第79話 壁の向こうを確かめる前に、壁のこちら側で分かることを集めました
旧保養施設の中央棟西壁と、古い図面に残された細い設備路の起点候補が重なるかもしれない。
その報告を聞いても、俺は朝食を途中で切り上げなかった。
正確には、切り上げさせてもらえなかった。
「主様。残っております」
「分かってる」
スープの底には豆が三粒ほど沈んでいた。
匙ですくって口へ運ぶと、向かいに座っているセリーが小さく頷く。まるで大仕事を終えたような扱いだが、俺が考え事を始めると食事を止めることを知っている以上、反論しにくい。
「これで全部」
「はい。確認いたしました」
「そこまで確認する?」
「昨日、旧保養施設のお子様にも確認されておりましたので」
「味方が増えてるな」
「主様の健康を気遣う方が増えることは、望ましいことかと存じます」
食後の茶へ手を伸ばしながら、エルが浮かべている簡略図を見る。
現在の中央棟。
西側廊下。
壁。
そして、古い図面上にだけ存在する細い設備路。
重ね合わせると、確かに起点らしき位置が西壁付近へ来る。
ただし、建物は何度も改修されている。
壁そのものが昔と同じ位置とは限らないし、図面の縮尺にもわずかな誤差がある。設備路が実際に造られたのか、途中で廃止されたのか、現在まで残っているのかも分からない。
「リディアは?」
『現在、ガルム隊長とともに旧図面の寸法確認を継続しております。壁への接触、走査、魔力注入は行っておりません』
「フェリクスは?」
『壁から二歩離れた位置で観察中です』
「二歩?」
『ガルム隊長による指定です』
「信用されてないな」
『本人は「見るだけなら一歩でも同じでは」と主張しました』
「ガルムは?」
『「お前の場合は違う」と』
「分かる」
思わず笑う。
それから茶を一口飲んだ。
「俺、行く必要ある?」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
以前なら、報告を受けた時点で向かっていただろう。
壁の位置が古い設備路と重なるかもしれない。
夜中にその壁付近から音がした。
子供は西寄りを見て「開けないで」と言った。
これだけ揃えば、自分の目で確かめたいと思う。
今も思っている。
でも、それと俺が現地にいる必要があるかは別だった。
「セリーはどう思う?」
「私が決めることでしょうか」
「意見」
「現在の作業内容に、主様ご本人でなければ行えないものはないと考えます」
「だよな」
「ただし」
「うん?」
「行きたいのであれば、行ってはいけない理由もございません」
少し考える。
「……行きたい」
「はい」
「でも今すぐじゃなくていい」
「では?」
「午前中は塔で昨日までの記録を整理する。向こうで新しい変化がなければ、昼前くらいに行く」
「承知いたしました」
エルへ伝える。
ガルムから返ってきた答えは短かった。
『こっちは逃げない。飯食ってから来い』
「もう食べたよ」
『なら仕事してから来い』
「何か腹立つな」
『正常だ』
通信が切れる。
セリーが静かに茶を足した。
「信頼されておられますね」
「雑に扱われてるだけじゃない?」
「両立するのではないでしょうか」
「それは否定できない」
窓の外では、朝の光が塔の庭へ落ちている。
旧保養施設の壁は、ここからは見えない。
だからこそ、今見えているものから始めることにした。
◇
塔の記録室には、古い施設から持ち帰った原本は置かれていない。
証拠や原資料はそれぞれの保管場所に残し、エルが許可された範囲で作成した写しと記録だけが並んでいる。アンナマリーが整理した索引も加わり、以前よりずっと探しやすくなっていた。
俺一人で抱えていた頃とは違う。
「主様、どこからご覧になりますか?」
「西補助受所そのものより、設備路」
『承知しました』
「でも『西』だけで探さないで。似た構造が別の施設にあるかもしれない」
『検索範囲を同時代の療養・保護施設設備記録へ拡張します』
「広げすぎ?」
『件数は多くなります』
「じゃあ、細い設備路、受所、代替接続、この三つが近い文書を優先」
『検索します』
エルが候補を絞っている間、俺は昨日の記録を読み直した。
