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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第74話 ひとつ消えたからといって、残りまで数えさせる必要はありませんでした

 旧保養施設へ向かう道は、昨日までの雨をまだところどころに残していた。


 森へ入る前の街道には浅い轍ができ、陽の当たる場所から少しずつ乾き始めている。馬車の窓を少し開けると、湿った土と若い草の匂いが流れ込み、遠くでは雨上がりを待っていた鳥が何度も短く鳴いていた。


 向かいにはセリーが座っている。


 俺は膝の上に何も置いていなかった。


 資料もない。


 エルから届いた記録の写しも、昨夜見つかった手順書も持ってこなかった。


「主様」


「何?」


「先ほどから三度ほど、何もない膝をご覧になっております」


「……そんなに?」


「はい」


「資料持ってくればよかったかな」


「お持ちにならないと決められたのは主様です」


「分かってる」


 旧保養施設へ行くと決めた後、俺は一度だけ資料を持とうとした。


 けれど、やめた。


 今日あの子に会いに行く理由は、昨夜の設備変化を問いただすためではない。


 ――きていい。


 本人がそう言ったからだ。


 だったら最初から紙束を抱えて現れ、「ひとつ消えたって何?」「まだ寝ないって何?」と聞く気満々に見えるのは違う気がした。


「聞きたいことはあるんだけどな」


「存じております」


「ものすごくある」


「それも存じております」


「一つくらいなら聞いてもいいと思う?」


 セリーはすぐには答えなかった。


 馬車が小さなくぼみを越え、車輪から柔らかな振動が伝わってくる。窓の外を見ていたセリーは、揺れが収まってからこちらへ視線を戻した。


「何のためにお尋ねになるのでしょう」


「安全のためなら聞く」


「はい」


「今すぐ危険があるかどうか判断するのに必要なら」


「はい」


「でも、今のところ設備側に危険な動きはない。子供の体調も問題ない」


「そのように報告されております」


「なら、俺が知りたいだけのことは急がなくていい」


「主様はすでに答えをお持ちなのでは?」


「聞かれると整理できるんだよ」


「では、今後も必要に応じてお尋ねいたします」


「毎回やられると困る」


「善処いたします」


「やめるとは言わないんだな」


「必要ですので」


 セリーの口元がわずかに緩む。


 俺も窓の外へ目を向けた。


 名前の分からない子供は、設備の説明書ではない。


 本人が知っていることがあったとしても、それを全部こちらへ渡す義務はない。


 ひとつ消えた。


 でも、まだ寝ない。


 その二つだけでも、俺の頭は勝手に続きを作ろうとする。


 何が一つなのか。


 いくつあるのか。


 何が寝るのか。


 何が全部消えれば寝るのか。


 どうして見えない場所の変化が分かるのか。


 聞けば答えるかもしれない。


 でも、答えられることと、答えさせていいことは同じじゃない。


 旧保養施設へ着くと、正面玄関の前では二人の職員が雨水を外へ掃き出していた。


 軒から落ちる水はもうほとんどなく、石段の端だけがまだ濃い色をしている。俺を見つけた職員が頭を下げたが、以前のような緊張した空気はない。


「おはようございます」


「おはよう。ガルムは?」


「中央棟です。朝の設備記録を確認しています」


「子供は?」


「生活区画にいます。先ほどまで紙を触っていました」


「体調は変わらない?」


「はい。朝食もいつも通りです」


「分かった。先にそっち行く」


 中央棟へは向かわない。


 ガルムにも連絡だけ入れる。


『主様。ガルム隊長より、「先に本人のところへ行け」とのことです』


「言われなくても行くよ」


『続けて、「設備は逃げない」と』


「昨日の俺なら中央棟に寄ると思われてる?」


『その可能性は高いかと』


「みんな俺の扱いに慣れすぎじゃない?」


「よいことかと存じます」


 セリーが平然と言う。


「そうかな」


「止めるべき時に止めてくださる方が増えました」


 それには反論できなかった。


 生活区画へ続く廊下は、朝の光が細長く差し込んでいた。


 古い建物なので窓は大きくない。それでも、以前よりカーテンを開ける場所が増え、暗さの印象はかなり薄れている。


 廊下の途中でリディアとすれ違った。


「アルフォンス様」


「おはよう。中央棟?」


「今はガルム隊長とフェリクスさんが確認しています。私は生活区画周辺の結界記録を見てきました」


「変化あった?」


「ありません。子供の部屋や生活区画に、外から何かが入った痕跡も確認できません」


「強い走査は?」


「していません。既存の結界記録だけです」


「ありがとう」


 リディアは少しだけ俺の顔を見る。


「本人に会われるんですね」


「うん。来ていいって」


「聞くんですか?」


「必要なら」


「何を?」


「それを決めずに行く」


 リディアが一瞬目を丸くした。


「珍しいですね」


「やっぱり?」


「以前でしたら、質問を五つほど用意されていたと思います」


「五つで済むかな」


「では十個」


「増やすなよ」


 小さく笑い合ってから、リディアは中央棟の方へ歩いていった。


 生活区画の入口には、普段から子供のそばにいる職員がいた。


「中です」


「俺が来るって伝えた?」


「はい」


「反応は?」


「『うん』と。その後は紙を折っています」


「じゃあ入る」


