第78話 遅れているからといって、代わりを先に選んではいけませんでした
ガルムから連絡が届いた時、俺はまだ塔の食卓にいた。
朝食はほとんど終わっていて、皿には焼いた野菜が一切れだけ残っている。窓から入る朝日は昨日より強く、卓上のカップから立つ湯気を白く照らしていた。
『主様。旧保養施設より連絡です』
「何かあった?」
反射的に背筋が伸びる。
向かいにいたセリーも、手にしていた茶器を静かに置いた。
『子供本人が、主様との面会を希望しております』
設備異常ではなかった。
それだけで、肩へ入った力が少し抜ける。
「本人から?」
『はい。「アル、まだこない?」との発言後、職員が面会希望を確認したところ、「うん」と返答しております』
「分かった。行く」
『もう一点ございます』
「うん」
『本人より、「おそいの、アルじゃない」との自発発言がありました』
立ち上がりかけていた身体が止まった。
今朝、子供は西寄りの方向を見ながら「むこう、おそい」と言った。
そして今度は、俺が遅いのではないと、自分から区別した。
「それ以上は聞いた?」
『いいえ。ガルム隊長が追加質問を止めています。本人が自発的に続けた場合のみ記録する方針です』
「うん。それでいい」
答えながらも、頭の中ではいくつもの情報が動き始めていた。
北受所。
西補助受所。
受側応答の遅延。
遅延は不応答と同義ではないという古い記録。
応答が遅れていても、西側へ勝手に切り替えず、第二線の休止を保持するという手順。
そして子供の「むこう、おそい」。
似すぎている。
けれど、似ているから同じだとは言えない。
「エル。今見つかった設備記録の内容、子供には伝わってないよな?」
『はい。西補助受所、応答遅延、切替禁止に関する情報は共有されておりません』
「職員同士の会話を聞いた可能性は?」
『生活区画内で当該内容を口頭共有した記録はありません。現地では設備情報と生活情報の共有経路を分離しています』
「分かった」
「主様」
セリーの声で顔を上げる。
彼女は俺ではなく、皿を見ていた。
残った一切れ。
「食べるよ」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に出てる」
「主様ほどではございません」
「最近みんなそれ言うな」
座り直して野菜を口へ入れる。
急いで飲み込まない。
昨日、あの子に朝食を確認されたばかりだ。
「食べた」
「はい」
「じゃあ行ってくる」
「私も同行いたします」
「セリーも?」
「ご迷惑でしょうか」
「そんなことないけど」
むしろ少し嬉しい。
昨日まで、俺は一人で子供のところへ行くことが多かった。セリーが来ること自体に問題はないが、子供がどう感じるかは確認した方がいい。
「先に聞いてもらおう。俺とセリーで行っていいか」
『現地へ確認します』
少し待つ。
その間、セリーは外出用の上着を用意しに行こうとはしなかった。
返事が来る前から行く準備をしない。
それが何となく彼女らしくて、俺は黙って待った。
『回答がありました』
「どう?」
『職員が「アルとセリーが一緒でもよいか」と確認したところ、本人は「セリーもくる?」と聞き返しました。「来てもいい」と答えた後、「あおいの、ある?」との発言がありました』
「青いの?」
セリーが一度瞬きをする。
「砂糖菓子でしょうか」
「ああ」
以前持っていった青い砂糖菓子のことらしい。
「ある?」
「ございます」
「じゃあ持ってく?」
「本人が希望しているか確認してからにいたしましょう」
「確かに」
エルへ頼む。
返事はすぐ来た。
『「たべる」とのことです』
「決まりだな」
「では準備いたします」
セリーが立ち上がる。
俺も今度こそ席を立った。
遅れているものが何なのかは分からない。
でも今、確実に分かっていることが一つある。
あの子は俺に会いたい。
セリーにも来てほしい。
青い砂糖菓子を食べたい。
分からないことより先に、分かっていることを大切にしてもいいはずだった。
◇
旧保養施設へ向かう途中、セリーは小さな包みを持っていた。
青い砂糖菓子は一度に食べすぎない量だけ入れてある。本人が欲しがったからといって、袋ごと渡して際限なく食べさせる気はないらしい。
「何個?」
「三つです」
「少なくない?」
「食後のお菓子としては十分です」
「俺なら?」
「二つです」
「何で減るの」
「主様には別の健康管理がございますので」
「聞かなきゃよかった」
セリーの口元がほんの少し緩む。
昨日までと変わらない会話だ。
でも、俺の頭の一部はどうしても別のところへ向かう。
「遅い、か」
「気になりますか?」
「うん」
「西補助受所の記録と似ておりますね」
「セリーもそう思う?」
