっちも、ぼく?」


「俺はそう思う」


 子供が小さく頷いた。


「じゃあ、三回目、いわない」


「何を?」


「アル、へん」


「そこは数えてるじゃん」


 また笑った。


     ◇


 子供の部屋を出て、廊下を歩く。


 俺はしばらく黙っていた。


 セリーも何も言わない。


 外へ出る扉の前まで来たところで、俺はようやく口を開いた。


「セリー」


「はい」


「さっきの」


「どのことでしょう」


「分かってるだろ」


「主様のお顔が赤くなった件でしょうか」


「その原因」


「室温ではなかったようですね」


「絶対わざとやってるよな?」


 セリーは答えない。


 扉を開ける。


 午後の風が入ってきた。


 少し冷たい。


「今は一緒にいたいって」


「申し上げました」


「仕事だからじゃなく?」


「主様」


 セリーが足を止める。


「以前も申し上げましたが、私が主様のお世話をするために作られたことは事実です」


「うん」


「その事実を消す必要はないと、今は考えております」


 風が彼女の銀色の髪を少し揺らす。


「ですが、それだけで現在の私の意思を説明されることも、望みません」


 俺は黙って聞く。


「私は今、主様と塔へ帰りたいと思っております」


「……うん」


「帰りましたら、お茶を淹れたいと思っております」


「それは世話じゃない?」


「私も飲みます」


「じゃあ一緒に飲む?」


「はい」


「仕事?」


 セリーがわずかに笑う。


「今日は違います」


 胸の奥が、また温かくなる。


「そっか」


「はい」


「じゃあ帰ろう」


「はい」


 並んで歩き始める。


 少しだけ距離が近い。


 触れてはいない。


 けれど、以前より自然に隣を歩ける。


     ◇


 その日の夕方、アンナマリーからもう一つ資料が届いた。


 塔へ戻った俺とセリーは、約束通り同じ卓で茶を飲んでいた。


 今度は仕事としてではない。


 少なくとも、セリーはそう言った。


 だから通信が入った時、俺は少しだけ迷った。


「出る?」


「主様がお決めください」


「セリーは?」


「今はお茶を飲んでおります」


「俺も」


「では、急ぎか確認なさってはいかがでしょう」


「それだ」


 エルへ聞く。


「緊急?」


『いいえ』


「じゃあ十分後」


『アンナマリー様へ伝えます』


 通信を切る。


 セリーが紅茶を飲む。


「主様」


「何?」


「以前でしたら、すぐに出ておられました」


「俺もそう思う」


「変わられましたね」


「悪い方?」


「いいえ」


「じゃあ褒めてる?」


「はい」


「それなら素直に受け取っとく」


「それも進歩です」


「今日褒められすぎじゃない?」


「では減らしましょうか」


「それはそれで嫌だな」


 セリーが笑った。


 十分後、俺たちは茶を飲み終えてから通信を繋いだ。


『お待たせして申し訳ありません』


「いや、俺が待ってもらったんだ」


『お休みでしたか?』


「お茶飲んでた」


『でしたら、急ぎではありませんので問題ございません』


「で、何が見つかった?」


『要求元識別記録の「継続・終了」についてです』


「うん」


『古い運用例に、少し気になる記述がありました』


 紙の音。


『本人申告による要求が登録された後、本人が意思を変更した例です』


「変更?」


『はい。最初は「本日帰還希望」。しかし受所側の準備中に、本人が「やはり今日は待つ」と申し出ています』


「それ、前にも似た例あったよな」


『はい。ただし今回は、記録処理の説明が詳細です』


「どうなってる?」


『最初の「帰還希望要求」を終了。その後、「保護継続要求」を新規登録しています』


「上書きじゃない?」


『違います』


「前の帰還希望は残ってる?」


『残っています。「当時本人申告として有効。後の意思変更により終了」と』


 俺はカップの空になった底を見る。


「消さないんだ」


『はい』


「新しい方で古い方を間違い扱いにもしない」


『そのようです』


「その時は帰りたかった。後で待ちたくなった」


『はい』


「両方残す」


『さらに注記があります』


「何て?」


 アンナマリーが読み上げる。


『「終了済要求は未発生扱いとせず、当時の意思記録として保持すること」』


 俺は息を止めた。


 旧保養施設の子供が言っていた。


 先生が「いや」を消した。


 もちろん、この資料が同じ施設の同じ運用だった証拠はない。


