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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第86話 持たないことも、捨てることではありませんでした

朝の旧保養施設では、食堂から焼いたパンの匂いが流れていた。


 昨夜のうちに冷えた石造りの廊下へ朝日が差し込み、窓枠の影を細長く床へ落としている。厨房では鍋をかき混ぜる音が続き、ときどき食器の触れ合う乾いた音が重なっていた。


 名前の分からない子供は、その音を聞きながら部屋を出た。


 手には何も持っていない。


 紙箱も、紙の輪も、「みち」と書いた紙も、「やすみ」と書いた紙も部屋にある。


 そして、布鞄も。


 「帰」「還」と書かれた木片を入れたまま、寝台の脇へ置いてきた。


「鞄はそのままでいい?」


 付き添いの職員が確認すると、子供は廊下を数歩進んだところで振り返った。


 開いた扉の向こうに、布鞄が見えている。


「あとで」


「分かった。じゃあ今は置いておこうね」


「うん」


 職員は「後でどうするの」とは聞かなかった。


 持つのか。


 置くのか。


 庭へ行く時には必要なのか。


 昨日は持っていたのに今日はなぜ持たないのか。


 どれも今すぐ決める必要のないことだった。


 子供は食堂へ向かい、空いている椅子を自分で選んだ。窓際ではなく、壁から二つ目の席だった。


 朝食は小さな丸パンと野菜のスープ、それから柔らかく煮た豆だった。


「きょう、パン、ちいさい」


「昨日より?」


「うん」


 職員が笑う。


「昨日のパン、覚えてるの?」


「これくらい」


 子供は両手で丸を作った。


 実際の大きさより、かなり大きい。


「そんなに大きかったかな」


「おおきかった」


「じゃあ、そういうことにしておこうか」


「うん」


 子供は満足そうにパンを割った。


 木片を持っていないことを、誰も話題にしなかった。


     ◇


 塔で朝食を取っていた俺のところへ届いた最初の報告も、設備ではなく生活記録だった。


「朝食へ布鞄を持っていかなかった?」


『はい。本人は「あとで」と発言しています』


「誰か、理由聞いた?」


『聞いておりません』


「持つか置くかも?」


『確認しておりません』


「うん。それでいい」


 パンをちぎりながら、俺は昨日のことを思い返す。


 子供は庭へ木片を持っていき、途中で自分から鞄を置いた。昼には部屋へ置くと決め、その後は「やすみ」と書いた紙だけを庭へ持っていった。


 そして今朝は、朝食にも持っていかなかった。


(少し前の俺なら、変化の理由を知りたくなっただろうな)


 直接頭に浮かんだ言葉へ、自分で少し苦笑する。


 持っていた。


 置いた。


 また持った。


 今日は持っていない。


 そこへ一貫した理由を探せば、何か見つかるかもしれない。


 けれど、見つけた理由が本人のものとは限らない。


「主様」


「食べてる」


「まだ何も申し上げておりません」


「最近それ多くない?」


「主様が先回りなさるからです」


 向かいではなく、今日は俺の斜め隣に座っているセリーが紅茶を注ぐ。


 以前なら食事の準備を終えると立ったまま控えていることも多かったが、最近は俺が座るよう頼む前から、自分の分の茶を用意することが増えた。


 それが仕事の一部なのか、彼女自身の選択なのか。


(……また考えてる)


