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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第73話 消えるまで待つための表示なら、消した方がいいとは限りませんでした

 古い手順書に残されていた一文は、朝食を終えてからも頭の中に残っていた。


 ――箱側表示が消えるまで、第二線を復帰させないこと。


 窓の外では、昨夜の雨を吸った庭の土が濃い色をしている。雲の切れ間から差し込んだ朝日が濡れた葉を照らし、風が吹くたびに小さな雫が落ちていた。


 俺は机の上に置いた写しをもう一度見た。


「エル。旧保養施設は?」


『新たな設備作動は確認されておりません』


「中央棟の監視窓らしいところも?」


『発光なし。古い布巻き線にも、外観上確認できる変位はありません』


「旧職員詰所?」


『表示板は前回確認位置のままです。青白い発光もありません』


「地下は?」


『昨夜から今朝にかけて、微弱振動を一回記録しております。その他の現象との時間的一致はありません』


「子供は?」


『起床済みです。現在は朝食中です』


「何か言った?」


『設備に関係すると思われる自発発言はありません』


「なら、そのままで」


『はい』


 俺が写しを閉じると、向かいで食器を片づけていたセリーがこちらを見た。


「旧保養施設へ向かわれますか?」


「まだ決めてない」


「昨夜までの主様でしたら、すでに外套へ手を伸ばしておられたかと」


「昨日も似たこと言われたんだけど」


「昨日から今日までの間に、さらに資料が増えておりますので」


「だから行きたい気持ちも増えてる」


「はい」


 否定されない。


 むしろ分かりきっているらしい。


「でも、箱がどこにあるかも分からないんだよな」


『正確には、かつて中間保持箱が設置されていた可能性の高い位置は推定できています』


 エルが補足する。


『現中央棟北壁から外側へ約二・七メートル。ただし増改築による測量誤差、図面基準点の変更、設備移設の可能性があります』


「今は石敷きの下か境目」


『はい』


「掘らない」


『はい』


「箱側表示っていうのも、箱そのものについてるのか、別の場所から見られる表示なのか分からない」


『現時点では不明です』


「だったら、現地へ行っても見えるものは増えないか」


「資料をお探しになりますか?」


 セリーが聞いた。


「フェリクスたちが探してる」


「では主様は?」


「白鴉へ行く」


「承知いたしました」


「反対しない?」


「主様がご自身で役割を分けておられますので」


 俺は椅子から立ち上がった。


 以前なら、知らないことがある場所へ自分で行かなければ落ち着かなかった。


 今も落ち着くわけではない。


 けれど、俺がそこに立っていることと、調査が正しく進むことは同じではない。


 ガルムは止めるべきところで止められる。


 リディアは設備を壊さず調べられる。


 フェリクスは放っておくと触りたがるが、資料を探す能力は高い。


 だったら、俺が四人目として古い紙を覗き込む必要はない。


 塔を出る前、エルからもう一つ確認が入った。


『主様。昨夜発見された手順書について、ガルム隊長より調査方針の確認です』


「何?」


『中間保持箱の位置確認について、地表からの強い魔力走査は行わず、既存図面、工事記録、設備台帳、地表の非接触観察のみを継続する。これでよいか、と』


「いい。箱側表示の意味が分かる前に、箱を見つけることを優先しなくていい」


『共有します』


「あと、見つかっても開けない」


『はい』


「箱って名前だからって、中に何か入ってるとは限らないし」


「主様」


 セリーが穏やかに口を挟む。


「はい?」


「その点については、フェリクス様にも強くお伝えいただいた方がよろしいかと」


「なんで?」


「『箱』という名称を聞いた時点で、内部構造への興味が非常に高まっている可能性がございます」


「……エル」


『すでに高まっております』


「伝えて。開けない」


『承知しました』


 少し間があった。


『フェリクス様より、「まだ見つけてもいません」と返信が届きました』


「見つけた後の話をしてるんだよ」


『続けて、「見つけても勝手には開けません」とのことです』


「ガルムがいるから?」


『「私自身の判断です」と強く付記されています』


「じゃあ信じる」


『ガルム隊長からは「俺もいる」と届いております』


「やっぱり監視されてるじゃん」


 セリーが小さく笑った。


 白鴉療養所へ着く頃には、雲の切れ間が広がり始めていた。


 玄関前の石段はまだ少し濡れている。軒下では職員が雨で湿った布を干し直しており、建物の中へ入ると、朝の薬草茶の香りに焼いた麦の匂いが混じっていた。


 廊下の先から、ゆっくりした足音が聞こえる。


 保存されていた幼いアルフォンスだった。


 今日はヨアヒムの横を歩いている。


 俺を見つけると、少年は足を止めた。


「アル」


「おはよう」


「今日、二回」


「もう一回終わった?」


「まだ」


「じゃあ何で二回って分かるの?」


「今日二回する」


「予定か」


「うん」


 少年は真剣な顔で頷いた。


「昨日、二回できた」


「疲れは?」


「夜、ちょっと」


「今朝は?」


「ない」


 ヨアヒムが横から補足する。


「朝の状態では問題ありません。ただし、昨日できたから今日も必ず二回ということではないと説明しています」


「聞いた?」


「聞いた」


「納得した?」


「二回したい」


「それは納得とは違う気がする」


「したいのはいいですよ」


 ヨアヒムが笑う。


「一往復目の後で身体の状態を見て、もう一往復するか本人と相談します」


 少年は俺を見る。


「アルも来る?」


「三〇八号室に行ってから、時間が合えば」


「来なかったら?」


「ヨアヒムと決めて」


「うん」


 昨日と同じように、少年はそれで納得した。


「今日はパン、大きかった?」


 聞くと、少年の顔が少し明るくなる。


「昨日より大きい」


「よかったじゃん」


「でも、あのおじいちゃんのも大きかった」


「また比べたの?」


「見えた」


「わざわざ見たんじゃなく?」


「見えた」


「そういうことにしとく」


 ヨアヒムが笑いを堪えている。


 少年は納得できない顔をしたが、そのまま歩行練習の開始位置へ向かった。


 三〇八号室の前で扉を叩く。


「アル?」


「うん」


「入っていい」


 中へ入ると、少年は寝台の上で赤い布を膝に置いていた。


 一瞬、手紙を読むのかと思った。


 けれど、布は包まれたままだ。


「おはよう」


「おはよう」


「それ、今日は読む?」


「まだ分かんない」


「分かった」


 俺は椅子へ座る。


 窓から入る光は昨日より明るい。


 卓の上には絵が置かれている。


 蓋のある箱。


 音。


 道。


 休む場所。


 椅子。


 中身の決まっていない四角。


 少年が赤い布を卓へ戻した。


「薬は?」


「同じ」


「今日も?」


「うん」


「状態は?」


