第81話
朝食を終えても、俺はすぐには旧保養施設へ向かわなかった。
昨夜、名前の分からない子供は一度目を覚まし、「嫌と言ってもいいか」「後で変わってもいいか」「また変わってもいいか」と職員へ確かめている。その記録を読んだ以上、顔を見たい気持ちはあったが、だからといって朝一番に押しかける理由にはならない。
「今日は、本当に立ち上がりませんでしたね」
隣に座っていたセリーが、空になった皿を見ながら言った。
「昨日より成長しただろ」
「昨日も、最終的には座っておられました」
「最終的には、って付ける必要ある?」
「事実ですので」
セリーは自分の茶を飲み終えると、立ち上がって食器を重ねた。昨日までは向かいへ座ることも多かった彼女が、今日は自分で隣を選んだ。そのことを俺が意識していると気づいているのかどうか、表情からは分からない。
「セリー」
「はい」
「明日も隣?」
「明日の私にお尋ねくださいませ」
「気に入ったな、それ」
「便利ですので」
「俺が言うと注意するのに」
「使い方の問題でございます」
返す言葉がなくなった。
そこへエルの声が入る。
『主様。旧保養施設より、生活記録の共有範囲について本人確認が取れました』
「夜中の話?」
『はい』
「どうだった?」
『ガルム様、リディア様、セリー様まで共有可。アンナマリー様については「あとで」とのことです』
「フェリクスは?」
『本人から名前は出ておりません』
「じゃあ見せない」
『承知しました』
「本人の様子は?」
『起床後、朝食を摂取。身体状態に異常なし。現在は部屋で紙を折っております』
「箱?」
『別の紙です』
「何作ってる?」
『本人はまだ説明しておりません』
「そっか」
呼ばれていない。
なら行かない。
昨日より、それを受け入れるのが少しだけ楽になっていた。
「主様」
「何?」
「今、少し残念そうなお顔をなさいました」
「会いたいからね」
「はい」
「でも会いたいのは俺の気持ちだろ」
「そのようですね」
「だから、それだけで行くのは違う」
セリーは重ねた食器を持ったまま、ほんの少し考えた。
「昨日、本人は『主様も会いたいかを聞く』という考えを示しておりました」
「うん」
「主様ご自身の希望を伝えることまで禁止されたわけではございません」
言われて、少し止まる。
「俺から聞いてもいいってこと?」
「本人が、主様からの面会希望を受け取ること自体を負担に感じるのであれば別ですが、その確認はまだなさっておりません」
「……なるほど」
「選択肢を与えることと、選択を迫ることも同一ではないかと」
「セリー、最近こういうの上手くない?」
「長く主様のおそばにおりますので」
「それ、造られた目的?」
セリーの目が細くなる。
「食後でございますので、質問自体は禁止いたしません」
「そこ?」
「ですが、回答は保留いたします」
「はい」
少し笑ってから、俺はエルへ頼んだ。
「子供に伝言してくれる?」
『内容をどうぞ』
「俺は今日も会いたい。でも、会いたくなければ会わなくていい。今決めなくてもいい」
『そのまま伝えますか』
「うん。余計な説明は足さないで」
『承知しました』
返事を待っている間に、セリーは食器を片づけに行った。
数分後。
『返答がありました』
「何て?」
『「アルも?」』
「うん?」
『職員が「アルさんも会いたいって」と再度説明したところ、「じゃあ、あとで」と』
胸の奥が少し温かくなる。
「あとで、か」
『はい』
「時間は?」
『本人から指定なし』
「じゃあ待つ」
『承知しました』
会うことは決まった。
でも、今すぐではない。
その間に俺にもやることがある。
◇
記録室へ入ると、アンナマリーから既に資料が届いていた。
昨日の子供の証言を受け取った後、彼女が探したのは「削除」という言葉ではなかった。
取消。
失効。
訂正。
無効。
非表示。
転記。
そして、最終判定。
「消す方法を探したんじゃないんだ」
『はい』
通信越しのアンナマリーの声は落ち着いていた。
『本人の「けした」が、具体的に何を意味するのか未確認ですので』
「助かる」
『最初は私も「削除」を検索しようとしました』
「した?」
『途中でやめました』
「何で?」
『削除という言葉だけで探すと、廃棄期限を過ぎた物資記録や重複した設備記録まで大量に出てきたからです』
「それはフェリクスが喜びそう」