応答遅延のみを理由とした代替切替は禁止。
北受所の機能停止が確認され、復旧不能と判断された場合に西補助受所の使用条件が生じる。
代替接続実施時には、旧受側から遅れて応答が返る可能性に注意する。
もし切替後に旧受側から応答が届いても、慌ててどちらかを切らず、双方の状態を確認してから処置を判断する。
慎重すぎるほど慎重な手順だ。
それは、作った人間たちが何かを恐れていたからなのかもしれない。
だが、何を恐れていたのかはまだ分からない。
『候補が七件あります』
「七件」
『うち、設備路に相当する語が明確なものは三件です』
「見せて」
一件目は王都近郊の療養施設。
受所そのものではなく、離れた治療棟同士を結ぶ設備だった。
細い補助路は、主系統が停止した時に記録だけを送るためのもの。
「人を送る線じゃない」
『少なくとも、この記録では情報伝達用です』
「次」
二件目は古い保護施設。
こちらは魔力供給路。
補助受所という言葉は出るが、物資受け取り設備を指しているらしい。
「同じ言葉でも違うな」
『はい』
三件目。
紙面を見た瞬間、俺は少し姿勢を変えた。
「これ……」
『旧保養施設と同じ設計局の印があります』
完全に同じ施設ではない。
場所も違う。
けれど年代が近く、設計を担当した部署が同じだった。
「読める?」
『大部分は』
設備図の端に細い線がある。
主線とは別。
受所と中央管理室の間を直接結ばず、途中に小さな箱形記号を挟んでいる。
「中間保持箱?」
『この図面では「中間待機器」と記載されています』
「名前が違う」
『はい』
説明欄を読む。
――受側確認未了時、主線の状態を維持したまま、確認要求のみを待機器へ保持。
「確認要求?」
さらに読む。
――受側応答後、待機器内の要求状態を解除。
「人や物を保持する箱じゃない?」
『この設備に限れば、そのように読めます』
「要求を保持する?」
『はい』
頭の中で、箱という言葉から勝手に想像していた形が少し崩れる。
何かが入っている箱。
人が閉じ込められる箱。
物を保管する箱。
でも、古い魔導設備なら、保持するものが物体とは限らない。
「続きは?」
次の行。
――複数要求の同時保持を禁ず。
「複数?」
『はい』
「理由は?」
紙の下半分が傷んでいる。
それでも数語だけ残っていた。
――識別混同を避けるため。
「識別混同……」
俺は椅子の背へ身体を預けた。
急に危険な言葉へ見えてしまう。
誰の識別。
何の識別。
人なのか、設備なのか。
「エル。この『要求』って、人の意思?」
『この文書だけでは判定できません』
「だよな」
要求という言葉に引っ張られてはいけない。
機械が接続を求める信号でも要求と呼べる。
職員が操作した確認依頼かもしれない。
患者本人の意思とは限らない。
「これ、ガルムたちへ共有」
『はい』
「ただし、旧保養施設の中間保持箱と同じ機械だとは書かないで」
『原資料と比較候補として分離します』
「アンナマリーにも」
『共有します』
少しして、彼女から返事が来た。
『同じ設計局の別施設なら比較価値はあります。ただし名称が異なる以上、機能継承の証拠が欲しいです。設計標準の改訂記録を探します』
「早いな」
『アンナマリー様はすでに関連索引を確認されていたようです』
「俺より働いてない?」
『比較はいたしません』
「優しいな」
もう一度図面を見る。
中間待機器。
確認要求を保持。
受側応答後に解除。
複数同時保持は禁止。
識別混同を避ける。
もし旧保養施設の中間保持箱も似たものなら。
そこまで考えて止める。
似たものなら、の先はまだいらない。
◇
午前十時を少し回った頃、白鴉からも短い報告が入った。
保存されていた少年は、歩行練習を一往復で終えた。
身体的には二往復目も可能だったが、本人が「今日は一回でいい」と言ったらしい。
三〇八号室の少年は白い薬を同じ量で維持。
体調変化なし。
手紙は読んでいない。
外へ出るかは昼に決める。
大きな変化はない。
それが妙に安心した。
「エル」
『はい』
「俺がいなくても普通に進んでるな」
『はい』
「前ならちょっと寂しかったかも」
『現在は?』
「ちょっとだけ寂しい」
