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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第78話 遅れているからといって、代わりを先に選んではいけませんでした

 ガルムから連絡が届いた時、俺はまだ塔の食卓にいた。


 朝食はほとんど終わっていて、皿には焼いた野菜が一切れだけ残っている。窓から入る朝日は昨日より強く、卓上のカップから立つ湯気を白く照らしていた。


『主様。旧保養施設より連絡です』


「何かあった?」


 反射的に背筋が伸びる。


 向かいにいたセリーも、手にしていた茶器を静かに置いた。


『子供本人が、主様との面会を希望しております』


 設備異常ではなかった。


 それだけで、肩へ入った力が少し抜ける。


「本人から?」


『はい。「アル、まだこない?」との発言後、職員が面会希望を確認したところ、「うん」と返答しております』


「分かった。行く」


『もう一点ございます』


「うん」


『本人より、「おそいの、アルじゃない」との自発発言がありました』


 立ち上がりかけていた身体が止まった。


 今朝、子供は西寄りの方向を見ながら「むこう、おそい」と言った。


 そして今度は、俺が遅いのではないと、自分から区別した。


「それ以上は聞いた?」


『いいえ。ガルム隊長が追加質問を止めています。本人が自発的に続けた場合のみ記録する方針です』


「うん。それでいい」


 答えながらも、頭の中ではいくつもの情報が動き始めていた。


 北受所。


 西補助受所。


 受側応答の遅延。


 遅延は不応答と同義ではないという古い記録。


 応答が遅れていても、西側へ勝手に切り替えず、第二線の休止を保持するという手順。


 そして子供の「むこう、おそい」。


 似すぎている。


 けれど、似ているから同じだとは言えない。


「エル。今見つかった設備記録の内容、子供には伝わってないよな?」


『はい。西補助受所、応答遅延、切替禁止に関する情報は共有されておりません』


「職員同士の会話を聞いた可能性は?」


『生活区画内で当該内容を口頭共有した記録はありません。現地では設備情報と生活情報の共有経路を分離しています』


「分かった」


「主様」


 セリーの声で顔を上げる。


 彼女は俺ではなく、皿を見ていた。


 残った一切れ。


「食べるよ」


「まだ何も申し上げておりません」


「顔に出てる」


「主様ほどではございません」


「最近みんなそれ言うな」


 座り直して野菜を口へ入れる。


 急いで飲み込まない。


 昨日、あの子に朝食を確認されたばかりだ。


「食べた」


「はい」


「じゃあ行ってくる」


「私も同行いたします」


「セリーも?」


「ご迷惑でしょうか」


「そんなことないけど」


 むしろ少し嬉しい。


 昨日まで、俺は一人で子供のところへ行くことが多かった。セリーが来ること自体に問題はないが、子供がどう感じるかは確認した方がいい。


「先に聞いてもらおう。俺とセリーで行っていいか」


『現地へ確認します』


 少し待つ。


 その間、セリーは外出用の上着を用意しに行こうとはしなかった。


 返事が来る前から行く準備をしない。


 それが何となく彼女らしくて、俺は黙って待った。


『回答がありました』


「どう?」


『職員が「アルとセリーが一緒でもよいか」と確認したところ、本人は「セリーもくる?」と聞き返しました。「来てもいい」と答えた後、「あおいの、ある?」との発言がありました』


