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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第76話 まだ来ないものを待つなら、こちらから呼びに行く必要はありませんでした

 朝食を終える頃になっても、名前の分からない子供から新しい発言は届かなかった。


 旧保養施設では、朝の生活がいつも通り始まっている。昨夜、中央棟の設備盤では二か所に青白い光が現れ、それぞれ時間をずらして消えた。それでも朝になれば厨房から湯気が上がり、廊下には食器の触れ合う音が響き、生活区画の窓からは晴れた庭へ柔らかな光が差し込んでいるらしい。


 その普通の朝の中で、子供は温かい麦粥を食べていた。


 俺は塔の食卓で、自分の皿に残っていた最後のパンを食べながらエルへ確認した。


「『まだ、こない』の後は?」


『設備に関連すると思われる自発発言はありません』


「朝食は?」


『半分以上食べています。現在は焼いた林檎を食べております』


「体調は?」


『発熱、吐き気、頭痛、呼吸異常なし。職員の目視では、強い緊張や恐怖も確認されておりません』


「扉を閉めたいとか、どこかへ移りたいとかは?」


『ありません』


「分かった」


 それで通信を終えようとして、ふと思い直す。


「いや、もう一つ。本人が何か待ってるような様子は?」


『質問の意味を限定していただけますか』


「廊下を何度も見るとか、窓を気にするとか、誰かを待ってる時にやりそうなこと」


『起床直後に廊下方向を見た記録があります。その後は通常通りです。現在は食事に集中しております』


「じゃあ、それ以上はいい」


『はい』


 俺はカップへ手を伸ばした。


 向かいではセリーが自分の食器を片づけている。俺が通信を終えたのを確認すると、卓の端に置かれていた今日の予定表へ視線を落とした。


「本日も白鴉へ向かわれますか?」


「うん。三〇八号室と、保存されてた子の様子を見たい」


「旧保養施設へは?」


「行かない」


 昨日より、答えるまでの時間は短かった。


 セリーがわずかに目元を和らげる。


「承知いたしました」


「何?」


「いいえ」


「今、何か思っただろ」


「主様がお決めになったことを確認しただけでございます」


「絶対それだけじゃない」


「では、もう一つ申し上げます」


 セリーは食器を重ねてから、まっすぐ俺を見る。


「『まだ来ない』という言葉を聞いて、ご自身で迎えに行こうとなさらなかったことに安心いたしました」


「……俺、そこまで?」


「以前の主様でしたら、『何が来ないのか確かめる』とおっしゃった可能性は高いかと存じます」


「確かめたい気持ちはあるよ」


「存じております」


「何が来るんだろうな」


「分かりません」


「人かもしれない」


「はい」


「設備の何かかもしれない」


「はい」


「光とか音とか、子供にしか分からない何かかもしれない」


「その可能性もございます」


「全然別の話かもしれない」


「はい」


 そこまで並べると、余計に動けなくなる。


 けれど、今はそれでいい。


「来ないなら、来ないままにしておくか」


「少なくとも、本人が危険を訴えていない現在は」


「うん」


 窓の外では、塔の庭を小鳥が横切った。


 雨の名残はまだ石の隙間にあるが、空は昨日よりずっと明るい。旧保養施設でも、似たような朝を迎えているのだろう。


 ただ、あちらには眠った古い設備がある。


 何を待っているのか分からない表示がある。


 そして、その設備について何も教えていないはずの子供が、「まだ、こない」と言った。


 気にならないはずがない。


 それでも、気になることと、触っていいことは別だった。


「エル。ガルムたちへ伝えて」


『はい』


「昨夜の二か所発光は、今日も同じ条件で受動監視。発光位置を特定するために板を動かしたり、隙間を広げたりしない」


『共有します』


「あと、子供には『何が来ないの』って聞かない」


『すでに現地でも同方針です』


「さすが」


『ガルム隊長より、昨夜の時点で「数字も来るものも聞くな」と職員へ伝達されています』


「俺より早いじゃん」


「よいことでございます」


 セリーが言う。


「うん」


 少し悔しい気もするが、本当にその通りだった。


 俺が言わなくても、同じ判断をする人がいる。


 それは俺の役目がなくなることではない。


 俺一人の判断がなくても、人を守る仕組みが動くようになったということだ。


 以前なら、そこに寂しさを感じたかもしれない。


 今も少しはある。


 でも、それより安心する気持ちの方が大きかった。


     ◇


 旧保養施設では、ガルムが中央棟設備管理室の前に立っていた。


 昨夜の監視担当二名から改めて状況を聞き、床へ置かれた位置記録と時刻表を確認する。部屋の中は朝の光が届きにくく、古い設備盤の表面には長い年月で染みついた黒ずみが残っていた。