『ですので、彼にはまだ知らせておりません』
「正しい」
俺は届いた写しを開く。
「何かあった?」
『まず、古い時期の記録処理規定です』
昨日フェリクスが見つけた様式集とは別系統らしい。
同じ設計局が関与した保護施設群の共通事務規定。
ただし、旧保養施設でそのまま使われていた証拠はない。
「そこは忘れない」
『はい』
最初の項目。
――本人申告記録を訂正する場合、原記録を保持し、訂正理由・処理者・処理時刻を追記すること。
「原記録を残す」
『はい』
次。
――取消処理時、原申告を削除せず、取消標識を付すこと。
「取消でも消さない」
『少なくとも、この規定では』
さらに。
――後続申告との不一致のみを理由として、先行申告を誤記扱いしてはならない。
そこで手が止まった。
「……かなり近いな」
『はい。ただし、子供本人の証言と同じ処理が行われた証拠ではありません』
「分かってる」
最初に嫌だと言った。
後でいいと言った。
だから最初の嫌は間違いだったことにされた。
本人の話がそのまま事実なら、今読んでいる古い規定とは逆になる。
「続きは?」
『本人申告を誤記として訂正できる条件があります』
「どんな?」
『記録者による聞き取り間違い、転記ミス、対象者取り違えなど、申告内容そのものではなく記録行為に誤りがあった場合です』
「本人が気を変えたのは誤記じゃない」
『はい。別の申告として追加するよう定められています』
「後から『いい』って言ったから、前の『嫌』が間違いになるわけじゃない」
『この規定では、その考え方です』
俺は紙を机へ置いた。
「じゃあ、どこで変わったんだろうな」
『それについて、もう一つあります』
「聞く」
『年代が少し後の運用補助文書です』
紙をめくる。
そこには、昨日まで見てきたものとは少し違う言葉があった。
――治療進行中における一時的な拒否、混乱状態下の発言、誘導処置直後の矛盾申告については、担当者判断により「参考記録」へ移行可。
「参考記録?」
『本文から外し、別欄へ移す処理のようです』
「消すわけじゃない?」
『文書上は』
「誰が見られる?」
『そこが問題です』
アンナマリーの声が少し低くなる。
『通常の進行記録には表示されません。詳細履歴を開いた場合のみ確認できる、とあります』
「……見えなくする」
『そう読めます』
「理由は?」
『治療判断時の混乱防止』
「それだけ?」
『補足には、「一時的な恐怖・拒否が長期方針を妨げることを防ぐ」と』
胸の奥に嫌な感覚が広がる。
だが、すぐに決めつけない。
「本当に混乱してる人もいたかもしれない」
『はい』
「治療直後で、自分が何言ってるか分からない人も」
『考えられます』
「だから、全部を同じ重さで表示したら医療側が混乱するって考えた可能性はある」
『はい』
「でも」
『はい』
「本人が嫌だって言った記録まで、通常画面から見えなくなる」
『その危険があります』
「この時点では消してない」
『はい』
「でも、後から見る人には、無かったように見えることがある」
『その可能性があります』
俺は椅子へ深く座り直した。
削除ではない。
けれど、見えない。
本人は「消された」と感じるかもしれない。
あるいは、本当に別の時期には物理的に削除されたのかもしれない。
まだ分からない。
「これ、旧保養施設で使われた証拠は?」
『ありません』
「先生がこの制度を使った証拠も」
『ありません』
「子供の記録が参考記録へ移された証拠も」
『ありません』
「じゃあ今は、こういう処理が別施設で存在した、まで」
『はい』
「年代は?」
『本人意思を「現在意思」から「最終判定」へ整理し始める時期と近いです』
「少しずつ繋がってきたな」
『ただし、因果関係はまだ』
「分かってる」
それでも、変化の形は見えてきた。
最初は全部残す。
次に、今の意思を見やすくする。
さらに、最終判定を作る。
そして、判断を邪魔すると考えられた一部の発言を通常記録から外す。
一つ一つには理由があったのかもしれない。
便利だったのかもしれない。
善意だったのかもしれない。
けれど、積み重なった先で本人の言葉がどこへ行くのか。
「アンナマリー」
『はい』
「これ、ブラットにも共有していい?」
『王宮側の書式改訂を追うなら必要かと思います』
「じゃあお願い。子供の証言は?」
『本人からブラット様への共有許可はまだありません』
