第75話 ひとつ眠ったあとに残っているものを、起こして確かめる必要はありませんでした
朝食を食べ終えても、旧保養施設へ向かうとは決めなかった。
窓の外では、昨夜まで濡れていた塔の庭が朝日を受けて乾き始めている。石の継ぎ目にはまだ細い水の筋が残っていたが、風は昨日より軽く、開けた窓から入ってくる空気にも雨の匂いはほとんどなかった。
俺は空になった皿を前にしたまま、エルから届いた記録をもう一度聞いていた。
『午前三時四十六分、中央棟設備管理室にて青白い発光を確認。二分二十五秒継続後、自然消灯。設備への接触、操作、魔力照射はいずれもありません』
「その後は?」
『再点灯なし。水滴なし。確認可能な範囲で線の変位なし。旧職員詰所表示板にも新たな変位は確認されておりません』
「地下は?」
『発光より約二時間前に、二秒程度の微弱振動を一回。時間的一致はありません』
「子供が起きたのは?」
『午前六時前です』
「光が消えてから二時間以上後」
『はい』
「起きた直後に設備の話をしたわけじゃない」
『はい。起床後、水を飲み、紙の輪を昨日作成した紙箱へ入れた後、自発的に「きのうより、ねた」「ぼくじゃない」「ひとつ、ねた」「でも、まだ、ある」「まだ」と発言しております』
「指を一本立てたのは?」
『「ひとつ」と発言した際のみです』
「『まだある』の時は数を示してない」
『はい』
「分かった」
そこで記録を閉じる。
閉じたつもりでも、頭の中では言葉が残った。
ひとつ、ねた。
でも、まだ、ある。
昨日見つかった標準表示器には三つの窓があった。
だからといって、子供の言葉を三つの窓へ当てはめる理由にはならない。
一つ寝たのなら残り二つ。
そんな計算をしたくなるのは、俺たちが先に三つという数字を知ってしまったからだ。
「主様」
「何?」
「旧保養施設へ行かれますか?」
セリーが食器を重ねながら聞いた。
「迷ってる」
「子供は主様をお呼びになっておりません」
「うん」
「設備側にも、現時点で緊急性は確認されておりません」
「うん」
「白鴉へは?」
「行く予定」
「では、先にそちらでしょうか」
「そうする」
言ってから、少し自分でも驚いた。
「止めないんだな」
「何をでしょう」
「旧保養施設に行かないこと」
「主様が必要性を検討した上で決められたのであれば、私が止める理由はございません」
「昔だったら、俺が行かないと調査が止まる気がしてた」
「現在は止まりません」
「ガルムもいるし」
「はい」
「リディアもいる」
「はい」
「フェリクスも」
「監督下におります」
「そこだけ条件付きなんだ」
「必要ですので」
俺は笑って立ち上がった。
「エル。旧保養施設は今の方針継続。新しい設備操作なし。子供に残りの数を聞かない。三窓式表示器の図も見せない」
『共有済みです』
「フェリクスの資料四冊は?」
『すでに一冊目を確認中です』
「早いな」
『ガルム隊長より、「朝食は食わせた」との補足があります』
「そこまで報告されるの?」
『主様が気にされる可能性を考慮したものと思われます』
「俺、何の責任者なんだろう」
「皆様の食事を気にされる方、ではないでしょうか」
「セリーに言われたくない」
「私は主様の食事を気にする者でございます」
「限定された」
「職務分担です」
それも悪くない。
塔を出る頃には、空はほとんど晴れていた。
白鴉療養所へ続く道の脇では、雨で倒れていた草が少しずつ起き上がっている。昨日まで水が流れていた溝には小さな水たまりが残り、そこへ朝日が反射していた。
白鴉へ着くと、玄関前でミナと会った。
両手に布を抱えている。
「おはよう」
「……おはようございます」
「それ、前に分けてた布?」
「はい」
色の違う小さな布切れが何枚も重なっている。
青。
薄い赤。
黄色。
白。
大きさも形も揃っていない。
「何作るか決まった?」
「少し」
「聞いていい?」
ミナが布を抱えたまま考える。
「まだ、途中です」
「じゃあ完成してから」
