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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第80話 本人のための要求でも、本人の願いとは限りませんでした

 朝食を終えても、旧保養施設から「来てほしい」という連絡は届かなかった。


 だから俺は、行かなかった。


 それだけのことなのに、塔の記録室へ向かう途中で二度ほど窓の外を見てしまった。ここから旧保養施設が見えるわけではないと分かっているのに、森の向こうへ意識が引かれる。


「主様」


「分かってる」


「私はまだ何も申し上げておりません」


「どうせ、行きたいなら行けばいいとか、呼ばれてないなら待てとかだろ」


「いいえ」


「違うの?」


「廊下の中央をお歩きくださいませ。先ほどから少しずつ窓側へ寄っております」


 足元を見る。


 確かに、いつの間にか窓際へ寄っていた。


「……本当だ」


「考え事をなさると周囲への注意が薄くなる傾向がございます」


「壁にぶつかるほどじゃないよ」


「以前、書庫の扉へ肩をぶつけておられます」


「いつの話?」


「記録が必要でしょうか」


「いらない」


 セリーは何事もなかったように俺の半歩後ろを歩いている。


 少し悔しいので中央へ戻った。


 今日、名前の分からない子供は「ぼくが、まつ」と言った。


 何を待つのかは分からない。


 何かが来るのを待つのか。


 昨日来なかった何かを待つのか。


 自分の中で何かが変わるのを待つのか。


 そこへ意味を足すことは簡単だった。


 だが本人は「今日は待つ」と言い、「今日は開けない」と決めた。


 なら、少なくとも今日の俺たちが勝手に続きを作る必要はない。


 問題は別にある。


 昨夜、アンナマリーが見つけた記録。


 ――先行要求は、本人または要求元による取消し確認まで――


 文章はそこで失われていた。


 たったそれだけの断片だったが、これまで曖昧だった「要求」という言葉の見え方を少し変えた。


 本人。


 要求元。


 古い記録を書いた人間は、その二つを分けていた。


「エル」


『はい』


「アンナマリーから追加は?」


『現在、別冊の前後関係を確認中です。新たな確定情報はありません』


「フェリクスは?」


『二冊目を読んでおります』


「本当に二冊だけ?」


『ガルム隊長が確認しております』


「よし」


『なお、フェリクス様より「薄い付録は冊数に含まれるのか」と質問がありました』


「含む」


『ガルム隊長も同じ回答です』


「よし」


 思わず笑ってしまう。


 記録室へ入ると、机の上には昨夜までの資料が整理されていた。


 俺は椅子へ座り、まず子供の生活記録ではなく、古い設備記録の方を開いた。


「今日はこっちから」


『理由を伺ってもよろしいでしょうか』


「子供の言葉を先に読みすぎると、古い資料まで子供に合わせて読んじゃいそうだから」


『承知しました』


 俺自身が一番危ない。


 似た言葉を見つければ、結びつけたくなる。


 なら、少しでも順番を変える。


 最初に開いたのは、同じ設計局が残した中間保持器の改訂資料だった。


 受側識別。


 要求元識別。


 保持状態。


 そして、異なる要求元を同一保持状態として扱わないという注意。


「本人と要求元」


 指先で文字を追う。


「要求元が本人じゃない場合がある」


『文面上は、その可能性があります』


「でも、要求元が人とも限らない」


『はい』


「本人って言葉は、人を指す?」


『通常の文脈では人物を指す可能性が高いと考えられますが、この資料における定義は未確認です』


「だよな」


 そこで決めない。


 少しして、アンナマリーから通信が入った。


『アルフォンス様。今、お時間よろしいでしょうか』


「うん。何か見つかった?」


『一つ、比較に使えそうな記録があります。ただし、旧保養施設のものではありません』


「先にそれ言うの、みんな上手くなったな」


『誰の影響でしょうね』


「俺かな」


『おそらく』


 声に少し笑いが混じっていた。


『同じ設計局が関与した別の保護施設です。中間保持器の運用記録が三件残っていました』


「内容は?」


『一件目は、本人が移送を希望した例です』


 俺は姿勢を正す。


「本人が?」


『はい。記録上は「本人申告により移送要求登録」とあります』


「じゃあ要求元も本人?」


『その欄には「本人」と記載されています』


「一件目は、だな」


『はい』


「二件目は?」


 少し間があった。


『本人が発熱しており、医療担当者が移送延期を要求しています』


「延期も要求扱い?」


『この記録では』


「要求元は?」


『医療担当者です』


 俺は机の上の紙を見る。


「本人じゃない」


『はい』


「本人欄は?」


『「帰還希望継続」とあります』


「待って。本人は帰りたい。でも医療担当者が延期を要求した?」


『そのようです』


「結果は?」


『延期されています』


 少し胸がざわつく。


 本人の希望より医療側が優先された。


 それだけ聞けば、今まで見てきた悪い制度の匂いがする。


 だが。


「理由は?」


『高熱と呼吸状態悪化。移送時の身体負荷に耐えられない可能性が高い、と』


 以前見つけた記録を思い出す。


 本人が帰還を望んでいても、身体負荷が許容できなければ待機させた例。


「命を守るための延期か」


『少なくとも記録上は』


「その後、本人へ説明してる?」


『翌朝の記録に「状態改善後、本人へ延期理由説明」とあります』


「本人は?」


『「分かった。今日は待つ」』


 俺は黙った。


 偶然だ。


 今日、あの子も「待つ」と言った。


 でも同じ意味ではない。


「三件目は?」


『こちらが少し複雑です』


「聞く」


『本人は意思表示不能。意識はありますが、発語できず、所定の意思表示方法も成立しなかったようです』


「それで?」


『要求元は担当管理者。内容は「保護継続要求」です』


「移送じゃなくて、保護継続」


『はい』


「理由は?」


『本人意思未確認のため』


 俺は少し息を吐いた。


「……まともだ」


『この記録だけを見れば』


「本人が答えられないから、勝手に帰すんじゃなくて、今いる場所で守る」


『はい』


「その要求を管理者が出した」


『はい』


「本人の代わりに帰還希望を決めたわけじゃない」


『少なくともこの例では』


「その後は?」


『三日後、意思表示方法が成立しています』


「何て?」


『「まだ帰らない」』


「結果は?」


『保護継続』


「管理者が先に出した要求と一致したから?」


『いいえ』


 アンナマリーの返答は早かった。


『三日後の記録では、管理者要求を一度終了し、本人申告による保護継続へ登録し直しています』


 俺の指が止まった。


「同じ結果でも?」


『はい』


「保護を続けること自体は同じなのに?」


『要求元が変わったため、別記録です』


 机の上にある言葉が、急に重く見えた。


 異なる要求元を同一保持状態として扱わないこと。


 本人。


 要求元。


 結果が同じでも、誰が求めたかが違えば同じものとして扱わない。


「アンナマリー」


『はい』


「原文で、そこもう一回」


『「管理者保護継続要求、本人意思確認成立につき終了。本人申告による保護継続要求を新規登録」』


「……新規なんだ」


『はい』


「引き継ぎじゃない」


『そのようです』


「理由は書いてある?」


『欄外に短くあります』


「何て?」


『「結果同一でも、要求主体異なる場合は継続扱いとせず」』


 しばらく言葉が出なかった。


 セリーが、少し離れた場所から俺を見ている。


「本人のために管理者が出した要求でも」


『はい』


「後で本人が同じことを望んだからって、最初から本人が望んでたことにはしない」


『そう読めます』


「……これ、大事だな」


『私もそう思います』


「旧保養施設へ共有していい?」


『そのつもりで整理しております。ただし別施設の例であることは明記します』


「うん」


 通信が終わる。


 俺は椅子の背へ身体を預けた。


 古い仕組みを作った人間たちは、少なくとも一時期、分かっていたのかもしれない。


 本人を守るために、本人以外が決めなければならない時がある。


 命に関わる。


 意思確認ができない。


 今すぐ動けば危険。


 そんな時に何もしないことも、時には危険になる。


 だから代理の要求は存在した。


 けれど。


 代理で守ったことと、本人が望んだことは同じではない。


 後から本人が同じ選択をしても、過去の代理判断まで本人の意思に変わるわけではない。


「セリー」


「はい」


「昔の仕組み、最初から全部悪かったわけじゃないんだな」


「その可能性は以前からございました」


「うん」


「だからこそ、どこで変質したのかを見極める必要があるのでしょう」


「代理があること自体じゃない」


「はい」


「代理を本人の意思みたいに扱い始めたところかもしれない」


「可能性の一つでございます」


 俺は頷いた。


 まだ決めない。


 でも、見る場所が少し増えた。


     ◇


 旧保養施設では、フェリクスが二冊目の最後の頁まで読み終えたところで、ガルムに本を取り上げられていた。


「まだ付録が」


「二冊終わり」


「付録は本体の一部です」


「別綴じだ」


「しかし表紙には――」


「終わり」


「横暴です」


「明日読め」


「今読んでも明日読んでも内容は同じです」


「お前の目と頭が同じじゃない」


 リディアが隣で笑う。


「昨日も夜まで資料を読んでいましたからね」


「適切な休息は取りました」


「何時間?」


「……五時間ほど」


「少ない」


「十分です」


「少ない」


 ガルムとリディアの声が重なった。


 フェリクスは不満そうに椅子へ背を預けた。


「アル殿なら理解してくださると思います」


「今朝、アルから『二冊』って来てる」


「裏切られました」


「最初から味方じゃないだろ」


 そこへエル経由で、アンナマリーが見つけた比較記録が届いた。


 ガルムは最初に出典を確認する。


「別施設」


「はい」


 リディアが頷く。


「同設計局、近い年代。ただし旧保養施設そのものではありません」


「よし」


 フェリクスが椅子から起きようとする。


「読むだけです」


「座って読め」


「はい」


 三人で写しを見る。


 一件目。


 本人申告による移送要求。


 二件目。


 本人は帰還希望だが、高熱と呼吸状態を理由に医療担当者が延期要求。


 三件目。


 意思確認不能の本人を、管理者要求で保護継続。


 そして本人の意思が確認できた時点で、管理者要求を終了し、本人申告による要求を新規登録。


「これは……」


 フェリクスの声から、いつもの勢いが少し消えた。


「設備の識別だけではありませんね」


「何が?」


「要求元識別です」


 ガルムが紙を見る。


「本人と管理者を分けてる」


「はい。同じ『保護継続』でも、誰が要求したかを混同しない」


 リディアが別の行を指す。


「しかも管理者判断を、後から本人意思へ上書きしていません」


「昔の仕組みの方がまともじゃないか」


 ガルムが低く呟く。


「少なくともこの時期、この施設では」


 リディアが補う。


「そうだな」


 ガルムは素直に訂正した。


 後年の帰還管理所では、本人意思欄が空白のまま管理代行確認済とされていた記録がある。


 再確認拒否が続いたことを理由に、本人意思を飛び越える。


 そこまで変質した仕組みと、今目の前にある古い記録は、同じ言葉を使っていても考え方が違う。


「どこで変わった」


 ガルムが呟く。


「それを調べたいですね」


 フェリクスの目が再び輝く。


「明日な」


「まだ何も」


「明日」


「……はい」


 リディアが笑った。