『そうですか』
「否定しないんだ」
『寂しさを否定する必要はないと判断します』
「……それ、セリーに教わった?」
『回答を控えます』
「絶対そうだろ」
記録室の入口を見ると、セリーがちょうど茶を持って立っていた。
「何のお話でしょうか」
「何でもない」
「左様ですか」
何となく負けた気がした。
◇
昼前に旧保養施設へ着くと、中央棟の西側廊下には小さな机が一つ置かれていた。
壁を調べる道具ではない。
図面と現在の寸法を書き比べるための机だ。
リディアが測った廊下幅や窓位置を記録し、ガルムが古図面との照合結果を確認している。
そしてフェリクスは、本当に壁から二歩離れた位置にいた。
「まだ二歩?」
「私の自主的判断です」
「嘘つけ」
「途中からです」
「途中?」
ガルムが顔も上げずに答えた。
「一歩半まで寄ったから戻した」
「半歩くらい」
「駄目だ」
「触れていません」
「そのうち触る顔してた」
「顔で判断されるのは不当では?」
「俺も最近される」
フェリクスがこちらを見る。
「仲間ですね」
「嫌だ」
リディアが笑いを堪えながら図面を差し出す。
「アルさん、こちらを」
「うん」
「現在の西壁そのものは、少なくとも表面材が後世のものです」
「改装されてる?」
「はい。現在見えている石材は、古図面の時代より新しいと考えられます」
「じゃあ、昔の壁が奥にある可能性は?」
「あります。ただし確認するには壊す必要があります」
「壊さない」
「はい」
「床は?」
「同じです。現在の床石も後世の補修を受けています」
「じゃあ今見える範囲だけじゃ、設備路が残ってるか分からない」
「その通りです」
俺は壁を見る。
何の変哲もない石壁だ。
昨日の夜、この辺りから二度、小さな音がした。
カチ、と。
今は何も聞こえない。
「近づいていい?」
ガルムが俺を見る。
「見るだけなら」
「何歩?」
「お前は一歩でもいい」
「差別だ」
後ろからフェリクスの声がした。
「日頃の行い」
「アル殿に言われたくありません」
「何でだよ」
壁の一歩手前まで行く。
触れない。
耳もつけない。
ただ見る。
石の継ぎ目。
古い漆喰。
床との境。
何か特別なものがあるようには見えない。
「昨日の音の位置は?」
リディアが床へ置いた小さな木札を示す。
「記録上はこの周辺です。ただし監視者が音だけで推定したため、幅があります」
壁沿いに一間ほど。
かなり広い。
「点じゃないんだ」
「はい」
「なら『ここから鳴った』とも言えない」
「言えません」
俺は一歩下がった。
「終わり」
フェリクスが驚いた顔をする。
「もう?」
「見るだけって言っただろ」
「もう少し観察しても」
「何が見える?」
「……石材」
「見た」
「継ぎ目」
「見た」
「漆喰の厚さ」
「触らないと分からないだろ」
「だから私は何も申し上げておりません」
「顔に出てる」
ガルムとリディアが同時に笑った。
「流行らせないでください」
フェリクスは不満そうだった。
◇
中央棟の別室へ移り、塔で見つけた比較資料を共有する。
同じ設計局。
中間待機器。
確認要求を保持。
受側応答後に解除。
複数要求の同時保持禁止。
識別混同回避。
フェリクスは案の定、食いついた。
「これは重要です」
「比較資料としてはな」
「旧保養施設の中間保持箱も同系統であれば――」
「同系統なら、だよ」
「分かっています」
「名前違う」
「はい」
「年代も完全一致じゃない」
「数年差です」
「数年あれば設計変わるだろ」
「だからこそ改訂記録が欲しいのです」
「それはアンナマリーが探してる」
「素晴らしい」
ガルムが腕を組む。
「確認要求ってのは何だ?」
「それが分かりません」
フェリクスが素直に答えた。
「人間の帰還希望?」
「可能性は否定できませんが、そう書かれてはいません」
「職員の確認依頼?」
「あり得ます」
「設備同士の信号?」
「それも」
「じゃあまだ何でもありだな」
「はい」
リディアが別の箇所を指す。
「私は『複数要求の同時保持を禁ず』の方が気になります」
「何で?」
「もし純粋な設備信号なら、複数を識別できるよう設計すれば済むようにも思えます」