「言葉だけであれば」
彼女はそこで区切った。
「ですが、子供が示した『向こう』が西補助受所を指すことも、『遅い』が設備の応答遅延を意味することも確認されておりません」
「分かってる」
「はい」
「分かってるけど、頭の中で勝手に線が繋がる」
「それ自体は避けられないのではないでしょうか」
「いいの?」
「考えることまで禁じる必要はございません」
セリーは前を見たまま歩いている。
「ただ、頭の中で結んだ線を、現実に存在する線と取り違えなければよろしいかと」
「……それ、いいな」
「何がでしょう」
「頭の中の線と、本当にある線は別」
「はい」
「覚えとく」
「ぜひ」
森を抜ける風が、木々の梢を揺らした。
旧保養施設の建物が見えてくる。
今日は昨日より空が澄んでいる。
門の近くでは洗った布が干され、警備の兵士の横を職員が籠を抱えて通り過ぎていた。
何かが起こりそうな場所には見えない。
それでいい。
◇
門を入ると、ガルムが待っていた。
「早かったな」
「朝飯は食った」
「聞いてない」
「最近そこから確認されるから」
「セリーがいるなら大丈夫だろ」
「信用の差がひどい」
「日頃の行いだ」
ガルムはセリーへ軽く頭を下げ、それから彼女が持つ包みを見る。
「何だ?」
「砂糖菓子です」
「調査道具より平和だな」
「本人の希望」
「なら最優先だ」
冗談のように言ったが、ガルムの声は穏やかだった。
「子供は?」
「部屋にいる。お前が来るって伝えたら、窓のところから卓へ戻った」
「何してた?」
「外を見てたらしい」
「西?」
「聞いてない」
「そうだよな」
「方角の記録は職員が残してる。それ以上は本人が言うまで待つ」
俺たちは生活区画へ向かう。
「設備は?」
「昨夜の一か所発光以降、変化なし。第二線の目視位置も前回記録から有意な変化なし。旧職員詰所の表示板も動いてない」
「西補助受所は?」
「開けてない」
「床も?」
「剥がしてない」
「壁も?」
「壊してない」
「魔力流した?」
「流してない」
「よし」
ガルムが横目で俺を見る。
「誰に確認してるんだ」
「全員」
「お前自身にもやっとけ」
「してる」
「ならいい」
生活区画へ入る前に、ガルムが足を止めた。
「一つだけ」
「何?」
「今朝の『おそいの、アルじゃない』の後、設備に関係しそうな発言はない。ただ、朝食の焼き林檎が昨日より小さいとは言った」
「それは重要だな」
「職員が切り方の違いだと説明した」
「納得した?」
「半分くらい」
「じゃあ後で聞かれるかも」
「お前が責任取れ」
「何で俺が」
セリーが静かに言う。
「必要であれば、同じ大きさへ切る方法をご説明いたします」
「そこまでしなくていいと思う」
「本人が望めば、です」
「それならいい」
ガルムが笑った。
「行ってこい。俺は中央棟に戻る」
「うん」
「アル」
「何?」
「会いに行け」
短い言葉だった。
調べに行くな、とは言わなかった。
その必要がないくらい、俺の目的を確認しているのだろう。
「分かってる」
俺はセリーと並んで廊下を進んだ。
◇
扉を二度叩く。
「アル?」
「うん。セリーもいる」
「はいって」
扉を開ける。
子供は卓の前に座っていた。
昨日と同じ紙箱がある。
今日は蓋の上に紙の輪が置かれていた。
布鞄は椅子の背。
木片は見えない。
「おはよう」
「おはよう」
子供の視線が俺からセリーへ移る。
「セリー」
「おはようございます」
「あおいの」
「お持ちしました」
セリーが包みを見せる。
子供の顔が明らかに明るくなった。
「たべる」
「はい。ただし、先ほど朝食を召し上がったばかりと伺っておりますので、三つです」
「さんこ?」
「はい」
「アルは?」
「主様は二つです」
「なんで?」
「私も聞きたい」
「主様は黙っていてくださいませ」
子供が笑う。
「アル、にこ?」
「らしい」
「ぼく、さんこ」
「勝ったな」
「はい」
「勝敗ではございません」
セリーはそう言いながら、卓の上へ小さな皿を二つ置いた。
子供に三つ。
俺に二つ。
自分の分はない。
「セリーは?」
子供が聞く。
「私は必要ございません」
「いっこ」
「私に、でしょうか」
「うん」
子供は自分の皿から一つ摘まもうとする。
セリーが止めるのではなく、少しだけ目を見開いた。
「私へくださるのですか?」
「うん」
「では、いただきます」
セリーは掌を差し出した。
子供が青い砂糖菓子を一つ置く。
その瞬間、子供の皿は二つになった。
俺と同じだ。
「同じになったな」
「うん」
「いいの?」
「セリー、つくった」
「そうだな」
「セリーもたべる」
セリーは掌の上の菓子を見た。
ほんのわずかに、いつもの無表情が柔らかくなる。
「ありがとうございます」
