↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
72/152

第72話 眠っていない四角が何なのか、本人に答えを求める前に古い図面を広げました

白鴉療養所へ向かう馬車の窓から見える空は、昨日よりも雲が多かった。


 雨になるほど暗くはないものの、朝日が雲へ隠れるたびに街道の色が少しずつ変わる。森から流れてくる湿った風には土と若い葉の匂いが混じり、車輪が小さな窪みを越えるたび、座席の下から鈍い振動が伝わってきた。


 俺は膝の上へ置いた紙から視線を上げた。


「まだ増えてない?」


『旧保養施設で新たな設備作動は確認されておりません』


「中央棟の青白い光も?」


『昨夜の一度のみです。その後、同じ金属板の隙間から発光は確認されていません』


「線は?」


『外観上の変化なし。北壁方向へ延びる古い布巻き線についても、前回確認された位置から明確な変位はありません』


「旧職員詰所は?」


『表示板の位置に変化なし。青白い光も確認されていません』


「地下は?」


『早朝に微弱振動一回。中央棟の発光からは数時間離れています。低い共鳴はありません』


「じゃあ、やっぱり一緒にはしない」


『はい』


 膝の上の紙には、エルが整理した昨夜から今朝までの記録が並んでいる。


 旧職員詰所。


 中央棟。


 地下。


 名前の分からない子供。


 それぞれの欄を分けたままにしてある。


 以前なら、一枚の時系列表へ全部を並べ、近い時刻を探したかもしれない。


 今も比較はする。


 だが、比較することと、一つの原因だと決めることは違う。


「子供は?」


『朝食中です』


「普通に?」


『はい。パンを半分ほど食べ、現在はスープを飲んでいます』


「紙は?」


『布鞄の中です』


「また出した?」


『朝の発言以降は出していません』


「四角について何か?」


『ありません』


「じゃあ、そのまま」


『はい』


 名前の分からない子供が描いた二本の線。


 どちらも「寝てる」。


 その間に描かれた、小さな四角。


 そこだけは「まだねてない」。


 どういう意味なのか、知りたい。


 かなり知りたい。


 それでも俺が向かっているのは旧保養施設ではなく、白鴉療養所だった。


 俺が現地へ行かなければ子供の安全が保てない状況ではない。


 ガルムがいる。


 リディアがいる。


 いつもの職員たちがいる。


 建物の異常を監視する者もいる。


 だったら、俺には俺の今日がある。


 白鴉療養所の玄関を入ると、ちょうど奥からセリーが出てきた。


「主様」


「おはよう。先に来てたんだ」


「三〇八号室のお薬について、ヨアヒム様と確認しておりました」


「状態は?」


「安定しております」


 セリーは俺の外套を受け取りながら、廊下の奥へ視線を向けた。


「昨日と同じ量で一日を過ごされましたが、夜間にも目立った変化はございませんでした。途中で一度目を覚まされ、水を飲んだ後は再び眠っておられます」


「今朝は?」


「頭痛なし、吐き気なし。身体の重さは一。怖さも一とのことです」


「今日の量は?」


「まだ決めておりません」


「本人が?」


「はい。朝食後に考えたいと」


「分かった」


 階段へ向かう前に、食堂の方から笑い声が聞こえた。


 見ると、保存されていた幼いアルフォンスが、小さな皿を両手で持っている。


 その向かいにいる老人が、自分の皿を指差して何か言っていた。


「何してるの?」


 近づくと、少年が俺を見る。


「比べてる」


「何を?」


「パン」


 老人が笑った。


「この子がな、俺の方が大きいって言うんだ」


「大きいじゃん」


 見る限り、確かに老人のパンの方が少し大きい。


 少年が俺を指す。


「ほら」


「いや、待て。俺は事実を言っただけで、争いに参加したわけじゃない」


「争ってない」


「じゃあ何で比べてるの?」


「同じ朝ご飯って言ったから」


 少年は自分のパンを持ち上げた。


「同じじゃない」


「料理として同じって意味じゃない?」


「大きさ違う」


「そこまで同じにしたら、全部量らないと駄目になるぞ」


「量ればいい」


「三〇八号室にも似たようなのがいるんだよな……」


 豆の大きさまで気にしていた少年を思い出す。


 老人が声を上げて笑った。


「ここは飯を食うより測る方が忙しくなりそうだ」


 周りの患者たちも笑っている。


 幼いアルフォンスは、自分だけ納得できないような顔をしていたが、やがてパンを一口食べた。


「おいしい?」


「うん」


「じゃあいいじゃん」


「大きさは違う」


「そこは譲らないんだ」


 少年は頷いた。


 朝から妙なところで頑固だ。


 けれど、その頑固さが少し嬉しい。


 与えられたものを何でも同じだと思わなくていい。


 違うものを違うと言っていい。


 小さなパンが嫌なら、それを言っていい。


「足は?」


「昨日より重くない」


「歩く?」


「あとで二回」


「もう決めてるの?」


「ヨアヒムと決めた」


 少し離れた場所にいたヨアヒムを見ると、頷いた。