フェリクスが首を傾ける。
「当時の技術的限界かもしれません」
「もちろんです。ただ、わざわざ『識別混同を避けるため』と書いてある」
「混同すると困る対象がある」
俺が言うと、リディアが頷いた。
「はい。ただし、それが人とは限りません」
「荷物でも困る」
「薬品でも」
「転送先でも」
「魔力波形でも」
いくらでも候補が出る。
だから一つに決めない。
「旧保養施設の箱側表示は、受所側確認未了、接続先応答待ち、保持器状態不一致なんかで残る可能性があった」
俺は以前の記録を思い出す。
「もし箱が何かの要求状態を保持するなら、表示が消えるのは……」
「保持解除後、という可能性はあります」
フェリクスが続ける。
「でも証明は?」
「ありません」
「じゃあ候補」
「はい」
「中央棟の青白い光は?」
「箱側表示とは確認されていません」
「うん」
「昨夜二か所光ったことも、二つの要求を意味するとは限りません」
「うん」
「子供の『きた。でも、べつ』とも――」
「繋げない」
「はい」
全員で一度、線を切る。
それが必要だった。
◇
「アル、きた?」
生活区画へ顔を出すと、子供は庭にいた。
小さな敷布の上に座り、葉を並べている。
職員が少し離れて見守っていた。
「来たよ」
「セリーは?」
「今日は塔」
「おしごと?」
「たぶん俺の分まで」
「アル、さぼった?」
「違う」
職員が吹き出す。
「違うからな」
「ほんと?」
「本当」
子供は疑わしそうに俺を見る。
「ごはんは?」
「食べた」
「ぜんぶ?」
「全部」
「よし」
「何で毎回確認されるんだ」
俺が敷布の端を指す。
「ここ座っていい?」
「うん」
靴の土を軽く落としてから座る。
今日は風が弱い。
日向は暖かいが、木陰へ入るとまだ少し涼しかった。
子供の前には葉が四枚ある。
「何してる?」
「ならべる」
「どうやって?」
「おおきいの」
左に大きな葉。
「ちいさいの」
右に小さな葉。
残り二枚は中間。
「順番?」
「うん」
「俺もやっていい?」
子供が周囲を見る。
少し離れたところに落ち葉がある。
「あれ」
「取ってくる?」
「うん」
拾って戻る。
俺の葉は、子供の四枚より少し細長い。
「どこ?」
子供が聞く。
「大きさなら、この辺?」
二枚目と三枚目の間へ置こうとする。
「ちがう」
「え?」
「ながい」
「ああ」
「おおきい、ちがう」
「長いけど、幅は細い?」
「うん」
「じゃあこの並べ方じゃ決められないな」
子供は五枚の葉を見つめる。
「べつ」
「別にする?」
「うん」
俺の葉だけ少し下へ置かれた。
「仲間外れにされた」
「ちがう」
「冗談」
「ながいの」
「長い組?」
「うん」
子供がもう一枚、細長い葉を拾いに行く。
戻ってくると俺の葉の隣へ置いた。
「ふたつ」
「二枚だな」
子供の手が止まる。
少しだけ表情が固くなった。
俺はすぐに言葉を変える。
「ごめん。数えなくていい」
子供が俺を見る。
「うん」
「葉っぱは数えてもいい?」
少し考える。
「はっぱは、いい」
「じゃあ何を数えない?」
聞いてから、しまったと思った。
子供の目がわずかに下がる。
「ごめん。今のなし」
「アル」
「うん」
「ききたい?」
「聞きたい」
「でも、やめた?」
「うん」
「なんで?」
「お前が『数えない』って言ったものを、俺が勝手に数える形になりそうだったから」
子供は葉を触る。
「はっぱ、いい」
「うん」
「おかしも」
「数えてたな」
「アル、にこ」
「それは忘れていい」
「セリー、いっこ」
「覚えてるじゃん」
子供が笑う。
緊張が抜ける。
「でも」
自分から続けた。
「きたの、かぞえない」
俺は黙って待つ。
「なんで?」
聞いていいのか迷う。
子供がこちらを見る。
「きいていい」
「じゃあ聞く。何で数えないの?」
子供はすぐには答えなかった。
並べた葉を一枚ずつ動かす。
大きい葉。
小さい葉。
細長い葉。
形が違う。
「べつだから」
「別だから?」
「うん」
「同じものじゃない?」
「うん」
昨日の「きた。でも、べつ」。
俺は反応を抑える。
「違うものを一緒に数えたくない?」
子供は眉を寄せる。
「……わかんない」
