第85話 休む時間にも、終わりを先に決めなくてよかった
名前の分からない子供が、朝は木片を持っていくと決めた。
昼以降はまだ決めない。
その報告を読んだ俺は、しばらく最後の一文を眺めていた。
――昼以降については未決定。
「いい記録だな」
『はい』
エルの返事を聞きながら、俺は塔の記録室にある椅子へ深く座り直した。窓から入る朝の光は昨日より明るく、机の上に積まれた古い資料の端を白く照らしている。
「『朝に持ったから継続携行』じゃない」
『はい』
「昼になったら、また本人が決める」
『職員にもそのように共有されています』
「毎回聞くのも嫌にならないかな」
『その可能性はあります』
「だよな」
選べることは大事だ。
でも、選ばされ続けることが負担になる場合もある。
朝は持つか。
昼はどうするか。
夕方は。
夜は。
明日は。
それを全部確認され続けたら、自由というより仕事になる。
「エル。本人が自分から変えたいって言わない限り、毎時間確認するような運用にはしないで」
『承知しました』
「ただ、朝の選択を一日分の命令にもしたくない」
『どの時点で再確認しますか』
「そこを時間だけで決めたくないんだよな……」
難しい。
確認しすぎても負担。
確認しなさすぎても、昔の選択を現在へ引き延ばしてしまう。
「生活の区切りは?」
『朝食、昼食、入浴、就寝などが考えられます』
「そのたびに『持つ?』って聞かれたら嫌だろ」
『はい』
「本人が外そうとしたり、鞄を見たり、置こうとした時に必要なら手伝う。それ以外は勝手に継続扱いにしないけど、確認も押しつけない」
『本人が自発的に変更できることを、生活上分かる状態にしておくということでしょうか』
「うん。たとえば『いつでも置いていい』って一度説明して、後は本人から言えるようにする」
『記録します』
「でもこれも、あの子だけの決まりにしよう。全員に同じやり方が合うとは限らない」
『はい』
そこで扉が開いた。
セリーが茶器を持って入ってくる。
「主様」
「何?」
「本日の午後について確認がございます」
「あ」
「お忘れではありませんね?」
「二時間」
「覚えておられましたか」
「昨日から信用低すぎない?」
「では、内容も」
「急ぎじゃない仕事をしない時間」
「はい」
「緊急連絡には対応する。食事と体調管理も普通にする」
「はい」
「それ以外は休む」
「私もです」
「うん」
セリーが俺の前へ茶を置く。
「午後の状況を確認してから決める、だったよな」
「はい」
「今のところは?」
「塔側に緊急案件はございません」
「町は?」
『緊急案件なしです』
エルが答える。
「白鴉は?」
『急変者なし。三〇八号室の投薬量も維持。保存されていた少年も朝の体調に大きな変化はありません』
「旧保養施設」
『緊急対応を要する設備変化なし。本人も朝食中です』
逃げ道がない。
「できそうだな」
「主様」
「何?」
「なぜ残念そうなのでしょう」
「いや、実際に休むってなると何していいか分からなくて」
「何もしない時間を設ける話だったはずですが」
「何もしないって何するの?」
「そのご質問の時点で、かなり重症かと」
「病気みたいに言うなよ」
「比喩でございます」
セリーは俺の向かいへ座った。
「午後になっても状況が変わらなければ、実施いたしましょう」
「どこで?」
「それも決める必要がございますか?」
「……ない?」
「休む場所くらいは決めてもよろしいかと」
「じゃあ中庭?」
「天候が安定していれば」
「何か持っていく?」
「主様」
「はい」
「仕事の資料を持っていくおつもりでしたか」
「本を」
「どのような?」
「古い設備――」
「却下いたします」
「最後まで言わせてよ」
「必要ございません」
即答だった。
「じゃあ普通の本」
