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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第83話 行き先を知らない道にも、途中で休む場所は必要でした

 朝、目を覚まして最初に思い出したのは、旧保養施設の設備盤に新しい発光位置が見つかったことではなかった。


 ――ぼくが、いくみち。


 名前の分からない子供が、自分で作った細長い紙を見ながら言った言葉だった。


 戻る道ではない。


 どこへ行くのかは、まだ知らない。


 それでも、自分が行く道。


 その言葉が頭に残っていた。


「主様」


「起きてる」


「目は開いておりますね」


「それを起きてるって言うんじゃないの?」


「寝台から出るところまでを含めていただければ、より確実です」


 窓の外は昨日から続く薄曇りだった。雨は降っていないが、朝の空気は冷たく、寝台から出した足へ石床の冷気が伝わってくる。


「寒い」


「ですから上履きをお使いくださいませ」


「そこにある?」


「昨日、主様ご自身で寝台の下へ押し込まれました」


「そんな記憶ないけど」


「私にはございます」


 身体を起こして覗くと、本当にあった。


「何で?」


「昨夜、脱いだ際に足で押されました」


「見てた?」


「見ておりました」


「戻してくれてもよかったのに」


「主様がご自身でなさったことですので」


「こういう時だけ本人の選択を尊重するの?」


「危険がございませんので」


 セリーはいつも通りの顔で答えた。


 上履きを履き、立ち上がる。


 昨日、旧保養施設の子供は紙へ「道」と名前をつけた。


 俺が文字を書いた。


 本人は今日も、その紙を「まだ、みち」と呼んでいる。


 ただし箱は開けない。


 木片を持ち歩くかどうかについては、朝の記録ではまだ選んでいない。


 設備側では、夜中にこれまでとは異なる位置で青白い発光があった。


 右側。


 下側。


 そして中央寄り。


 そう並べたくなる。


 だが、並べない。


 それぞれが同じ種類の表示なのかすら分かっていない。


 一般資料にあった三つの表示窓へ当てはめることもしない。


 子供が以前、指を一本立てたこととも結びつけない。


「エル」


『はい』


「旧保養施設の朝は?」


『本人は朝食中です』


「木片は?」


『布鞄ごと部屋に置いています』


「本人が?」


『はい。「ごはんに、いらない」とのことです』


「そっか」


 木片が必要なくなったわけではない。


 朝食へ持っていかないと決めただけだ。


「設備の変化は?」


『夜間発光以降、新規変化はありません』


「発光位置の比較は?」


『リディア様が外観上の位置関係のみ整理しています。内部構造との対応づけは行っておりません』


「フェリクスは?」


『起床しております』


「何冊持ってる?」


『現在、一冊です』


「奇跡だ」


『ガルム隊長が他を保管しております』


「奇跡じゃなかった」


 背後でセリーが小さく息を吐いた。


 笑ったのかと思って振り返る。


「何?」


「何もございません」


「今笑った?」


「主様」


「うん」


「お着替えくださいませ」


「誤魔化した」


「朝食が冷めます」


 答える気はないらしい。


 それ以上追わず、俺は服へ腕を通した。


     ◇


 朝食後、最初に届いたのはアンナマリーからの資料だった。


 昨日見つかった、過去の安定した意思を暫定判断に利用できるという改訂規定。


 その周辺年代を調べていたらしい。


『アルフォンス様。少し気になる記録があります』


「旧保養施設?」


『いいえ。今回も別施設です』


「同じ制度系統?」


『はい。ただし、実際に同一運用が導入された証拠にはなりません』


「了解」


 俺は机へ座る。


 ブラットも王宮側で資料を見ているらしく、通信越しに紙をめくる音が聞こえた。


『昨日の規定では、「継続的判断不安定」が認められた場合、最新申告を一時的変動として参考記録へ移し、過去の安定申告を暫定判断へ使えるとありました』


「うん」


