第74話 ひとつ消えたからといって、残りまで数えさせる必要はありませんでした
旧保養施設へ向かう道は、昨日までの雨をまだところどころに残していた。
森へ入る前の街道には浅い轍ができ、陽の当たる場所から少しずつ乾き始めている。馬車の窓を少し開けると、湿った土と若い草の匂いが流れ込み、遠くでは雨上がりを待っていた鳥が何度も短く鳴いていた。
向かいにはセリーが座っている。
俺は膝の上に何も置いていなかった。
資料もない。
エルから届いた記録の写しも、昨夜見つかった手順書も持ってこなかった。
「主様」
「何?」
「先ほどから三度ほど、何もない膝をご覧になっております」
「……そんなに?」
「はい」
「資料持ってくればよかったかな」
「お持ちにならないと決められたのは主様です」
「分かってる」
旧保養施設へ行くと決めた後、俺は一度だけ資料を持とうとした。
けれど、やめた。
今日あの子に会いに行く理由は、昨夜の設備変化を問いただすためではない。
――きていい。
本人がそう言ったからだ。
だったら最初から紙束を抱えて現れ、「ひとつ消えたって何?」「まだ寝ないって何?」と聞く気満々に見えるのは違う気がした。
「聞きたいことはあるんだけどな」
「存じております」
「ものすごくある」
「それも存じております」
「一つくらいなら聞いてもいいと思う?」
セリーはすぐには答えなかった。
馬車が小さなくぼみを越え、車輪から柔らかな振動が伝わってくる。窓の外を見ていたセリーは、揺れが収まってからこちらへ視線を戻した。
「何のためにお尋ねになるのでしょう」
「安全のためなら聞く」
「はい」
「今すぐ危険があるかどうか判断するのに必要なら」
「はい」
「でも、今のところ設備側に危険な動きはない。子供の体調も問題ない」
「そのように報告されております」
「なら、俺が知りたいだけのことは急がなくていい」
「主様はすでに答えをお持ちなのでは?」
「聞かれると整理できるんだよ」
「では、今後も必要に応じてお尋ねいたします」
「毎回やられると困る」
「善処いたします」
「やめるとは言わないんだな」
「必要ですので」
セリーの口元がわずかに緩む。
俺も窓の外へ目を向けた。
名前の分からない子供は、設備の説明書ではない。
本人が知っていることがあったとしても、それを全部こちらへ渡す義務はない。
ひとつ消えた。
でも、まだ寝ない。
その二つだけでも、俺の頭は勝手に続きを作ろうとする。
何が一つなのか。
いくつあるのか。
何が寝るのか。
何が全部消えれば寝るのか。
どうして見えない場所の変化が分かるのか。
聞けば答えるかもしれない。
でも、答えられることと、答えさせていいことは同じじゃない。
旧保養施設へ着くと、正面玄関の前では二人の職員が雨水を外へ掃き出していた。
軒から落ちる水はもうほとんどなく、石段の端だけがまだ濃い色をしている。俺を見つけた職員が頭を下げたが、以前のような緊張した空気はない。
「おはようございます」
「おはよう。ガルムは?」
「中央棟です。朝の設備記録を確認しています」
「子供は?」
「生活区画にいます。先ほどまで紙を触っていました」
「体調は変わらない?」
「はい。朝食もいつも通りです」
「分かった。先にそっち行く」
中央棟へは向かわない。
ガルムにも連絡だけ入れる。
『主様。ガルム隊長より、「先に本人のところへ行け」とのことです』
「言われなくても行くよ」
『続けて、「設備は逃げない」と』
「昨日の俺なら中央棟に寄ると思われてる?」
『その可能性は高いかと』
「みんな俺の扱いに慣れすぎじゃない?」
「よいことかと存じます」
セリーが平然と言う。
「そうかな」
「止めるべき時に止めてくださる方が増えました」
それには反論できなかった。
生活区画へ続く廊下は、朝の光が細長く差し込んでいた。
古い建物なので窓は大きくない。それでも、以前よりカーテンを開ける場所が増え、暗さの印象はかなり薄れている。
廊下の途中でリディアとすれ違った。
「アルフォンス様」
「おはよう。中央棟?」
「今はガルム隊長とフェリクスさんが確認しています。私は生活区画周辺の結界記録を見てきました」
「変化あった?」
「ありません。子供の部屋や生活区画に、外から何かが入った痕跡も確認できません」
「強い走査は?」
「していません。既存の結界記録だけです」
「ありがとう」
リディアは少しだけ俺の顔を見る。
「本人に会われるんですね」
「うん。来ていいって」
「聞くんですか?」
「必要なら」
「何を?」
「それを決めずに行く」
リディアが一瞬目を丸くした。
「珍しいですね」
「やっぱり?」
「以前でしたら、質問を五つほど用意されていたと思います」
「五つで済むかな」
「では十個」
「増やすなよ」
小さく笑い合ってから、リディアは中央棟の方へ歩いていった。
生活区画の入口には、普段から子供のそばにいる職員がいた。
「中です」
「俺が来るって伝えた?」
「はい」