 問題の金属板は、昨夜と何も変わっていないように見える。


 板を固定する留め具。


 下部と左右に残る細い隙間。


 奥は暗く、外から内部構造までは分からない。


「右が先だったんだな」


「はい」


 夜勤の職員が記録を指した。


「最初に右寄りの隙間から青白い光が見えました。その約四十秒後、左側にも同じような光が見えています」


「右が消えた後も左は残った」


「はい。三十秒ほどではなく、一分以上です」


「反射だけなら?」


 ガルムが隣のリディアを見る。


「可能性は否定できません。ただ、右側が消えた後も左側だけ残ったという点は気になります」


「別光源の可能性もある」


「あります」


「決められるか?」


「今の観察だけでは無理です」


「なら、そのまま書く」


 ガルムは記録へ視線を戻した。


 フェリクスは少し離れた机で昨夜の図面を見ている。


 以前なら、こういう場面では設備盤のすぐ近くまで寄っていただろう。だが今日は自分から距離を取っており、手元にあるのも現物へ触れる道具ではなく、紙と炭筆だけだった。


「何かあるか?」


「昨夜の発光位置を、以前見つけた三窓式表示器の図面へ仮に重ねています」


「仮に、だな」


「もちろんです」


 フェリクスは少し不満そうに答えたが、すぐ図面をこちらへ向けた。


「現設備盤の寸法と、古い図面の基準点が一致しません。後世の改修で板の位置自体が変わっている可能性がありますので、重ね合わせても誤差が大きすぎます」


「右と左が三つの窓のうち二つ、とは言えない?」


 リディアが聞く。


「言えません。むしろ、現時点でそれを言うのは危険でしょう」


 ガルムがフェリクスを見る。


「本当に慎重になったな」


「毎回それを言わないでいただけますか」


「珍しいからな」


「私も学習します」


「ならいい」


「ただし、興味がなくなったわけではありません」


「知ってる」


 フェリクスは設備盤へ一瞬だけ視線を向けた。


「内部を見られれば早いのは確かです」


「駄目だ」


「最後まで聞いてください。早いからといって、今見るべきだとは言っていません」


「なら続けろ」


「板を外せば、内部の状態を変える可能性があります。気密、張力、光路、魔力回路。何が板そのものに依存しているか分からない以上、開けた瞬間に観察対象を変えてしまうかもしれません」


 リディアが頷く。


「古い設備ほど、今の感覚で『ただの蓋』と判断しない方がいいですね」


「はい。それに、昨夜の光が自然に消えています。今は少なくとも、こちらが操作しなくても状態が変化している」


「だから待つ価値がある」


「そういうことです」


 ガルムは腕を組み、しばらく金属板を眺めた。


 光っていない今の姿だけを見れば、ただの古びた設備だ。


 だが、その奥で何かが生きているように動いている。


 それが危険なのか、単なる古い保守機能なのかすら分からない。


「よし。今日は現物を増やさない」


「現物を増やさない?」


 フェリクスが聞き返す。


「掘る、開ける、動かす、魔力を流す。そういう新しい条件を作らないってことだ」


「分かりやすいですね」


「紙だけ増やせ」


「それは喜んで」


「冊数は増やすな」


「……そこは別の話では?」


「同じ話だ」


 リディアが笑った。


 張り詰めていた職員たちの間にも、小さな笑いが広がる。


 昨夜の発光を目撃した二人は、特に緊張していた。何か見逃したのではないか、もっと近づいて確認すべきだったのではないかという迷いが顔に残っていたが、ガルムはそれに気づいた。