「制度資料だけ」
『はい』
「ガルムとリディアにも」
『承知しました』
「フェリクスは?」
少し考える。
『一般資料としては共有しても問題ないかと思います。ただし、本人証言との関連は伏せたまま』
「それで」
通信を切る。
机の上には、何枚もの古い紙の写しが並んでいる。
誰かの言葉を消す。
それは紙を破ることだけではない。
見えない場所へ移すことも、結果として同じことになる場合がある。
でも、同じだと決めつけるのも危ない。
「難しいな」
『はい』
「エルもそう思う?」
『私は記録処理の補助を行えますが、どの情報をどの範囲で表示すべきかは、目的と本人の権利、安全性によって異なります』
「例えば?」
『医療担当者へ、治療に無関係な私的会話をすべて表示する必要はありません』
「うん」
『一方、本人が治療を拒否した記録を非表示にしたまま、「本人同意済み」とだけ表示すれば、判断を誤らせる可能性があります』
「表示しないこと自体が悪いんじゃない」
『はい』
「何を、誰に、何のために見せないか」
『そして、非表示にした事実と原記録が保持されているかも重要です』
「なるほど」
少しだけ整理できた。
◇
旧保養施設では、フェリクスが珍しく設備から離れていた。
机の上に広げているのは、古い帳票の写しだ。
「一般調査ですよね?」
向かいに座るガルムが念を押す。
「三回目です」
「お前は興味が湧くと勝手に範囲を広げる」
「研究者として自然な行動です」
「だから三回言ってる」
リディアは二人の横で、年代別の様式を並べていた。
「本人申告の追記式。現在意思。最終判定。その後に参考記録への移行処理」
「綺麗な変化ですね」
フェリクスが言う。
「綺麗って言うな」
「資料上の変遷としてです」
「それならいい」
「ただ、ガルム隊長」
「何だ」
「これを一直線の悪化と見るのは早いですよ」
「分かってる」
「最終判定欄が必要になった理由は合理的だった可能性があります。例えば一人の対象者について、数十回の意思表示が残っていた場合、緊急時に現在の状態を確認しづらい」
「だから最新状態を見やすくする」
「はい。それ自体は悪くありません」
リディアが一枚の紙を持ち上げる。
「問題は、過去の意思へ辿れるかですね」
「そうです」
フェリクスが嬉しそうに頷く。
「この中期様式では、現在意思欄から過去履歴へ参照番号が付いています」
「後期は?」
「ありません」
ガルムが顔を上げる。
「消えた?」
「様式上は」
「原記録は?」
「残す規定があります」
「じゃあ探せば見つかる?」
「そのはずですが、どこから探すかが難しくなります」
リディアが後期様式を見つめる。
「目の前には最終判定だけ。過去の拒否は別記録に残っていても、普通に見るだけでは分からない」
「はい」
「それで『本人同意』と書いてあったら?」
「過去に拒否していたことを知らずに処置する職員が出る可能性があります」
ガルムの顔が険しくなる。
「制度上は消してない。現場からは消えたように見える」
「その表現が近いですね」
「誰が変えた?」
「まだ」
「理由は?」
「まだ」
「旧保養施設で使われた?」
「まだ」
「よし」
ガルムが一つずつ確認する。
フェリクスは少し笑った。
「慎重になりましたね」
「誰のせいだ」
「アル殿でしょうか」
「お前だ」
リディアが吹き出した。
少し空気が緩む。
その後も、三人は設備へ触れずに資料だけを追った。
中央棟右側の青白い光が長く続いたことは、別の記録板に置かれている。西壁の音も地下振動も、今読んでいる帳票の変化とは結びつけない。
資料の謎と設備の謎。
近くにあるからといって、同じ答えとは限らなかった。
◇
昼前、子供から連絡が来た。
『主様。本人より「いま、いい」と』
「行く」
今度は迷わない。
「セリーは?」
『本人から「セリーも」とのことです』
隣で資料を整理していたセリーが顔を上げる。
「聞こえた?」
「はい」
「一緒に行こう」
「承知いたしました」
塔を出る。
空は朝より明るくなっていたが、薄い雲は残っている。風は弱く、森の木々が時々葉を擦り合わせる音だけが続いていた。
「セリー」
「はい」
「俺から会いたいって言ってよかったかな」
「本人は会う時間を自分で選びました」
「うん」
「主様も会いたいと伝えました」
「うん」
「どちらか一方だけの希望で決まった面会ではございません」