「……はい」
以前なら「何を作るの?」まで続けていた気がする。
聞かなかったことに自分で気づいて、少しおかしくなった。
ミナが俺を見る。
「どうしました?」
「いや。最近、待つことが増えたなって」
「嫌ですか?」
「前より楽かもしれない」
「待つのが?」
「全部すぐ知らなくていいから」
ミナはよく分からないという顔をした。
それでいい。
「運ぶの手伝う?」
「大丈夫です」
「重くない?」
「布ですから」
「確かに」
俺は素直に道を譲った。
ミナは数歩進んでから振り返る。
「アルさん」
「何?」
「できたら、見せます」
「うん。待ってる」
それだけ言うと、ミナは少しだけ笑って廊下の奥へ行った。
三〇八号室へ向かう前に、保存されていた幼いアルフォンスの様子を確認する。
今日は歩行練習の前だった。
少年は窓辺の椅子に座り、自分の靴を見ていた。
「おはよう」
「アル」
「今日は何回?」
「まだ決めてない」
思わず足を止めた。
「おお」
「何?」
「昨日まで二回って先に決めてたから」
「ヨアヒムが、歩いてから決めてもいいって」
「そうだな」
「一回で疲れたら一回」
「うん」
「まだできたら二回」
「うん」
「三回は?」
横にいたヨアヒムが苦笑する。
「今のところ勧めていません」
「だって」
「分かってる」
少年は不満そうではない。
むしろ、今日の自分がどうなるかまだ決めなくていいことを、少し楽しんでいるようにも見えた。
「パンは?」
「同じ」
「誰と?」
「あのおじいちゃんより大きい」
「まだ比べてるの?」
「見えた」
「またそれか」
「ほんと」
ヨアヒムが笑う。
「今日は向こうから見せに来ました」
「老人側が参加してるじゃん」
「『今日のは俺の方が小さいぞ』と」
「何の競争なんだよ」
少年も笑った。
その笑顔を見てから、俺は三〇八号室へ向かった。
扉を二度叩く。
「アル?」
「うん」
「入っていい」
部屋へ入ると、少年は卓の前にいた。
赤い布は昨日と同じ場所。
絵もある。
ただ、今日は絵の横に小さな紙が一枚置かれていた。
「おはよう」
「おはよう」
「状態は?」
「昨日と同じ」
「薬は?」
「同じ」
「終わり」
「早い」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ成功」
少年が少し笑う。
「外は?」
「今日はまだ決めてない」
「手紙は?」
「それも」
「絵?」
「今はこれ」
小さな紙を指す。
「何?」
「字」
見ると、何かを書こうとした跡がある。
まだ文字にはなっていない。
「書きたい字ある?」
「名前」
俺は紙ではなく少年を見る。
「自分の?」
「うん」
「アルフォンス?」
「うん」
「書ける?」
「前は書けた気がする」
「今は?」
「途中で分かんなくなる」
炭筆を持つ。
一本線。
止まる。
「教えて」
「俺が?」
「うん」
「いいけど、今日は俺が先生って呼ばれても怒るなよ」
少年が不思議そうにする。
「先生?」
「いや、何でもない」
旧保養施設の子供の顔が浮かんだ。
同じ言葉でも、人によって重さが違う。
「書き方だけ教える」
「うん」
別の紙へ、ゆっくり書く。
アルフォンス。
少年は俺の手元を見る。
「長い」
「名前だからな」
「アルは短い」
「そう」
「ぼくもアルでいい?」
「呼ばれ方?」
「うん」
「お前がいいなら」
「アルと同じ」
「二人とも振り向くな」
「じゃあ、アルフォンス」
「戻った」
少年は笑って、自分の紙へ文字を写し始めた。
途中で形が崩れる。
消せない。
少し嫌そうな顔をした。
「失敗?」
「間違えた」
「もう一枚使う?」
「これ、だめ?」
「お前が嫌なら別の紙にしてもいい」
「捨てる?」
「捨てたい?」
少年は紙を見る。
曲がった文字。
途中で止まった線。
「……とっとく」
「分かった」
「次、もう一回」
「うん」
二枚目。
今度は少しゆっくり。
全部きれいではない。
それでも最後まで書いた。
「できた」
「読める」