「青いの?」


 セリーが一度瞬きをする。


「砂糖菓子でしょうか」


「ああ」


 以前持っていった青い砂糖菓子のことらしい。


「ある?」


「ございます」


「じゃあ持ってく?」


「本人が希望しているか確認してからにいたしましょう」


「確かに」


 エルへ頼む。


 返事はすぐ来た。


『「たべる」とのことです』


「決まりだな」


「では準備いたします」


 セリーが立ち上がる。


 俺も今度こそ席を立った。


 遅れているものが何なのかは分からない。


 でも今、確実に分かっていることが一つある。


 あの子は俺に会いたい。


 セリーにも来てほしい。


 青い砂糖菓子を食べたい。


 分からないことより先に、分かっていることを大切にしてもいいはずだった。


     ◇


 旧保養施設へ向かう途中、セリーは小さな包みを持っていた。


 青い砂糖菓子は一度に食べすぎない量だけ入れてある。本人が欲しがったからといって、袋ごと渡して際限なく食べさせる気はないらしい。


「何個?」


「三つです」


「少なくない?」


「食後のお菓子としては十分です」


「俺なら?」


「二つです」


「何で減るの」


「主様には別の健康管理がございますので」


「聞かなきゃよかった」


 セリーの口元がほんの少し緩む。


 昨日までと変わらない会話だ。


 でも、俺の頭の一部はどうしても別のところへ向かう。


「遅い、か」


「気になりますか?」


「うん」


「西補助受所の記録と似ておりますね」


「セリーもそう思う?」


「言葉だけであれば」


 彼女はそこで区切った。


「ですが、子供が示した『向こう』が西補助受所を指すことも、『遅い』が設備の応答遅延を意味することも確認されておりません」


「分かってる」


「はい」


「分かってるけど、頭の中で勝手に線が繋がる」


「それ自体は避けられないのではないでしょうか」


「いいの?」


「考えることまで禁じる必要はございません」


 セリーは前を見たまま歩いている。


「ただ、頭の中で結んだ線を、現実に存在する線と取り違えなければよろしいかと」


「……それ、いいな」


「何がでしょう」


「頭の中の線と、本当にある線は別」


「はい」


「覚えとく」


「ぜひ」


 森を抜ける風が、木々の梢を揺らした。


 旧保養施設の建物が見えてくる。


 今日は昨日より空が澄んでいる。


 門の近くでは洗った布が干され、警備の兵士の横を職員が籠を抱えて通り過ぎていた。


 何かが起こりそうな場所には見えない。


 それでいい。


     ◇


 門を入ると、ガルムが待っていた。


「早かったな」


「朝飯は食った」


「聞いてない」


「最近そこから確認されるから」


「セリーがいるなら大丈夫だろ」


「信用の差がひどい」


「日頃の行いだ」


 ガルムはセリーへ軽く頭を下げ、それから彼女が持つ包みを見る。


「何だ?」


「砂糖菓子です」


「調査道具より平和だな」


「本人の希望」


「なら最優先だ」


 冗談のように言ったが、ガルムの声は穏やかだった。


「子供は?」


「部屋にいる。お前が来るって伝えたら、窓のところから卓へ戻った」


「何してた?」


「外を見てたらしい」


「西?」


「聞いてない」


「そうだよな」


「方角の記録は職員が残してる。それ以上は本人が言うまで待つ」


 俺たちは生活区画へ向かう。


「設備は?」


「昨夜の一か所発光以降、変化なし。第二線の目視位置も前回記録から有意な変化なし。旧職員詰所の表示板も動いてない」


「西補助受所は?」


「開けてない」


「床も?」


「剥がしてない」


「壁も?」


「壊してない」


「魔力流した?」


「流してない」


「よし」


 ガルムが横目で俺を見る。


「誰に確認してるんだ」


「全員」


「お前自身にもやっとけ」


「してる」


「ならいい」


 生活区画へ入る前に、ガルムが足を止めた。


「一つだけ」


「何?」


「今朝の『おそいの、アルじゃない』の後、設備に関係しそうな発言はない。ただ、朝食の焼き林檎が昨日より小さいとは言った」


「それは重要だな」


「職員が切り方の違いだと説明した」


「納得した?」


「半分くらい」


「じゃあ後で聞かれるかも」


「お前が責任取れ」


「何で俺が」


 セリーが静かに言う。


「必要であれば、同じ大きさへ切る方法をご説明いたします」


「そこまでしなくていいと思う」


「本人が望めば、です」


「それならいい」


 ガルムが笑った。


「行ってこい。俺は中央棟に戻る」


「うん」


「アル」


「何?」


「会いに行け」


 短い言葉だった。


 調べに行くな、とは言わなかった。


 その必要がないくらい、俺の目的を確認しているのだろう。


「分かってる」


 俺はセリーと並んで廊下を進んだ。


     ◇


 扉を二度叩く。


「アル?」


「うん。セリーもいる」


「はいって」


 扉を開ける。


 子供は卓の前に座っていた。


 昨日と同じ紙箱がある。


 今日は蓋の上に紙の輪が置かれていた。


 布鞄は椅子の背。


 木片は見えない。


「おはよう」


「おはよう」


 子供の視線が俺からセリーへ移る。


「セリー」


「おはようございます」


「あおいの」


「お持ちしました」


 セリーが包みを見せる。


 子供の顔が明らかに明るくなった。


「たべる」


「はい。ただし、先ほど朝食を召し上がったばかりと伺っておりますので、三つです」