「朝の状態が良かったので、まず一往復して休みます。その後、本人が続けたいと言い、疲労が増えていなければもう一往復です」


「いいと思う」


「アルは来る?」


 少年が聞く。


「時間が合えば」


「来なかったら?」


「ヨアヒムとやってて」


「うん」


 以前なら「必ず来る」と言っていたかもしれない。


 今は言わない。


 来られるか分からない約束で、この子の予定を俺へ縛りつける必要はない。


 三〇八号室へ向かう。


 扉を叩くと、少し間があってから声が返ってきた。


「入っていい」


 中へ入る。


 少年は窓際にいた。


 昨日は外へ出なかった。


 今日は窓から中庭を眺めている。


 雨はまだ降っていないが、空は薄い灰色だ。


「外、行く?」


 俺が聞くと、少年は窓から視線を外さないまま答えた。


「まだ分かんない」


「雨降りそうだな」


「雨でも行ける?」


「屋根のあるところなら」


「外は?」


「濡れる」


「それは分かる」


「じゃあ何を聞いたの?」


「行っていいか」


「ああ」


 少し笑う。


「雨でも、危なくない範囲なら駄目じゃないよ。濡れたくないなら屋根のあるところでもいいし、今日は行かなくてもいい」


「風邪は?」


「濡れたから必ず風邪を引くわけじゃないけど、今は身体も戻してる途中だから、わざわざずぶ濡れになるのは勧めない」


「じゃあ降ったら屋根」


「分かった」


 少年は卓へ戻る。


 赤い布に包まれた手紙は今日も端に置かれていた。


 絵の方には昨日増えた椅子がある。


「椅子、増えたんだって?」


「聞いた?」


「報告で」


「誰の椅子かは言ってない」


「聞いてない」


「聞かない?」


「聞いてほしい?」


「今はいい」


「じゃあ聞かない」


 少年は椅子の絵を指でなぞる。


 蓋のついた箱。


 その中にある、まだ外へ出ない音。


 そこから少し離れたところに椅子。


 さらに、昨日描いた四角。


 絵の中には、説明されていないものが増えている。


 それでも、説明がないから困るわけではない。


「薬」


 少年が自分から言った。


「うん」


「今日も同じにする」


「減らした後の量を維持?」


「うん」


「理由聞いていい?」


「昨日、大丈夫だった」


「うん」


「でも、もう一日大丈夫か見たい」


「分かった」


「変?」


「全然」


「減らしたいのに、減らさない」


「両方あっていいだろ」


「早くなくしたい」


「うん」


「でも、また変になるの嫌」


「うん」


 少年は少しだけ唇を噛んだ。


「前は、飲まないと駄目だった」


「そうだな」


「今は減らしていい」


「うん」


「なのに怖い」


 俺は椅子へ腰を下ろした。


 薬を減らせると分かれば、喜ぶ。


 なくせるなら、早くなくしたい。


 そんな単純な話ではない。


 長い間、「飲まなければならない」と身体と心へ刻まれていたものを、自分で減らす。


 自由になれること自体が、怖いこともある。


「怖いまま決めてもいいよ」


「怖くなくなるまで待たなくていい?」


「待ってもいいし、待たなくてもいい」


「どっち?」


「俺が決めたら、お前が決める話じゃなくなる」


「ずるい」


「そう?」


「答えてない」


「答えは一個じゃないから」


 少年は不満そうに俺を見る。


 俺は少し考えた。


「俺だったら、怖いのに『怖くないふり』して進むより、怖いって分かったまま今日は同じ量にする方が安心するかな」


「アルなら?」


「俺なら」


「ぼくは?」


「お前はお前で決めていい」


 少年は薬容器を見る。


「じゃあ、同じ」


「うん」


「明日は?」


「明日決める」


「またそれ」


「便利だろ」


「ちょっと」


 少年の口元が緩んだ。


 父からとされる手紙については、俺から聞かなかった。


 少年も触れない。


 それで朝の確認は終わった。


 部屋を出たところで、エルから通信が入る。


『主様。旧保養施設で、中央棟設備図の追加資料が見つかりました』


「もう?」


『フェリクス様が早朝から保管庫へ入っております』


「寝てる?」


『四時間二十二分は睡眠を取ったとの申告です』


「少ないだろ」


『ガルム隊長から同様の指摘を受けています』


「止めて」


『すでに一度朝食へ連行されました』


「連行」


『本人の表現です』


 想像できる。


「何が見つかった?」


『中央棟大型設備盤の配置図です。昨夜発光が確認された小型金属板と一致する可能性がある部位が記載されています』


「何て?」


『図面上の名称は「第二線休止監視窓」です』


 足が止まった。


「もう一回」


『第二線休止監視窓』


「第二夜間線?」


『図面上では「第二線」とのみ記載されています。夜間線と同一かは、別資料との照合が必要です』


「うん。まだ同じってしない」


『はい』


「監視窓って、開けて見る窓?」


『現時点では不明です。図面記号上は、設備盤の外から状態を確認する小型表示部である可能性があります』