口へ運ぶ。
子供はそれをじっと見てから、自分の一つを食べた。
「おいしい」
「何よりです」
「アルも」
「はいはい」
「主様」
「何?」
「食べ物を口に入れたままお話しにならないように」
「まだ入れてないよ」
「事前の注意です」
また子供が笑った。
しばらく、本当にそれだけだった。
砂糖菓子を食べる。
昨日の木の実が渋いらしいという話をする。
子供は俺に「しぶいの、たべる?」と聞き、俺が「できれば避けたい」と答えると、満足そうに頷いた。
設備の話は出ない。
俺からも出さない。
やがて二つ目の砂糖菓子を食べ終えた子供が、紙の輪へ触れた。
「これ」
「昨日の?」
「うん」
「今日は外なんだな」
「そと」
紙箱の蓋を開ける。
中は空だ。
「いない」
「輪は外にあるな」
「うん」
輪を中へ入れる。
「いる」
「うん」
また出す。
「いる?」
今度は疑問だった。
「俺に聞いてる?」
「うん」
「外にある」
「いる?」
「なくなってはいないと思う」
子供は紙の輪を見る。
「みえる」
「うん」
「みえないと?」
箱の中へ入れ、蓋を閉じる。
「見えないな」
「でも?」
「中に入れたのを見てたから、俺は中にあると思う」
「みてなかったら?」
少し難しい。
「分からない」
「ない?」
「分からないのと、ないのは違うかな」
子供が蓋へ指を置く。
「あるかも?」
「うん」
「ないかも?」
「うん」
「じゃあ、あける?」
「知りたければ」
「しりたくないなら?」
「開けなくていい」
子供は蓋から手を離した。
「じゃあ、あけない」
「うん」
それで終わる。
紙箱は閉じたまま。
中には輪があるはずだ。
少なくとも、俺たちは入れたところを見た。
「アル」
「ん?」
「きょう、きた」
胸の奥がわずかに跳ねた。
「俺が?」
子供は首を横へ振る。
「アルじゃない」
昨日の言葉と同じだ。
俺はセリーを見る。
彼女は何も言わない。
「何か来た?」
「うん」
「今?」
「ちがう」
「いつ?」
子供が窓を見る。
「ごはんのあと」
「朝ごはん?」
「うん」
「何が来たの?」
子供は答えない。
嫌がっているというより、言葉を探している。
「……しらない」
「分からない?」
「うん」
「怖かった?」
「ちょっと」
「今も?」
子供は胸へ手を当てる。
しばらく自分の身体を確かめるように黙った。
「いまは、へいき」
「痛いところは?」
「ない」
「苦しい?」
「ない」
「ここから出たい?」
「いかない」
「分かった」
安全に関する確認だけする。
子供が俺を見る。
「もっと、きく?」
「聞いてほしい?」
逆に尋ねると、子供は少し考えた。
「……ひとつ」
「一個だけ?」
「うん」
「じゃあ、一個」
何を聞くか。
聞きたいことは山ほどある。
何が来た。
どこから。
音か。
光か。
人か。
設備か。
木片と関係するのか。
西補助受所か。
でも一つだけなら、安全と本人の感覚に近いものがいい。
「来たものは、今ここにいる?」
子供の目が少し大きくなった。
すぐには答えない。
紙箱を見る。
窓を見る。
布鞄を見る。
最後に俺を見る。
「……いない」
「今はいない?」
「うん」
「分かった」
「おわり?」
「一個って約束したから」
「うん」
子供は少し安心したように息を吐いた。
セリーが黙って水を差し出す。
子供は受け取って一口飲んだ。
「セリー」
「はい」
「アル、ききたい?」
「とても聞きたそうでございます」
「おい」
「事実です」
子供が笑う。
「でも、きかない?」
「主様は約束を守ろうとしておられます」
「えらい?」
「今回は」
「今回はって何だよ」
部屋の空気が少し軽くなる。
それから子供は自分から言った。
「きたけど」
俺は口を挟まない。
「まだ」
指先が紙箱の蓋をなぞる。
「まだ、たりない」
今までなかった言葉だった。
俺は反応を抑える。
「足りない?」
聞き返しただけだ。
「うん」
「何が足りないかは?」
子供は首を横へ振った。
「わかんない」
「そっか」
「でも、たりない」
「うん」
「だから、まだ」
その先は言わなかった。
俺も聞かなかった。
◇
部屋を出ると、セリーはしばらく黙って歩いた。
生活区画から少し離れたところで、俺が先に口を開く。
「来た」
「はい」
「でも今はいない」
「本人の発言では」
「足りない」
「はい」
「何が?」
「分かりません」
「だよな」
窓の外には西側の建物が見える。
古い石壁。
物置として使われている区画。
そのさらに向こうには木々がある。
「西補助受所の『応答遅延』」
「似ております」
「来たけど足りない」
「似せようと思えば、似せられます」
セリーの言い方に苦笑する。
「厳しいな」
「主様が頭の中で線を引いておられますので」