 昨日、自分で言ったばかりだ。


 外から見た行動が同じでも、誰が望んだかは別だ。


 なら、俺が勝手に答えを作る必要はない。


「セリー」


「はい」


「今日はそこに座りたかった?」


 彼女の手が一瞬止まる。


「唐突ですね」


「気になった」


「主様のお食事を確認するには適した位置です」


「それは仕事の理由だろ?」


「はい」


「それだけ?」


 セリーは紅茶の表面へ視線を落とした。


 少しの沈黙。


 以前なら俺は、その沈黙を答えが出るまで待とうとしたかもしれない。けれど今は、彼女が考えている時間そのものを急かしたくなかった。


「今すぐ答えなくていいよ」


「……いいえ」


 セリーが顔を上げる。


「本日は、ここへ座りたいと思いました」


「そっか」


「はい」


「じゃあよかった」


「それだけですか?」


「それ以上何言えばいいの?」


「質問なさったのは主様です」


「嬉しいって言うと、また食事中は反則って言われそうだから」


 セリーがわずかに目を細める。


「学習なさいましたね」


「褒めてる?」


「はい」


「最近その確認も多いな」


「主様が疑うからでしょう」


 朝食の時間が、少しだけ柔らかくなる。


 俺はパンを口へ運んだ。


 旧保養施設へ行く予定はない。


 呼ばれてもいない。


 設備に新しい変化があったという報告も、今のところ届いていない。


 それなら今日は、塔でできることをする。


「エル。町の方は?」


『午前の申請確認が始まっております。現在、主様の判断を必要とする案件はありません』


「白鴉は?」


『保存されていた少年は朝食後に休憩中です。歩行練習は本人が後ほど決定します。三〇八号室の少年についても急変はありません』


「旧保養施設の設備は?」


『夜間以降、新たな発光は確認されておりません。午前六時十九分に地下微弱振動を一度記録しておりますが、他設備との同時変化はありません』


「分かった」


 俺は紅茶を飲む。


「じゃあ、今日は暇?」


『未処理文書が二十七件ございます』


「聞かなきゃよかった」


 セリーが静かに頷いた。


「お仕事があってよろしゅうございましたね」


「今、ちょっと嬉しそうじゃなかった?」


「気のせいです」


「絶対違う」


     ◇


 午前中、旧保養施設の中央棟では、リディアとフェリクスが統合型表示盤の記録を見比べていた。


 表示盤そのものには触れていない。


 机へ広げられているのは、過去数日分の観測時刻と、古い補修記録の写しだけだった。


 ガルムは窓際の椅子に座り、別の報告書を読んでいる。


「右寄りの発光が三回、下寄りが二回。時間は――」


「待て」


 ガルムが紙から顔を上げないまま止める。


 フェリクスが口を閉じた。


「何でしょう」


「今、何をしようとした」


「位置ごとの発光回数を整理しようと」


「何のために?」


「傾向を」


「その傾向から?」


「旧識別名との対応可能性を――」


「駄目」


「まだ結論ではありません」


「お前、結論じゃなければ何でも考えていいと思ってないか?」


「研究者とはそういうものです」


「声に出す前に『仮説』って付けろ」


「仮説として、位置ごとの――」


「そうじゃない」


 リディアが堪えきれず笑った。


 フェリクスが不満そうに彼女を見る。


「何がおかしいのですか」


「隊長の言いたいことは分かります。回数を整理すること自体は悪くありませんが、それをすぐ旧識別名へ対応させようとすると、また三つを一組として見始めます」


「しかし三つの旧識別名が確認されています」


「現在の発光位置が三つの旧識別名に一対一で対応するとは確認されていません」


「それは承知しています」


「本当に?」


「……かなり」


「全部じゃないんだな」


 ガルムが呟く。


 フェリクスは咳払いした。


「では、発光位置別の時刻と継続時間のみを整理します」


「それならいい」


「旧識別名との照合は?」


「別紙」


 リディアが答える。


「しかも『照合候補』と明記してください。線で結ばないで」


「線も駄目ですか」


「あなたが引いた線は、翌日には事実扱いされそうなので」


「私を何だと思っているのです」


「面白いものを見つけると寝なくなる研究者」


「正確だな」


「隊長まで」


 小さな笑いが室内へ広がる。


 窓の外では、保護対象者の一人が職員と一緒に洗濯物を干していた。少し離れた場所では、別の人が庭の土を触っている。


 設備の謎が残っていても、施設の時間はそれだけでは進まない。


 リディアは観測表へ視線を戻した。


「夜間の右寄り発光は、これまでの下寄りの短い発光より継続時間が長いですね」


「はい。ただし位置が違います」


「そう。だから同じ現象の長時間化とも言えない」


「地下振動との時間差も一定ではありません」


「西壁音も」


 フェリクスが三枚の紙を並べる。


 発光。


 振動。


 音。


 以前なら一枚の時系列へまとめたくなるところだが、今はあえて別紙のままだ。


「不便ですね」


「何が?」


「全部一枚にした方が見やすい」


 ガルムがようやく顔を上げた。


「見やすくした結果、同じものに見えたら意味ないだろ」


「……それもそうですね」


 フェリクスは素直に三枚を離した。


 リディアが古い補修記録を指で押さえる。