     ◇


 昼になっても、名前の分からない子供から俺を呼ぶ連絡は来なかった。


 代わりに、普通の生活記録が届く。


 朝食の焼いた林檎は昨日とほぼ同じ大きさ。


 本人は一度並べて確認し、「きょうは、おなじくらい」と言った。


 庭へ出るか聞かれ、午前中は室内を選んだ。


 紙箱は開けていない。


 紙の輪は箱の外。


 布鞄の木片も取り出していない。


 設備に関する発言なし。


「平和だな」


『はい』


「俺のことは?」


『一度、「アル、きょうくる?」と質問しています』


「何て答えた?」


『職員が「呼びたくなったら呼べるよ」と説明しました』


「それで?」


『「まだいい」と』


「そっか」


 ほんの少しだけ残念だった。


 自覚した瞬間、自分で笑ってしまう。


「何がおかしいのでしょう」


 セリーが昼食の皿を置く。


「会いたいって言われないと寂しいんだなって」


「そうですか」


「でも、呼ばれてないのに行くほどじゃない」


「はい」


「前より成長した?」


「食事中に立ち上がらなければ、さらに」


「座ってるだろ」


「今のところは」


「信用が低い」


 昼食は温かいシチューとパンだった。


 旧保養施設へ行かないなら、午後は白鴉へ顔を出そうと思っていた。


 保存されていた少年の歩行練習も気になる。


 三〇八号室の少年の薬も、今は同じ量を維持している。


 何も大きく変わっていない時こそ、顔を見に行くのは悪くない。


「午後、白鴉行く」


「承知いたしました」


「セリーは?」


「同行いたしましょうか」


「来る?」


「主様がお望みであれば」


「じゃあ一緒に」


 セリーがほんの少しだけ目を細めた。


「はい」


 それだけだった。


     ◇


 白鴉では、保存されていた少年が窓際の椅子に座っていた。


 歩行練習はまだ始めていない。


 ヨアヒムが足の状態を確認した後、本人が昼食後に少し休むと決めたらしい。


「アル」


「こんにちは」


「今日はおそい」


「午前中は塔にいた」


「なにしてた?」


「古い紙読んでた」


「たのしい?」


「時々」


「ぼくは、やだ」


「字いっぱいだから?」


「うん」


 少年は素直に頷く。


 その隣には、例の老人が座っていた。


 今日はパンではなく、小さな焼き菓子を持っている。


「今日は比べないの?」


 俺が聞くと、老人は鼻を鳴らした。


「こいつの方がでかかった」


「もう決着ついた?」


「焼き菓子はな」


 少年が嬉しそうに言う。


「ぼくの、ちょっと大きい」


「明日は分からんぞ」


「明日はパン?」


「知らん」


「じゃあ比べられない」


「出てから決める」


「平和だなあ」


 思わず口にすると、ヨアヒムが近くで笑った。


「こちらとしては、この程度の問題で悩んでいただけるのが一番です」


「歩くのは?」


 少年へ聞く。


「あとで」


「一回?」


「まだ決めてない」


「うん」


「アル、聞かない?」


「何を?」


「二回って」


「歩きたいなら自分で言うだろ」


「昨日、一回だった」


「だから今日二回じゃないと駄目?」


 少年は少し考える。


「ちがう」


「昨日と今日は別だろ」


「うん」


「今日は今日の足で決めればいい」


 少年が自分の膝へ手を置く。


「いま、ちょっと重い」


「じゃあそれ、ヨアヒムに言った?」


「いった」


「ならいい」


「休んでから」


「うん」


 俺はそれ以上聞かなかった。


 昨日の選択は今日の命令ではない。


 古い記録にも、同じような考え方が残っていた。


 本人が昨日帰りたいと言ったからといって、今日も帰りたいとは限らない。


 昨日歩けたから、今日も同じだけ歩く必要はない。


 同じ人間でも、その日の身体も気持ちも変わる。


「アル」


「何?」


「セリーもいる」


「いるよ」


 少年がセリーを見る。


「パン」


「はい?」


「アル、もってこなかった」


 昨日の約束を思い出した。


「あ」


「忘れた」


「……忘れてた」


「だめ」


「すみません」


 老人が勝ち誇った顔をする。


「だから言っただろ」


「言われてないよ」


「顔に出てた」


「何でそれまで流行ってるんだよ」


 少年が笑う。


 セリーは静かに俺を見る。


「明日は?」


「朝食を塔から持ち出すのは駄目なんだろ?」


「衛生上適切な方法で別途用意することは可能です」


「用意してくれるの?」


「本人が望むのであれば」


 少年がすぐ頷く。


「くらべる」


「主様」


「俺じゃなくてこの子に聞いて」


「主様も比較対象なのでしょう?」


「俺も参加確定なの?」


「アルも」


 老人まで頷いている。


「増えたな……」


 深刻な設備の謎より、明日のパンの大きさが決まってしまった。


 それも悪くない。


     ◇


 三〇八号室の少年は、今日は扉を閉めていた。


 内側から鍵はかけていない。


 俺が二度叩くと、「アル?」と声が返る。


「うん。セリーもいる」


「入っていい」


 部屋へ入る。


 卓の上には名前を書いた紙がある。


 赤い布に包まれた手紙は昨日と同じ場所。


 今日は近くへ寄せてもいない。


「体調は?」


「変わんない」


 ヨアヒムたちの記録では、白い薬は同じ減量後の量。


 頭痛なし。


 吐き気なし。


 身体の重さも大きな変化なし。


 毎日同じ確認を長々と繰り返す必要はない。


「薬、今日はどうする?」


「同じ」


「分かった」


「すぐ終わり?」


「変わってないなら」


「うん」


 少年は少し安心したように椅子へ背を預けた。


「手紙は?」


「読まない」


「了解」


「それも終わり?」


「終わり」


「アル、最近早い」


「何度も同じこと聞かれるの嫌だろ」


「うん」


「じゃあ必要な時だけ」


 少年は紙へ視線を落とす。


「ねえ」


「何?」


「昨日は読みたいって思った」


「うん」


「今日は思わない」


「うん」


「昨日思ったの、なくなる?」


 少し考える。


「昨日そう思ったことは、なくならないと思う」


「でも今日は?」


「今日は違う」


「どっちが本当?」


「両方じゃない?」


 少年の眉が寄る。


「へん」


「人間ってそんなもんだろ」


「昨日は読みたい。今日は読みたくない」


「うん」


「明日は?」


「明日決めればいい」


 少年が少し笑う。


「またそれ」


「便利だから」


「逃げてる?」


「時々は」


「だめじゃん」


「でも、本当に明日にならないと分からないこともある」


 少年は赤い布を見る。


「じゃあ、今日は読まないのが本当」


「うん」


「昨日読みたいって思ったのも本当」


「うん」


「どっちか消さなくていい?」


「消す必要ある?」


「……ない?」


「俺はないと思う」


 少年はしばらく黙った。


 それから名前を書いた紙を一枚取る。


「これも」


「うん?」


「昨日、これ好きだった」


「今日は?」


「こっち」


 別の紙を示す。


 昨日の文字より少し丸い。


「変わったな」


「昨日の、捨てる?」


「捨てたい?」


「まだ」


「なら置いとけば」


「好きじゃなくなっても?」


「昨日好きだった紙として残してもいいだろ」


 少年は二枚を重ねず、隣同士に置いた。


「べつ」


「うん」


「どっちも、ぼく」


「そうだな」


 その言葉が、今朝読んだ記録と重なる。


 同じ結果でも、要求元が違えば別記録。


 昨日の本人と今日の本人は同じ人間でも、選択まで一つにまとめなくていい。


 ただ、それを説明する必要はない。


 少年は自分で、自分のやり方を見つけている。


     ◇


 白鴉を出る頃、空には薄い雲が増えていた。


 雨になるほどではない。


 セリーと並んで歩く。


「今日は静かだな」


「はい」


「旧保養施設も、白鴉も」


「静かな日がお嫌いですか?」


「前なら、何か見落としてる気がして落ち着かなかったかも」


「現在は?」


「ちょっと落ち着かない」


「少しだけ進歩なさいましたね」


「褒められてる?」


「はい」


 道の端に小さな白い花が咲いている。


 セリーがそれを一度見た。


「セリー」


「はい」


「俺といるの、仕事?」


 自分でも唐突だと思った。


 セリーの足がほんのわずかに遅くなる。


「以前も似たご質問をなさいました」


「覚えてる」


「では、回答も」


「長く仕えてるのは事実」


「はい」


「でも、それだけ?」


 セリーはすぐには答えなかった。


 風が彼女の髪をわずかに揺らす。


「主様」


「うん」


「私は、主様のお世話をするよう造られました」


「うん」


「その事実は変わりません」


 胸のどこかが少し沈む。


 けれどセリーは続けた。


「ですが、造られた目的と、現在の私が望むことが、必ずしも同一でなければならない理由もございません」


 俺は彼女を見る。


 セリーは前を向いている。


「それって」


「本日の記録に似ておりますね」


「本人と要求元?」


「はい」


「セリーを作った人が要求元?」


「たとえとしては、少々乱暴ですが」


「じゃあ今の本人は?」


 セリーがこちらを見る。


 ほんの短い時間だった。


「私です」


 それだけ言って、また前を向いた。


 俺は何も返せなくなる。


「主様?」


「……うん」


「どうかなさいましたか」


「いや」


 胸の奥が妙に温かい。


「ちょっと嬉しい」


「そうですか」


「何でセリーは平気そうなの」


「何がでしょう」


「そういうところ」


「理解できません」


 たぶん本当に全部は理解していない。


 あるいは、理解していて知らないふりをしている。


 どちらかは分からない。


 今は決めなくていい。


 少しだけ、彼女との距離が近く感じられた。


     ◇


 塔へ戻ると、アンナマリーから追加資料が届いていた。


 今度は古い保護施設の運用手引き。


 先ほどの三件の事例より少し後の年代。


「本人または要求元による取消し確認」の続きを直接補うものではない。


 だが、代理要求についての規定が残っていた。


「読むよ」


『はい』


 ――本人意思確認不能時、生命・身体保護に必要な範囲で管理要求を登録可。


「必要な範囲」


 次。


 ――管理要求は本人意思を代替するものにあらず。


 俺はそこで止まった。


「……はっきり書いてる」


『はい』


 ――本人意思確認成立後、管理要求の継続可否を再確認し、本人申告と混同せず記録すること。


「やっぱり」


 さらに続く。


 ――緊急時を除き、管理要求を理由として本人意思確認を省略してはならない。


 その下。


 ――本人拒否が確認された場合、生命・身体保護上の必要性を別途記載。


「拒否されたら?」


『続きがあります』


 ――必要性消失後、管理要求を解除。拒否記録を本人申告として保持。


 俺は何度か読み返した。


「代理で守ることはできる」


『はい』


「でも代理が本人の意思になるわけじゃない」


『はい』


「本人が拒否した事実も消さない」


『はい』


「必要がなくなったら代理を解除する」


『はい』


「……かなりちゃんとしてる」


 後世の記録との落差が大きい。


 帰還拒否を症状扱いする。


 再確認拒否継続を理由に管理代行確認済とする。


 本人意思欄が空白でも内区へ進める。


 最初からそうだったわけではない。


「エル。年代並べて」


『表示します』


 古い運用。


 本人意思を待つ。


 代理は保護のためだけ。


 代理と本人申告を分離。


 拒否記録を残す。


 少し後。


 再確認頻度が上がる。


 拒否継続が判断能力低下の可能性として扱われる。


 さらに後。


 拒否が症状になる。