「読書は仕事でしょうか」
「内容による」
「では仕事に関係のないものを」
「難しいな」
「主様がお持ちの本は、すべて公務資料だったのでしょうか」
「昔はかなり」
「存じております」
「セリーは何持ってく?」
「何も」
「本当に何もしない気だ」
「そのための時間では?」
俺より上手そうだった。
◇
旧保養施設では、朝食を終えた子供が布鞄を肩に掛けたまま庭へ出ていた。
木片は中に入っている。
昨日とは違う。
けれど職員は、その違いを特別な変化として本人へ指摘しなかった。
庭の長椅子には「みち」と「やすみ」が置かれている。
子供は二枚を並べ、今日は「やすみ」を道の途中ではなく少し離れたところへ置いた。
「そこ?」
職員が聞く。
「うん」
それだけ。
風は弱い。
雲の切れ間から朝の光が落ち、庭の湿った土を少しずつ乾かしている。遠くでは警備の交代が行われていたが、生活区画の近くまで武装した兵が入ってくることはない。
子供はしばらく紙を眺めていた。
やがて肩の布鞄へ触れる。
「おもい?」
職員が聞いた。
「ちょっと」
「置く?」
子供はすぐには答えない。
「ここに?」
「置きたいなら」
「とらない?」
「勝手には取らないよ」
子供は鞄を外した。
長椅子の端へ置く。
紙のすぐ隣ではない。
少し離れた場所。
「ここ」
「うん」
そのまま紙へ戻る。
しばらくすると、別の保護対象者が庭へ出てきた。
年齢は子供より上。
まだ職員と一緒でなければ外へ出るのが不安な子だった。
その子は長椅子の端にある布鞄を見る。
「座っていい?」
名前の分からない子供へ聞いた。
子供は鞄を見る。
相手を見る。
少し考えてから、自分で鞄を持ち上げた。
「こっち」
自分の足元へ置く。
「いい」
「ありがとう」
相手が座る。
職員は手を出さなかった。
鞄を移動したのは本人だ。
木片も一緒に動いた。
何も起きない。
誰も意味をつけない。
しばらくして、座った子が紙を見た。
「なに?」
「みち」
「こっちは?」
「やすみ」
「休むの?」
「うん」
「どこ行くの?」
名前の分からない子供は、少し考えた。
「しらない」
「道なのに?」
「うん」
「変なの」
悪意のない言葉だった。
名前の分からない子供は怒らなかった。
「まだ、しらない」
「ふうん」
相手はそれ以上聞かず、空を見上げた。
しばらく二人で座っている。
紙の道は進まない。
休みの紙も動かない。
それでも、誰も困らなかった。
◇
午前中、ガルムたちは設備盤の補修記録を引き続き調べていた。
触らない。
開けない。
発光させない。
自然に残っている資料だけを読む。
フェリクスは今日も一冊だけだった。
「一冊という制限は、資料の厚さを考慮していません」
「昨日より厚いの選んだのお前だろ」
ガルムが呆れた顔で言う。
「一冊という条件の範囲内で最善を尽くしました」
「そういうところだぞ」
「何がでしょう」
リディアは二人を放置し、補修記録の写しを年代順に並べていた。
「これ、少し気になります」
声が変わる。
ガルムがそちらへ寄る。
「何だ?」
「統合型表示盤への更新後、識別票が一度交換されています」
「何で?」
「文字の摩耗」
「普通だな」
「はい。そこは普通です。ただ、その交換記録に旧識別名が残っています」
フェリクスが椅子ごと近づこうとする。
「立つな」
「椅子を動かしただけです」
「同じだ」
「違います」
「で、何て?」
リディアが写しを指す。
「三項目あります」
ガルムの顔が少し固くなる。
「読む前に確認。今の三か所の発光と同じ位置か?」
「分かりません」
「よし」
フェリクスが不満そうな顔をする。
「必要な確認です」
「お前に言ってる」
「理解しています」
リディアが一項目ずつ読む。
「『受所側保持確認』」