「さんこ?」


「はい」


「アルは?」


「主様は二つです」


「なんで?」


「私も聞きたい」


「主様は黙っていてくださいませ」


 子供が笑う。


「アル、にこ?」


「らしい」


「ぼく、さんこ」


「勝ったな」


「はい」


「勝敗ではございません」


 セリーはそう言いながら、卓の上へ小さな皿を二つ置いた。


 子供に三つ。


 俺に二つ。


 自分の分はない。


「セリーは?」


 子供が聞く。


「私は必要ございません」


「いっこ」


「私に、でしょうか」


「うん」


 子供は自分の皿から一つ摘まもうとする。


 セリーが止めるのではなく、少しだけ目を見開いた。


「私へくださるのですか?」


「うん」


「では、いただきます」


 セリーは掌を差し出した。


 子供が青い砂糖菓子を一つ置く。


 その瞬間、子供の皿は二つになった。


 俺と同じだ。


「同じになったな」


「うん」


「いいの?」


「セリー、つくった」


「そうだな」


「セリーもたべる」


 セリーは掌の上の菓子を見た。


 ほんのわずかに、いつもの無表情が柔らかくなる。


「ありがとうございます」


 口へ運ぶ。


 子供はそれをじっと見てから、自分の一つを食べた。


「おいしい」


「何よりです」


「アルも」


「はいはい」


「主様」


「何?」


「食べ物を口に入れたままお話しにならないように」


「まだ入れてないよ」


「事前の注意です」


 また子供が笑った。


 しばらく、本当にそれだけだった。


 砂糖菓子を食べる。


 昨日の木の実が渋いらしいという話をする。


 子供は俺に「しぶいの、たべる?」と聞き、俺が「できれば避けたい」と答えると、満足そうに頷いた。


 設備の話は出ない。


 俺からも出さない。


 やがて二つ目の砂糖菓子を食べ終えた子供が、紙の輪へ触れた。


「これ」


「昨日の?」


「うん」


「今日は外なんだな」


「そと」


 紙箱の蓋を開ける。


 中は空だ。


「いない」


「輪は外にあるな」


「うん」


 輪を中へ入れる。


「いる」


「うん」


 また出す。


「いる?」


 今度は疑問だった。


「俺に聞いてる?」


「うん」


「外にある」


「いる?」


「なくなってはいないと思う」


 子供は紙の輪を見る。


「みえる」


「うん」


「みえないと?」


 箱の中へ入れ、蓋を閉じる。


「見えないな」


「でも?」


「中に入れたのを見てたから、俺は中にあると思う」


「みてなかったら?」


 少し難しい。


「分からない」


「ない?」


「分からないのと、ないのは違うかな」


 子供が蓋へ指を置く。


「あるかも?」


「うん」


「ないかも?」


「うん」


「じゃあ、あける?」


「知りたければ」


「しりたくないなら?」


「開けなくていい」


 子供は蓋から手を離した。


「じゃあ、あけない」


「うん」


 それで終わる。


 紙箱は閉じたまま。


 中には輪があるはずだ。


 少なくとも、俺たちは入れたところを見た。


「アル」


「ん?」


「きょう、きた」


 胸の奥がわずかに跳ねた。


「俺が?」


 子供は首を横へ振る。


「アルじゃない」


 昨日の言葉と同じだ。


 俺はセリーを見る。


 彼女は何も言わない。


「何か来た?」


「うん」


「今?」


「ちがう」


「いつ?」


 子供が窓を見る。


「ごはんのあと」


「朝ごはん?」


「うん」


「何が来たの?」


 子供は答えない。


 嫌がっているというより、言葉を探している。


「……しらない」


「分からない?」


「うん」


「怖かった?」


「ちょっと」


「今も?」


 子供は胸へ手を当てる。


 しばらく自分の身体を確かめるように黙った。


「いまは、へいき」


「痛いところは?」


「ない」


「苦しい?」


「ない」


「ここから出たい?」


「いかない」


「分かった」


 安全に関する確認だけする。


 子供が俺を見る。


「もっと、きく?」


「聞いてほしい?」


 逆に尋ねると、子供は少し考えた。


「……ひとつ」


「一個だけ?」


「うん」


「じゃあ、一個」


 何を聞くか。


 聞きたいことは山ほどある。


 何が来た。


 どこから。


 音か。


 光か。


 人か。


 設備か。


 木片と関係するのか。


 西補助受所か。


 でも一つだけなら、安全と本人の感覚に近いものがいい。


「来たものは、今ここにいる?」


 子供の目が少し大きくなった。


 すぐには答えない。


 紙箱を見る。


 窓を見る。


 布鞄を見る。


 最後に俺を見る。


「……いない」


「今はいない?」


「うん」


「分かった」


「おわり?」


「一個って約束したから」


「うん」


 子供は少し安心したように息を吐いた。


 セリーが黙って水を差し出す。


 子供は受け取って一口飲んだ。


「セリー」


「はい」


「アル、ききたい?」


「とても聞きたそうでございます」


「おい」


「事実です」


 子供が笑う。


「でも、きかない?」


「主様は約束を守ろうとしておられます」


「えらい?」


「今回は」


「今回はって何だよ」


 部屋の空気が少し軽くなる。


 それから子供は自分から言った。


「きたけど」


 俺は口を挟まない。


「まだ」