 管理者判断で確認項目を代行できる。


「一気に変わったんじゃない」


『その可能性があります』


「少しずつだ」


 善意だった可能性もある。


 早く助けたい。


 帰したい。


 治したい。


 判断できない人を守りたい。


 そういう理由から始まった規則が、いつの間にか本人の言葉を邪魔なものとして扱うようになったのかもしれない。


 もちろん、まだ分からない。


「誰が変えたかも分からない」


『はい』


「何で変えたかも」


『はい』


「でも、元の考え方は少し見えた」


『はい』


 俺は年代表示を閉じなかった。


「これ、帰還管理所の調査にも重要だな」


『ガルム隊長、アンナマリー様、ブラット様へ共有しますか』


「うん。ただし、元の制度が完全に正しかったとは書かない」


『はい』


「残ってる記録が良い例に偏ってる可能性もある」


『注記します』


「あと、今の旧保養施設の設備と直結させない」


『はい』


「中間保持器の要求と、管理要求が同じ種類とも限らない」


『はい』


 同じ「要求」という言葉でも、文書ごとに意味が違うかもしれない。


 そこも混ぜない。


 似ているから一つにしない。


 今はそれを繰り返すしかなかった。


     ◇


 夕方になって、旧保養施設から連絡が入った。


『主様。子供本人より面会希望です』


 俺は立ち上がる。


 今度はセリーも止めない。


「行ってくる」


「夕食までには?」


「戻る」


「お約束いただけますか」


「約束する」


「では」


 セリーが俺の外套を持ってくる。


「お気をつけて」


「セリーは?」


「今回は主様お一人をご希望とのことです」


「本人が?」


「はい」


 少し驚いた。


「分かった」


 外套を受け取る。


 出る前に、セリーを見る。


「さっきの話」


「はい」


「また聞いてもいい?」


「私が答えたい時であれば」


 思わず笑った。


「それでいい」


 塔を出た。


     ◇


 旧保養施設へ着いた時には、空が薄い橙色に染まり始めていた。


 ガルムは門の近くにいた。


「呼ばれたな」


「うん」


「設備は変化なし」


「聞いてないのに教えてくれるんだ」


「お前の顔が聞いてる」


「またそれ」


「今日は西壁の音もなし。地下振動も午後はなし。第二線も見た目は変わらん」


「分かった」


「子供は?」


「昼過ぎまで普通に過ごしてた。庭にも出た。午後、少し昼寝。その後でお前を呼んだ」


「何か言った?」


「『アルに、いう』」


「内容は?」


「聞いてない」


「ありがとう」


 生活区画へ向かう。


 廊下は夕食前の匂いで満ちていた。


 野菜を煮る香り。


 焼いたパン。


 遠くで食器が触れ合う音。


 子供の部屋の前には、いつもの職員がいた。


「本人は?」


「起きています」


「体調は?」


「問題ありません」


「怖がってる?」


「少し緊張しているようには見えますが、本人は『だいじょうぶ』と」


「分かった」


 扉を二度叩く。


「アル?」


「うん」


「はいって」


 入る。


 子供は卓の前にいた。


 紙箱。


 紙の輪。


 布鞄。


 全部、朝と同じ位置らしい。


「来たよ」


「うん」


「呼んだ?」


「うん」


「ここ座っていい?」


「いい」


 椅子へ座る。


 子供はすぐには話さなかった。


 俺も待つ。


 夕方の光が窓から斜めに入り、卓の上へ長い影を落としている。


「アル」


「うん」


「きょう、こなかった」


「聞いた」


「でも、ある」


「それも」


「ぼく、まった」


「うん」


 子供が紙の輪を指で転がす。


「まだ、まつ」


「明日も?」


 子供は首を横へ振った。


「いま」


 俺は一瞬黙る。


「今は待つ?」


「うん」


「明日は?」


「しらない」


「そっか」


 少し嬉しくなった。


 今日待つと決めたから、明日も待つとは限らない。


「それを言いたかった?」


「ちがう」


「じゃあ、聞く」


 子供は布鞄へ手を伸ばす。


 中から木片を取り出した。


 「帰」「還」の文字。


 裏には三重の四角と斜線。


 俺へ渡さない。


 卓へも置かない。


 両手で持つ。


「これ」


「うん」


「ぼくの」


「うん」


「でも」


 指が木片の端をなぞる。


「ぼくが、つくったんじゃない」


 初めて出た言葉だった。


「誰かが作った?」


「うん」


「誰?」


 子供は首を横へ振る。


「しらない」


「覚えてない?」


「わかんない」


「分かった」


 そこで止める。


「これ、ぼくの」


「うん」


「でも、ぼくがきめたんじゃない」


 胸の奥で何かが動く。


「何を?」


 子供が木片を見る。


「これ、もつの」


「持つこと?」


「うん」


「誰かに持たされた?」


 子供は眉を寄せる。


「……たぶん」


「嫌だった?」


「わかんない」


「今は?」


 子供は木片を握る。


「いる」


「今は必要?」


「うん」


「じゃあ持ってていい」


 子供が俺を見る。


「でも」


「うん」


「これがあると、もどされる」


 以前から聞いていた言葉。


「なくすと、もどれない」


「うん」


「どっち?」


 その問いは俺へ向けられていた。


「どっちが正しいか?」


「うん」


「俺には決められない」


「なんで?」


「どっちも、お前が言ったことだから」


 子供の目が揺れる。


「あると戻されるのが怖い。なくすと戻れないのも怖い。両方あるんだろ?」


「……うん」


「なら今、どっちかを嘘にしなくていい」


「へん?」


「全然」


「でも、ちがう」


「違ってていい」


 子供は木片を見つめた。


「せんせいは」


 身体が少し固くなる。


 以前、「先生」という言葉を嫌がった。


 俺は何も聞かず待つ。


「せんせい、いった」


 声が小さくなる。


「なにを?」


「もってろって」


「この木片を?」


「うん」


「……そっか」


 子供の指が白くなるほど強く木片を握り始めた。


「痛くない?」


 手のことだけ聞く。


 子供が自分の指を見る。


 少し力を緩めた。


「だいじょうぶ」


「続けたくなければ、やめていい」


「いう」


「うん」


「せんせい、いった」


 息を一度吸う。


「なくすな」


「うん」


「なくしたら、もどれない」


「うん」


「でも」


 子供の顔が歪む。


「もってたら、もどされる」


「先生がそう言った?」


 子供は首を横へ振った。


「ちがう」


「じゃあ、そっちは誰か別の人?」


「……しらない」


「分かった」


「あとで」


「後で知った?」


「うん」


「どうやって?」


 子供は黙る。


 俺はすぐに言う。


「今の答えなくていい」


「うん」


 呼吸が少し速い。


「水飲む?」


「うん」


 卓の水を取る。


 俺が渡す前に、子供が自分で手を伸ばしたので、そのまま取らせる。


 少し飲む。


「もうやめる?」


「……まだ」


「無理しなくていい」


「アルに、いう」


「うん」


 それが本人の選択なら、聞く。


 でも引っ張らない。


「せんせい」


「うん」


「かぞえた」


 俺は動かなかった。


「何を?」


「……ぼく」


「お前を数えた?」


 子供が首を横へ振る。


「ちがう」


 少し考える。


「ぼくの」


「お前の何か?」


「うん」


「何?」


 子供は答えようとして、口を閉じる。


「わかんない」


「分かった」


「ひとつ、ふたつって」


 声が震える。


「うん」


「できたら、かぞえる」


「何かができたら?」


「うん」


「何ができるかは?」


「わかんない」


「そっか」


「それで」


 木片を胸へ寄せる。


「おわったら、もどる」


 俺の背中に冷たいものが走った。


 それでも表情を変えないようにする。


「先生がそう言った?」


「うん」


「全部終わったら戻るって?」


「うん」


「どこへ?」


 子供は木片の「帰」「還」を見る。


「……わかんない」


「分かった」


「だから」


「うん」


「かぞえない」


 ようやく繋がった。


 少なくとも、この子の中では。


 数えること自体が嫌なのではない。


 誰かが何かを一つ、二つと数えた。


 何かが揃うことを待った。


 そして終われば「戻る」と言った。


 だから今、何かが来ても、寝ても、消えても、子供は数えたくない。


 数えれば、終わりへ近づくように感じるのかもしれない。


 そこまで考えて、止める。


 それも俺の解釈だ。


「アル」


「うん」


「かぞえない?」


「数えない」


「みんな?」


「ガルムたちにも伝える。必要な安全確認以外で、お前に残りの数を聞かない」


「うん」


「でも、設備の記録では数や時間を残すことがある」


 子供の顔が少し曇る。


「何で?」


「安全のため。光が何回出たとか、音が何回したとか、そこまで全部消すと危ないこともある」


「ぼくに?」


「お前に数えさせない。こっちの記録を、お前へ無理に見せない。でも、設備を見てる人たちは自分たちで記録する」


 子供は長く考えた。


「ぼく、かぞえなくていい?」


「うん」


「アルも、ぼくにきかない?」


「聞かない」


「じゃあ、いい」


 少しだけ肩が下がる。


 俺も息を吐いた。


 数えないという約束を、設備記録まで捨てることと混同しない。


 本人を守ることと、安全を守ること。


 両方必要だ。


「先生の話、もう終わりにする?」


「うん」


「分かった」


 そこで本当に終える。


 先生が誰なのか。


 いつのことなのか。


 何を数えていたのか。


 何が「できた」のか。


 戻る先はどこなのか。


 聞きたい。


 全部聞きたい。


 でも今は聞かない。


 子供が紙箱を見る。


「これ」


「うん」


「ぼくがつくった」


「紙箱?」


「うん」


「そうだな」


「こっちは、ぼくがきめた」


 木片。


 紙箱。


 二つを見比べる。


「木片を持つのは、最初はお前が決めたんじゃない」


「うん」


「紙箱を作ったのは自分で決めた」


「うん」


「でも今、木片を持つことは?」


 子供が考える。


 長い。


 俺は待つ。


「……ぼくが、もつ」


「今は?」


「うん」


「じゃあ今は、お前が決めて持ってる」


 子供が木片を見つめる。


「かわる?」


「何が?」


「さいしょ、ぼくじゃない。でも、いま、ぼく」


「変わっていいと思う」


「へんじゃない?」


「変じゃない」


 今朝の記録が頭に浮かぶ。


 管理者が本人を守るために保護継続を要求した。


 後から本人が同じ保護継続を望んだ。


 結果は同じ。


 でも記録は別。


 最初の要求を本人のものへ書き換えず、いったん終わらせ、新しい本人申告として残した。


「最初に誰かから持たされたことは消えない」


「うん」


「でも今、自分で持つって決めたことも本当」


「ふたつ?」


「……二つの出来事、かな」


 子供が少し身構える。


「数の話じゃないよ」


「うん」


「昔と今を一緒にしなくていいってこと」


 子供はしばらく考えた。


「きょうは、もつ」


「うん」


「あしたは?」


「明日決める?」


「うん」


「それでいい」


 子供が木片を布鞄へ戻した。


 鞄の口を閉じる。


 そして紙箱の蓋へ手を置いた。


「これは?」


 俺が聞く。


「あけない」


「今日も?」


「うん」


「分かった」


「でも」


 子供が俺を見る。


「アル」


「何?」


「あした、あけたいっていったら?」


「その時に聞く」


「だめっていう?」