 けれど、少なくともこの古い仕組みでは、後で意思が変わったからといって、前の意思をなかったことにはしなかった。


「続きは?」


『「新規要求登録をもって旧要求の誤りと解釈しないこと」』


「……そうか」


 昨日は持ちたくなかった。


 今日は持ちたい。


 昨日は数えたくなかった。


 今日は少し数えた。


 昨日は続きを描かなかった。


 明日は描くかもしれない。


 新しい選択が、古い選択を間違いにはしない。


「この資料、フェリクスにも?」


『子供の証言部分を含まない一般資料として共有可能です』


「じゃあ共有して」


『承知しました』


「あと、子供の記録とは繋げないで」


『はい』


「同じ仕組みだったって確認できるまで、別」


『そのように管理します』


 通信を終える。


 セリーが静かに俺を見る。


「主様」


「うん」


「何かございましたか」


「昔の仕組みでは、終わった要求も消さなかったらしい」


「当時の意思として?」


「うん」


「良い考え方ですね」


「俺もそう思う」


 窓の外はもう薄暗い。


「人って変わるだろ」


「はい」


「変わった後の方だけ残したら、前の自分が間違いみたいになる」


「場合によっては、前の判断が誤りであったこともあるでしょう」


「うん。でも、誤りだったかどうかと、その時そう思ったことは別だ」


「はい」


「残すって、面倒だな」


「何がでしょう」


「昔の自分も、今の自分も」


 セリーは少し考える。


「ですが主様は、以前のご自身をすべて捨てたいとは思っておられないのでしょう?」


「……昔は思ってたかも」


「今は?」


 窓を見る。


 王太子だった自分。


 何でも決めなければならないと思っていた自分。


 人へ頼ることが下手だった自分。


 分からないと言うことを怖がっていた自分。


 どれも、今とは違う。


 けれど。


「今は、残っててもいいと思う」


「そうですか」


「セリーは?」


「何がでしょう」


「昔の俺」


「今も覚えております」


「消したい?」


「いいえ」


「何で?」


 セリーは少しだけ目を細めた。


「今の主様が、そこから続いているからです」


 俺は返事ができなかった。


「主様?」


「……今日はもう褒めるの禁止」


「褒めてはおりません」


「もっと駄目なやつじゃん」


     ◇


 夜。


 旧保養施設の子供は寝る前に卓の紙を見ていた。


 二本の線。


 描きかけの四角。


 今日も完成させなかった。


 けれど、消してもいない。


 布鞄も部屋にある。


 今日も一日、持たなかった。


「ナディア」


「なに?」


「きょう、かかなかった」


「うん」


「あした?」


「明日になったら決める?」


「うん」


「分かった」


「まってない?」


「私は待ってないよ」


「アルも?」


「そう言ってたね」


「うん」


 子供は紙を見た。


「ぼくは、ちょっと、まってる」


「自分が描きたくなるか?」


「うん」


「そっか」


「でも、あした、かかなくても?」


「いいと思うよ」


「ぼく、こまらない?」


「困ったら、その時考えよう」


「うん」


 子供は紙を卓へ置いた。


 布鞄を見る。


「かばんも、あした」


「うん」


「もつか、もたないか」


「明日決める?」


「うん」


「分かった」


 灯りを落とす。


 子供は寝台へ入った。


 部屋の中には、途中のまま残されたものがいくつもある。


 紙。


 描きかけの四角。


 使っていない「やすみ」の札。


 持っていない鞄。


 まだ話していない記憶。


 けれど、そのどれもが子供を急かしてはいなかった。


 少なくとも、この部屋では。


     ◇


 深夜。


 中央棟の監視員は統合型表示盤を見守っていた。


 午後十一時四十二分。


 変化なし。


 零時十二分。


 変化なし。


 零時三十八分。


 北外壁、変化なし。


 零時五十一分。


 地下で、ごく弱い振動を一度確認。


 約一秒半。


 他の変化なし。


 記録する。


 それだけ。


 午前一時二十六分。


 中央棟の統合型表示盤。


 右寄りでも、下寄りでもない。


 これまで明確な発光として記録されていなかった、中央に近い細い窓の奥で、ごく弱い青白い光が灯った。


 監視員は手動鐘へ手を伸ばす。


 一度。


 短く鳴らす。


 別室からもう一人が来る。


「位置」


「中央寄り」


「初めて?」