 指先が紙箱の蓋をなぞる。


「まだ、たりない」


 今までなかった言葉だった。


 俺は反応を抑える。


「足りない?」


 聞き返しただけだ。


「うん」


「何が足りないかは?」


 子供は首を横へ振った。


「わかんない」


「そっか」


「でも、たりない」


「うん」


「だから、まだ」


 その先は言わなかった。


 俺も聞かなかった。


     ◇


 部屋を出ると、セリーはしばらく黙って歩いた。


 生活区画から少し離れたところで、俺が先に口を開く。


「来た」


「はい」


「でも今はいない」


「本人の発言では」


「足りない」


「はい」


「何が?」


「分かりません」


「だよな」


 窓の外には西側の建物が見える。


 古い石壁。


 物置として使われている区画。


 そのさらに向こうには木々がある。


「西補助受所の『応答遅延』」


「似ております」


「来たけど足りない」


「似せようと思えば、似せられます」


 セリーの言い方に苦笑する。


「厳しいな」


「主様が頭の中で線を引いておられますので」


「うん」


「その線を消す必要はございません。ただ、まだ紙の上へ書かないことです」


「分かってる」


「はい」


 俺たちは中央棟へ向かった。


     ◇


 ガルムたちは、子供の発言をまだ知らなかった。


 俺が伝えると、フェリクスの顔が露骨に変わる。


「来た?」


「そこだけ拾うな」


「ですが――」


「『何か分からない』『今はいない』『少し怖かった』『今は平気』『まだ足りない』まで一緒」


「はい」


「あと、西補助受所とは本人は言ってない」


「承知しています」


「北受所とも言ってない」


「はい」


「設備とも言ってない」


「分かっています」


 ガルムが笑う。


「フェリクスよりアルの方が必死だな」


「自分にも言ってるんだよ」


「なるほど」


 リディアは記録を見ながら言った。


「今朝の『むこう、おそい』の後に、『来た』へ変わったのは事実ですね」


「うん」


「ただし、何が来たかは不明」


「そう」


「本人が示した西寄りの方角との関係も不明」


「そう」


「設備側で、朝食後に何かありましたか?」


 ガルムが監視記録を開く。


「中央棟ではなし。青白い光は夜中に一回だけ。その後は何もない」


「地下振動は?」


「夜中の一回だけ」


「旧職員詰所?」


「変化なし」


「第二線?」


「目視上変化なし」


「西側は?」


「監視対象にしてない」


 俺がガルムを見る。


「してない?」


「外から普通に見える範囲は警備が見てる。でも設備監視みたいなことはしてない」


「何で?」


「何でって、お前」


 ガルムが眉を上げる。


「子供が西を見たからって、急に監視員を並べたら、それ自体が新しい条件だろ」


「ああ」


「それに西補助受所が今もそこにあるかすら分からん」


「……そうだな」


「見たくなったか?」


「ちょっと」


「我慢しろ」


「はい」


 フェリクスが小さく笑った。


「アル殿も止められる側なのですね」


「お前ほどじゃない」


「そこは競わなくても」


 リディアが記録の別頁を開く。


「ただ、設備資料側で一つ確認したいことがあります」


「何?」


「昨日見つかった『所定待機時間』です」


 俺たちの視線が集まる。


「見つかった?」


「完全なものではありません」


 彼女が一枚の写しを置く。


「別の保守記録に、『応答遅延時の待機』という項目があります。ただし、西補助受所専用か、同型設備全般かは不明です」


 フェリクスが続きを引き取る。


「読める部分は、『第一確認後、受側応答なき場合も再呼出を行わず』。その次が欠けています」


「また再呼出禁止か」


「はい。そして下部に、『待機中の表示変化は記録のみとし、切替理由としない』」


「表示が変わっても、代替へ切り替える理由にはしない?」


「そのように読めます」


「何でそこまで切替を嫌がるんだ?」


 俺が聞くと、フェリクスは首を横へ振った。


「理由はまだありません」


「事故防止?」


「可能性はあります」


「接続先を間違えるとか?」


「それも考えられます」


「でも証拠なし」


「はい」


 ガルムが資料を指で軽く押さえる。


「重要なのは、待ってる途中で何か変わっても、勝手に別へ繋ぐなってことだろ」


「現時点では、それ以上は言えません」


「今、第二線は休止状態の可能性が高い」


「はい。ただし完全確認はできていません」


「北受所は閉鎖済み」


「歴史上は」


「西補助受所への切替は禁止されてた」


「少なくとも、この時期の手順では」


 俺は腕を組んだ。


「じゃあ何もしない」


 フェリクスがこちらを見る。


「即決ですね」


「待機中に表示が変わっても切り替えるなって書いてあるんだろ」


「はい」


「今の設備が同じかは分からない。でも、触らない理由は増えた。触る理由は増えてない」


 リディアが頷く。


「私も賛成です」


「西側も開けない」


「はい」


「第二線も起こさない」


「はい」


「北側も掘らない」


「はい」


「子供に『来たのは応答?』とか聞かない」


「もちろんです」


 ガルムが俺を見る。


「なら今日の現地作業は終わりだな」


「早くない?」


「何かしたいのか?」


「……したくなる」


「帰れ」


「まだ昼前だぞ」


「白鴉行け」


「追い出された」


「仕事を振り分けただけだ」


 言い方が俺と似ていて、少し笑ってしまう。


