第77話 会いに来ただけなのに、あの子は三つ目を待っていました
旧保養施設へ続く道には、昨夜までの雨を残した場所がまだいくつかあった。
森に近いところでは轍の窪みに水が溜まり、朝日を受けて白く光っている。その一方で、日当たりのいい斜面はすでに乾き始めていて、湿った土と若い草の匂いが風に混じっていた。
俺はいつもより少し遅い歩調で坂を上っていた。
急ぐ理由がない。
名前の分からない子供は朝食を終えたあとなら来てもいいと言った。それなら、俺が早く着くために朝食を急いだり、道中を走ったりする必要はない。
むしろ、そんなことをすればセリーに何を言われるか分からなかった。
『主様』
「何?」
『歩行速度が通常より約一割上昇しております』
「……普通に歩いてるけど」
『旧保養施設へ向かうと決定された直後と比較した場合です』
「細かいな」
『セリーより、必要であれば注意するよう申しつけられております』
「いつの間に」
『朝食後です』
見送る時のセリーは何も言っていなかった。
だからこそ余計に、きっちりエルへ頼んでいたのだろう。
「分かった。急がない」
『ありがとうございます』
「エルまでセリーみたいになってない?」
『比較対象が不明瞭です』
「絶対分かってるだろ」
返事はなかった。
俺は小さく息を吐き、意識して歩幅を戻した。
道の向こうに旧保養施設の屋根が見えてくる。
白鴉ほど大きくはないが、森と斜面へ沿うように建てられた建物群は、一度全体像を知ってしまうと意外なほど広い。生活区画、中央棟、かつての治療区画、職員用の建物。それらのさらに下や奥に、まだ確認していない場所が残されている。
そして北側には、今では地上からほとんど痕跡を見つけられない旧北受所の跡がある。
第二夜間線。
中間保持箱。
箱側表示。
三つの窓を持つらしい古い表示器。
昨夜、中央棟では二か所に青白い光が現れ、時間をずらして消えた。
そのことを知らないはずの子供は、朝になって「ふたつ、ねた」と言った。
考えれば考えるほど、聞きたいことは増える。
だから俺は、施設へ入る前に一度足を止めた。
「エル」
『はい』
「俺、今どんな顔してる?」
『質問の意図を確認してもよろしいでしょうか』
「知りたそうな顔してない?」
短い間があった。
『しております』
「即答じゃないだけ優しいな」
『主様は、現在強い興味と警戒を同時に示しておられます』
「隠せる?」
『表情のみであれば、ある程度は』
「ある程度か」
俺は頬を軽く揉んだ。
別に無表情になりたいわけではない。
子供の前で、問いを抱えた大人の顔をしたくないだけだ。
「まあいいか」
『よろしいのですか』
「完全に隠そうとする方が変だろ。聞かない。それだけ守る」
『承知しました』
門へ向かう。
警備に立っていた兵士が俺を見つけたが、大声で名を呼んだり、必要以上に姿勢を正したりはしなかった。
「おはようございます、アル殿」
「おはよう。ガルムは?」
「中央棟です。リディア殿とフェリクス殿も一緒です」
「子供は?」
「生活区画におります。朝食後、庭へ出るか部屋にいるか聞かれ、今は部屋を選んでいます」
「俺が来ることは?」
「『アルが来る』とだけ伝えています。設備について話すためとは伝えておりません」
「ありがとう」
兵士が少しだけ表情を緩めた。
「ガルム隊長からも同じ指示が出ています」
「俺、本当に要らなくなってきたな」
「……え?」
「何でもない」
戸惑わせてしまった。
俺は笑って建物へ入った。
◇
生活区画の廊下は、朝の仕事が一段落したところだった。
洗った食器を厨房へ運ぶ職員がいて、別の部屋では窓を開けるかどうか患者本人へ確認している。薬草の匂いより、温かい麦と焼いた果物の残り香の方が強い。
以前なら、施設という場所は治療する側の都合で動いていたのだろう。
今は違う。
少なくとも、そうしようとしている。
窓を開けるか。
庭へ出るか。
扉を閉じるか。
何を食べるか。
眠るか。
小さな選択が、生活の中に戻されている。
部屋の前には職員が一人いた。
「今、中に?」
「はい。紙を触っています」
「入っていいって?」
「先ほど確認しました。『アルならいい』とのことです」
「分かった」
俺は扉を二度、軽く叩いた。
中からすぐに声が返る。
「アル?」
「うん」
「きた?」
「来た」
少し間を置いてから、扉を開ける。
子供は卓の前に座っていた。
棚に置いてあった紙箱が、今日は卓の上にある。
蓋は閉じている。
その横には布鞄。