 扉は開いている。


 中へ入ると、窓際の卓に子供がいた。


 布鞄は椅子の横。


 昨日作った紙の箱は寝台脇の棚に置かれている。


 今触っているのは別の紙だった。


 細長く折っている。


 俺が入っても、すぐには顔を上げなかった。


「おはよう」


「……おはよう」


「来た」


「うん」


「ご飯食べてきた」


 その瞬間、子供が顔を上げた。


「ほんと?」


「何でそこ疑うの?」


「わすれるって」


「誰が言った?」


 子供が職員を見る。


 職員は少し困った顔をした。


「『考え事すると忘れそうになるんじゃないかな』とは言いました」


「情報が広がってる」


「たべた?」


 子供がもう一度聞く。


「食べた。パンと卵とスープ」


「ぜんぶ?」


「全部」


 子供は少し考えてから頷いた。


「いい」


「合格?」


「うん」


「俺、何しに来たんだろう」


 近くでセリーが小さく笑う。


 子供もほんの少し口元を緩めた。


 俺は卓の向かいにある椅子を指した。


「座っていい?」


「いい」


「ここ?」


「うん」


 座る。


 セリーは少し離れた壁際に立った。


 職員も記録板を持っているが、会話へ入るつもりはないらしい。


 子供は再び紙へ視線を落とした。


「何作ってる?」


「まだ」


「まだ決まってない?」


「うん」


「じゃあ完成してから聞く」


「アル、聞く」


「聞いちゃったな」


「うん」


「今から努力する」


「きのうも言った?」


「それ、別の子にも言われた」


「だれ?」


「白鴉にいる子」


「アルフォンス?」


 少しだけ迷う。


「保存されてた方?」


「うん」


「そっちじゃない。三〇八号室の子」


「なまえ、ない?」


「今はアルフォンスって呼んでる」


「アルもアルフォンス」


「そう」


「もうひとりも」


「そう」


「いっぱい」


「俺もそう思う」


 子供は紙を折る手を止めた。


「ぼくは?」


 胸の奥が少し動く。


 けれど、顔には出さないようにした。


「何?」


「なまえ」


「まだ聞いてない」


「ない?」


「分からない」


「つける?」


「俺が?」


「うん」


「勝手にはつけない」


 子供が俺を見る。


「なんで?」


「お前の名前だから」


「ないなら?」


「ないって決まったわけじゃない」


「わすれたら?」


「それもまだ分からない」


「ずっと分からなかったら?」


 難しい質問だった。


 名前が分からないままでは不便なこともある。


 記録も、呼びかけも、生活も。


 だからといって、本人が何も決めていないうちに周囲が名前を置けば、それがいつの間にか本人そのものとして固定されるかもしれない。


「呼んでほしい名前ができたら教えて」


「ぼくが?」


「うん」


「アルが決めない?」


「決めない」


「セリーは?」


 セリーへ視線が向く。


「私も、ご本人のご希望なく決めることはいたしません」


「ガルムは?」


「たぶん勝手には決めない」


「フェリクス」


「……あいつは候補を考えそうだから、先に止めとく」


 子供が少し笑った。


「いっぱい考える?」


「たぶん二十個くらい」


「そんなに?」


「もっとかも」


「やだ」


「じゃあ絶対止める」


「うん」


 名前の話はそこで終わった。


 俺から「思い出した?」とは聞かない。


 子供も続けない。


 折っていた紙が少しずつ形になる。


 細長い帯を二つ折りにし、端を内側へ入れている。


 何になるのかはまだ分からない。


 数分ほど、紙の擦れる音だけが続いた。


 不思議と居心地は悪くない。


 俺は中央棟のことを考えないようにしているわけではなかった。


 考えている。


 昨夜の水滴。


 一瞬の青白い光。


 表示板の微小変位。


 地下の振動。


 そして、この子の「ひとつ、きえた」。


 全部頭の中にある。


 それでも、今ここで口にしなければならない理由はない。


 先に口を開いたのは子供だった。


「アル」


「何?」


「みた?」


 何を、と聞きかける。


 昨日までなら、そのまま聞いていたかもしれない。


 でも子供の視線は俺ではなく、廊下の向こうへ向いていた。


「何か、俺に見てほしいものがある?」


「ううん」


「じゃあ、何を見たか聞いてる?」


「うん」


「俺は今朝来たから、夜の施設は見てない」


「エルは?」


「記録は聞いた」


 子供の指が紙の端をなぞる。


「ひかった?」


 部屋の空気がわずかに変わった。


 職員の記録板を持つ手が止まり、セリーの視線が静かに子供へ向く。


 俺はなるべく声を変えなかった。


「中央棟で、一瞬だけ青白い光が見えたって記録はある」


「いつ?」


「朝になる少し前」


「ながい?」


「すごく短かった。見てた人の記録では、一秒もなかった」


 子供が考える。


「きえた?」


「その光は消えた」


「……ひとつ?」


 ここで答えを置いてはいけない。


「俺には、それがお前の言った『ひとつ』かどうか分からない」


 子供は黙った。


「ほかは?」


「何のこと?」


「ひかった?」


「確認された光はそれだけ」


「みず」


 胸の奥が強く動いた。


 けれど、子供の顔にはこちらを試すような様子はない。


「水もあった」


「いくつ?」


 今度は俺が答える番だった。


「最初に見つかったのは三滴」


「さん」