「そっか」
「ただし」
「何?」
「毎朝、主様から面会希望を送り続ければ、本人が断りづらくなる可能性はございます」
「……確かに」
「本日は問題がなかったからといって、今後も同じ方法が常に適切とは限りません」
「昨日の選択は今日の命令じゃない」
「はい」
「方法も同じか」
「私はそう考えます」
「じゃあ次はまた考える」
「はい」
何でも規則にすれば楽になる。
毎朝聞く。
毎日確認する。
一定時間ごとに再確認する。
でも、それが積み重なった先で、答えること自体が負担になる場合もある。
帰還管理所で起きた変質も、最初は「確認を忘れないため」だったのかもしれない。
そう考えると、便利な仕組みほど少し怖かった。
◇
旧保養施設の門を抜けると、ガルムがいた。
「今日は呼ばれたか」
「うん。セリーも」
「聞いてる」
「設備は?」
「聞くと思った」
「変化あった?」
「朝以降はない」
「フェリクスは?」
「紙と戦ってる」
「触ってない?」
「設備にはな」
「紙には?」
「かなり触ってる」
「それは許してあげて」
ガルムが鼻で笑う。
「本人のところへ行け。こっちはこっちでやる」
「ありがとう」
「あと」
「何?」
「昨日の夜間発言、共有範囲は俺とリディアまで許可が出たって聞いた」
「うん」
「それ以上は広げない」
「お願い」
生活区画へ向かう。
途中、中央棟へ続く廊下が見えた。
行きたい。
九分。
その次は、それより長い発光。
右側。
自然消灯。
何が起きているのか見たい。
でも俺は曲がらなかった。
「主様」
「何?」
「今、見ましたね」
「見ただけ」
「はい」
「褒める?」
「生活区画へ到着してからにいたしましょう」
「基準が厳しい」
◇
子供の部屋の前で、職員から午前中の様子を聞いた。
朝食後、庭へ出た。
戻ってから紙を折った。
その後、俺からの面会希望を聞き、「あとで」と返答。
昼前になって、自分から「いま、いい」と言った。
「何作ってたの?」
「本人から説明していませんので、私たちも聞いていません」
「分かった」
扉を叩く。
「アル?」
「うん。セリーもいる」
「はいって」
入る。
子供は卓の前。
昨日の紙箱は閉じたまま置かれている。
その隣に、新しい紙があった。
細長く折られた紙。
途中で一度曲がり、先端が少し広がっている。
「来たよ」
「うん」
「会っていいって聞いた」
「うん」
「ありがとう」
「アルも、あいたい?」
「会いたかった」
子供が少しだけ笑う。
「セリーも?」
セリーはすぐに答えなかった。
「私は、主様へ同行したいと思いました」
「ぼくに?」
真正面から聞かれ、セリーの目がほんの少し動く。
「あなたにお会いすることも、嫌ではございません」
「いやじゃない?」
「はい」
「すき?」
今度は俺がセリーを見る。
セリーは俺を見ない。
「あなたが安全に過ごしていることを、好ましく思っております」
「むずかしい」
「申し訳ございません」
「セリー、むずかしい」
「よく言われる」
「主様」
子供が笑う。
それから、新しく折った紙へ手を置いた。
「これ」
「作ったの?」
「うん」
「何?」
「まだ、わかんない」
「そっか」
「つくったけど、わかんない」
「そういうこともあるだろ」
「へん?」
「全然」
紙箱の時は、箱だと本人が言った。
今日は形を作ったが、まだ名前を決めていない。
それも本人のものだ。
「アル」
「うん」
「きのうの」
「先生の話?」
「うん」
身体が少し固くなりそうになる。
意識して力を抜く。
「話したい?」
「ききたい」
「俺に?」
「うん」
「何?」
子供は紙を触る。
「せんせい、けした」
「うん」
「アル、けさないって」
「言った」
「でも」
「うん」
「みえなくするのは?」
俺は息を止めかけた。
今日読んだ資料が頭へ浮かぶ。
でも、子供がそれを知るはずはない。
「どういう意味?」
「かくす」
「記録を?」
「うん」
「先生が隠したってこと?」
子供は首を横へ振る。
「ちがう」
「じゃあ、お前が今聞きたい?」
「うん」
「記録を消さないけど、見えないようにするのはどうかって?」
「うん」
偶然だ。
今日の資料と似ている。
でも偶然だからこそ、資料の答えをそのまま子供へ渡すのはやめる。
「場合によると思う」
「なんで?」
「例えば、お前が俺だけに話したことを、町中のみんなに見える場所へ貼ったら嫌だろ?」