「昨夜の対応はそれでいい」


 二人が顔を上げる。


「でも、光が二か所に見えたのに、何も確かめられませんでした」


「確かめなかったんだ」


 ガルムは訂正する。


「分からない設備に手を出さず、時刻と見えた位置を残した。それが仕事だ。中を開けて原因を当てるのが仕事じゃない」


「……はい」


「次も同じでいい。怖かったら交代を呼べ。光ったからって近づくな」


「了解しました」


 二人の肩から、わずかに力が抜けた。


 何もしなかったことが失敗ではない。


 そう明言されるだけで、夜を見張った者の気持ちは違う。


 ガルムはその様子を確認してから、設備管理室を出た。


     ◇


 名前の分からない子供は、朝食後に紙の箱を棚から下ろしていた。


 職員は少し離れた卓で洗濯物を畳んでいる。視界には入れているが、子供の手元を覗き込まない距離を保っていた。


 子供は箱の蓋を開ける。


 中には紙の輪がある。


 指先で触れる。


「いる」


 昨日と同じ言葉だった。


「いるね」


 職員はそれだけ返す。


 子供は輪を取り出した。


 卓の上へ置き、箱の中を覗く。


 空になった。


「から」


「空っぽだね」


「うん」


 輪を箱の外へ置いたまま、今度は蓋を閉じる。


 閉じた箱を見る。


 また開ける。


 何もない。


 子供はしばらく考えていた。


「いない」


「今は外にあるね」


 職員が輪を指ささずに答える。


 子供は卓上の輪を見る。


「ここ」


「うん」


 それから輪を箱へ戻す。


「いる」


 職員は何も尋ねない。


 入れたからいる。


 出したからいない。


 それだけの遊びにも見える。


 子供は何度か繰り返したが、やがて飽きたのか、輪を箱の中へ戻したまま蓋を閉じた。


「そと」


「庭へ行く?」


「うん」


「鞄は?」


「もつ」


「箱は?」


 子供が棚を見る。


 少し迷った後、首を横へ振った。


「ここ」


「置いていくんだね」


「うん」


 布鞄だけを肩へ掛ける。


 木片も、中に入っている。


 庭へ出ると、朝の日差しはすでに強くなり始めていた。雨の後に伸びた草が風に揺れ、濡れていた土も表面から少しずつ色を薄くしている。


 子供は昨日の木の実を取り出した。


「まだある」


「あるね」


「たべない」


「うん」


「まだ分かんない?」


 職員は一瞬迷った。


「調べてほしい?」


 子供が顔を上げる。


 これまでは、食べられるか分からないから食べないという話で終わっていた。


「調べる?」


「お前が知りたいなら、植物に詳しい人へ聞くことはできるよ」


「とる?」


「木の実を?」


「うん」


「持っていかなくても、見てもらう方法はあると思う」


 子供は掌の木の実を見る。


「ぼくの」


「うん。だから勝手には持っていかない」


「……みるだけ?」


「そうしてほしいなら」


 少し長い沈黙があった。


 庭の向こうで鳥が鳴く。


 子供は木の実を布鞄へ戻した。


「きょうは、いい」


「分かった」


「あとで」


「あとで決める?」


「うん」


 子供はそのまま歩き出した。


 数歩進んだところで、中央棟の方向へ顔を向ける。


 職員は足を止めず、同じ速度で歩いた。


 子供もすぐ前へ向き直る。


 だが、少ししてから口を開いた。


「まだ」


 職員の胸がわずかに強く打つ。


 それでも歩調を変えない。


「うん」


「こない」


 昨日と同じ言葉だった。


 職員は続きを待つ。


 子供は歩きながら、布鞄の口へ手を置いた。


「きょう?」


 自分で呟く。


「……わかんない」


 昨日と同じところへ戻る。


 職員は答えを足さない。


「分からないんだね」


「うん」


 それからしばらく、何も言わなかった。


 庭の端まで行き、戻る。


 中央棟へ近づこうとはしない。


 地下へ向かおうともしない。


 ただ生活用の庭を一周して、部屋へ戻った。


 戻る途中、子供は小さく欠伸をした。


「眠い?」


「ちょっと」


「休む?」


「まだ」


 今度の「まだ」は、設備とも誰かとも関係ない。


 ただ、今は寝たくない。


 同じ言葉でも、意味は違う。


 職員はそれを記録へ書いた。


 ――「まだ、こない」と発言。その後、休憩を勧めた際にも「まだ」と発言したが、後者は本人の睡眠希望に関する文脈。


 同じ単語を一つへまとめない。


 それも、この場所で少しずつ身についた記録の仕方だった。


     ◇


 白鴉へ着いた俺は、玄関でブラットと鉢合わせた。


「お前も今来たのか」


「うん。王都側は?」


「朝の報告だけ済ませた。今日はこっちだ」


「何かあった?」


「大きなことはない」


「じゃあ何で?」


「大きなことがない日に来ちゃいけないのか?」


「いや」


 言われて、少し笑う。


「俺も同じか」


「何がだ?」


「何かあるから来るんじゃなくて、様子見に来た」


「それでいいだろ」


 玄関脇では職員が洗った布を籠へ入れていた。患者の一人が廊下の窓を開けてほしいと頼み、別の職員が風の強さを確認しながら少しだけ開けている。


 以前の白鴉なら、こんな会話はなかった。


 窓を開けるか。


 どのくらい開けるか。


 風が嫌なら閉めるか。


 小さなことを本人へ聞く。


 それが当たり前になり始めている。


「三〇八号室?」


 ブラットが聞く。


「先に保存されてた子」


「俺も行く」


 二人で廊下を進む。


 歩行練習用の区画へ着くと、少年はすでに一往復目を終え、窓辺の椅子へ座っていた。


「アル」


「おはよう。今日は一回?」


「まだ決めてない」


「いいな」


「何が?」


「ちゃんと昨日言ってた通り」


 少年は自分の足を見る。


「ちょっと疲れた」


「じゃあ休めば?」


「休んでる」


「確かに」


 横にいたヨアヒムが笑った。


「本人から休憩を申し出ました。呼吸も落ち着いています」


「二回目は?」


 少年はすぐ答えなかった。


 膝の上に置いた手を見て、足を少し動かす。


「あとで決める」


「うん」


 ブラットが少年の横へ立つ。


「昨日より賢いな」


「昨日も賢い」


「そうだった」


「ブラットは?」


「俺?」


「歩く?」


「歩けるぞ」


「何回?」


「お前よりずっと多い」


 少年が少しむっとする。