「昨夜光ったところ?」


『位置はかなり近いですが、改修による配置変更の可能性があるため、完全一致とは確定していません』


「青白い光との関係は?」


『説明欄の一部に色表示らしき記載があります』


「読める?」


『リディア様とフェリクス様が確認中です』


「触ってない?」


『はい』


「開けても?」


『いません』


「そのまま続けて」


『承知しました』


 通信を切った。


 第二線休止監視窓。


 また近づいた。


 だからこそ、現地へ走りたくなる。


 でも俺は白鴉の廊下にいる。


 窓の向こうでは、幼いアルフォンスがヨアヒムと歩行練習を始めようとしていた。


 一往復目だ。


「アル!」


 少年が俺を見つける。


「来た」


「まだ出発してないじゃん」


「見る?」


「少しだけ」


 窓際の長い廊下。


 少年はゆっくり歩き始める。


 昨日より速くしない。


 ヨアヒムも横から急かさない。


 途中で一度、少年が足元を見る。


「どうした?」


「何でもない」


「痛い?」


「ない」


「重い?」


「ちょっと」


 ヨアヒムが立ち止まる。


「続けますか?」


 少年は窓までの距離を見る。


 あと半分ほど。


 少し迷う。


「行く」


「分かりました。速さはそのままで」


「うん」


 再び歩く。


 俺は後ろから見守る。


 数歩進むと、少年が振り返った。


「アル」


「何?」


「先に行かないで」


「ここにいるよ」


「違う」


 少年は窓の方を指す。


「先に窓に行かないで」


「ああ」


 待っていてほしい、ではなく、一緒の位置から見てほしいらしい。


「分かった」


 俺は少年より少し後ろを歩く。


 追い越さない。


 ヨアヒムも反対側を歩く。


 窓へ着いた時、少年は少し息を弾ませていた。


「着いた」


「着いたな」


「昨日より?」


「速さ?」


「うん」


「俺は測ってない」


「エルは?」


『昨日の同一区間と比較して約三パーセント短縮しています』


「速い」


「ちょっとな」


「もう一回も速くする」


 ヨアヒムがすぐ首を横へ振る。


「二回目は、速さを上げることより疲れが増えていないかを見ます」


「三パーセント」


「数字を覚えなくていい」


「三」


「忘れないな」


 少年が嬉しそうに笑った。


 窓から庭を見る。


 灰色の空。


 風で枝が揺れている。


 その時、窓ガラスへ小さな雨粒が一つ当たった。


「あ」


 少年が顔を近づける。


 もう一粒。


 その後、細かな雨が少しずつ増えていく。


「雨」


「降ったな」


「外、行けない?」


「今日は歩く練習あるから、濡れに行くのはやめとこう」


「見るのは?」


「いくらでも」


 少年は窓辺に立ったまま、しばらく雨を見ていた。


 保存槽の中にいた時、この子が雨を見たことがあるのか俺は知らない。


 聞けば分かるかもしれない。


 でも今は、昔の雨より目の前の雨を見ている。


 それでいい気がした。


 旧保養施設では、雨が石造りの屋根を細かく叩き始めていた。


 記録保管室の窓は閉じられ、湿気が紙へ影響しないよう古い除湿用魔導具だけが弱く動いている。


 フェリクスは朝食へ連れていかれた時の不満をまだ少し引きずっていた。


「私は子供ではありません」


 戻ってきた彼へ、ガルムが淡々と答える。


「知ってる」


「でしたら『食うまで戻るな』という扱いはどうかと」


「食わずに倒れる研究者を現場へ置く方が迷惑だ」


「倒れていません」


「倒れてからじゃ遅い」


 リディアが古い図面から顔を上げる。


「フェリクスさん、食べました?」


「食べましたよ」


「なら続けられますね」


「味方がいません」


「資料は味方ですよ」


「それはそうです」


 あっさり納得して椅子へ座る。


 ガルムが小さく息を吐いた。


 机の上には、中央棟大型設備盤の古い配置図と、その後の改修図が並べられていた。


 最初期の図面。


 第一次改修。


 北受所閉鎖前。


 北受所閉鎖後。


 年代の離れた四枚を比較する。


「これが最初期」


 リディアが言う。


「大型盤左下に小窓が二つあります」


「第一と第二か?」


「記号ではそう見えます」


 フェリクスが別の紙を見る。


「北受所閉鎖前の改修図では、第一側の小窓が中央監視表示へ統合されています。第二だけ残っている」


「第一夜間線が中央系へ移管された時期と近い?」


「正確な年が読めませんが、順序としては矛盾しません」


 ガルムが図面を見比べる。


「第二側は?」


「名称が変わっています。初期は『第二線状態窓』。その後『第二線休止監視窓』」


「休止が前提になった後で名前が変わった?」


「そう見えます」


「色は?」


 フェリクスが説明欄の拡大写しを見る。


「ここです」


 古い文字。


 ところどころ掠れている。


「『休止保持時、窓色……』」


 その先が薄い。


 リディアが角度を変えて見る。


「青?」


「青だと思います」