昨日拾った木の実と葉は、鞄の口から少しだけ見えていた。
子供は俺を見る。
頭から足まで確かめるように視線を動かし、それから最初に言った。
「ごはん」
「食べたよ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「はやく?」
「……普通に」
疑うような目をされた。
「エルに聞く?」
「きく」
「えっ」
『主様は朝食を完食されています。通常より極端に早い摂取ではありません』
子供が頷く。
「よし」
「何で俺、確認されてるんだ」
「たべるの、だいじ」
「そうだな」
「わすれる?」
「時々」
「だめ」
「はい」
素直に返事をすると、子供の口元が少しだけ緩んだ。
俺も笑う。
それでいい。
設備の話はしない。
昨夜の光も、「ふたつ、ねた」も聞かない。
俺は空いている椅子を指した。
「ここ座っていい?」
「うん」
「近くない?」
子供が俺と椅子の距離を見る。
「だいじょうぶ」
「じゃあ座る」
腰を下ろす。
それから、何も言わなかった。
子供も黙っている。
外では風が木の葉を揺らしている。
廊下の向こうから食器を重ねる小さな音が聞こえ、少し離れた部屋では誰かが職員と今日の昼食について話していた。
沈黙は長かった。
でも、居心地は悪くない。
俺が何も聞かないことを、子供がどう受け取っているのかは分からない。
ただ、こちらから埋める必要はないと思った。
やがて子供が紙箱へ手を伸ばす。
「これ」
「うん」
「ぼくの」
「うん」
昨日ガルムへ言ったのと同じだ。
俺は箱へ手を伸ばさない。
子供が蓋を開けた。
中には紙の輪がある。
「いる」
「いるな」
「だす」
自分で輪を取り出す。
卓へ置く。
「いない」
「箱の中にはいない」
「ここ」
輪を指す。
「うん」
また戻す。
「いる」
俺は少しだけ笑った。
「入れたり出したりしてたの?」
「うん」
「楽しい?」
子供は考える。
「わかる」
「何が?」
反射的に聞きかけたが、言葉はもう出ていた。
しまったと思った。
けれど子供は嫌そうな顔をしない。
紙の輪をもう一度取り出した。
「いるとこ」
「場所が?」
「うん」
箱の中へ戻す。
「ここなら、いる」
「外なら?」
子供は輪を出す。
「ここ」
卓を指す。
「いなくなるわけじゃない?」
「うん」
そこで俺は黙った。
箱から出したら消えるわけではない。
場所が変わる。
ただ、それだけの遊びなのかもしれない。
あるいは、何か別のものを真似しているのかもしれない。
どちらでもいい。
今は。
「アル」
「ん?」
「ききたい?」
心臓を見透かされた気がした。
「……あるよ」
「いっぱい?」
「かなり」
「きかない?」
「聞いていいって言われてないから」
子供が首を傾げる。
「ぼく、アルきていいっていった」
「会っていいってことだと思った」
「きいていいじゃない?」
「同じ?」
今度は俺が聞く。
子供は少し考えた。
「……ちがう?」
「俺は違うと思ってた」
「なんで?」
「会いたいだけの日もあるだろ」
子供は黙る。
「俺も、セリーと一緒にいる時、ずっと何か質問してるわけじゃないし」
「セリー」
「うん」
「いっしょ?」
「よく一緒にいる」
「ずっと?」
「ずっとではないかな」
「でも、いっぱい?」
「いっぱい」
子供は少しだけ笑った。
「じゃあ、きかない?」
「聞かない時もある」
「いるだけ?」
「いるだけの時もある」
「へん」
「そう?」
「わかんない」
「俺も」
そこで二人とも少し笑った。
子供は紙箱の蓋を閉じた。
「きいていい」
俺の笑いが止まる。
「何を?」
「ぼくがいったこと」
「どれ?」
「きのう」
急に慎重になる。
聞いていいと言われた。
だからといって、全部を一度に聞く必要はない。
「『まだ、こない』?」
「うん」
「それについて聞いていい?」
「うん」
俺は一度息を整えた。
「何が来ないの?」
子供はすぐには答えなかった。
紙箱の蓋へ指を置く。
目は箱ではなく、窓の向こうを見ている。
「……わかんない」
「そっか」
そこで止める。
子供がこちらを見る。
「それだけ?」
「うん」
「もっと、きかない?」
「分からないって言ったから」
「でも」
子供は少し困った顔をした。
「きいていいっていった」
「聞いていいのと、答えが出るまで聞くのは別だろ」
しばらく俺を見る。
「へん」
「今日二回目だな」
「アル、へん」
「知ってる」
子供の肩から少し力が抜けた。
「でも」
「うん」
「くる」
俺は口を閉じた。
続きを待つ。