「じゃあ一緒」


「競争はしないぞ」


「競争じゃない」


「本当か?」


「ほんと」


 少年の目が少し楽しそうだ。


 ヨアヒムが俺を見る。


「短い距離なら、並んで歩くのは問題ありません」


「ブラット、仕事できたな」


「俺は何をしに来たんだ」


「歩くため?」


「違う」


 それでもブラットは上着の裾を整え、少年の隣へ立った。


 二人が歩き始める。


 少年の歩幅は小さい。


 ブラットは意識して合わせていた。


「速い」


「俺が?」


「うん」


「これでも遅くしてる」


「もっと」


「厳しいな」


「アルはできる」


「何が?」


「後ろ歩く」


 以前、俺が先へ行かないでほしいと言われた時のことだろう。


「俺の方が上手いらしいぞ」


 俺が言うと、ブラットが振り返る。


「妙なところで勝ち誇るな」


 少年が笑った。


 その笑い声が廊下へ柔らかく響く。


 白鴉の職員も、通りかかった患者も、何事かと少しだけこちらを見る。だが誰も歩行を急かさない。


 途中で少年が立ち止まった。


「休む?」


 ブラットが聞く。


「まだ」


「分かった」


 数歩進む。


 それから少年は自分で言った。


「やっぱり休む」


「おう」


 近くの椅子へ座る。


 ブラットも隣へ座った。


「変えていいの?」


 少年が聞く。


「何を?」


「まだ歩くって思ったけど、休む」


「いいだろ」


「途中で?」


「途中でも」


 少年は俺を見る。


「アルも?」


「もちろん」


「決めた後でも?」


「変わったなら変えていい」


「昨日と違っても?」


「昨日と違うから駄目ってことはない」


 少年は足を伸ばし、少し安心したように背もたれへ身体を預けた。


 ほんの小さな確認だった。


 でも、こういうものが積み重なる。


 歩く。


 休む。


 もう少し歩く。


 やっぱり休む。


 一度口にしたことが命令にならない。


 自分自身に対しても。


 それを覚える時間なのかもしれない。


     ◇


 三〇八号室では、扉を叩く前に中から声がした。


「アル?」


「まだ叩いてないぞ」


「足音」


「分かるの?」


「たぶん」


「ブラットもいるけど」


「二人?」


「うん」


 少し間があった。


「ブラットもいい」


「入るぞ」


 部屋へ入ると、少年は昨日書いた紙を卓へ並べていた。


 失敗した方。


 最後まで書けた方。


 さらに新しい紙が三枚増えている。


「練習した?」


「うん」


「見ていい?」


「いい」


 近づく。


 最初より形は整っていた。


 ただ、一枚ごとに文字の大きさが違う。


「上手くなってる」


「これ、変」


 少年が二枚目を指す。


「どこが?」


「ここ」


「読めるけど」


「アルのと違う」


「俺の字と同じじゃなくていいだろ」


「名前なのに?」


「名前が同じでも字まで同じじゃなくていい」


 少年はブラットを見る。


「ブラットも書いて」


「俺が?」


「うん」


 ブラットは炭筆を受け取った。


 紙へ「アルフォンス」と書く。


 俺より角ばった字だ。


「違う」


「だろ?」


「でもアルフォンス?」


「読めるな」


「うん」


「なら同じ名前だ」


 少年は俺の字、ブラットの字、自分の字を順番に見る。


「三つ違う」


「書いた人が違うからな」


「名前は同じ」


「そう」


 少年はしばらく紙を眺めた後、自分の一枚を指した。


「これが好き」


「どれ?」


「これ」


 完璧に書けたものではなかった。


 二文字目が少し傾いている。


 最後の線も短い。


「理由は?」


 聞いてから、少し考える。


「言いたくなければいいけど」


「最初に全部書けた」


「ああ」


 昨日、初めて最後まで書けた紙だ。


「じゃあ取っとく?」


「うん」


「他は?」


「これも取っとく」


「全部?」


「うん」


 ブラットが小さく笑う。


「随分増えるぞ」


「紙ある?」


「あるけど、部屋いっぱいになるまで書く気か?」


 少年は部屋を見回す。


「いっぱいは嫌」


「なら途中で整理だな」


「捨てる?」


「捨ててもいいし、まとめてもいい。お前が決めればいい」


「あとで」


「それがいい」


 赤い布に包まれた手紙は、今日も卓の端にある。


 少年が一度だけそちらを見る。


「読む?」


 俺からは聞かなかった。


 しばらくして、本人が口を開く。


「今日は読まない」


「分かった」


「アル、聞かない?」


「何を?」


「手紙」


「読みたいって言ったら一緒に読む」


「読まないって言ったら?」


「読まない」


「ずっと?」


「明日は明日決めるんだろ?」


 少年が少し笑う。


「便利」


「だろ」


「アルも使う?」


「最近使ってる」


「何に?」


「旧保養施設へ行くかどうかとか」


 言ってから、余計だったかと思う。


 だが少年は設備のことではなく、別のところへ反応した。


「あっちの子?」


「うん」


「名前ない子」


「そう」


「今日行く?」


「行かない」


「なんで?」


「呼ばれてないから」


「会いたくない?」


「会いたいよ」


「じゃあ行けば?」


「俺が会いたいだけで行くと、あの子が話したくない時に困るかもしれない」


 少年は考える。


「会うだけなら?」


「それならいい時もある。でも今は、俺が聞きたいこともいっぱいあるから」


「聞かなきゃいい」


「その通りなんだけど、顔に出るかもしれない」


「アル、分かりやすい?」


 ブラットが横で咳払いした。


「何?」


「いや」


「ブラット」


「かなり分かりやすい時がある」


「おい」


 少年が笑った。


「じゃあ行かない方がいい」


「お前まで」


「明日は?」


「明日決める」


「便利」


「便利だな」


 少し前なら、こんな会話はできなかった。


 少年自身が、今日決めたことを明日まで固定しなくていいと覚え始めている。


 俺も同じなのかもしれない。


     ◇


 昼過ぎ、旧保養施設の記録保管室で、フェリクスが一枚の薄い保守票を見つけた。


 大きな発見ではなかった。


 むしろ、最初は関係がないと思ったらしい。


「『待機表示器・定期確認』」


 リディアが表題を読む。


「第二線とは書いてませんね」