「反応は?」
「『うん』と。その後は紙を折っています」
「じゃあ入る」
扉は開いている。
中へ入ると、窓際の卓に子供がいた。
布鞄は椅子の横。
昨日作った紙の箱は寝台脇の棚に置かれている。
今触っているのは別の紙だった。
細長く折っている。
俺が入っても、すぐには顔を上げなかった。
「おはよう」
「……おはよう」
「来た」
「うん」
「ご飯食べてきた」
その瞬間、子供が顔を上げた。
「ほんと?」
「何でそこ疑うの?」
「わすれるって」
「誰が言った?」
子供が職員を見る。
職員は少し困った顔をした。
「『考え事すると忘れそうになるんじゃないかな』とは言いました」
「情報が広がってる」
「たべた?」
子供がもう一度聞く。
「食べた。パンと卵とスープ」
「ぜんぶ?」
「全部」
子供は少し考えてから頷いた。
「いい」
「合格?」
「うん」
「俺、何しに来たんだろう」
近くでセリーが小さく笑う。
子供もほんの少し口元を緩めた。
俺は卓の向かいにある椅子を指した。
「座っていい?」
「いい」
「ここ?」
「うん」
座る。
セリーは少し離れた壁際に立った。
職員も記録板を持っているが、会話へ入るつもりはないらしい。
子供は再び紙へ視線を落とした。
「何作ってる?」
「まだ」
「まだ決まってない?」
「うん」
「じゃあ完成してから聞く」
「アル、聞く」
「聞いちゃったな」
「うん」
「今から努力する」
「きのうも言った?」
「それ、別の子にも言われた」
「だれ?」
「白鴉にいる子」
「アルフォンス?」
少しだけ迷う。
「保存されてた方?」
「うん」
「そっちじゃない。三〇八号室の子」
「なまえ、ない?」
「今はアルフォンスって呼んでる」
「アルもアルフォンス」
「そう」
「もうひとりも」
「そう」
「いっぱい」
「俺もそう思う」
子供は紙を折る手を止めた。
「ぼくは?」
胸の奥が少し動く。
けれど、顔には出さないようにした。
「何?」
「なまえ」
「まだ聞いてない」
「ない?」
「分からない」
「つける?」
「俺が?」
「うん」
「勝手にはつけない」
子供が俺を見る。
「なんで?」
「お前の名前だから」
「ないなら?」
「ないって決まったわけじゃない」
「わすれたら?」
「それもまだ分からない」
「ずっと分からなかったら?」
難しい質問だった。
名前が分からないままでは不便なこともある。
記録も、呼びかけも、生活も。
だからといって、本人が何も決めていないうちに周囲が名前を置けば、それがいつの間にか本人そのものとして固定されるかもしれない。
「呼んでほしい名前ができたら教えて」
「ぼくが?」
「うん」
「アルが決めない?」
「決めない」
「セリーは?」
セリーへ視線が向く。
「私も、ご本人のご希望なく決めることはいたしません」
「ガルムは?」
「たぶん勝手には決めない」
「フェリクス」
「……あいつは候補を考えそうだから、先に止めとく」
子供が少し笑った。
「いっぱい考える?」
「たぶん二十個くらい」
「そんなに?」
「もっとかも」
「やだ」
「じゃあ絶対止める」
「うん」
名前の話はそこで終わった。
俺から「思い出した?」とは聞かない。
子供も続けない。
折っていた紙が少しずつ形になる。
細長い帯を二つ折りにし、端を内側へ入れている。
何になるのかはまだ分からない。
数分ほど、紙の擦れる音だけが続いた。
不思議と居心地は悪くない。
俺は中央棟のことを考えないようにしているわけではなかった。
考えている。
昨夜の水滴。
一瞬の青白い光。
表示板の微小変位。
地下の振動。
そして、この子の「ひとつ、きえた」。
全部頭の中にある。
それでも、今ここで口にしなければならない理由はない。
先に口を開いたのは子供だった。
「アル」
「何?」
「みた?」
何を、と聞きかける。
昨日までなら、そのまま聞いていたかもしれない。
でも子供の視線は俺ではなく、廊下の向こうへ向いていた。
「何か、俺に見てほしいものがある?」
「ううん」
「じゃあ、何を見たか聞いてる?」
「うん」
「俺は今朝来たから、夜の施設は見てない」
「エルは?」
「記録は聞いた」
子供の指が紙の端をなぞる。
「ひかった?」
部屋の空気がわずかに変わった。
職員の記録板を持つ手が止まり、セリーの視線が静かに子供へ向く。
俺はなるべく声を変えなかった。
「中央棟で、一瞬だけ青白い光が見えたって記録はある」
「いつ?」
「朝になる少し前」
「ながい?」
「すごく短かった。見てた人の記録では、一秒もなかった」
子供が考える。
「きえた?」
「その光は消えた」
「……ひとつ?」
ここで答えを置いてはいけない。
「俺には、それがお前の言った『ひとつ』かどうか分からない」
子供は黙った。
「ほかは?」
「何のこと?」
「ひかった?」
「確認された光はそれだけ」
「みず」
胸の奥が強く動いた。
けれど、子供の顔にはこちらを試すような様子はない。
「水もあった」
「いくつ?」
