第82話
朝食のパンを食べ終える頃になっても、名前の分からない子供が紙へどんな名前をつけたのかという連絡は来なかった。
俺は何度かエルへ尋ねそうになり、そのたびにやめた。本人が「今日、名前をつける」と言っただけで、朝食前につけるとも、決めた瞬間に俺へ知らせるとも言っていない。
「主様」
「聞かないよ」
「私はまだ何も申し上げておりません」
「最近それ多くない?」
「主様が先回りなさるからです」
隣に座るセリーは、今日も自分でその椅子を選んだ。
昨日と同じ場所だからといって、昨日の続きとして当然に座ったわけではない。朝食の前に一度だけ「こちらへ座ってよろしいでしょうか」と聞き、俺が頷いてから腰を下ろしている。
「セリー」
「はい」
「毎朝聞くの?」
「何をでしょう」
「そこに座っていいか」
セリーは茶器へ手を伸ばしながら、少し考えた。
「毎朝確認すること自体が、新しい義務になる可能性もございますね」
「俺も今それ思った」
「では明日は?」
「明日の俺たちに任せる?」
「便利に使っておりますね」
「セリーが始めたんだろ」
「主様です」
「そうだっけ?」
「記録を確認いたしますか」
「いい」
負けを認めてパンの最後の一口を食べる。
窓の外は薄曇りだった。雨が降るほど重い雲ではないが、昨日より陽射しが弱く、塔の石壁も少し冷たく見える。
エルから朝の報告が入ったのは、セリーが食器を片づけ始めた頃だった。
『旧保養施設より生活記録が届きました』
「子供?」
『はい』
「聞く」
『朝食後、本人は卓上の紙を持って庭へ出ています』
「名前は?」
『まだ決めていないとのことです』
「そっか」
『職員が一度、「どんな名前にするの」と尋ねています』
「大丈夫だった?」
『本人は「まだ」と返答。その後、職員からの追加質問はありません』
「うん」
『現在は庭の長椅子に座り、紙を手にしています』
「箱は?」
『部屋に置いてあります』
「木片は?」
『布鞄の中です。鞄自体も部屋に置いてあります』
珍しい。
木片を持たずに庭へ出た。
「本人が置いてった?」
『はい。職員が「鞄はどうする」と確認したところ、「きょうは、ここ」と答えています』
「嫌がってない?」
『その後、本人から木片に関する発言はありません』
「分かった」
昨日まで、「今日は持つ」と決めていた。
今日は、部屋へ置いた。
それだけだ。
なくしたわけでも、捨てたわけでもない。
「主様」
食器を持ったセリーが、こちらを見る。
「行きたそうなお顔でございます」
「会いたいよ」
「はい」
「でも今日は、向こうから呼ばれるまで待つ」
「昨日は主様から希望を伝えましたね」
「毎日同じにしなくてもいいかなって」
「よろしいのではないでしょうか」
「会いたいって伝えないのも、隠してるみたいにならない?」
「本人が知る必要のある情報でしょうか」
「……どうだろ」
「主様が会いたいという事実を伝えることで、本人が『会わなければならない』と感じる可能性もございます」
「逆に、俺が何も言わなかったら、会いたくないって思うかもしれない」
「可能性はございます」
「難しいな」
「はい」
セリーはあっさり認めた。
「正解ない?」
「毎回同じ正解が存在するとは限らないかと」
「じゃあ今日は待つ」
「はい」
「もし夕方まで何もなかったら?」
「夕方の主様がお考えくださいませ」
「便利だなあ」
「便利でございます」
今度は二人で少し笑った。
◇
朝の記録室では、昨日見つかった「参考記録」制度の続きを確認した。
アンナマリーとブラットは王宮側。
ガルム、リディア、フェリクスは旧保養施設側。
俺とエルは塔。
同じ資料を全員で一か所へ集めず、それぞれの場所で確認している。
それも今では自然になってきた。
「俺が全部見なくても進むな」
『はい』
「寂しいって言ったら?」
『感情として記録いたしましょうか』
「しなくていい」
『承知しました』
「でも嬉しい」
『それは記録しますか』
「しなくていいって」
机へ広げたのは、参考記録制度が導入された少し後の運用報告だった。
アンナマリーが見つけたものだ。
『まず前提ですが』
「うん」
『旧保養施設の記録ではありません』
「同じ設計局?」
『同じ制度改訂の影響を受けた可能性がある別施設です。ただし、直接の運用関係は未確認です』
「了解」
最初の事例は、治療を嫌がった患者だった。
処置前に拒否。
その後、説明を受けて同意。
処置実施。
そこまでは普通に見える。
「参考記録に移されたのは?」