「その後は?」


「『白を帯びる場合……』」


 三人の空気が変わった。


 ガルムがすぐに言う。


「最後まで読め」


「はい」


 フェリクスも焦らない。


「『白を帯びる場合、張力……』その先が擦れています」


「復帰?」


「違うと思います。文字の頭が合いません」


 リディアが別角度から見る。


「『張力偏……』?」


「偏差かもしれません」


「なら、青白いから作動したとは限らない」


 ガルムが言う。


「はい。むしろ状態表示の色が変化する仕組みだった可能性があります」


「昨夜一秒もなかった」


「古い設備が正常動作している保証もありません」


「それに今の金属板がこの窓と同じ物かも確定してない」


「はい」


 以前より、フェリクスの「はい」が増えている。


 好奇心が減ったわけではない。


 むしろ目は輝いている。


 ただ、面白いことと、断定していいことを分けるようになった。


「次」


 ガルムが促す。


 閉鎖後の図面。


 第二線はまだ残っている。


 北へ向かう経路。


 しかし北受所の建物部分には、大きな斜線が引かれている。


「撤去予定?」


「おそらく」


「線は?」


「ここです」


 第二線は、撤去区画の手前で小さな四角へ入っている。


 三人が同時に黙った。


 四角。


 ただの図面記号だ。


 名前の分からない子供が描いた四角と似ているからといって、それだけで意味はない。


「名称は?」


 ガルムが聞く。


 フェリクスが図面の端にある凡例を探す。


「記号番号……十四」


 別紙の一覧。


「十四……」


 指を止める。


「『中間保持箱』」


「保持箱」


「はい」


「北受所がなくなった後に追加?」


「図面上ではそう見えます」


 リディアが古い図面と重ねる。


「北受所にあった休止保持器の代替でしょうか」


「可能性はある」


 フェリクスが答える。


「ただし、同じ機能かはまだ分かりません」


 ガルムが現在の建物図を見る。


「位置は?」


「現在の中央棟北壁から……」


 尺度を確認する。


「外側へ約二・七メートル」


「今は?」


「石敷き通路の下か、境界付近です」


「昨日見つけた輪金具は?」


 リディアが位置記録を出す。


 三つの図面を合わせる。


「少しずれています」


「同じ場所じゃない?」


「誤差を考えても、一メートル前後は離れている可能性があります」


「じゃあ結びつけない」


「はい」


 雨音が強くなる。


 保管室の窓を細かな水滴が流れていく。


 フェリクスは中間保持箱の記号を見つめた。


「箱ですね」


 ガルムが横目で見る。


「何が言いたい」


「何も」


「子供の絵を思い出しただろ」


「思い出すことまで禁止されるんですか?」


「断定しなければいい」


「していません」


 リディアが小さく笑う。


「私も思い出しました」


「俺もだ」


 ガルムは否定しなかった。


 三人とも同じものを思い出した。


 二本の線。


 その間の四角。


 ここ、まだねてない。


 似ている。


 あまりにも似ている。


 だからこそ、図面に書かれていることだけを記録する。


 第二線。


 中間保持箱。


 北受所閉鎖後に追加された可能性。


 現在の中央棟北壁外側、およそ二・七メートル付近に位置していた可能性。


 それ以上は書かなかった。


 昼前、その報告が俺へ届いた。


 白鴉の小さな談話室。


 窓の外では雨が続いている。


 俺の前にはアンナマリーとブラットがいた。


 今日は帰還管理所の資料を確認する予定だったが、旧保養施設からの報告を受けて、先にそちらを共有していた。


「中間保持箱……」


 アンナマリーが写しを見る。


「二本の線の間に?」


「図面では第二線の途中に一つ」


「お子様の絵は?」


「見てない。本人の物だから」


「職員の記録だけですね」


「うん。二本の線の間に四角を描いたって」


 ブラットが腕を組む。


「一致して見えるな」


「見える」


「だが、子供の四角がこれだとは言えない」


「うん」


「面倒だな」


「何が?」


「分かりそうで分からん」


「ものすごく」


 ブラットは苦笑した。


「昔のお前なら?」


「聞きに行ってたって、みんなに言われる」


「行ってたな」


「お前まで即答するなよ」


「むしろ今、白鴉にいる方が驚きだ」


「そんなに?」


「そんなにだ」


 アンナマリーまで小さく笑った。


「笑わないで」


「申し訳ありません」


「絶対申し訳ないと思ってない」


「少しだけ」


 空気が緩む。


 それからアンナマリーは写しへ視線を戻した。


「中間保持箱を調べるのですか?」


「資料では」


「現物は?」


「掘らない」


「場所が石敷きの下かもしれないのですよね」


「だから今は開けない」


「理由は?」


「壊れてるかもしれない。動いてるかもしれない。何につながってるかも分からない。それに、子供が『まだねてない』って言った四角と同じだと仮定したら、なおさら触りたくない」