今度は俺が答える番だった。
「最初に見つかったのは三滴」
「さん」
「時間が経って、順番に乾いた」
「ぜんぶ?」
「うん。最後の一滴が乾いたのは、光が消れた少し後」
子供は紙を置いた。
自分の指を見ている。
「みっつ」
「うん」
「ひとつ」
「うん」
「ちがう」
俺はすぐには聞き返さなかった。
子供が自分から続けるかもしれない。
しばらく待つ。
「みず、ちがう」
「お前の言った『ひとつ』は、水じゃない?」
「うん」
「光?」
口から出た後で、少し急いだと思った。
子供はすぐに頷かなかった。
紙へ触れる。
端を一度折り直す。
「……わかんない」
「そっか」
「ひかったの、ひとつ?」
「見つかった光は一回」
「ひとつ?」
「一回と一つは同じとは限らない」
子供が顔を上げる。
「なんで?」
「同じ灯りが一回だけ点いたのかもしれないし、たくさんあるうちの一つが点いたのかもしれない。中が見えてないから分からない」
「アルも?」
「分からない」
「そっか」
残念そうではなかった。
むしろ少し安心したようにも見える。
「じゃあ、まだ」
「何が?」
今度は必要以上に広げない。
子供は自分で答えた。
「まだ、ねない」
「うん」
「きのう、いった」
「聞いた」
「ぼくじゃない」
今度こそ、俺は息を止めかけた。
「寝るのは、お前じゃない?」
「うん」
セリーも職員も動かない。
俺は椅子に座ったまま、声を低く保った。
「そこは分かった」
「うん」
「今すぐ危ない?」
初めて、安全のための質問をする。
子供は少し考えた。
「いま?」
「うん。今ここにいるお前や、ここにいる人が逃げたり、何かを止めたりしないと危ない?」
「……ない」
「痛い?」
「ない」
「苦しい?」
「ない」
「何か来る?」
子供の表情がわずかに曇る。
質問を増やしすぎた。
「ごめん。今のは答えなくていい」
「……まだ」
「まだ?」
「こない」
それ以上は聞かなかった。
「分かった。じゃあ今は、急いで何かしなくていい?」
「うん」
安全に必要なところだけ。
そこで止める。
俺の頭の中には、「何が来ない?」「いつ来る?」「寝るのは設備? 人? 箱?」という質問が一気に並んでいる。
でも、それは俺が知りたいことだ。
今すぐこの子に答えさせなければ危険を防げないことではない。
「アル」
「何?」
「きかない?」
「聞きたいよ」
「いっぱい?」
「ものすごくいっぱい」
「なんで聞かない?」
俺は少し笑った。
「聞かれたくないことまで聞くの、嫌だろ」
「うん」
「俺が知りたいだけなら、後でもいい」
「わすれる?」
「俺が?」
「うん」
「たぶん忘れない」
「いっぱいあるのに?」
「いっぱいあるから忘れる可能性はあるな」
「だめ」
「じゃあ紙に書いとく」
「ぼくに聞くの?」
「聞きたいことがある、ってだけ。答えを勝手に書くんじゃなくて」
子供はしばらく俺を見る。
「あとで?」
「必要になったら。お前が話したくなった時でもいい」
「ずっとあと?」
「それでも安全なら」
「……そっか」
紙をまた折り始める。
俺は背もたれへ少し身体を預けた。
寝るのは自分ではない。
水滴は違う。
今は危険ではない。
何かは「まだ来ない」。
分かったことは増えた。
でも、答えには程遠い。
それでいい。
子供が紙の端を折り込む。
やがて細長い輪のようなものができた。
「できた」
「今度は聞いていい?」
「いい」
「何?」
「わっか」
「輪か」
「うん」
「何に使う?」
「まだ」
「そこもまだなんだ」
「うん」
輪を卓の上へ置く。
昨日の紙の箱とは違い、今日は棚へ持っていかない。
指先で転がす。
少し歪んでいるので、真っ直ぐには転がらない。
「曲がる」
「ほんとだ」
「へた?」
「初めて作ったならこんなもんじゃない?」
「アル、つくれる?」
「たぶんもっと下手」
「つくって」
「今?」
「うん」
紙を一枚渡される。
断る理由はなかった。
俺も折る。
子供のものを見ながら真似をするが、途中で端がずれた。
「ちがう」
「分かってる」
「そこ」
「どこ?」
「ここ」
子供が指を伸ばす。
俺の紙の端を直接直そうとして、途中で止まった。
「さわっていい?」
「いいよ」
指先で紙を押す。
「こっち」
「こう?」
「うん」
「先生みたいだな」
「せんせい?」
「教える人」
子供の手が止まる。
一瞬だけ表情が固くなった。
俺はすぐに言葉を足さない。
ここで「先生が嫌い?」とも、「誰かに教わった?」とも聞かない。
子供は紙から手を離した。
「せんせい、やだ」
「分かった」
「アル、せんせいじゃない」
「うん」
「ぼくも」
「うん」
それだけ確認する。
「じゃあ、紙の折り方教えてくれた人」
「それならいい」
「分かった」
子供の肩から、わずかに力が抜けた。
俺は言われた通りに折る。
完成した輪は、子供のものよりさらに歪んでいた。
「……ひどい」
「そんな顔する?」
「まがってる」
「お前のも曲がってたぞ」