「それに、昔の担当者自身が書いています。『時間近接のみをもって因果関係を確定しないこと』」


「二千年前の担当者にまで止められるとは」


「気が合いそうですね」


「会ってみたいです」


「無理だ」


「分かっています」


 フェリクスは少し残念そうだった。


 その時、廊下側から控えめなノックが響いた。


「どうぞ」


 入ってきたのは生活区画の職員だった。


「子供のことで、一つだけ共有です」


 ガルムが資料を閉じる。


「本人に何かあったか?」


「いえ、体調は問題ありません。今朝、木片の入った鞄を朝食へ持っていかなかった件です」


 フェリクスが反応しかけた瞬間、ガルムが視線だけを向ける。


 口を開かなかった。


「本人は何て?」


「朝は『あとで』だけでした。その後、朝食を終えて部屋へ戻ったのですが、鞄には触れていません」


「職員から聞いた?」


「いいえ」


「なら、そのままで」


「はい。ただ、本人が『にわ』と言っています」


「庭へ行きたい?」


「はい」


「鞄は?」


「聞いていません」


「聞かなくていい」


 職員が頷く。


「本人が持っていくなら持っていく。置いていくなら置いていく。何か困ることが出たら、その時に考える」


「分かりました」


 職員が出ていく。


 扉が閉まった後、フェリクスがゆっくり手を上げた。


「質問しても?」


「内容による」


「木片を持たない状態で設備変化が――」


「駄目」


「最後まで言っていません」


「言わなくても分かる」


「比較条件としては非常に――」


「子供の生活を実験条件にするな」


 ガルムの声は強くなかった。


 けれど、そこで話は終わった。


 フェリクスも反論しない。


「……はい」


 少し間を置いてから、彼は自分の観測表へ視線を戻した。


「では設備は設備だけで見ます」


「そうしろ」


「もし偶然、同じ時間に変化が起きた場合も?」


「記録はする」


 リディアが答えた。


「ただし『木片を持たなかったから』とは書きません」


「分かりました」


 フェリクスが小さく息を吐く。


「難しいですね」


「何が?」


「知りたいことを、知れる形にしないことが」


 ガルムが少しだけ眉を上げた。


「お前にしてはいいこと言うな」


「私を何だと」


「さっき答えただろ」


     ◇


 子供は庭へ行く前に、自分の部屋へ戻った。


 窓から入る光が、寝台の端と卓の半分を照らしている。


 布鞄は朝と同じ場所にあった。


 子供は扉のところで止まり、それを見る。


 付き添いの職員は部屋へ入らず、廊下で待った。


「にわ、いく」


「うん」


「これ」


 子供が鞄を指す。


「そこにあるね」


「もってく?」


 職員は一瞬だけ迷った。


 質問の形が、自分へ答えを求めている。


「私が決める?」


「……うん」


「私は、持っていっても置いていっても大丈夫だと思うよ」


 子供の眉が寄る。


「どっち?」


「あなたが今決めたくないなら、決めなくてもいい」


「でも、にわ」


「庭へ行くことと、鞄をどうするかを一緒に決めなくてもいいよ」


 子供は鞄を見る。


「おいて、にわ?」


「できるよ」


「あとで、もつ?」


「後で持ちたくなったら、取りに戻れる」


「もたなくても?」


「いいよ」


「なくならない?」


「部屋に置いておけば、勝手に捨てないよ」


 子供が振り返る。


「すてない?」


「うん」


「ぼく、もってなくても?」


「持っていない間も、あなたの鞄だから」


 子供はしばらく何も言わなかった。


 視線が鞄と職員の間を行き来する。


「……ここ」


「ここに置く?」


「うん」


「分かった」


「さわらない?」


「危ないことがなければ触らない。掃除で動かす必要がある時は、先にあなたに聞くね」


「うん」


 子供は部屋を出た。


 廊下を数歩進んだ後、一度だけ振り返る。


 鞄はまだそこにある。


 それを確かめると、今度は庭へ向かって歩き出した。


     ◇


 その報告が届いた時、俺は塔の執務室で町の書類を読んでいた。


「持たない間も本人のもの、か」


『はい』


「いい言い方したな、その職員」


『記録上、本人も安心した様子だったとあります』


「名前分かる?」


『ナディア・ベルク。臨時配置の生活支援担当です』


「あとで礼言っといて」


『承知しました』


 机の上には、町から届いた申請書が積まれている。


 その一番上は、修繕用の木材購入申請だった。


 以前なら俺のところへ来る前に、誰か一人が可否を決めていたような内容だ。今は代表者二人と町役場職員が確認し、予算内であれば俺の許可なしに進められる。


 ではなぜここにあるのか。


「これ、俺に回す必要ある?」


『ありません』


「じゃあ何であるの?」


『主様が「町の状況もたまには見たい」とおっしゃったため、閲覧用写しが届いております』


「ああ……」


 自分で言った。


「見るだけ?」


『はい』


「判子いらない?」


『不要です』


「意見も?」


『求められておりません』


「……すごいな」


 紙を持ち上げる。


 俺が見ても見なくても、木材は必要な手続きを経て買われる。


 町は動く。


(俺の机にあるのに、俺の仕事じゃない)