「はい」


 フェリクスは紙を光へ透かさず、机の上で角度だけを変えた。


「年代は北受所閉鎖後と推定できます。紙質と記録様式が同時期です」


「内容は?」


 ガルムが聞く。


「三つの表示窓についての点検項目があります」


 部屋の空気が少し変わった。


「三つ?」


「はい。ただし、昨日見つかった三窓式表示器と同じ設備とは書いてありません」


「そこ大事だな」


「もう覚えました」


「偉い」


「だからやめてください」


 フェリクスは一度息を吐いてから、記録を読む。


「第一窓、第二窓、第三窓。各窓について、点灯、消灯、色調、残光の有無を確認する項目があります」


「用途は?」


「書かれていません」


「表示の意味も?」


「ありません」


「じゃあ三つあるだけか」


「今のところは」


 リディアが下部を指した。


「ここ、何か書いてませんか?」


 文字が薄い。


 フェリクスが顔を近づけすぎようとして、ガルムに肩を掴まれた。


「近い」


「読めません」


「紙を動かせ」


「はい」


 自然光の入る位置へ机を少しずらす。


 文字が見えた。


「『複数窓同時点灯時――』」


 三人が黙る。


「続きは?」


「『順次消灯を待つ』」


 ガルムが眉を寄せる。


「待つ?」


「はい」


「操作じゃない?」


「この文だけなら、自然消灯を待つように読めます」


 その下。


「『消灯順序は運転状態により異なるため、順序のみをもって異常判定を行わない』」


 リディアが小さく息を吐いた。


「順番は固定じゃない」


「少なくとも、この設備では」


「昨夜は右が先、左が後」


「似ています。しかし――」


「同じ設備とは限らない」


 ガルムが先に言う。


「はい」


「でも、記録としては使える」


「同時代に、複数の表示が順番に自然消灯する設備が存在した。その事実までです」


「十分だ」


 さらに読む。


 下端に小さな注意書きがあった。


「『最終窓消灯後も、受側確認前の操作を禁ず』」


 ガルムの視線が止まる。


「受側」


「はい」


「昨日まで出てた『接続先応答待ち』と関係あるか?」


「分かりません」


「よし」


 フェリクスが少し笑う。


「今の『よし』は何です?」


「すぐ結びつけなかったから」


「本当に子供扱いですね」


「成長を見るのは楽しいぞ」


「私は三十を超えています」


「年齢は関係ない」


 リディアが笑いを堪えながら、注意書きへ視線を戻す。


「でも、『最終窓消灯後も』というのは重要ですね。全部消えること自体が、次の操作許可ではない」


「そうなる」


「受側確認が必要」


「ただし、この設備では、だ」


「はい」


 フェリクスが紙の余白を見る。


「受側確認の方法は書かれていません。別表示なのか、別設備なのか、人による確認なのかも不明です」


「探すか?」


「もちろん」


「今日はあと何冊だ」


「……一冊」


「なら一冊だけ」


「二冊に」


「一冊」


「薄いのを二冊」


「厚さは関係ない」


「情報量は変わります」


「一冊」


 フェリクスはしばらくガルムを見た。


「分かりました」


「素直だな」


「明日の交渉材料にします」


「何を?」


「本日一冊で我慢した実績を」


 ガルムが額を押さえた。


     ◇


 その報告を受けた時、俺は白鴉の食堂で遅めの昼食を取っていた。


 セリーはいない。


 代わりにブラットが向かいに座っている。


「食べながら読むな」


「エルが読んでるだけ」


「同じだ」


「聞くくらいいいだろ」


「魚を落とすなよ」


「落とさない」


 フォークで白身魚を切りながら、内容を聞く。


 三つの表示窓。


 複数同時点灯。


 順次消灯を待つ。


 消灯順序は運転状態で異なる。


 順序だけで異常判定しない。


 最終窓消灯後も受側確認前の操作は禁止。


 俺は魚を口へ入れた。


 ブラットが見ている。


「食べたぞ」


「よし」


「何で監視されてるんだよ」


「話は?」


「面白い」


「顔に出てる」


 三〇八号室の少年の言葉を思い出す。


「やっぱり分かりやすい?」


「かなりな」


「……旧保養施設に行かなくてよかったかも」


「今から行く気か?」


「行かない」


「即答できるようになったな」


「セリーみたいなこと言うな」


 俺は食事を続けながら考える。


「エル。この記録、今の中央棟設備と同じって書かないで」


『すでにそのように処理されています』


「三窓式表示器とも?」


『同一性未確認です』


「昨夜の二か所発光との関係も?」


『未確認です』


「ならいい」


 ブラットがパンをちぎる。


「でも、気にはなるだろ」


「なる」


「三つの窓がある設備で、複数が同時に光ることがある。順番に消える。昨夜は二か所で光が見えて、順番に消えた」


「うん」


「名前の分からない子供は『きょう、ふたつ』」


「そこを並べるなよ」


「並べただけだ」


「それが一番危ないんだって」


「分かってる」


 ブラットは笑う。


「お前が止める側になったのが面白くてな」


「人で遊ぶな」


「でも、子供の『まだ、ある』は?」


「三つ目とは限らない」


「『まだ、こない』は?」


「受側確認とも限らない」


「よし」


「何だよ」


「ちゃんと止まった」


「試すな!」


 近くで食事をしていた職員が、思わず笑った。


 俺は少し恥ずかしくなって声を落とす。


「とにかく、設備資料は設備資料。子供の言葉は子供の言葉」


「はいはい」


「本当に分かってる?」


「お前より前から分かってる」


「腹立つな」


 それでも、少し気持ちは軽くなった。


 似ているものが増えている。


 だからこそ、距離を置いて見る人が必要だった。


     ◇


 午後、名前の分からない子供は生活区画で昼寝をしなかった。


 午前中に「まだ」と言った通り、眠くはあったものの横にならず、紙を折ったり、布鞄の中身を並べたりして過ごしている。


 木片。


 木の実。


 拾った葉。


 折った紙。


 どれも本人の物だ。


 職員は整理を手伝わない。


 子供が自分で並べる。


 木片を一番左。


 木の実を右。


 葉をその間。


 紙の箱は棚。


「いっぱい」


「増えたね」


「いる?」


「何が?」


 子供は並べた物を見る。