「アルの、もっと」
「勝負じゃないから」
「ぼくのかち」
「勝負だったの?」
「いま、なった」
「後から決めるのずるくない?」
子供が笑った。
声は小さい。
でも、確かに笑った。
セリーも目を細めている。
設備の話をしに来たわけではない。
そう思っていたのに、結局いくつか話した。
それでも、紙の輪を作る時間の方が長かった。
それでいい。
昼前になって、俺は生活区画を出た。
「また来る?」
扉のところで子供に聞かれる。
「来ていいなら」
「きていい」
「今日?」
「……きょうは、もういい」
「分かった」
「つぎ」
「じゃあ次」
「ごはん、たべて」
「そこ毎回確認されるの?」
「うん」
「セリーが喜ぶな」
「大変よい習慣かと存じます」
背後から即答が来た。
子供がまた笑った。
廊下へ出て扉から離れてから、俺は長く息を吐いた。
「主様」
「聞きたいこと増えた」
「でしょうね」
「減ると思った?」
「いいえ」
「水は違う。寝るのは自分じゃない。今は危なくない。まだ来ない」
「はい」
「『先生は嫌』も出た」
「はい」
「設備だけじゃなくなった」
「元より、設備だけのお話ではなかった可能性もございます」
「そうなんだよな」
俺は足を止める。
「エル。さっきの会話、本人が話した部分と俺の質問を分けて記録して」
『すでにその形式で記録しております』
「『ぼくじゃない』を、『設備が寝る』に変換しない」
『はい』
「『まだ来ない』も対象不明」
『はい』
「水滴は本人が違うと言った。ただし、何と違うかは『ひとつ』の対象について、でいい?」
『会話上はその解釈が最も自然ですが、断定表現を避け、「アルが『お前の言ったひとつは水ではないか』と確認し、本人が肯定」と記録します』
「それで」
記録を綺麗にしすぎると、本人が実際に言ったことと、こちらが整理した意味が混ざる。
それは避けたい。
中央棟へ向かう途中で、ガルムと会った。
「終わったか」
「終わったって言い方やめて」
「話は?」
「少しした」
「聞いたのか?」
「安全に必要なところだけ。あとは本人から」
ガルムへ概要を伝える。
彼は途中で口を挟まなかった。
「寝るのは本人じゃない、か」
「うん」
「対象不明」
「うん」
「まだ来ない」
「対象不明」
「水滴は違う」
「少なくとも本人の言った『ひとつ』について聞いた時はそう答えた」
「光は?」
「分からないって」
「なら分からんままだな」
「珍しく嬉しそうに言うな」
「お前が勝手に答えを作ってないからな」
「そこ褒めるところ?」
「昔なら三つくらい仮説を立てて、一つずつ潰しに行ってた」
「仮説は十個くらいある」
「行動に移してないならいい」
「そこなんだ」
ガルムが歩き出す。
「中央棟を見るか?」
「見る。でも触らない」
「分かってる」
設備管理室へ入る前に、昨夜から今朝までの記録をもう一度確認した。
地下微弱振動。
中央棟床の水滴。
旧職員詰所表示板の微小変位。
一瞬の青白い発光。
水滴消失。
子供の発言。
時刻は近いものもある。
離れているものもある。
だから一つの線で結ばない。
設備管理室の床には、昨夜水滴があった位置が小さな紙札で示されていた。
直接床へ印はつけていない。
「ここ?」
「そうだ」
「今は完全に乾いてる」
「ああ」
「天井も壁も?」
「漏水痕なし」
「外壁からの雨水侵入?」
「否定はできん。だが経路は見つかってない」
フェリクスが奥の机から顔を上げる。
「水そのものを採取できなかったのが惜しいですね」
「触るなって言ったの俺だけどね」
「正しい判断です。ただ、惜しいものは惜しいです」
「次に出たら?」
「出た場所と状況次第です。設備を刺激せず採取できるなら、成分だけ確認する価値はあります」
ガルムが俺を見る。
「事前に決めるか」
「うん。出てから慌てるよりいい」
リディアも加わる。
「床へ自然に落ちた水で、設備本体や線に触れず採取できる位置なら、一滴だけ。残りはそのまま観察ではどうでしょう」
「全部取らない?」
「はい。現象を消してしまわないためです」
「容器を置いて待つのは?」
フェリクスが首を横へ振った。
「置くこと自体が環境を変えます。水滴が落ちる場所もまだ一定とは限りません」
「じゃあ、再発した時に条件確認して、一滴だけ採取できるなら採取。無理なら取らない」
「賛成です」
「俺もそれでいい」
ガルムが記録へ加える。
「それ以上は?」
「今日は何もしない」
俺が言うと、フェリクスがこちらを見る。
「本当に?」
「何でみんな驚くの?」
「いえ、昨日まででしたら、表示板の追加観測か北側外庭の乾燥差確認を提案されるかと」
「観測は続ける。でも新しい刺激は入れない」
「では、ちょうどよいものがあります」
「何?」
「資料です」
「また?」
「触っても設備は反応しません」
「紙が破れる可能性はある」
「丁寧に扱います」
机へ置かれていたのは、朝のうちに別棟の保管棚から見つかった薄い設備図だった。