「ごめん。言い方が難しかった」
俺は葉を指す。
「この丸い葉と、この細長い葉を『二枚』って数えることはできる。でも、お前は今、別に並べた」
「うん」
「来たものも、そんな感じ?」
誘導してしまったかもしれない。
子供は長く考えた。
そして首を横へ振った。
「ちょっと、ちがう」
「そっか」
「でも、べつ」
「分かった」
「いっしょにすると」
子供の指が止まる。
「うん」
「……まちがう」
風が一度、庭を抜けた。
葉の端が揺れる。
俺は動かなかった。
「間違う?」
「うん」
「何を?」
子供は唇を結ぶ。
しばらくして首を振った。
「わかんない」
「分かった」
「でも、まちがう」
「うん」
それ以上は聞かない。
子供はまた葉を並べ始める。
丸いものと細長いもの。
大きいものと小さいもの。
同じ葉でも、分け方はいくつもある。
数だけなら全部で何枚とまとめられる。
でも、それで大事な違いが消えることもある。
「アル」
「何?」
「あけた?」
心臓が一度強く打つ。
「何を?」
「あっち」
子供は西側を見る。
「開けてない」
「ほんと?」
「ほんと」
「かべ?」
初めて、子供の口から壁という言葉が出た。
「壁のこと?」
「うん」
「開けてないよ」
「さわった?」
「触ってない」
「みた?」
「見た」
子供が俺を見る。
「みるだけ?」
「見るだけ」
「フェリクス?」
「二歩離れて見てた」
子供の口元が少し動く。
「にほ?」
「ガルムに近づきすぎるなって言われてた」
「さわる?」
「触りたそうだった」
「だめ」
「だよな」
「アルは?」
「一歩まで行った」
「さわった?」
「触ってない」
「えらい」
「今日二回目だな、それ」
子供は少し笑う。
でもすぐに西側を見る。
「まだ、あけない」
「うん」
「まだ」
「分かった」
「あとで」
俺はその言葉を聞き逃さなかった。
「後なら開けていい?」
子供は困った顔をした。
「……わかんない」
「そうだよな。今は開けない。それだけにしよう」
「うん」
「後のことは後で決める」
「うん」
子供はまた葉へ戻った。
俺も西側を見ない。
今は。
◇
生活区画を出たあと、俺はガルムへ子供の言葉をそのまま伝えた。
「『いっしょにすると、まちがう』か」
「うん」
「何を、は分からない」
「うん」
「壁って本人から言った」
「そこは初めてだな」
「でも開ける理由にはしない」
「むしろ逆だ」
「『まだ、あけない』」
「なら開けない」
簡単だ。
ガルムは記録用紙へ追記する。
「問題は、どこまで本人が知ってるかだな」
「昔見た?」
「可能性」
「設備の近くにいた?」
「可能性」
「誰かに教えられた?」
「可能性」
「何か感じてる?」
「可能性」
「全部可能性だな」
「今はな」
ガルムは筆を置く。
「だから壁はそのままだ」
「うん」
「ところで」
「何?」
「フェリクスが三冊要求してる」
「二冊」
「だよな」
「何で俺に確認した?」
「一応」
少し離れたところから声が飛んでくる。
「聞こえています!」
「二冊な!」
「せめて二冊半!」
「半分に切る気か!」
「薄い冊子を――」
「二冊!」
施設の職員が笑いを堪えていた。
こういう声が響く場所になったことを、俺は少しだけ嬉しく思った。
◇
夕方、塔へ戻るとアンナマリーが来ていた。
机には数枚の写しが広げられている。
「見つかった?」
「完全なものではありません」
「最近みんな最初にそれ言うな」
「完全だと思い込まれたくないので」
「俺そんなに信用ない?」
「好奇心については」
「……否定できない」
椅子へ座る。
アンナマリーは同じ設計局の標準設備改訂記録を示した。
「『中間待機器』という名称は、後年に『中間保持器』へ変更されています」
「保持箱じゃなくて、保持器?」
「この資料では」
「時期は?」
「旧保養施設の北受所閉鎖より少し前です」
読む。
改訂理由。
――機能拡張に伴い名称変更。
「機能拡張?」
「その内容が欠けています」
「肝心なところが」
「ただし、別頁に旧称と新称の対照があります」
中間待機器。
中間保持器。
そのさらに後。
中間保持箱。
「繋がった?」
「名称の系譜としては」