 妙な感覚だった。


 以前なら、王太子の机へ上がってきた書類は、ほぼ全部が何らかの判断を求めていた。


 読む。


 決める。


 署名する。


 責任を負う。


 それが当然だった。


 今は違う。


 俺が知ることと、俺が決めることは別になり始めている。


「主様」


 書類を届けに来たセリーが俺の手元を見る。


「何?」


「楽しそうですね」


「そう見える?」


「はい」


「判子押さなくていい書類なんだ」


「それは何よりです」


「でも読める」


「はい」


「何かいいな、これ」


 セリーは少し考える。


「知る権利と決定権を分ける、ということでしょうか」


「そんな立派なこと考えてなかった」


「では?」


「俺が何もしなくても木材が買われるのが嬉しい」


「なるほど」


「雑にまとめたな」


「正確かと」


 俺は笑いながら書類を次へ送った。


 次は診療所の布類購入。


 これも閲覧だけ。


 その次は井戸の滑車交換。


 これも。


「俺、いらないんじゃない?」


「その結論へ進むのは少々早いかと存じます」


「でも、かなりいらなくなってきた」


「それを望んでおられたのでは?」


「うん」


 胸の奥に小さな寂しさはある。


 けれど、それよりも軽い。


 誰かが困るたび、俺が呼ばれる仕組みではない。


 俺が倒れたら止まる町でもない。


(これでいい)