「危ない可能性があるなら止めるかもしれない」


 子供の表情が曇る。


「でも、その時は理由を言う」


「なんでだめか?」


「うん。俺が怖いだけなら、それも言う」


「アルも、こわい?」


「怖いよ」


「かべ?」


「壁の向こうも。お前に何があったのかも。俺たちが間違えることも」


「いっぱい」


「いっぱい」


 子供が少し笑った。


「でも、にげない?」


「逃げたい時は逃げるかも」


「え?」


「危ないなら逃げた方がいいだろ」


 子供は目を丸くしたあと、声を立てて笑った。


「アル、へん」


「また言われた」


「にげないっていうかとおもった」


「格好つけても仕方ない」


「ぼくも、にげていい?」


「もちろん」


「もどらなくても?」


 笑いが消える。


 俺は少しだけ時間を置いた。


「今すぐ戻らなきゃいけない理由を、俺は知らない」


「うん」


「お前が戻りたいって言ったら、その時にどこへ、どうやって、危なくないか調べる」


「うん」


「戻りたくないなら?」


 子供が俺を見る。


「少なくとも、無理やり戻すつもりはない」


「ずっと?」


「未来の全部を今ここで約束するのは難しい。でも、お前が嫌だって言ったことを、嫌じゃなかったことにはしない」


 子供の目が少し揺れる。


「きろく?」


「残す」


「いやって?」


「うん」


「あとで、いいっていったら?」


「その時は、『後でいいと言った』って別に残す」


「さいしょの、いやは?」


「消さない」


 長い沈黙。


 子供は俯いた。


 泣くのかと思った。


 でも泣かなかった。


 代わりに、小さく息を吐く。


「……それがいい」


「うん」


「せんせい、けした」


 今度こそ、俺の身体が固まった。


「何を?」


 子供の視線は卓へ落ちたまま。


「いやって」


「お前が嫌って言った記録?」


 頷きは小さい。


「いつ?」


 聞いた瞬間、子供の肩が強張る。


「ごめん。今は答えなくていい」


「……うん」


「先生が消した、だけでいい?」


「うん」


「分かった」


 胸の中に怒りが生まれる。


 誰だ。


 何をした。


 なぜ。


 でも、その怒りを子供の前へ出さない。


 今必要なのは、犯人探しではない。


「今の言葉、記録していい?」


 初めて確認する。


 子供が俺を見る。


「せんせいの?」


「『嫌って言った記録を先生が消した』って話」


「……のこる?」


「残す」


「けされない?」


「勝手には消さない」


「だれがみる?」


 大事な質問だ。


「今は、俺と、ここでお前を守るために必要な人だけにする?」


「フェリクス?」


「必要がなければ見せない」


「ガルム?」


「ガルムは安全を守る側だから、俺は伝えたい。でも、お前が嫌なら相談する」


 子供は考える。


「ガルム、いい」


「リディアは?」


「……いい」


「セリーは?」


「いい」


「ブラットは?」


 子供は首を傾げる。


「だれ?」


「じゃあ今は見せない」


「うん」


「アンナマリーは?」


「おんなのひと?」


「そう。記録を整理してる人」


「アルと、けっこんしなかった?」


「何でそこ覚えてるんだよ」


 子供が少し笑う。


「その人」


「見せていい?」


 また考える。


「……あとで」


「分かった。今は見せない」


 エルへ記録範囲を指定する。


『承知しました』


 子供が腕輪を見る。


「エル、けさない?」


『本人の許可なく削除いたしません』


「ほんと?」


『はい』


「アルが、けしてっていったら?」


 俺は答えようとしたが、エルが先に返した。


『この記録について、主様お一人の指示のみで削除する設定にはいたしません』


「……俺より信用できるな」


『ありがとうございます』


「褒めてない」


 子供が笑った。


 その笑いで、少しだけ部屋の空気が戻る。


     ◇


 部屋を出たあと、俺は廊下の壁へ背を預けそうになり、やめた。


 今は壁を見るだけでも、余計な意味を感じてしまう。


 ガルムが少し離れたところで待っていた。


「顔が怖いぞ」


「……そう?」


「何があった」


「本人の許可がある範囲だけ話す」


 俺は順番を崩さず伝えた。


 先生に木片を持っているよう言われたこと。


 なくすと戻れないと言われたこと。


 何かができるたび、一つ、二つと数えられたこと。


 終わったら戻ると言われたこと。


 だから数えたくないと本人が話したこと。


 そして。


「本人が嫌だって言った記録を、先生が消したって」


 ガルムの表情が消えた。


「本人の言葉か」


「うん」


「記録していいって?」


「許可取った。共有は俺、エル、ガルム、リディア、セリーまで。アンナマリーは後で本人が決める。フェリクスには今は見せない」


「分かった」


「怒ってる?」


「かなり」


「俺も」


「でも今は?」


「何もしない」


「同じだ」


 ガルムが息を吐く。


「先生が誰かも聞かない?」


「本人が続けたい時まで」


「記録消去の痕跡を探すのは?」


 俺は考える。


 本人へ聞かずにできる調査。


 記録上の欠損。


 消去跡。


 改竄。


 それを調べること自体は、子供へ負担をかけない。


 でも、今すぐ必要か。


「原本を壊さない範囲なら、既存記録の欠損を整理するのはあり」


「フェリクスは?」


「詳細を伏せたまま、『記録欠損・消去痕の一般調査』なら頼める?」


「できる」


「子供の発言とは結びつけない」


「了解」


「それと、先生って言葉で三〇八号室の先生と結びつけない」


「当然だ」


「同じ人物かもしれないって言い出す奴がいたら止めて」


「まずフェリクスを止める」


「本人に聞こえたら怒るぞ」


「聞こえないところで言う」


 少しだけ笑う。


 怒りは消えない。


 でも、怒りの向け先を間違えない。


     ◇


 その夜、塔へ戻るとセリーが夕食を用意して待っていた。


「約束通り戻った」


「はい」


「褒める?」


「当然のことをなさっただけです」


「昼は褒めてくれたのに」


「では、よくお戻りになりました」


「雑」


「主様がお望みでしたので」


 椅子へ座る。


 食事を始めてから、許可された範囲で今日の話を伝える。


 セリーは途中で手を止めなかった。


 俺の皿へ料理を取り分けながら、最後まで聞く。


「嫌だと言った記録を消した」


「本人の発言では」


「うん」


「主様は、お怒りですか」


「怒ってる」


「はい」


「でも、今すぐ先生を探し出してどうこうしたいっていうより……」


 言葉を探す。


「嫌だったって言ったことまで奪うのかって思う」


 セリーは黙っている。


「嫌だって言ったのに、それを記録から消したら、後から見た人には嫌じゃなかったみたいに見える」


「はい」


「その後で本人が従ったら、最初から納得してたみたいになる」


「はい」


「今日読んだ古い記録と真逆だ」


 管理者が先に保護継続を選んだ。


 後で本人が同じ保護継続を選んだ。


 結果が同じでも、別の要求として残した。


 最初から本人が望んだことにはしなかった。


「主様」


「うん」


「怒りながら、お食事を止めておられます」


「……ごめん」


「私へ謝る必要はございません」


 匙を動かす。


「セリー」


「はい」


「今日の昼の話だけど」


「どの件でしょう」


「作られた目的と、今のセリーが望むこと」


「はい」


「もし同じでも、同じじゃないんだな」


 セリーが俺を見る。


「どういう意味でしょうか」


「セリーは俺の世話をするために造られた。今も俺の世話をしてる」


「はい」


「外から見たら同じ」


「そうですね」


「でも、造った人が決めたからやってるのと、今のセリーが自分でやりたいからやってるのは別」


 少し長い沈黙。


「……はい」


 セリーの返事は、いつもよりわずかに小さかった。


「俺、それ間違えたくない」


「主様」


「何?」


「食事中に、そのようなことをおっしゃるのは反則ではないでしょうか」


「反則?」


「回答に困ります」


 珍しい。


 セリーが視線を少しだけ逸らした。


「困るんだ」


「私にもございます」


「何が?」


「答えをすぐに決めたくない時が」


 俺は笑った。


「じゃあ、待つ?」


「はい」


「明日決める?」


「その言葉を便利に使いすぎではございませんか」


「便利なんだよ」


 セリーも、ほんの少し笑った。


     ◇


 夜の旧保養施設では、監視条件が変えられることはなかった。


 子供が新しいことを話したからといって、設備へ刺激を加えない。


 先生が何かを数えていたと分かったからといって、光の数を子供の記憶へ当てはめない。


 西壁を開けない。


 第二線を動かさない。


 北側を掘らない。


 紙箱へ触れない。


 木片も使わない。


 午後十一時三十八分。


 変化なし。


 日付が変わる。


 午前零時五十六分。


 地下微弱振動。


 約二秒。


 中央棟発光なし。


 午前一時二十分。


 西壁音なし。


 旧職員詰所変化なし。


 午前二時。


 変化なし。


 二時四十三分。


 中央棟設備盤の右側に、弱い青白い光。


 監視者が時刻を記録する。


 操作なし。


 二時四十五分。


 継続。


 二時四十八分。


 継続。


 二時五十一分。


 わずかに弱くなる。


 二時五十二分。


 消灯。


 一か所だけ。


 誰も「一つ」と口にしなかった。


 設備記録には、位置と時間だけを残す。


 三時十四分。


 西壁付近から小さな音。


 カチ。


 前回と似ているが、同一音源かは不明。


 三時十五分。


 もう一度。


 少し低い。


 三時十七分。


 変化なし。


 三時三十分。


 発光なし。


 四時。


 変化なし。


 五時。


 何も起きない。


     ◇


 生活区画では、子供が朝まで眠った。


 目を覚ましたのは六時を少し過ぎてから。


 水を飲む。


 身体の痛みなし。


 息苦しさなし。


 怖さを聞かれると、少し考えてから「いまは、だいじょうぶ」と答えた。


 職員は設備の発光を伝えない。


 音も伝えない。


 子供は卓へ向かう。


 紙箱を見る。


 紙の輪を見る。


 布鞄を見る。


 しばらく何もしなかった。


「今日はどうする?」


 職員が生活の予定として聞く。


「ごはん」


「先に朝ごはん?」


「うん」


「その後は?」


「あとで」


「分かった」


 廊下へ出ようとした時、子供が立ち止まる。


「ねえ」


「どうしたの?」


「きのう」


「うん」


「アルに、いった」


「うん」


「かぞえないって」


「うん」


「みんな、かぞえない?」


 職員は少し考えた。


 約束を正確に伝える。


「あなたに数えさせないよ。あなたに残りがいくつかも聞かない」


「でも?」


「設備を見ている人たちは、安全のために時間や回数を記録することがあるって、アルさんから聞いてる」


 子供は黙る。


「いや?」


「……わかんない」


「今すぐ決めなくていいよ」


「ぼく、みない?」


「見たくないなら見せないようにできると思う。そこはアルさんたちと相談しようか」


「うん」


 少し安心したようだった。


 それから、子供は思い出したように聞く。


「アル、きょうくる?」


「呼ぶ?」


「……ごはん、あと」


「朝ごはんの後に決める?」


「うん」


「分かった」


 食堂へ向かう。


 今日は焼いた林檎ではなく、柔らかく煮た林檎が皿の端に添えられていた。


 子供は席へ着くと、まずパンを見て、それから林檎を見た。昨日までなら大きさを比べるように少し皿を動かすことがあったが、今日は手を出さず、湯気の立つスープへ視線を移す。