「時間が経って、順番に乾いた」


「ぜんぶ?」


「うん。最後の一滴が乾いたのは、光が消れた少し後」


 子供は紙を置いた。


 自分の指を見ている。


「みっつ」


「うん」


「ひとつ」


「うん」


「ちがう」


 俺はすぐには聞き返さなかった。


 子供が自分から続けるかもしれない。


 しばらく待つ。


「みず、ちがう」


「お前の言った『ひとつ』は、水じゃない?」


「うん」


「光?」


 口から出た後で、少し急いだと思った。


 子供はすぐに頷かなかった。


 紙へ触れる。


 端を一度折り直す。


「……わかんない」


「そっか」


「ひかったの、ひとつ?」


「見つかった光は一回」


「ひとつ?」


「一回と一つは同じとは限らない」


 子供が顔を上げる。


「なんで?」


「同じ灯りが一回だけ点いたのかもしれないし、たくさんあるうちの一つが点いたのかもしれない。中が見えてないから分からない」


「アルも?」


「分からない」


「そっか」


 残念そうではなかった。


 むしろ少し安心したようにも見える。


「じゃあ、まだ」


「何が?」


 今度は必要以上に広げない。


 子供は自分で答えた。


「まだ、ねない」


「うん」


「きのう、いった」


「聞いた」


「ぼくじゃない」


 今度こそ、俺は息を止めかけた。


「寝るのは、お前じゃない?」


「うん」


 セリーも職員も動かない。


 俺は椅子に座ったまま、声を低く保った。


「そこは分かった」


「うん」


「今すぐ危ない?」


 初めて、安全のための質問をする。


 子供は少し考えた。


「いま?」


「うん。今ここにいるお前や、ここにいる人が逃げたり、何かを止めたりしないと危ない?」


「……ない」


「痛い?」


「ない」


「苦しい?」


「ない」


「何か来る?」


 子供の表情がわずかに曇る。


 質問を増やしすぎた。


「ごめん。今のは答えなくていい」


「……まだ」


「まだ?」


「こない」


 それ以上は聞かなかった。


「分かった。じゃあ今は、急いで何かしなくていい?」


「うん」


 安全に必要なところだけ。


 そこで止める。


 俺の頭の中には、「何が来ない?」「いつ来る?」「寝るのは設備? 人? 箱?」という質問が一気に並んでいる。


 でも、それは俺が知りたいことだ。


 今すぐこの子に答えさせなければ危険を防げないことではない。


「アル」


「何?」


「きかない?」


「聞きたいよ」


「いっぱい?」


「ものすごくいっぱい」


「なんで聞かない?」


 俺は少し笑った。


「聞かれたくないことまで聞くの、嫌だろ」


「うん」


「俺が知りたいだけなら、後でもいい」


「わすれる?」


「俺が?」


「うん」


「たぶん忘れない」


「いっぱいあるのに?」


「いっぱいあるから忘れる可能性はあるな」


「だめ」


「じゃあ紙に書いとく」


「ぼくに聞くの?」


「聞きたいことがある、ってだけ。答えを勝手に書くんじゃなくて」


 子供はしばらく俺を見る。


「あとで?」


「必要になったら。お前が話したくなった時でもいい」


「ずっとあと?」


「それでも安全なら」


「……そっか」


 紙をまた折り始める。


 俺は背もたれへ少し身体を預けた。


 寝るのは自分ではない。


 水滴は違う。


 今は危険ではない。


 何かは「まだ来ない」。


 分かったことは増えた。


 でも、答えには程遠い。


 それでいい。


 子供が紙の端を折り込む。


 やがて細長い輪のようなものができた。


「できた」


「今度は聞いていい?」


「いい」


「何?」


「わっか」


「輪か」


「うん」


「何に使う?」


「まだ」


「そこもまだなんだ」


「うん」


 輪を卓の上へ置く。


 昨日の紙の箱とは違い、今日は棚へ持っていかない。


 指先で転がす。


 少し歪んでいるので、真っ直ぐには転がらない。


「曲がる」


「ほんとだ」


「へた?」


「初めて作ったならこんなもんじゃない?」


「アル、つくれる?」


「たぶんもっと下手」


「つくって」


「今?」


「うん」


 紙を一枚渡される。


 断る理由はなかった。


 俺も折る。


 子供のものを見ながら真似をするが、途中で端がずれた。


「ちがう」


「分かってる」


「そこ」


「どこ?」


「ここ」


 子供が指を伸ばす。


 俺の紙の端を直接直そうとして、途中で止まった。


「さわっていい?」


「いいよ」


 指先で紙を押す。


「こっち」


「こう?」


「うん」


「先生みたいだな」


「せんせい?」


「教える人」


 子供の手が止まる。


 一瞬だけ表情が固くなった。


 俺はすぐに言葉を足さない。


 ここで「先生が嫌い?」とも、「誰かに教わった?」とも聞かない。


 子供は紙から手を離した。


「せんせい、やだ」


「分かった」


「アル、せんせいじゃない」


「うん」


「ぼくも」


「うん」


 それだけ確認する。


「じゃあ、紙の折り方教えてくれた人」


「それならいい」


「分かった」


 子供の肩から、わずかに力が抜けた。


 俺は言われた通りに折る。


 完成した輪は、子供のものよりさらに歪んでいた。


「……ひどい」


「そんな顔する?」


「まがってる」


「お前のも曲がってたぞ」


「アルの、もっと」


「勝負じゃないから」