「なにか、くる」
「そう感じる?」
「うん」
「何かは分からない?」
「うん」
「怖い?」
子供はすぐには頷かなかった。
布鞄へ手を伸ばし、中に入っている木片へ触れる。
取り出さない。
「……ちょっと」
「逃げたい?」
「いまは、いい」
「扉閉める?」
「いい」
「別の場所へ行く?」
「いかない」
「分かった」
安全に関わるところだけ確認する。
それ以上は聞かない。
子供は俺を見ていた。
「アル」
「うん?」
「ふたつ、ねた」
向こうから言った。
「今朝も言ってたな」
「うん」
「それについても聞いていい?」
「うん」
「何が寝たの?」
子供は紙箱ではなく、自分の指を見る。
右手を開く。
一本ずつ確かめるように見てから、二本の指を立てた。
昨日は指で数を示さなかった。
今日は、はっきり二本だった。
「ふたつ」
「二つなんだな」
「うん」
「何が?」
子供の眉が寄る。
「……あかり?」
疑問の形だった。
俺の背中に冷たいものが走る。
昨夜、中央棟では二か所に青白い光が見えた。
でも、それを顔に出さないようにした。
「光?」
「ちがう」
すぐに否定された。
俺は息を止めかける。
子供は二本の指を立てたまま首を振る。
「ひかりじゃない」
「分かった」
危なかった。
俺の頭は、今の一言だけで昨夜の発光へ飛んだ。
子供自身が否定した。
「じゃあ、何?」
「ねるやつ」
「寝るもの?」
「うん」
「人?」
「ちがう」
「物?」
子供は困った顔になる。
「……わかんない」
「分かった」
また止める。
二本の指が下がる。
子供は紙箱の蓋を撫でた。
「ひとつ、きのう」
「うん」
「ふたつ、きょう」
ここで俺の頭が勝手に足し算を始める。
一つ。
二つ。
三つ。
三窓式表示器。
すぐに止めた。
「昨日の一つと、今日の二つは別?」
聞いてから気づく。
これは少し誘導が強い。
だが子供は首を傾げた。
「べつ?」
「ごめん。今のは忘れて」
「なんで?」
「俺が勝手に数をまとめようとした」
「まとめる?」
「昨日一つ、今日二つなら、三つなのかなって」
子供はしばらく俺を見る。
それから、はっきり首を横へ振った。
「ちがう」
「三つじゃない?」
「うん」
胸の奥で、組み上がりかけていたものが崩れた。
むしろ安心する。
「昨日の一つを、今日の二つに足さない?」
「たさない」
「分かった」
重要だ。
でも意味はまだ分からない。
昨日一つ。
今日二つ。
累計ではない。
少なくとも本人の感覚では。
「じゃあ、今は?」
子供が指を二本立てる。
「ふたつ、ねてる」
「起きてるのは?」
子供の表情が変わった。
視線が窓へ向く。
「……まだ」
「まだ?」
「まだ、こない」
俺は黙った。
来るものと、寝るもの。
同じものか。
違うものか。
分からない。
子供は木片を鞄から取り出した。
表の「帰」「還」。
裏の三重の四角と斜線。
俺へ渡さず、自分の膝に置く。
「これ、いる」
「うん」
「でも、よばない」
「前にも言ってたな」
「うん」
「今も?」
「よばない」
「何も呼んでない?」
「うん」
「じゃあ持ってるだけ?」
「いるから」
その言葉も以前と同じだ。
木片は必要。
でも呼ばない。
なくすと戻れない。
あると戻される。
矛盾しているようで、本人の中では矛盾していないのかもしれない。
「アル」
「うん」
「これ、つかわないで」
俺は木片を見る。
「使わない」
「とらないで」
「取らない」
「あけないで」
「何を?」
子供が木片を見る。
それから、窓の外へ視線を動かした。
中央棟ではない。
北でもない。
少し西寄り。
「……あっち」
俺は振り返らない。
方向を確認したくなる。
でも、俺が急に見れば、子供の言葉へ意味を置いてしまう。
「開けてほしくない?」
「うん」
「今、誰か開けようとしてる?」
子供は首を横へ振る。
「じゃあ、今は開けない」
「うん」
「何を開けないかは、俺にはまだ分からないけど」
「それでいい」
その返事は早かった。
俺は少し驚いた。
「分からなくてもいい?」
「うん」
「前は、分からないの嫌じゃなかった?」
子供は紙箱を見る。
「アルも、わかんない」
「いっぱいあるな」
「ガルムも」
「あると思う」
「みんな?」
「たぶん」
「じゃあ、いい」
単純な理屈だった。
でも、胸の奥へ静かに落ちる。
分からないことを抱えているのは、自分だけではない。
それだけで、怖さが少し小さくなることもある。
「ねえ」
「うん?」
「アル、きょう、なにする?」
「この後?」