アンナマリーは慎重に言う。
「同じ設計局内で、同系統の設備名称が変化した可能性は高まりました。ただし、旧保養施設に設置されたものが、この標準仕様と完全に同一とは限りません」
「うん」
「もう一つ」
次の紙。
――保持器改訂時、識別欄を二系統化。
「二系統?」
「はい」
その下。
――受側識別。
――要求元識別。
俺は息を止めた。
「別々に識別する?」
「そのようです」
「前の設備で『識別混同』が問題になってた」
「はい」
「だから分けた?」
「可能性があります」
「理由は書いてない?」
「直接は」
さらに下に短い注意書き。
――異なる要求元を同一保持状態として扱わないこと。
「……これ」
「はい」
アンナマリーも同じところを見ていた。
「異なるものを一緒にするな」
「そう読めます」
庭で子供が言った言葉が蘇る。
いっしょにすると、まちがう。
俺は無意識に紙へ近づきかけ、止まった。
「似てる」
「ええ」
「でも子供がこれを知ってる証拠はない」
「ありません」
「同じ設備を指してる証拠も」
「まだありません」
「……それでも似てるな」
「はい」
アンナマリーは否定しなかった。
似ていることまで否定する必要はない。
ただ、似ていることを同一の証明にしなければいい。
「要求元って何?」
「資料上では定義が見つかっていません」
「人?」
「分かりません」
「部屋?」
「あり得ます」
「設備?」
「それも」
「帰還希望者?」
「そこまでは言えません」
「だよな」
アンナマリーはさらに一枚出した。
「こちらは改訂後の点検票です」
受側識別。
要求元識別。
保持状態。
三項目。
俺の視線が止まる。
「三つ」
「はい」
三窓式表示器のラベル。
受所側確認。
接続先応答。
保持状態。
完全には同じではない。
「対応してる?」
「似ていますが、用語が違います」
「同じ設計局?」
「はい」
「年代は?」
「少し後です」
「じゃあ三窓式の元になった可能性?」
「候補にはできます」
「確定は?」
「できません」
「うん」
俺は椅子へ背を預ける。
少しずつ、設備の考え方が見えてきた気がする。
受ける側。
要求する側。
その間で保持されている状態。
一つの箱の中で全部を混ぜない。
別々に識別する。
応答が遅れても勝手に代替へ切り替えない。
別の要求元を同じものとして扱わない。
でも。
「人間の話じゃないかもしれない」
「はい」
「ここ大事だな」
「ええ」
「設備の設計思想が、たまたま俺たちが今やってることに似てるだけかもしれない」
「それでも興味深いとは思います」
「アンナマリーが興味深いって言うの珍しいな」
「私も人間ですよ」
「ごめん」
少し笑う。
彼女も笑った。
「アルフォンス様」
「ん?」
「一つだけ」
「何?」
「この資料を、あの子へ見せるおつもりは?」
「ない」
即答だった。
「今は」
「理由を伺っても?」
「本人の言葉が変わるから」
「はい」
「『二系統』『要求元』『受側』なんて見せたら、次に何か言った時、それが本人の記憶なのか、今日見た言葉なのか分からなくなる」
「私も同意見です」
「本人が知りたいって言ったら?」
「その時に考えますか」
「うん。危険がなければ、隠し続ける理由もない。でも今は、こっちが答え合わせしたいだけだから」
アンナマリーは静かに頷いた。
「以前のあなたなら、もっと早く答えを求めていたかもしれませんね」
「それ、ガルムにも言われる」
「嫌でしたか?」
「いや」
窓の外を見る。
夕方の光が塔の壁を赤く染めている。
「昔は、分からないままにしておくのが怖かったんだと思う」
「今は?」
「怖いよ」
素直に答える。
「でも、怖いからって決める方が、もっと怖い」
アンナマリーはしばらく何も言わなかった。
「そうですね」
それだけだった。
でも、その短い返事で十分だった。
◇
夜。
旧保養施設の監視は、前夜と同じ条件で始まった。
設備へ触れない。
西壁を開けない。
第二線を動かさない。
西補助受所を探すための刺激をしない。
ただ記録する。
午後十一時。
変化なし。
日付が変わる。
生活区画の子供は眠っている。
紙箱は卓。
紙の輪は箱の外。