「ぼくのかち」


「勝負だったの?」


「いま、なった」


「後から決めるのずるくない?」


 子供が笑った。


 声は小さい。


 でも、確かに笑った。


 セリーも目を細めている。


 設備の話をしに来たわけではない。


 そう思っていたのに、結局いくつか話した。


 それでも、紙の輪を作る時間の方が長かった。


 それでいい。


 昼前になって、俺は生活区画を出た。


「また来る?」


 扉のところで子供に聞かれる。


「来ていいなら」


「きていい」


「今日?」


「……きょうは、もういい」


「分かった」


「つぎ」


「じゃあ次」


「ごはん、たべて」


「そこ毎回確認されるの?」


「うん」


「セリーが喜ぶな」


「大変よい習慣かと存じます」


 背後から即答が来た。


 子供がまた笑った。


 廊下へ出て扉から離れてから、俺は長く息を吐いた。


「主様」


「聞きたいこと増えた」


「でしょうね」


「減ると思った?」


「いいえ」


「水は違う。寝るのは自分じゃない。今は危なくない。まだ来ない」


「はい」


「『先生は嫌』も出た」


「はい」


「設備だけじゃなくなった」


「元より、設備だけのお話ではなかった可能性もございます」


「そうなんだよな」


 俺は足を止める。


「エル。さっきの会話、本人が話した部分と俺の質問を分けて記録して」


『すでにその形式で記録しております』


「『ぼくじゃない』を、『設備が寝る』に変換しない」


『はい』


「『まだ来ない』も対象不明」


『はい』


「水滴は本人が違うと言った。ただし、何と違うかは『ひとつ』の対象について、でいい?」


『会話上はその解釈が最も自然ですが、断定表現を避け、「アルが『お前の言ったひとつは水ではないか』と確認し、本人が肯定」と記録します』


「それで」


 記録を綺麗にしすぎると、本人が実際に言ったことと、こちらが整理した意味が混ざる。


 それは避けたい。


 中央棟へ向かう途中で、ガルムと会った。


「終わったか」


「終わったって言い方やめて」


「話は?」


「少しした」


「聞いたのか?」


「安全に必要なところだけ。あとは本人から」


 ガルムへ概要を伝える。


 彼は途中で口を挟まなかった。


「寝るのは本人じゃない、か」


「うん」


「対象不明」


「うん」


「まだ来ない」


「対象不明」


「水滴は違う」


「少なくとも本人の言った『ひとつ』について聞いた時はそう答えた」


「光は?」


「分からないって」


「なら分からんままだな」


「珍しく嬉しそうに言うな」


「お前が勝手に答えを作ってないからな」


「そこ褒めるところ?」


「昔なら三つくらい仮説を立てて、一つずつ潰しに行ってた」


「仮説は十個くらいある」


「行動に移してないならいい」


「そこなんだ」


 ガルムが歩き出す。


「中央棟を見るか?」


「見る。でも触らない」


「分かってる」


 設備管理室へ入る前に、昨夜から今朝までの記録をもう一度確認した。


 地下微弱振動。


 中央棟床の水滴。


 旧職員詰所表示板の微小変位。


 一瞬の青白い発光。


 水滴消失。


 子供の発言。


 時刻は近いものもある。


 離れているものもある。


 だから一つの線で結ばない。


 設備管理室の床には、昨夜水滴があった位置が小さな紙札で示されていた。


 直接床へ印はつけていない。


「ここ?」


「そうだ」


「今は完全に乾いてる」


「ああ」


「天井も壁も?」


「漏水痕なし」


「外壁からの雨水侵入?」


「否定はできん。だが経路は見つかってない」


 フェリクスが奥の机から顔を上げる。


「水そのものを採取できなかったのが惜しいですね」


「触るなって言ったの俺だけどね」


「正しい判断です。ただ、惜しいものは惜しいです」


「次に出たら?」


「出た場所と状況次第です。設備を刺激せず採取できるなら、成分だけ確認する価値はあります」


 ガルムが俺を見る。


「事前に決めるか」


「うん。出てから慌てるよりいい」


 リディアも加わる。


「床へ自然に落ちた水で、設備本体や線に触れず採取できる位置なら、一滴だけ。残りはそのまま観察ではどうでしょう」


「全部取らない?」


「はい。現象を消してしまわないためです」


「容器を置いて待つのは?」


 フェリクスが首を横へ振った。


「置くこと自体が環境を変えます。水滴が落ちる場所もまだ一定とは限りません」


「じゃあ、再発した時に条件確認して、一滴だけ採取できるなら採取。無理なら取らない」


「賛成です」


「俺もそれでいい」


 ガルムが記録へ加える。


「それ以上は?」


「今日は何もしない」


 俺が言うと、フェリクスがこちらを見る。


「本当に?」


「何でみんな驚くの?」


「いえ、昨日まででしたら、表示板の追加観測か北側外庭の乾燥差確認を提案されるかと」


「観測は続ける。でも新しい刺激は入れない」


「では、ちょうどよいものがあります」


「何?」


「資料です」


「また?」


「触っても設備は反応しません」


「紙が破れる可能性はある」


「丁寧に扱います」


 机へ置かれていたのは、朝のうちに別棟の保管棚から見つかった薄い設備図だった。


 表紙には、「中継設備・表示部構成」とある。


「第二線?」


「そこはまだ分かりません。ただ、年代と用紙形式は昨夜の引き継ぎ書に近いです」


「何が書いてある?」


「状態表示器の標準構成です」