「うん」
「ガルムたちのところへ行くかもしれない。あと、白鴉にも戻るかも」
「ここは?」
「お前がもう少しいていいって言うなら、少しいる」
子供は考える。
「いる」
「分かった」
それから本当に、何もしなかった。
紙を折るのを見た。
昨日拾った木の実を見せてもらった。
詳しい人に見せるか聞くと、今日は「みてもいい」と言った。ただし持っていくのは嫌だというので、後で植物に詳しい職員を部屋へ呼ぶことになった。
俺たちは木の実の形について話した。
丸い。
少し尖っている。
茶色。
食べられるかはまだ分からない。
「分かったら、たべる?」
子供が聞く。
「食べられるって分かっても、食べたくなければ食べなくていい」
「アルなら?」
「味による」
「にがい?」
「苦いなら嫌だな」
「すっぱい?」
「少しなら」
「あまい?」
「食べる」
「セリーも?」
「たぶん俺より先に安全か調べる」
子供が笑った。
その笑いを聞いた時、ここへ来た理由を忘れずに済んだ気がした。
設備の答えではない。
会うために来た。
それでよかった。
◇
子供が昼前に休むと言ったので、俺は生活区画を出た。
廊下へ出ると、少し離れた壁際にガルムがいた。
「いつから?」
「途中から」
「聞いてた?」
「職員が一人同席してたから、俺は入ってない」
「顔が聞きたそうだけど」
「お前と同じだ」
「……だよな」
俺たちは生活区画を離れ、中央棟へ向かう。
外へ出ると日差しが強くなっていた。昨日まで濡れていた石畳はほとんど乾いている。
「『ふたつ、ねた』は光じゃないって」
「聞いた」
「人でもない」
「それも」
「物かは分からない」
「うん」
「昨日一つ、今日二つを足して三つじゃないとも言った」
「そこは大きいな」
「三窓式表示器へ結びつけるのはやめよう」
「元々結びつけてない」
「俺が結びつけそうになった」
「知ってる」
「何で」
「お前だから」
「雑だな」
ガルムは少し笑う。
中央棟へ近づくにつれ、警備の人数が増える。
とはいえ物々しい雰囲気はない。設備管理室の周囲へ不用意に人が入らないよう、出入口を整理しているだけだ。
「それより」
ガルムの声が低くなる。
「最後の『あけないで』」
「西寄りを見てた」
「職員の記録でもそうなってる」
「何かある?」
「ある」
足が止まりそうになった。
ガルムがこちらを見る。
「だから止まるな」
「……何が?」
「旧図面上では、西側に小規模な設備区画があった」
「今は?」
「物置と空室」
「地下は?」
「分からん」
「おい」
「古い図面だ。しかも年代が違う」
俺たちは歩き続ける。
「子供が見た方向と完全一致?」
「しない。大まかな方角だけだ」
「じゃあまだ結びつけない」
「そういうことだ」
「調べる?」
「紙をな」
中央棟へ入る。
設備管理室の隣室では、リディアとフェリクスが資料を広げていた。
フェリクスは俺を見るなり立ち上がった。
「アル殿。ちょうど興味深いものが」
「待って」
「はい?」
「現物開ける話?」
「いいえ」
「掘る?」
「いいえ」
「魔力流す?」
「いいえ」
「なら聞く」
「信用がありませんね」
「積み重ねだよ」
「最近は何もしていません」
「だから回復中」
リディアが笑いながら一枚の図面をこちらへ向ける。
「西側区画の件です」
「もう見つけたの?」
「子供の発言より前から調べていました」
「それ大事」
「はい。なので、発言を受けて探し始めたわけではありません」
図面はかなり古い。
中央棟と生活区画の位置が現在と少し違う。
西側に小さな四角い区画がある。
「ここ?」
「『補助受所』と読めます」
「受所……」
「北受所とは別です」
フェリクスが説明する。
「規模はかなり小さい。夜間線との直接接続は、この図面では確認できません」
「用途は?」
「不明です。ただ、別紙に同じ名称が一度だけ出ています」
紙を替える。
「『西補助受所、常時使用せず』」
「その下は?」
「『受側不応答時の代替としない』」
俺とガルムが同時に顔を上げた。
「代替にしない?」
「はい」
フェリクスは続きを指す。
「『北受所応答なき場合も、西補助受所への切替を行わず、休止保持を継続』」
室内が静かになる。
俺は古い文字を見つめた。
「つまり北から返事がないからって、西へ勝手に繋ぎ替えるな?」
「この文書だけなら、そう読めます」
「何で?」
「理由は書かれていません」
「西補助受所は何のためにある?」
「それも不明です」
「今の西側区画に設備は残ってる?」