「分かった」


 俺は資料をもう一度見た。


 待機中の表示変化は記録のみ。


 切替理由にしない。


 何かが来たように見えても、足りないように感じても、こちらが勝手に続きを作ってはいけない。


 少なくとも、今は。


     ◇


 白鴉へ着くと、保存されていた少年は昼食を終えたところだった。


 今日は歩行練習の前に休むことを選んだらしい。


「後で歩く?」


「うん」


「何周?」


「決めてない」


「いいな」


「また?」


「何が?」


「アル、それ言う」


「だっていいだろ」


「一回かも」


「うん」


「二回かも」


「うん」


「歩かないかも」


「それもあり」


 少年は満足そうに頷いた。


 その隣では例の老人がパンの残りを持っている。


「今日は見ろ」


「何を?」


「大きさだ」


 少年が立ち上がりかける。


「近くで見なくてもいいだろ」


「昨日くらべられなかった」


「じゃあ自分の残ってる?」


「ある」


 少年の皿にはパンが少し残っている。


 二人が並べる。


 老人の方がわずかに大きい。


「俺の勝ちだ」


「でも食べたあと」


「何?」


「おじいさん、いっぱい食べた?」


「食った」


「ぼくも」


「じゃあ最初の大きさ分かんない」


 老人が固まる。


「……確かに」


「勝ちじゃない」


「明日は最初に比べる」


「うん」


 俺は思わず笑った。


「何日続けるんだよ」


「決着がつくまでだ」


 老人は真剣だった。


 ヨアヒムが少し離れたところで肩をすくめる。


「食事量が落ちないので、今のところ止める理由はありません」


「医療的にも認められてるのか」


「競争を煽るつもりはありませんが」


 少年が俺を見る。


「アルも明日」


「俺も?」


「パン」


「何で参加者増えるんだ」


「くらべる」


「俺、塔で食べるんだけど」


「もってくる?」


「セリーに怒られそう」


「なんで?」


「朝食のパンを持ち出すなって」


「じゃあセリーも」


「さらに増えた」


 笑い声が広がる。


 こういう時間にいると、旧保養施設で考えていたことが少し遠くなる。


 忘れるわけではない。


 ただ、頭の中に占める場所が変わる。


 それでいい。


     ◇


 三〇八号室では、少年が紙の整理を続けていた。


 扉を閉めるか聞くと、今日は半分だけ開けておくと言った。


「半分?」


「全部閉めない」


「開けっぱなしでもない?」


「うん」


「分かった」


 扉を本人が示した位置まで動かす。


 卓には名前を書いた紙が並んでいる。


 赤い布に包まれた手紙は端に置かれたままだ。


「今日は書いた?」


「三枚」


「増えてる」


「一枚、失敗」


「見ていい?」


「いい」


 一枚だけ、途中で文字が大きく崩れている。


「捨てる?」


「まだ」


「じゃあ取っとけば」


「失敗でも?」


「嫌じゃなければ」


 少年はその紙を見つめる。


「失敗したの、いらない?」


「俺なら取っとくこともある」


「なんで?」


「後で見た時、前はここで失敗したんだなって分かるから」


「分かるの、いい?」


「知りたいなら」


「知りたくないなら?」


「捨ててもいい」


 少年は少し考えて、失敗した紙を古い方の束へ入れた。


「今日は取っとく」


「うん」


「明日捨てるかも」


「いいんじゃない」


 しばらく紙を揃えた後、少年が赤い布を見る。


「手紙」


 俺は待つ。


「今日は……」


 長い間があった。


「見るだけ」


「開かずに?」


「うん」


「分かった」


 少年は赤い布に包まれた束を自分の近くへ寄せる。


 触る。


 でも開かない。


「これも、ある」


「うん」


「読まなくても」


「あるな」


「中、見えない」


「うん」


「でも、あるって知ってる」


「そうだな」


 さっきの紙箱のことを思い出した。


 見えなくても、入れたことを知っている。


 だから、あると思える。


 でも三〇八号室の少年は、違うところへ進んだ。


「中に何書いてるかは、分かんない」


「全部はな」


「あるのと、分かるの、ちがう」


「……うん」


「読めば分かる?」


「書いてあることは」


「ほんとかは?」


「それは別」


 少年は赤い布から手を離した。


「じゃあ、今日は見ない」


「分かった」


「怖いからじゃない」


「うん」


「ちょっと怖いけど」


「うん」


「でも、それだけじゃない」


「分かった」


 理由を一つにしない。


 怖い。


 知りたい。


 読みたくない。


 存在は確かめたい。


 全部一緒にあっていい。


「アル」


「何?」


「今日、あっち行った?」


「旧保養施設?」


「うん」


「行った」


「名前ない子?」


「会った」


「何してた?」


「砂糖菓子食べた」


 少年が意外そうな顔をする。


「それだけ?」


「紙の箱でちょっと遊んだ。木の実の話もした」


「調べないの?」


「何を?」


「その子」


 俺は少し黙った。


「人は、調べるものじゃないだろ」


「でも誰か分かんない」


「知りたいことはある。でも、誰か分からないからって、その子全部を調べる対象にするのは違うと思う」


 少年は自分の手を見る。


「ぼくも?」


「何が?」


「ぼくも、誰か分かんない」


「うん」


「アルフォンスかも分かんない」


「うん」


「じゃあ、調べない?」