「うん」
「その線を消す必要はございません。ただ、まだ紙の上へ書かないことです」
「分かってる」
「はい」
俺たちは中央棟へ向かった。
◇
ガルムたちは、子供の発言をまだ知らなかった。
俺が伝えると、フェリクスの顔が露骨に変わる。
「来た?」
「そこだけ拾うな」
「ですが――」
「『何か分からない』『今はいない』『少し怖かった』『今は平気』『まだ足りない』まで一緒」
「はい」
「あと、西補助受所とは本人は言ってない」
「承知しています」
「北受所とも言ってない」
「はい」
「設備とも言ってない」
「分かっています」
ガルムが笑う。
「フェリクスよりアルの方が必死だな」
「自分にも言ってるんだよ」
「なるほど」
リディアは記録を見ながら言った。
「今朝の『むこう、おそい』の後に、『来た』へ変わったのは事実ですね」
「うん」
「ただし、何が来たかは不明」
「そう」
「本人が示した西寄りの方角との関係も不明」
「そう」
「設備側で、朝食後に何かありましたか?」
ガルムが監視記録を開く。
「中央棟ではなし。青白い光は夜中に一回だけ。その後は何もない」
「地下振動は?」
「夜中の一回だけ」
「旧職員詰所?」
「変化なし」
「第二線?」
「目視上変化なし」
「西側は?」
「監視対象にしてない」
俺がガルムを見る。
「してない?」
「外から普通に見える範囲は警備が見てる。でも設備監視みたいなことはしてない」
「何で?」
「何でって、お前」
ガルムが眉を上げる。
「子供が西を見たからって、急に監視員を並べたら、それ自体が新しい条件だろ」
「ああ」
「それに西補助受所が今もそこにあるかすら分からん」
「……そうだな」
「見たくなったか?」
「ちょっと」
「我慢しろ」
「はい」
フェリクスが小さく笑った。
「アル殿も止められる側なのですね」
「お前ほどじゃない」
「そこは競わなくても」
リディアが記録の別頁を開く。
「ただ、設備資料側で一つ確認したいことがあります」
「何?」
「昨日見つかった『所定待機時間』です」
俺たちの視線が集まる。
「見つかった?」
「完全なものではありません」
彼女が一枚の写しを置く。
「別の保守記録に、『応答遅延時の待機』という項目があります。ただし、西補助受所専用か、同型設備全般かは不明です」
フェリクスが続きを引き取る。
「読める部分は、『第一確認後、受側応答なき場合も再呼出を行わず』。その次が欠けています」
「また再呼出禁止か」
「はい。そして下部に、『待機中の表示変化は記録のみとし、切替理由としない』」
「表示が変わっても、代替へ切り替える理由にはしない?」
「そのように読めます」
「何でそこまで切替を嫌がるんだ?」
俺が聞くと、フェリクスは首を横へ振った。
「理由はまだありません」
「事故防止?」
「可能性はあります」
「接続先を間違えるとか?」
「それも考えられます」
「でも証拠なし」
「はい」
ガルムが資料を指で軽く押さえる。
「重要なのは、待ってる途中で何か変わっても、勝手に別へ繋ぐなってことだろ」
「現時点では、それ以上は言えません」
「今、第二線は休止状態の可能性が高い」
「はい。ただし完全確認はできていません」
「北受所は閉鎖済み」
「歴史上は」
「西補助受所への切替は禁止されてた」
「少なくとも、この時期の手順では」
俺は腕を組んだ。
「じゃあ何もしない」
フェリクスがこちらを見る。
「即決ですね」
「待機中に表示が変わっても切り替えるなって書いてあるんだろ」
「はい」
「今の設備が同じかは分からない。でも、触らない理由は増えた。触る理由は増えてない」
リディアが頷く。
「私も賛成です」
「西側も開けない」
「はい」
「第二線も起こさない」
「はい」
「北側も掘らない」
「はい」
「子供に『来たのは応答?』とか聞かない」
「もちろんです」
ガルムが俺を見る。
「なら今日の現地作業は終わりだな」
「早くない?」
「何かしたいのか?」
「……したくなる」
「帰れ」
「まだ昼前だぞ」
「白鴉行け」
「追い出された」
「仕事を振り分けただけだ」
言い方が俺と似ていて、少し笑ってしまう。
「分かった」
俺は資料をもう一度見た。
待機中の表示変化は記録のみ。
切替理由にしない。
何かが来たように見えても、足りないように感じても、こちらが勝手に続きを作ってはいけない。
少なくとも、今は。
◇
白鴉へ着くと、保存されていた少年は昼食を終えたところだった。
今日は歩行練習の前に休むことを選んだらしい。
「後で歩く?」
「うん」
「何周?」
「決めてない」
「いいな」
「また?」
「何が?」
「アル、それ言う」
「だっていいだろ」
「一回かも」
「うん」