リディアが答える。
「地上部分は何度も改装されています。現在は物置と空室です。床や壁を壊さない範囲で見た限り、明確な設備は確認できていません」
「魔力反応は?」
「通常の古い配線跡程度です。強い反応はありません」
「子供の『あけないで』は?」
ガルムが俺を見る。
「別にする」
「そうだな」
「方角が近いだけ」
「そうだ」
「でも西側を開けない」
「元から開ける予定はない」
「よし」
フェリクスが不思議そうな顔をする。
「なぜアル殿がガルム隊長のようになっているのですか」
「俺も成長するんだよ」
「私だけではなかったのですね」
「お前と一緒にするな」
「そこは一緒だろ」
ガルムが言った。
「嫌だ」
「私も少し不本意です」
「何でだよ」
張り詰めかけた空気が少しだけ緩む。
それでも図面の文字は残る。
北受所が応答しない時、西補助受所へ切り替えてはいけない。
休止保持を続ける。
受側から応答がない時に、別の受け口を勝手に使わない。
なぜそんな注意が必要だったのか。
「以前、誰かが切り替えた?」
俺が聞く。
「可能性はあります」
フェリクスが答える。
「でも記録は?」
「今のところ見つかっていません」
「じゃあ事故があったとは決めない」
「はい」
「西補助受所が危険とも決めない」
「はい」
「北が正しいとも決めない」
「はい」
「ただ、応答がないから別へ回すなって手順があった」
「その通りです」
リディアが図面の端を指す。
「もう一つあります」
「何?」
「この記号です」
西補助受所の四角の脇に、小さな横線が三本。
「何の記号?」
「凡例がありません」
「三本……」
嫌なほど数字が目に入る。
三窓。
三本。
三重の四角。
俺はすぐに視線を外した。
「数が同じだけ」
「はい」
リディアもそれ以上は言わなかった。
「似てるものが多すぎるな」
ガルムが呟く。
「だから、似てるだけでまとめたら駄目なんだろうな」
俺は答えた。
◇
昼過ぎ、植物に詳しい職員が子供の部屋を訪れた。
木の実は子供の掌に乗せたまま見る。
触らない。
「この辺りに生える樫の一種だと思います」
「たべる?」
「人がそのまま食べると、かなり渋いよ」
「しぶい?」
「口の中がきゅっとする感じ」
子供が嫌そうな顔をする。
「にがい?」
「苦いのとは少し違う」
「アル、たべる?」
「アルさんならどうでしょう」
職員が笑う。
「本人に聞いてみる?」
「あとで」
「うん」
「たべなくていい?」
「もちろん」
「わかったけど?」
子供の問いに、職員は少しだけ驚く。
「分かったけど、食べなくていいよ」
「……うん」
子供は木の実を布鞄へ戻した。
「もつ」
「どうぞ」
知った。
でも、実行しない。
食べられるかどうかを調べたからといって、食べる義務はない。
子供はそのことを確かめるように、鞄の口を閉じた。
少しして昼食が運ばれる。
今日は柔らかいパンと野菜の煮込み。
子供はパンをちぎりながら、職員へ聞いた。
「アル、いる?」
「中央棟の方にいるよ」
「まだ?」
「まだ施設にはいると思う」
「あとで、くる?」
「呼んでほしい?」
子供は少し考える。
「……まだいい」
「分かった」
また「まだ」だった。
けれど、職員は設備記録へは入れない。
生活上の発言として残す。
言葉が同じだからといって、意味まで同じではない。
◇
午後、俺は旧保養施設を出る前にもう一度子供のところへ寄るか迷った。
本人は「まだいい」と言っている。
なら寄らない。
簡単なはずなのに、扉の近くを通ると足が少し遅くなった。
「アル」
ガルムが後ろから呼ぶ。
「何?」
「入りたい顔してるぞ」
「分かりやすい?」
「かなり」
「今日それ何回言われるんだよ」
「入るのか?」
「入らない」
「そうか」
「本人がまだいいって」
「ならそれでいい」
俺たちは外へ出た。
門のところで振り返る。
生活区画の窓は見える。
どれが子供の部屋かも分かる。
でも、姿は見えない。
「明日は?」
ガルムが聞く。
「明日決める」
「便利だな」
「みんな使い始めたな、それ」
「便利だからな」
俺は笑って歩き出した。
◇
白鴉へ戻った頃には、保存されていた少年の歩行練習は終わっていた。
今日は二往復目へ行かなかったらしい。
「疲れた?」
「うん」
「残念?」
少年は少し考えた。
「ちょっと」
「でも?」
「休んだ」
「うん」
「明日できるかも」
「そうだな」
「できないかも」
「それもある」
少年は少し笑った。
「アルみたい」
「何が?」
「明日決める」