『最初の拒否です』
「理由は?」
『「後続同意により現在判断との不一致が生じたため」』
眉を寄せる。
「昨日見た古い規定と逆だ」
『はい。古い規定では、後から異なる申告があっても先行申告を誤記扱いしないよう定めていました』
「これは消してない?」
『原記録自体は残っています』
「でも通常の進行記録からは見えない」
『はい』
「処置した人は?」
『担当者は参考記録を閲覧しています』
「じゃあ、その人は最初に嫌がったことを知ってた」
『この例では』
「次に担当する人は?」
『通常画面だけを確認した場合、知ることができません』
そこが怖い。
記録はある。
だから「消していない」と言える。
でも、その存在を知らなければ探しようがない。
「次は?」
『二例目です。こちらは逆です』
「逆?」
『本人が最初に処置へ同意。その後、直前になって拒否しています』
「結果は?」
『処置延期』
少し安心する。
「拒否が優先された?」
『はい。この施設、この時点では』
「最初の同意は?」
『参考記録へ移されています』
「……あ」
『はい』
「つまり、この時点では拒否だけを邪魔扱いしてるわけじゃない」
『そうです』
「最新の意思を主要記録へ出すため、古い意思を参考へ移してる」
『この二例だけを見れば、そのように読めます』
俺は椅子へ背を預けた。
少し見え方が変わった。
昨日の資料だけなら、拒否を隠すための仕組みに見えかねなかった。
だが、古い同意も同じように外している。
「最初は、現在の意思を分かりやすくする仕組みだった?」
『可能性があります』
「悪くない気がする」
『使い方によっては有用です』
「問題は、その後か」
『三例目があります』
「聞く」
アンナマリーが一度紙を動かす音がした。
『本人が処置を拒否。翌日も拒否。三日目に「分からない」と回答しています』
「保留?」
『当時の記録では「判断保留」です』
「主要記録は?」
『「判断保留」』
「二回の拒否は参考へ?」
『はい』
「まだ最新を表示してるだけだな」
『ここまでは』
「続きある?」
『四日目、本人は回答を拒否しています』
「嫌じゃなくて、答えない?」
『はい』
「どう記録された?」
少し間があった。
『「意思確認困難」』
「……本人は答えないって答えてるのに?」
『その点について、担当者間で意見が分かれています』
「残ってる?」
『はい』
一人目の担当者。
――「答えない」は現時点の意思表示であり、確認不能ではない。
二人目。
――処置可否に対する回答ではないため、意思確認未成立。
「揉めてる」
『はい』
「結果は?」
『その日は処置延期』
「じゃあ無理には進めてない」
『はい』
「翌日は?」
『本人が「今日は話したくない」と回答』
「それは?」
『「意思確認困難」』
「……少し変わったな」
『翌々日も同様です』
「処置は?」
『延期されています』
「なら、まだ本人の拒絶自体は守られてる?」
『結果だけを見れば』
でも言葉が変わっている。
「答えない」。
「話したくない」。
それが「意思確認困難」になる。
本人は言葉を発しているのに、制度が求める答えではないから「確認できない」に変換される。
「この後?」
『一週間後、別の担当者が「継続的意思確認不能」と判定しています』
「本人は喋れる?」
『記録上、日常会話は成立』
「処置の話だけ答えない?」
『はい』
「……そこだな」
『私も気になりました』
日常会話ができる。
でも、処置について答えない。
制度側から見れば、必要な回答が得られない。
本人側から見れば、「答えたくない」と言っている。
「最終的に処置された?」
『この資料の範囲ではされていません』
「なら結論は出さない」
『はい』
「でも、『答えない』が『答えられない』へ変わる過程は残す」
『整理しておきます』
「ガルムたちにも?」
『共有済みです』
「フェリクス、何て?」
『まだ返答はありません』
「珍しい」
『資料を探している可能性があります』
「止めて」
『ガルム隊長が対応しております』
「安心した」
◇
旧保養施設では、まさにその頃、ガルムがフェリクスの前から三冊目の帳簿を取り上げていた。
「これは違います」
「何が」
「昨日は二冊まででした。今日は冊数制限を受けていません」
「休憩しろ」
「論点が変わっています」
「目が赤い」
「元からです」
「嘘つけ」
リディアが隣で笑いながら、フェリクスへ水の入った杯を渡す。
「十五分だけ休みましょう」
「十五分で何が変わりますか」