 図には、小さな箱の正面らしい絵があった。


 その横に三つの細長い窓。


 縦に並んでいる。


 俺は無意識に息を止めた。


「三つ?」


「はい。ただし、これが中間保持箱とは限りません」


 フェリクスが先に言う。


「分かってる」


「同時期の複数設備で使われた標準表示器のようです」


 リディアが図の端を指す。


「ここに説明があります」


 文字は薄い。


 一番上。


 ――受所側確認。


 二番目。


 ――接続先応答。


 三番目。


 ――保持状態。


 俺たちはしばらく黙った。


「昨日の引き継ぎ書にあった三つと似てる」


 俺が言う。


「はい」


 フェリクスが頷く。


「『受所側確認未了、接続先応答待ち、保持器状態不一致等においても継続する場合あり』」


「でも、三つの表示がそれぞれ一対一で対応してるとは書いてない」


「その通りです」


「標準構成だし、中間保持箱用とも書いてない」


「はい」


「今の中央棟の光がこの表示器とも限らない」


「はい」


 ガルムが腕を組む。


「それでも調べる価値はあるな」


「あります」


 図の下には、表示の色についても小さく書かれていた。


 正常時。


 待機時。


 確認未了。


 ただし、肝心の色の部分は汚れと欠損がひどい。


「青白い光の記載は?」


「読めません」


「復元できる?」


「紙そのものを傷めずに読める範囲を確認します。強い薬品処理はしません」


「複写は?」


「可能です」


「じゃあ原本は触る回数減らして」


「はい」


 さらに図の右下。


 小さな注記。


「『各表示は独立して……』」


 リディアが読む。


「続きが欠けています」


「独立して点灯?」


「可能性はありますが、書かれているのは『各表示は独立して』までです」


「勝手に足さない」


「はい」


 俺は三つの細長い窓を見る。


 名前の分からない子供の言葉が頭へ浮かぶ。


 ――ひとつ、きえた。


 けれど、それを図へ結びつけるには早すぎる。


「エル。子供にはこの図のこと伝えないで」


『はい』


「少なくとも今は」


『理由は、本人の自発的な認識と資料由来の情報を混同させないため、でよろしいでしょうか』


「それもある。あと、本人に『残り二つ?』って数えさせる空気を作りたくない」


 ガルムが頷く。


「それでいい」


 フェリクスも珍しくすぐに同意した。


「仮に同型設備だったとしても、表示数が三つだからといって、本人が三つを認識しているとは限りません」


「そう。『ひとつ消えた』からって、三つあったとは限らない」


「はい」


「残りを数えさせる必要もない」


 設備図は重要資料として複写されることになった。


 原本は保護袋へ戻す。


 中央棟の壁を開けることもしない。


 青白い光が見えた隙間を広げることもしない。


 標準表示器が三窓式だった。


 今日はそこまで。


 昼食前、俺は白鴉へ向かった。


 旧保養施設に一日いることもできたが、三〇八号室の少年へ昨日「次」を曖昧にしたままだった。


 白鴉の廊下は、昼前になると朝とは違う匂いがする。


 厨房から煮込み料理の香りが流れ、洗った布を運ぶ職員とすれ違う。談話室では豆を数える老人が、今日は皿の豆ではなく窓辺の鉢植えの葉を数えていた。


「今日は豆じゃないんだ」


 声をかける。


「豆は食った」


「何個?」


「六つ」


「増えてる」


「大きさは聞くなよ」


「俺は聞かない」


「三〇八の坊主は聞いたぞ」


「やっぱり」


 老人が笑う。


「昨日より小さいから六つだと言っといた」


「納得した?」


「皿まで見に来た」


「細かいな」


「お前に似たんじゃないか?」


「何で俺?」


 老人は答えず、鉢植えの葉をまた数え始めた。


 三〇八号室の扉を叩く。


「アル?」


「うん」


「入っていい」


 中へ入ると、少年は窓際にいた。


 赤い布は卓の端。


 手紙は包まれたまま。


 絵はその横にある。


「今日は外?」


「あとで」


「水たまり?」


「なくなってるか見る」


「たぶん昨日より減ってる」


「なくなってたら?」


「別のことする?」


「見る」


「何を?」


「なくなった場所」


「なるほど」


 俺は椅子へ座る。


「薬は昨日と同じ?」


「同じ。身体も昨日と同じ」


「じゃあ短く終わり」


「うん」


 少年が少し嬉しそうにする。


 毎朝の確認を短くすると決めたことが、ちゃんと続いている。


「手紙は?」


「今日は読まない」


「分かった」


「聞かない?」


「何を?」


「なんで読まないか」


「話したいなら聞く」


 少年は赤い布を見る。


「今日は外見たいから」


「それなら外優先?」


「うん」


「分かった」


「それだけ?」


「それだけ」


「アル、変わった」


「最近よく言われる」


「前はもっと聞いた」


「そうだな」


「今も聞きたい?」


「聞きたい」


「じゃあ、なんで?」


「聞きたいのと、聞かなきゃいけないのは違うって覚えたから」


 少年は少し考える。


「遅い」


「厳しいな」


「大人なのに」


「大人でも遅いことあるんだよ」


「セリーは?」


「たぶん俺より早い」


「ガルム」


「俺より早いかも」


「ブラット」


「場合による」


「フェリクス」


「聞く前に触ろうとする」


 少年が吹き出した。


「だめじゃん」


「だから監視されてる」


「アルも?」