一つ。
「『接続先応答保持』」
二つ。
「『休止状態確認』」
三つ。
部屋の空気が少しだけ変わった。
以前見つけた一般的な三窓表示の資料と、似た言葉がある。
だが完全には同じではない。
「一般図は?」
ガルムが聞く。
フェリクスが即答する。
「上が受所側確認、中が接続先応答、下が保持状態です」
「似てる」
「はい」
「同じ?」
「……証明できません」
少し悔しそうだった。
「交換記録の日付は?」
「北受所閉鎖後です」
「中間保持箱への切り替え後?」
「おそらく近い時期ですが、前後関係を確定できるほど日付が残っていません」
ガルムは資料を見つめる。
「『保持』が二つあるな」
「はい」
リディアが頷く。
「接続先応答保持と、休止状態確認」
「今までの『応答待ち』とは違う?」
「表記は違います」
「意味は?」
「分かりません」
「いい」
フェリクスが手を上げた。
「一つ、仮説を述べても?」
「仮説って最初に言うなら」
「この統合盤は、単純な三状態表示ではなく、複数系統から状態を引き継いだ可能性があります」
「理由は?」
「『統合』という更新理由と、旧線由来表示と追加監視表示を同列配置する場合の識別票規定です」
「つまり?」
「今見えている三か所が仮に三つの表示窓だったとしても、同一設備の三段階とは限らない」
ガルムが頷く。
「別々の系統を一枚に並べただけかもしれない」
「はい」
「今までより分からなくなったな」
「研究としては進展です」
「お前、分からないこと増えると嬉しそうだな」
「誤った単純化が崩れたのですから」
リディアが小さく笑う。
「そこは私も同意します」
ガルムは頭を掻いた。
「じゃあ触らない理由も増えたな」
「なぜです?」
「どこが何に繋がってるか分からん盤を触る方が怖いだろ」
「……正論です」
「珍しく素直だな」
「私は常に合理的です」
「それは違う」
即座に否定された。
◇
昼前、俺のところへその報告が届いた。
俺は最初に発光位置との対応を聞きそうになって、やめた。
「今見えてる発光位置と、三つの旧識別名が対応する証拠は?」
『ありません』
「よし」
エルが淡々と答える。
『リディア様も同様の注記を付けています』
「じゃあ今のところは、昔の統合盤にそういう三つの識別名があった。それだけ」
『はい』
「現在の盤がそのまま残ってるかも不明」
『はい』
「補修で位置が変わってる可能性もある」
『はい』
「光った場所が、その三つとも限らない」
『はい』
「……何も分からないな」
『分からない範囲は増えました』
「フェリクスみたいなこと言う」
『評価としては適切かと』
「まあね」
そこで別の連絡が入る。
旧保養施設の生活区画。
子供が昼食前に布鞄をどうするか自分から話したらしい。
「何て?」
『「ひるは、おく」』
「本人から?」
『はい。職員から再確認はしておりません』
「どこに?」
『自室です』
「木片も?」
『布鞄内に入れたままです』
「理由は?」
『本人から説明なし。職員も求めていません』
「うん」
朝は持つ。
庭では一度置く。
昼は部屋へ置く。
全部同じ日だ。
「記録は?」
『「朝食時は本人希望により携行。庭滞在中、本人判断で一時的に長椅子へ置き、その後自身で移動。昼食前、本人より『ひるは、おく』との申告あり。自室保管」としています』
「いい」
そこに「不安定」も「一貫性なし」もない。
選択が変わった。
ただそれだけだ。
◇
昼食を終えた。
緊急連絡はない。
町も動いている。
白鴉も安定。
旧保養施設も、設備に新しい変化なし。
逃げられない。
「主様」
「分かってる」
「まだ何も」
「二時間だろ」
「はい」
セリーは小さな籠を持っている。
「何それ?」
「飲み物と軽食です」
「何もしないんじゃなかった?」