 そう思える。


 思えるようになった。


     ◇


 昼前、旧保養施設の庭では、名前の分からない子供が昨日と同じ木陰に座っていた。


 今日は「やすみ」の紙も持っていない。


 何もない。


 ただ座っている。


 近くでは年配の保護対象者が布を畳み、少し離れた場所で若い女性が花壇の枯れた葉を摘んでいる。


 子供は空を見上げた。


「きょう、くも」


「少しあるね」


 ナディアが答える。


「きのう?」


「昨日も少しあったかな」


「おなじ?」


「どうだろう。私はよく覚えてないな」


 子供が雲を見る。


「ちがう」


「そう?」


「かたち」


「うん。風で動くからね」


「きのうの、くも、ない?」


「同じ雲はもうないかもしれないね」


「なくなった?」


「形が変わったり、別のところへ行ったりしたのかも」


 子供は少し考えた。


「でも、きのう、あった」


「うん」


「きょう、なくても?」


「昨日あったことは変わらないよ」


 子供は空を見たまま黙る。


 しばらくして、膝へ両手を置いた。


「かばん」


「うん?」


「へや」


「置いてきたね」


「でも、ぼくの?」


「うん」


「もってない」


「今は持ってないね」


「でも、ぼくの?」


「そうだよ」


 子供が足元を見る。


「すてた、じゃない?」


「捨ててないよ」


「おいた」


「うん」


「……おいた」


 もう一度、自分で確かめるように言った。


 それから子供は立ち上がった。


「部屋へ戻る?」


「ちがう」


「どうする?」


「あるく」


「庭を?」


「うん」


 ナディアも立つ。


 子供は鞄を取りに戻らなかった。


 「やすみ」の紙も取りに行かない。


 庭の端まで歩き、花壇の前で止まる。


「これ、なに?」


「ミントだよ」


「くさい」


「匂いが強いね」


「きらい」


「そっか」


「でも、ここにある?」


「あるよ」


「ぼく、きらいでも?」


「あなたが嫌いでも、ミントはここにいていいんじゃないかな」


 子供が少し眉を寄せる。


「へん」


「そう?」


「きらいなら、なくす?」


「私はなくさないかな。嫌いなら少し離れる」


「はなれる」


「うん」


 子供はミントから二歩離れた。


「ここ」


「匂い、弱くなった?」


「うん」


 満足したらしい。


 そのまま別の花壇へ歩いていく。


 ナディアは後ろからついていった。


     ◇


 午後、アンナマリーから連絡が入った。


『アルフォンス様。少しよろしいでしょうか』


「うん」


『昨日まで確認していた統合型表示盤の補修資料ですが、同じ時期の保守担当者日誌が見つかりました』


「旧保養施設の?」


『施設名は欠損しています』


「じゃあ同じとは言えない?」


『はい。ただし、統合盤の型式番号と設計局印は一致します』


「比較資料としてなら使える?」


『そのつもりです』


「聞く」


 俺は書類を閉じ、椅子へ深く座り直した。


『内容は、統合後の表示確認についてです。まず、既に確認されている注意とほぼ同じ記載があります』


「各表示の由来を混同するな?」


『はい。「統合盤上の配置は操作上の便宜によるものであり、旧系統上の前後関係を示さない」とあります』


「……配置そのものにも意味を持たせるなってこと?」


『少なくとも、この型式では』


 少しぞっとする。


 上。


 中。


 下。


 右。


 左。


 人間は並んでいれば、順番だと思いたくなる。


「続きは?」


『「隣接表示の連続点灯を、処理進行として記録しないこと」』


「完全に釘刺してるな」


『さらに、「同一要求に由来する表示であるかは、要求元識別記録を参照」と』


「要求元」


『はい』


 朝から何度も見ている言葉だった。


「つまり、同じ盤で隣り合って光っても、別々の要求かもしれない」


『可能性があります』


「逆に、離れた表示が同じ要求由来の可能性も?」


『この資料だけでは否定できません』


「ややこしいな」


『はい』


「フェリクス喜びそう」


『既に喜んでおります』


「見せたの?」


『ガルム隊長の立ち会いで』


「ならいい」


『なお、フェリクス様は「分からないことが増えました」と笑っておられました』


「本当に研究者だな」


 アンナマリーの声にも少し笑いが混じる。


『もう一点あります』


「うん」


『「要求元識別記録」の保存先について、古い注記がありました』


 俺は少し身を起こす。


「どこ?」


『「統合盤内に保持せず、原系統側記録を正とする」』


「待って」


『はい』


「今見えてる統合盤だけ調べても、誰からの要求かは分からない?」


『その可能性が高いです』


「原系統って……」


『どの系統を指すかは未確認です』


 第二線。


 北受所。


 中間保持箱。


 旧職員詰所。


 他にもまだ見つかっていない系統があるかもしれない。


「だからって壁開けないぞ」


『もちろんです』


「北も掘らない」


『はい』


「強い走査も」


『行いません』


「じゃあ、記録から探すしかないな」


『現在、設計局側の保存資料を優先しています』


「頼む」


 通信を終える。


 分かったことが増えた。


 同時に、今目の前にある表示盤だけでは分からないことも増えた。


(でも、これは後退じゃない)