「ほんと?」
「うん」
「アルフォンス?」
「アルフォンス」
少年は文字を見つめた。
嬉しそうにするかと思った。
でも、少し複雑な顔をした。
「どうした?」
「これ、ぼく?」
「名前?」
「うん」
「今、お前がそう呼ばれたいって言ってる名前ではある」
「ほんとの?」
「それは俺には決められない」
「記録にある?」
「ある」
「じゃあ本物?」
慎重に言葉を選ぶ。
「記録に書いてあることと、お前がどういう人なのかは別の話だと思う」
「むずかしい」
「俺も難しい」
「アルも同じ名前」
「うん」
「もうひとりも」
「うん」
「三人」
「そうなる」
「誰がほんと?」
胸の奥が重くなる。
けれど、逃げない。
「三人とも今ここにいる」
「それ答え?」
「たぶん、今俺が言えるのはそこまで」
「王太子は?」
「今は誰が王太子かって話と、お前が誰かって話を無理に一つにしなくていい」
「ぼく、王太子じゃなかったら?」
「それでお前が消えるわけじゃない」
「アルも?」
「俺はもう王太子じゃない」
「でもアル」
「うん」
少年は自分で書いた名前を見る。
「じゃあ、これ書いていい?」
「いいよ」
「王太子じゃなくても?」
「もちろん」
「誰かに取られない?」
「名前を?」
「うん」
「同じ名前の人がいても、お前が使っちゃいけないとは思わない」
「三人いても?」
「三人いても」
少年はしばらく黙った。
そして、一枚目の失敗した紙も二枚目の紙も、絵の横へ並べた。
「両方?」
「うん」
「失敗した方も?」
「これもぼくが書いた」
「そうだな」
それでいい。
綺麗に書けた方だけを残さなくてもいい。
途中で止まった線も、今ここにいる少年が書いたものだ。
「今日は外どうする?」
少し時間を置いてから聞く。
「あとで行く」
「手紙は?」
「今日は読まない」
「分かった」
「名前書く」
「何回?」
「いっぱい」
「手、疲れたら休めよ」
「分かってる」
部屋を出る前、少年が呼び止めた。
「アル」
「何?」
「あっちの子、名前ない?」
「旧保養施設の子?」
「うん」
「分からない」
「つけないの?」
「本人が決めたいって言ったら手伝うかもしれない。でも、勝手には決めない」
「呼ぶ時どうする?」
「今は『あの子』とか、『名前の分からない子』とか」
「長い」
「そうなんだよ」
「アルって呼べば?」
「増やすな」
少年が笑った。
「三人でも大変なのに」
「じゃあ、だめ」
「本人がアルがいいって言ったら考える」
「四人」
「やめてくれ」
笑い声を背に、部屋を出た。
昼前、旧保養施設ではフェリクスが四冊目の資料を閉じていた。
「四冊です」
ガルムが確認する。
「はい」
「五冊目へ手を伸ばすなよ」
「伸ばしていません」
「見てる」
「棚を見ることは禁止されていません」
「手は膝に置け」
「子供ではありません」
「なら自制しろ」
フェリクスは渋々両手を机の上へ置いた。
リディアが笑いながら、見つかった内容を整理する。
「二冊は関係なし。一冊は同型表示器の清掃記録。最後の一冊に、少し関係しそうな記載があります」
「少しか」
「はい。決定的ではありません」
「それくらいが最近ちょうどいい気がしてきた」
ガルムが言う。
「何ですか、その慣れ方は」
「読め」
フェリクスが最後の資料を開く。
設備の夜間保守記録。
第二線という表記はない。
中間保持箱とも書かれていない。
ただし、三窓式表示器と同型らしい設備について、運用上の注意が残されていた。
「『複数表示のうち一部が自然消灯した場合、残余表示を手動消灯して状態を揃えてはならない』」
ガルムが黙る。
リディアが続けて読む。
「『各表示は別個の確認状態を示す場合があるため、消灯済み表示と継続表示を個別に記録すること』」
「別個」
「はい」
「一つ消えたから、他も消して揃えるな」
「そのようです」
フェリクスが次の行を指す。
「さらに、『全消灯を正常状態とみなす設備と、休止完了状態とみなす設備が混在するため、設備名確認前に復帰操作を行わないこと』」