『その「継続的判断不安定」の判定基準らしき資料が見つかりました』


「らしき?」


『表題が欠けています。前後の文書番号から関連資料である可能性は高いですが、確定ではありません』


「じゃあ関連候補として聞く」


『はい』


 アンナマリーが読み上げる。


『「通常時申告と著しく異なる申告が確認された場合、身体状態、薬剤影響、精神負荷、外部干渉の有無を確認」』


「そこは分かる」


『「一項目以上に明確な影響が認められる場合、当該申告を一時変動として扱うことを検討」』


「検討」


『はい。自動ではありません』


「続きは?」


『「ただし、本人が変化理由を説明可能な場合、その説明を優先して記録する」』


 少し息を吐く。


「まだ本人の言葉を聞いてる」


『この版では』


 その言い方で、続きがあると分かった。


「後の改訂?」


『約十一年後です』


「読む」


『「変化理由の本人説明が既往判断と矛盾する場合、担当者は説明の信頼性を評価し、参考扱いとすることができる」』


「……誰が信頼性を決める?」


『担当者です』


「本人が『昨日と今日は違う』って説明しても?」


『既往判断と矛盾すると評価されれば、参考扱いになる可能性があります』


「昨日まで帰りたいと言ってた。今日は帰りたくない。本人が理由を説明した」


『はい』


「でも担当者が、その理由は信用できないって判断したら」


『過去の安定申告を優先できる余地が生じます』


 机の上に昨日までの資料を並べる。


 最初の仕組みでは、昨日帰りたいと言った人が今日「待つ」と言えば、今日の言葉を聞いた。


 本人が話せないなら、管理者が生命や身体を守るための代理要求を出せた。


 でもそれは本人の意思とは別だった。


 本人が話せるようになれば、代理要求を終わらせて本人へ戻した。


 そこから少しずつ変わった。


 現在意思を見やすくするため、過去の申告を参考記録へ移す。


 答えたくないという返答が「意思確認困難」になる。


 過去の安定申告を暫定的に使えるようになる。


 さらに、現在の本人説明そのものを担当者が「信用できるか」で評価できる。


「便利にはなってる」


 俺が言うと、通信の向こうでブラットが答えた。


『現場側からすれば、そうでしょう』


「止まらなくなるもんな」


『はい。本人の申告が変化するたびに一から確認する必要がなくなります』


「でも、その便利さの代わりに」


『本人の現在意思が、担当者の評価対象になっております』


「言葉を聞くんじゃなくて、言葉が正しいか判定する」


『そうなります』


 アンナマリーが静かに続けた。


『ただ、この変更にも理由は記されています』


「何?」


『急性症状時の誤判断防止。薬剤影響下における一時的意思変化への対応。外部からの精神干渉が疑われる場合の本人保護』


 俺は黙った。


 精神干渉。


 その言葉だけで、自分の過去へ引っ張られそうになる。


 だが今は俺の話ではない。


「理由だけ聞けば、必要に見える」


『はい』


「本当に精神干渉されてる人の言葉を、そのまま全部本人意思として扱うのも危険な場合がある」


『そう思います』


「でも」


 俺は紙の端を指で押さえた。


「疑いだけで本人の言葉を外せるなら、何でもできる」


『そこが問題です』


「精神干渉があると誰が確認する?」


『当初版では、専門担当者を含む二名以上の確認が必要です』


「後は?」


『後年版では「緊急時、担当管理者による暫定判断可」が追加されています』


「また緊急時」


『はい』


「緊急って、どこまで?」


『別規定を確認中です』


「急がなくていい。そこ大事だから、見つからないなら見つからないで止めよう」


『承知しました』


 通信を切る前に、アンナマリーが少しだけ声を柔らかくした。


『アルフォンス様』


「何?」


『ご自身のことと重ねすぎてはいませんか』


 すぐには答えられなかった。


「……少し」


『そうですか』


「でも、今のところは資料を資料として読めてると思う」


『はい』


「危なくなったら言って」


『私が?』


「うん」


『分かりました』


「ブラットも」


『承知しました』


