第84話 置いていったものは、捨てたものではありませんでした
名前の分からない子供が木片を部屋へ置いたまま朝食へ向かった、という報告を受けたのは、俺が塔の食堂で二枚目のパンへ手を伸ばした時だった。
エルから届いたのは、それだけではない。
紙箱は閉じたまま。
昨日作った「みち」と「やすみ」は卓上に残している。
布鞄も部屋。
子供は廊下へ出たあと、「あとで、もってもいい?」「もたなくても?」と職員へ確認し、どちらも可能だと聞いてから食堂へ向かった。
「主様」
「うん」
「パンをお取りくださいませ」
「取ってるよ」
「掴んだまま止まっております」
見ると、本当に止まっていた。
パン籠の上で右手だけが固まっている。
「考え事をすると止まるの、最近多くない?」
「以前からでございます」
「そう?」
「はい。以前は書類を持ったまま止まっておられました。現在はパンを持ったまま止まっておられます」
「悪化してない?」
「少なくとも書類よりパンの方が、冷めるという問題がございます」
「じゃあ食べる」
「お願いいたします」
パンを皿へ置き、温かいスープへ手を伸ばす。
旧保養施設へ行きたい気持ちはあった。
けれど、子供は俺を呼んでいない。
木片を置いて朝食へ行った。
それは何か大きな決断なのかもしれないし、単に朝食に必要ないと思っただけかもしれない。
昨日は紙の道に「やすみ」を作った。
今日は木片を持たなかった。
並べれば意味のある変化に見える。
だからこそ、並べない。
「エル」
『はい』
「本人、朝食後の予定は?」
『未定です』
「設備のことは?」
『伝えておりません』
「昨夜の発光も?」
『はい。本人の生活に直接必要な情報ではないため、現時点では共有しておりません』
「それでいい」
『なお、本人より主様への面会希望はありません』
「……そこまで言わなくても」
『必要かと判断しました』
「俺が行きそうだから?」
『可能性を考慮しました』
向かい側でセリーが紅茶を口元へ運ぶ。
ほんの少し、笑っている気がする。
「セリー」
「はい」
「笑ってる?」
「いいえ」
「絶対笑ってる」
「主様」
「何?」
「スープが冷めます」
「またそれ」
誤魔化された。
でも、悪くない朝だった。
◇
朝食を終えると、俺は旧保養施設ではなく記録室へ向かった。
昨日まで調べていたのは、本人の現在意思より過去の安定申告を優先できるようになった過程。
そして、その理由の一つとして記されていた「緊急時」。
アンナマリーとブラットには、その言葉が当時どこまでを指していたのか探してもらっている。
俺自身は別の資料を見る。
古い保護施設における「所持物」の扱い。
木片のことが頭にあるから選んだのは否定できない。
ただし、あの木片の正体を決めるためではない。
本人に持たせたもの。
本人が自分で持つと選んだもの。
途中で置いたもの。
そういう物品を、古い制度がどう扱っていたのか。
「検索範囲、広めで」
『承知しました。帰還管理所に限定しますか』
「しない。同年代の保護施設、療養施設、移送施設まで。ただし王家関係と一般施設は分けて」
『はい』
「所持品、証、識別具、預かり品、貸与品」
『検索します』
「あと、置いていった場合」
『遺棄、放棄、預託、保管、未携行などを含めますか』
「うん。でも言葉ごとに分けて」
『承知しました』
しばらくすると、机の上へ複数の候補が表示された。
最初に目についたのは、古い一般療養施設の持ち物管理規定。
――本人が一時的に所持を望まない物品は、本人確認の上、預かり保管とする。
その次。
――未携行をもって所有放棄とみなさない。
「……これ」
『はい』
「普通の規則だな」
『そう考えられます』
「置いていったから捨てた、にはしない」
『はい』
「預けるって言ってない場合は?」
『続きがあります』
――本人が明確な処分意思を示さない場合、居室内に残置された私物は継続保管とする。
「これも普通」
『はい』
「でも、こういう普通の規則が大事なんだよな」
木片を部屋へ置いた。
それだけで、「もう要らないと決めた」と解釈してはいけない。
子供自身も「後で持ってもいい?」と確認している。
今日持たない。
それと、もう持たないは違う。
さらに資料を送る。
別施設。