ガルムの顔が険しくなる。
「全消灯の意味すら一つじゃないのか」
「はい」
「正常の場合もある。休止完了の場合もある」
「少なくともこの資料の年代では」
「じゃあ、全部消えれば安全とも、全部消えれば動くとも言えない」
「言えません」
リディアが紙を見つめる。
「設備名の確認が先ですね」
「現物を開けないと分からないなら?」
「開けません」
フェリクスが先に答えた。
ガルムが彼を見る。
「即答か」
「この資料を読んだ直後に開けたいと言うほど無謀ではありません」
「昨日よりさらに成長したな」
「だからやめてください」
それでもフェリクスは少しだけ笑っていた。
「ただ、外部から設備名を特定できる資料は探したいです」
「今日は四冊終わった」
「午後は?」
「アルと相談だ」
「五冊」
「まだ言ってない」
「先に希望を」
「却下されるぞ」
「交渉は自由です」
リディアが苦笑する。
「まず昼食にしましょう」
「まだ早くありませんか?」
「ちょうどです」
「時計を確認してから――」
「十二時二分です」
「……食べます」
ガルムが満足そうに頷いた。
「よし」
「本当に子供扱いされている気がしてきました」
「気づくのが遅い」
その頃、生活区画では名前の分からない子供も昼食を食べていた。
今日は薄く焼いた肉と、柔らかく煮た根菜。
紙の箱は棚の上。
中には昨日作った紙の輪が入っている。
布鞄は椅子。
子供は肉を半分ほど食べたところで、窓の外を見た。
「そと」
「食べ終わってから行く?」
「うん」
「今日はよく晴れてるよ」
「ぬれてる?」
「日陰は少し」
「みる」
「分かった」
残りを食べる。
急がない。
水を飲む。
食器を返す。
それから自分で布鞄を持った。
「箱は?」
職員が聞く。
「ここ」
「置いていく?」
「うん」
「輪も中?」
「うん」
昨日なら、箱を気にして何度か振り返った。
今日は一度だけだった。
庭へ出る。
陽の当たる場所はほとんど乾いている。
日陰には濃い土の色が残り、草の根元に小さな水滴が光っていた。
子供は以前拾った木の実を布鞄から出す。
「これ」
「昨日の木の実だね」
「たべない」
「うん」
「分からないから」
「そうだったね」
「分かったら?」
「食べられる種類だと分かれば、食べられるかもしれない。でも、これは古くなってるかもしれないから、調べてからかな」
「すぐ食べない?」
「分かっても、すぐ食べなくていいよ」
子供は木の実を掌で転がす。
「分かったら、する?」
「何を?」
「ぜんぶ」
「分かったことを?」
「うん」
職員は少し考えた。
「しなくてもいいこともあるよ」
「なんで?」
「分かっただけで終わりにしてもいいから」
「知ってるだけ?」
「うん」
「変えない?」
「変えなくていい時もある」
子供は木の実を見る。
「これ、食べられるって分かっても、食べなくていい?」
「もちろん」
「持ってるだけ?」
「それもできる」
「なくしても?」
「お前がいらないって決めたなら」
子供は木の実を布鞄へ戻した。
「まだ持つ」
「分かった」
その会話を、庭の入口にいたリディアが聞いていた。
設備の話はしていない。
けれど、彼女は何となく足を止めた。
分かったら、全部するのか。
知ったら、変えなければならないのか。
子供がどこでそんな感覚を身につけたのかは分からない。
ただ、昨日から見つかっている設備資料にも似た危うさがあった。
表示がある。
だから消す。
線が止まっている。
だから起こす。
箱がある。
だから開ける。
知らないものを見つけた時、人は次の動作へ進みたくなる。
けれど、知ることと動かすことは同じではない。
リディアは何も言わず、そのまま中央棟へ戻った。
昼食を終えた俺のところへ、フェリクスから資料の内容が届いた。
白鴉の談話室で、アンナマリーと一緒に読む。
「複数表示の一部が自然消灯しても、残りを手動で消して揃えるな」
「はい」