「流行ってるんだよ」
横でヨアヒムが笑う。
「便利な言葉ではありますが、何でも先送りにするために使うのは駄目ですよ」
「分かってる」
「アル殿に言いました」
「俺?」
「特に」
「信用ないな」
「休息に関しては」
少年が声を上げて笑った。
その笑いにつられて、俺も笑う。
少し離れた椅子では、例の老人がパンを食べていた。
「今日は俺の方がでかかったぞ」
「何が?」
「パンだ」
少年がすぐ反応する。
「ぼくのも大きかった」
「俺の方がでかい」
「みせて」
「もう食った」
「じゃあ分かんない」
「俺が見た」
「ぼく見てない」
「疑うのか」
「くらべられない」
老人が悔しそうな顔をする。
「明日は食う前に呼べ」
「うん」
「何の約束だよ」
俺が言うと、ヨアヒムが肩をすくめた。
「平和でよろしいかと」
本当にそう思う。
分からない設備。
消える光。
応答しない受所。
誰のものでもない「本物の箱」。
そんなものを追っている時ほど、パンの大きさで言い合える時間は大事なのかもしれない。
◇
三〇八号室では、少年が今日も自分の名前を書いていた。
紙がさらに二枚増えている。
「増えたな」
「いっぱいは嫌」
「昨日言ってたな」
「だから、これ」
卓の端に小さな束がある。
「まとめた?」
「うん」
「どうやって?」
「古いの、こっち。好きなの、こっち」
二つの束に分けている。
「捨てないの?」
「まだ」
「いいんじゃない」
赤い布に包まれた手紙は、今日もそのまま。
「手紙は?」
聞きそうになって止める。
少年が俺を見る。
「今、聞こうとした?」
「うん」
「なんでやめた?」
「お前から言うまで待とうかなって」
「聞いていい」
「じゃあ、今日は読む?」
「読まない」
「分かった」
「終わり?」
「終わり」
「ほんとに?」
「何で不満そうなんだよ」
少年は笑う。
「アル、すぐ終わる」
「読むって言ったら付き合うよ」
「読まない」
「じゃあ読まない」
「うん」
少し間を置いて、少年が聞いた。
「あっちの子、会った?」
「会った」
「名前ない子」
「うん」
「アルって呼ばせた?」
「呼ばせてない」
「増えない?」
「増やさない」
「残念」
「何が残念なんだ」
少年は楽しそうだ。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「何か分かった?」
「少し話した」
「誰か分かった?」
「分からない」
「まだ?」
「うん」
「名前も?」
「聞いてない」
「なんで?」
「今は必要ないから」
「名前、いる?」
自分で書いた「アルフォンス」を見る。
「呼ぶ時には便利だな」
「なくても?」
「会える」
「話せる?」
「話せる」
「じゃあ、あとでもいい?」
「本人が決めるなら」
少年は自分の名前を指でなぞった。
「ぼくは、いまアルフォンス」
「うん」
「でも、あの子はまだない」
「そうだな」
「へんじゃない?」
「別に」
少年は安心したように頷いた。
名前があること。
ないこと。
分かっていること。
分からないこと。
どちらかが正しいわけではない。
少なくとも、今は。
◇
夕方、塔へ戻るとセリーが玄関にいた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「いかがでしたか?」
「会ってきた」
「はい」
「設備の答えは分からなかった」
「それは何よりです」
「普通、そこ喜ぶ?」
「主様が答えを急がれなかったという意味でございます」
「子供から聞いていいって言われたから、少し聞いた」
「ご本人が?」
「うん」
俺は外套を預けながら、必要な範囲だけ話した。
「ふたつ、ねた」。
光ではない。
人でもない。
昨日一つ、今日二つを足して三つではない。
木片は今も何かを呼んでいない。
何かを「開けないで」と言った。
そして、紙箱は自分の物だが、「ほんとの」は自分の物ではない。
セリーは途中で結論を挟まなかった。
「……そうですか」
「うん」
「主様は、何をお考えですか?」
「いっぱい」
「でしょうね」
「でも、今日は考えるだけ」
「それがよろしいかと存じます」
廊下を歩く。
「セリー」
「はい」
「もし俺が、分かったらすぐ何かしなきゃって思ってたら止めて」
「以前より、その必要は減っております」
「なくなってはいない?」
「はい」
「正直だな」
「主様がお望みでしたので」
「うん」
食堂へ向かう途中、セリーが少しだけ俺の横へ近づいた。
「ただし」
「何?」