「あなたの目の乾燥状態」
「そこですか」
「あと私たちの精神状態」
フェリクスは不満そうだったが、水は受け取った。
ガルムは机に残った写しを見る。
「答えないが、答えられないになる」
「制度としては理解できます」
フェリクスが杯を持ったまま言う。
「お前、休憩中だろ」
「口は休憩対象外です」
「次から含めるぞ」
「横暴です」
リディアが肩を震わせる。
「で、理解できるって?」
ガルムが諦めて聞く。
「はい。制度は分類を必要とします。帰る、帰らない、保留。処置する、しない。何らかの状態へ分類しなければ、次の業務へ進めません」
「人間は三つに収まらんだろ」
「その通りです」
フェリクスは即答した。
「だから分類そのものが悪いわけではありません。分類を本人より上に置いた瞬間が危険なんです」
ガルムが少し目を細める。
「お前、たまにまともなこと言うな」
「常に言っています」
「設備を見ると壊れる」
「壊してはいません」
「触ろうとはする」
「確認です」
「触るな」
「はい」
リディアが資料を指で押さえた。
「この時点では、答えない人を無理に処置してはいないんですよね」
「そうだな」
「でも言葉は変わっている」
「『本人が答えない』から『意思確認困難』へ」
「さらに後の帰還管理所では、『確認不能項目は管理者判断により代行可』」
三人とも黙った。
一枚の規則が突然人を傷つけたわけではない。
前の規則の上へ、少し便利な規則が重なった。
その上へ、現場を止めないための規則が加わる。
やがて本人の答えが、制度に合うかどうかで扱いを変えられる。
「順番を追うぞ」
ガルムが言った。
「悪者探しは後だ」
「同意します」
「フェリクス」
「はい」
「休憩」
「……はい」
◇
昼前になっても、子供から呼び出しはなかった。
俺は塔で昼食を取ることにした。
セリーが作った野菜と鶏肉の煮込みを食べながら、朝の資料について話す。
「分類って必要なんだよな」
「はい」
「町の支援制度だって、申請済みとか確認中とか承認とかある」
「ございます」
「全部なくしたら逆に困る」
「誰が何を必要としているか、どこまで手続きが進んでいるか分からなくなります」
「でも、分類が本人より偉くなったら駄目」
「はい」
「申請書類が足りないから困ってる人じゃない、みたいになる」
「現在の町では、不足書類がある場合、代替確認や訪問確認を行う仕組みへ変更されております」
「うん」
以前なら書類がない。
だから対象外。
それで終わっていた。
今は違う。
書類がないなら、なぜないのかを聞く。
別の証明方法があるか探す。
本人が動けないなら確認する側が出向く。
「町も同じなんだな」
「何がでしょう」
「制度は必要。でも制度に人間を押し込めたら逆になる」
「そうかもしれません」
「セリーは俺を何に分類してる?」
「主様です」
「それ分類?」
「最優先健康管理対象者」
「やっぱりあるじゃん」
「加えて、食事中に考え事を始める対象者」
「それは消して」
「原記録を保持したまま取消標識を付しますか」
「嫌な学習してるなあ」
思わず笑う。
その時、エルが割り込んだ。
『主様。旧保養施設より連絡です』
匙が止まる。
「本人?」
『はい』
「何て?」
『「アル、あとで」』
「あとで?」
『はい』
「今じゃなく?」
『「まだ、なまえきめてない。きめたら」とのことです』
「……そっか」
会いたくないわけではない。
先に、自分でやりたいことがある。
「じゃあ待つ」
『承知しました』
匙を動かす。
セリーが俺を見る。
「何?」
「立ち上がられませんでしたね」
「食事中だから」
「成長なさいました」
「子供扱いしてない?」
「いいえ」
「本当に?」
「食後の菓子を増やすほどではございません」
「絶対してる」
◇
午後、俺は白鴉へ向かった。
子供の名前決めを待っている間、何もしないでいる必要はない。
保存されていた少年は、今日は既に歩行練習を終えていた。
窓際の椅子に座り、例の老人とパンを並べている。
「遅い」
少年が俺を見るなり言った。
「何が?」
「パン」
「今日だった!」
「忘れた」
「いや、覚えてた。朝は」
「持ってない」
「……忘れました」
老人が深々と頷く。
「若いのに駄目だな」
「何で参加者増えてるんだよ」
「今日は俺の方がでかい」
「それ俺と関係ないよね?」
「セリーは?」
「今日は塔」
「セリーも忘れた?」
少年が驚いた顔をする。
「セリーは忘れてないと思う」
「じゃあアルだけ」