「俺も最近ちょっと監視されてる気がする」


 窓の外へ出る頃には、日差しがかなり強くなっていた。


 中庭の石畳はほとんど乾いている。


 昨日まで水が溜まっていた場所には、輪郭だけが薄く残っていた。


 少年はそこまで歩く。


 以前は水たまりの手前で長く止まった。


 今日は水がない。


 それでも、同じ場所で足を止めた。


「ない」


「ないな」


「ここだった」


「うん」


「跡ある」


「少しだけ」


 少年はしゃがんだ。


 石の色の違いを見る。


「消えたけど、分かる」


「何が?」


「あったの」


「跡があるから?」


「うん」


 指では触らない。


 しばらく見ている。


「全部消えたら?」


「跡も?」


「うん」


「ここに水たまりがあったことを知ってる人は覚えてるかも」


「誰もいなくなったら?」


 答えに困る。


「記録があれば残る」


「記録もなくなったら?」


「……分からない」


「なくなる?」


「何が?」


「あったこと」


 風が中庭を通る。


 干されていた布が揺れ、遠くで誰かが木箱を置く音がした。


「起きたこと自体は変わらないと思う」


「でも、誰も知らない」


「そうなることはあるかも」


「怖い?」


 昨日と似ている。


 でも少し違う。


「怖い時もある」


「だから書く?」


「記録を?」


「うん」


「それもある」


「いっぱい書く」


「俺?」


「うん」


「最近、俺よりアンナマリーの方が書いてる」


「誰?」


「昔から知ってる人」


「女?」


「うん」


「セリー、知ってる?」


「もちろんでございます」


 少し離れたところからセリーが答える。


「仲いい?」


 少年の質問に、俺とセリーが一瞬黙った。


「今は協力してる」


「昔は?」


「婚約者だった」


 隠すことでもない。


 少年が目を丸くする。


「けっこん?」


「してない」


「なんで?」


「いろいろあった」


「今は?」


「してない」


 少年は今度はセリーを見る。


「セリーは?」


「何がでしょう」


「アルとけっこん?」


 来た。


 以前、別の場所でも似たような質問をされた気がする。


「してない」


 俺が先に答える。


 セリーは穏やかに微笑んだ。


「現在は、でございます」


「セリー」


「事実でございます」


「何で余計な言葉足すの?」


「正確性を重視いたしました」


 少年が俺とセリーを交互に見る。


「する?」


「今それ決める話じゃないから」


「まだ?」


「その『まだ』もやめよう」


 少年が笑った。


 シリアスな設備の話ばかり考えていた頭が、少しだけ軽くなる。


 水たまりが消えた場所で、婚姻の話をすることになるとは思わなかった。


 午後、塔へ戻る前にもう一度だけ旧保養施設の報告を確認した。


 中央棟の設備に新しい発光なし。


 水滴なし。


 旧職員詰所の表示板は、夜明け前の微小変位位置から動いていない。


 地下微弱振動なし。


 北側外庭の乾燥差は、地表全体が乾いたため判別不能になった。


 自然乾燥か地下構造の影響か、結論は出せない。


 そして、午前中に見つかった三窓式の標準表示器について、フェリクスたちが追加資料を一つだけ見つけていた。


「一つだけ?」


 俺が聞く。


「今日はそれ以上探さないと決めました」


 フェリクスが言う。


「誰が?」


「私です」


 ガルムを見る。


「本当に?」


「俺は何も言ってない」


「成長したな」


「だから、その扱いをやめてください」


 資料は、表示器の交換記録だった。


 同じ型の三窓表示器を、別の療養設備で交換した記録。


 上段の窓だけが消えなくなり、原因を確認したところ、表示灯そのものの故障ではなく、接続先からの確認が戻っていなかった。


 担当者は灯りを交換しなかった。


 接続先を確認し、そこで止まっていた確認処理を終えた後、上段表示は自然に消えた。


「つまり、少なくともこの設備では、表示そのものを消したんじゃない」


「はい」


「原因側が変わった結果、消えた」


「そのようです」


「下二つは?」


「この事例では最初から消灯状態です」


「三つ全部が点いてたわけじゃない」


「はい」


 俺は資料を閉じる。


「これも子供には伝えない」


「同意します」


「俺たちが勝手に『残り二つ』って考えないためにも」


「はい」


 ガルムが壁にもたれた。


「ただ、中央棟で見えた光が三窓表示器の一つだった可能性は?」


「ある。でも、まだ可能性」


「箱側表示との関係も?」


「不明」


「中間保持箱が現存するかも?」


「不明」


「子供の『ひとつ』との関係は?」


「不明」


 ガルムが少し笑う。


「今日はよく分からんな」


「でも、分かったこともある」


「何だ?」


「表示が消えない時に、表示を直接消す必要はないってこと」


 フェリクスが頷く。


「むしろ原因側を確認すべきです」


「だから今、中央棟の板を開けて灯りを止める必要もない」


「はい」


「もしまた光っても、危険がなければまず記録」


「はい」


「それから考える」


 方針は変わらない。


 夕方。


 名前の分からない子供は、生活区画で夕食を食べた。


 昼に作った紙の輪は卓の上。


 昨日の紙の箱は棚の上。


 布鞄は椅子。


 木片は中にある。


 今日は豆を残さなかった。


「ぜんぶ食べたね」


 職員が言う。


「ちいさかった」