「同じと確定していないからこそ、ですか」


「うん。違うなら、急いで掘る理由がない。同じなら、何が起きるか分からない」


 ブラットが頷く。


「どっちでも、今掘る理由がないわけだ」


「そう」


「珍しく綺麗な理屈だ」


「珍しくは余計」


「褒めてる」


「褒め方が悪い」


 机の上にもう一枚、帰還管理所の古い記録を置く。


「今日はこっちも少しだけ見る」


「呼出表示ですか?」


「同じ設備だとは思わない。むしろ同じじゃない可能性を探したい」


 アンナマリーが資料を開く。


 以前見つけた記録には、「呼出表示作動時も、本人申告なき場合は再確認を行わず」とあった。


 表示が動いた。


 だから帰還したい。


 そう扱ってはいなかったらしい。


 だが、その「呼出表示」が何だったのかは分かっていない。


「同じ年代の用語集がありました」


 アンナマリーが薄い冊子を出す。


「用語集?」


「帰還管理所だけのものではありません。王家医療施設間で使用された事務・設備用語の簡易一覧です」


「呼出表示ある?」


「あります」


 指で示す。


 俺とブラットが覗き込む。


「『呼出表示――保護対象者、職員、または接続設備からの呼出状態を表示するものの総称』」


 俺は二度読んだ。


「総称」


「はい」


「人が呼んだ時だけじゃない」


「そのようです」


「接続設備も含む」


「はい」


 ブラットが眉を寄せる。


「じゃあ、前の記録にあった呼出表示が、本人の意思を直接示すものじゃなかった理由も説明できるな」


「少なくとも矛盾はしない」


 俺は用語集の続きを見る。


「種類は?」


「個別名称を用いる、とあります。室内呼出、職員呼出、設備呼出、処置準備表示など」


「帰還呼出って書いてある?」


「この頁にはありません」


「じゃあ、『呼出』って言葉だけで帰還命令みたいに考えるのは違う」


「そうですね」


 少し肩の力が抜けた。


 謎が解けたわけではない。


 むしろ「呼出表示」という言葉が広すぎると分かっただけだ。


 でも、それは大事だった。


 旧保養施設の呼び出し設備。


 帰還管理所の呼出表示。


 子供の「よばない」。


 同じ「呼ぶ」という言葉があるからといって、一つの仕組みにまとめる必要はない。


「これ、ガルムたちにも共有」


「承知しました」


「旧保養施設側の資料に『呼出表示』って出ても、総称かもしれない」


「はい」


 ブラットが椅子の背へ寄りかかる。


「一個、分からないことが増えたな」


「減ったとも言える」


「どういう意味だ?」


「同じものだと思わなくてよくなった」


「……なるほど」


 分からないことが増える。


 それは悪いことばかりではない。


 間違った答えを一つ消せるなら、その分だけ安全になることもある。


 昼食を終えた頃、雨は少し弱くなった。


 三〇八号室の少年は屋根のある外廊下へ出ることを選んだ。


 完全な屋外ではない。


 片側が庭へ開いている細い回廊だ。


 雨粒が屋根の端から落ち、石畳へ小さな水の輪を作っている。


 少年は入口で一度立ち止まった。


「濡れない?」


「端まで行けば少し吹き込むかも」


「ここなら?」


「ほぼ大丈夫」


「じゃあここ」


 俺とヨアヒムは少し後ろにいる。


 少年は柱の間から庭を見る。


「音、大きい」


「雨?」


「うん」


「部屋だと窓越しだからな」


 少年は手を伸ばさない。


 ただ見ている。


「水たまり」


「できてきたな」


「前のと違う」


「場所?」


「形」


「毎回変わるよ」


「同じ場所でも?」


「地面のへこみが同じなら似るかもしれないけど、雨の量とか流れ方でも変わる」


 少年はしばらく水面を見つめた。


「なくなっても、またできる?」


「雨が降れば」


「同じじゃないのに?」


「うん」


「……変」


「そう?」


「なくなったのに、またある」


「でも前の水が戻ってきたわけじゃない」


 少年がこちらを見る。


「違う?」


「たぶん。水そのものは別かもしれないし、形も違う。でも俺たちが同じ場所を見て『水たまり』って呼んでる」


「名前が同じ?」


「そうだな」


 少年は再び庭を見る。


「アルフォンスも?」


 不意に言われた。


 すぐに答えられなかった。


 少年は俺を見ていない。


 庭を見たままだ。


「同じ名前」


「……うん」


「でも違う?」


 保存されていた七歳のアルフォンス。


 目の前の三〇八号室の少年。


 俺。


 同じ名前を名乗る存在が複数いる。


 似た顔。


 王家の血。


 記録。


 作られた記憶。


 分離。


 原体。


 何が本物で、何が偽物なのか。


 そんな言葉で片づけたくない。


「違うところはある」


「同じところも?」


「あるかもしれない」


「どっち?」


「まだ分からない」


 少年が振り向く。


「また分からない」


「最近多いな」


「困る?」


「前より困らなくなった」