「水分摂取と必要な栄養補給は休息と矛盾いたしません」
「用意いいな」
「主様が途中で空腹を理由に戻ろうとなさる可能性がありますので」
「そんな子供みたいなことしないよ」
「では不要でしょうか」
「持っていこう」
「はい」
負けた気がする。
塔の中庭へ出る。
朝より雲が減り、青い空がところどころ見えていた。風は冷たすぎず、木々の葉が擦れる音が静かに続いている。
長椅子が二つ。
俺は片方へ座る。
セリーも隣へ座るのかと思ったが、向かい側の長椅子へ行こうとした。
「そっち?」
「はい」
「遠くない?」
言ってから、自分で何を言っているんだと思った。
セリーが足を止める。
「こちらへ座ることをご希望ですか?」
「……嫌じゃなければ」
少し間があった。
「では」
俺の隣へ座る。
間には一人分もない。
でも肩が触れるほどでもない。
「で」
「はい」
「何する?」
「何もしません」
「本当に?」
「はい」
「話すのは?」
「禁止しておりません」
「寝る?」
「お好きに」
「セリーは?」
「今は座っております」
「見れば分かる」
そこから会話が止まった。
風の音。
鳥の声。
遠くで塔のどこかの扉が閉まる音。
それだけ。
一分。
二分。
たぶん三分。
「セリー」
「はい」
「長い」
「まだ数分でございます」
「何もしないの難しい」
「存じております」
「セリーは平気?」
「主様よりは」
「何考えてる?」
「それを申し上げますと、何もしない時間ではなくなるのでしょうか」
「考えるのはしていいだろ」
「では、風が気持ちよいと思っております」
「それだけ?」
「今は」
俺も風を見る。
見えるものではない。
でも葉が揺れる。
頬に触れる。
雲が少し動く。
「……悪くないな」
「はい」
また黙る。
今度はさっきより長かった。
仕事のことを考えないようにしようとすると、逆に仕事が浮かぶ。
旧保養施設。
統合盤。
子供。
白鴉。
町。
王都。
古い資料。
それを一つずつ追い払おうとして、途中でやめた。
「セリー」
「はい」
「仕事のこと浮かんだ」
「そうでしょうね」
「追い出した方がいい?」
「休むために努力なさるのであれば、それも仕事になりそうです」
「じゃあ浮かんでもいい?」
「私は構いません」
「セリーは?」
「主様のことを考えております」
「……え?」
顔を向ける。
セリーは前を見ている。
「何で?」
「隣におられますので」
「それだけ?」
「はい」
「何考えてた?」
「静かにしておられると、思ったより落ち着きがないのだと」
「悪口じゃん」
「観察です」
「他は?」
「秘密です」
「秘密あるの?」
「ございます」
「気になる」
「お尋ねになっても申し上げません」
「本人の選択?」
「はい」
「それ言われると弱い」
「便利でございますね」
セリーの口元がわずかに緩む。
俺も笑った。
また静かになる。
◇
どれくらい経ったのか分からない。
時間を見ないと決めたわけではない。
でも、見なくても困らなかった。
途中でセリーが籠から水を出した。
「飲まれますか」
「うん」
受け取る。
冷たすぎない水。
「何分?」
「知りたいですか?」
聞かれると迷った。
「……まだいい」
「はい」
水を飲む。
空を見る。
雲の形が少し変わっている。
「セリー」
「はい」
「二時間経ったら教えて」
「承知しました」
「でも、二時間経つ前にやめたくなったら?」
「やめればよろしいのでは?」
「失敗じゃない?」
「なぜですか」
「二時間って決めたから」
「二時間を目安にしただけでございます」
「でも約束」
「私は、主様を二時間拘束すると申し上げた覚えはございません」
「そうだっけ」
「はい」
「じゃあ、一時間でやめても?」
「主様がそう望まれるのであれば」