「何もなさらないことと、休まないことは別でございます」
「……今夜、資料読もうと思ってた」
「何時間でしょう」
「一時間」
「四十分」
「五十分」
「四十分」
「四十五」
「承知いたしました」
「やった」
「その後は入浴と休息です」
「分かってる」
「確認いたしました」
交渉に勝ったのか負けたのか分からない。
でも、それも悪くなかった。
◇
その夜、旧保養施設では再び監視が続けられた。
前夜と同じ三人体制。
設備へは触れない。
呼出操作をしない。
第二線を動かさない。
西補助受所も開けない。
北側も掘らない。
午後十一時四十分。
変化なし。
日付が変わる。
生活区画では、名前の分からない子供が眠っている。
紙箱は棚。
木片は布鞄。
扉は少し開いている。
午前一時十七分。
地下の微弱振動を一度。
約二秒。
中央棟発光なし。
旧職員詰所変化なし。
午前二時二十二分。
中央棟設備盤の右側に、ごく弱い青白い光。
記録。
操作なし。
二時二十三分。
消灯。
約一分。
それだけだった。
二か所目は現れない。
三か所目もない。
監視者たちは待つ。
二時四十分。
変化なし。
三時。
変化なし。
三時半。
変化なし。
四時。
何も起きない。
昨夜までなら、何も起きないことに落ち着かなさを感じたかもしれない。
だが、古い記録にはあった。
応答がなくても、呼出を反復しない。
状態が分からなくても、強制復帰を急がない。
だから誰も刺激しない。
待つ。
午前四時四十八分。
生活区画の子供が寝返りを打つ。
まだ眠っている。
午前五時十二分。
中央棟では変化なし。
空が明るくなる。
午前五時五十九分。
子供が目を覚ました。
昨日より少し遅い。
起き上がり、水を飲む。
棚を見る。
紙箱を見てから、窓へ向かう。
職員は声をかけずに待つ。
子供はしばらく外を見ていた。
「きょう」
小さな声。
「うん」
職員が返す。
「ひとつ」
指を一本立てる。
職員の呼吸が一瞬止まる。
昨夜、中央棟で見えた青白い光は一か所だけだった。
だが、質問しない。
「ひとつ、ねた」
子供は言う。
「そうなんだね」
「うん」
それから首を横へ振った。
「でも」
窓の外を見る。
「まだ、こない」
昨日と同じ。
職員は続きを待つ。
子供は少しだけ眉を寄せた。
「おそい」
初めて出た言葉だった。
「遅い?」
これは聞き返した。
子供が頷く。
「うん」
「何が遅いかは――」
職員は途中で止めた。
聞かなくていい。
だが、子供は自分から続けた。
「むこう」
「向こう?」
子供は窓の外へ手を上げる。
指さした。
北ではない。
中央棟でもない。
昨日「あけないで」と言った時に見ていた、西寄りの方向だった。
「むこう、おそい」
職員は場所を目で追うだけに留める。
「そう感じるんだね」
「うん」
「怖い?」
安全確認だけをする。
子供は少し考える。
「まだ、だいじょうぶ」
「分かった。怖くなったら教えてね」
「うん」
子供は窓から離れた。
朝食の話をすると、今日は焼いた林檎があるか聞いた。
あると答えると、少し嬉しそうな顔をする。
日常へ戻る。
職員は記録を分けた。
設備記録には中央棟の一か所発光と自然消灯。
生活記録には子供の自発発言。
同じ紙には書かない。
◇
塔で朝食を取っていた俺のところへ報告が来た。
「一か所発光して、一分くらいで消えた」
『はい』
「子供は朝、『ひとつ、ねた』」
『はい』
「また一致して見えるな」
『時間的には、発光消灯から子供の起床まで三時間以上あります』
「同時じゃない」
『はい』
「しかも光じゃないって本人が昨日言ってる」
『はい』
「じゃあ結びつけない」
『承知しました』
「それより、『おそい』?」
『新規発言です』
「西寄り」
『はい』
俺はパンをちぎる。
セリーが向かいから見ている。
「行くの?」
自分で呟いた。
「主様がお決めください」
「昨日は呼ばれた」
「はい」
「今日は呼ばれてない」
「はい」
「怖いとは言ってない」
「『まだ、だいじょうぶ』とのことです」
「なら、行かない」
口にすると、胸の奥が少しざわつく。
でも決める。
「ガルムたちに、西補助受所の資料調査だけ続けてもらう。現地は開けない」
『共有します』
「子供へ『向こうって西補助受所?』とは絶対聞かない」
『はい』
「方角を確認するために窓際へ連れていくのもなし」
『はい』
「自分から話したら記録」
『共有します』
セリーが俺のカップへ茶を注いだ。
「主様」
「何?」
「パンが止まっております」
「……食べる」