表紙には、「中継設備・表示部構成」とある。
「第二線?」
「そこはまだ分かりません。ただ、年代と用紙形式は昨夜の引き継ぎ書に近いです」
「何が書いてある?」
「状態表示器の標準構成です」
図には、小さな箱の正面らしい絵があった。
その横に三つの細長い窓。
縦に並んでいる。
俺は無意識に息を止めた。
「三つ?」
「はい。ただし、これが中間保持箱とは限りません」
フェリクスが先に言う。
「分かってる」
「同時期の複数設備で使われた標準表示器のようです」
リディアが図の端を指す。
「ここに説明があります」
文字は薄い。
一番上。
――受所側確認。
二番目。
――接続先応答。
三番目。
――保持状態。
俺たちはしばらく黙った。
「昨日の引き継ぎ書にあった三つと似てる」
俺が言う。
「はい」
フェリクスが頷く。
「『受所側確認未了、接続先応答待ち、保持器状態不一致等においても継続する場合あり』」
「でも、三つの表示がそれぞれ一対一で対応してるとは書いてない」
「その通りです」
「標準構成だし、中間保持箱用とも書いてない」
「はい」
「今の中央棟の光がこの表示器とも限らない」
「はい」
ガルムが腕を組む。
「それでも調べる価値はあるな」
「あります」
図の下には、表示の色についても小さく書かれていた。
正常時。
待機時。
確認未了。
ただし、肝心の色の部分は汚れと欠損がひどい。
「青白い光の記載は?」
「読めません」
「復元できる?」
「紙そのものを傷めずに読める範囲を確認します。強い薬品処理はしません」
「複写は?」
「可能です」
「じゃあ原本は触る回数減らして」
「はい」
さらに図の右下。
小さな注記。
「『各表示は独立して……』」
リディアが読む。
「続きが欠けています」
「独立して点灯?」
「可能性はありますが、書かれているのは『各表示は独立して』までです」
「勝手に足さない」
「はい」
俺は三つの細長い窓を見る。
名前の分からない子供の言葉が頭へ浮かぶ。
――ひとつ、きえた。
けれど、それを図へ結びつけるには早すぎる。
「エル。子供にはこの図のこと伝えないで」
『はい』
「少なくとも今は」
『理由は、本人の自発的な認識と資料由来の情報を混同させないため、でよろしいでしょうか』
「それもある。あと、本人に『残り二つ?』って数えさせる空気を作りたくない」
ガルムが頷く。
「それでいい」
フェリクスも珍しくすぐに同意した。
「仮に同型設備だったとしても、表示数が三つだからといって、本人が三つを認識しているとは限りません」
「そう。『ひとつ消えた』からって、三つあったとは限らない」
「はい」
「残りを数えさせる必要もない」
設備図は重要資料として複写されることになった。
原本は保護袋へ戻す。
中央棟の壁を開けることもしない。
青白い光が見えた隙間を広げることもしない。
標準表示器が三窓式だった。
今日はそこまで。
昼食前、俺は白鴉へ向かった。
旧保養施設に一日いることもできたが、三〇八号室の少年へ昨日「次」を曖昧にしたままだった。
白鴉の廊下は、昼前になると朝とは違う匂いがする。
厨房から煮込み料理の香りが流れ、洗った布を運ぶ職員とすれ違う。談話室では豆を数える老人が、今日は皿の豆ではなく窓辺の鉢植えの葉を数えていた。
「今日は豆じゃないんだ」
声をかける。
「豆は食った」
「何個?」
「六つ」
「増えてる」
「大きさは聞くなよ」
「俺は聞かない」
「三〇八の坊主は聞いたぞ」
「やっぱり」
老人が笑う。
「昨日より小さいから六つだと言っといた」
「納得した?」
「皿まで見に来た」
「細かいな」
「お前に似たんじゃないか?」
「何で俺?」
老人は答えず、鉢植えの葉をまた数え始めた。
三〇八号室の扉を叩く。
「アル?」
「うん」
「入っていい」
中へ入ると、少年は窓際にいた。
赤い布は卓の端。
手紙は包まれたまま。
絵はその横にある。
「今日は外?」
「あとで」
「水たまり?」
「なくなってるか見る」
「たぶん昨日より減ってる」
「なくなってたら?」
「別のことする?」
「見る」
「何を?」
「なくなった場所」
「なるほど」
俺は椅子へ座る。
「薬は昨日と同じ?」
「同じ。身体も昨日と同じ」
「じゃあ短く終わり」
「うん」
少年が少し嬉しそうにする。
毎朝の確認を短くすると決めたことが、ちゃんと続いている。
「手紙は?」
「今日は読まない」
「分かった」
「聞かない?」
「何を?」
「なんで読まないか」
「話したいなら聞く」
少年は赤い布を見る。
「今日は外見たいから」
「それなら外優先?」
「うん」
「分かった」
「それだけ?」
「それだけ」
「アル、変わった」
「最近よく言われる」
「前はもっと聞いた」
「そうだな」
「今も聞きたい?」
「聞きたい」
「じゃあ、なんで?」
「聞きたいのと、聞かなきゃいけないのは違うって覚えたから」
少年は少し考える。
「遅い」
「厳しいな」
「大人なのに」