「必要なことは調べるかもしれない。身体のこととか、安全に関わることとか、お前が知りたいって言ったこととか」


「本物かどうか」


「それは……お前が知りたいなら、一緒に考える」


「アルが知りたいなら?」


 答えるまで少し時間がかかった。


「俺も知りたい」


「じゃあ調べる?」


「俺が知りたいだけで、お前の身体や気持ちを勝手に使うのは違う」


 少年は黙った。


「めんどくさい」


「すごくな」


「王子って、もっと簡単?」


「俺はもう王太子じゃないけど、昔の俺ならもっと簡単に決めてたかもしれない」


「どっちがいい?」


「今の方が疲れる」


「いい方は?」


「……今かな」


 少年が少し笑った。


「じゃあ、めんどくさくていい」


「そうだな」


     ◇


 午後、旧保養施設から新しい報告はなかった。


 設備変化なし。


 子供も昼食後は庭へ出て、葉を二枚拾っただけ。


 「来た」「足りない」に関する追加発言もない。


 俺は白鴉から塔へ戻り、約束通り資料を読む時間を決めた。


 セリーが時計を置く。


「四十五分です」


「分かってる」


「延長は?」


「五分」


「認めません」


「まだ何も言ってない」


「顔に出ております」


「みんなそれ言う」


 俺は苦笑しながら、エルが整理した資料へ目を落とした。


 今日見るのは、西補助受所の保守記録だけ。


 他へ広げない。


 最初の数頁は既知の内容だった。


 通常休止。


 北受所応答遅延時にも独断切替禁止。


 遅延は不応答と同義ではない。


 所定待機時間内は第二線休止保持。


 次の頁。


 紙の端が欠けている。


 読める文字は少ない。


「エル、ここ拡大」


『表示します』


 古い文字が浮かぶ。


 ――西補助受所使用条件。


「条件?」


 続きを読む。


 第一項は欠損。


 第二項。


 ――北受所機能停止が確認され、かつ復旧不能と判断された場合。


 俺は眉を寄せた。


「応答が遅いだけじゃ駄目」


『そのように読めます』


 第三項。


 ――接続対象側の再確認を要す。


「接続対象側……」


 誰だ。


 何だ。


 人なのか。


 設備なのか。


 施設なのか。


 第四項は半分しか残っていない。


 ――代替受所使用前、旧接続……


 そこで途切れる。


「旧接続、何だろ」


『復元不能です』


「勝手に補わない」


『はい』


 さらに下。


 赤い古い筆記で、後から加えられたらしい注意書きがある。


 ――応答遅延のみを理由とした代替切替、厳禁。


 その下に、別の筆跡。


 ――過去例あり。


 俺の指が止まった。


「過去例」


『はい』


「事故?」


『その記載はありません』


「問題が起きた?」


『不明です』


「過去に、応答が遅いだけなのに西へ切り替えた例がある、までは?」


『「過去例」が直前の禁止事項を指す場合、その可能性があります。ただし、文法上の対応関係は完全には確定できません』


「そうだな」


 でも気になる。


 かなり。


「フェリクスが見たら喜びそう」


『高確率で』


「明日まで見せない?」


『情報共有方針に反します』


「冗談だよ」


 エルへ共有を頼む。


 ガルム、リディア、フェリクス、アンナマリー。


 それぞれが別の場所から確認できるようにする。


 俺一人で持たない。


 数分後、アンナマリーから最初の返答が来た。


『同時代の別資料で「代替受所」という語を探します。ただし西補助受所との同一視はしません』


「さすが」


 ガルムからは短い。


『今日は何も開けない』


「知ってる」


 フェリクスからは長かった。


『過去例の記録を探したい。明日三冊を希望する』


「二冊」


『三冊』


「二冊」


『薄いものを含めて三冊』


「厚さ関係ない」


 返事が途切れた。


 少しして、


『検討します』


 とだけ来た。


「何を検討するんだよ」


 思わず笑う。


 セリーが時計を見る。


「残り十二分です」


「もう?」


「はい」


「あと一枚だけ」


「時間内であれば」


 次の紙を開く。


 西補助受所とは別の設備引継ぎ票。


 古い。


 文字が薄い。


 最初は関係ないと思った。


 だが、下部に「代替」の文字がある。


「エル」


『確認しております』


 読む。


 ――代替接続実施時、旧受側からの遅延応答に注意。


「遅延応答?」


 続き。


 ――切替後に旧受側応答を受信した場合、両受所同時接続を避けること。


 背中が冷える。


「同時接続」


『はい』


「だから、遅れてるだけで切り替えるな?」


『可能性はあります』


「旧側から後で返事が来たら、二つ繋がる」


『この文書が同一系統の設備を指す場合、その危険を想定した注意事項と解釈できます』


「でも同じ系統か不明」


『はい』


 俺は椅子へ深く座り直した。


 なるほど。


 応答がない。


 待てない。


 代わりへ繋ぐ。


 その後で、本来の相手から遅れて返事が来る。


 二つが同時に繋がる。


 だから待て。


 そんな仕組みなら、慎重な手順にも意味がある。


 でも。


「子供の話とは別」


『はい』


「『まだ足りない』とも別」


『はい』


「今の第二線に同じ危険があるとも決まってない」


『はい』


 頭の中に引いた線を、紙へは書かない。


「セリー」


「はい」


「時間は?」


「残り六分です」


「この紙まで読んで終わる」