「頭痛ない。気持ち悪くない。重いの一。怖いの一」


「よく覚えてるな」


「毎朝聞くから」


「嫌?」


「嫌じゃない。でも同じ」


 少し考える。


「じゃあ、同じ時は短くしようか」


「どうやって?」


「『昨日と変わらない』で済ませられるところは済ませる。何か変わった時だけ詳しく」


「それでいいの?」


「必要なことが分かれば」


「薬も?」


「量が変わってないなら、毎回長く相談する必要はないかもな。ただ、今日はどうしたいかは聞く」


 少年は頷いた。


「今日は同じ」


「分かった」


 それで終わる。


 毎日同じ確認をしているからといって、毎日同じ長さで話す必要はない。


 少年が自分の身体を気にする時間より、確認されることに使う時間の方が長くなったら、それも変だ。


「外は?」


「行きたい」


「中庭?」


「うん」


「今日は晴れてきてる」


「水たまりある?」


「昨日の雨なら残ってるかも」


「見たい」


「じゃあ後で」


 少年が卓の絵へ手を伸ばす。


「アル」


「何?」


「箱って、開けないと中分かんない?」


 旧保養施設の中間保持箱が頭に浮かんだ。


 けれど、少年はそんなことを知らない。


 この絵の箱の話だ。


「物による」


「見える箱もある?」


「透明なら」


「とうめい?」


「中が見える材料でできた箱」


「蓋、開けなくても?」


「うん」


「これは?」


 絵の箱を指す。


「お前が描いたんだから、お前次第じゃない?」


「外から見えない」


「じゃあ見えない」


「アル、知りたい?」


「中身?」


「うん」


「ちょっと」


「開けたい?」


「俺が?」


「うん」


「お前の箱だから、勝手には開けない」


「絵なのに?」


「絵でも」


 少年は俺を見る。


「本当に?」


「何で疑うの?」


「アル、知りたがる」


「否定できない」


「すごく」


「そこまで?」


 少年が少し笑った。


「でも、開けない?」


「開けていいって言われても、何が入ってるか分からなくて危なそうなら先に聞くかも」


「誰に?」


「お前に。これは何か、危なくないか、開けて大丈夫か」


「ぼくも分かんなかったら?」


「じゃあ一緒に考える」


「開けない?」


「分かるまで開けないこともある」


 少年は絵へ視線を落とした。


「開けないのも決める?」


「うん」


「開けるか、開けないか」


「どっちも選べる」


「何もしないも?」


「それも」


 炭筆を持つ。


 箱の蓋へ一本、線を足した。


 昨日より少し厚くなる。


「今日は開けない」


「分かった」


「明日は?」


「明日決める?」


「それ便利」


「気に入った?」


「ちょっと」


 今度は俺が笑った。


 赤い布の手紙も、今日はまだ開けない。


 絵の箱も開けない。


 薬は減らさない。


 それでも少年は中庭へ行きたいと言った。


 一日に何もかも進めなくていい。


 白鴉の外では、雲の間から青空が少しずつ広がっていた。


 一方、旧保養施設の記録保管室では、フェリクスが本当に紙だけを掘っていた。


 机の上には「夜間設備・休止手順」の冊子と、北受所閉鎖後の設備図、中央棟の改修記録が並んでいる。


 ガルムは壁際。


 リディアは別の台帳を確認していた。


「箱側表示という語が他にない」


 フェリクスが額へ指を当てる。


「昨日から何冊見た?」


 ガルムが聞く。


「十二冊です」


「休め」


「今休むと、十三冊目にあるかもしれない情報が遠ざかります」


「十三冊目にある根拠は?」


「ありません」


「休め」


「理不尽です」


「根拠なく続ける方が理不尽だ」


 リディアが台帳から顔を上げる。


「一度休みましょう。紙も目も休ませた方がいいです」


「リディアさんまで」


「この文字、疲れると『待』と『持』を間違えますよ」


 フェリクスの表情が変わった。


「それは困ります」


「でしょう?」


「十分休みます」


 ガルムが呆れたように息を吐く。


「お前は自分の身体より誤読の方が怖いのか」


「どちらも重要です」


「順番が怪しい」


 三人は保管室を出た。


 廊下の窓を少し開けると、雨上がりの湿った風が入ってくる。古い紙の匂いに慣れた鼻には、外の草の匂いが妙に強く感じられた。


 そこへ設備担当の職員が来た。


「隊長」


「何だ?」


「北側外庭の巡回記録です」


「異常?」


「危険なものではありません。ただ、昨日の雨で石敷きの隙間に水が溜まっています」


「それだけなら普通だな」


「はい。ただ……例の旧基礎推定位置付近だけ、乾き方が少し違います」


 フェリクスの顔が一瞬で研究者へ戻る。


「どう違うんです?」


 ガルムが先に確認する。


「掘ったか?」


「何もしていません。近づきすぎてもいません」


「なら聞く」


 職員が記録板を見せる。


「周囲はまだ濡れているのに、石敷きの一部だけ細長く乾き始めています。幅は手のひら二つ分ほど。長さは……見えている範囲で一メートル半ほどです」


「熱?」


 リディアが聞く。


「触れていないので分かりません。離れた位置からの温度計測では、周囲との差はほとんどありません」


「魔力?」


「目立った変化なしです」


「位置は?」


 職員が図面へ印をつける。


 北受所跡。


 中間保持箱推定位置。


 以前見つけた輪金具らしきもの。


 乾き方の違う部分。


 近い。


 だが、ぴったりではない。


「昨日の雨の流れ方かもしれない」


 ガルムが言う。


「はい」


「地面の下に空間があって乾き方が違う可能性もある」


 リディアが続ける。


「あります」


 フェリクスが口を開く。


「調べ――」


 ガルムが見る。


「……資料で」


「よし」


「最後まで言わせてください」


「言わなくても分かる」


「信頼されているのか、されていないのか分かりませんね」


「行動傾向は信頼してる」


「褒めてませんよね?」


「よく分かったな」


 職員が笑いを堪えた。


 北側外庭は、そのままにされた。


 乾き方の差も、写真と時刻だけを残す。


 石を剥がさない。


 温度差を作らない。


 水を追加で流さない。


 何かがあるとしても、こちらから反応を起こさない。


 休憩を終えて保管室へ戻ったリディアが、十三冊目ではなく、棚の最下段に挟まっていた薄い紙束を見つけた。


「これ、台帳じゃないですね」


「何です?」


 フェリクスが寄る。


「設備担当者向けの引き継ぎ書みたいです」


 表紙はない。


 数枚目から始まっている。


 日付も一部欠けている。


 ただ、北受所閉鎖後らしい記述があった。


「第二線……」


 リディアが声を落とす。


 ガルムも近づく。


 フェリクスは今度こそ手を出さず、横から読む。


「『第二線休止中の確認事項』」


「続けて」


「『中央監視窓の色のみをもって復帰判断を行わないこと』」


 三人の目が止まった。


「中央監視窓」


 ガルムが繰り返す。


「昨夜の中央棟の光がこれかは分かりません」


 フェリクスが先に釘を刺した。