――保護対象者が貸与具の携行を拒否した場合、当該具が生命維持または安全確保に不可欠であるかを確認すること。
不可欠なら理由を説明する。
不可欠でないなら強制しない。
拒否理由を聞くことはできるが、回答を強制しない。
「貸与具」
『はい』
「木片が貸与具かは分からない」
『はい』
「安全に必要かも分からない」
『はい』
「だから当てはめない」
『承知しました』
さらに別の文書。
今度は帰還補助具の管理。
――証票の本人携行を原則とする。
以前、帰還管理所で見つけた「証を本人が保持したまま待機」と近い。
ただ、その下に追記がある。
――身体事情その他により本人携行困難の場合、本人の確認を得て近接保管可。
「近接保管」
『本人の手元ではなく、近くに保管する運用と考えられます』
「持ってないから資格失効、じゃない」
『この資料では、そのような記載はありません』
少し前に見つけた「証を紛失しても再発行できる」という古い規則とも矛盾しない。
証は大事。
でも証そのものが人間ではない。
持っているかどうかだけで、本人の存在や意思が消えるわけでもない。
「エル」
『はい』
「今日の子供の木片について、この資料を本人へ説明する必要は?」
『現時点ではないと考えます』
「俺も」
本人はただ、今日は持たないと決めた。
そこへ二千年前の制度を持ち込む必要はない。
俺たちが勝手に「置いた意味」を作らないために使えばいい。
◇
その頃、旧保養施設の食堂では、子供が柔らかいパンをちぎっていた。
今日は蜂蜜を少しだけ塗っている。
赤いジャムではない。
本人が蜂蜜を選んだ。
「甘い?」
向かいに座る職員が聞く。
「うん」
「多すぎない?」
「ちょっと」
「減らす?」
子供はパンを見る。
蜂蜜のついた部分を一口食べる。
「このまま」
「分かった」
隣の席では別の保護対象者が温かい粥を食べている。
少し離れたところで食器の音がする。
窓の外には薄い雲。
いつもの朝だった。
子供は二口ほど食べたところで、ふと自分の肩を見る。
いつも布鞄の紐がかかっている場所。
今日はない。
手を伸ばしかけて止める。
「どうしたの?」
「ない」
「鞄?」
「うん」
「部屋だね」
「うん」
職員は取りに行くかとは聞かなかった。
子供も頼まない。
またパンを食べる。
しばらくして、食堂の入口へ目を向けた。
「こない」
「誰?」
「……アル」
「呼んでないからね」
「うん」
「呼びたい?」
子供は少し考える。
「まだ」
「分かった」
また食べる。
朝食が終わる頃には、肩へ触れることもなくなっていた。
◇
記録室で資料を読んでいると、アンナマリーから通信が入った。
『緊急時の定義について、一部見つかりました』
「完全?」
『いいえ。年代ごとに違います』
「そこから聞きたい」
『最も古いものでは、生命危機、急激な身体状態悪化、火災その他の施設危険が例示されています』
「本人に聞いてる時間がない場合?」
『はい。「本人意思確認を待つことで重大な身体損傷または生命危険が増大する場合」とあります』
「かなり限定されてる」
『そうですね』
「精神状態だけは?」
『この版にはありません』
「後は?」
『約十七年後の改訂では、「重度精神混乱により本人または周囲への急迫危険が認められる場合」が追加されています』
「急迫危険」
『はい』
「さらに後?」
アンナマリーが少し間を置いた。
『「治療計画遂行に重大な支障を生じ、状態悪化が予測される場合」』
俺は眉を寄せた。
「それも緊急?」
『分類上は「準緊急判断」という別枠ですが、本人意思確認の一部省略が可能です』
「今すぐ死ぬとかじゃない」
『はい』
「治療計画に支障が出る」
『はい』
「例えば薬を拒否したら?」
『条件次第では該当する可能性があります』
「帰還を拒否したら?」
『この文書だけでは分かりません』
「決めない」
『はい』
年代を追うごとに、緊急の輪郭が広がっている。
最初は、待っていたら死ぬかもしれない。
次は、本人や周囲へ急迫した危険がある。
さらに、治療計画に重大な支障が出る。
同じ「本人のため」という言葉でも、範囲が変われば意味も変わる。
「まだある?」
『さらに後年の運用注釈があります』
「読む」