 以前なら、元王太子である俺にそんなことを言う役目まで背負わせるのは違うと思ったかもしれない。


 今は少し違う。


 止めてくれる人がいることは、俺の自由を奪うことではない。


 自分一人で全部正しく判断し続けなければならない状態から、少し離れられる。


     ◇


 旧保養施設では、リディアが昨夜の発光位置を外から確認していた。


 設備盤へは触れない。


 表面の継ぎ目、金属板の幅、古い補修跡だけを測る。


 フェリクスは少し離れた椅子に座らされていた。


「私は何のためにここへ?」


「見るため」


「見ています」


「手は?」


「膝の上です」


「そのまま」


「子供ではありません」


 ガルムが設備盤から視線を外さず答える。


「子供の方が約束守るぞ」


「比較対象として不適切です」


「昨日、工具箱持ってきただろ」


「使用していません」


「持ってきた時点で信用が減る」


 リディアが苦笑する。


「位置だけなら、前の二か所とは重なっていません」


「距離は?」


「右側の発光位置から、およそこれくらい」


 指ではなく定規で示す。


「内部に窓が三つ並んでる可能性は?」


 ガルムが聞く。


「あります」


「一般図と同じ?」


「分かりません」


「三窓表示?」


「分かりません」


「中間保持箱?」


「分かりません」


「よし」


 フェリクスが横から口を挟む。


「質問の仕方が尋問ですね」


「お前が勝手に答えを足さないためだ」


「私はそこまで短絡的ではありません」


「昨日、一般図持って走ってきたの誰だ」


「走ってはいません。早歩きです」


「同じだ」


 リディアが設備盤の下へしゃがむ。


「ただ、一つ気になるところがあります」


「何だ?」


「発光位置の周囲だけ、補修年代が違うように見えます」


 ガルムの表情が変わる。


「触らず分かる?」


「金属板の色と留め具が違います。ただし、年代までは分かりません」


「後から追加?」


「その可能性はあります。逆に、古い部品だけ交換された可能性もあります」


 フェリクスが椅子から少し身を乗り出す。


「記録に補修履歴があれば――」


「座れ」


「座っています」


「気持ちが立ってる」


「それは止められません」


 ガルムはため息をついた。


「補修記録だけ探す。発光の意味は探さない」


「意味を探さずに補修記録を探すというのは、研究者にとって非常に高度な精神修養を要求します」


「修養しろ」


「……努力します」


 そのやり取りを横で聞いていた監視兵が、笑いを堪えて視線を逸らした。


 施設の空気は、以前より少し変わっている。


 設備の謎は残っている。


 地下も開けていない。


 子供の過去も分からない。


 それでも、何かが起きるたび全員が緊張で固まる状態からは、少しずつ離れ始めていた。


     ◇


 名前の分からない子供は、その頃、庭にいた。


 昨日「みち」と名前をつけた紙を膝の上へ置き、細い紙をもう一本作っている。


 職員は隣の長椅子に座っていたが、何を作っているのか聞かなかった。


 子供は紙を細長く折る。


 途中で一度失敗する。


「ちがう」


 自分で呟いて、開く。


 もう一度折る。


 今度は少し太くなった。


「これ」


 職員を見る。


「うん?」


「ここ」


 昨日の「道」の途中へ、新しい紙を横向きに置く。


 道が途中で少し広がったように見える。


「くっつける?」


 職員が聞く。


「まだ」


「分かった」


 子供は二枚を並べたまま眺める。


「これ、なまえ?」


「名前をつけたい?」


「……まだ」


「じゃあ、まだでいいね」


「うん」


 風が吹く。


 細い紙が少し動いた。


 子供は慌てて押さえる。


「とぶ」


「重し持ってこようか?」


「いらない」


「手で押さえる?」


「うん」


 自分の指で押さえる。


 しばらくして風が弱くなると、手を離した。


「ねえ」


「どうしたの?」


「みち」


「うん」


「ずっと、あるく?」


 職員は少し考える。


「疲れたら休むんじゃないかな」


「みちで?」


「道の途中でも休めると思うよ」