 間違った近道が一つ消えた。


 それなら十分だ。


     ◇


 旧保養施設では、その資料を読んだフェリクスが、本当に嬉しそうな顔をしていた。


「素晴らしい」


「何がだ」


 ガルムが呆れる。


「配置順が処理順ではない可能性が明記されました」


「面倒が増えただけだろ」


「だから素晴らしいのです。これで、上から下へ進む三段階処理という雑な仮説を捨てられます」


「お前、そんな仮説持ってたのか」


「初期には」


「言わなくてよかったな」


「はい」


 リディアが資料の写しを机へ置く。


「ただし、『配置順が処理順ではない』と確認できたのは、この型式の統合盤についてです。今ある盤が同じ改修状態かどうかは、まだ完全には確認できていません」


「型式番号は?」


「見える範囲では一致します。ただし内部部品の交換履歴が不完全です」


「じゃあ、現物へそのまま当てはめない」


 ガルムが言う。


「はい」


 フェリクスも頷いた。


 以前より、その返事が早い。


「原系統側記録、ですか」


 彼は別の紙を見る。


「これが残っていれば大きいですね」


「どこにある?」


「分かりません」


「じゃあ探す?」


「資料で」


 ガルムが少し笑った。


「成長したな」


「現物を開けたい気持ちはあります」


「台無しだ」


「気持ちと行動は別です」


 リディアが吹き出す。


「それ、最近よく聞く考え方ですね」


「便利です」


「悪用するなよ」


「していません」


 その時だった。


 部屋の隅に置かれた監視記録用の小さな鐘が、一度だけ鳴った。


 設備そのものへ繋いだ警報ではない。


 別室の監視員が、目視変化を知らせるために鳴らす手動の鐘だ。


 三人の表情が変わる。


「どこだ」


「中央棟です」


 リディアが立ち上がる。


 走らない。


 廊下を早足で進む。


 設備室前には既に監視員が二人いた。


「触っていません」


「何が変わった?」


「発光です」


「位置は?」


「下寄りです」


 リディアが扉の外から確認する。


 薄暗い設備室。


 古い統合型表示盤。


 その下側、以前にも短い発光が確認された位置に、青白い光が浮かんでいる。


「時刻」


「午後二時十七分」


「他は?」


「変化なし」


「振動?」


「現在なし」


「西壁?」


「連絡なし」


「第二線?」


「見た目の変化なし」


「旧職員詰所?」


「変化なし」


 フェリクスは入口より先へ入らず、記録板へ時刻を書いた。


「子供は?」


 ガルムが聞く。


 監視員が答える。


「庭です」


「本人へ伝えるな」


「はい」


「様子だけ生活担当から普通に確認。設備のことを理由に近づくな」


「了解しました」


 光は続く。


 二時十八分。


 二時十九分。


 二時二十分。


 誰も触れない。


 誰も「何段階目」と言わない。


 二時二十一分、わずかに弱くなる。


 二時二十二分。


 消えた。


「五分くらいか」


 ガルムが言う。


「記録上は五分弱です」


 リディアが訂正する。


「右寄りの時と近いですね」


 フェリクスが口にしてから、自分で続けた。


「継続時間だけは。だからといって同じ原因とは限らない」


「先に言えるようになったな」


「学習しています」


 その直後。


 設備室ではなく、廊下の向こうから職員が来た。


「子供について報告です」


 ガルムの眉が少し動く。


「設備の話はしてないな?」


「していません」


「何があった?」


「本人が部屋へ戻りたいと」


「それだけ?」


「はい。ただ、戻る前に『かばん』と言いました」


 空気が少し固くなる。


 フェリクスが何も言わず口を閉じた。


 ガルムは数秒考える。


「設備の発光時刻と、子供が鞄って言った時刻は?」


「確認しますか?」


 リディアが聞く。


 ガルムはすぐに答えなかった。


 調べれば分かる。


 だが、分かった時刻をどう扱うか。


「記録は別々に残す」


「はい」


「今は照合しない」


 フェリクスが一瞬だけ驚いた顔をした。


 それから頷く。


「賛成です」


「珍しいな」


「本人が数えたくないと話した直後です。こちらが時間を重ねて意味を作れば、結局同じことを外からやることになります」


 ガルムは彼を見る。


「本当に成長したな」


「何度言うのですか」


「珍しいからだ」


     ◇


 子供はナディアと一緒に部屋へ戻った。


 布鞄は、朝置いた場所にそのままある。


 子供は扉のところで止まった。


「ある」


「あるね」


「さわってない?」


「私は触ってないよ。他の人にも、掃除で動かす必要がなかったからそのままって確認してある」


「うん」


 子供は近づく。


 鞄の前にしゃがむ。


 手を伸ばす。


 けれど、すぐには触れない。


「持つ?」


 ナディアは聞かなかった。


 子供自身が決めるまで待つ。


 やがて指先が布へ触れた。


 口を開ける。


 中を覗く。


 木片は入っている。


「ある」


「うん」


「なくなってない」


「うん」


 子供は木片を取り出さなかった。


 鞄の口を閉じる。


 そのまま床に置く。


「もたない」


「今は?」


「うん」


「分かった」


「でも」


 子供が鞄へ手を置いたまま、ナディアを見る。


「すてない」


「捨てないよ」


「ぼくも」


「あなたも捨てない?」


「うん」


「じゃあ、置いておく?」


「うん」


 子供は立ち上がる。


 卓へ向かい、「やすみ」と書いた紙を手に取った。


 昨日、自分で休みを終えた後も捨てなかった紙だ。


「それはどうする?」


「ここ」


 紙を卓へ戻す。


「使わない?」


「いま、やすみじゃない」


「そっか」


「でも、ある」


「うん」


「かばんも」


「あるね」


「もってない。でも、ある」


「うん」


 子供はしばらく二つを見比べた。


 布鞄。


 「やすみ」の紙。


「つかわないと、なくなる?」


「紙?」


「うん」


「捨てなければ残るよ」


「やすみも?」


 ナディアは少し考えた。


「休まない時間があっても、また休んでいいよ」


「いま、やすまない」


「うん」


「あとで、やすむ?」


「休みたくなったら」


「きめなくていい?」


「今はね」


 子供は小さく頷いた。


「かばんも?」


「今持たないって決めたなら、次にいつ持つかまで決めなくてもいいと思う」


「……あとで?」


「あとで決めてもいい」


「うん」


 子供は椅子へ座った。


 窓の外を見る。


「アル、きょう、こない?」


「呼びたい?」


「……まだ」


「じゃあ呼ばないね」


「うん」


 少しして、子供は卓の紙を一枚取った。


 何かを書こうとする。


 線を一本。


 もう一本。


 途中で止める。


「なに?」


「まだ」


「まだ決まってない?」


「うん」


「じゃあ、そのままにする?」


「うん」


 紙には二本の線だけが残った。


 何を表すのか、本人にもまだ決まっていない。


 ナディアは名前を書かなかった。


 説明も足さなかった。


     ◇


 夕方、俺は旧保養施設から届いた二種類の報告を別々に読んだ。


 一つは設備記録。


 午後二時十七分、統合盤下寄りに青白い発光。


 五分弱継続。


 他設備に同時変化なし。


 もう一つは生活記録。


 庭から戻った子供が布鞄を確認。


 木片の存在を確認した後、「もたない」「すてない」と発言。


 鞄は部屋に置いたまま。


 「やすみ」の紙も使わず保持。


 新しい紙へ二本の線を描き、「まだ」と発言。


「時刻、書いてないな」


『生活記録には大まかな時間帯のみ記録されています』


「わざと?」


『ガルム隊長の判断です』


「そっか」


 設備側には正確な時刻が必要だ。


 生活側では、医療や安全上必要でない行動まで秒単位で追う必要はない。


「照合しようと思えばできる?」


『施設内の一般記録等から、ある程度推定することは可能です』


「今はしない」


『承知しました』


 机の向こうではセリーが今日の書類をまとめている。


「主様」


「うん」


「気にならないのですか」


「気になる」


「では、なぜ照合なさらないのでしょう」


「照合して、時間が近かったら?」


「関連を疑うでしょう」


「遠かったら?」


「関連性が低い可能性を考えるでしょう」


「どっちにしても、子供の生活が設備の材料になる」


 セリーは黙る。


「必要になったら見る。でも今は、設備が危険な動きをしてるわけでもないし、子供も体調悪くない」


「はい」


「だったら、今知れること全部を知る必要はない」


 言ってから、自分で少し驚いた。


(俺がこんなこと言うようになるんだな)