本人がそう置いた。
午前一時。
変化なし。
一時四十一分。
地下からごく弱い振動。
約一秒。
前夜より短い。
中央棟発光なし。
西壁音なし。
二時。
変化なし。
二時半。
変化なし。
三時。
何も起きない。
監視者の一人が時刻を書き込む。
三時二十分。
変化なし。
三時四十分。
変化なし。
前夜までなら、青白い光が現れていた時間帯を過ぎていく。
四時。
何もない。
四時十五分。
何もない。
四時三十七分。
西壁付近から、ごく小さな音。
カチ。
一度だけ。
監視者たちが顔を上げる。
「記録」
「発光なし」
「振動?」
「なし」
「旧職員詰所?」
「変化なし」
誰も近づかない。
四時四十分。
変化なし。
四時五十分。
変化なし。
五時。
何も起きない。
結局、その夜に青白い光は一度も現れなかった。
◇
朝。
名前の分からない子供は、窓から入る光で目を覚ました。
職員が水を用意する。
「おはよう」
「おはよう」
「眠れた?」
「うん」
水を飲む。
身体の具合を聞くと、痛みも苦しさもないと言う。
子供は卓を見る。
紙箱。
その横の紙の輪。
昨日と同じ位置。
箱の蓋へ触れる。
開けない。
輪も動かさない。
「きょう」
職員は待つ。
「こなかった」
小さな声だった。
「そう感じる?」
「うん」
「怖い?」
「……ちょっと」
「今ここにいたくない?」
「いる」
「誰か呼ぶ?」
子供は少し考える。
「アル」
「アルを呼ぶ?」
「まだ」
また少し考える。
「ごはん、あと」
「朝ごはんの後?」
「うん」
「分かった」
職員はそれだけ確認する。
子供は窓の外を見る。
西側ではない。
正面の庭。
朝露に濡れた草が光っている。
「こなかった」
もう一度言う。
そして、今度は少し違う言葉を続けた。
「でも、なくなってない」
職員の手が止まる。
子供は紙箱へ触れる。
だが、それが箱のことを指しているのかは分からない。
「なくなってない?」
「うん」
「何が?」
子供は首を横へ振った。
「わかんない」
「分かった」
「でも、ある」
「うん」
「まってる」
職員は息を整えた。
「誰が待ってるの?」
子供は少し困った顔をする。
「……ちがう」
「ごめん。聞き方が違った?」
「うん」
「じゃあ、今の質問はなしにするね」
「うん」
子供は安心したように窓へ視線を戻した。
しばらくして、自分から言う。
「ぼくが、まつ」
職員は何も足さない。
「分かった」
「きょうは」
「今日は待つ?」
「うん」
紙箱の蓋から手を離す。
「きょうは、あけない」
「分かった」
子供はそこで話を終えた。
朝食の匂いが廊下から漂ってくる。
「今日、焼いた林檎ある?」
「あるよ」
「おおきい?」
「昨日と同じくらいだと思う」
「みる」
「うん」
子供は寝台を降りた。
待つと決めた朝も、腹は減る。
それでよかった。
◇
俺のところへ報告が届いたのは、ちょうど朝食が始まった頃だった。
『主様。旧保養施設からです』
「うん」
『昨夜、中央棟で青白い発光は確認されませんでした。西壁付近で午前四時三十七分に小音一回。地下微弱振動は午前一時四十一分に一回。相互の時間的一致はありません』
「子供は?」
『起床後、自発的に「きょう、こなかった」と発言』
俺はパンを持ったまま待つ。
『続けて、「でも、なくなってない」「でも、ある」と発言しております』
「それから?」
『職員の「誰が待ってるの?」という質問には「ちがう」と返答。質問を撤回後、自発的に「ぼくが、まつ」「きょうは」「きょうは、あけない」と発言しました』
パンを皿へ戻しそうになって、セリーと目が合う。
そのまま口へ運んだ。
「食べてる」
「はい」
「確認早いな」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に出てる」
「主様ほどでは」
昨日と同じ返しだ。
少し笑ってから、もう一度考える。
「今日は来なかった」
『はい』
「でも、なくなってない」
『はい』
「本人が待つ」
『はい』
「今日は開けない」
『はい』
設備側では、昨夜は発光なし。
西壁の音は一度。
地下振動とは時間が離れている。