「何で?」


「分からないままでも、お前がここにいるのは変わらないから」


 少年の表情が少し揺れた。


 視線が俺から水たまりへ戻る。


「ぼくが誰か分からなくても?」


「全部分からなくても」


「アルフォンスじゃなかったら?」


「今はそう呼んでほしいって言っただろ」


「うん」


「じゃあ今はアルフォンス」


「後で違ったら?」


「その時、お前がどう呼ばれたいかまた決めればいい」


 雨音が屋根を叩く。


 少年は長く黙っていた。


 それから、小さく言った。


「今日はアルフォンス」


「うん」


「明日もたぶん」


「分かった」


「絶対じゃない」


「それでいい」


 少年の肩から、ほんの少し力が抜けた。


 外廊下に出ていた時間は長くなかった。


 それでも部屋へ戻る時、少年は一度だけ振り返り、水たまりを見た。


 手紙は読まなかった。


 薬も増減しなかった。


 それでも、今日何も進まなかったとは思わなかった。


 旧保養施設では午後になっても雨が続いていた。


 名前の分からない子供は外へ出ず、生活区画の小さな机で紙を折っていた。


 朝の紙とは別の紙だ。


 職員が折り方を教えたわけではない。


 半分に折り、開く。


 また違う方向へ折る。


 うまく角が合わない。


「ずれた」


 子供が言う。


「直す?」


 職員が聞く。


 子供は少し考える。


「このまま」


「分かった」


 ずれたまま折る。


 何かを作っているようにも見えるが、形はまだ分からない。


 雨音が強くなった時、子供が一度だけ天井を見る。


「雨だね」


「うん」


 それだけ。


 線の話はしない。


 四角の話もしない。


 職員も聞かない。


 昼のおやつには小さな焼き菓子が出た。


 子供は半分食べ、残りを皿へ置いた。


「もういらない?」


「あとで」


「ここに置いておく?」


「うん」


 自分で決める。


 食べ切らなくても怒られない。


 残しても取り上げられない。


 あとで食べたいと言えば、危なくない状態なら残しておける。


 そういう小さな積み重ねの方が、今は大切だった。


 午後三時を過ぎた頃。


 中央棟から、ガルムが生活区画へ来た。


 子供へ会うためではない。


 普段の職員へ設備調査の安全状況を伝えるためだ。


「危険な変化はない。今日も中央棟と北側外庭へは近づけないままでいい」


「分かりました」


「子供の生活範囲は?」


「雨なので今日は室内です。本人も外へ行きたいとは言っていません」


「ならそのまま」


 ガルムは子供の部屋を覗かない。


 報告だけ済ませて戻ろうとする。


「ガルム」


 小さな声がした。


 足が止まる。


 子供が部屋の入口に立っていた。


 名前を覚えていたらしい。


「どうした?」


 ガルムはその場から動かない。


 子供が来てほしいと言わない限り、距離を詰めない。


「アル、こない?」


「今日は白鴉にいる」


「こない?」


「今のところ、来るとは聞いてない」


 子供は少し考える。


「そう」


「呼ぶ?」


 ガルムはそれだけ聞いた。


 子供は首を横へ振る。


「いい」


「分かった」


 ガルムは余計な理由を尋ねない。


 だが、子供は自分から続けた。


「きょう、ねてるから」


 ガルムの目がわずかに細くなる。


「そうか」


「うん」


 子供は部屋へ戻ろうとして、止まった。


「でも」


 ガルムは待つ。


「はこ、まだ」


 それだけ言って、今度こそ戻った。


 ガルムは追わなかった。


 職員も聞き返さない。


 記録にはそのまま残した。


 ――「きょう、ねてるから」。


 ――「でも、はこ、まだ」。


 箱が何なのかは書かない。


 中間保持箱だとも書かない。


 その報告を聞いたフェリクスは、珍しくすぐには何も言わなかった。


 保管室の机に広げた図面を見ている。


「言いたいことがある顔だな」


 ガルムが言う。


「あります」


「言え」


「似ています」


「何と」


「図面と本人の発言が」


「そうだな」


「ここまで似ていても聞かないんですね」


「誰に?」


「子供にです」


「聞いて何を得る?」


「中間保持箱を知っているかどうか」


「それが今日必要か?」


 フェリクスは口を閉じた。


 リディアが隣で図面を巻き直している。


「掘らない。触らない。設備を動かさない。危険な変化もない。だったら、今その答えがなくても安全は保てます」


「分かっています」


「知りたいですか?」


「非常に」


「私もです」


 リディアは少し笑った。


「でも、私たちが知りたいことを、あの子が答える義務はありません」


「はい」


「その代わり、こっちで調べられるところまで調べる」


 ガルムが言う。


「箱の資料は?」


「探します」


 フェリクスの声が戻った。


「掘るより先に、記録を全部掘ります」


「紙なら好きなだけ掘れ」


「破らない範囲で」