「分かってる。次」


「『箱側表示の消灯、北端確認、線路異常なしの三項を確認後、担当者二名以上で復帰操作を行う』」


 リディアが読み終え、少し息を吐いた。


「一つじゃない」


「ああ」


「箱側表示が消えたから、すぐ線を起こすわけじゃない」


「三条件」


 フェリクスが指を折らずに口だけで整理する。


「箱側表示の消灯。北端確認。線路異常なし。それから担当者二名以上」


「勝手に一人で触るなってことだな」


「少なくともこの時期の運用では」


「次は?」


 紙を進める。


「『箱側表示が継続する場合――』」


 その先が折れ、文字が薄くなっている。


「光を変えられるか?」


「紙を傷めない範囲で」


 角度を変える。


 窓からの自然光では足りない。


 魔導灯を近づけすぎず、反射させる。


「『……消灯操作を行わず』」


 ガルムの表情が変わった。


「もう一度」


「『箱側表示が継続する場合、消灯操作を行わず――』」


 続き。


「『原因確認まで休止を保持』」


 部屋が静かになった。


 フェリクスの目から、さっきまでの軽い興奮が少し引いた。


「消すな、ですね」


「表示が残ってるなら」


「はい」


「消えるのを待つだけじゃない」


 リディアが言う。


「無理に消灯させてはいけない」


「少なくともこの引き継ぎでは」


 ガルムは記録用紙へ視線を落とした。


「ここは重要だ。原文そのままで写せ」


「はい」


「理由は書いてある?」


「次の紙かもしれません」


 一枚めくる。


 上半分が欠けている。


 途中から読める。


「『表示は……』欠損。『線側異常のみを示すものではなく――』」


「線だけじゃない?」


「そう読めます」


「続き」


「『受所側確認未了、接続先応答待ち、保持器状態不一致等においても継続する場合あり』」


 フェリクスが目を細める。


「複数原因」


「表示が点いてるだけじゃ何が原因か分からない」


「はい」


 さらに下。


「『原因不明時は休止を優先』」


 ガルムが頷いた。


「分かりやすい」


「珍しく」


「古い規則を褒めるのも変だがな」


 リディアが苦笑する。


「でも、少なくともこれは安全側ですね」


「分からないなら起こすな」


「はい」


 フェリクスは紙から目を離し、保管室の壁を見る。


「もし現在の第二線が本当に休止状態で、もし箱側表示が今も継続しているなら……」


「二つ『もし』がある」


「分かっています」


「なら続けろ」


「私たちがやるべきなのは、表示を消すことではない」


「ああ」


「何を示しているのかを調べることです」


 ガルムがわずかに笑った。


「今日は満点だ」


「子供扱いされている気がします」


「朝食を食わせられた奴が言うな」


「それは関係ありません」


 緊張が少しだけ緩んだ。


 けれど、誰も「箱を探そう」とは言わなかった。


 むしろ逆だった。


 箱側表示が残っている時は、消灯操作をしない。


 原因が分からない時は、休止を優先する。


 古い紙の中から出てきたのは、動かす方法ではなく、動かさないための手順だった。


 その頃、白鴉の中庭では、三〇八号室の少年が水たまりの前に立っていた。


 昨日より小さくなっている。


 雲の切れ間から日が差し、石畳の一部は乾き始めていた。


「減ってる」


「晴れてきたからな」


「昨日のがなくなる?」


「たぶん」


「全部?」


「このまま雨が降らなければ」


 少年はしゃがまない。


 少し離れて見ている。


「なくなったら、終わり?」


「水たまりは?」


「うん」


「その水たまりは終わりって言ってもいいかも」


「また雨降ったら?」


「別の水たまりができる」


「同じ場所に」


「そうだな」


 少年は昨日の会話を覚えている。


「同じ名前でも違う」


「うん」


「じゃあ、なくなるの怖くない?」


 今度は俺が考えた。


「水たまりは?」


「何でも」


 少年の視線は水面へ向いたままだ。


 俺はすぐに答えなかった。


「怖い時はある」


「アルも?」


「あるよ」


「何が?」


「今あるものがなくなること」


「王太子?」


 予想していなかった。


 思わず少年を見る。


 少年は俺を見ない。


「それも、最初は怖かったかもしれない」


「今は?」


「戻りたいとは思ってない」


「じゃあ怖くない?」


「なくなったこと全部が嫌じゃない。でも、なくなったから何も感じないわけでもない」


「難しい」


「俺も今、難しいこと言ってると思う」


 少年がようやく俺を見る。


「薬なくなるの、怖い」


 水たまりの話ではなかった。


「うん」


「なくしたいのに」


「うん」


「変?」


「変じゃない」


「薬、嫌い」


「知ってる」


「でも、ずっとあった」


「そうだな」


「なくなったら……」


 そこで止まる。


 俺は続きを言わない。


 薬がなくなったら自由だ。


 治った。


 安心だ。


 そんな言葉を勝手に置きたくなかった。


「分かんない」


「うん」


「だから今日も同じ」


「いいと思う」


「明日も同じかも」


「それも明日決めればいい」


「減らさなくても怒らない?」


「誰が?」


「みんな」


「少なくとも俺は怒らない」


「セリーは?」


「怒らないと思う」


「ヨアヒムは?」


 少し後ろにいるヨアヒムが答えた。


「怒りませんよ。身体に問題がなければ、同じ量を続けることも一つの方法です」


「減らしたくなくなったら?」


「その時は理由も含めて一緒に考えます」


 少年は少し安心したように息を吐いた。


「じゃあ、今日はこれでいい」


「うん」


 水たまりの端が、日差しの中で少しずつ乾いている。


 少年はそれを見た後、急に立ち上がった。


「戻る」


「もういい?」


「絵描く」


「箱?」


「違う」


「じゃあ聞かない」


「また聞いた」


「癖なんだよ」


「直す?」


「努力する」


「いつ?」


「……今日から?」


「今から」


「厳しいな」


 少年が笑う。


 そのまま部屋へ戻っていく背中を見送りながら、俺は少しだけ胸の奥に残った言葉を反芻した。


 なくしたいのに、なくなるのが怖い。


 矛盾しているように見える二つの気持ちは、どちらかが間違いなわけではない。


 それを一つに決めさせないことも、今は必要なのだと思う。


 昼前、エルから旧保養施設の新しい資料が届いた。


 俺は白鴉の談話室でアンナマリーと合流していた。


「箱側表示が継続する場合、消灯操作を行わず、原因確認まで休止を保持」


 俺が読み上げると、アンナマリーはしばらく黙っていた。


「消してはいけないのですね」


「少なくとも、この時期の手順では」


「表示があること自体が異常なのではなく、何かを待っている場合もある」


「受所側確認未了、接続先応答待ち、保持器状態不一致」


「複数ありますね」


「だから、光ってるから何か一つって決められない」


 ブラットも今日は同席していた。


「中央棟で一瞬光ったものが箱側表示だとしても、原因までは分からない」