「はい」
パンを口へ運ぶ。
しばらく噛む。
「でも、遅いって何だろうな」
「気になりますか?」
「すごく」
「では、気になったまま朝食をお召し上がりください」
「難しいこと言うな」
「主様なら可能です」
「評価高いな」
「食事に関しては低めでございます」
「どっちだよ」
少し笑う。
それでも、パンは食べた。
◇
同じ頃。
旧保養施設の記録室で、フェリクスが昨日の西補助受所に関する資料をもう一度確認していた。
ガルムが横で冊数を見張っている。
「今日は二冊です」
「一冊」
「まだ何も言っていません」
「顔に出てる」
「皆さん、最近それを言いすぎでは?」
リディアが資料箱を一つ持ってくる。
「これは一冊として数えますか?」
「箱だろ」
「中に薄い帳面が二冊あります」
「二冊」
「ではフェリクスさん、本日の上限に到達しました」
「まだ読んでいません!」
「二冊って言っただろ」
「ガルム隊長は一冊とおっしゃいました」
「じゃあ一冊だけ選べ」
「……アル殿に訴えます」
「たぶん俺の味方だ」
フェリクスは心底不満そうな顔をした。
それでも、二冊を並べて表紙だけ確認する。
一冊は物資記録。
もう一冊は設備保守。
「こちらです」
「即決だな」
「物資記録も重要ですが、現在の優先度は設備です」
「よし」
選ばなかった物資記録をリディアが箱へ戻す。
設備保守記録を開く。
前半は照明や暖房。
西補助受所の名はない。
中ほど。
フェリクスの指が止まる。
「……ありました」
「何が?」
「西補助受所です」
ガルムとリディアが近づく。
古い文字。
「『西補助受所、通常休止』」
昨日の資料と似ている。
「続き」
「『北受所側の応答遅延時も、独断切替を禁ず』」
ガルムの目が細くなる。
「応答遅延」
「はい」
さらに下。
「『遅延は不応答と同義にあらず』」
三人が黙った。
フェリクスがゆっくり読む。
「『受側確認に時間を要する場合あり。所定待機時間内は第二線休止を保持し、切替操作を行わない』」
「所定待機時間は?」
「この頁にはありません」
「別紙?」
「可能性があります」
「探すな」
「まだ言ってません!」
「顔に出てる」
「……本当に皆さん同じことを」
リディアは笑わなかった。
記録の文字を見ている。
「『遅延』」
「はい」
「子供の『おそい』とは別です」
フェリクスが先に言った。
ガルムが少しだけ口元を上げる。
「分かってるじゃないか」
「ですから、私は学習します」
「でも記録はアルへ送る」
「原文のまま」
「当然だ」
ガルムは窓の外を見た。
西側。
何も起きているようには見えない。
朝日を受けた古い建物の壁と、その向こうに揺れる木々があるだけだ。
「遅れてるからって、別へ切り替えるな」
ガルムが小さく言う。
「待て、か」
フェリクスは資料を閉じずに答える。
「少なくとも、この設備を書いた人間はそう考えていたようです」
その時だった。
廊下を急がず、しかし明らかに目的を持った足音が近づいてきた。
職員が扉のところで止まる。
「ガルム隊長」
「どうした」
「子供からです」
三人の表情が変わる。
「体調は?」
「問題ありません。怖がってもいません」
「なら?」
職員は手元の記録を見た。
「本人が、自分から言いました」
ガルムは続きを待つ。
「『アル、まだこない?』と」
それだけなら、会いたいのかもしれない。
だが職員は、もう一行を読む。
「こちらが『会いたい?』と確認したところ、本人は『うん』と答えました。その後、自分から――」
職員は一度息を整えた。
「『おそいの、アルじゃない』」
室内が静まり返った。
誰もすぐには口を開かなかった。
子供はアルが遅いと言っていたのではない。
なら、何が遅いのか。
それを聞きたくなる。
だが、ガルムは最初に別のことを確認した。
「アルには会いたいんだな?」
「はい。そこは本人が明確に」
「分かった。アルへ伝える」
「『おそい』の方は?」
「聞くな」
ガルムは即答した。
「本人が続けるなら記録しろ。続けないなら、そのままでいい」
「了解しました」
職員が去る。
フェリクスは古い記録へ視線を戻した。
そこには、たった今読んだばかりの文字が残っている。
――遅延は不応答と同義にあらず。
そして別の場所では、設備のことを知らされていない子供が「遅い」と言った。
似ている。
だが、同じとは決められない。
ガルムは通信具を取る。
「アルへ繋げ」
今度は、調査へ来いと呼ぶためではない。
子供が会いたいと言ったからだった。