「二回かも」
「うん」
「歩かないかも」
「それもあり」
少年は満足そうに頷いた。
その隣では例の老人がパンの残りを持っている。
「今日は見ろ」
「何を?」
「大きさだ」
少年が立ち上がりかける。
「近くで見なくてもいいだろ」
「昨日くらべられなかった」
「じゃあ自分の残ってる?」
「ある」
少年の皿にはパンが少し残っている。
二人が並べる。
老人の方がわずかに大きい。
「俺の勝ちだ」
「でも食べたあと」
「何?」
「おじいさん、いっぱい食べた?」
「食った」
「ぼくも」
「じゃあ最初の大きさ分かんない」
老人が固まる。
「……確かに」
「勝ちじゃない」
「明日は最初に比べる」
「うん」
俺は思わず笑った。
「何日続けるんだよ」
「決着がつくまでだ」
老人は真剣だった。
ヨアヒムが少し離れたところで肩をすくめる。
「食事量が落ちないので、今のところ止める理由はありません」
「医療的にも認められてるのか」
「競争を煽るつもりはありませんが」
少年が俺を見る。
「アルも明日」
「俺も?」
「パン」
「何で参加者増えるんだ」
「くらべる」
「俺、塔で食べるんだけど」
「もってくる?」
「セリーに怒られそう」
「なんで?」
「朝食のパンを持ち出すなって」
「じゃあセリーも」
「さらに増えた」
笑い声が広がる。
こういう時間にいると、旧保養施設で考えていたことが少し遠くなる。
忘れるわけではない。
ただ、頭の中に占める場所が変わる。
それでいい。
◇
三〇八号室では、少年が紙の整理を続けていた。
扉を閉めるか聞くと、今日は半分だけ開けておくと言った。
「半分?」
「全部閉めない」
「開けっぱなしでもない?」
「うん」
「分かった」
扉を本人が示した位置まで動かす。
卓には名前を書いた紙が並んでいる。
赤い布に包まれた手紙は端に置かれたままだ。
「今日は書いた?」
「三枚」
「増えてる」
「一枚、失敗」
「見ていい?」
「いい」
一枚だけ、途中で文字が大きく崩れている。
「捨てる?」
「まだ」
「じゃあ取っとけば」
「失敗でも?」
「嫌じゃなければ」
少年はその紙を見つめる。
「失敗したの、いらない?」
「俺なら取っとくこともある」
「なんで?」
「後で見た時、前はここで失敗したんだなって分かるから」
「分かるの、いい?」
「知りたいなら」
「知りたくないなら?」
「捨ててもいい」
少年は少し考えて、失敗した紙を古い方の束へ入れた。
「今日は取っとく」
「うん」
「明日捨てるかも」
「いいんじゃない」
しばらく紙を揃えた後、少年が赤い布を見る。
「手紙」
俺は待つ。
「今日は……」
長い間があった。
「見るだけ」
「開かずに?」
「うん」
「分かった」
少年は赤い布に包まれた束を自分の近くへ寄せる。
触る。
でも開かない。
「これも、ある」
「うん」
「読まなくても」
「あるな」
「中、見えない」
「うん」
「でも、あるって知ってる」
「そうだな」
さっきの紙箱のことを思い出した。
見えなくても、入れたことを知っている。
だから、あると思える。
でも三〇八号室の少年は、違うところへ進んだ。
「中に何書いてるかは、分かんない」
「全部はな」
「あるのと、分かるの、ちがう」
「……うん」
「読めば分かる?」
「書いてあることは」
「ほんとかは?」
「それは別」
少年は赤い布から手を離した。
「じゃあ、今日は見ない」
「分かった」
「怖いからじゃない」
「うん」
「ちょっと怖いけど」
「うん」
「でも、それだけじゃない」
「分かった」
理由を一つにしない。
怖い。
知りたい。
読みたくない。
存在は確かめたい。
全部一緒にあっていい。
「アル」
「何?」
「今日、あっち行った?」
「旧保養施設?」
「うん」
「行った」
「名前ない子?」
「会った」
「何してた?」
「砂糖菓子食べた」
少年が意外そうな顔をする。
「それだけ?」
「紙の箱でちょっと遊んだ。木の実の話もした」
「調べないの?」
「何を?」
「その子」
俺は少し黙った。
「人は、調べるものじゃないだろ」
「でも誰か分かんない」
「知りたいことはある。でも、誰か分からないからって、その子全部を調べる対象にするのは違うと思う」
少年は自分の手を見る。
「ぼくも?」
「何が?」
「ぼくも、誰か分かんない」
「うん」
「アルフォンスかも分かんない」
「うん」
「じゃあ、調べない?」
「必要なことは調べるかもしれない。身体のこととか、安全に関わることとか、お前が知りたいって言ったこととか」
「本物かどうか」
「それは……お前が知りたいなら、一緒に考える」
「アルが知りたいなら?」
答えるまで少し時間がかかった。
「俺も知りたい」
「じゃあ調べる?」