「そもそも箱側表示かも分からない」


「面倒だな」


「昨日も言ってたぞ」


「面倒なものは面倒だ」


 ブラットは資料をめくる。


「それより、接続先応答待ちって何だ?」


「分からない」


「人か?」


「分からない」


「別の設備?」


「分からない」


「お前、楽しそうだな」


「どこが?」


「『分からない』って言う時の顔が前と違う」


 俺は眉を寄せた。


「どんな顔?」


「昔は苛立ってた」


「今は?」


「考えてる」


「同じじゃない?」


「違う」


 アンナマリーも少し頷く。


「以前は、分からない状態そのものを早く終わらせようとなさっていたように思います」


「今も終わらせたいよ」


「でも、急いで間違った答えを置くより、分からないまま保留する方を選んでおられます」


「みんな最近、俺の昔の話するの好きじゃない?」


「変化が分かりやすいので」


「セリーと同じこと言ってる」


「長く存じ上げておりますので」


「それも同じ」


 ブラットが笑った。


 俺は資料へ戻る。


「帰還管理所側に『接続先応答待ち』みたいな言葉ある?」


 アンナマリーが用語集を開く。


「すぐには分かりません。検索対象に加えますか?」


「うん。でも、旧保養施設とつながってる前提では探さないで」


「『応答待ち』『確認未了』『保持』など、語そのものの使用例を調べます」


「お願い」


「今日は何件まで?」


 聞かれて、一瞬意味が分からなかった。


「何が?」


「資料です。前回は二件で止めました」


「ああ」


「決めておかないと、主様は夕方まで読みます」


「……三件」


 ブラットが鼻で笑う。


「多い」


「じゃあ二件」


「俺は何も言ってない」


「顔が言った」


「セリーみたいなこと言うな」


 結局、帰還管理所の資料は二件だけ確認することにした。


 一件目は「応答待ち」という語が使われた古い記録。


 ただし、帰還処置ではなく、外区の食事搬送設備に関するものだった。


 搬送箱を別区画へ送る前に、受け取り側の確認表示を待つ。


 応答がない時は送らない。


 それだけ。


「同じ言葉でも全然違う」


「はい」


 アンナマリーが記録する。


「『応答待ち』自体は設備一般で使われる語と見た方がよさそうですね」


「じゃあ旧保養施設の接続先応答待ちも、人の返事とは限らない」


「設備の状態確認かもしれません」


「それもまだ分からない」


「はい」


 二件目。


 こちらは外区保護者の移送準備記録だった。


 本人は帰還を希望。


 身体状態も許容。


 資格確認も済んでいる。


 しかし「内区受入応答未了」により、その日の移送は保留。


 翌朝、受入確認後に本人へ改めて意思確認。


 本人は「今日は待つ」と答え、移送されていない。


 俺はその一文で手を止めた。


「前日は帰りたい」


「はい」


「翌日は待つ」


「はい」


「受け入れ側の準備が遅れたせいで一日空いた。でも、その一日を『昨日帰りたいって言ったから』で飛ばしてない」


「この記録では、そのようです」


「本人へもう一回聞いた」


「はい」


 ブラットが記録を見る。


「受入応答が遅れたことが、結果的に本人の選び直す時間になったわけか」


「でも、待たせれば正しいって話でもない」


「緊急なら違うだろうな」


「うん」


 アンナマリーが続きを指す。


「さらに翌日、本人から再度申し出があります」


「何て?」


「『本日帰還希望』」


「それで?」


「四項目を再確認して移送」


「前日の拒否を固定もしてない」


「はい」


 昨日の希望を今日の命令にしない。


 今日の拒否を明日の永久決定にもしていない。


 その日の本人へ、その日の状況で確認する。


 単純なことに見える。


 でも、後の記録ではそれが崩れていった。


 拒否が続けば症状とされ、本人意思欄が空白のまま管理者代行で進められるようになった。


「今日はここまで」


 俺が言うと、アンナマリーが少し驚いた。


「本当に?」


「何で驚くの?」


「もう一件とおっしゃるかと」


「二件って決めたから」


「成長しましたね」


「その言い方、セリーに言われるより恥ずかしい」


 ブラットが笑う。


「じゃあ褒美に昼飯だ」


「子供扱いしてない?」


「飯を抜こうとする奴は大体同じ扱いでいい」


「フェリクスと一緒にするなよ」


「似てきたぞ」


「どこが」


「知りたいと飯を忘れるところ」


 反論しようとして、昨日魚を冷ましかけたことを思い出した。


「……食べる」


「よし」


「やっぱり子供扱いしてるだろ」


 昼食の頃、旧保養施設の名前の分からない子供は、生活区画の窓際に座っていた。


 雨上がりの庭にはまだ濡れた場所が残っている。


 本人は外へ出たいとは言わなかった。


 代わりに、昨日うまく形にならなかった折り紙のような紙を取り出している。


 ずれた折り目。


 歪んだ角。


 それを開く。


 また折る。


 普段の職員は隣の卓で記録を書きながら、ときどき様子を見るだけだった。


「できた」


 子供が言った。


「何ができたの?」


 聞く。


 子供は紙を持ち上げる。


 四角い形に近い。


 ただし片側が開いている。


「はこ」


「箱なんだね」


「うん」


 職員は、それ以上聞かない。


 中間保持箱。


 そんな言葉は頭に浮かんでも、口にはしない。


 子供は紙の箱を机へ置く。


 中は空だ。


 指を入れる。


 何もない。


「空っぽ?」


 職員が、見えていることだけを確認する。


「いまは」


「そうなんだね」


 子供は箱の開いている側を指で押した。


 閉じようとする。


 でも折り方が甘く、また開く。


「閉じたい?」


「まだ」


「手伝う?」


 首を横へ振る。


「じぶんで」


「分かった」


 何度か折る。


 やがて完全ではないが、開いていた側が少し狭くなった。


 子供は満足したのか、手を止めた。


「これ、消えたら」


 職員の手が記録板の上で止まりそうになる。


 それでも、顔を上げるだけにした。


 子供は紙の箱を見ている。


「うん」


 促しすぎない短い返事。


「……ねる」


 子供が言った。


「何が?」


 問いかけかけて、職員は止めた。


 けれど最初の一音が出てしまった。


 子供がこちらを見る。


 職員はすぐに言い直した。


「ごめん。言いたくなかったら言わなくていいよ」


 子供は怒らなかった。


 少し考える。


 紙の箱を指す。


「これじゃない」


「うん」


「これ、まね」


「まね?」


「うん」


 子供は箱の横に指を置く。


「ほんとの、まだ」


 職員は黙って待った。


「きえたら、ねる」


 今度はそこまで言った。


「そうなんだね」


「うん」


 誰が。


 何が。


 どの表示が。


 何が消えるのか。


 聞かない。


 子供は紙の箱を布鞄へ入れなかった。


 机の上へ置いたまま、昼食の時間になると椅子から降りた。


「これ、ここ」


「置いておく?」


「うん」


「分かった」