「じゃま?」


「誰の?」


「ほかのひと」


「道の真ん中なら、少し端へ寄った方がいいかもしれないね」


 子供は新しい紙を見る。


「ここ」


「そこなら休めそう?」


「うん」


「じゃあ、そういう場所にする?」


 子供の眉が少し寄る。


「まだ、きめない」


「ごめん。決めなくていいよ」


「うん」


 職員はすぐ引いた。


 子供は怒らなかった。


 新しい紙を道の横へ置き直す。


「ここなら」


 小さく呟く。


 それ以上、説明しなかった。


     ◇


 昼前、俺は町へ出た。


 旧保養施設から呼ばれていない。


 白鴉にも急ぎの用はない。


 だから今日は、町の仮代表たちが行っている支援申請の確認を見に行くことにした。


 俺がいなくても動いている。


 だからこそ、たまには見ておきたい。


「アル!」


 町役場へ入るなり、ハンスが手を上げた。


「今日は何だ?」


「見に来ただけ」


「承認なら要らんぞ」


「分かってるよ」


「本当に?」


「本当に」


 以前なら少し傷ついたかもしれない。


 今は笑える。


 机の向こうでは、イーダとマルタが一件の申請について話していた。


 申請者は高齢の男性。


 冬前の屋根補修支援。


 必要書類の一つがない。


「昔ならここで落ちてた?」


 俺が聞く。


 イーダが頷く。


「ええ。でも今は、書類がない理由を先に確認します」


「理由は?」


「以前の管理担当が原本を紛失した可能性があります」


「本人のせいじゃない?」


「今のところは」


 マルタが別紙を見せる。


「近所二軒の確認と、現地確認を入れる予定よ」


「本人は?」


「歩くのが大変だから、こっちから行く」


「いいね」


「アルが決めなくてもね」


「今日はみんなそれ言うな」


 ハンスが笑う。


「王子様だった奴が、承認印も押さずに町役場をうろうろしてるのがおかしいんだよ」


「元王太子」


「もっとおかしい」


 窓口の近くで待っていた女性も、小さく笑った。


 以前の町役場にはなかった空気だ。


 支援を求めに来た人が、職員の顔色を見て息を潜める必要がない。


 もちろん、全部が上手くいっているわけではない。


 予算には限りがある。


 証明が足りない案件もある。


 悪用を疑わなければならないこともある。


 それでも「分類に合わないから終わり」にはしない。


「これも同じか」


 思わず呟く。


「何が?」


 イーダが聞く。


「書類が足りない人を、『不備』って名前だけで終わらせない」


「当たり前でしょう」


「その当たり前が、前はなかった」


 イーダは少し黙る。


「……そうね」


 彼女自身、止まった制度の中で働いてきた。


 できなかったこともある。


 見過ごしたこともある。


 それを全部、一言で悪人と分類して終わらせることもできない。


「アル」


「うん?」


「難しい顔するなら外でして」


「何で?」


「申請者が不安になる」


「あ、ごめん」


 すぐ表情を戻す。


 また一つ教えられた。


     ◇


 昼食を町で済ませ、塔へ戻ろうとしたところでエルから連絡が入った。


『主様。旧保養施設より面会希望です』


「本人?」


『はい』


「行く」


『セリー様については?』


「本人は何て?」


『今回は「アル」とのみ』


「じゃあ俺だけ」


『承知しました』


 町の門を抜け、旧保養施設へ向かう。


 森の道には昨夜の冷気が少し残っていた。


 雲の隙間から時々薄い光が落ちる。


 施設へ着くと、ガルムが中央棟から出てきたところだった。


「呼ばれたか」


「うん。設備は?」


「新しい発光なし。補修履歴らしき資料は見つかったが、まだ年代照合中」


「じゃあ後で」


「聞かないのか」


「先に呼んだ本人」


 ガルムが少し笑う。


「それでいい」


 生活区画へ向かう。


 子供の部屋にはいなかった。


 庭だと聞き、そのまま外へ回る。


 風は弱い。


 長椅子の上に、細長い紙が二本置かれていた。


 一つは昨日の「みち」。


 もう一つは短く、少し幅がある。


 子供はその前へしゃがんでいた。