「これ」


「持っていたい?」


「うん」


「じゃあ持ってていいよ」


「いらないのも?」


「いらないと思ったら、手放してもいい」


「あとで?」


「あとででもいい」


 子供は木の実を見た。


「これ、あとで見る」


「詳しい人に?」


「うん」


「じゃあ、見てもらいたくなったら言って」


「持ってかない?」


「持っていかない方法から考えるよ」


 子供は頷く。


 少しして、廊下から足音がした。


 ガルムだった。


 生活区画の職員へ夕方の監視体制を伝えるために来ただけで、子供へ話を聞く予定はない。


 子供が顔を上げる。


「ガルム」


「おう」


「アルは?」


「今日は白鴉だ」


「くる?」


「ここへ?」


「うん」


「今日は来ないと思う」


 子供は黙った。


 ガルムは余計な理由を言わない。


「会いたいなら伝えるぞ」


 以前と同じ選択肢だけを出す。


 子供は木片へ触れる。


「……きょうは、いい」


「分かった」


「アル、しりたい?」


 ガルムの表情がほんの少し変わる。


「何を?」


 聞き返した後、質問が広すぎたと気づく。


 子供は困った様子を見せなかった。


「これ」


 木片ではない。


 紙の箱を指した。


「アルは知りたがるだろうな」


「すごく?」


「かなり」


 子供の口元が少し動く。


「三〇八号室の子にも同じこと言われたらしいぞ」


「さん?」


「何でもない」


 ガルムは言い直す。


「でも、知りたいからって勝手に触ることはしないと思う」


「ほんと?」


「少なくとも、そうしようとしてる」


「しよう?」


「人間だからな。間違える時もある」


 子供はガルムを見る。


「ガルムも?」


「間違える」


「セリーも?」


「たぶんな」


「アルも?」


「もちろん」


「じゃあ、だれが決める?」


 ガルムはすぐには答えなかった。


 この子が何について尋ねているのか分からない。


 箱を触るか。


 何かを調べるか。


 もっと大きな話なのか。


「一人だけで決めなくていいこともある」


「いっぱい?」


「必要ならな」


「ぼくも?」


「お前のことなら、お前も」


 子供は少し考える。


「分かんなかったら?」


「分かるところまででいい」


「ぜんぶ分かんなかったら?」


「大人が安全のために決めなきゃいけないこともある。でも、その時も勝手に何でもしていいわけじゃない」


「むずかしい」


「俺もそう思う」


 ガルムが苦笑する。


 子供は紙の箱へ近づき、蓋を一度だけ押さえた。


「これ、まだ」


「うん」


「まだ、あける」


 ガルムの目がわずかに細くなる。


 だが、意味を決めない。


「開けるの?」


 聞き返しそうになって止めた。


 子供が自分で続ける。


「ぼくのは、あける」


 紙箱の蓋を開ける。


 中の輪が見える。


「ほんとのは?」


 ガルムは聞かなかった。


 子供も言わない。


 輪を一度確認すると、また蓋を閉じた。


「これ、ぼくの」


「ああ」


「ほんとの、ぼくのじゃない」


 ガルムの呼吸が一瞬だけ止まる。


 それでも声は変えなかった。


「そうか」


「うん」


 それ以上は続かなかった。


 子供は箱を棚へ戻し、並べていた木の実や葉を布鞄へ入れ始めた。


 ガルムはその場を離れてから、廊下の角で足を止めた。


 すぐにアルへ連絡するのではなく、まず職員へ確認する。


「今まで、あの紙箱を『本人の箱』って言ったことは?」


「ありません」


「中間保持箱の話は?」


「していません」


「『本物の箱』って言い方は?」


「していません」


「分かった」


 記録へ残す。


 ――本人、自作紙箱を開け「ぼくのは、あける」と発言。その後「これ、ぼくの」「ほんとの、ぼくのじゃない」と自発発言。


 それだけ。


 「本物の箱=中間保持箱」とは書かない。


     ◇


 その報告が俺へ届いたのは、白鴉を出る少し前だった。


「……ほんとの、ぼくのじゃない」


『はい』


「紙箱は自分の」


『はい』


「本物は自分のじゃない」


『本人発言からは、そのようにも解釈可能です。ただし、「ほんとの」が何を指すかは未確認です』


「そうだな」


 玄関前で立ち止まる。


 ブラットが俺を見る。


「行くか?」


 何も説明していないのに分かっている。


「……行きたくなった」


「だろうな」


「でも、本人は俺に会いたいとは言ってない」


「ガルムが聞いたら、今日はいいって」


「うん」


「なら?」


 俺は外を見る。


 午後の日差しが道を照らしている。


 ここから旧保養施設へ向かうことはできる。


 時間もある。


 行って、何も聞かず、顔を見るだけ。


 そう言い訳することもできる。


 でも、今の俺は知りたがっている。


 紙箱の本物とは何か。


 なぜ自分のものではないと知っているのか。


 何がまだ来ないのか。


 「ふたつ」とは何か。


 その気持ちを抱えたまま、何も聞かずにいられる自信がない。


「行かない」


「そうか」


「今日は」


「明日は?」


「明日決める」


「便利だな」


「流行ってるんだよ」


 ブラットが笑う。


 俺も少し笑った。


 それから、エルへ指示する。


「ガルムへ。子供の発言はそのまま保存。『本物』が中間保持箱だって注釈はつけない」


『共有します』


「紙箱も本人の物。撮影や採寸は、本人が許可しない限りしない」


『はい』


「あと……」


 少し考える。


「本物の箱を探すために掘る理由にも使わない」


『承知しました』


 言葉が増えるほど、こちらは動きたくなる。


 でも、本人がくれた言葉は、俺たちへ設備を開ける許可を出したわけではない。


     ◇


 夕方、フェリクスが最後の一冊から見つけたのは、期待していた「受側確認」の詳細ではなかった。


 古い夜間設備の引継ぎ票。


 端が破れ、上部の日付も欠けている。


 読める部分は少ない。


「『受側確認未了時――』」


 リディアが読む。


「続きは?」


「『呼出を反復しない』」


 ガルムが顔を上げる。


「反復しない?」


「はい」


 フェリクスが紙の角度を変える。


「次が……『一定時間応答なき場合も、線側からの強制復帰を行わず』」


 三人の間に沈黙が落ちた。


「さらに?」


「『翌監視時刻まで休止継続』」