「ちがう」


 配膳していた職員が足を止めた。


「何か違った?」


「りんご」


「ああ。今日は煮たものだね」


「なんで?」


「昨日より少し冷えるから、温かいものを増やしたんだって」


 子供は皿へ顔を近づけるようにして眺めたあと、匙で林檎を一切れすくった。


「きのうと、おなじじゃない」


「うん」


「でも、りんご」


「そうだね」


 口へ入れる。


 ゆっくり噛んで、飲み込む。


「こっちも、すき」


「よかった」


 それで話は終わった。


 昨日と同じでなくてもいい。


 違うものになったからといって、昨日の林檎が間違いになるわけでもない。今日の方を好きになったからといって、昨日好きだったものを嫌いだったことにする必要もない。


 職員はそんな説明をしなかったし、子供も求めなかった。


 ただ、温かい林檎をもう一切れ食べた。


 スープを飲み、パンをちぎる。


 途中で一度、窓の外を見た。


「きょう、くも」


「曇ってるね」


「あめ?」


「今のところは降らなさそうかな」


「あとで、にわ」


「行きたくなったら行こう」


「うん」


 食事は最後まで静かに進んだ。


 設備の話は出なかった。


 先生の話も出なかった。


 数の話も出なかった。


 朝食を終えた子供は自分で食器を少し前へ寄せ、それから職員を見上げた。


「アル」


「呼ぶ?」


 少し迷う。


 昨日なら、その迷いに意味を探した人間がいたかもしれない。


 今日は誰も急かさない。


「……まだ」


「分かった」


「あとで」


「うん」


 子供は椅子から降りる。


 そのまま部屋へ戻るのかと思ったが、廊下の途中で窓へ近づいた。


 曇った空の下、庭の草が朝露に濡れている。


「にわ」


「今行く?」


「うん」


「上着を持ってこようか」


「いる」


 職員が上着を取りに戻る。


 子供は窓際で待った。


 急がない。


 待っている間にも、設備のある中央棟の方を見なかった。


     ◇


 その頃、俺は塔の食堂でパンを睨んでいた。


「主様」


「分かってる」


「まだ何も申し上げておりません」


「昨日も聞いた」


「では、本日は先にお分かりいただけたということでしょうか」


「このパン、白鴉へ持っていくやつと同じ大きさ?」


「比較用のパンは別途用意しております」


「もう?」


「昨夜のうちに手配いたしました」


「仕事が早いな……」


「主様が忘れる可能性を考慮いたしました」


「信用がない」


「実績に基づく判断です」


 反論しにくい。


 俺は自分のパンをちぎり、口へ入れる。


 今日は白鴉でパンの大きさを比べる約束がある。


 保存されていた少年と、例の老人と、なぜか俺まで参加することになった。


「俺の分も別にある?」


「ございます」


「今食べてるのとは別?」


「はい」


「二回朝食?」


「比較後にすべて召し上がる必要はございません」


「ちょっと安心した」


「ただし、比較を理由に現在のお食事を残すことは認めません」


「先回りしすぎじゃない?」


「主様との生活は長いものですから」


 昨日聞いた言葉が胸に触れる。


 造られた目的。


 今のセリーが望むこと。


 外から見える行動が同じでも、その中身まで同じとは限らない。


 俺が少し黙ったせいか、セリーがこちらを見る。


「主様?」


「何でもない」


「そうですか」


「昨日の答え、今日決めた?」


「何についてでしょう」


「俺といるのが仕事だけなのかって話」


「朝食中でございます」


「昨日は夕食中だった」


「では、食事中にお尋ねになる癖がついたのでしょうか」


「違うと思う」


「改善をお願いいたします」


 かわされた。


 でも、嫌そうではない。


 たぶん。


「じゃあ後で聞く」


「私が答えたい時であれば」


「覚えてた」


「当然です」


 セリーが俺の空きかけたカップへ温かい茶を注ぐ。


 昨日より少し近い位置へ置かれた気がした。


 気がしただけかもしれない。


 そこへ意味を足すのはやめた。


『主様』


 エルの声が入る。


「旧保養施設?」


『はい。夜間監視記録がまとまりました』


 俺はパンを飲み込んでから答えた。


「聞く」


『午前二時四十三分、中央棟設備盤右側に青白色発光。二時五十二分に自然消灯。操作なし。発光継続時間は約九分です』


「九分……」


 これまでの短い発光より長い。


『午前三時十四分および十五分、西壁付近で小音を二回確認。二回目は一回目より低い音として記録されています。ただし同一音源かは未確認です』


「地下は?」


『午前零時五十六分に微弱振動、約二秒。発光および西壁音とは時間が離れています』


「第二線」


『目視上の変化なし』


「旧職員詰所」


『変化なし』


「水滴は?」


『確認されておりません』


「子供は?」


『朝まで睡眠。起床後も体調上の問題なし。設備についての発言はありません』


「発光のことは伝えてない?」


『はい』


「音も?」


『はい』


「本人から聞かれたら?」


『事実のみ回答する方針です』


「うん」


 俺は茶を一口飲む。


「右側って、前に長く光ったところと同じ?」


『位置比較上、同一箇所である可能性は高いとされています。ただし設備盤自体の内部構造が未確認のため、同一表示器であるとの確定はしておりません』


「九分光って消えた」


『はい』


「でも、それが何か一つ終わったとは書かない」


『そのように記録されています』


「子供の『数えない』とも結びつけない」


『はい』


 少し安心する。


 昨夜の話を聞いたあとなら、九分間の発光を見て「一つ終わった」と言いたくなる人間がいてもおかしくない。


 でも、設備が何を示しているのか分からない。


 子供が何を数えられていたのかも分からない。


 同じ「一つ」に見えるからといって、一つにしてはいけない。


「ガルムたちは?」


『現在、夜間記録の整理のみ行っています。追加操作はありません』


「フェリクスは?」


『起床しております』


「本、読んでないよね?」


『朝食中です』


「監視されてる?」


『ミラ様が同席しております』


「よし」


『フェリクス様より抗議が届いております』


「朝飯食えって返して」


『すでにミラ様が同内容を伝えております』


「完璧だ」


 通信が切れる。


 セリーが俺を見る。


「主様」


「うん」


「お食事を再開してくださいませ」


「……はい」


     ◇


 旧保養施設では、朝食を終えた子供が庭へ出ていた。


 上着を着て、布鞄を肩へ掛けている。


 木片は鞄の中。


 紙箱と紙の輪は部屋へ置いてきた。


 庭には夜露が残り、靴の裏が少し濡れる。


 子供は最初、それを気にして何度か足元を見ていたが、やがて低い草の間に咲いている小さな黄色い花を見つけた。


「これ」


「花だね」


「きのう、あった?」


 職員はすぐには答えなかった。


 昨日、自分がこの場所を細かく見ていたわけではない。


「私は気づかなかったな」


「なかった?」


「なかったとは言えないよ。見つけてなかっただけかもしれない」


 子供が花を見る。


「いま、ある」


「うん」


 しゃがみ込む。


 摘まない。


 指で触れもしない。


 ただ眺める。


「これ、きろくする?」


「花を?」


「うん」


「したい?」


 子供は首を傾げる。


「しなくても、ある?」


「あるよ」


「あとで、なくなったら?」


「咲き終わったらなくなるかもしれないね」


「そしたら?」


「今ここに咲いてたことまで、なかったことにはならないと思う」


 子供はしばらく花を見ていた。


 昨日、アルと話した内容を職員は知らない。


 共有されていないからだ。


 それでも偶然、似た話になった。


「じゃあ、しない」


「記録しない?」


「うん」


「分かった」


 子供は立ち上がる。


 数歩歩いてから振り返った。


 黄色い花はまだそこにある。


「でも」


「うん?」


「ぼく、おぼえる」


「それでいいと思うよ」


「わすれたら?」


「忘れることもあるよ」


「そしたら、なかった?」


「ううん。忘れても、咲いてたことは変わらないよ」


 子供は少し考え、頷いた。


 そのまま庭を歩く。


 中央棟の方向へ近づく道もある。


 職員は何も言わない。


 子供自身がどちらへ行くかを見る。


 分かれ道の前で止まった。


 右へ行けば生活棟の裏庭。


 左へ行けば、中央棟へ少し近づく。


「どっちへ行く?」


「……こっち」


 右を選ぶ。


「分かった」


 理由は聞かない。


 子供も説明しない。


 少し歩いてから、突然立ち止まる。


「ねえ」


「どうしたの?」


「アル」


「呼びたくなった?」


「……うん」


「今?」


「うん」


「分かった。伝えるね」


 子供は頷く。


「でも」


「うん?」


「ごはん、たべた?」


 職員が笑った。


「そこも聞いておく?」


「うん」


     ◇


『主様。旧保養施設より面会希望です』


「行く」


 俺は立ち上がりかけた。


「主様」


 セリーの声で止まる。


「……食べ終わってる」


「はい」


「今日は本当に食べ終わってる」


「確認いたしました」


「じゃあ何?」


「白鴉のパン比較はどうなさいますか」


「あ」


「本日の約束です」


 旧保養施設。


 白鴉。