「アル」


「呼んだ?」


「うん」


「隣座っていい?」


「ここ」


 長椅子ではなく、地面近くの低い石を指す。


「そこ?」


「うん」


「分かった」


 座る。


 思ったより冷たい。


「冷たっ」


 子供が笑う。


「アル、つめたい?」


「石がね」


「こっち、あったかい」


 自分が座っていた長椅子を叩く。


「交換してくれる?」


「だめ」


「厳しいな」


 また笑う。


 職員は少し離れた場所にいる。


「これ」


 子供が新しい紙を指す。


「増えた?」


「うん」


「何?」


「まだ、なまえない」


「分かった」


「ここ」


 昨日の道の途中へ横向きに置く。


「うん」


「あるく」


「道を?」


「うん」


「それで?」


「つかれる」


「うん」


「ここ」


 新しい紙を指す。


「休むところ?」


 子供が一瞬黙る。


 俺は言いすぎたと思った。


「ごめん。決めたわけじゃない?」


「……でも、やすむ」


「じゃあ、休む場所?」


「うん」


「名前は?」


「まだ」


「了解」


 子供は紙を少し動かす。


 道の真ん中ではなく、横へずらす。


「じゃましない」


「誰を?」


「あるくひと」


「他の人も歩く?」


「わかんない」


「そっか」


「でも、きたら」


「その時、邪魔にならないように?」


「うん」


 道は自分のもの。


 でも自分だけが通るとは決めていない。


「アル」


「何?」


「やすんだら、いかない?」


「どういうこと?」


「やすむ」


「うん」


「ずっと」


「ずっと休んだら、道を進んでないってこと?」


「うん」


「駄目なの?」


 子供が困った顔をする。


「みち、いく」


「うん」


「でも、つかれる」


「うん」


「やすむ」


「うん」


「でも、いかない」


 言葉を探している。


 俺も急いで答えない。


「休んでる間は進んでないから、心配?」


「……うん」


「休んだら、もう進めない?」


「わかんない」


「じゃあさ」


「うん」


「休む場所も道の途中にあるなら、休んでる時間も道から外れてないんじゃない?」


 子供が紙を見る。


「あるいてない」


「歩いてはない」


「じゃあ」


「でも、道にはいる」


 子供の指が止まる。


「ここも?」


「お前が道の途中に置くなら」


「みち?」


「道の横の休む場所かもしれない」


「でも、いかない」


「今はね」


「あとで?」


「行きたくなったら」


「いきたくなかったら?」


「もう少し休む?」


「ずっとだったら?」


 その問いが少し重い。


 どこかへ戻る。


 どこかへ行く。


 治療する。


 話す。


 決める。


 周囲はつい、「いつか進めること」を良いことにしたくなる。


「ずっと休みたいって思う日もあるかも」


「だめ?」


「休んでることで危なくならないなら、俺は急がなくていいと思う」


「きけん?」


「例えば、寒い場所でずっと座ってたら身体が冷えるだろ」


「うん」


「怪我して血が出てるのに休むだけじゃ危ない時もある」


「うん」


「そういう時は、安全な場所へ動こうって言うかもしれない」


「いやっていったら?」


「嫌って言っていい」


 子供の顔が少し固くなる。


 以前話したことを覚えている。


「でも、命が危ないなら、大人が先に助けることもある」


「うん」


「その時も、お前が嫌だったことは消さない」


「うん」


「安全になったら、何をしたか説明する」


「うん」


「でも今、この紙の上では誰も怪我してない」


 子供が紙を見る。


「うん」


「じゃあ好きなだけ休める」


「ごはんは?」


「食べに行こう」


「みち、でる?」


「休む場所にご飯持ってきてもいいんじゃない?」


 子供が目を丸くする。


「いいの?」


「紙の世界なら」


「じゃあ」


 子供は新しい紙を少し広げる。


「ここ、ごはん」


「休む場所にご飯?」


「うん」


「豪華になったな」


「パン」


「またパン?」