「いや」
「じゃあ隠すことが、お前を守る場合もある」
「うん」
「でも、お前が『嫌だ』って言った記録を、治療する人に見えなくして、『この子はいいって言ってます』だけ見せたら?」
子供の顔が曇る。
「いや」
「俺も、それは問題だと思う」
「じゃあ、かくすの、いい?」
「隠すこと全部が悪いわけじゃない。でも、誰から何を隠すかが大事」
「むずかしい」
「難しい」
「アルも?」
「かなり」
子供はしばらく紙をいじった。
「ぼくの、せんせい」
「うん」
「けしたって、いった」
「うん」
「でも」
少し考える。
「みえなくした、かも」
俺はすぐには答えない。
「思い出した?」
「……わかんない」
「じゃあ、そう記録する?」
「どうやって?」
「『消したと言ったけど、見えなくしただけかもしれない。本人も分からない』」
「ながい」
「短くする?」
「うん」
「『消した方法は分からない』」
子供が考える。
「それ」
「いい?」
「うん」
エルが記録する。
『追記しました』
「前の『消した』は?」
子供が聞く。
『残しております』
「まちがい?」
『現時点では誤りとは扱っておりません』
「なんで?」
俺が答える。
「その時、お前は『消した』って思って話したんだろ?」
「うん」
「今は、方法が分からないって思ってる」
「うん」
「どっちも残す」
「また、いっぱい」
「いっぱいだな」
子供が少し笑う。
「めんどくさい?」
「かなり」
「けす?」
「消さない」
「なんで?」
「面倒だから消すのは嫌だから」
「アル、へん」
「知ってる」
少し間を置く。
「それで、今日は紙箱どうする?」
子供が箱を見る。
「まだ」
「開けない?」
「うん」
「理由は?」
聞いてから、少し早かったかと思う。
でも子供は嫌がらなかった。
「きょうは」
箱へ手を置く。
「ちょっと、あけたい」
「うん」
「でも、まだ」
「開けたいけど、まだ開けない?」
「うん」
「分かった」
「へん?」
「全然」
「ふたつ?」
「二つあっていい」
「じゃあ」
子供は箱の蓋へ指を掛ける。
少しだけ持ち上げる。
ほんの指一本分。
中は暗く、紙の影しか見えない。
すぐに閉じた。
「……いまは、ここ」
「うん」
「ぜんぶ、あけてない」
「うん」
「でも、あけた?」
「少しだけ」
「きろく?」
「残したい?」
「うん」
「じゃあ残す」
エルが記録する。
子供は紙箱から手を離した。
呼吸は少し速い。
「大丈夫?」
「うん」
「水飲む?」
「のむ」
自分で杯を取る。
セリーが水差しを少し近づけたが、注がない。
子供が自分で注ぐ。
少し飲んでから、セリーを見る。
「セリー」
「はい」
「たすけない?」
「お水のことでしょうか」
「うん」
「ご自身でできそうでしたので」
「こぼしたら?」
「布をお持ちします」
「おこらない?」
「水をこぼしたことで怒る理由はございません」
「アルは?」
「俺はよくこぼす側」
「主様」
「本当だろ」
「回数を申し上げましょうか」
「数えない」
子供が吹き出した。
「アル、つかった」
「便利なんだよ」
「だめ」
「ごめん」
笑いが落ち着くまで待つ。
子供は杯を置き、少しだけ真面目な顔へ戻った。
「アル」
「うん」
「ぼくのためなら」
胸の奥が動く。
「うん」
「いやっていったら、だめ?」
「駄目じゃない」
「たすけてもらうときでも?」
「言っていい」
「びょうきでも?」
「言っていい」
「しぬかもしれなくても?」
今度は、少し慎重に考えた。
「そこは、少しだけ話が増える」
「なんで?」
「本当に命が危ない時は、お前が嫌だって言ってても、大人がすぐ助けなきゃ間に合わないことがあるから」
子供の眉が寄る。
「いや、だめ?」
「違う。嫌って言っていい」
「でも、する?」
「することはある」
「なんで?」
「死んでほしくないから」
「じゃあ、いや、いらない?」
「いる」
俺は少し前へ身体を傾ける。
「例えば、お前が『触らないで』って言った。でも大怪我して血が止まらなくて、このままなら死ぬ。そういう時、ヨアヒムなら止血するかもしれない」
「いやっていっても?」
「うん」
「じゃあ、いや、まけ?」
その言葉に胸が痛くなる。
「負けじゃない」
「でも、する」
「うん」
「おなじ」
「違うと思う」
「なんで?」
「お前が嫌だったことは残るから」
子供が俺を見る。