 どちらも行きたい。


 以前の俺なら、どちらかを急いで片づけようとしたかもしれない。


「子供、急ぎ?」


『本人の体調は安定しております。「今すぐ」との発言はありません』


「面会希望を出しただけ?」


『はい』


「じゃあ本人に、白鴉で約束があるから、その後でもいいか聞いてくれる?」


『承知しました』


 少し待つ。


『回答がありました』


「何て?」


『「いい」「パン?」とのことです』


「何で知ってるの?」


『職員が、主様には先約があるとのみ説明したところ、本人から質問したそうです』


「俺がパンで約束する人間だと思われてる?」


「実際にそうでございます」


 セリーが平然と言う。


「否定できない」


『続けて、「くらべる?」と』


「……情報回ってないよね?」


『白鴉の本日の予定は共有しておりません』


「何で分かるんだ」


『不明です』


「まあ、危険じゃないからいいか」


 偶然かもしれない。


 以前、パンの大きさの話をしたことを覚えていただけかもしれない。


 そこへ謎を足さない。


「白鴉へ行って、そのあと旧保養施設」


「承知いたしました」


 セリーが包みを持つ。


「それが比較用?」


「はい」


「何個?」


「三個です」


「老人の分も?」


「白鴉側で用意されております」


「じゃあ何で三個?」


「保存されていたアルフォンス様、主様、予備でございます」


「予備?」


「比較前に主様が落とした場合に備えて」


「俺だけ事故前提なの?」


「念のためです」


「信用が……」


「実績に基づく判断です」


「朝も聞いた」


     ◇


 白鴉へ着くと、窓際の卓が妙に賑やかだった。


 保存されていた少年。


 例の老人。


 ヨアヒム。


 そして、なぜかブラットまでいる。


「何でいるの?」


「来たら捕まりました」


「誰に?」


「そちらのご老人に」


 老人が腕を組んでいる。


「立会人は多い方がいい」


「パンの大きさ比べだよね?」


「不正防止だ」


「何の不正だよ」


 少年が俺を見る。


「アル、おそい」


「約束の時間は決めてなかっただろ」


「でも、おなかすいた」


「それはごめん」


「俺は待ってないぞ」


 老人がすでに自分のパンを半分ほど食べていた。


「食べてるじゃん」


「腹が減ったからな」


「比較は?」


「食う前に測った」


「誰が?」


「こいつ」


 ブラットが無言で小さな紙を見せる。


 三つのパンの大きさが簡単な線で記録されていた。


「本当に立会人やってる……」


「断る間がありませんでした」


「ブラットも大変だな」


「殿下ほどでは」


「アル」


 少年が俺の袖を引く。


「はやく」


「はいはい」


 セリーが包みを開く。


 俺のパンと、少年のパン。


 白鴉側が用意した老人の新しいパンも並べられた。


「じいちゃん、二個目?」


「比較用だ」


「食べるんだろ?」


「食べ物を粗末にするな」


「元気だなあ」


 三つを並べる。


 大きさは、ほとんど同じだった。


 少年が真剣な顔で左右から見る。


「これ」


「どれ?」


「ぼくの、ちょっと」


「大きい?」


「……たかい」


 確かに、横幅はほぼ同じだが、少年のパンだけ中央が少し膨らんでいる。


 老人も目を細める。


「高さなら坊主だな」


「アルは?」


「俺のは?」


 ブラットが横から見る。


「横幅は殿下がわずかに広いように見えます」


「じゃあ俺も勝ち?」


「何の勝負なんですか」


「知らない」


 少年が笑う。


「みんな、ちがう」


「同じくらいに作っても、完全に同じにはならないからな」


 ヨアヒムが言う。


「焼く時に膨らみ方も変わります」


「でも、パン?」


「全部パンです」


「おなじ?」


「パンという意味では」


「ちがう?」


「形は少しずつ」


 少年が満足そうに頷く。


「じゃあ、たべる」


「結論それ?」


「うん」


 みんなでパンを食べる。


 俺は朝食を食べたばかりなので半分だけにしようとしたが、セリーの視線が刺さる。


「何?」


「残りは包んでお持ち帰りいただけます」


「分かってる」


「確認でございます」


 少年が俺を見る。


「アル、のこす?」


「後で食べる」


「きろく?」


「何で?」


「あとで、たべたって」


「そこまで記録しなくていいよ」


 少年が笑う。


 老人も笑う。


 ブラットまで口元を緩めた。


 何でも記録すればいいわけではない。


 記録しないから無かったことになるわけでもない。


 でも、残さなければ誰かに消されてしまう言葉もある。


 その違いを、俺たちは毎回考えなければならない。


 面倒だ。


 きっと、これからもずっと。


 けれど面倒だからといって、全部を一つの規則に任せれば、また誰かの「嫌だ」が消える。


     ◇


 保存されていた少年の歩行練習は、パンを食べてしばらく休んだあとに始まった。


「足は?」


 ヨアヒムが尋ねる。


「さっきより、かるい」


「歩きたい?」


「一回」


「分かりました」


 昨日の回数は聞かない。


 今日の本人が一回と言った。


 それで始める。


 少年は廊下を歩き始めた。


 俺は少し後ろ。


 前へ出ない。


 以前、窓まで先に行かないでほしいと言われたからだ。


 ただし、それも永遠の規則ではない。


 途中で少年が振り返る。


「アル」


「何?」


「となり」


「今日は隣?」


「うん」


 俺は横へ並ぶ。


「昨日は後ろだった」


「きょうは、となり」


「分かった」


 それだけでいい。


 一周の半分ほどで、少年の歩幅が少し狭くなった。


 ヨアヒムが声を掛ける前に、本人が止まる。


「やすむ」


「はい」


 壁際の椅子へ座る。


「一回、まだおわってない」


「そうですね」


「でも、やすむ」


「はい」


 少年が俺を見る。


「だめ?」


「何で?」


「一回っていった」


「一回歩くって言ったから、途中で休んじゃ駄目?」


「……わかんない」


「俺は休んでいいと思う」


 ヨアヒムも頷く。


「一周という目標と、休まず歩くことは別です。今日は途中で休んでから続きを歩いても構いません」


「やめても?」


「もちろんです」


 少年は自分の足を見る。


「ちょっとやすんで、いく」


「分かった」


 自分で決める。


 数分休んだあと、残りを歩いた。


 一周を終えたところで、二周目を聞く必要はなかった。


 少年自身が椅子へ座り、


「きょう、おわり」


 と言ったからだ。


「了解」


「アル」


「何?」


「きのうより、すくない?」


「回数は?」


「うん」


「そうかも」


「だめ?」


「全然」


「きょうは、これ」


「うん」


 少年は安心したように背もたれへ身体を預けた。


     ◇


 白鴉を出て、旧保養施設へ向かう。


 道中、セリーが俺の隣を歩いていた。


「今日は後ろじゃないんだ」


「何がでしょう」


「いつも半歩後ろにいること多いだろ」


「道幅がございますので」


「今は隣」


「不都合でしょうか」


「全然」


「では問題ございません」


 それだけ言って歩く。


 俺もそれ以上は聞かなかった。


 今、隣を歩いている。


 その事実だけで十分だった。


     ◇


 旧保養施設へ着くと、ガルムが中央棟ではなく生活区画側にいた。


「今日はこっち?」


「子供が呼んだんだからな」


「設備は?」


「逃げてない」


「朝と同じこと言ってる」


「お前が毎回聞きそうな顔するからだ」


「変化あった?」


「聞くんじゃないか」


「だって来たら気になる」


「追加変化なし。朝の記録からそのまま。フェリクスは一般的な記録欠損の調査を始めたが、本人の発言は教えてない」


「何か見つかった?」


「まだだ」


「そっか」


「先に子供へ行け」


「うん」


 生活区画へ入る。


 朝より空が暗く、廊下の窓から入る光も薄い。


 子供の部屋の前で職員から今日の様子を聞く。


 庭を歩いたこと。


 黄色い花を見つけたこと。


 花を記録するかという話になったこと。


 本人が「ぼく、おぼえる」と言ったこと。


 そして朝食後、少し時間を置いてから俺を呼んだこと。


「設備の話は?」


「本人からはありません」


「先生の話は?」


「ありません」


「分かった」


 扉を二度叩く。


「アル?」


「うん」


「はいって」


 中へ入る。


 子供は卓の前に座っていた。


 紙箱は閉じたまま。


 紙の輪は箱の横。


 布鞄は椅子の背へ掛かっている。


「来たよ」


「パン?」


「何で最初がそれなんだよ」


「くらべた?」


「比べた」


「だれ、おおきい?」


「高さはあっちのアルフォンス。横は俺かもしれない。老人は途中で食べてた」


 子供が笑う。


「たべた」


「我慢できなかったらしい」


「アルは?」


「半分食べた。残りは持って帰る」


「セリー、おこった?」


「怒ってない」


「みた?」


「見られた」


「おなじ」


「何が?」


「おこってなくても、みる」


 思わず笑った。


「よく分かってるな」


 子供は少し嬉しそうだった。


「それで、俺を呼んだのは?」


「うん」


「話したいことある?」


「ある」


「聞く」


 子供はすぐには話さず、紙箱へ手を置いた。