「俺が知りたいだけで、お前の身体や気持ちを勝手に使うのは違う」
少年は黙った。
「めんどくさい」
「すごくな」
「王子って、もっと簡単?」
「俺はもう王太子じゃないけど、昔の俺ならもっと簡単に決めてたかもしれない」
「どっちがいい?」
「今の方が疲れる」
「いい方は?」
「……今かな」
少年が少し笑った。
「じゃあ、めんどくさくていい」
「そうだな」
◇
午後、旧保養施設から新しい報告はなかった。
設備変化なし。
子供も昼食後は庭へ出て、葉を二枚拾っただけ。
「来た」「足りない」に関する追加発言もない。
俺は白鴉から塔へ戻り、約束通り資料を読む時間を決めた。
セリーが時計を置く。
「四十五分です」
「分かってる」
「延長は?」
「五分」
「認めません」
「まだ何も言ってない」
「顔に出ております」
「みんなそれ言う」
俺は苦笑しながら、エルが整理した資料へ目を落とした。
今日見るのは、西補助受所の保守記録だけ。
他へ広げない。
最初の数頁は既知の内容だった。
通常休止。
北受所応答遅延時にも独断切替禁止。
遅延は不応答と同義ではない。
所定待機時間内は第二線休止保持。
次の頁。
紙の端が欠けている。
読める文字は少ない。
「エル、ここ拡大」
『表示します』
古い文字が浮かぶ。
――西補助受所使用条件。
「条件?」
続きを読む。
第一項は欠損。
第二項。
――北受所機能停止が確認され、かつ復旧不能と判断された場合。
俺は眉を寄せた。
「応答が遅いだけじゃ駄目」
『そのように読めます』
第三項。
――接続対象側の再確認を要す。
「接続対象側……」
誰だ。
何だ。
人なのか。
設備なのか。
施設なのか。
第四項は半分しか残っていない。
――代替受所使用前、旧接続……
そこで途切れる。
「旧接続、何だろ」
『復元不能です』
「勝手に補わない」
『はい』
さらに下。
赤い古い筆記で、後から加えられたらしい注意書きがある。
――応答遅延のみを理由とした代替切替、厳禁。
その下に、別の筆跡。
――過去例あり。
俺の指が止まった。
「過去例」
『はい』
「事故?」
『その記載はありません』
「問題が起きた?」
『不明です』
「過去に、応答が遅いだけなのに西へ切り替えた例がある、までは?」
『「過去例」が直前の禁止事項を指す場合、その可能性があります。ただし、文法上の対応関係は完全には確定できません』
「そうだな」
でも気になる。
かなり。
「フェリクスが見たら喜びそう」
『高確率で』
「明日まで見せない?」
『情報共有方針に反します』
「冗談だよ」
エルへ共有を頼む。
ガルム、リディア、フェリクス、アンナマリー。
それぞれが別の場所から確認できるようにする。
俺一人で持たない。
数分後、アンナマリーから最初の返答が来た。
『同時代の別資料で「代替受所」という語を探します。ただし西補助受所との同一視はしません』
「さすが」
ガルムからは短い。
『今日は何も開けない』
「知ってる」
フェリクスからは長かった。
『過去例の記録を探したい。明日三冊を希望する』
「二冊」
『三冊』
「二冊」
『薄いものを含めて三冊』
「厚さ関係ない」
返事が途切れた。
少しして、
『検討します』
とだけ来た。
「何を検討するんだよ」
思わず笑う。
セリーが時計を見る。
「残り十二分です」
「もう?」
「はい」
「あと一枚だけ」
「時間内であれば」
次の紙を開く。
西補助受所とは別の設備引継ぎ票。
古い。
文字が薄い。
最初は関係ないと思った。
だが、下部に「代替」の文字がある。
「エル」
『確認しております』
読む。
――代替接続実施時、旧受側からの遅延応答に注意。
「遅延応答?」
続き。
――切替後に旧受側応答を受信した場合、両受所同時接続を避けること。
背中が冷える。
「同時接続」
『はい』
「だから、遅れてるだけで切り替えるな?」
『可能性はあります』
「旧側から後で返事が来たら、二つ繋がる」
『この文書が同一系統の設備を指す場合、その危険を想定した注意事項と解釈できます』
「でも同じ系統か不明」
『はい』
俺は椅子へ深く座り直した。
なるほど。
応答がない。
待てない。
代わりへ繋ぐ。
その後で、本来の相手から遅れて返事が来る。
二つが同時に繋がる。
だから待て。
そんな仕組みなら、慎重な手順にも意味がある。
でも。
「子供の話とは別」
『はい』
「『まだ足りない』とも別」
『はい』
「今の第二線に同じ危険があるとも決まってない」
『はい』
頭の中に引いた線を、紙へは書かない。
「セリー」
「はい」
「時間は?」
「残り六分です」
「この紙まで読んで終わる」
「承知いたしました」
最後まで確認する。
末尾に短い一文。