「各表示が別の確認状態を示す場合がある」
「はい」
「全消灯の意味も設備によって違う」
「はい」
アンナマリーが一つずつ整理する。
「これは重要ですね」
「うん。でも、俺たちの設備が同じとは限らない」
「その点も明記されています」
「フェリクス、ちゃんと書いてる?」
『「同型または類似型である可能性はあるが、現中央棟設備への直接適用は不可」と記録しております』
「偉い」
『フェリクス様より、「本人へ直接言ってください」と』
「聞いてるの?」
『共有回線上ですので』
「じゃあ偉い」
『「ありがとうございます」とのことです』
アンナマリーが口元を押さえる。
「最近、フェリクス様とのやり取りが少し変わりましたね」
「監視されることに慣れてきたんじゃない?」
「アルフォンス様もでは?」
「俺?」
「はい」
「俺は監視されてない」
『セリー様、ガルム隊長、ブラット様、私が主様の無理な行動を止めることがあります』
「並べないで」
「十分では?」
アンナマリーが笑う。
「……否定しにくい」
俺は資料へ戻った。
「午後の追加資料は?」
『フェリクス様が五冊を希望しております』
「二冊」
『交渉を開始してよろしいでしょうか』
「何でエルが仲介してるの?」
『効率的です』
「三冊まで」
『共有します』
数秒後。
『合意しました』
「早いな」
「最初から三冊を狙っていたのでは?」
アンナマリーに言われて気づく。
「……やられた?」
「可能性はあります」
『フェリクス様より、「交渉術です」と』
「聞いてるじゃん!」
談話室に小さな笑いが起きた。
その後、帰還管理所の資料も確認した。
今日は一件だけ。
設備ではなく、本人意思と待機に関する古い記録だった。
帰還を希望した人物が、外区で待機。
資格確認済み。
身体状態も問題なし。
内区側の受入準備も完了。
それでも移送直前に本人が「少し待ちたい」と申し出た。
理由欄には何も書かれていない。
「理由なし?」
「はい」
アンナマリーが原文を指す。
「正確には、理由記載欄自体がありません」
「聞かなかった?」
「記録だけでは分かりません」
「結果は?」
「その日は外区待機継続」
「翌日は?」
「本人から申告なし。再確認なし」
「その次」
「本人から『帰る』と申し出」
「移送?」
「再度四項目確認後、移送されています」
俺は少し黙った。
「『少し待ちたい』だけで止めたんだ」
「この記録では」
「理由を書かせてない」
「はい」
「待ちたい理由が正しいかどうか審査もしてない」
「記録上は確認できません」
ブラットが隣から紙を見る。
「待つのに理由はいらなかったってことか?」
「少なくとも、この一例では」
「後の制度と逆だな」
「うん」
後になると、拒否の理由を治療対象として扱う記録が増える。
怖い。
迷う。
嫌だ。
それらが本人の意思ではなく、判断能力の低下や治療不足として整理されていく。
「今日はこれだけにする」
「はい」
アンナマリーは素直に資料を閉じた。
「驚かない?」
「昨日で慣れました」
「それも何か嫌だな」
「よい変化かと」
ブラットが立ち上がる。
「じゃあ飯の後の茶でも飲むか」
「さっき昼飯食べたばっかりだけど」
「資料を閉じた褒美だ」
「俺の扱い、本当にどうなってる?」
「食わせて休ませれば大体まともに動く元王太子」
「肩書き長いな」
「今度記録に書いとくか」
「やめろ」
午後、三〇八号室の少年は予定通り中庭へ出た。
俺はもう白鴉を離れていたが、後から記録を受け取った。
水たまりは消えていた。
跡もかなり薄くなっていた。
少年はしばらく同じ場所を見た後、自分で書いた「アルフォンス」の紙を一枚だけ持ってきていたらしい。
外で書くつもりだったのかと思ったが、違った。
乾いた石畳のそばに立ち、紙を見て、
「これは残る?」
とヨアヒムへ聞いた。
「紙が傷まなければ」
「ずっと?」
「ずっとは難しいかもしれません」
「じゃあ、また書く」
「そうですね」
「忘れたら?」
「その時は、一緒に確認できます」