「たぶん」
「だめ」
「すみません」
ヨアヒムが少し離れたところで笑っている。
「明日にしますか?」
「明日は絶対持ってくる」
「昨日も言った」
「そうだっけ?」
「いった」
記憶がない。
少年の方が正しい気がする。
「歩く方はどうだった?」
「一回」
「一回にした?」
「うん」
「足は?」
「途中でちょっと重くなった」
「だから終わり?」
「うん」
「昨日は?」
「休んでから二回」
「今日は一回」
「うん」
「いいじゃん」
少年は少し誇らしそうに頷いた。
「明日は?」
「明日決める」
「完璧」
老人が呆れた顔をする。
「お前らそればっかりだな」
「便利なんだよ」
「年寄りは明日の予定くらい決めとかんと忘れる」
「じゃあ明日何する?」
「パン比べる」
「そこは覚えてるんだ」
「大事だからな」
平和だった。
俺はそれを少し長く味わってから、三〇八号室へ向かった。
◇
三〇八号室の少年は、今日は扉を半分開けていた。
中から机へ向かっている姿が見える。
「入っていい?」
「アル?」
「うん」
「いいよ」
入ると、机の上には三枚の紙が並んでいた。
全部に「アルフォンス」と書かれている。
字体が少しずつ違う。
「増えた?」
「うん」
「今日はどれが好き?」
「まだ」
「決めてない?」
「うん」
「薬は?」
「同じ」
「体調変化?」
「ない」
「手紙?」
「読まない」
「了解」
確認はそれで終わる。
少年がこちらを見る。
「本当に終わり?」
「終わり」
「早い」
「嫌?」
「……ちょっと」
「長く聞いてほしい?」
「それも嫌」
「難しいな」
「うん」
少年は三枚の紙を見る。
「これ」
「名前?」
「うん」
「全部同じ名前だな」
「でも違う」
「字が?」
「うん」
「今日は決めない?」
「決めなくてもいい?」
「困る?」
「誰が?」
「アル」
「俺は困らない」
「先生なら?」
少しだけ空気が変わる。
この子の言う先生。
名前の分からない子供の言う先生。
同じ人物だとは分からない。
そこを絶対に混ぜない。
「先生なら何て言うと思う?」
「一つにしろって」
「言われたことある?」
少年は少し考える。
「……たぶん」
「覚えてない?」
「うん」
「じゃあ、たぶんでいい」
「アルは?」
「三枚置いとけばいいと思う」
「名前、一つなのに?」
「書き方まで一つじゃなくてもいいだろ」
「本物は?」
胸の奥が少し重くなる。
「名前の書き方で決まるの?」
「……分かんない」
「俺も分からない」
「またそれ」
「便利なんだよ」
「逃げてる?」
「半分くらい」
少年が笑った。
その笑いが消えた後、小さく言う。
「ぼく、アルフォンスじゃなくなったら?」
「今はアルフォンスって呼んでほしい?」
「うん」
「なら今はそう呼ぶ」
「あとで違う名前にしたら?」
「その時は、その名前を呼ぶか相談する」
「前の名前は?」
「お前がそう呼ばれてたことは消えないだろ」
「捨てなくていい?」
「捨てたいなら捨ててもいい。でも、捨てなきゃいけないわけじゃない」
少年は紙を三枚、重ねなかった。
今日も隣へ並べたままにした。
◇
白鴉を出たところで、エルから連絡が入った。
『主様』
「決まった?」
『本人より面会希望です』
「名前は?」
『「きめた」と』
足が少し速くなる。
すぐに自覚して速度を落とした。
「旧保養施設へ行く」
『本人もそれを希望しています』
「セリーは?」
『本人より「セリーも、くる?」と』
「本人に、セリーへ聞くって伝えて」
『承知しました』
塔へ一度通信を繋ぐ。
「セリー」
『はい、主様』
「子供が会いたいって。セリーも来るか聞いてる」
少しだけ間があった。
『私も参ります』
「本人にそう伝える」
『はい』
「俺が呼んだからじゃなく?」
『本人から尋ねられたのでしょう?』
「うん」
『では、私が答えました』
胸の奥が少し温かくなる。
「分かった。旧保養施設で」
『承知いたしました』
◇
俺が到着して少しすると、セリーも転送経路を使って旧保養施設へ来た。
ガルムは中央棟の方にいるらしく、門には別の兵が立っていた。兵は俺たちを見ると一礼するだけで、設備について報告しようとはしなかった。
本人との面会が目的だと共有されているのだろう。
生活区画へ向かう。
午後の施設は静かだった。
庭から戻ってきた人たちの足音。
洗濯物を取り込む職員の声。
厨房では夕食の準備が始まっていて、香草と焼いた根菜の匂いが廊下まで流れている。
子供の部屋の前で、職員が待っていた。