 ガルムは腕を組む。


「来ないなら、呼び続けるなってことか?」


「そう読めます。ただし、この『呼出』が何を意味するかは不明です」


「人を呼ぶ?」


「設備信号かもしれません」


「前に見つかった『呼出表示』と同じ?」


「分かりません」


「旧職員詰所の呼出線?」


「それも不明です」


 リディアが紙の下を見る。


「ここ、まだあります」


 破れた文字。


「『受側状態不明時は――』」


 その後が薄い。


 時間をかけて読む。


「『不応答を異常と断定せず』」


 フェリクスが息を止める。


 さらに続く。


「『……待機理由確認不能の場合も、復帰を急がないこと』」


 ガルムが低く呟く。


「急がない」


「はい」


「昔の設備担当、随分慎重だな」


「少なくとも、この文書を書いた時期は」


 リディアが静かに紙を見つめる。


「応答がないこと自体を、異常と決めない」


「相手が壊れてるとも、線が切れてるとも決めない」


「はい」


「呼び続けない」


「はい」


「強制復帰しない」


 ガルムは少し考えてから言った。


「アルに送れ」


「原文で?」


「当然だ」


     ◇


 塔へ戻った俺は、夕食前にその記録を受け取った。


 セリーが食卓へ皿を運んでいる。


 俺は座ったまま、エルが読み上げる古い文を聞いた。


 受側確認未了時、呼出を反復しない。


 一定時間応答がなくても、線側から強制復帰をしない。


 翌監視時刻まで休止継続。


 受側状態不明時は、不応答を異常と断定しない。


 待機理由を確認できない場合も、復帰を急がない。


「……出来すぎてない?」


 思わず言った。


「何がでしょう」


 セリーが聞く。


「今日、あの子が『まだ、こない』って言った日に、こんな記録が出る」


「偶然である可能性もございます」


「うん」


「そもそも、記録の『応答』と、子供の『来る』が同じものだとは分かっておりません」


「うん」


「資料を探しているため、似た言葉が見つかりやすくなっている可能性もございます」


「そうなんだよな」


 探しているものに似たものほど、目に入る。


 それを運命みたいに感じるのは簡単だ。


「でも、この記録だけなら使える」


「どのようにでしょう」


「設備側の方針として。応答がなくても強制復帰しない。呼出を繰り返さない。状態不明なら待つ」


「はい」


「子供の言葉とは別に、設備の安全手順として」


「それならば、既存の方針とも矛盾いたしません」


「うん」


 俺はエルへ伝える。


「現地へ。今夜もこちらから呼出操作はしない。そもそも何が呼出操作か分かってないけど、既知の呼出線や表示器へ刺激を入れない」


『共有します』


「第二線もそのまま」


『はい』


「発光しても自然変化を記録」


『はい』


「子供にも何も聞かない」


『はい』


 セリーが皿を置く。


「そして主様は夕食を召し上がる」


「それも指示?」


「最重要でございます」


「設備より?」


「私にとっては」


 一瞬、言葉が止まった。


 セリー自身も、言ってから気づいたらしい。


 ほんのわずかに視線が揺れた。


「……職務上、という意味でございます」


「今、足した?」


「必要な補足です」


「そう」


 それ以上は追わない。


 追わないが、少しだけ嬉しい。


 その感情をわざわざ言葉にする必要もなかった。


 俺は素直に食事へ手をつけた。


     ◇


 夜が深くなる。


 旧保養施設の中央棟では、監視担当が交代した。


 今日は昨夜より一人増やしている。


 何か操作するためではない。


 一人が時刻を記録し、一人が設備盤を目視し、もう一人が周囲の音や床の状態を確認する。


 午後十一時。


 変化なし。


 日付が変わる。


 地下微弱振動もない。


 旧職員詰所の表示板も動かない。


 生活区画では、名前の分からない子供が寝台へ入っている。


 紙箱は棚。


 輪は中。


 布鞄は椅子。


「扉」


「ちょっと?」


「うん」


 職員がいつもの幅だけ開ける。


「灯り」


「小さくするね」


「うん」


 子供は毛布を胸まで引き上げた。


 少しして、職員を呼ぶ。


「ねえ」


「どうしたの?」


「アル」


「アルに何か伝える?」


 子供は考える。


「……あした」


「明日?」


「うん」


「明日、会いたい?」


 聞いてから、職員は少し慎重になる。


 だが、子供は首を横へ振った。


「わかんない」


「分かった」


「でも」


 子供の指が毛布の端をつまむ。


「きたら」


「うん」


「アル、きてもいい」


 職員は一瞬だけ息を止めた。


「分かった。そう伝えるね」


「うん」


「今すぐ呼ばなくていい?」


「いい」


「明日の朝でも?」


「うん」


 それで会話は終わった。


 子供は目を閉じる。


 しばらくすると呼吸がゆっくりになる。


 職員は記録へ、言葉をそのまま残した。


 ――「きたら、アル、きてもいい」。何が「来る」のかは質問せず。アルを今すぐ呼ぶ必要はないと本人確認。明朝伝達で了承。


 午前一時十二分。


 中央棟に変化なし。


 午前二時三分。


 旧職員詰所で、ごく小さな金属音が一度。


 以前記録されたタップ音より低い。


 中央棟発光なし。


 地下振動なし。


 記録を分ける。


 午前二時五十一分。


 中央棟設備盤の右寄りで、青白い光が現れた。


「発光確認」


「時刻、二時五十一分十二秒」


「位置?」


「昨夜最初に見えた右側に近い。ただし完全一致は判断不能」


 触らない。


 近づかない。


 記録する。


 一分。


 二分。


 右側だけ。


 左側は光らない。


 三分。


 変化なし。


 四分十秒。


 右側の光が少し弱くなる。


 その時だった。


「中央?」


 監視者の一人が声を低くした。


「どこだ?」


「右より少し左。でも昨夜の左ほど離れてない」


 細い光。


 最初の右側とは別の隙間から見える。


「二か所目?」


「見える場所は二か所」


「光源数は書くな」


「了解」


 時刻を記録する。


 二つの光はしばらく残った。


 昨夜とは違う位置に見える。


 それが設備内部の別の窓なのか、反射角度の違いなのかは分からない。


 午前三時一分。


 最初の右側が消える。