 知れるなら知りたい。


 分かるなら分かりたい。


 王宮にいた頃から、そうだった。


 知らなければ判断できない。


 判断できなければ守れない。


 そう思っていた。


 でも、知るために誰かの生活を材料へ変えるなら、その知識が本当に今必要なのかを考えなければならない。


「主様」


「何?」


「また考え込んでおられます」


「今度は廊下じゃないから安全」


「そういう問題ではございません」


「じゃあ何?」


「お茶が冷めます」


「そっち?」


「重要です」


 カップへ手を伸ばす。


 まだ少し温かい。


「セリー」


「はい」


「昨日、一緒に休んだの、どうだった?」


 彼女の手が止まる。


「また唐突ですね」


「思い出した」


「私は、良い時間だったと思います」


「仕事じゃなく?」


「昨日の休息時間については、主様のお世話として座っていたわけではございません」


「うん」


「私が座っていたかったからです」


 昨日より少しだけ、答えが早かった。


 胸の奥が温かくなる。


「また休む?」


「主様が疲労しておられるのであれば」


「それ、俺のためじゃん」


「では」


 セリーは一度言葉を止めた。


「私が休みたい時にも、お付き合いいただけますか」


 今度は俺が黙る番だった。


「……もちろん」


「なぜ間がございましたか」


「嬉しかったから」


「食事中ではございませんので、反則とは申し上げません」


「そこ覚えてたの?」


「当然です」


 セリーが書類へ視線を戻す。


 けれど、ほんの少しだけ口元が柔らかかった。


     ◇


 日が沈む頃、旧保養施設では夕食の準備が始まっていた。


 名前の分からない子供は、部屋の卓で二本の線が描かれた紙を見ていた。


 午前中には意味が決まっていなかった線。


 今も、まだ決まっていない。


 ナディアが夕食を知らせに来る。


「ごはんだよ」


「うん」


 子供は立ち上がる。


 布鞄を見る。


 少し考える。


 今度は誰にも何も聞かず、そのまま扉へ向かった。


「行こうか」


「うん」


 廊下へ出る。


 数歩進んでから、子供は止まった。


「ナディア」


「なに?」


「かばん」


「うん」


「へや」


「置いてあるね」


「ぼくの」


「うん」


「もってない」


「今はね」


 子供は少し考えた。


「すててない」


「うん」


「……それでいい?」


 ナディアはすぐに答えず、子供の顔を見た。


「あなたは、それがいい?」


「……うん」


「じゃあ、今はそれでいいよ」


 子供は頷いた。


 食堂へ向かって歩き始める。


 夕方の廊下には、窓から橙色の光が差していた。部屋の中には、木片の入った布鞄が残っている。


 持っていない。


 けれど、捨ててもいない。


 使っていない「やすみ」の紙も、まだ卓にある。


 意味の決まっていない二本の線も、そのまま残っている。


 今すぐ使わないもの。


 今すぐ決めないもの。


 今は持たないもの。


 それらを残しておくことも、一つの選び方だった。


     ◇


 夜になっても、統合型表示盤に新しい発光はなかった。


 午後の下寄り発光についても、誰も子供の行動との対応を調べていない。


 西壁から音はしない。


 地下からも、夜九時まで新しい振動は観測されなかった。


 第二線は見た目に変わらず、旧職員詰所の表示も動かない。


 静かな夜だった。


 午後九時二十七分。


 中央棟の監視員が交代する。


 引き継ぎでは、発光時刻と継続時間だけを確認した。


「下寄り、十四時十七分から二十二分直前まで」


「操作なし?」


「なし」


「他系統変化?」


「確認範囲ではなし」


「了解」


 それで終わる。


 子供の鞄については話さない。


 必要がないからだ。


 午後十時。


 変化なし。


 午後十一時。


 変化なし。


 日付が変わる少し前。


 北側を担当していた監視員が、巡回から戻った。


「何かあった?」


「設備変化はありません」


「なら記録だけ」


「はい。ただ……」


 監視員が少し迷う。


「何だ?」


「北側の地面じゃなくて、建物の外壁です」


「外壁?」


「以前からある補修跡の近くに、水滴みたいなものが一つ」


 引き継ぎ担当の表情が変わる。


「雨は?」


「降ってません」


「触った?」


「触ってません」


「匂い?」


「近づいて確認してません」


「よし。そのまま」


 ガルムへ連絡が飛ぶ。


 数分後、リディアも来た。


 外へ出る。


 夜気は冷えている。


 雲はあるが、雨は降っていない。