「本人は中です」
「体調は?」
「問題ありません」
「緊張は?」
「少し嬉しそうです」
「嬉しそう?」
「はい」
それを聞くと、俺まで嬉しくなる。
扉を二度叩く。
「アル?」
「うん。セリーも来た」
「はいって」
中へ入る。
子供は卓の前に座っていた。
紙箱。
紙の輪。
布鞄。
そして、朝から持っていた細長い紙。
その紙が、卓の中央へ置かれている。
「決めた?」
「うん」
「聞いていい?」
「うん」
子供が紙を両手で持ち上げた。
「これ」
「うん」
「みち」
「道?」
「うん」
紙は細長い。
途中で曲がり、先端が少し広がっている。
確かに、道と言われればそう見える。
「道って名前?」
「うん」
「何で?」
聞いてから、答えたくなければいいと付け足そうとした。
でも子供は先に答えた。
「こっちから」
紙の端を指す。
「うん」
「こっち」
反対側。
「うん」
「いける」
「どこへ?」
「まだ、しらない」
「そっか」
「でも、みち」
俺は紙を見る。
どこへ行くか分からない。
でも道。
「いい名前だと思う」
「ほんと?」
「うん」
「セリーは?」
セリーが紙を見る。
「私も、よいと思います」
「なんで?」
「行き先が決まっていなくても、道であることはできますので」
子供が少し考える。
「もどる?」
「戻るための道である必要はございません」
「いく?」
「どちらでも」
「とまる?」
「道の途中で休んでもよいでしょう」
子供が嬉しそうに笑った。
「セリー、わかる」
「ありがとうございます」
「俺より?」
「アルも、ちょっと」
「ちょっとなんだ」
子供が笑う。
紙の道を卓へ戻す。
「アル」
「うん」
「なまえ、つけたら」
「うん」
「ずっと、みち?」
俺は少し考える。
「変えたくなったら変えていいんじゃない?」
「みちじゃなくなる?」
「名前を変えたら?」
「うん」
「紙そのものは同じだろ」
「でも、なまえ」
「名前も、今日『道』って付けたことは消えない」
「あとで、かわっても?」
「うん」
「じゃあ」
子供が紙を見る。
「きょうは、みち」
「うん」
「あしたも、みちかも」
「うん」
「でも、ぜったいじゃない」
「うん」
以前、自分の名前について言った言葉と似ている。
今日はアルフォンス。
明日もたぶん。
絶対ではない。
俺は何も指摘しなかった。
本人が同じことを意識しているか分からないからだ。
「アル」
「何?」
「これ」
今度は紙箱へ手を伸ばす。
「今日は?」
「あける」
「全部?」
「うん」
俺は姿勢を少し正す。
「今?」
「うん」
「怖さは?」
子供は胸へ手を当てる。
「ある」
「どれくらい?」
数字を求めかけて止める。
「強い?」
「ちょっと」
「やめたいほど?」
「ちがう」
「分かった」
「セリー、いる?」
「はい」
「アルも?」
「いる」
子供が紙箱の蓋へ指を掛ける。
昨日は少しだけ持ち上げて閉じた。
今日は、ゆっくり開く。
蓋が上がる。
中には紙の輪。
それだけ。
光らない。
音もない。
魔力反応もない。
何も起こらない。
子供は箱の中を見つめた。
「……あいた」
「うん」
「ぜんぶ」
「うん」
呼吸は少し速い。
でも自分で閉じようとはしない。
「どうする?」
「このまま」
「開けたまま?」
「うん」
「分かった」
紙の輪にも触れない。
しばらく三人で、開いた紙箱を見る。
「アル」
「うん」
「なんにも、ない」
「今のところは」
「こわかった」
「うん」
「でも、なんにもない」
「うん」
「じゃあ、こわくなかった?」
「怖かったんだろ?」
「うん」
「なら怖かった」
「なんにもなくても?」
「何も起きなかったことと、開ける前に怖かったことは別じゃない?」
子供が目を瞬く。
「こわい、まちがいじゃない?」
「違うと思う」
「でも、だいじょうぶだった」
「それも本当」
「また、ふたつ」
「増えるな」
「けさない」
「うん」
子供は少し笑った。
それから、紙箱の横へ「道」を置く。
箱。
輪。
道。
木片は布鞄の中。
「これ」
「うん」
「みち、ここ」
「箱の横?」
「うん」
「何で?」
「まだ、わかんない」
「分かった」
「きかない?」
「分からないって言ったから」
「うん」
子供は満足そうに頷いた。
◇
しばらくして、子供が水を飲みに席を立った。
紙箱は開いたまま。
俺もセリーも触れない。
子供が戻ってきてから、昨日の設備記録を伝える必要があるか少し迷った。
本人は見たくないと言っていた。
安全上、今すぐ伝える必要もない。