「当たり前だ」


 夕方。


 ようやく雨が弱くなった。


 俺は白鴉から塔へ戻る前に、町の仮支援制度の報告を一枚だけ確認した。


 今日の新規申請は四件。


 食料支援二件。


 治療費支援一件。


 短期雇用一件。


 治療費支援は必要書類の一部が不足していたが、却下されていない。


 担当者が申請者宅へ確認へ行く予定が記されている。


 俺の署名欄はない。


「やっぱり、ないな」


 隣のアンナマリーが首を傾げる。


「何がですか?」


「俺の署名」


「必要ありませんから」


「うん」


「欲しいのですか?」


「いや」


 少し考える。


「前なら、ないと不安だったかもしれない」


「主様の確認がなければ、間違った判断がなされると?」


「そこまで偉そうには思ってない……と思いたいけど」


「では?」


「知らないところで物事が決まるのが怖かったのかも」


 アンナマリーはすぐには返さなかった。


「王太子でいらした頃は、知ることと責任を負うことが、かなり近い位置に置かれていましたから」


「知ったら決める。決めたら責任を持つ」


「はい」


「でも、全部知るのは無理だよな」


「はい」


「全部決めるのも」


「はい」


「だから分ける」


「今の町は、少しずつそうなっています」


 書類を閉じる。


「寂しい?」


 アンナマリーが聞いた。


「ちょっと」


 正直に答えた。


「でも、嬉しい」


「それも両方でよろしいのでは?」


「最近、両方あるもの多いな」


「人はそういうものでは?」


「王宮にいた時、もっと教えてほしかった」


「私も当時は知りませんでした」


 互いに少し笑う。


 塔へ戻った頃には、雨はほとんど止んでいた。


 夕食後、セリーと一緒に今日の記録を確認する。


「呼出表示が総称」


「はい」


「第二線休止監視窓」


「はい」


「北受所閉鎖後に中間保持箱らしいものが追加」


「はい」


「子供は『でも、はこ、まだ』」


「はい」


「似すぎてる」


「そうですね」


「でも聞かない」


「はい」


「セリー、今日は全部『はい』だな」


「主様がご自身で整理なさっておりますので」


「じゃあ反対意見ない?」


「ございます」


「あるの?」


「本日の睡眠予定について」


「そっち?」


「昨夜、資料を読み続けて就寝が遅くなりました」


「少しだけ」


「四十二分です」


「細かい」


「本日は取り戻していただきます」


「睡眠って貯金できるの?」


「少なくとも、寝不足を連続させる理由にはなりません」


「分かったよ」


 資料を置く。


 窓の外には、雨上がりの塔の庭が見える。


 石が濡れ、月明かりをぼんやり反射していた。


「セリー」


「はい」


「箱が本当に中間保持箱だったら、どうする?」


「何をなさりたいかによります」


「正体を知りたい」


「資料を調べます」


「現物を見たい」


「外から安全に確認できる方法を検討します」


「掘らないと見えなかったら?」


「掘る必要性と危険性を比較します」


「子供が『開けないで』って言ったら?」


「安全上の緊急性がない限り、開けない理由は十分に増えるかと」


「じゃあ、『開けて』って言ったら?」


 セリーは少し考えた。


「それだけで開ける理由にはなりません」


「本人の希望でも?」


「はい。本人が危険性を知らない可能性がございます。希望を無視するのではなく、まず何が分かっていて何が分かっていないかを説明し、安全に実行できる方法を探します」


「そうだよな」


「選択権とは、危険を説明せずに選ばせることではございません」


「うん」


 俺は椅子の背へ身体を預けた。


「難しいな」


「はい」


「本人に聞くのも難しい。聞かないのも難しい」


「だからこそ、急いで正解を一つに決める必要はないのでしょう」


 その夜。


 旧保養施設の中央棟では、新しい変化は起きなかった。


 第二線休止監視窓と考えられる金属板は暗いまま。


 古い布巻き線も動かない。


 旧職員詰所の表示板も変わらない。


 地下の微弱振動が一度あったが、他の現象とは時刻が重ならなかった。


 名前の分からない子供は、夕食後に残していた焼き菓子の半分を食べた。


 紙を折ったものは結局、何の形にもならなかった。


 本人はそれを見て、


「へん」


 と笑った。


 職員が「捨てる?」と聞くと、首を横へ振る。


「とっとく」


「分かった」


 歪んだ紙も布鞄へ入った。


 木片と、線と四角を描いた紙の隣へ。


 就寝前。


 子供はいつものように水を飲んだ。


 扉は今日は少しだけ開けておくと自分で決めた。


「明かりは?」


「ちいさい」


「分かった」


 灯りを落とす。


 子供は寝台へ入る。


 布団を胸まで引き上げたところで、ふと職員を見る。


「アル、あした?」


「来るかは聞いてないよ」


「そう」


「会いたいなら伝えられるよ」


 子供はすぐには答えなかった。


 天井を見る。


 廊下を見る。