 昨日と同じ。


 でも今日は、蓋を押さえるのではなく、指先で縁をなぞる。


「きのう」


「うん」


「せんせい、けしたっていった」


「うん」


「のこした?」


「残した」


「だれ、みた?」


「俺とエル。ガルムとリディアとセリーには話した」


「アンナマリー?」


「まだ見せてない」


「フェリクス?」


「見せてない」


「ブラット?」


「見せてない」


 子供は頷く。


「きえない?」


「勝手には消さない」


「ぼくが、けしてっていったら?」


 予想していなかった。


「……その時は、どうして消したいか聞いてもいい?」


「なんで?」


「消したあと戻せないかもしれないから」


「ぼくのなのに?」


「お前の言葉だよ」


「じゃあ、ぼくがきめる?」


「基本はそうしたい。でも、誰かがお前に『消せ』って言わせてないかとか、お前自身が後で困らないかは確認したい」


 子供の眉が寄る。


「ぼくが、けしたいっていっても、けさない?」


「すぐには消さないかもしれない」


「なんで?」


「お前の言葉を守るために、お前の今の言葉を無視することになるかもしれないから、難しい」


 自分で言っていて、矛盾しているように聞こえる。


 子供も同じらしい。


「へん」


「うん。難しい」


「アル、わかんない?」


「全部は決められてない」


 子供は紙箱の縁をなぞる。


「せんせい」


 俺は黙って待つ。


「ぼくが、いやっていった」


「うん」


「けした」


「うん」


「そのあと」


 指が止まる。


「ぼく、いいっていった」


 胸が詰まる。


「……そっか」


「だから」


「うん」


「せんせい、ただしかった?」


 すぐには答えられなかった。


 子供は俺を見る。


 答えを待っている。


「俺は、そうは思わない」


「なんで?」


「後でお前が『いい』って言ったからって、先に『嫌だ』って言ったことが消えるわけじゃないから」


「でも、さいご、いい」


「最後の言葉だけが本物なの?」


「……わかんない」


「俺も、それだけで決めたくない」


 子供の顔が曇る。


「じゃあ、どっち?」


「両方あったんだと思う」


「いやと、いい?」


「うん」


「へん」


「昨日も似た話したな」


「きのう?」


「木片。最初は誰かに持たされた。でも今は自分で持つって決めてる」


 子供が布鞄を見る。


「うん」


「最初と後で違ってもいい」


「でも」


「うん」


「せんせい、いった」


「何て?」


 子供の声が小さくなる。


「さいごに、いいっていったから」


 少し息を吸う。


「さいしょの、いやは、まちがい」


 部屋の空気が重くなる。


 俺は膝の上で手を握りかけ、力を抜いた。


「それで消した?」


「うん」


「お前は、その時どう思った?」


 子供が黙る。


「答えたくなければいい」


「……わかんなかった」


「うん」


「いいって、いったから」


「うん」


「いやって、いったの、へん?」


「俺は変だと思わない」


「でも、せんせい」


「先生がそう言ったことと、俺がそう思うかは別だよ」


「どっちが、ただしい?」


「今すぐ一つに決めなくていい」


 子供の眉が強く寄る。


「また?」


「また」


「アル、にげる」


「少しは」


「だめ」


「でも、先生が絶対に間違ってたって俺がここで言って、お前にそれを信じろって迫ったら、今度は俺が先生と同じことをするかもしれない」


 子供が黙った。


「俺が言えるのは、お前が『嫌だ』と言った事実を、後から別のことを言ったからって消す必要はないと思うってこと」


「のこす?」


「うん」


「いいも?」


「残す」


「べつ?」


「別に」


 子供は紙箱を見つめる。


「じゃあ」


「うん」


「ぼく、さいしょ、いや」


「うん」


「あとで、いい」


「うん」


「そのあと」


 声が止まる。


 俺は待つ。


「また、いや」


 背筋に冷たいものが走った。


「それも消された?」


 子供は頷いた。


「……うん」


 俺は息を整える。


 怒るな。


 今は怒る場所じゃない。


「その次は?」


「わかんない」


「分かった。もう聞かない」


「アル」


「うん」


「いま、いやっていったら?」


「残す」


「あとで、いいっていっても?」


「残す」


「また、いやっていったら?」


「それも残す」


「いっぱいになる」


「なるな」


「へんじゃない?」


「人間の気持ちが変わるたびに残したら、いっぱいになるかも」


「めんどくさい?」


「かなり」


 子供が俺を見る。


「でも、面倒だから消していいとは思わない」


 長い沈黙のあと、子供の肩が少し下がった。


「じゃあ」


「うん」


「アンナマリー」


「見せていい?」


「うん」


「昨日の記録を?」


「うん」


「分かった」


「でも」


「何?」


「せんせいのなまえ、きかない?」


「今は聞かない」


「なんで?」


「お前が言いたくなったら聞く」


「しりたい?」


「知りたい」


「いっぱい?」


「かなり」


「でも、きかない?」


「うん」


 子供は不思議そうに俺を見る。


「アル、へん」


「今日は何回目だろ」


「かぞえない」


 一瞬、二人とも黙った。


 それから子供が先に笑った。


 俺も笑う。


「そうだった。数えない」


「うん」


 笑いが収まる。


 子供は紙箱へ視線を戻した。


「これ」


「うん」


「きょうも、あけない」


「分かった」


「でも、きのうと、ちがう」


「何が?」


「きのう、こわいから」


「今日は?」


 子供は考える。


「きょうは、まだ、あけたくない」


 似ているようで違う。


「分かった」


「きろく?」


「残していい?」


「うん」


「じゃあ、『今日はまだ開けたくない』」


「こわい、じゃない」


「うん。そう書く」


 エルが静かに記録する。


 子供がそれを確認するように腕輪を見た。


「あとで、こわくなったら?」


「その時は追加する」


「かえる?」


「前のを消さずに」


「うん」


 子供は満足したように頷いた。


     ◇


 部屋を出ると、ガルムが昨日と同じ場所で待っていた。


 俺の顔を見るなり、眉を寄せる。


「また怖い顔だぞ」


「今日は怒ってる顔かも」


「何が増えた」


「共有範囲、アンナマリーまで広がった」


「本人が?」


「うん」


「なら送る」


「それと追加」


 俺は本人が許可した部分だけを伝えた。


 最初に嫌だと言った。


 後でいいと言った。


 だから最初の拒否を間違いとして消された。


 さらに、その後もう一度嫌だと言った記録も消された。


 ガルムは最後まで黙って聞いた。


「……拒否が一回じゃない」


「本人の発言では」


「後から同意したことを理由に、前の拒否を無効扱い」


「うん」


「その後の拒否も消した」


「うん」


 ガルムの顎がわずかに強張る。


「これ、制度の変質と似てるな」


「俺も思った」


「帰還拒否を症状扱いした後年の記録」


「でも、同じ仕組みだったとはまだ言えない」


「分かってる」


「先生が制度側の人間だったかも分からない」


「分かってる」


「三〇八号室とも結びつけない」


「何回言うんだ」


「俺自身にも言ってる」


 ガルムは少し黙り、それから息を吐いた。


「アンナマリーにはそのまま送る。解釈は付けない」


「お願い」


「フェリクスは?」


「まだ伏せる」


「了解」


「一般調査は?」


「一つだけ気になるものが出た」


「何?」


「消去痕じゃない」


「じゃあ?」


「記録様式の変更だ」


 俺はガルムを見る。


「どんな?」


「フェリクスが見つけたのは別の施設の様式集だ。古い方には、本人申告欄が時系列で追加できるようになってる」


「追加?」


「最初に拒否。その後同意。その後保留。全部別行で残せる」


 今日の子供の話と重なる。


「後の様式は?」


「最終状態欄が大きくなって、途中経過欄が小さくなってる」


「……いつ頃?」


「まだ年代幅が広い。旧保養施設の様式かも分からん」


「それだけなら、単なる書式整理かもしれない」


「そうだ」


「最終状態を見やすくしたかっただけかも」


「そうだ」


「でも調べる価値はある」


「ある」


「本人の発言とは結びつけずに?」


「様式の年代変化だけ追う」


「お願い」


 ガルムが頷く。


「お前は?」


「塔へ戻る」


「中央棟見ないのか」


「見たい」


「なら?」


「見たいだけなら、今日は見なくていい」


「成長したな」


「みんな同じこと言う」


「事実だからな」


     ◇


 塔へ戻る途中で、アンナマリーから通信が入った。


『アルフォンス様』


「届いた?」


『はい。本人から共有許可が出たと確認しております』


「うん」


『まず、記録は本人発言と質問を分けたまま保管します』


「お願い」


『それから、一点だけ確認してよろしいでしょうか』


「俺に?」


『はい。本人へではありません』


「何?」


『「最初の拒否を、後の同意によって誤りとして消した」という発言についてです。本人は「記録そのものを物理的に消去した」と話したのでしょうか。それとも、「記録上は残っているが無効扱いされた」という意味でしょうか』