「少なくとも現行記録では」


「触らない」


「はい」


 光は弱い。


 見落としそうなほど細い。


 一分。


 二分。


 三分。


 消えない。


 地下振動なし。


 西壁音なし。


 北外壁変化なし。


 第二線の目視変化なし。


 旧職員詰所表示変化なし。


 午前一時三十一分。


 五分が過ぎる。


 それでも光は残っている。


 連絡を受けたリディアとガルムが到着した。


「子供は?」


「睡眠中。生活区画から異常報告なし」


「起こすな」


「はい」


「フェリクスは?」


「呼びますか?」


 ガルムは少し考えた。


「今はいらん」


「珍しいですね」


「呼んだら喜んで朝までいる」


「確実ですね」


 リディアは表示盤を離れた場所から見る。


「位置は確かにこれまでと違います」


「新しい意味を付けるなよ」


「付けません」


「上とか中とか下とかも?」


「観測位置としては必要です。ただし順序にはしません」


「ならいい」


 午前一時三十四分。


 光が一度、ほんの少しだけ弱くなる。


 消えない。


 一時三十六分。


 再び元の明るさへ戻る。


「明滅?」


「いいえ。完全消灯していません」


「記録」


「はい」


 一時四十分。


 まだ点灯。


 長い。


 しかし誰も原因を探すために触れない。


 一時四十三分。


 中央寄りの光が、ゆっくり弱くなる。


 一時四十四分。


 消灯。


「約十八分」


 監視員が言う。


「継続時間だけ記録」


 ガルムが答える。


「右寄りの九分より――」


 監視員が言いかけて止まる。


「比較するなとは言わん」


 ガルムが静かに言った。


「ただ、長かったから次の段階だとか、二倍だから意味があるとか、そういうのはなしだ」


「はい」


 リディアも記録紙へ書く。


 午前一時二十六分から一時四十四分。


 中央寄り細窓。


 弱い青白色。


 途中、輝度低下一回。


 完全消灯なし。


 他系統の同時変化、確認なし。


 操作なし。


 接触なし。


 原因不明。


 最後の一行を書き終えた時だった。


 廊下の向こうから、生活区画の夜勤職員が早足でやってきた。


 ガルムが顔を上げる。


「子供か?」


「はい。ただ、異常ではありません」


「何があった」


「起きました」


「時間は?」


「つい先ほどです」


「設備の話は?」


「していません」


「本人は?」


「水を飲みたいと」


 ガルムとリディアが一瞬だけ視線を交わす。


「それだけ?」


「はい」


「なら水を」


「もう渡しています」


「他には?」


「今のところ何も」


「分かった。設備とは別記録」


「はい」


 職員が戻ろうとする。


 その背中へ、ガルムは声をかけなかった。


 設備の光が消えた時刻と、子供が目を覚ました時刻。


 調べれば、もっと細かく比較できる。


 だが、今は必要ない。


 喉が渇いて目を覚ました子供と、原因不明の古い表示盤。


 それぞれが、それぞれの記録として残る。


 繋げる理由が見つかるまでは。


     ◇


 子供は水を飲み終え、寝台へ戻った。


「まだ眠れそう?」


「うん」


「灯り消す?」


「うん」


 職員が灯りを落とそうとした時、子供が小さく声を出す。


「まって」


「うん?」


 職員の手が止まる。


 子供は卓を見る。


 二本の線と、描きかけの四角。


「紙?」


「うん」


「どうする?」


「……そのまま」


「分かった」


「まってる?」


 職員は今日の引き継ぎを聞いていた。


「私は待ってないよ」


「うん」


「紙はどうか分からないけど」


「うん」


「あなたは?」


 子供は布団へ入る。


「ぼくは」


 少し考える。


「ねる」


「そっか」


「まつの、あした」


「うん」


 灯りが消える。


 子供は目を閉じた。


 描きかけの紙は残る。


 続きを要求せず。


 完成する時刻を決めず。


 誰かを困らせる期限にもならず。


 ただ、そこにある。


 そして中央棟でも、十八分間灯っていた光は既に消えていた。


 その光が何を待っていたのか。


 そもそも何かを待っていたのか。


 まだ誰にも分からない。


 分からないものを、分からないまま残しておく。


 それもまた、急いで答えを作らないために必要なことだった。

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