「豆が?」


「うん」


「昨日は二つ残したものね」


「きょうの、ちいさい」


「そうなんだ」


 食後に水を飲む。


 その後、紙の輪を持って廊下へ出た。


 旧職員詰所へ続く分かれ道の手前で止まる。


 職員も止まる。


 何も聞かない。


 子供は右手に紙の輪を持ったまま、しばらく向こうを見る。


「まだ」


 小さく言う。


「うん」


 職員はそれだけ返す。


「ひとつ、ない」


「うん」


「でも」


 紙の輪を握る。


「まだ、ある」


 職員は息を整えた。


 聞きたい。


 何があるのか。


 いくつあるのか。


 何が一つなくなったのか。


 けれど、聞かない。


「そうなんだね」


「うん」


 子供はそのまま分かれ道を曲がらなかった。


 生活区画へ戻る。


 紙の輪を卓へ置く。


 棚の箱を見る。


「これ、まだ」


「箱?」


「うん」


「置いておく?」


「うん」


 その夜も、紙の箱は棚の上に残された。


 報告を受けた俺は、塔の居間で手を止めた。


「『ひとつ、ない。でも、まだ、ある』」


『はい』


「対象不明」


『はい』


「数は聞いてない?」


『聞いておりません』


「よかった」


 セリーがお茶を置く。


「主様」


「何?」


「残りがいくつか、お考えになっておりますね」


「……考えるくらいはいいだろ」


「もちろんでございます」


「三窓表示器を見た後だから、どうしても二つって思いたくなる」


「はい」


「でも子供は二つって言ってない」


「はい」


「『まだある』だけ」


「はい」


「一個かもしれない。十個かもしれない。そもそも数えられるものじゃないかもしれない」


「その通りかと」


「だったら数えない」


「本人にも?」


「数えさせない」


 俺はカップを持つ。


 今日は少しだけ甘い。


「青い砂糖?」


「少量でございます」


「昨日はなかった」


「本日は旧保養施設と白鴉の両方へ行かれましたので」


「移動量で砂糖増えるの?」


「疲労も考慮しております」


「細かいな」


「職務でございます」


「それだけ?」


 昨日と同じように聞く。


 セリーは一瞬だけ黙った。


 それから俺の向かいではなく、隣の椅子へ座った。


 肩が触れるほどではない。


 でも、いつもより近い。


「主様が無理をなさらず戻られたことを、私が嬉しく思っていることも含まれます」


 俺はカップを持ったまま、少しだけ固まった。


「……そっか」


「はい」


「それなら、青い砂糖も悪くない」


「明日も召し上がりますか?」


「毎日は健康管理的に駄目なんじゃない?」


「よくお分かりで」


「聞いた俺が馬鹿だった」


 セリーが笑う。


 俺も少し笑った。


 夜が深くなる。


 旧保養施設では、昨日と同じように監視が続いていた。


 ただし、人員を増やしすぎない。


 中央棟に二人。


 旧職員詰所は定点記録中心。


 生活区画は普段通り。


 名前の分からない子供を、設備変化を知らせる存在として見張らない。


 午後十時。


 変化なし。


 午後十一時。


 中央棟、発光なし。


 水滴なし。


 旧職員詰所の表示板も動かない。


 地下微弱振動なし。


 日付が変わる。


 子供は眠っている。


 紙の箱は棚。


 紙の輪は卓。


 布鞄は椅子。


 午前一時を過ぎた頃、中央棟で一度だけ、ごく小さな音がした。


 金属音ではない。


 水滴が落ちた音でもない。


 古い木が湿度で鳴ったような、小さな軋み。


 職員は時刻を記録する。


 設備変化なし。


 午前一時四十二分。


 地下で弱い振動。


 二秒ほど。


 前夜より短い。


 中央棟との時間的一致なし。


 午前二時二十分。


 旧職員詰所の表示板、変化なし。


 午前三時。


 何も起きない。


 午前三時四十六分。


 中央棟設備管理室の金属板の隙間から、青白い光が現れた。


 今度は一瞬ではなかった。


「点いた」


 監視職員が低く言う。


 もう一人が時刻を記録する。


 触れない。


 近づきすぎない。


 光は弱い。


 部屋を照らすほどではない。


 隙間の奥に、細い線のように見えているだけ。


 五秒。


 十秒。


 消えない。


「ガルム隊長へ」


「了解」


 連絡が飛ぶ。


 十五秒。


 二十秒。


 まだ点いている。


 前回は一秒未満だった。


 今回は違う。


 それでも誰も板へ触れない。


 三十秒。


 光が一度だけ、わずかに弱くなる。


 消えない。


 四十秒。


 元の明るさへ戻る。


 五十秒。


 そのまま。


 一分。


 ガルムとリディアが到着する。


「何秒?」


「一分十四秒継続中」


「他は?」


「水滴なし。線の変位なし。地下振動は約二時間前」


「旧職員詰所?」


「変化なし」


「触るな」


「はい」


 リディアが離れた位置から既存の観測器だけを見る。


「魔力反応は?」


「微弱です。前回の残留反応と近いですが、断定できません」


「強く測るな」


「はい」


 一分三十秒。


 二分。


 光は消えない。


 ガルムが腕を組んだ。


「昨日の標準表示器の資料は?」


「ここには持ち込んでいません」


「それでいい」


 図を見ながら現物をこじ開けるようなことはしない。


 二分二十二秒。


 青白い光が少し暗くなる。


 二分二十五秒。