――遅延応答確認時、先行代替側を直ちに遮断せず、双方状態確認後に処置判断。
俺は少し驚いた。
「すぐ切るな、なんだ」
『はい』
「二つ繋がったら、慌てて片方を切るんじゃなくて状態確認」
『そのように読めます』
「何でも急いで直せばいいわけじゃない」
その言葉を口にした時、時計が鳴った。
セリーが資料へ手を伸ばす。
「終了です」
「あと――」
「終了です」
「はい」
素直に離す。
今見つかった記録だけでも十分だった。
◇
夜。
旧保養施設では、何も操作しない監視が続いていた。
西補助受所の現存確認はしない。
床も開けない。
壁も壊さない。
第二線も触れない。
中央棟設備盤は、昨日と同じ距離から観察する。
午後十一時を過ぎても変化はない。
名前の分からない子供は、生活区画で眠る準備をしていた。
「紙箱、どこ?」
職員が聞く。
「ここ」
今日は棚ではなく、卓の端。
「そこに置いておく?」
「うん」
「輪は?」
子供は蓋を開ける。
中にある。
「いる」
「分かった」
蓋を閉じる。
布鞄は椅子。
木片も中。
子供は寝台へ入る。
「灯りは?」
「ちいさい」
「扉は?」
「ちょっと」
いつもの幅。
職員が整える。
「おやすみ」
「おやすみ」
職員が離れようとすると、子供が呼び止めた。
「ねえ」
「どうしたの?」
「きょう、きた」
「うん」
「でも」
子供は毛布の上で指を二本立てた。
職員は数を尋ねない。
「こっちじゃない」
「こっち?」
子供は二本の指のうち、片方を折る。
一本だけ残す。
「こっち」
何を指しているのか分からない。
「分からない?」
子供が職員の顔を見た。
「うん。ごめんね、私は分からない」
「いい」
「教えてくれる?」
質問した後、少し広すぎたかと思った。
子供は嫌がらない。
「まだ、いい」
「分かった」
「あとで」
「うん」
それだけで終わる。
職員は記録へ、指の動きも含めて残した。
意味は付けない。
◇
午前一時三十六分。
中央棟変化なし。
午前二時十一分。
地下微弱振動、一回。
約一・五秒。
中央棟発光なし。
旧職員詰所変化なし。
午前二時五十八分。
設備盤の右側に青白い光が現れる。
時刻記録。
位置記録。
操作なし。
約四十秒後、右より少し左にも弱い光。
二か所。
監視者たちは静かに記録を続ける。
三分。
四分。
どちらも消えない。
午前三時三分。
最初の右側が弱くなる。
三時四分。
消灯。
二か所目は残る。
三時七分。
残る。
三時十分。
まだ残る。
昨夜より長い。
誰も触らない。
三時十二分。
突然、設備盤ではなく、部屋の西側の壁際から小さな音がした。
カチ、と。
三人の視線が動く。
「位置?」
「西壁寄り」
「設備盤じゃない」
「触るな」
記録する。
青白い光はまだ残っている。
三時十三分。
もう一度。
カチ。
今度は少し低い。
「同じ位置?」
「近い。でも断定できない」
「中央の光は?」
「継続」
三時十四分。
西壁の音は止まる。
三時十五分。
青白い光が弱くなる。
三時十六分二十二秒。
消えた。
部屋は暗く戻る。
「全消灯」
「操作なし」
「西壁音、二回」
「地下振動は一時間以上前」
「旧職員詰所?」
「変化なし」
監視者はそこで終えなかった。
何も起きなくなった時間も記録する。
三時半。
変化なし。
四時。
変化なし。
五時。
変化なし。
◇
夜明け前。
名前の分からない子供はまだ眠っていた。
中央棟の出来事を知るはずはない。
午前五時五十二分。
寝返りを打つ。
六時を少し過ぎて目を開けた。
職員はいつも通り水を用意する。
「おはよう」
「おはよう」
「眠れた?」
「うん」
「身体、変なところない?」
「ない」
子供は水を飲む。
それから卓の紙箱を見る。
起き上がって近づく。
蓋を開ける。
紙の輪は中にある。
「いる」
「いるね」
輪を出す。
卓へ置く。
箱を見る。
「いない」
「箱の中にはいないね」
「うん」
ここまでは昨日と同じ。
だが、今日は輪を戻さなかった。
紙箱を少し横へ動かす。
その隣へ輪を置く。
「べつ」
「別に置く?」
「うん」
職員はそれ以上聞かない。
子供は窓へ向かう。
朝の光が顔へ当たる。
しばらく外を見る。
「きのう」
「うん」
「きた」
「そう言ってたね」
「たりなかった」
「うん」
「きょう」
子供は黙る。
職員も待つ。
「……もうひとつ」
小さな声だった。
職員の指が記録紙の上で止まりそうになる。
それでも急いで書かない。
最後まで聞く。
「もう一つ?」
「うん」
「何が?」
子供は答えない。
少しして首を横へ振る。
「わかんない」
「分かった」
「でも」
窓から離れ、卓へ戻る。
紙箱と、その外へ置いた輪を見る。
「いっしょにしない」
「箱と輪を?」