「アルにも?」
「聞けますよ」
「じゃあいい」
少年は紙を畳まず、そのまま持って部屋へ戻った。
夕方。
旧保養施設の追加資料三冊から、新しい大きな発見はなかった。
二冊は無関係。
残る一冊には、表示器の交換部品一覧だけ。
フェリクスは残念そうだったらしい。
だが、その部品一覧に一つだけ、これまで確認できなかった名称があった。
三窓式表示器用の小型魔導灯。
同じ形状の灯りが三個。
部品番号は別々ではない。
つまり、三つの窓は同じ種類の光源を使っていた可能性が高い。
それ以上は分からない。
色の違いで状態を分けていたのか。
点灯位置だけで分けていたのか。
点滅で分けていたのか。
何も分からない。
「これだけ?」
塔へ戻った俺が聞く。
『はい』
「フェリクスは?」
『「部品番号だけでも前進です」と』
「強くなったな」
『ガルム隊長からは「午後四冊目へ行こうとしたので止めた」と』
「やっぱり駄目じゃん」
『フェリクス様より、「手は伸ばしていません」と』
「見るだけだった?」
『「背表紙を確認しただけ」と』
「それは半分伸ばしてるだろ」
セリーが夕食を並べながら笑う。
「本日も賑やかでございますね」
「本人は真剣なんだけどな」
「主様も同様かと」
「俺も?」
「はい」
夕食は白身魚と温野菜だった。
魚を一口食べたところで、エルから生活区画の夕方報告が入る。
『名前の分からない子供は夕食を終えました。体調変化なし。設備に関する新たな発言なし』
「紙の箱は?」
『棚の上です』
「輪は?」
『箱の中です』
「木の実?」
『布鞄の中です』
「そこまで記録してるの?」
『本人の所有物の位置について、本人が気にする傾向があるためです』
「なるほど」
少しして、追加が入った。
『本人が紙箱を開けました』
「自分で?」
『はい』
「輪を出した?」
『いいえ。確認後、再び閉じています』
「何か言った?」
『「いる」と』
「それだけ?」
『はい』
「じゃあそれだけ記録」
『承知しました』
紙の箱の中に輪がいる。
それが設備と関係あるなんて考える必要はない。
子供が自分で作った箱に、自分で作った輪を入れ、まだそこにあることを確認した。
ただそれだけのことかもしれない。
夕食を終えた後、俺は居間の卓へ今日の記録を並べた。
中央棟。
三窓式表示器。
帰還管理所。
三〇八号室。
名前の分からない子供。
別々の紙にしてある。
一枚へまとめない。
「主様」
「うん?」
「本日は何分でしょう」
「資料?」
「はい」
「四十分」
「昨日より十分快増しております」
「今日は新しい資料あるから」
「では三十五分では?」
「細かい交渉するなあ」
「主様が五分を積み重ねられますので」
「分かった。三十五分」
「承知いたしました」
「その後は?」
「お茶にいたしましょう」
「青い砂糖?」
「本日はございません」
「残念」
「毎日は控えると、ご自身でおっしゃいました」
「覚えてるんだ」
「もちろんでございます」
三十五分。
中央棟の発光記録を読む。
設備資料と照合する。
何も確定しない。
三窓式表示器が現中央棟の設備と同じものかも分からない。
発光がどの窓だったのかすら、隙間から見えただけなので判断できない。
箱側表示なのかも分からない。
時間になった。
「主様」
「あと一枚」
「三十五分でございます」
「これだけ」
「明日でも紙は逃げません」
「ガルムと同じこと言うな」
「正しいことは共有されます」
俺は紙を置いた。
「分かった」
セリーがお茶を持ってくる。
今日は砂糖なし。
それでも香りは悪くない。
「セリー」
「はい」
「全部消えたら、どうなると思う?」
聞いてから、自分で笑った。
「答えられないよな」
「はい。何が『全部』なのかも分かっておりません」
「そうなんだよ」
「ただ」
「ただ?」
「主様は、全部消すことを目標になさっているのでしょうか」
答えはすぐ出た。
「してない」
「はい」