「やわらかいの」


「いいね」


「ジャム」


「赤い?」


「……あか」


 一瞬だけ迷って答える。


 保存されていた少年が望んだ赤いジャムとは関係ない。


 同じ食べ物を選んだからといって、同じ意味にはしない。


「アルも?」


「食べていい?」


「ちょっと」


「少ない」


「セリーも」


「セリーは?」


「ちょっとおおい」


「何で?」


「セリーだから」


「納得できない」


 子供が笑った。


     ◇


 しばらくして、子供は新しい紙へ名前をつけることにした。


 今度は俺から聞かなかった。


 本人が紙を何度も動かし、道の横へ置き、少し離し、また近づけた末に口を開いた。


「ここ」


「うん」


「やすむところ」


「うん」


「なまえ」


「決める?」


「うん」


 しばらく考える。


「やすむ」


「『やすむ』?」


 首を横へ振る。


「ちがう」


「じゃあ待つ」


「……やすみ」


「『やすみ』?」


「うん」


「書く?」


「アル」


「俺が?」


「うん」


「昨日と同じでいい?」


「うん」


 紙の端を示される。


 俺は筆記具を借りた。


「ここ?」


「うん」


「書くよ」


「うん」


 ひらがなで「やすみ」と書く。


 子供は指で文字をなぞった。


「やすみ」


「うん」


「みち」


 昨日の紙。


「うん」


「やすみ」


 今日の紙。


「うん」


「ふたつ」


 一瞬だけ身体が固くなる。


 子供も気づいたのか、俺を見る。


「かぞえた」


「自分で数えたね」


「だめ?」


「お前が数えたいものを、自分で数えるのはいいんじゃない?」


「せんせいと、ちがう?」


「先生は、お前が数えたくないものを数えてた?」


 子供は少し考える。


「……うん」


「なら違うと思う」


「ぼくが、かぞえる」


「うん」


「みちと、やすみ」


「うん」


「これは、いい」


「分かった」


 数えることそのものが怖いわけではない。


 何を。


 誰が。


 何のために。


 そこが違う。


「アル」


「何?」


「きろくする?」


「この紙のこと?」


「うん」


「していい?」


「いい」


「名前も?」


「いい」


「じゃあ残す」


 エルが記録する。


 昨日、本人が自作の紙へ「みち」と命名。


 今日、新しい紙を道の横へ置き、「やすみ」と命名。


 本人、自発的に二枚を数えた。


 数えた後、不安の有無を本人へ問い詰めない。


 本人は「これは、いい」と発言。


「先生の話と結びつける?」


 俺が本人へ確認する。


 子供は首を横へ振った。


「べつ」


「分かった」


 記録も分ける。


 紙遊びの生活記録。


 過去の先生についての保護記録。


 一つにしない。


     ◇


 子供との面会を終えた後、ガルムたちのところへ向かった。


 中央棟ではなく、昨日と同じ打ち合わせ室。


 机の上には補修履歴が三枚。


 フェリクスの前には茶が置かれている。


「飲んでる?」


「飲んでいます」


「ガルムに言われた?」


「自主的です」


「本当?」


「リディアさんに言われました」


「自主的じゃないじゃん」


「飲むと決めたのは私です」


 確かに。


「それで?」


 ガルムが資料を一枚出す。


「発光位置の意味は分からん」


「うん」


「ただし、設備盤の補修履歴は一部見つかった」


「どこ?」


「今見えている盤全体が、少なくとも一度交換されてる可能性が高い」


「全部?」


 リディアが説明を引き継ぐ。


「元の盤を外したのか、上から覆ったのかは分かりません。ただ、現表面の金属板は施設建設当初のものではなさそうです」


「年代は?」


「閉鎖より前。北受所が閉鎖された時期よりは後である可能性が高いですが、まだ幅があります」


「第二線を中間保持箱へ回した頃?」


「近い可能性はあります。ただし同時とは言えません」


「了解」


 フェリクスが一枚の写しを示す。


「そして、交換理由らしき文言があります」


「らしき?」