だから言わない。
「アル」
「何?」
「きょう、なんかあった?」
不意に聞かれた。
「何かって?」
「ひかるの」
俺は少し時間を置く。
「設備?」
「うん」
本人から聞いた。
なら、嘘はつかない。
「夜に光った場所があった」
子供の表情を確認する。
強い恐怖は見えない。
「どこ?」
「前に光ったのとは、外から見えた位置が違った」
「いくつ?」
胸が少し詰まる。
「数を聞きたい?」
子供が口を閉じる。
少しして首を横へ振った。
「……やっぱり、いい」
「分かった」
「アル、いわない?」
「言わない」
「きろくは?」
「設備を見てる人たちは残してる」
「ぼく、みない?」
「見たくないなら見せない」
「うん」
それで終わるかと思った。
だが子供は、開いた紙箱を見ながら言った。
「でも」
「うん」
「きえた?」
「光は?」
「うん」
「自然に消えた」
「だれも、けしてない?」
「触ってない」
「そっか」
少しだけ肩が下がる。
「それが気になった?」
「うん」
「何で?」
子供は考える。
「けすの、やだ」
昨日の記録。
先生が「嫌」を消した。
方法は分からない。
その言葉と繋がっているのかもしれない。
でも俺からは結びつけない。
「設備の光は、誰かが消したわけじゃない」
「うん」
「少なくとも、見ていた人たちは操作してない」
「うん」
「それだけは言える」
「わかった」
子供が紙の道へ指を置いた。
「これ、けさない」
「名前?」
「うん」
「変えたくなったら?」
「かえる」
「前の『道』は?」
「のこす」
「どうやって?」
子供は少し考えた。
紙の端へ、小さく何かを書こうとして止まる。
「字?」
「まだ、むずかしい」
「誰かに書いてもらう?」
「……アル」
「俺?」
「みちって」
「書いていいの?」
「うん」
「どこ?」
子供が紙の端を指す。
俺は筆記具を取る。
「ここ?」
「うん」
「本当に書くよ?」
「うん」
ゆっくり。
紙の端へ「みち」と書いた。
子供は文字を見る。
「これ、みち?」
「うん」
「アルの字」
「そう」
「ぼくの?」
少し迷う。
「紙はお前の。名前を決めたのもお前。字を書いたのは俺」
「いっしょ?」
「一緒にやった、かな」
子供が笑う。
「それがいい」
◇
面会を終える前、子供は紙箱をどうするか考えた。
開けたままにする。
閉じる。
紙の輪を出す。
そのままにする。
職員に任せる。
どれも急ぐ必要はない。
「今日は」
子供が蓋へ手を置く。
「しめる」
「開けたのに?」
聞くと、子供が少し不安そうに俺を見る。
「だめ?」
「全然。開けたからって、開けっぱなしにしなきゃいけない理由ないだろ」
「でも、あけるってきめた」
「開けたじゃん」
「うん」
「それで今は閉めたい?」
「うん」
「じゃあ閉めればいい」
子供はゆっくり蓋を下ろした。
完全に閉じる。
手を上へ置く。
「きょう、あけた」
「うん」
「でも、しめた」
「うん」
「どっち?」
「両方」
「また」
「今日は多いな」
子供が笑った。
「きろく?」
「残したい?」
「うん」
「じゃあ、開けた。しばらく開けたままにした。自分で閉めた」
「うん」
「それでいい?」
「いい」
エルが記録する。
『記録しました』
子供は安心したように箱から手を離した。
開けたことが、開け続ける命令にはならない。
名前をつけたことが、永遠に同じ名前を使う命令にもならない。
戻りたいと言ったことが、翌日も戻らなければならない命令にならないのと同じように。
◇
部屋を出ると、廊下の先からガルムが歩いてきた。
「終わったか」
「うん」
「設備の話は?」
「本人から聞かれたから、必要な範囲だけ伝えた。数は本人が途中で聞かないって決めた」
「了解」
「紙に名前つけた」
「何て?」
「本人が共有していいか聞いてない」
「じゃあ聞かん」
ガルムはあっさり引いた。
「そっちは?」
「資料で一つ」
「重要?」
「まだ分からん」
「聞く」
ガルムが俺たちを中央棟へ連れていくことはなかった。
代わりに、廊下脇の小さな打ち合わせ室へ入る。
リディアとフェリクスが待っていた。
机の上には一枚の写しだけ。
「少ない」
「誰のせいだと思ってるんですか」
フェリクスが不満そうに言う。
「ガルム?」
「アル殿です」
「俺?」
「資料を混ぜるな、設備と結びつけるな、本人証言と結びつけるな、別施設は別施設として扱え、と制限が多すぎます」
「全部必要だろ」
「必要です」
「じゃあ何で文句言うの」
「研究者としての感情です」