「大人が『命を助けるために必要だったからやった』って記録する。それと一緒に、『本人は嫌だと言っていた』も残す」
「ふたつ?」
「うん」
「あとで?」
「何をしたか、何で必要だったか説明する」
「ごめんって?」
俺は少し迷う。
「言うこともあると思う」
「たすけたのに?」
「助けるために必要だったとしても、怖い思いをさせたことや、嫌だって言ったのにできなかったことを申し訳なく思うことはあるだろ」
「でも、ただしい?」
「必要だったかどうかは、後から確認する」
「だれが?」
「やった人だけじゃなくて、できれば別の人も」
「アルも?」
「俺がその場にいたなら、俺も見るかもしれない。でも俺だけで正しいって決めない」
「なんで?」
「自分がやったことを、自分一人で『正しかった』って決めたら危ないから」
子供は長く黙った。
「せんせい」
「うん」
「ぼくのためって」
「言った?」
「うん」
「何をした時かは?」
「……わかんない」
「じゃあ、先生が本当に必要なことをしたかどうかは、まだ俺には分からない」
「わるい?」
「先生全部が悪い人だったかも、今は決められない」
「じゃあ、ぼく、いやっていったの、だめ?」
「それは別」
子供の目を見る。
「必要だったかもしれないことと、お前が嫌だったことは両方残せる」
「せんせい、こまった」
「お前が嫌って言ったから?」
「うん」
「困ることはあると思う」
「じゃあ、ぼく、わるい?」
「悪くない」
「でも、こまる」
「誰かが困ることと、お前が嫌って言ってはいけないことは別だよ」
「ほんと?」
「うん」
「アルも、こまる?」
「困ることあるよ」
「ぼくが、いやっていったら?」
「あるかも」
「おこる?」
「困るのと怒るのも別」
「いっぱい、べつ」
「本当だな」
子供は指を折りかけて、途中で止めた。
「かぞえない」
「そうだな」
今度は俺も笑わなかった。
子供自身が止めたからだ。
その手がゆっくり開く。
「アル」
「うん」
「もし」
「うん」
「ぼくが、しにそうで」
「うん」
「いやっていって」
「うん」
「たすけたら」
「うん」
「あとで、ぼく、まだいやっていっていい?」
「いい」
「ありがとうって、いわなくても?」
「言いたくなければ」
「あとで、ありがとうっていっても?」
「いい」
「また、いやっていっても?」
「いい」
子供の肩から少し力が抜けた。
「いっぱい」
「いっぱいだな」
「でも、けさない」
「うん」
「アル」
「何?」
「それがいい」
「俺もそう思う」
◇
部屋を出る前、今日の話をどこまで共有するか確認した。
紙箱を少しだけ開けたこと。
「消した方法は分からない」と追記したこと。
命を守るために嫌と言っていても処置される場合について話したこと。
子供は一つずつ聞いてから、ガルム、リディア、セリー、アンナマリーまで共有していいと言った。
「フェリクスは?」
「まだ」
「ブラットは?」
「……まだ」
「分かった」
「ヨアヒム」
「今日の命の話?」
「うん」
「共有したい?」
「うん」
「じゃあヨアヒムにも」
「うん」
エルが範囲を更新する。
『記録しました』
「アル」
「何?」
「きょう、はこ」
「少し開けたな」
「あしたは?」
「明日決める?」
「うん」
「分かった」
「でも」
「何?」
「アル、あいたい?」
不意打ちだった。
「明日?」
「うん」
「たぶん会いたい」
「たぶん?」
「明日の俺に聞かないと」
子供が目を丸くした。
それから笑う。
「セリーと、おなじ」
「影響された」
「じゃあ、あした」
「うん」
「ぼくも、あしたきめる」
「それでいい」
立ち上がる。
「またね」
「うん」
セリーも軽く頭を下げる。
「失礼いたします」
「セリー」
「はい」
「つぎも、くる?」
セリーは少し考えた。
「次の私が、同行したいと思えば」
「むずかしい」
「では」
セリーがほんの少し表情を和らげる。
「今は、またお会いしてもよいと思っております」
子供が頷いた。
「それ、わかる」
「ありがとうございます」
部屋を出る。
廊下へ出たところで俺はセリーを見る。
「今の、かなり素直だった」
「そうでしょうか」
「うん」
「主様の基準ではそうなのですね」
「俺の基準じゃなくても」
「では、その判断も明日の私へ」
「何でも使うなあ」
◇
ガルムへ共有を終えた後、俺たちは中央棟へは寄らず、そのまま塔へ戻った。