 俺は足を止めた。


「……そこ、聞いてない」


『では未確認ですね』


「うん。『せんせい、けした』としか」


『承知しました』


「勝手に物理消去って扱わないで」


『はい。「消した」の具体的方法・記録上の処理は未確認、とします』


「ありがとう」


『もう一つ』


「うん」


『本人へ追加確認は行いません』


「助かる」


『代わりに、既存資料側から「拒否記録の取消し」「上書き」「最終状態のみ保持」といった運用が存在したかを探します』


「本人の話を詳しく共有せずにできる?」


『検索語のみであれば』


「じゃあそれで」


『フェリクス様にも同様の検索を依頼しますか』


「一般調査としてなら」


『承知しました』


 通信を切る。


 セリーが隣から俺を見る。


「気づかなかった」


「何にでしょう」


「『消した』って、俺の中で勝手に記録そのものを消去した感じになってた」


「本人は方法まで説明しておりません」


「うん」


「お気づきになれたのであれば、訂正すればよろしいかと」


「アンナマリーが気づいた」


「それも役割を分ける利点でしょう」


「俺一人だったら危なかったな」


「主様お一人ですべてをなさる必要はございません」


「最近、それがちょっと分かってきた」


「少しだけでございますか」


「かなり」


「では、かなり進歩なさいました」


「今日は褒めるな」


「事実でございます」


     ◇


 夕方、フェリクスから最初の報告が届いた。


 ただし、本人の発言は知らない。


 依頼されたのは、古い保護施設群における記録様式の変化と、本人申告の訂正・取消し処理の一般調査だけだった。


『興味深いものがあります』


「その言い方すると不安になる」


『なぜですか』


「開けたくなるから」


『今回は書類です』


「なら聞く」


『同じ設計局の様式集に、三段階の改訂が確認できます』


「三段階?」


『最古のものでは、本人申告欄が追記式です。拒否、保留、同意、再拒否など、時間順に追加する形式です』


「ガルムから聞いた」


『次の様式では、追記欄に加えて「現在意思」という欄が追加されています』


「現在意思」


『はい。過去記録を残したまま、今の意思を見やすくする目的と推測されます』


「そこまでは悪くないな」


『私もそう考えます。ただし目的は明記されていません』


「その言い方大事」


『学習しております』


「三つ目は?」


 通信の向こうで紙をめくる音がした。


『さらに後の様式では、「現在意思」が「最終判定」へ名称変更されています』


「判定?」


『はい』


「本人意思じゃなく?」


『欄の位置は同じです。しかし記入者欄が追加され、本人以外の職員が記入できる形式になっています』


 俺は黙る。


『ただし、この変更だけで本人意思が無視されたとは言えません』


「うん」


『医療判断や安全判断を含む総合欄になった可能性もあります』


「その前後の手引きは?」


『現在確認中です』


「今日は何冊目?」


『これは様式集なので――』


「何冊目?」


『……二冊目です』


「終わり」


『まだ夕方です』


「二冊」


『付録が』


「含む」


『やはりですか』


「明日」


『ガルム隊長と同じことを』


「連携取れてるだろ」


 通信の向こうで深いため息が聞こえた。


『では最後に一点だけ』


「何?」


『三つ目の様式の欄外に、短い注意があります』


「読んで」


『「過去申告は削除せず、最終判定との不一致を異常とみなさないこと」』


 俺は目を閉じた。


「……まだ、その時点では残す考えがある」


『はい』


「不一致も異常扱いするなって」


『はい』


「じゃあ、その後に何か変わった可能性がある」


『あるいは、施設ごとに運用差があった可能性も』


「うん」


『続きを――』


「明日」


『……はい』


 通信を切る。


「強くなったな、俺」


「何がでしょう」


「フェリクスを止められる」


「ガルム様のご苦労がお分かりになりましたか」


「かなり」


     ◇


 夜。


 旧保養施設では、いつも通り監視が続いた。


 新しい操作はしない。


 子供へ設備情報を伝えない。


 本人が数えたくないと言ったからといって、監視記録を曖昧にもしない。


 安全のための記録と、本人へ数を背負わせることは別だった。


 中央棟。


 西壁。


 第二線。


 旧職員詰所。


 地下振動。


 それぞれを別々に見る。


 午後十時。


 変化なし。


 十一時十二分。


 地下にごく弱い振動。


 一秒未満。


 他設備との同時変化なし。


 日付が変わる。


 午前零時三十一分。


 中央棟発光なし。


 西壁音なし。


 一時四分。


 第二線目視変化なし。


 一時五十二分。


 中央棟設備盤右側に青白色発光。


 弱い。


 操作なし。


 一時五十四分。


 継続。


 一時五十七分。


 継続。


 二時一分。


 継続。


 二時六分。


 わずかに弱まる。


 二時八分。


 消灯。


 監視者は時刻だけを記録した。


 前夜より長い。


 それ以上の意味は書かない。


 二時二十九分。


 西壁付近で一度だけ小さな音。


 乾いた木片が触れるような短い音。


 同時刻、第二線に目視変化なし。


 二時四十分。


 旧職員詰所表示に変化なし。


 三時。


 変化なし。


 三時三十八分。


 生活区画で、名前の分からない子供が一度目を覚ました。


 水を飲む。


 職員が声を掛ける。


「大丈夫?」


「うん」


「痛いところは?」


「ない」


「怖い?」


 子供は少し考える。


「……ちょっと」


「そばにいる?」


「うん」


 職員は椅子を少し近づける。


 設備の話はしない。


 子供も聞かない。


 しばらくして、子供が布団の中から小さく言った。


「ねえ」


「うん?」


「いやって」


「うん」


「いっても、いい?」


 職員は一瞬だけ言葉を選んだ。


「いいよ」


「あとで、かわっても?」


「いいよ」


「また、かわっても?」


「いいよ」


「いっぱいでも?」


「いいよ」


 子供は目を閉じた。


「……よかった」


 数分後、呼吸がゆっくりになる。


 再び眠った。


 職員はその言葉を、本人の生活記録へ残した。


 設備記録とは別に。


 発光とも結びつけず。


 西壁の音とも結びつけず。


 ただ、夜中に目を覚ました子供が、自分の言葉を何度変えてもいいのか確かめたこととして。


     ◇


 朝。


 俺はその記録を、朝食の席で読んだ。


「主様」


「食べてる」


「まだ何も」


「先に言っとく」


「そうですか」


 パンを一口食べる。


 記録をもう一度見る。


 嫌と言ってもいい。


 後で変わってもいい。


 また変わってもいい。


 いっぱいでもいい。


「エル」


『はい』


「この記録、本人が起きたら共有範囲確認して」


『承知しました』


「今は生活担当と俺だけ?」


『夜間担当者、医療担当者、主様、私のみです』


「ガルムたちにもまだ?」


『はい』


「本人に聞いてから」


『承知しました』


 セリーが向かい側ではなく、今日も隣の席へ座る。


 俺は横を見る。


「そこ定位置になった?」


「不都合でしょうか」


「全然」


「では」


 彼女は自分の茶を飲む。


「昨日の答え」


「主様」


「食事中」


「はい」


「分かってる」


「では、なぜお尋ねになるのでしょう」


「聞きたくなったから」


 セリーは少しだけ考える。


「私も」


「うん?」


「昨日より、本日はここへ座りたいと思いました」


 俺は隣の椅子を見る。


「それ、答え?」


「一部でございます」


「昨日は?」


「昨日も、そう思っていたかもしれません」


「かもしれない?」


「明確に区別しておりませんでした」


「今日は?」


「今日は、自分で選んだと認識しております」


 胸が温かくなる。


「そっか」


「はい」


「明日は?」


 セリーが俺を見る。


「明日の私にお尋ねくださいませ」


 思わず笑った。


「便利だろ、その言葉」


「主様の影響かもしれません」


「悪くない影響?」


「それも、今後判断いたします」


「厳しいな」


 朝の光が窓から差し込む。


 旧保養施設では、まだ分からない設備が眠ったり光ったりしている。


 西壁の向こうには、開けていない場所がある。


 名前の分からない子供には、消されたと本人が語る拒否があり、まだ話していない過去がある。


 帰還管理所にも、王宮にも、白鴉にも、答えの出ていないことは山ほど残っていた。


 それでも。


 嫌だと言ったあとで、いいと言ってもいい。


 いいと言ったあとで、また嫌だと言ってもいい。


 昨日選んだことを、今日選び直していい。


 誰かに持たされたものを、今日になって自分で持つと決めてもいいし、明日になって手放したいと思ってもいい。


 本人のために誰かが決める必要がある時もある。


 けれど、その決定を本人の願いだったことにしてはいけない。


 そして、本人が後から同じ場所へ辿り着いたとしても、途中にあった拒否や迷いまで消してはいけない。


「主様」


「うん」


「また止まっております」


 手元を見る。


 パンを持ったままだった。


「考えてた」


「存じております」


「食べる」


「はい」


 パンを口へ運ぶ。


 今日は今日の朝食を食べる。


 昨日と同じように見えても、昨日の続きとして自動的に決められた朝ではない。


 たぶん、自由というのは大きな扉を一度開けることだけじゃない。


 こんなふうに、何度でも小さく選び直せることなのだと思った。

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