「記録番号が一致しません。一部欠損しています」


「読む」


「『監視項目増設に伴い、旧表示盤を統合型へ更新』」


「監視項目が増えた」


「はい」


「何が増えた?」


「不明です」


「統合型って?」


「複数の監視項目を一枚の盤へまとめたものだと思われますが、具体的構造は未確認です」


「じゃあ、今光ってる場所が昔から同じ意味だったとも限らない?」


「その通りです」


 一般図の三窓表示。


 北受所。


 第二線。


 中間保持箱。


 現在の中央棟設備盤。


 同じ時代のものとして重ねて考えていた部分が、さらに怪しくなる。


「むしろ良かった」


 俺が言うと、フェリクスが首を傾げた。


「良かった?」


「今の盤に三つ光る場所があるからって、古い三窓図と同じだって決めなくて済む」


「元々決めてはいません」


「でも期待してた?」


「……研究者としては」


「ほら」


 ガルムが笑う。


「他には?」


「更新時の注意書きが一部あります」


 リディアが読む。


「『旧線由来表示と追加監視表示を同列配置する場合、由来識別票を併設すること』」


「識別票?」


「表示ごとに、どの系統由来か分かる札をつけろ、という意味だと思います」


「今ある?」


「見える範囲にはありません」


「剥がれた?」


「可能性はあります。最初から現在位置になかった可能性もあります」


「探すために盤を開ける?」


「開けません」


 全員ほぼ同時に答えた。


「確認しただけ」


「アル殿まで私と同じ扱いを受けるべきです」


「俺、工具持ってきてない」


「不公平です」


「日頃の行いだ」


 ガルムの言葉に、リディアがまた笑った。


 少し空気が緩む。


「じゃあ、今できるのは?」


「外から見える範囲の識別痕確認。過去の図面と補修履歴探し。自然な発光を待つ」


「触らない」


「強く調べない」


「壁も開けない」


「子供にも聞かない」


「了解」


 謎は増えた。


 でも、やることは増やさない。


 それでいい。


     ◇


 塔へ戻ると、セリーが夕食の準備をしていた。


 今日は魚と野菜の焼き物らしい。


「ただいま」


「お帰りなさいませ」


「今日、あの子が道に休む場所作った」


「そうですか」


「名前もつけた」


「共有許可は?」


「ある」


「では、何と?」


「『やすみ』」


 セリーの手が少し止まる。


「よい名前ですね」


「俺もそう思う」


「主様も必要なのでは?」


「休み?」


「はい」


「今日は町も行ったけど、そんな疲れてないよ」


「必要性は、疲労が限界へ達してから生じるものではございません」


「制度の話みたいになってる」


「主様へ休息を取らせる制度を整備しましょうか」


「怖いからやめて」


「では本人申告をお待ちします」


「それならいい」


 席へ座る。


 セリーが料理を運んでくる。


「でもさ」


「はい」


「休むって、難しいな」


「なぜでしょう」


「道を進むなら、止まってる時間って無駄に見えることあるだろ」


「主様には特に、その傾向がございます」


「否定できない」


「王太子であった頃から」


「……そうだな」


 次の仕事。


 次の書類。


 次の謁見。


 次の判断。


 止まれば誰かが困る。


 休めば誰かが代わりに負担する。


 そう思っていた。


 今でも完全には抜けていない。


「でも、あの子が紙の道に休む場所作ってるの見たら」


「はい」


「休む場所も、道の一部でいいのかなって」


「私はそう思います」


「セリーも休む?」


「必要に応じて」


「俺が寝てる間?」


「それは主様の監視時間でもございます」


「休んでないじゃん」


「私の身体構造は人間とは異なります」


「でも休みたい時ある?」


 セリーは少し考えた。


 すぐに「必要ありません」とは言わなかった。


「ございます」


「あるんだ」


「はい」


「何したい?」


「何もしたくない時もございます」


 意外だった。


「何もしない?」


「はい」


「それ、できる?」


「以前は、あまり」


「今は?」