『「反復的拒否により必要処置が遅延する場合、将来的身体危険を考慮し、準緊急判断を適用し得る」』
胸の奥が重くなる。
「将来的」
『はい』
「今危険じゃなくても」
『将来危険になる可能性を根拠にできます』
「それ、かなり広いな」
『私もそう感じます』
「でも、本当に必要な治療をずっと拒否して、後で取り返しがつかなくなることもある」
『はい』
「だから規則を作った理由まで悪意って決めるのは違う」
『はい』
「問題は、誰がどこまで使えたか」
『そして、拒否そのものを危険の証拠にしていないか』
「うん」
以前見つけた後年記録。
再確認拒否継続。
管理代行確認済。
本人意思欄は空白。
その変化へ繋がる道が、少しずつ見えてきた。
まだ一本の線にはしない。
制度が同じかも分からない。
担当者も違う。
施設も違う。
ただ、考え方がどう変化し得たかを示す資料ではある。
「アンナマリー」
『はい』
「最初の緊急規定と、最後の準緊急規定を別々に保存して」
『すでに分けています』
「さすが」
『同じ「緊急」という項目にまとめると、意味が変わってしまいますので』
「俺より上手いな」
『何がですか?』
「分けるの」
通信の向こうで、小さく笑う気配がした。
『練習中です』
俺たちはみんな、同じことをしている。
似ているものを、似ているからという理由だけで一つにしない。
◇
午前の終わり頃、旧保養施設の子供は部屋へ戻った。
朝食の後は庭へ出て、昨日作った紙を持たずに短い時間だけ歩いた。
それから室内で絵を描き、昼前になって自室へ戻る。
扉を開ける。
卓の上には「みち」と「やすみ」。
紙箱。
紙の輪。
そして布鞄。
子供は最初に鞄を見る。
すぐには触らない。
椅子へ座る。
「お水、ここに置くね」
「うん」
職員が卓の端へ杯を置く。
「お昼まで少しあるけど、どうする?」
「ここにいる」
「分かった」
職員は扉の近くへ移動する。
子供は「みち」の紙を指で押す。
少し動かす。
その横へ「やすみ」を置く。
「きょう」
独り言のような声だった。
「うん?」
「みち、いかない」
「今日は?」
「うん」
「休む?」
「うん」
子供は「やすみ」の紙へ指を置く。
「ここ」
「分かった」
しばらく静かになる。
やがて子供は布鞄へ手を伸ばした。
持ち上げる。
膝へ置く。
開けない。
「もつ?」
職員が聞いた。
子供は少し考える。
「まだ」
「じゃあ膝に置くだけ?」
「うん」
布越しに、中の木片の形がわずかに浮いている。
子供はその膨らみを指でなぞらなかった。
「おいてった」
「朝?」
「うん」
「うん」
「なくならなかった」
「鞄?」
「うん」
「ここにあったね」
「ぼく、もってなかった」
「うん」
「でも、あった」
「うん」
子供は職員を見る。
「へん?」
「私は変だと思わないよ」
「ぼくの?」
「それはあなたが決めることかな」
職員は断定しなかった。
子供は鞄を見る。
「ぼくの」
「うん」
「もってなくても?」
「あなたはそう思う?」
「……うん」
「じゃあ、今はそうなんだね」
子供は鞄を膝から卓へ戻した。
今度は「やすみ」の紙の近くへ置く。
「ここにいる」
「鞄が?」
「うん」
「分かった」
それ以上は何も言わなかった。
◇
昼過ぎ、俺は白鴉へ向かった。
昨日、保存されていた少年とのパン比較へ参加することになっていたのを思い出したからだ。
正確には、セリーに思い出させられた。
「忘れてた?」
白鴉の窓際で、少年がじっと俺を見る。
「……半分くらい」
「忘れてた」
「セリーが覚えてた」
「じゃあセリーえらい」
「俺は?」
「だめ」
「厳しいな」
卓の上には三つのパンがある。
少年の分。
俺の分。
セリーが用意した分。
例の老人まで近くに座っていた。
「何でいるの?」
「審判だ」
「いつ決まった?」
「今」
「勝手すぎる」
少年が笑う。
「ならべる」
三つのパンを並べる。
大きさはほとんど同じだ。
わざとそうしたのだろう。
「同じじゃない?」
俺が言う。
少年は真剣な顔で見比べる。
「セリーの、ちょっと大きい」
「やっぱり?」
「主様のものと同量でございます」
「本当?」
「重量は」
「形が違うのか」
老人が俺のパンを指す。
「お前のが少し横に広い」
「じゃあ大きい?」
「高さは女の方だ」
「何を競ってるんだ、これ」