九分より長く光った設備盤を見たい気持ちは残っている。
でも、見たところで今すぐ答えが出るわけではない。リディアたちが位置と時間を記録し、触れずに監視しているなら、俺が目で見ることに特別な意味はなかった。
塔へ戻った頃には、午後の光が記録室の床を長く照らしていた。
アンナマリーから、早くも返事が届いている。
『本人の追加発言、受領しました』
「うん」
『「消した方法は分からない」という追記も、過去の発言を訂正消去せず併記します』
「お願い」
『それと、先ほどの参考記録制度について一つ追加があります』
「もう見つかった?」
『ブラットが王宮側の書庫から関連文書を見つけました』
「ブラットが?」
『はい。制度改訂の理由書です』
俺は椅子へ座る。
「内容は?」
『正式な改訂命令ではなく、検討資料です』
「じゃあ採用されたかは分からない?」
『はい』
「聞く」
『理由の一つに、「処置進行の迅速化」があります』
「迅速化」
『もう一つ、「担当交代時の判断統一」』
「人が変わっても同じ判断をしやすくする」
『はい』
「それだけなら分からなくもない」
『さらに、「対象者発言の変動による処置停滞の防止」』
俺は黙った。
「変動」
『拒否、同意、保留などが短期間で変化する場合、担当者ごとに判断が揺れることを問題視したようです』
「それで最終判定を作った?」
『可能性があります。ただし、この検討資料と実際の様式改訂が直接対応する証拠はまだありません』
「うん」
『問題は最後です』
「何?」
『「本人発言の変動を逐次主要記録へ反映する方式は、処置進行を不安定化させる」』
朝の子供の言葉が浮かぶ。
嫌。
いい。
また嫌。
いっぱいになる。
「……人の気持ちが変わることを、制度側が邪魔だと思い始めた」
『そのように読める部分があります』
「でも、それも効率の問題として始まったのかもしれない」
『はい』
「悪意で消そうとしたとは限らない」
『はい』
「結果として、本人の変化が見えなくなった可能性はある」
『あります』
俺は額へ手を当てた。
「便利にしたかっただけかもしれないんだな」
『可能性としては』
「担当者が変わるたび全部読み直すのは大変」
『はい』
「緊急時に何十個も拒否と同意が並んでたら困る」
『はい』
「だから最新の判定を大きくした」
『その可能性があります』
「でも、その最新を誰が決める?」
『そこが重要です』
「本人じゃなく、担当者が最終判定を書くようになった」
『様式上は』
「そして過去の発言は参考記録へ」
『一部文書では』
少しずつ。
本当に少しずつ。
誰か一人が突然、本人の意思を消そうとしたのではないのかもしれない。
仕事を早くする。
判断を統一する。
混乱を減らす。
治療を進める。
どれも、言葉だけなら悪くない。
その積み重ねの先で、本人が何度も変えた気持ちが「邪魔な情報」になる。
「アンナマリー」
『はい』
「これ、まだ結論出さないで」
『もちろんです』
「制度を作った人が悪かった、とも」
『はい』
「現場が悪用した、とも」
『はい』
「ただ、どこで本人の言葉が見えにくくなったかを追う」
『その方針で整理します』
「ありがとう」
◇
夕方、俺は一度だけ白鴉へ通信を繋いだ。
ヨアヒムに、本人許可の範囲で今日の会話を共有するためだ。
『命が危険な場合の処置、ですか』
「うん。俺なりに答えたけど、医療側の考えも聞きたい」
『基本的には間違っていないと思います』
「嫌って言ってても助ける場合はある?」
『あります』
「その時、どうする?」
ヨアヒムは少し考えた。
『緊急なら、まず命を守ります。ただし可能なら、短くても説明します。「血を止めます」「今触ります」と』
「拒否されても?」
『はい。そして処置後、本人が話せる状態になったら説明します。なぜ待てなかったのか。何をしたのか。今後どうするのか』
「拒否した記録は?」
『残すべきです』
「本人が後からありがとうって言ったら?」
『それも残せばいいでしょう』
「後からまた嫌だったって言ったら?」
『それも』
「いっぱいになる」
『医療記録とはそういうものです』
思わず笑った。
「ヨアヒム、強いな」
『慣れておりますので』
「面倒じゃない?」
『面倒ですよ』
「言うんだ」
『面倒でない医療など、私は知りません』
声に笑いが混じる。