「試してみてもよいかもしれません」


「じゃあ今度、何もしない時間作る?」


「主様と一緒にですか?」


「え」


 聞き返した俺を見て、セリーがほんの少し目を細める。


「主様は、私だけ休ませてご自身は動くおつもりでしょう」


「……ばれた?」


「はい」


「じゃあ一緒に?」


「検討いたします」


「今決めない?」


「明日の私へ任せましょう」


「それ本当に便利だな」


「主様から学びました」


 食卓の上に、静かな笑いが落ちた。


     ◇


 夜。


 旧保養施設の監視は、変わらず受動的に続けられた。


 中央棟設備盤には触れない。


 西壁を開けない。


 第二線を動かさない。


 地下へ降りない。


 北側を掘らない。


 子供の紙も木片も設備調査には使わない。


 午後十一時。


 変化なし。


 十一時四十七分。


 西壁付近で小さな音。


 一度。


 発光なし。


 地下振動なし。


 日付が変わる。


 午前零時三十二分。


 地下に弱い振動。


 約二秒。


 同時変化なし。


 一時十五分。


 変化なし。


 二時。


 変化なし。


 二時五十八分。


 中央棟設備盤、発光なし。


 三時十二分。


 旧職員詰所の表示部が、ごくわずかに動いたように見えた。


 監視者二名で位置を確認する。


 前回位置との差は極めて小さい。


 触れない。


 三時二十分。


 変化なし。


 三時四十六分。


 中央棟設備盤の右寄り。


 以前発光した位置と近い場所に、青白い光。


「時刻」


「三時四十六分」


「位置」


「右寄り。過去位置との同一性は未確認」


「それで」


 記録する。


 三時四十八分。


 継続。


 三時五十分。


 継続。


 三時五十三分。


 消灯。


 約七分。


 誰も回数を声にしない。


 だが設備記録から数を消すこともしない。


 何回起きたか。


 いつ起きたか。


 どこで起きたか。


 安全を守るために必要な記録は残す。


 それを子供へ数えさせない。


 二つは両立できる。


     ◇


 翌朝。


 子供は設備の発光を知らないまま目を覚ました。


 紙箱は閉じたまま。


 木片は布鞄の中。


 卓の上には二枚の紙。


「みち」。


「やすみ」。


 子供は寝台から降りると、最初に「やすみ」の紙を動かした。


 昨日より少しだけ道から離す。


 また戻す。


 今度は道の途中へ重ねず、横に並べた。


「今日はそこ?」


 職員が聞く。


「うん」


「道の横?」


「うん」


 子供は少し考える。


「みち、ある」


「うん」


「やすみも、ある」


「うん」


「あるいてないけど」


「うん」


「なくならない」


「道が?」


「うん」


 職員は頷く。


「なくならないね」


 子供が紙を見つめる。


 その顔から、何を考えているのかまでは分からない。


 しばらくして、布鞄へ視線を向けた。


「きょう」


「うん?」


「これ、もたない」


「鞄?」


「うん」


「部屋に置く?」


「うん」


「分かった」


 職員は理由を聞かなかった。


 子供は朝食へ向かう。


 部屋を出る直前、一度だけ振り返る。


 布鞄。


 その中の木片。


 戻るための印かもしれないもの。


 なくせば戻れないと言われたもの。


 持っていれば戻されると思っているもの。


 今日は置いていく。


 捨てるわけではない。


 なくすわけでもない。


 ただ、今は持たない。


 子供はそのまま廊下へ出た。


 数歩進んでから、職員へ聞く。


「あとで、もってもいい?」


「もちろん」


「もたなくても?」


「いいよ」


「うん」


 それだけ確認すると、食堂へ向かう。


 卓の上には道が残っている。


 その横には休む場所がある。


 道の先は、まだ描かれていない。


 それでも、途中で止まったからといって。


 そこまで歩いてきたことまで、なくなるわけではなかった。

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