「パン」
少年が当然のように答える。
「知ってる」
ヨアヒムが少し離れたところで笑っている。
「歩行練習より真剣ですね」
「歩くのは?」
少年へ聞く。
「今日は一回」
「決めた?」
「うん。朝、足ちょっと重かった」
「今は?」
「普通」
「じゃあ増やす?」
「増やさない」
「了解」
昨日休んだから、今日は増やす。
そんな帳尻合わせはしない。
「アル」
「何?」
「休んだら、弱くなる?」
思いがけない問いだった。
「何で?」
「昨日、いっぱい歩かなかった」
「うん」
「今日も一回」
「うん」
「ずっと休んだら?」
俺は少し考える。
「身体は、動かさなさすぎると弱くなることもある」
「じゃあ休んじゃだめ?」
「そうじゃない」
ヨアヒムを見る。
「専門家」
「私に振りますか」
「ちゃんとした説明は任せる」
ヨアヒムが少年の近くへ来る。
「休むことも、動くことも、両方必要です」
「どっち?」
「今日はあなたの身体を見ながら決めます」
「ぼくも?」
「もちろん」
「足重いっていったら?」
「休む理由の一つになります」
「歩きたいっていったら?」
「身体が大丈夫そうなら歩きます」
「だめな時は?」
「理由を説明します」
少年は少し考える。
「めんどくさい」
「身体は面倒ですよ」
ヨアヒムが笑う。
「毎日同じではありませんから」
「アルも?」
「俺?」
「身体」
「面倒」
即答すると、セリーが頷いた。
「非常に」
「そこ強く同意しなくていいだろ」
少年が声を立てて笑った。
◇
三〇八号室にも顔を出した。
今日は扉が少しだけ開いていた。
中から少年の声がする。
「アル?」
「うん。入っていい?」
「いい」
入ると、赤い布に包まれた手紙はいつもの位置。
名前を書いた二枚の紙も残っている。
「薬は?」
「同じ」
「体調は?」
「変わんない」
「じゃあ確認終わり」
「早い」
「不満?」
「ちがう」
少年は椅子へ座ったまま、少し開いた扉を見る。
「今日は開けてるんだ」
「うん」
「閉めたい?」
「まだいい」
「分かった」
俺は扉へ触れない。
「アル」
「何?」
「閉めたら、開けたくなった時、開けていい?」
「もちろん」
「開けたら、閉めても?」
「いいよ」
「何回も?」
「疲れないなら」
「変?」
「何が?」
「決めたのに変える」
朝から何度も似た話に出会う。
でも、同じ答えをそのまま繰り返したくはなかった。
「扉って、そのために開いたり閉じたりできるんじゃない?」
少年が扉を見る。
「ずっと開けるなら?」
「壁だけでいいな」
「ずっと閉めるなら?」
「壁でいいかも」
「じゃあ扉は」
「変えられるためについてるのかもな」
少年はしばらく考え、それから立ち上がった。
扉まで行く。
少し閉める。
完全には閉めない。
「これ」
「うん」
「今日はこれ」
「分かった」
半開き。
それが今日の答えらしい。
◇
白鴉から戻る途中、エルが旧保養施設からの連絡を伝えた。
『本人より主様への面会希望です』
「行く」
『今回はセリー様について質問があります』
「本人が?」
『「セリーもくる?」と』
「何て返した?」
『本人が希望すれば同行可能と説明しました』
「それで?」
『「くる」と』
隣を歩いていたセリーを見る。
「呼ばれてる」
「承知いたしました」
「嬉しい?」
「はい」
即答だった。
少し驚く。
「今のは早いな」
「答えたい内容でしたので」
「そっか」
俺も少し嬉しくなった。
◇
旧保養施設へ着いたのは夕方前だった。
子供は自室にいた。
卓の上には「みち」と「やすみ」。
紙箱。
紙の輪。
布鞄。
朝と違い、鞄は卓の上に戻っている。
「アル」
「来たよ」
「セリーも」
「お邪魔いたします」
「うん」
子供がセリーを見る。
「ここ」
俺にはいつもの椅子。
セリーには少し離れた別の椅子を指す。
「こちらでよろしいでしょうか」
「うん」
セリーは指定された場所へ座る。
距離を勝手に縮めない。
「今日はどうした?」
「これ」
子供が布鞄を指す。
「うん」
「朝、もたなかった」
「聞いた」
「ごはんも」
「うん」
「にわも」
「うん」
「なくならなかった」
「うん」
「ここにあった」
「うん」
子供が俺を見る。
「ぼくの?」
朝、職員にも聞いたらしい。
それでも俺にも確認したいのだろう。