「承知いたしました」


 最後まで確認する。


 末尾に短い一文。


 ――遅延応答確認時、先行代替側を直ちに遮断せず、双方状態確認後に処置判断。


 俺は少し驚いた。


「すぐ切るな、なんだ」


『はい』


「二つ繋がったら、慌てて片方を切るんじゃなくて状態確認」


『そのように読めます』


「何でも急いで直せばいいわけじゃない」


 その言葉を口にした時、時計が鳴った。


 セリーが資料へ手を伸ばす。


「終了です」


「あと――」


「終了です」


「はい」


 素直に離す。


 今見つかった記録だけでも十分だった。


     ◇


 夜。


 旧保養施設では、何も操作しない監視が続いていた。


 西補助受所の現存確認はしない。


 床も開けない。


 壁も壊さない。


 第二線も触れない。


 中央棟設備盤は、昨日と同じ距離から観察する。


 午後十一時を過ぎても変化はない。


 名前の分からない子供は、生活区画で眠る準備をしていた。


「紙箱、どこ?」


 職員が聞く。


「ここ」


 今日は棚ではなく、卓の端。


「そこに置いておく?」


「うん」


「輪は?」


 子供は蓋を開ける。


 中にある。


「いる」


「分かった」


 蓋を閉じる。


 布鞄は椅子。


 木片も中。


 子供は寝台へ入る。


「灯りは?」


「ちいさい」


「扉は?」


「ちょっと」


 いつもの幅。


 職員が整える。


「おやすみ」


「おやすみ」


 職員が離れようとすると、子供が呼び止めた。


「ねえ」


「どうしたの?」


「きょう、きた」


「うん」


「でも」


 子供は毛布の上で指を二本立てた。


 職員は数を尋ねない。


「こっちじゃない」


「こっち?」


 子供は二本の指のうち、片方を折る。


 一本だけ残す。


「こっち」


 何を指しているのか分からない。


「分からない?」


 子供が職員の顔を見た。


「うん。ごめんね、私は分からない」


「いい」


「教えてくれる?」


 質問した後、少し広すぎたかと思った。


 子供は嫌がらない。


「まだ、いい」


「分かった」


「あとで」


「うん」


 それだけで終わる。


 職員は記録へ、指の動きも含めて残した。


 意味は付けない。


     ◇


 午前一時三十六分。


 中央棟変化なし。


 午前二時十一分。


 地下微弱振動、一回。


 約一・五秒。


 中央棟発光なし。


 旧職員詰所変化なし。


 午前二時五十八分。


 設備盤の右側に青白い光が現れる。


 時刻記録。


 位置記録。


 操作なし。


 約四十秒後、右より少し左にも弱い光。


 二か所。


 監視者たちは静かに記録を続ける。


 三分。


 四分。


 どちらも消えない。


 午前三時三分。


 最初の右側が弱くなる。


 三時四分。


 消灯。


 二か所目は残る。


 三時七分。


 残る。


 三時十分。


 まだ残る。


 昨夜より長い。


 誰も触らない。


 三時十二分。


 突然、設備盤ではなく、部屋の西側の壁際から小さな音がした。


 カチ、と。


 三人の視線が動く。


「位置?」


「西壁寄り」


「設備盤じゃない」


「触るな」


 記録する。


 青白い光はまだ残っている。


 三時十三分。


 もう一度。


 カチ。


 今度は少し低い。


「同じ位置?」


「近い。でも断定できない」


「中央の光は?」


「継続」


 三時十四分。


 西壁の音は止まる。


 三時十五分。


 青白い光が弱くなる。


 三時十六分二十二秒。


 消えた。


 部屋は暗く戻る。


「全消灯」


「操作なし」


「西壁音、二回」


「地下振動は一時間以上前」


「旧職員詰所?」


「変化なし」


 監視者はそこで終えなかった。


 何も起きなくなった時間も記録する。


 三時半。


 変化なし。


 四時。


 変化なし。


 五時。


 変化なし。


     ◇


 夜明け前。


 名前の分からない子供はまだ眠っていた。


 中央棟の出来事を知るはずはない。


 午前五時五十二分。


 寝返りを打つ。


 六時を少し過ぎて目を開けた。


 職員はいつも通り水を用意する。


「おはよう」


「おはよう」


「眠れた?」


「うん」


「身体、変なところない?」


「ない」


 子供は水を飲む。


 それから卓の紙箱を見る。


 起き上がって近づく。


 蓋を開ける。


 紙の輪は中にある。


「いる」


「いるね」


 輪を出す。


 卓へ置く。


 箱を見る。


「いない」


「箱の中にはいないね」


「うん」


 ここまでは昨日と同じ。


 だが、今日は輪を戻さなかった。


 紙箱を少し横へ動かす。


 その隣へ輪を置く。


「べつ」


「別に置く?」


「うん」


 職員はそれ以上聞かない。


 子供は窓へ向かう。


 朝の光が顔へ当たる。


 しばらく外を見る。


「きのう」


「うん」


「きた」


「そう言ってたね」


「たりなかった」


「うん」


「きょう」


 子供は黙る。


 職員も待つ。


「……もうひとつ」


 小さな声だった。


 職員の指が記録紙の上で止まりそうになる。


 それでも急いで書かない。


 最後まで聞く。


「もう一つ?」


「うん」


「何が?」


 子供は答えない。


 少しして首を横へ振る。


「わかんない」