「セリーは?」
「私はもう少し座っていたいかもしれません」
「じゃあ俺だけ戻る?」
「それでも構いません」
妙な感じだった。
一緒に休み始めた。
だから一緒に終わらなければならないような気がしていた。
でも、そんな約束はしていない。
「今は?」
「はい?」
「俺、まだ座ってたい」
「では、そうなさってください」
「セリーも?」
「はい」
結果は同じ。
でも、相手が残るから残るのと、自分も残りたいのは少し違う。
その違いを、わざわざ説明する必要はなかった。
◇
旧保養施設では、昼食を終えた子供が自室へ戻っていた。
布鞄は朝と同じ場所。
中には木片。
子供は鞄を見たが、触らない。
「午後どうする?」
職員が聞いたのは、木片ではなく生活予定だった。
「にわ」
「庭へ行く?」
「うん」
「何持っていく?」
子供が卓を見る。
「みち」。
「やすみ」。
紙箱。
紙の輪。
布鞄。
「やすみ」
「紙を一枚?」
「うん」
「道は?」
「おいてく」
「分かった」
今日は「やすみ」だけを持って庭へ行く。
職員は「道がないのに休みだけでいいの?」とは聞かなかった。
子供は紙を両手で持ち、庭へ出る。
長椅子へ座る。
「やすみ」を隣へ置く。
「みち、ない」
自分から言った。
「部屋だね」
「うん」
「取ってくる?」
「いらない」
「分かった」
子供は紙を見る。
「やすみだけ」
「うん」
「へん?」
「どうして?」
「みち、ない」
「休むのに道が必要?」
子供が黙る。
しばらく考える。
「……いらない?」
「私は分からない。あなたは?」
「いま、いらない」
「じゃあ今はそれでいいんじゃないかな」
「うん」
子供は長椅子へ深く座り直した。
足が地面へ届かない。
少し揺らす。
「いつまで?」
自分から聞いた。
職員は首を傾げる。
「何が?」
「やすみ」
「いつまで休むか?」
「うん」
「決めたい?」
子供は紙を見る。
「……わかんない」
「じゃあ、決めなくてもいいよ」
「ごはんまで?」
「それでもいいし、その前に部屋へ戻ってもいいよ」
「あとで、みち?」
「道を持ってきたくなったら持ってきてもいい」
「こなかったら?」
「そのままでもいいんじゃない?」
子供は足を揺らす。
「おわり、ない?」
「休みの終わり?」
「うん」
「今決めなくても、あとで『終わり』って思った時に終わればいいと思う」
「だれが?」
「あなたが」
「せんせいじゃない?」
足が止まった。
職員も、すぐには答えなかった。
「今ここでは、先生が決めることにはなってないよ」
「ガルム?」
「ガルムさんも、今の休みを終わらせろとは言ってない」
「アル?」
「アルさんも」
「じゃあ」
子供は胸へ手を置く。
「ぼく?」
「安全に問題がなければ」
「うん」
足がまた少し動く。
「じゃあ、まだ」
「まだ休む?」
「うん」
それで会話は終わった。
◇
「主様」
セリーに呼ばれて目を開けた。
「……寝てた?」
「はい」
「どれくらい?」
「二十七分ほど」
「そんなに?」
「よくお休みでした」
「二時間は?」
「すでに過ぎております」
「え?」
身体を起こす。
いつの間にか、空の雲がかなり移動していた。
「何で起こさなかったの?」
「二時間経過時に一度お声をかけました」
「俺、何て?」
「『あと少し』と」
「覚えてない」
「でしょうね」
「じゃあ、二時間超えた?」
「はい」
「約束違反?」
「休息時間が延びただけですが」
「セリーはずっといたの?」
「はい」
「仕事してない?」
「しておりません」
「本当に?」
「主様が眠っておられるのを見ておりました」
「それ仕事じゃない?」
「今日は違うことにいたしました」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「自分で?」