「大人でも遅いことあるんだよ」
「セリーは?」
「たぶん俺より早い」
「ガルム」
「俺より早いかも」
「ブラット」
「場合による」
「フェリクス」
「聞く前に触ろうとする」
少年が吹き出した。
「だめじゃん」
「だから監視されてる」
「アルも?」
「俺も最近ちょっと監視されてる気がする」
窓の外へ出る頃には、日差しがかなり強くなっていた。
中庭の石畳はほとんど乾いている。
昨日まで水が溜まっていた場所には、輪郭だけが薄く残っていた。
少年はそこまで歩く。
以前は水たまりの手前で長く止まった。
今日は水がない。
それでも、同じ場所で足を止めた。
「ない」
「ないな」
「ここだった」
「うん」
「跡ある」
「少しだけ」
少年はしゃがんだ。
石の色の違いを見る。
「消えたけど、分かる」
「何が?」
「あったの」
「跡があるから?」
「うん」
指では触らない。
しばらく見ている。
「全部消えたら?」
「跡も?」
「うん」
「ここに水たまりがあったことを知ってる人は覚えてるかも」
「誰もいなくなったら?」
答えに困る。
「記録があれば残る」
「記録もなくなったら?」
「……分からない」
「なくなる?」
「何が?」
「あったこと」
風が中庭を通る。
干されていた布が揺れ、遠くで誰かが木箱を置く音がした。
「起きたこと自体は変わらないと思う」
「でも、誰も知らない」
「そうなることはあるかも」
「怖い?」
昨日と似ている。
でも少し違う。
「怖い時もある」
「だから書く?」
「記録を?」
「うん」
「それもある」
「いっぱい書く」
「俺?」
「うん」
「最近、俺よりアンナマリーの方が書いてる」
「誰?」
「昔から知ってる人」
「女?」
「うん」
「セリー、知ってる?」
「もちろんでございます」
少し離れたところからセリーが答える。
「仲いい?」
少年の質問に、俺とセリーが一瞬黙った。
「今は協力してる」
「昔は?」
「婚約者だった」
隠すことでもない。
少年が目を丸くする。
「けっこん?」
「してない」
「なんで?」
「いろいろあった」
「今は?」
「してない」
少年は今度はセリーを見る。
「セリーは?」
「何がでしょう」
「アルとけっこん?」
来た。
以前、別の場所でも似たような質問をされた気がする。
「してない」
俺が先に答える。
セリーは穏やかに微笑んだ。
「現在は、でございます」
「セリー」
「事実でございます」
「何で余計な言葉足すの?」
「正確性を重視いたしました」
少年が俺とセリーを交互に見る。
「する?」
「今それ決める話じゃないから」
「まだ?」
「その『まだ』もやめよう」
少年が笑った。
シリアスな設備の話ばかり考えていた頭が、少しだけ軽くなる。
水たまりが消えた場所で、婚姻の話をすることになるとは思わなかった。
午後、塔へ戻る前にもう一度だけ旧保養施設の報告を確認した。
中央棟の設備に新しい発光なし。
水滴なし。
旧職員詰所の表示板は、夜明け前の微小変位位置から動いていない。
地下微弱振動なし。
北側外庭の乾燥差は、地表全体が乾いたため判別不能になった。
自然乾燥か地下構造の影響か、結論は出せない。
そして、午前中に見つかった三窓式の標準表示器について、フェリクスたちが追加資料を一つだけ見つけていた。
「一つだけ?」
俺が聞く。
「今日はそれ以上探さないと決めました」
フェリクスが言う。
「誰が?」
「私です」
ガルムを見る。
「本当に?」
「俺は何も言ってない」
「成長したな」
「だから、その扱いをやめてください」
資料は、表示器の交換記録だった。
同じ型の三窓表示器を、別の療養設備で交換した記録。
上段の窓だけが消えなくなり、原因を確認したところ、表示灯そのものの故障ではなく、接続先からの確認が戻っていなかった。
担当者は灯りを交換しなかった。
接続先を確認し、そこで止まっていた確認処理を終えた後、上段表示は自然に消えた。
「つまり、少なくともこの設備では、表示そのものを消したんじゃない」
「はい」
「原因側が変わった結果、消えた」
「そのようです」
「下二つは?」
「この事例では最初から消灯状態です」
「三つ全部が点いてたわけじゃない」
「はい」
俺は資料を閉じる。
「これも子供には伝えない」
「同意します」
「俺たちが勝手に『残り二つ』って考えないためにも」
「はい」
ガルムが壁にもたれた。
「ただ、中央棟で見えた光が三窓表示器の一つだった可能性は?」
「ある。でも、まだ可能性」
「箱側表示との関係も?」
「不明」
「中間保持箱が現存するかも?」
「不明」
「子供の『ひとつ』との関係は?」
「不明」
ガルムが少し笑う。
「今日はよく分からんな」
「でも、分かったこともある」
「何だ?」
「表示が消えない時に、表示を直接消す必要はないってこと」
フェリクスが頷く。
「むしろ原因側を確認すべきです」
「だから今、中央棟の板を開けて灯りを止める必要もない」
「はい」
「もしまた光っても、危険がなければまず記録」