子供は首を横へ振る。
「ちがう」
では何なのか。
聞きたくなる。
職員は待った。
「きたの」
子供が言う。
「うん」
「べつ」
「別?」
「うん」
指を二本立てる。
「ふたつ?」
安全や生活の質問ではない。
職員は聞いてから少し後悔した。
子供は首を横へ振った。
「かぞえない」
職員の息が止まる。
「分かった」
「かぞえない」
「うん。数えない」
子供は指を下ろした。
少し安心したように息を吐く。
「アル」
「アルに伝える?」
「うん」
「何を伝える?」
子供は考える。
紙箱を見る。
輪を見る。
窓を見る。
「きた」
「うん」
「でも、べつ」
「そのまま伝える?」
「うん」
「分かった」
職員は一語も足さずに記録した。
――本人よりアルへの伝言。「きた。でも、べつ」。
そして、その下へ別に記す。
――本人、「かぞえない」と二度発言。職員側から残数確認は行わず。
◇
塔では、俺が朝食のパンへ手を伸ばしたところだった。
『主様。旧保養施設より伝言です』
「子供?」
『はい』
「何て?」
『「きた。でも、べつ」』
パンを持った手が止まる。
セリーの視線が俺の手へ落ちた。
俺はそのまま一口食べた。
「食べた」
「はい」
それから改めてエルへ聞く。
「他には?」
『本人は今朝、紙箱から輪を出し、別に置いています。ただし本人は、その行為と「きた。でも、べつ」の関係を否定しています』
「うん」
『また、指を二本立てた後、職員からの問いに対し「かぞえない」と発言。同語を二度繰り返しています』
俺は目を閉じた。
三つの窓。
二か所の光。
一か所。
二つ。
一つ。
数字が勝手に並びたがる。
「数えない」
『はい』
「本人がそう言ったんだな」
『はい』
「なら数えない」
セリーが静かに茶を置いた。
「昨夜の設備は?」
『中央棟で二か所に青白い発光。時間差で自然消灯。発光中、西壁寄りから二度の小音を記録しております』
「西壁」
『はい』
「西補助受所方向?」
『中央棟内部の西壁という位置情報のみです。西補助受所との接続は確認されておりません』
「分かった」
また頭の中に線が生まれる。
西。
遅い。
来た。
別。
代替受所。
遅延応答。
同時接続を避ける。
でも。
「エル」
『はい』
「今日の指示」
『どうぞ』
「西壁を開けない」
『はい』
「音がした場所へ強い走査をしない」
『はい』
「第二線を動かさない」
『はい』
「西補助受所へ切り替える操作が仮に見つかっても使わない」
『はい』
「子供に数を聞かない」
『共有します』
「『別』が何と何かも、こっちから選択肢を出さない」
『はい』
セリーが俺を見る。
「そして?」
「朝食を食べる」
「はい」
「今日は先に言ったぞ」
「成長なさいました」
「褒め方が子供なんだよ」
「主様の健康管理においては、大きな進歩です」
俺は苦笑しながらパンをちぎった。
何かが来た。
でも別。
何と何が別なのかは分からない。
それでいい。
分からないものを、こちらの都合で一つにまとめない。
遅れているからといって、代わりを先に選ばない。
数えられそうだからといって、残りを数えない。
今朝、俺たちができることは、それくらいだった。
けれど朝食が終わる少し前、旧保養施設からもう一つだけ報告が入った。
『主様』
「今度は?」
『子供の発言ではありません』
エルの声色は変わらない。
それでも俺はカップを置いた。
『中央棟西壁の外側にあたる廊下で、リディアが既存図面との非接触照合を行いました』
「開けてないよな?」
『開けておりません。目視と既存寸法のみです』
「それで?」
『現在の西壁位置と、旧図面上の西補助受所方向へ伸びる細い設備路の起点候補が、誤差範囲内で重なる可能性があります』
俺は黙った。
西壁で二度鳴った音。
旧図面上の細い設備路。
その先にあったかもしれない西補助受所。
「可能性、だな」
『はい。壁内の現存設備は確認されておりません』
「ガルムは?」
『「だから開けない」と』
「だよな」
思わず笑う。
俺より早い。
「フェリクスは?」
『壁を見たいと』
「見るだけ?」
『現時点では』
「現時点では、が怖いな」
「主様」
セリーに呼ばれる。
「はい」
「スープが冷めます」
「……食べる」
俺は匙を取った。
壁の向こうに何があるのか。
細い設備路が今も残っているのか。
西補助受所へ本当に続いていたのか。
昨夜の音と関係があるのか。
何一つ分からない。
だから壁は、まだ壁のままでいい。
開ければ答えがあるとは限らない。
開けたことで、待っていた何かをこちらから変えてしまうかもしれない。
何より、あの子は一度、あちらを見て言っている。
開けないで、と。
今は、それだけで十分だった。