「設備の表示なら、原因が解消された結果として消えることはある。でも、消すこと自体を目的にはしない」
「はい」
「子供の言う『寝る』も同じ。寝かせる方法を探すんじゃなくて、何が起きてるか分からないうちは勝手に動かさない」
「はい」
「もし本人が何かを望んだら、その時に聞く」
「それがよろしいかと存じます」
カップから湯気が上がる。
しばらく何も話さなかった。
夜。
旧保養施設では、昨日までと同じ監視が始まった。
ただし、今日は一つ変更があった。
中央棟の監視者に、「発光があった場合、見える範囲で位置だけ記録する」という項目が追加された。
どの隙間。
高さ。
左右。
光の長さ。
色。
継続時間。
それ以上はしない。
板を動かさない。
覗き込まない。
強い光を当てない。
魔力を流さない。
午後十時。
変化なし。
午後十一時。
変化なし。
生活区画では、名前の分からない子供が寝る準備をしていた。
紙の箱は棚。
中に紙の輪。
布鞄は椅子。
「扉は?」
「ちょっと」
「昨日と同じくらい?」
「うん」
少し開ける。
「灯りは?」
「ちいさい」
「分かった」
職員が水を置く。
「おやすみ」
「おやすみ」
子供は横になる。
少しして目を閉じた。
日付が変わる。
午前零時二十一分。
地下でごく弱い振動が一度。
約四秒。
中央棟に変化なし。
旧職員詰所に変化なし。
午前一時。
何も起きない。
午前二時。
何も起きない。
午前二時三十三分。
中央棟の監視者が、小さく身を乗り出しかけて止まった。
「光」
昨日と同じ青白い光。
ただし、見える場所が少し違う。
「位置記録」
「金属板下部。昨日より右寄りに見える」
「同じ光源か?」
「分からない」
「分からないで記録」
「了解」
光は細い。
弱い。
昨日より短い範囲しか見えない。
十秒。
二十秒。
消えない。
ガルムへ連絡する。
三十秒。
四十秒。
その時、監視者の一人が気づいた。
「左にも」
「何?」
「左側の隙間。ごく弱い」
右寄りの青白い光とは別に、少し離れた左側にも細い光が見える。
「二つ?」
「見える光は二か所」
「二つの灯りとは書くな」
「はい。二か所で発光確認」
右。
左。
同じ設備内部で反射しているだけかもしれない。
一つの光源が二つの隙間から見えているだけかもしれない。
別々の光源かもしれない。
まだ分からない。
ガルムとリディアが到着する。
「位置は?」
「右側が先。約四十秒後に左側でも確認」
「色は?」
「どちらも青白く見えます」
「明るさ」
「右がやや強い」
「時間記録継続。触るな」
「はい」
一分。
二分。
両方とも残る。
昨日見つかった三窓式表示器の図が、全員の頭に浮かんでいた。
けれど誰も口にしなかった。
三つの窓。
二か所の光。
それだけで同じだと決めるには早い。
二分四十秒。
先に点いた右側の光が弱くなる。
二分四十七秒。
右側が消えた。
左側は残る。
「右消灯」
「記録」
三分。
左側はまだ点いている。
三分三十秒。
左側の明るさに変化なし。
四分。
ガルムが腕を組んだまま動かない。
「何もしない」
誰に言うでもなく確認する。
リディアが頷く。
「はい」
四分十八秒。
左側も消えた。
部屋が元の暗さへ戻る。
「終了時刻」
記録する。
「再点灯監視継続」
「はい」
誰も板へ近づかなかった。
その約十五分後。
生活区画の子供が寝返りを打った。
目は開かない。
寝言もない。
午前三時。
設備変化なし。
午前四時。
変化なし。
旧職員詰所表示板も動かない。
地下振動も追加なし。
午前五時を過ぎる。
東の空が薄く明るくなる。
子供はまだ眠っている。
午前五時四十九分。
子供が目を覚ました。
目を開ける。
しばらく天井を見ている。
職員は声をかけず、本人が動くのを待った。
子供は身体を起こす。
棚を見る。
紙の箱。
椅子を見る。
布鞄。
それから廊下の方へ視線を向けた。
「おはよう」
職員が言う。
「……おはよう」
「水飲む?」
「あと」
「分かった」
子供は寝台から降りる。