 箱は机の上に残された。


 誰も触らない。


 昼食は温かい野菜の煮込みだった。


 子供は芋を先に食べ、豆を二粒残した。


「豆、あとで?」


「いらない」


「分かった」


 残しても理由を聞かれない。


 食べ終えると水を飲む。


 その後、少し眠そうに目を擦った。


「休む?」


「うん」


「部屋?」


「ここ」


「椅子?」


 子供は首を横へ振り、生活区画の壁際に置かれた長椅子を指した。


「そこね」


 薄い毛布を一枚渡す。


 自分で横になる。


 数分もしないうちに目を閉じた。


 紙の箱は、少し離れた机の上。


 子供自身が「まね」と言った箱。


 本物ではない。


 そして本物の何かは、まだ。


 消えたら、寝る。


 その報告は、まずガルムへ届いた。


 ガルムは中央棟の外で、リディアと乾燥差の記録を確認していた。


「質問したか?」


「途中で『何が』と言いかけました。すぐ、言いたくなければ言わなくていいと伝えています」


「本人は?」


「その後、自分から続けました」


「誘導は?」


「していません」


「分かった。そこも含めて記録してくれ」


「はい」


「紙の箱は?」


「生活区画の机です。本人がそこへ置きました」


「触るな」


「はい」


「写真は?」


 職員が少し迷う。


「本人に聞いていません」


「なら撮らなくていい」


「記録用に必要では?」


「形は文章で残せる。本人の物を、本人が寝てる間に勝手に撮る必要はない」


「分かりました」


 ガルムは通信を切った。


 リディアが隣で静かに聞いていた。


「『消えたら、寝る』ですか」


「ああ」


「今朝の手順書と似ていますね」


「似てる」


「箱側表示が継続する間は休止保持」


「ああ」


「表示が消えたら……」


「そこから先は三条件だ」


 ガルムが遮った。


「消えたら即復帰じゃない」


「はい」


「それに、子供が何を指してるかも分からん」


「分かっています」


「だが、アルには送る」


「原文で?」


「原文で」


 白鴉で昼食を終えた俺のところへ、エルから報告が届いた。


『主様。名前の分からない子供から新たな自発発言です』


「危険?」


『ありません。本人は現在、生活区画の長椅子で昼寝をしております』


「じゃあ聞く」


 エルが経緯をそのまま伝える。


 紙を折って箱を作った。


 空っぽ。


 「いまは」。


 閉じようとして、自分で折った。


 「これ、消えたら」。


 職員が「何が」と言いかけたが、すぐ撤回し、答えなくていいと伝えた。


 子供は自分から、


 ――これじゃない。


 ――これ、まね。


 ――ほんとの、まだ。


 ――きえたら、ねる。


 そう言った。


 俺はすぐに返事ができなかった。


「……『きえたら、ねる』」


『はい』


「今朝の資料は本人に?」


『伝えておりません』


「中間保持箱って言葉も?」


『伝えておりません』


「箱側表示?」


『伝えておりません』


「紙の箱を作るよう促した?」


『いいえ』


「職員が箱の話をした?」


『いいえ』


「分かった」


 背中を椅子へ預ける。


 偶然。


 記憶。


 過去に見た。


 誰かに教わった。


 設備の動きを何らかの方法で感じている。


 まったく別のものを話している。


 いくらでも可能性がある。


「会いに行く?」


 近くにいたブラットが聞いた。


「……行きたい」


「だろうな」


「でも今、寝てる」


「なら少なくとも今は行かないな」


「起きたら?」


 自分で口にして、自分で考える。


「会いたいって言われてない」


「昨日は一度、お前が来るか聞いたらしいな」


「でも呼ぶかって聞かれて『いい』って」


「ああ」


「じゃあ、俺が謎を聞くために行くのは違う」


 ブラットが頷く。


「なら、どうする?」


「資料」


「また紙か」


「紙は嫌がらないから」


「破るとフェリクスが嫌がるぞ」


「破らないよ」


 アンナマリーが少し笑った。


「それでは、旧保養施設側で『箱側表示』の意味を調べてもらい、こちらでは同時期の設備用語を確認しますか?」


「お願い。あと、『消灯操作』って何だったのか」


「表示を消す操作ですね」


「うん。でも、どうやって消す想定だったのか知りたい。単なる灯りの切り替えなのか、設備状態そのものを変える操作なのか」


「重要ですね」


「もし表示だけ消せる仕組みだったなら、『消灯操作をするな』ってわざわざ書く理由がある」


 ブラットが眉を寄せる。


「見た目だけ正常にするな、みたいな話か?」


「かもしれない。でもまだ分からない」


「またそれだな」


「便利なんだよ」


 三〇八号室の少年の言葉を借りる。


 ブラットは少し笑った。


 午後。


 旧保養施設の名前の分からない子供は昼寝から起きた。


 机の上の紙の箱を見る。


 職員は触っていない。


 子供はそれを手に取った。


「ここにあった」


「うん。置いておくって言ったから」


「さわった?」


「触ってないよ」


「だれも?」


「誰も」


 子供は箱を両手で持ったまま、しばらく職員を見る。


「ほんと?」


「うん」


「……そっか」


 胸元へ抱く。


 ほんの少し、表情が緩んだ。


「鞄に入れる?」


「いれる」


 自分で布鞄を開ける。


 木片。


 紙。


 拾った葉。


 歪んだ折り紙。


 そこへ新しい紙の箱も入れようとして、止まった。


 箱は鞄の口より少し大きい。


「入らないね」


 職員が言う。


「つぶす?」


「それもできるよ」


 子供は考える。


「やだ」


「じゃあ別の場所に置く?」


「うん」


「どこ?」


 部屋へ持っていく。


 寝台の横にある小さな棚。


 その一番上へ置いた。


「ここ」


「分かった」


 箱の居場所が決まった。


 それだけで、子供は満足したようだった。


「そと」


「庭?」


「うん」


 雨は上がっている。


 職員が安全確認をする。


 中央棟や北側へ近づかない生活用の小さな庭なら問題ない。


「行けるよ」


 子供は布鞄を持つ。


 紙の箱は棚へ残す。


 庭へ出ると、濡れた土の匂いが強かった。


 子供は水たまりを避けながら歩く。


 以前拾った葉が落ちていた場所へ行く。


 今日は新しい葉を拾わない。


 代わりに、地面へ落ちた小さな木の実を見つけた。


「これ」


「木の実だね」


「たべる?」


「これは食べない方がいいよ」


「なんで?」


「食べて大丈夫か分からないから」


 子供が木の実を見る。


「分からない?」


「うん」


「じゃあ、たべない」


「持っておく?」


「うん」


 布鞄へ入れる。


 分からないから、今は食べない。


 それだけのやり取りを、少し離れた場所にいたガルムが聞いていた。


 何も言わない。


 ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 夕方近く、フェリクスがようやく「消灯操作」に関する記録を見つけた。