リディアが笑う。
「それで、何?」
ガルムが写しを俺へ向けた。
「『意思確認困難』の後だ」
「朝の資料?」
「同じ施設の、さらに後年」
読む。
――本人意思確認不能時、過去の安定申告を暫定意思として参照可。
眉が寄る。
「過去の安定申告?」
「一定期間変わらなかった意思らしいです」
フェリクスが説明する。
「例えば、一か月間ずっと『帰りたい』と言っていた人物が、急に意思確認不能になった場合、直近の安定した希望を暫定参照する」
「それだけなら分からなくもない」
「はい」
次の行。
――ただし、本人による最新拒否、保留、撤回が確認されている場合、安定申告の優先参照を禁ず。
「……まだ止めてる」
「この版では」
リディアが頷く。
「最新の拒否があるなら、過去の長期希望を使うなって」
「はい」
「次がある?」
ガルムの顔で分かった。
紙の下。
後から追記された改訂注。
――継続的判断不安定が認められる場合、最新申告を一時的変動として参考記録へ移行し、安定申告を暫定判断に用いることができる。
俺は黙った。
「これだと」
声が少し低くなる。
「昨日までずっと帰りたいと言ってた人が、今日『帰りたくない』って言っても」
「担当者が『一時的変動』と判定すれば、昨日までの意思を使える可能性があります」
フェリクスが答える。
「本人が今日嫌だって言ってるのに?」
「文面上は」
「誰が判断不安定を決める?」
「担当管理者と処置担当者」
「本人じゃない」
「はい」
部屋の空気が重くなる。
それでも決めつけない。
「実際に使われた記録は?」
「まだ見つかっていません」
「旧保養施設にこの改訂が入った証拠は?」
「ありません」
「帰還管理所は?」
「直接はまだ」
「じゃあ、制度上こういう考え方が存在した、まで」
「はい」
ガルムが腕を組む。
「でも、流れは見える」
「うん」
最初は、現在意思を見やすくする。
過去の意思も残す。
次に、制度が欲しい答えを返さない人を「確認困難」と呼び始める。
さらに、過去の安定した意思を暫定的に使えるようにする。
最初は最新拒否があれば禁止。
その後、「判断不安定」とされた場合だけ例外。
例外。
たった一つの例外。
それが、本人の今日の言葉より、昨日までの言葉を優先できる道を作る。
「悪意だったのかな」
俺が呟く。
フェリクスはすぐには答えなかった。
「分かりません」
「だよな」
「長期間一貫して希望していた人が、発熱や薬の影響で一時的に意思表示できなくなった場合、その過去の希望を尊重しようとした可能性もあります」
「本人を守るため」
「はい」
「でも使い方次第で逆になる」
「はい」
リディアが静かに紙を見る。
「『あなたは今そう言っているけど、本当のあなたは昨日まで帰りたいと言っていた』」
その言葉に、背中が冷える。
三〇八号室の少年へ届いた手紙。
恐怖や怒りは治療による揺らぎかもしれない。
自分で判断するな。
教師へ申し出ろ。
似ている。
でも。
「結びつけない」
自分へ言い聞かせるように口にする。
「似てるけど、手紙とこの制度が繋がってる証拠はない」
「はい」
リディアが頷く。
「子供の先生とも」
「はい」
「今は制度の変化だけ」
「その方がいいでしょう」
フェリクスも珍しく異論を挟まなかった。
◇
塔へ戻ったのは夕方だった。
セリーと二人で歩く。
空は相変わらず薄曇りで、風が少し冷たくなっている。
「名前」
俺が言う。
「はい」
「便利だけど怖いな」
「何のことでしょう」
「人にも、状態にも、制度にも名前つけるだろ」
「はい」
「保留。拒否。確認困難。判断不安定」
「はい」
「名前をつけると分かった気になる」
「整理には役立ちます」
「でも名前が本人より強くなったら駄目」
「そうですね」
少し歩く。
「今日、あの子が紙に名前つけたんだ」
「はい」
「でも、明日変えていいって言った」
「はい」
「名前って、本当はそれくらいでいいのかな」
「すべての名前が一時的である必要はないでしょう」
「うん」
「ですが、名前をつけたことで、そのものの全てを理解したことにはならないと思います」
「そうだな」
「私が『魔導人形』であることも事実です」
セリーが前を向いたまま言う。
「ですが、その名称だけで私のすべてが説明できるとは思っておりません」
足が少し遅くなる。
「セリー」
「はい」
「それ、自分で思ってる?」
彼女がこちらを見る。
「はい」
短い答えだった。
でも、今日はそれ以上聞かなかった。
「そっか」