 後から見えた光は残る。


 三時三分。


 まだ残る。


 三時五分。


 消えない。


 監視者たちは誰も動かない。


 古い記録には、順次消灯を待つとあった。


 ただし、この設備がその記録の設備だとは決まっていない。


 それでも、待つという選択は現在の安全方針と一致している。


 三時八分。


 後から現れた光が、ゆっくり弱くなる。


 三時九分二十秒。


 消えた。


「全消灯確認」


「時刻記録」


「操作なし」


「周辺変化?」


「なし」


 それで終わった。


 少なくとも、その時は。


 午前四時。


 変化なし。


 午前五時。


 東の空が白み始める。


 名前の分からない子供は眠っている。


 午前五時四十七分。


 子供が目を覚ました。


 昨日とほぼ同じ時刻。


 身体を起こし、棚を見る。


 紙箱。


 椅子の布鞄。


 どちらもある。


 水を飲む。


 職員は、昨夜の「きたら、アル、きてもいい」を覚えている。


 だが、朝一番に問いかけない。


 子供は自分で寝台から降りる。


 窓へ行く。


 外を見る。


 空は薄い青。


「晴れそうだよ」


「うん」


「朝ごはん、もう少ししたらだよ」


「うん」


 子供は窓から離れない。


 しばらく庭を見る。


 やがて、眉を少し寄せた。


「まだ」


 職員は待つ。


「こない」


 昨日と同じ。


 だが、子供はそこで終わらなかった。


「ふたつ、ねた」


 職員の胸が強く鳴る。


 質問しない。


 子供は窓枠へ手を置いたまま続ける。


「でも」


 外を見る。


「まだ、こない」


「うん」


 職員は短く返す。


 子供がこちらを見る。


「アル」


「うん?」


「きょう、くる?」


「昨日、来てもいいって言ってたね。伝えるよ」


「うん」


「今すぐ?」


 子供は少し考えた。


「ごはん、あと」


「朝ごはんの後?」


「うん」


「分かった」


 職員はそれ以上聞かない。


 何が来ないのか。


 二つ寝たとは何なのか。


 昨夜の二か所の発光と関係するのか。


 質問は一つも口にしない。


 朝食の後にアルへ会いたい。


 今、確実に分かったのはそれだけだった。


     ◇


 塔で起きた俺のところへ、エルから報告が届いた。


『主様。旧保養施設の子供から、面会希望と解釈可能な発言があります』


 まだ寝台から起き上がったばかりだった。


「面会?」


『昨夜、「きたら、アル、きてもいい」。今朝、「アル、きょう、くる?」。職員が昨日の発言を確認したところ、朝食後の来訪を希望しております』


 眠気が一気に消えた。


「本人から?」


『はい』


「誰かが会うよう勧めた?」


『いいえ』


「設備の話を聞くためじゃない?」


『そのような説明はしておりません』


「分かった」


 立ち上がる。


 そこで、昨日までの自分ならそのまま着替えていたことに気づいた。


「……朝食後って言ったんだよな」


『はい』


「向こうの朝食?」


『はい』


「俺も食べる」


『推奨します』


 部屋を出ると、廊下の先からセリーが来た。


 俺の顔を見て、少しだけ目を細める。


「旧保養施設でしょうか」


「うん」


「呼ばれましたか?」


「呼ばれた」


 その一言を口にした時、自分の胸の奥にあったものが少しだけ変わった。


 謎が進む期待ではない。


 答えが聞ける期待でもない。


 会っていいと、本人が言った。


 それが一番大きかった。


「でも朝食後だって」


「では、主様も朝食になさいますか?」


「うん」


「承知いたしました」


 セリーは急かさない。


 俺も急がない。


 食堂へ向かう。


 席につく。


 パンとスープが運ばれる。


 エルから昨夜の設備記録も届いた。


 二か所の青白い発光。


 順番に消灯。


 子供の「ふたつ、ねた」。


 似ている。


 あまりにも似ている。


 だからこそ、俺はその二つを同じ紙へ書かなかった。


「エル」


『はい』


「現地へ先に伝えて」


『内容をどうぞ』


「俺は行く。でも、設備のことを聞きに行くんじゃない」


『共有します』


「『ふたつ』も『寝た』も『来ない』も、本人が話したら聞く。俺から答え合わせはしない」


『はい』


「三窓式表示器のことも見せない」


『はい』


「木片も触らない」


『はい』


「紙箱も、本人が見せるまで触らない」


『共有します』


 セリーがスープを置く。


「主様」


「うん?」


「もう一つございます」


「何?」


「ご自身で決めておられないことを、相手に決めさせようとなさらないことです」


 俺は少し考える。


「例えば?」


「『話したくないなら話さなくていい』と何度も繰り返すことで、逆に何かを話す場であると意識させてしまう可能性もございます」


「ああ……」


 確かに。


 配慮を繰り返しすぎれば、それ自体が圧になる。


「普通に会う」


「はい」


「向こうが話したいことがあれば聞く」


「はい」


「なければ、何もしない」


「よろしいかと存じます」


「難しいな」


「人と会うことは、元々そういうものではないでしょうか」


「セリーが言うと重いな」


「私は人ではございませんので」


 いつものように淡々と言う。


 けれど、俺はその言葉に以前ほど素直に頷けなくなっていた。


「それも、そのうち話そう」


 セリーの目が少しだけ動く。


「何をでしょう」


「今は朝飯」


「……はい」


 追わない。


 今は。


 パンを食べる。


 スープを飲む。


 急いで流し込まない。


 旧保養施設では、あの子も今頃朝食を食べている。


 俺が早く着く必要はない。


 本人が朝食の後と言った。


 なら、その時間を待つ。


 食事を終え、外套を羽織る。


 塔を出ると、朝の空気は少し冷たかった。


 雨の匂いはもうほとんど残っていない。


 道の先には朝日が差している。


 今日は、答えを取りに行くのではない。


 何が来ないのかを確かめに行くのでもない。


 古い設備を動かすためでもない。


 ただ、会っていいと言われたから行く。


 それだけの理由で人に会いに行くことを、俺はずいぶん長い間、忘れていたのかもしれなかった。

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