『ただ、簡単にするために患者本人を消してしまえば、何を治療しているのか分からなくなります』
「……うん」
『その子には、次に会った時、私からも説明しましょうか』
「本人に聞いてから」
『もちろんです』
「ありがとう」
通信を終える。
窓の外は、夕暮れに変わり始めていた。
◇
その夜。
旧保養施設では、監視が続いていた。
何も開けない。
何も動かさない。
光を消そうとしない。
西壁へ穴を開けない。
第二線へ張力を戻さない。
子供の紙箱も木片も使わない。
設備の記録と、子供の生活記録を分ける。
午後十時十八分。
中央棟変化なし。
十一時三分。
地下微弱振動。
約一秒。
他設備同時変化なし。
十一時四十七分。
旧職員詰所変化なし。
日付が変わる。
午前零時二十二分。
第二線目視変化なし。
一時十一分。
西壁音なし。
一時五十八分。
中央棟設備盤。
これまで青白い光が見えていた右側ではない。
少し離れた下側。
隙間の奥で、ごく弱い光が点いた。
監視者が息を止める。
「位置だけ」
リディアが小さく言う。
「数は言わなくていい。位置と時刻」
「はい」
一時五十九分。
下側発光継続。
二時二分。
継続。
二時四分。
右側は暗いまま。
二時七分。
下側の光が少し弱くなる。
二時九分。
消灯。
操作なし。
西壁変化なし。
地下振動なし。
第二線目視変化なし。
旧職員詰所変化なし。
「前の場所とは違いますね」
監視兵が囁く。
「見える位置は違う」
リディアは言い直す。
「内部で別の表示器かどうかは、まだ分からない」
「はい」
「図面にも結びつけない」
「三窓表示とも?」
「まだ」
以前見つかった三つの表示窓を持つ一般図。
上が受所側確認。
中央が接続先応答。
下が保持状態。
だが、目の前の設備盤がそれと同じものだとは確認されていない。
「触らない」
「了解」
二時三十一分。
変化なし。
三時六分。
西壁付近で短い音。
一度だけ。
三時二十二分。
地下微弱振動。
約二秒。
発光から一時間以上離れている。
関連ありとは記録しない。
四時。
変化なし。
◇
同じ頃、生活区画では子供が眠っていた。
紙箱は閉じている。
昼間、指一本分だけ開けた蓋も、本人が自分で閉じた。
布鞄の中には木片。
新しく折った、まだ名前のない紙は卓の上。
設備が光った時も、子供は目を覚まさなかった。
西壁から音がした時も。
地下に弱い振動があった時も。
朝まで、そのまま眠った。
◇
翌朝。
俺が目を覚ました時、最初に届いていたのは設備記録だった。
「位置が変わった?」
『正確には、外部から確認できた発光位置が異なります』
「昨日までの右側じゃなくて下側」
『はい』
「同じ内部灯が別の隙間から見えた可能性もある」
『あります』
「別表示の可能性も」
『あります』
「三窓表示との関係は?」
『未確認です』
「子供は?」
『睡眠継続。発光、音、振動の各時刻に覚醒なし』
「朝は?」
『現在起床したとの報告が入りました』
「何か言った?」
少し間がある。
『はい』
「何て?」
『起床後、卓上の紙を見て、「きょう、なまえつける」と』
予想していなかった。
「設備じゃなく?」
『設備に関する発言はありません』
「紙に名前を付ける?」
『そのようです』
「何て名前?」
『まだ決めておりません』
俺は少し笑った。
「そっか」
設備では、見える位置が変わった。
記録の調査では、見えなくされた言葉があった可能性が出てきた。
けれど子供が朝一番に考えたのは、そのどちらでもなかった。
自分で作った、まだ名前のなかった紙へ。
今日は自分で名前を付ける。
「主様」
隣からセリーの声がした。
「うん?」
「本日も、こちらへ座ってよろしいでしょうか」
見ると、彼女は昨日と同じ隣の椅子へ手を掛けていた。
「聞くんだ」
「昨日の選択を、本日の当然にはいたしません」
胸の奥が温かくなる。
「もちろん」
「ありがとうございます」
セリーが座る。
「今日も隣?」
「はい」
「自分で?」
「はい」
それだけで十分だった。
昨日と同じ場所。
同じ椅子。
同じような朝。
でも、昨日決めたから座っているのではない。
今日も選んで、そこにいる。
記録も、人の気持ちも、本当はそうやって残していくものなのかもしれない。
過去を消さず。
過去だけに縛られず。
今日の本人が何を選んだのかを、今日のものとして。
俺はまだ温かいパンへ手を伸ばした。