 今度は保守担当者向けの故障対応票だった。


「ありました」


 声を上げた直後、自分で音量を落とす。


 ガルムとリディアが来る。


「どこだ?」


「第二線そのものではありません。状態表示器全般の故障対応です」


「読め」


「『表示残留時、表示灯のみを消灯して正常扱いとすることを禁ず』」


 ガルムの眉が動く。


「続けろ」


「『表示灯は設備状態に連動するため、原因除去前の手動消灯は状態確認を困難とする』」


 リディアがゆっくり息を吐く。


「見た目だけ消せる操作があったんですね」


「はい」


「でも、それをやると原因が残ってるのに分からなくなる」


「そのようです」


「箱側表示も同じ方式か?」


「まだ不明です。ただ、先ほどの引き継ぎ書で『消灯操作を行わず』とわざわざ書いている理由としては整合します」


 次の項目。


「『故障確認のため手動消灯を行う場合、対象線を物理休止状態に固定し、二名以上立会いのもと記録すること』」


「試験目的なら条件つき」


「はい」


「今はやらない」


「同意します」


 フェリクスが即答した。


 ガルムが彼を見る。


「珍しいな」


「何がです?」


「試したいと言わない」


「原因不明で、線の正確な経路も、箱の現存も、接続先も分からないんですよ。そんな状態で表示だけ消す実験は、さすがに情報を減らすだけです」


「成長したな」


「アルフォンス様と同じ扱いをしないでください」


「本人にも同じこと言ったら怒りそうだな」


「では言わないでください」


 リディアが笑った。


 その直後だった。


 保管室の外から、足音が近づく。


 設備担当の職員。


「隊長」


「何だ?」


「中央棟の監視記録です」


「光った?」


「いいえ」


「線?」


「変化なしです。ただ、北側外庭の乾燥差が……少し伸びています」


 部屋の空気が変わる。


「どのくらい?」


「朝は一・五メートルほどでした。現在、見える範囲で二メートル少し」


「幅は?」


「ほぼ同じです」


「温度?」


「周囲との差は測定誤差内」


「魔力?」


「目立った変化なし」


「地面へ何かした?」


「何も」


 ガルムはすぐに立ち上がらない。


「写真を」


 職員が記録を見せる。


 朝。


 昼。


 今。


 確かに、細長い乾燥部分が少しずつ伸びているように見える。


 ただし、日当たりも変わっている。


 風向きも変わっている。


「自然乾燥の可能性は?」


「あります」


「地下設備の影響は?」


「否定できません」


「なら観察だけ」


「はい」


 フェリクスが写真と図面を見比べる。


「方向が……」


「何だ?」


「中間保持箱推定位置から北受所跡へ向かう線と近いです」


「一致?」


「完全ではありません。角度が少し違います」


「なら『近い』まで」


「はい」


「掘らない」


「はい」


「水をかけ直すな」


「はい」


「温度を変えるな」


「はい」


「魔力を流すな」


「はい」


「夜まで自然にどう変わるかだけ記録」


「了解しました」


 それで終わる。


 異常らしいものを見つけても、すぐに原因を作りに行かない。


 調べるために現象そのものを変えてしまえば、何を見ていたのか分からなくなる。


 夕方、俺は塔へ戻った。


 保存されていた幼いアルフォンスの歩行練習は、結局二往復できた。


 二回目は一回目より少し遅かったが、本人が途中で休憩を選び、窓辺の椅子へ座ってから戻ったらしい。


「休んだんだ」


『はい』


「嫌がらず?」


『本人から「ちょっと休む」と申告しています』


「それはいいな」


 俺が言うと、セリーが夕食の皿を置きながら頷いた。


「できることが増えるだけでなく、休むことをご自身で選べるのも大切かと存じます」


「俺にも言ってる?」


「もちろんでございます」


「やっぱり」


「主様も本日は資料を閉じる時間をお選びください」


「夕食後に少しだけ」


「どの程度でしょう」


「三十分」


「四十五分になりませんか?」


「交渉が逆じゃない?」


「主様が三十分で切り上げられた場合、残り十五分はお茶の時間にいたします」


「なるほど」


「いかがでしょう」


「乗った」


 夕食を食べながら、今日の報告を整理する。


 箱側表示。


 消灯操作。


 原因不明時は休止優先。


 表示灯だけを手動で消すことはできたが、原因を除かず見た目だけ正常にするのは禁止。


 北側外庭の乾燥差。


 名前の分からない子供の自発発言。


 ――これじゃない。


 ――これ、まね。


 ――ほんとの、まだ。


 ――きえたら、ねる。


「セリー」


「はい」


「『消えたら寝る』って、設備の手順と逆に聞こえるんだよな」


「どの点がでしょう」


「手順書では、第二線はもう休止してる。箱側表示が消えた後、他の条件も確認して復帰できる」


「はい」


「でも子供は『消えたら寝る』」


「はい」


「線が寝るんじゃなく、何か別のものが寝る?」


「その可能性はございます」


「それとも、子供の『寝る』が設備用語の休止と同じ意味じゃない」


「その可能性もございます」


「表示が消えたら箱が寝る?」


「分かりません」


「だよな」


 俺はスープを飲む。


「危なかった」


「何がでしょう」


「昨日までなら、『線が寝る』と『休止時弛緩』が似てるから、子供の言う『寝る』は設備の休止だって思い込みそうだった」


「似ていることは、同じである証明ではございません」


「うん」


「本人の言葉は本人の言葉として残しておくべきでしょう」


「じゃあ、『消えたら寝る』もそのまま」