棚へ行く。
紙の箱を開ける。
中の輪を見る。
「いる」
「うん」
箱を閉じる。
そのまま、しばらく手を置いている。
「ふたつ」
職員は反応しそうになって、止まった。
子供は指を立てない。
「ふたつ?」
聞き返さない。
沈黙する。
子供が自分から続ける。
「きのう、ひとつ」
少し間がある。
「きょう、ふたつ」
職員は声を低く保つ。
「そうなんだね」
「うん」
「……」
質問しない。
子供は箱から手を離す。
布鞄を取る。
「でも」
昨日と同じ言葉。
職員は待つ。
「まだ、ある」
「うん」
子供は廊下を見る。
怖がってはいない。
けれど、少しだけ眉を寄せた。
「まだ、こない」
職員の指が記録板の上で止まる。
それでも聞かない。
「きょうも?」
子供が自分で首を傾げる。
「……わかんない」
「分からないんだね」
「うん」
水を飲む。
朝食へ向かう準備をする。
そこで会話は終わった。
塔で報告を受けた俺は、パンを持ったまま動けなくなった。
『主様』
「食べてる」
『まだ一口目を持ったままです』
「今食べる」
一口かじる。
セリーが向かいから見ている。
「何も言わないの?」
「エルが申し上げましたので」
「連携がいいな」
「はい」
パンを飲み込んでから、もう一度記録を見る。
二か所で青白い発光。
右が先。
約四十秒後に左。
右が先に消えた。
左が後。
子供は起床後、
――ふたつ。
――きのう、ひとつ。
――きょう、ふたつ。
――でも、まだ、ある。
――まだ、こない。
「昨日の『ひとつ寝た』と、今日の『ふたつ』は足して三つ?」
口に出してから、自分で首を横へ振った。
「いや。まだ分からない」
「はい」
「今日二つ寝たとも言ってない」
「はい」
「『きょう、ふたつ』だけ」
「はい」
「昨夜は発光が二か所。でも同じ光源の反射かもしれない」
「はい」
「三窓式表示器を知ってる俺たちが、勝手に三へ寄せてる可能性もある」
「ございます」
「本人に『全部で三つ?』は聞かない」
「はい」
「『二つ寝た?』も聞かない」
「はい」
「でも、『まだ来ない』は……」
そこで止まる。
安全に関わるなら聞く必要がある。
ただ、本人は今のところ危険を訴えていない。
「体調は?」
『問題ありません。朝食へ向かっております』
「怖がってる?」
『職員記録では、強い恐怖反応なし。ただし「まだ、こない」発言時に眉を寄せる様子あり』
「逃げたいとか、扉閉めたいとか?」
『ありません』
「じゃあ今は聞かない」
『はい』
俺は二口目のパンを食べる。
「主様」
「うん」
「本日は旧保養施設へ?」
「……行かない」
自分でも少し迷った。
でも決める。
「本人は呼んでない。危険もない。ガルムたちがいる」
「はい」
「俺が行くと、聞かないつもりでも顔に出るかもしれない」
「主様は非常に知りたがっておられますので」
「そんなに?」
「はい」
「じゃあ今日は距離置く」
「よろしいかと存じます」
俺はスープへ手を伸ばす。
頭の中では、どうしても数字が並ぶ。
昨日、一つ。
今日、二つ。
三窓式。
まだある。
けれど、計算が合わない。
もし昨日一つ、今日二つなら三つ全部のはずなのに、本人はまだあると言った。
だったら、単純な三窓式とは合わない。
それだけでも、急いで三つへ結びつけなかった意味はあった。
「セリー」
「はい」
「合わないな」
「何がでしょう」
「三つに」
「はい」
「だから、よかった」
「何がでしょう」
「昨日『残り二つだ』って決めなくて」
セリーは静かに頷いた。
「はい」
分からないものを、知っている数字へ押し込めなかった。
それだけで、一つ間違えずに済んだのかもしれない。
窓の外では朝日が高くなり始めている。
旧保養施設では、名前の分からない子供がいつもの朝食を食べている。
中央棟の設備は静かなまま。
何かが二つだった。
何かはまだある。
何かはまだ来ない。
俺たちは、そのどれも起こして確かめる必要はなかった。
少なくとも、今は。