「はい」
「そっか」
セリーが立ち上がる。
「戻りますか?」
俺も立とうとして、止まった。
「セリーは?」
「はい?」
「戻りたい?」
彼女は空を見る。
風が髪を揺らす。
「もう少しだけ」
珍しい答えだった。
「じゃあ座る」
「主様は戻られてもよろしいのですよ」
「俺も、もう少しいたい」
「そうですか」
「うん」
座り直す。
今度は終わる時刻を決めなかった。
緊急連絡が来たら戻る。
腹が減ったら戻る。
寒くなったら戻る。
どちらかが戻りたくなったら、それを言う。
それでいい。
◇
結局、塔の中へ戻ったのは、予定よりかなり後だった。
それでも何も壊れていなかった。
町の支援制度は俺がいなくても動いていた。
白鴉では保存されていた少年が予定通り一度だけ歩き、自分から休憩へ入った。
三〇八号室の少年は同じ量の薬を飲み、手紙を読まなかった。
旧保養施設の設備にも、急を要する変化はない。
「俺、いなくても平気だな」
廊下を歩きながら言う。
「はい」
「即答」
「主様が全ての場所に必要である状態は、望ましくないのでしょう?」
「そうだけど」
「寂しいですか?」
少し考える。
「前よりは、寂しくない」
「では少しは?」
「少し」
「そうですか」
「でも嬉しい方が大きい」
「はい」
「セリーは?」
「何についてでしょう」
「俺が何もしない時間」
セリーは少し考える。
「思っていたより静かでした」
「寝てたから」
「はい」
「セリーの休みは?」
「悪くありませんでした」
「またやる?」
すぐには返事がない。
でも、その沈黙は嫌なものではなかった。
「はい」
やがて返ってくる。
「ただし次回も、時間は状況を見て決めます」
「最初から何時間って決めない?」
「その方がよいかもしれません」
「終わる時間も?」
「必要がなければ」
「いいね」
中庭に残してきた静けさが、まだ少し身体に残っている気がした。
◇
夕方前、旧保養施設から連絡が入った。
子供本人からではない。
生活記録の共有だった。
「やすみ」の紙だけを持って庭へ出た。
道は部屋。
木片も部屋。
子供は長椅子で休み、途中で昼寝をした。
目を覚ました後も、すぐには部屋へ戻らなかった。
そして夕方が近づいた頃、自分から職員へ言った。
――もういい。
「休みが?」
『職員も同様に確認しています』
「本人は?」
『「うん。やすみ、おわり」』
「それで?」
『紙を持って自室へ戻りました』
「道は?」
『部屋へ戻った後、「みち」の隣へ「やすみ」を置いています』
「木片は?」
『布鞄内のままです』
「持つって?」
『言っていません』
「職員も聞いてない?」
『はい』
俺は少し笑った。
「自分で終わらせたんだな」
『はい』
「誰かに終わりを言われるんじゃなくて」
『本人の発言として記録されています』
「設備は?」
『午後を通して新規発光なし。西壁音なし。地下振動なしです』
「分かった」
通信を終える。
セリーが隣にいる。
「似てたな」
「何がでしょう」
「俺たちの休み」
「そうでしょうか」
「終わる時間、最初に決めなくても終わった」
「はい」
「ずっと休み続けるわけじゃなかった」
「はい」
「休むと戻れなくなるわけでもなかった」
セリーは少しだけ目を細めた。
「主様」
「何?」
「次回もそれを理由に、必要以上に長く休まれるおつもりでは」
「まだ何も言ってないだろ」
「念のためでございます」
「信用ないなあ」
「本日の実績を踏まえた評価です」
否定できなかった。
◇
夜、ガルムたちから追加の資料が届いた。
統合型表示盤の補修履歴。
新しい図面ではない。
交換作業を行った担当者の引き継ぎ記録だった。
「エル、読む」
『はい』
古い文字を追う。
――統合後も各表示の由来を混同しないこと。