「はい」


 食事を終える。


 約束通り三十分だけ資料を見る。


 その後、セリーが本当にお茶を持ってきた。


「十五分?」


「はい」


「何もしない?」


「お茶を飲むという大切な予定がございます」


「それ予定に数える?」


「主様には必要です」


 湯気の立つカップを受け取る。


 少し甘い香りがした。


「青い砂糖入ってる?」


「本日は入れておりません」


「何で?」


「夕食後ですので控えめに」


「健康管理が細かい」


「職務でございます」


「それだけ?」


 何となく聞いた。


 セリーの手がほんの少し止まる。


「何がでしょう」


「俺の食事とか睡眠気にするの」


「長くお仕えしておりますので」


「便利な答えだな」


「事実でもございます」


 それ以上は聞かなかった。


 セリーも何も足さない。


 でも、お茶を置く時の距離が少し近かった。


 それだけで十分だった。


 夜。


 旧保養施設では、北側外庭の乾燥差が日没とともに見えにくくなった。


 日中の最後の記録では、長さは約二・二メートル。


 それ以上は伸びていない。


 自然乾燥なのか、地下構造の影響なのかは分からない。


 中央棟の第二線休止監視窓と考えられる場所は暗いまま。


 古い線も動かない。


 旧職員詰所の表示板も変化なし。


 地下微弱振動も、夕方以降は記録されていなかった。


 名前の分からない子供は、棚の上へ置いた紙の箱を一度だけ確認した。


「ここ」


 職員が聞く。


「そこに置いておく?」


「うん」


 布鞄は椅子の上。


 木片は中。


 本人は寝台へ入る。


「扉は?」


「ちょっと」


 少し開ける。


「明かりは?」


「ちいさい」


 灯りを落とす。


 職員が水を置く。


「おやすみ」


「おやすみ」


 子供は目を閉じる。


 今日は設備の話をしない。


 「まだ」とも言わない。


 眠りにつく。


 午前零時を過ぎる。


 中央棟、変化なし。


 午前一時。


 変化なし。


 午前二時前。


 地下でごく弱い振動が一度。


 約三秒。


 中央棟の線、変化なし。


 旧職員詰所、変化なし。


 低い共鳴なし。


 午前二時四十七分。


 中央棟設備管理室で、昨日とは違う小さな変化が起きた。


 光ではない。


 音でもない。


 巡回に入った二人の職員が、床に細い水滴の跡を見つけた。


「昨日あったか?」


「ない」


 設備盤の下。


 水滴が三つ。


 天井を見る。


 漏水はない。


 壁も濡れていない。


 窓は閉まっている。


 水滴へ触れない。


 すぐにガルムへ連絡する。


 ガルムとリディアが来る。


「水?」


「見た目は」


「採取は?」


「していません」


「周囲の湿度?」


「少し高めですが、結露が出るほどではありません」


 リディアが距離を保って確認する。


「魔力反応は?」


「ほぼなしです」


「場所は?」


「第二線休止監視窓と推定している金属板の真下から、少し右」


 ガルムが床を見る。


 三滴。


 小さい。


「増えてるか?」


「発見から十分、増えていません」


「なら触らない」


「はい」


「写真だけ」


 記録する。


 十五分。


 二十分。


 増えない。


 そのまま監視を続ける。


 午前三時十八分。


 最初の三滴のうち、一番小さな一滴が自然に乾いた。


 残り二滴。


 設備側に変化なし。


 光らない。


 音もない。


 線も動かない。


 午前三時二十九分。


 旧職員詰所の表示板が、ごく小さく動いた。


 一ミリあるかないか。


 監視者が目視で気づいたのではない。


 定点記録を比較して分かった。


 中央棟の水滴発見から四十分以上後。


 同時ではない。


 青白い光は点かない。


 地下振動とも一時間以上離れている。


 ガルムは記録を分けた。


 中央棟の水滴。


 旧職員詰所の表示板。


 地下振動。


 一つの欄へまとめない。


 午前四時を過ぎる。


 名前の分からない子供は眠ったまま。


 寝言もない。


 何も知らないように見える。


 夜明け前。


 中央棟の残った二滴も、少しずつ小さくなった。


 そのうち一滴が消える。


 最後の一滴だけが残る。


 午前五時十一分。


 設備盤の奥で、一瞬だけ青白い光が点いた。


 前回とほぼ同じ。


 一秒に満たない。


 最後の水滴はまだ残っている。


 光が消える。


 職員は触れない。


 開けない。


 何も操作しない。


 午前五時二十分。


 最後の水滴が乾く。


 それから約五分後。


 生活区画で眠っていた名前の分からない子供が、目を覚ました。


 普段より少し早い。


 身体を起こす。


 部屋の小さな灯りはまだ点いている。


 職員が声をかける。


「おはよう。まだ早いよ」


 子供は返事をせず、棚を見る。


 紙の箱。


 そこにある。


 次に椅子の布鞄を見る。


 それもある。


 胸元へ手を当てる。


 怖がっているようには見えない。


「水、飲む?」


「あと」


「分かった」


 子供は寝台から降りない。


 廊下の方を見る。


 そして、小さく言った。


「ひとつ、きえた」


 職員は息を止めそうになった。


 それでも聞き返さない。


 子供が続ける。


「でも」


 少し間がある。


「まだ、ねない」


 職員は静かに頷いた。


「うん」


 それだけ。


 何が一つ消えたのか。


 何がまだ眠らないのか。


 聞かない。


 子供はその後、水を飲んだ。