「はい」
「それから考える」
方針は変わらない。
夕方。
名前の分からない子供は、生活区画で夕食を食べた。
昼に作った紙の輪は卓の上。
昨日の紙の箱は棚の上。
布鞄は椅子。
木片は中にある。
今日は豆を残さなかった。
「ぜんぶ食べたね」
職員が言う。
「ちいさかった」
「豆が?」
「うん」
「昨日は二つ残したものね」
「きょうの、ちいさい」
「そうなんだ」
食後に水を飲む。
その後、紙の輪を持って廊下へ出た。
旧職員詰所へ続く分かれ道の手前で止まる。
職員も止まる。
何も聞かない。
子供は右手に紙の輪を持ったまま、しばらく向こうを見る。
「まだ」
小さく言う。
「うん」
職員はそれだけ返す。
「ひとつ、ない」
「うん」
「でも」
紙の輪を握る。
「まだ、ある」
職員は息を整えた。
聞きたい。
何があるのか。
いくつあるのか。
何が一つなくなったのか。
けれど、聞かない。
「そうなんだね」
「うん」
子供はそのまま分かれ道を曲がらなかった。
生活区画へ戻る。
紙の輪を卓へ置く。
棚の箱を見る。
「これ、まだ」
「箱?」
「うん」
「置いておく?」
「うん」
その夜も、紙の箱は棚の上に残された。
報告を受けた俺は、塔の居間で手を止めた。
「『ひとつ、ない。でも、まだ、ある』」
『はい』
「対象不明」
『はい』
「数は聞いてない?」
『聞いておりません』
「よかった」
セリーがお茶を置く。
「主様」
「何?」
「残りがいくつか、お考えになっておりますね」
「……考えるくらいはいいだろ」
「もちろんでございます」
「三窓表示器を見た後だから、どうしても二つって思いたくなる」
「はい」
「でも子供は二つって言ってない」
「はい」
「『まだある』だけ」
「はい」
「一個かもしれない。十個かもしれない。そもそも数えられるものじゃないかもしれない」
「その通りかと」
「だったら数えない」
「本人にも?」
「数えさせない」
俺はカップを持つ。
今日は少しだけ甘い。
「青い砂糖?」
「少量でございます」
「昨日はなかった」
「本日は旧保養施設と白鴉の両方へ行かれましたので」
「移動量で砂糖増えるの?」
「疲労も考慮しております」
「細かいな」
「職務でございます」
「それだけ?」
昨日と同じように聞く。
セリーは一瞬だけ黙った。
それから俺の向かいではなく、隣の椅子へ座った。
肩が触れるほどではない。
でも、いつもより近い。
「主様が無理をなさらず戻られたことを、私が嬉しく思っていることも含まれます」
俺はカップを持ったまま、少しだけ固まった。
「……そっか」
「はい」
「それなら、青い砂糖も悪くない」
「明日も召し上がりますか?」
「毎日は健康管理的に駄目なんじゃない?」
「よくお分かりで」
「聞いた俺が馬鹿だった」
セリーが笑う。
俺も少し笑った。
夜が深くなる。
旧保養施設では、昨日と同じように監視が続いていた。
ただし、人員を増やしすぎない。
中央棟に二人。
旧職員詰所は定点記録中心。
生活区画は普段通り。
名前の分からない子供を、設備変化を知らせる存在として見張らない。
午後十時。
変化なし。
午後十一時。
中央棟、発光なし。
水滴なし。
旧職員詰所の表示板も動かない。
地下微弱振動なし。
日付が変わる。
子供は眠っている。
紙の箱は棚。
紙の輪は卓。
布鞄は椅子。
午前一時を過ぎた頃、中央棟で一度だけ、ごく小さな音がした。
金属音ではない。
水滴が落ちた音でもない。
古い木が湿度で鳴ったような、小さな軋み。
職員は時刻を記録する。
設備変化なし。
午前一時四十二分。
地下で弱い振動。
二秒ほど。
前夜より短い。
中央棟との時間的一致なし。
午前二時二十分。
旧職員詰所の表示板、変化なし。
午前三時。
何も起きない。
午前三時四十六分。
中央棟設備管理室の金属板の隙間から、青白い光が現れた。
今度は一瞬ではなかった。
「点いた」
監視職員が低く言う。
もう一人が時刻を記録する。
触れない。
近づきすぎない。
光は弱い。
部屋を照らすほどではない。
隙間の奥に、細い線のように見えているだけ。
五秒。
十秒。
消えない。
「ガルム隊長へ」
「了解」
連絡が飛ぶ。
十五秒。
二十秒。
まだ点いている。
前回は一秒未満だった。
今回は違う。
それでも誰も板へ触れない。
三十秒。
光が一度だけ、わずかに弱くなる。
消えない。
四十秒。
元の明るさへ戻る。
五十秒。
そのまま。
一分。
ガルムとリディアが到着する。
「何秒?」
「一分十四秒継続中」
「他は?」
「水滴なし。線の変位なし。地下振動は約二時間前」
「旧職員詰所?」
「変化なし」
「触るな」
「はい」
リディアが離れた位置から既存の観測器だけを見る。
「魔力反応は?」
「微弱です。前回の残留反応と近いですが、断定できません」
「強く測るな」
「はい」
一分三十秒。
二分。
光は消えない。
ガルムが腕を組んだ。
「昨日の標準表示器の資料は?」