「お前はどう思う?」
「ぼくの」
「じゃあ今は、お前のものだと思ってるんだな」
「うん」
「持ってなくても?」
「うん」
「なら、俺もそう扱う」
「もってなくても、ぼくの?」
「物によるけど、その木片については、お前がそう言ってるなら勝手に誰かのものにはしない」
「なくしたら?」
「本当に失くした時?」
「うん」
「見つけた人がいたら、お前のものとして返せるようにしたい」
「でも」
子供が鞄を見つめる。
「なくすと、もどれない」
「先生に言われた?」
「うん」
「それが本当かは、まだ分からない」
「うん」
「だから失くさないように保管することはできる」
「アルが?」
「俺たちが。お前が預けたいなら」
「もってく?」
「塔に?」
「うん」
「今すぐは持っていかない」
子供の顔が少し曇る。
「なんで?」
「大事なものなら、どこに置くか一緒に決めた方がいいから」
「ここ、だめ?」
「駄目じゃない」
「じゃあここ」
「うん」
「でも、ぼく、もたない時ある」
「いいんじゃない?」
「とらない?」
「勝手には取らない」
子供はセリーを見る。
「セリーも?」
「はい。あなたの許可なく持ち出しません」
「ガルムも?」
「本人がそう望んでいると伝える」
「リディアも?」
「伝える」
「フェリクスは?」
俺とセリーの視線が一瞬だけ合う。
「……特に強く伝える」
子供が首を傾げる。
「なんで?」
「触りたがるから」
「だめ」
「うん」
「フェリクス、だめ」
「伝える」
セリーが静かに付け加える。
「必要であれば、私からも」
「セリー、いう?」
「はい」
「じゃあ、いい」
フェリクスの信用が、本人の知らないところでさらに厳重に管理された。
◇
子供は布鞄を卓の端へ移した。
それから「やすみ」の紙を中央へ置く。
「きょう、ここ」
「道じゃなくて?」
「うん」
「休みの日?」
「うん」
「何する?」
「わかんない」
「何もしなくても?」
「いい?」
「俺はいいと思う」
子供がセリーを見る。
「セリーは?」
「はい」
「セリーも、やすむ?」
セリーの目がわずかに動いた。
「時には」
「アルと?」
今度は俺が固まる。
「何で俺?」
「いっしょ?」
昨日の話を知っているはずはない。
偶然だ。
「まだ決めてない」
俺が答えると、セリーがこちらを見る。
「主様」
「何?」
「私が検討すると申し上げた件では?」
「じゃあ俺は参加希望出していい?」
「検討いたします」
「厳しい」
子供が俺たちを見比べる。
「いっしょ、いや?」
セリーは少し考えた。
「いいえ」
「じゃあ、いっしょ」
「本人の決定前に確定させないで」
俺が言うと、子供が笑う。
セリーもわずかに笑った。
その空気の中で、子供は紙箱へ手を伸ばした。
蓋へ触れる。
俺もセリーも何も言わない。
開けるのか。
開けないのか。
本人が決める。
指が蓋の縁をなぞる。
「きょう」
「うん」
「あけない」
「分かった」
手を離す。
それで終わりだった。
昨日開けたから、今日も開ける必要はない。
閉じた箱は、後戻りでも失敗でもない。
ただ今日、閉じておくと決めただけだ。
◇
面会を終えた後、俺とセリーは中央棟へ寄った。
ガルムへ木片の扱いについて本人の希望を伝えるためだ。
「勝手に持ち出さない。本人が持たない時も、部屋にあるならそのまま」
「了解」
「安全上どうしても動かす必要が出たら?」
「理由を記録して、可能なら先に本人へ説明。急ぎなら後で説明」
「うん」
「フェリクスには?」
「特に強く」
「了解」
部屋の端で資料を読んでいたフェリクスが顔を上げる。
「聞こえています」
「ちょうどいい」
「私への信頼が著しく低いように感じます」
「本人から『フェリクス、だめ』って言われた」
「なぜですか」
「触りたがるからって説明した」
「アル殿」
「事実だろ」
「研究上必要な場合に限ります」
「必要かどうか決める前に手が伸びるだろ」
「最近は伸ばしていません」
ガルムが鼻で笑う。
「俺らが見てるからな」
「環境による行動矯正も成長の一種です」
「開き直るな」
リディアが笑いながら資料を閉じる。
「でも、木片を持たずに過ごせたんですね」
「うん」
「本人は怖がっていましたか?」