 北側外壁。


 古い補修跡から少し離れた場所に、小さな光が反射していた。


 水滴のように見える。


 だが、それが水かどうかもまだ分からない。


「一つ、か」


 監視員が言いかけて、口を閉じる。


 ガルムは何も責めなかった。


「位置だけ記録」


「はい」


「採取は?」


 リディアが問う。


 ガルムは壁を見る。


「今すぐ危険がある?」


「見える範囲ではありません」


「増えてる?」


「現時点では」


「なら触らない」


「了解」


 時間だけが進む。


 零時七分。


 滴状のものは残っている。


 零時十一分。


 形が少し小さくなる。


 零時十五分。


 さらに小さくなる。


 零時十八分。


 見えなくなった。


 その間、中央棟の表示盤に発光なし。


 地下振動なし。


 西壁音なし。


 第二線の目視変化なし。


 旧職員詰所の表示変化なし。


「別紙だな」


 ガルムが言う。


「はい」


 リディアは新しい紙を出した。


 他の現象と同じ欄へ入れない。


 北外壁滴状物。


 位置。


 確認時刻。


 消失時刻。


 触れていない。


 採取していない。


 液体かどうか未確認。


 それだけを書く。


「前の滴と同じですかね」


 監視員が聞く。


 リディアは首を横へ振った。


「似て見えます。でも前は中央棟内部、今回は北外壁です。同じものだと確認できる材料がありません」


「はい」


「似ている、まで」


「分かりました」


 ガルムは暗い外壁を見上げる。


 以前なら、ここから何かを開けたくなったかもしれない。


 壁の向こうを調べる。


 地面を掘る。


 原因を探す。


 けれど今は、変化を壊さず残す方を選ぶ。


「朝まで通常監視」


「はい」


「子供には?」


「安全上必要な変化ではありません」


「なら言わない」


 ガルムたちは建物へ戻った。


     ◇


 その頃、名前の分からない子供は眠っていた。


 布鞄は寝台から少し離れた場所にある。


 手の届く位置ではない。


 けれど部屋の中だ。


 「やすみ」の紙は卓の上。


 二本の線が描かれた紙も、その隣。


 窓の外で風が木の枝を揺らしても、子供は起きなかった。


 何も持たずに眠っている。


 それでも、失ったものはなかった。


     ◇


 翌朝。


 子供が目を覚ました時、最初に見たのは窓だった。


 薄い朝日が入っている。


 次に卓。


 紙がある。


 最後に布鞄。


 昨日置いた場所にある。


 子供は寝台から降りた。


 鞄の前まで歩く。


 しゃがむ。


 少しだけ触れる。


 けれど持ち上げない。


「おはよう」


 扉の外からナディアの声がする。


「おはよう」


「入っていい?」


「うん」


 ナディアが入る。


 子供は鞄の前にしゃがんだままだ。


「どうしたの?」


「ある」


「うん」


「きのう、もたなかった」


「そうだね」


「でも、ある」


「うん」


 子供はしばらく鞄を見た。


「きょう」


「うん」


「まだ、もたない」


「分かった」


「あとで、かわる?」


「変わるかもしれないし、変わらないかもしれないね」


「いま、きめなくていい?」


「うん」


 子供は立ち上がった。


 鞄から手を離す。


 そして卓へ向かう。


 二本の線が描かれた紙を取った。


「これは?」


 ナディアが聞く。


「きょう、かく」


「何を?」


「まだ、しらない」


「そっか」


 子供は紙を持ったまま窓際へ行った。


 朝の光の中で、二本の線を見る。


 昨日決めなかったものを、今日もまだ決めない。


 それでも紙は残っている。


 選ばなかった答えが失敗になるわけでもなく、保留したことが誰かへの迷惑になるわけでもない。


 子供は鉛筆を持った。


 線の端へ小さな四角を描きかけて、途中で止めた。


「……やめる」


「消す?」


「ちがう」


 鉛筆を置く。


「ここまで」


「うん」


 描きかけの四角は、そのまま残った。


 完成させない。


 消さない。


 まだ決めない。


 子供はそれをしばらく眺めたあと、紙を卓へ戻した。


「ごはん」


「行こうか」


「うん」


 今日も布鞄は部屋に残った。


 誰も、それを忘れたとは記録しなかった。


 誰も、拒否したとも書かなかった。


 生活記録に残されたのは、本人の言葉だけだった。


 ――「きょう、まだ、もたない」。


 その後ろへ、職員の推測は足されなかった。

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