 消えた。


 誰も動かない。


「時刻」


「午前三時四十八分二十五秒」


「再点灯待ち。最低三十分」


「はい」


 光が消えたからといって、板を開けない。


 復帰操作もしない。


 消灯操作もしない。


 何が変わったか分からないままだからだ。


 そして、その頃。


 生活区画の子供は眠っていた。


 起きない。


 寝返りを一度打っただけ。


 午前四時。


 変化なし。


 午前四時半。


 変化なし。


 午前五時。


 子供はまだ眠っている。


 設備も静か。


 前夜のような水滴もない。


 午前五時三十七分。


 旧職員詰所の表示板が、今度は動かなかった。


 何もない。


 午前六時前。


 空が明るくなり始める。


 生活区画の窓が薄い青に変わる。


 子供が目を覚ました。


 しばらく天井を見る。


 身体を起こす。


 昨日と同じように、棚の紙の箱を見る。


 次に卓の紙の輪。


 椅子の布鞄。


 全部ある。


 職員が声をかける。


「おはよう」


「おはよう」


「よく眠れた?」


「うん」


「水飲む?」


「のむ」


 水を渡す。


 子供は半分ほど飲んだ。


 廊下の方を見ない。


 胸元へ手も当てない。


 設備について何も言わない。


 職員も聞かない。


 しばらくして、子供が寝台から降りた。


 紙の輪を持つ。


「これ」


「昨日作った輪?」


「うん」


「どうする?」


「はこに」


 棚の紙の箱を取る。


 蓋らしい部分は完全には閉じていない。


 子供はそこへ紙の輪を入れた。


「入ったね」


「うん」


「置いておく?」


「うん」


 箱を棚へ戻す。


 職員はそれだけ見ている。


 子供が箱へ手を置いたまま、小さく言った。


「きのうより、ねた」


 職員は少しだけ迷った。


「よく眠れた?」


 子供が首を横へ振る。


「ぼくじゃない」


 昨日、アルにも言った言葉。


「そうなんだね」


「うん」


 子供は指を一本立てた。


 職員の心臓が強く打つ。


 それでも口を挟まない。


「ひとつ」


 指を下ろす。


「ねた」


 職員は静かに頷いた。


「そうなんだね」


「でも」


 子供はもう指を立てなかった。


 数えない。


 残りを示さない。


「まだ、ある」


「うん」


「まだ」


 そこで終わる。


 職員も「あといくつ?」とは聞かなかった。


 子供は紙の箱を棚へ戻し、朝食へ行くために布鞄を持った。


 その報告が塔へ届いた時、俺はまだ朝食前だった。


 エルから一連の記録を聞く。


 二分二十五秒続いた青白い発光。


 その後、設備変化なし。


 朝。


 子供は自分ではなく「ひとつ、ねた」と言った。


 そして、


 ――でも、まだ、ある。


「指一本立てたんだな」


『はい』


「残りは示してない」


『はい』


「職員も聞いてない」


『はい』


「……よかった」


 俺は椅子へ座る。


 セリーが朝食を運んでくる。


「主様」


「うん」


「まずお食事を」


「分かってる」


「本日も名前の分からない子供から確認される可能性がございます」


「それ、強いな」


「非常に有効かと」


「食べるよ」


 パンをちぎる。


 頭の中には、昨日見た三窓式表示器の図が浮かんでいる。


 三つの窓。


 ひとつ消えた。


 ひとつ寝た。


 まだある。


 繋げるのは簡単だった。


 最初に一つ消え、今度は一つ寝た。


 残りは二つなのではないか。


 あるいは、最初の「消えた」と今朝の「寝た」は同じ一つを指しているのではないか。


 いくらでも仮説は作れる。


 けれど、本人は残りの数を言っていない。


 三つとも言っていない。


「エル」


『はい』


「今日、あの子に残りの数は聞かない」


『はい』


「『ひとつ寝た』と昨夜の青白い光が同じことかも聞かない」


『はい』


「設備側は?」


『ガルム隊長より、昨夜の発光時間と既存資料の照合のみを行い、新規操作は行わない方針が届いております』


「それで」


『なお、フェリクス様より、三窓式表示器の別資料を探したいとの申請があります』


「資料だけ?」


『はい』


「何冊?」


『本人は「見つかるまで」と』


「却下」


『では上限を』


「午前中三冊」


『共有します』


 少しして返信が来た。


『フェリクス様より、「五冊では」と』


「三冊」


『「四冊」』


「……四冊」


『ガルム隊長より、「甘い」と』


「うるさいな」


 セリーが小さく笑う。


 俺はスープを飲んだ。


 何かが一つ寝た。


 それが何かは分からない。


 何がまだ残っているのかも分からない。


 だから今日は、残りを数える日にはしない。


 一つ減ったように見えるからといって、全部を消すことを目標にもしない。


 設備が何を待っているのか。


 子供が何を知っているのか。


 その二つが本当に同じものなのか。


 分からないままでも、安全に朝食を食べられるなら、今はそれでいい。


 窓の外では、昨日までの雨雲がすっかり遠ざかっていた。


 朝日が塔の庭へ差し込み、濡れていた石も少しずつ乾いていく。


 消えていくものがある。


 残るものもある。


 そして、残っているからといって、それを急いで消さなければならないわけではなかった。

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