「ここには持ち込んでいません」
「それでいい」
図を見ながら現物をこじ開けるようなことはしない。
二分二十二秒。
青白い光が少し暗くなる。
二分二十五秒。
消えた。
誰も動かない。
「時刻」
「午前三時四十八分二十五秒」
「再点灯待ち。最低三十分」
「はい」
光が消えたからといって、板を開けない。
復帰操作もしない。
消灯操作もしない。
何が変わったか分からないままだからだ。
そして、その頃。
生活区画の子供は眠っていた。
起きない。
寝返りを一度打っただけ。
午前四時。
変化なし。
午前四時半。
変化なし。
午前五時。
子供はまだ眠っている。
設備も静か。
前夜のような水滴もない。
午前五時三十七分。
旧職員詰所の表示板が、今度は動かなかった。
何もない。
午前六時前。
空が明るくなり始める。
生活区画の窓が薄い青に変わる。
子供が目を覚ました。
しばらく天井を見る。
身体を起こす。
昨日と同じように、棚の紙の箱を見る。
次に卓の紙の輪。
椅子の布鞄。
全部ある。
職員が声をかける。
「おはよう」
「おはよう」
「よく眠れた?」
「うん」
「水飲む?」
「のむ」
水を渡す。
子供は半分ほど飲んだ。
廊下の方を見ない。
胸元へ手も当てない。
設備について何も言わない。
職員も聞かない。
しばらくして、子供が寝台から降りた。
紙の輪を持つ。
「これ」
「昨日作った輪?」
「うん」
「どうする?」
「はこに」
棚の紙の箱を取る。
蓋らしい部分は完全には閉じていない。
子供はそこへ紙の輪を入れた。
「入ったね」
「うん」
「置いておく?」
「うん」
箱を棚へ戻す。
職員はそれだけ見ている。
子供が箱へ手を置いたまま、小さく言った。
「きのうより、ねた」
職員は少しだけ迷った。
「よく眠れた?」
子供が首を横へ振る。
「ぼくじゃない」
昨日、アルにも言った言葉。
「そうなんだね」
「うん」
子供は指を一本立てた。
職員の心臓が強く打つ。
それでも口を挟まない。
「ひとつ」
指を下ろす。
「ねた」
職員は静かに頷いた。
「そうなんだね」
「でも」
子供はもう指を立てなかった。
数えない。
残りを示さない。
「まだ、ある」
「うん」
「まだ」
そこで終わる。
職員も「あといくつ?」とは聞かなかった。
子供は紙の箱を棚へ戻し、朝食へ行くために布鞄を持った。
その報告が塔へ届いた時、俺はまだ朝食前だった。
エルから一連の記録を聞く。
二分二十五秒続いた青白い発光。
その後、設備変化なし。
朝。
子供は自分ではなく「ひとつ、ねた」と言った。
そして、
――でも、まだ、ある。
「指一本立てたんだな」
『はい』
「残りは示してない」
『はい』
「職員も聞いてない」
『はい』
「……よかった」
俺は椅子へ座る。
セリーが朝食を運んでくる。
「主様」
「うん」
「まずお食事を」
「分かってる」
「本日も名前の分からない子供から確認される可能性がございます」
「それ、強いな」
「非常に有効かと」
「食べるよ」
パンをちぎる。
頭の中には、昨日見た三窓式表示器の図が浮かんでいる。
三つの窓。
ひとつ消えた。
ひとつ寝た。
まだある。
繋げるのは簡単だった。
最初に一つ消え、今度は一つ寝た。
残りは二つなのではないか。
あるいは、最初の「消えた」と今朝の「寝た」は同じ一つを指しているのではないか。
いくらでも仮説は作れる。
けれど、本人は残りの数を言っていない。
三つとも言っていない。
「エル」
『はい』
「今日、あの子に残りの数は聞かない」
『はい』
「『ひとつ寝た』と昨夜の青白い光が同じことかも聞かない」
『はい』
「設備側は?」
『ガルム隊長より、昨夜の発光時間と既存資料の照合のみを行い、新規操作は行わない方針が届いております』
「それで」
『なお、フェリクス様より、三窓式表示器の別資料を探したいとの申請があります』
「資料だけ?」
『はい』
「何冊?」
『本人は「見つかるまで」と』
「却下」
『では上限を』
「午前中三冊」
『共有します』
少しして返信が来た。
『フェリクス様より、「五冊では」と』
「三冊」
『「四冊」』
「……四冊」
『ガルム隊長より、「甘い」と』
「うるさいな」
セリーが小さく笑う。
俺はスープを飲んだ。
何かが一つ寝た。
それが何かは分からない。
何がまだ残っているのかも分からない。
だから今日は、残りを数える日にはしない。
一つ減ったように見えるからといって、全部を消すことを目標にもしない。
設備が何を待っているのか。
子供が何を知っているのか。
その二つが本当に同じものなのか。
分からないままでも、安全に朝食を食べられるなら、今はそれでいい。
窓の外では、昨日までの雨雲がすっかり遠ざかっていた。
朝日が塔の庭へ差し込み、濡れていた石も少しずつ乾いていく。
消えていくものがある。
残るものもある。
そして、残っているからといって、それを急いで消さなければならないわけではなかった。