子供の言葉と設備現象を重ねれば、いくらでも物語を作れる。
来るはずの応答が来なかった。
でも要求は保持されたまま。
だから待つ。
だから開けない。
昨日見つかった古い設備思想に、あまりにも綺麗に当てはまる。
綺麗すぎる。
「エル」
『はい』
「今の俺、たぶんすごく危ない」
『理由を伺っても?』
「全部繋がって見える」
セリーが俺を見る。
「子供が設備の仕組みを知ってるように見える。中間保持箱が要求を保持してて、何かの応答を待ってるように見える。『来た。でも別』も、別の要求元を混ぜるなって話に見える」
『はい』
「でも、見えるだけ」
『はい』
「証拠じゃない」
『はい』
「だから今日は、余計なことしない」
『承知しました』
「子供が朝食後に俺を呼ぶなら行く。呼ばなければ行かない」
『共有します』
「設備側は?」
『ガルム隊長から「昨夜変化が少なかったことを理由に刺激試験を増やさない」と指示済みです』
「先回りされた」
「良いことではございませんか」
セリーがスープを置く。
「うん」
俺は匙を取る。
「今日は待つ、か」
「はい」
「俺も待つ」
それを口にした直後、エルからもう一つ通知が入った。
『アンナマリー様より資料追加です』
「何?」
『昨夜共有された設計改訂記録について、後続頁が別冊に保存されていたとのことです』
「読める?」
『一部』
「内容は?」
空中へ写しが浮かぶ。
中間保持器。
受側識別。
要求元識別。
その下に、昨日はなかった説明が続いていた。
――受側応答未了時、要求元を変更してはならない。
俺は息を止める。
さらに次。
――待機中に別要求を受信した場合、先行要求へ統合せず、別記録として保持。
「別要求……」
『はい』
そして最後。
紙が破れている直前に、一行だけ残っていた。
――先行要求は、本人または要求元による取消し確認まで――
そこで文章は失われていた。
「本人?」
思わず声が出る。
初めてだった。
これまで「要求」が何を指すのか分からなかった。
設備。
職員。
部屋。
人。
どれも候補だった。
だが、この記録には確かに「本人または要求元」と分けて書かれている。
「エル。原文?」
『はい。写し作成者による補完ではありません』
「本人と要求元が別の場合がある」
『そのように読めます』
「でも本人が何の本人かは?」
『記載がありません』
「帰還希望者?」
『確定できません』
「患者?」
『確定できません』
「設備利用者?」
『可能性はあります』
俺は長く息を吐いた。
昨日までより一歩だけ進んだ。
要求は、少なくとも場合によっては「本人」と切り離して扱われていた。
なら、誰かが本人のために要求を出すこともあったのかもしれない。
本人自身が出すこともあったのかもしれない。
でも、そこまではまだ書いていない。
「続き探す?」
『アンナマリー様は、別冊の前後関係を確認中です』
「急がなくていいって伝えて」
『はい』
「フェリクスには?」
『すでに共有されています』
「反応は?」
『「三冊」と』
「二冊」
『ガルム隊長も同じ回答をしております』
「よし」
思わず笑う。
それから、浮かんだ一文をもう一度見る。
――待機中に別要求を受信した場合、先行要求へ統合せず、別記録として保持。
子供の言葉が頭へ戻る。
いっしょにすると、まちがう。
きた。でも、べつ。
かぞえない。
似ている。
やはり似ている。
でも、俺は写しを閉じた。
「主様?」
「朝飯食べる」
「はい」
「その後、呼ばれたら行く」
「はい」
「呼ばれなかったら?」
「主様は?」
「待つ」
セリーがほんの少し微笑んだ。
「承知いたしました」
壁の向こうには、まだ何があるか分からない。
中間保持箱が本当に残っているのかも分からない。
子供の言葉が古い設備とどう関わるのかも分からない。
ただ、昔の誰かが残した手順と、今を生きている子供の選択が、一つだけ同じところへ辿り着いていた。
応答が遅いからといって、別のものを勝手に代わりにしない。
違うものを、分かりやすいからという理由だけで一つにまとめない。
そして、待つと本人が言ったのなら。
少なくとも今日くらいは、こちらも一緒に待てばいい。