「少なくとも俺が会った時は落ち着いてた。置いてもなくならなかったことを確認してた」
「設備変化とは結びつけない?」
「結びつけない」
「昨夜は発光した」
「うん」
「本人は木片を持ってなかった」
「うん」
「でも、それで木片と発光が無関係とも言えない」
「その通り」
ガルムが頷く。
「一日持たなかっただけだしな」
「そもそも持っている場所が部屋か食堂かで設備が反応する仕組みなのかも不明です」
フェリクスも、今度は余計な結論を足さない。
「補修記録は?」
「少し進みました」
リディアが一枚の図を出す。
「統合型表示盤への更新時、旧表示の一部は位置を変更されています」
「どれが?」
「そこが欠けています」
「またか」
「ただし、『旧位置との対応は識別票に記載』という文言があります」
「その識別票がない」
「少なくとも見えるところには」
「じゃあ、今の発光位置を昔の図へそのまま重ねるのは危ない」
「はい」
少しずつ、分からないことが増えている。
以前なら焦ったかもしれない。
今は逆だった。
分からない範囲が分かる。
それは進んでいないようで、たぶん進んでいる。
◇
塔へ戻った頃には、外はもう薄暗くなっていた。
夕食後、セリーが食器を片づけている。
俺は卓に頬杖をついた。
「セリー」
「はい」
「何もしない日、いつにする?」
手が止まる。
「本当に実行なさるおつもりですか」
「昨日、検討するって言っただろ」
「主様が覚えておられるとは思いませんでした」
「ひどくない?」
「事実に基づく評価です」
「今日だってパン比較、ちゃんと行った」
「私がお伝えした後で」
「行ったことが大事」
「そういうことにしておきましょう」
セリーが食器を置く。
「完全に何もしないことは難しいでしょう」
「そうだな」
「主様は途中で必ず何かを始めます」
「信用ないな」
「では、二時間」
「短くない?」
「最初から一日を設定し、三十分で失敗するより現実的です」
「失敗前提?」
「主様ですので」
「セリーもだろ」
「私もです」
意外にも認めた。
「じゃあ二時間」
「はい」
「何もしない」
「緊急連絡には対応します」
「それはする」
「食事、体調管理も」
「それも」
「では、何もしないというより、急ぎでない仕事をしない時間ですね」
「それでいい」
「いつになさいますか」
少し考える。
「明日の午後?」
「明日の状況を確認してから決めます」
「また明日」
「はい」
「便利」
「はい」
俺たちは少し笑った。
予定を決めないことを、逃げとして使う時もある。
でも、今決める必要のないことを今決めないのは、たぶん別だ。
◇
その夜、旧保養施設では大きな変化がなかった。
午後十一時二十分。
設備盤、発光なし。
西壁音なし。
地下振動なし。
日付が変わる。
午前零時四十八分。
弱い地下振動。
約一秒半。
他変化なし。
一時三十分。
変化なし。
二時十九分。
西壁付近で小さな音。
一度。
二時二十分。
追加音なし。
三時。
変化なし。
三時五十二分。
中央棟設備盤、発光なし。
四時十六分。
旧職員詰所の表示部に変化なし。
五時。
変化なし。
何も起きない時間が続いた。
監視者は「何も起きなかった」と記録した。
それも記録だった。
◇
朝。
子供は目を覚ますと、布鞄を見た。
昨日と同じ場所にある。
手を伸ばす。
今度は中から木片を取り出した。
「帰」「還」。
三重の四角。
斜線。
しばらく両手で持つ。
「今日は持つ?」
職員が聞く。
子供はすぐには答えない。
木片を見て、布鞄を見て、卓の上の「みち」と「やすみ」を見る。
「……あさは」
「朝は持つ?」
「うん」
「分かった」
木片を布鞄へ戻す。
肩へ掛ける。
扉へ向かう。
数歩進んだところで、立ち止まった。
「ひる」
「うん?」
「ひるは、わかんない」
「お昼になったら決める?」
「うん」
「分かった」
職員は朝の決定を昼まで延長しなかった。
記録にも、そのまま残す。
――朝食時、本人希望により木片携行。
そして、その下。
――昼以降については未決定。
子供は布鞄を肩へ掛けて食堂へ向かった。
昨日は置いていった。
今日は持っていく。
どちらも消えない。
どちらかが間違いだったことにもならない。
そして朝に選んだことは、昼の自分を縛る命令にはならなかった。