 もう一度布団へ入る。


 眠り直すことはなかったが、しばらく横になっていた。


 朝の報告が、塔にいる俺へ届く。


 俺は寝起きのまま、エルの声を聞いていた。


「順番に」


『はい』


 地下微弱振動。


 中央棟床の三つの水滴。


 旧職員詰所表示板の微小変位。


 中央棟の一瞬の青白い発光。


 水滴の消失。


 そして、子供の自発発言。


 ――ひとつ、きえた。


 ――でも、まだ、ねない。


「時刻は?」


『子供の発言は、最後の水滴が乾いた約十分後、中央棟の青白い発光からは約十五分後です』


「見てないよな」


『生活区画から中央棟設備管理室は視認できません』


「教えてない?」


『はい』


「職員同士の会話は?」


『子供の聞こえる範囲では行っていません』


「旧職員詰所の表示板は?」


『微小変位したまま。発光なし』


「何が一つ消えたかは?」


『不明です』


「水滴とも光とも限らない」


『はい』


「『まだ寝ない』の対象も?」


『不明です』


「……分かった」


 俺は寝台の端に座ったまま、額へ手を当てた。


 偶然だと言うには、また近い。


 だからといって、答えにはならない。


「主様」


 扉の向こうからセリーの声がした。


「起きてる」


「入ってもよろしいでしょうか」


「うん」


 セリーが入ってくる。


 すでに朝の支度を終えている。


「報告は?」


「聞いた」


「いかがなさいますか?」


「行きたい」


「はい」


「今日は……」


 少し考える。


 昨日までとは違う。


 子供は一度、俺が来るか聞いている。


 その時は呼ばなくていいと言った。


 今朝は新しい発言がある。


 それでも、まだ俺を呼んではいない。


「まず、本人が起きて朝飯食べるまで待つ」


「はい」


「体調確認」


「はい」


「その後、俺に会いたいか、普段の職員から普通に聞いてもらうのは?」


 セリーは少し考えた。


「『設備について話したいか』ではなく、『アルに会いたいか』だけであれば、不自然ではないかと存じます」


「昨日、一回来るか聞いてたから」


「はい」


「会いたくないなら行かない」


「承知いたしました」


「会いたいって言ったら行く。でも、設備の答えを聞き出すためには行かない」


「はい」


「もし本人から話したら聞く」


「はい」


「危険があるなら必要なことは聞く」


「はい」


「今のところ危険な変化は?」


「確認されておりません」


「じゃあ、それで」


 俺は立ち上がる。


 着替えを始める前に、もう一度だけ記録を見た。


 ひとつ、きえた。


 でも、まだ、ねない。


 昨夜見つけた手順書には、箱側表示が消えるまで第二線を復帰させるなとある。


 だが、子供は「消えたら寝る」と言っていた。


 そして今朝は、一つ消えたのに、まだ寝ないと言った。


 一つでは足りないのか。


 別の何かが残っているのか。


 そもそも、設備の話ではないのか。


 答えはない。


 朝食の途中で、旧保養施設から連絡が来た。


『主様。名前の分からない子供が朝食を終えました』


「体調は?」


『問題ありません。食事量も普段と大きな差はありません』


「俺のこと聞いた?」


『普段の職員が、「昨日アルが来るか聞いていたけど、今日は会いたい?」と確認しました』


「答えは?」


 少しだけ緊張する。


『「うん」と』


「……そっか」


『続けて、「きていい」と本人から発言しています』


 俺は匙を置いた。


 セリーがこちらを見る。


「食べ終わってから」


「はい」


「今日は止めない?」


「本人が主様に会いたいと望まれておりますので」


「うん」


「ただし」


「食べてから」


「はい」


 俺はもう一度匙を持った。


 急いで流し込まない。


 普通に食べる。


 それでも胸の奥では、すでに旧保養施設へ向かう道を思い浮かべていた。


 知りたいからではない。


 少なくとも、それだけではない。


 あの子が今日は、俺に会っていいと選んだから。


 そして旧保養施設の生活区画では、名前の分からない子供が窓際の椅子に座っていた。


 布鞄は膝の上。


 棚には、自分で作った紙の箱が置かれている。


 中央棟の設備は見えない。


 北受所跡も見えない。


 それでも子供は、時々廊下の向こうへ視線を向けた。


「アル、くる?」


「来るって」


 職員が答える。


「ご飯を食べてから来るって」


「ごはん」


「うん」


 子供は少し考える。


「たべるの、だいじ」


「そうだね」


「アル、たべない?」


 職員は思わず笑った。


「たぶん、考え事すると忘れそうになるんじゃないかな」


「だめ」


「来たら言ってあげる?」


「いう」


 子供は布鞄を少し抱き直した。


 その顔に強い恐怖はない。


 ただ、何かを待っている。


 設備が何かを待っているのか。


 子供自身が何かを待っているのか。


 それとも、その二つはまったく関係がないのか。


 まだ分からない。


 けれど、消えない表示を見つけた時、俺たちがやるべきことが一つだけはっきりした。


 消した方が安心できそうだからと、勝手に消してはいけない。


 人の不安も、設備の警告も、拒否も、迷いも。


 目の前から消えれば、問題がなくなったことになるわけではない。


 だから今日は、まだ残っているものを消しに行くのではなく、そのまま残した場所へ向かう。


 あの子が自分から「きていい」と言った、その言葉だけを理由にして。

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