「分かった」


「でも」


 窓から離れ、卓へ戻る。


 紙箱と、その外へ置いた輪を見る。


「いっしょにしない」


「箱と輪を?」


 子供は首を横へ振る。


「ちがう」


 では何なのか。


 聞きたくなる。


 職員は待った。


「きたの」


 子供が言う。


「うん」


「べつ」


「別?」


「うん」


 指を二本立てる。


「ふたつ?」


 安全や生活の質問ではない。


 職員は聞いてから少し後悔した。


 子供は首を横へ振った。


「かぞえない」


 職員の息が止まる。


「分かった」


「かぞえない」


「うん。数えない」


 子供は指を下ろした。


 少し安心したように息を吐く。


「アル」


「アルに伝える?」


「うん」


「何を伝える?」


 子供は考える。


 紙箱を見る。


 輪を見る。


 窓を見る。


「きた」


「うん」


「でも、べつ」


「そのまま伝える?」


「うん」


「分かった」


 職員は一語も足さずに記録した。


 ――本人よりアルへの伝言。「きた。でも、べつ」。


 そして、その下へ別に記す。


 ――本人、「かぞえない」と二度発言。職員側から残数確認は行わず。


     ◇


 塔では、俺が朝食のパンへ手を伸ばしたところだった。


『主様。旧保養施設より伝言です』


「子供?」


『はい』


「何て?」


『「きた。でも、べつ」』


 パンを持った手が止まる。


 セリーの視線が俺の手へ落ちた。


 俺はそのまま一口食べた。


「食べた」


「はい」


 それから改めてエルへ聞く。


「他には?」


『本人は今朝、紙箱から輪を出し、別に置いています。ただし本人は、その行為と「きた。でも、べつ」の関係を否定しています』


「うん」


『また、指を二本立てた後、職員からの問いに対し「かぞえない」と発言。同語を二度繰り返しています』


 俺は目を閉じた。


 三つの窓。


 二か所の光。


 一か所。


 二つ。


 一つ。


 数字が勝手に並びたがる。


「数えない」


『はい』


「本人がそう言ったんだな」


『はい』


「なら数えない」


 セリーが静かに茶を置いた。


「昨夜の設備は?」


『中央棟で二か所に青白い発光。時間差で自然消灯。発光中、西壁寄りから二度の小音を記録しております』


「西壁」


『はい』


「西補助受所方向?」


『中央棟内部の西壁という位置情報のみです。西補助受所との接続は確認されておりません』


「分かった」


 また頭の中に線が生まれる。


 西。


 遅い。


 来た。


 別。


 代替受所。


 遅延応答。


 同時接続を避ける。


 でも。


「エル」


『はい』


「今日の指示」


『どうぞ』


「西壁を開けない」


『はい』


「音がした場所へ強い走査をしない」


『はい』


「第二線を動かさない」


『はい』


「西補助受所へ切り替える操作が仮に見つかっても使わない」


『はい』


「子供に数を聞かない」


『共有します』


「『別』が何と何かも、こっちから選択肢を出さない」


『はい』


 セリーが俺を見る。


「そして?」


「朝食を食べる」


「はい」


「今日は先に言ったぞ」


「成長なさいました」


「褒め方が子供なんだよ」


「主様の健康管理においては、大きな進歩です」


 俺は苦笑しながらパンをちぎった。


 何かが来た。


 でも別。


 何と何が別なのかは分からない。


 それでいい。


 分からないものを、こちらの都合で一つにまとめない。


 遅れているからといって、代わりを先に選ばない。


 数えられそうだからといって、残りを数えない。


 今朝、俺たちができることは、それくらいだった。


 けれど朝食が終わる少し前、旧保養施設からもう一つだけ報告が入った。


『主様』


「今度は?」


『子供の発言ではありません』


 エルの声色は変わらない。


 それでも俺はカップを置いた。


『中央棟西壁の外側にあたる廊下で、リディアが既存図面との非接触照合を行いました』


「開けてないよな?」


『開けておりません。目視と既存寸法のみです』


「それで?」


『現在の西壁位置と、旧図面上の西補助受所方向へ伸びる細い設備路の起点候補が、誤差範囲内で重なる可能性があります』


 俺は黙った。


 西壁で二度鳴った音。


 旧図面上の細い設備路。


 その先にあったかもしれない西補助受所。


「可能性、だな」


『はい。壁内の現存設備は確認されておりません』


「ガルムは?」


『「だから開けない」と』


「だよな」


 思わず笑う。


 俺より早い。


「フェリクスは?」


『壁を見たいと』


「見るだけ?」


『現時点では』


「現時点では、が怖いな」


「主様」


 セリーに呼ばれる。


「はい」


「スープが冷めます」


「……食べる」


 俺は匙を取った。


 壁の向こうに何があるのか。


 細い設備路が今も残っているのか。


 西補助受所へ本当に続いていたのか。


 昨夜の音と関係があるのか。


 何一つ分からない。


 だから壁は、まだ壁のままでいい。


 開ければ答えがあるとは限らない。


 開けたことで、待っていた何かをこちらから変えてしまうかもしれない。


 何より、あの子は一度、あちらを見て言っている。


 開けないで、と。


 今は、それだけで十分だった。

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