「はい」
少しだけ距離を縮めて歩く。
肩が触れるほどではない。
それでも以前より近い。
◇
その夜。
旧保養施設の設備に、すぐ新しい変化は起きなかった。
中央棟設備盤。
右側、消灯状態。
下側、消灯状態。
旧職員詰所、変化なし。
第二線、目視変化なし。
西壁、音なし。
地下、振動なし。
午後十一時。
変化なし。
日付が変わる。
午前零時四十分。
変化なし。
一時二十分。
地下にごく弱い振動。
約一秒半。
同時変化なし。
一時五十五分。
変化なし。
二時十七分。
中央棟設備盤。
右側でも、下側でもない。
二つの位置から少し離れた中央寄りの細い隙間に、ごく弱い青白い光が現れた。
監視兵が記録板へ手を伸ばす。
「位置と時刻だけ」
リディアが確認する。
「はい」
二時十八分。
発光継続。
二時二十分。
継続。
二時二十三分。
変化なし。
二時二十六分。
少し弱まる。
二時二十八分。
再び元の明るさに近づく。
「戻った?」
「明るさが変化した、まで」
「はい」
二時三十二分。
継続。
二時三十五分。
消灯。
操作なし。
発光中、地下振動なし。
西壁音なし。
第二線目視変化なし。
旧職員詰所変化なし。
リディアは設備盤を遠くから見つめる。
右。
下。
そして今夜は中央寄り。
位置だけ見れば、三か所。
だが、それを三つの表示窓だとは呼ばない。
一般図の三窓表示へ当てはめない。
受所側確認。
接続先応答。
保持状態。
その三つの言葉も、今夜の記録には書かなかった。
「三か所目、とも書かない方がいいですね」
監視兵が言う。
「そうだな」
リディアが頷く。
「『中央寄り隙間に発光確認』。それだけでいい」
「了解」
誰も数えなかった。
少なくとも、子供へ届く言葉の中では。
◇
生活区画では、子供が眠っていた。
紙箱は閉じている。
その横には、俺が「みち」と書いた紙。
布鞄は椅子の背。
木片は中。
発光が始まった時も、子供は眠ったままだった。
消えた時も起きなかった。
夜中に何かを呟くこともなかった。
朝。
窓の外が薄く明るくなった頃、子供は目を覚ました。
しばらく天井を見ている。
それから起き上がり、卓へ行く。
紙箱へ触れない。
布鞄にも触れない。
最初に手に取ったのは「みち」だった。
俺の字を指でなぞる。
「おはよう」
職員が声を掛ける。
「おはよう」
「よく眠れた?」
「うん」
「体、痛いところある?」
「ない」
「苦しい?」
「ない」
いつもの短い確認を終える。
職員は設備の話をしない。
子供も聞かなかった。
「それ、昨日名前をつけた紙だね」
「うん」
「今日はどうする?」
子供が紙を見る。
「まだ、みち」
「分かった」
「でも」
「うん?」
子供は紙を卓へ置く。
指先が、曲がった部分をなぞる。
「みち、ふえる?」
「増やしたい?」
「……わかんない」
「じゃあ、後で決める?」
「うん」
職員はそれ以上聞かない。
子供が今度は紙箱を見る。
昨日、全部開けた。
その後、自分で閉じた。
「きょう」
小さく言う。
「どうしたの?」
「あけない」
「分かった」
それだけ。
昨日開けたから、今日も開ける必要はない。
名前をつけたから、形を完成させる必要もない。
職員が朝食へ誘おうとした時、子供がもう一度紙の道を持ち上げた。
「ねえ」
「うん?」
「これ」
「道?」
「うん」
「どうしたの?」
子供は少し考えた。
「もどるみちじゃない」
職員はすぐには答えなかった。
「そうなの?」
「うん」
「じゃあ、どんな道?」
子供は窓を見る。
薄曇りの朝。
庭の向こう。
さらにその先。
どこを見ているのかは分からない。
「まだ、しらない」
「そっか」
「でも」
紙を胸元へ寄せる。
「ぼくが、いくみち」
職員は、その言葉を変えなかった。
解釈も足さなかった。
誰かが戻すための道なのか。
どこかから逃げる道なのか。
塔へ続くのか。
町へ続くのか。
ただの紙遊びなのか。
何も決めない。
そのまま記録する。
――本人、自作の紙について「もどるみちじゃない」「ぼくが、いくみち」と発言。
それだけだった。
その朝、設備盤の記録には新しい発光位置が一つ増えた。
子供の生活記録には、新しい言葉が一つ増えた。
けれど二つの記録は、同じ紙へ書かれなかった。
近い時間に起きたからといって、同じ意味だとは限らない。
同じ施設の中にあるからといって、一つの答えへまとめる必要もない。
そして、名前をつけたからといって。
その先まで、誰かが決めてしまう必要はなかった。