「また由来」
続き。
――同時点灯を一連動作とみなさず、各系統記録と照合すること。
俺の指が止まった。
「これ、大事じゃない?」
『はい』
――時間近接のみをもって因果関係を確定しないこと。
「……昔の人に怒られてる気がする」
『現在の調査方針と一致します』
「光った。後で音がした。だから繋がってる、とはしない」
『はい』
「同時に二つ光っても、一連の動作とは限らない」
『はい』
「各系統の記録と照合する」
『はい』
さらに読む。
最後の一部は摩耗していた。
それでも数行は残っている。
――表示消失は要求終了、接続解除、休止完了その他複数要因により生じ得る。
「消えたから終わった、でもない」
『少なくともこの資料では、複数要因があります』
「子供が『きえたら、ねる』って言ったこととも、まだ結びつけない」
『はい』
「表示が消える意味が一つじゃないなら、なおさら」
『その通りです』
資料の年代は、統合盤更新後。
現在見えている盤と完全に同じものかは分からない。
でも、当時の運用者自身が警告していた。
近い時間に起きたからといって、勝手に一つの流れへするな。
表示が消えたからといって、一つの意味へ決めるな。
「ガルムたちにも?」
『すでに共有されています』
「フェリクスは喜んでそう」
『「非常に良い注意書きです」と』
「やっぱり」
俺は笑った。
◇
その夜も、旧保養施設では誰も設備へ手を出さなかった。
午後十一時十分。
変化なし。
十一時五十二分。
西壁付近でごく小さな音。
一度。
設備盤発光なし。
地下振動なし。
日付が変わる。
午前零時四十一分。
変化なし。
一時二十六分。
地下に弱い振動。
約二秒。
他変化なし。
二時三分。
中央棟設備盤の右寄りに青白い発光。
監視者二名が確認する。
操作なし。
二時五分。
継続。
二時七分。
光が少し弱くなる。
二時八分。
消灯。
約五分。
他の表示位置に発光なし。
二時二十二分。
西壁音なし。
三時。
変化なし。
三時三十九分。
旧職員詰所の表示部に目視上の変化なし。
四時十二分。
地下振動なし。
五時。
変化なし。
右寄りの発光が消えた。
だが、誰も「一つ終わった」とは書かなかった。
表示消失。
それだけを記録した。
◇
朝。
名前の分からない子供は目を覚まし、卓の上を見た。
「みち」。
その横の「やすみ」。
紙箱。
紙の輪。
布鞄。
昨日の夕方から位置は変わっていない。
子供は寝台から降りる。
布鞄には触れず、最初に「やすみ」の紙を持った。
「今日も休む?」
職員が聞く。
子供は首を横へ振る。
「きのう、おわった」
「そうだったね」
「でも」
「うん?」
「これ、なくさない」
紙を見せる。
「休みの紙?」
「うん」
「終わったけど残す?」
「うん」
「分かった」
子供は「やすみ」を「みち」の横へ戻した。
「また、やすむ」
「いつ?」
聞かれて、子供は少し考えた。
「つかれたら」
「うん」
「つかれなくても」
職員が少し目を丸くする。
「休みたくなったら?」
「うん」
「分かった」
子供は頷く。
それから布鞄を見た。
「これは?」
職員は聞かない。
子供自身がしばらく考える。
「ごはん」
「先に朝ごはん?」
「うん」
布鞄は置いたまま、扉へ向かう。
途中で振り返る。
でも戻らない。
「あとで」
「うん」
何を後で決めるのか、職員は聞かなかった。
子供はそのまま朝食へ向かった。
道は残っている。
休む場所も残っている。
休みが終わったからといって、休んだ時間を消す必要はない。
また休む日が来るかもしれない。
その時がいつなのか、今決めておく必要もない。
そして、昨日持ったものを今日持たないとしても、それだけで何かを捨てたことにはならなかった。