 布鞄を見る。


「……まだいい」


「分かった」


 職員はそれ以上言わない。


 子供は目を閉じる。


 数分後には呼吸がゆっくりになった。


 夜は静かに進んだ。


 そして翌朝。


 フェリクスはガルムに監視されながら朝食をきちんと食べた後、記録保管室へ戻った。


 中間保持箱の資料を探す。


 一時間ほどして、設備保全記録とは別の薄い冊子が見つかった。


 表紙には、かろうじて文字が残っている。


「夜間設備・休止手順」


 ガルムを呼ぶ。


 リディアも来る。


 三人で開く。


 最初の数頁は欠けている。


 中ほど。


 第二線。


 休止。


 張力。


 保持。


 知っている言葉が並ぶ。


「ここ」


 フェリクスが止める。


「『北受所閉鎖後の第二線休止は、中間保持箱にて行う』」


 ガルムの目が細くなる。


「やっぱり代替か」


「その可能性はかなり高いです」


「続き」


「『休止時、第一――』違います、『一端』ですね。『一端を保持箱へ収め、張力を解放』」


 リディアが息を呑む。


「線が緩む」


「はい」


「まだ続く」


 フェリクスが読む。


「『監視窓、青色安定を確認』」


 部屋が静まる。


「青白じゃない」


 ガルムが言う。


「青色です」


「昨夜は青白い」


「正常状態とは限りません」


「そもそも今の窓が同じものか確定してない」


「はい」


 次の行。


「『休止解除は――』」


 文字が薄い。


 三人で角度を変える。


「『北端確認後』?」


 リディアが読む。


「そのように見えます」


「次」


「『中間保持箱を……』」


 欠損。


 その後に残っていた文字を見て、フェリクスが止まった。


「何だ?」


 ガルムが聞く。


「待ってください」


 紙を傷めないよう、光の角度だけを変える。


 古い文字。


 短い一文。


「『箱側表示が消えるまで、第二線を復帰させないこと』」


 誰もすぐには話さなかった。


 ガルムの視線が冊子から上がる。


「箱側表示」


「はい」


「消えるまで、起こすな」


「正確には『復帰させない』です」


「分かってる」


 リディアは何も言わず、記録用紙へ原文だけを書き写した。


 子供の言葉が、三人の頭には浮かんでいる。


 まだねてない。


 はこ、まだ。


 そして以前、青白い光を見ていないはずの子供が途中まで口にした言葉。


 ――きえたら。


 けれど、誰もその先を補わなかった。


 冊子にも、子供の言葉にも。


 ガルムが最初に口を開く。


「アルへ送れ」


「はい」


「ただし原文だけだ」


 フェリクスが頷く。


「『子供の発言と一致』とは書きません」


「ああ」


「でも」


「何だ」


「ここまで来ると、聞きたくはなりますね」


 ガルムはしばらく黙っていた。


「俺もだ」


 それだけ答えた。


 塔で朝食を終えた俺のところへ、その記録が届いた。


 夜間設備・休止手順。


 北受所閉鎖後の第二線休止は、中間保持箱で行う。


 一端を保持箱へ収め、張力を解放。


 監視窓、青色安定を確認。


 休止解除は北端確認後。


 そして。


 ――箱側表示が消えるまで、第二線を復帰させないこと。


 俺は最後の一文を何度も読んだ。


「主様」


 セリーが向かいにいる。


「うん」


「お顔が、旧保養施設へ今すぐ向かいたいと申しております」


「顔って便利だな」


「長く拝見しておりますので」


「行きたい」


「はい」


「子供の『きえたら』を思い出した」


「私もです」


「『はこ、まだ』も」


「はい」


「『まだねてない』も」


「はい」


「聞いたら、何か分かるかもしれない」


「そうかもしれません」


 俺は記録を机へ置いた。


「でも、まだ聞かない」


 言葉にすると、胸の中に小さな抵抗が残った。


 知りたい。


 本当に知りたい。


 けれど、今見つかったのは、子供から答えを引き出す理由ではない。


 むしろ逆だ。


 設備側から、ここまで調べられた。


「まず、箱側表示って何なのか調べる」


「はい」


「中間保持箱が今も残ってるのかも、今のところ分からない」


「はい」


「中央棟で光った監視窓と、箱側表示は別かもしれない」


「はい」


「青色安定と青白い一瞬の光も同じ状態じゃない」


「はい」


「子供の四角が箱だとも、まだ決めない」


「はい」


 そこで俺は息を吐いた。


「……ただ」


「はい」


「もし本当に同じなら」


 窓の外では、昨夜の雨で濡れた葉が朝日を反射している。


「俺たちが勝手に線を引っ張らなくてよかった」


 セリーはすぐには答えなかった。


 ほんの少しだけ間を置いてから、静かに頷く。


「はい」


 古い手順書には、線を復帰させるなと書かれていた。


 何が起きるのかは、まだ分からない。


 何を待っていたのかも分からない。


 箱側表示が何を示していたのかも分からない。


 けれど少なくとも、休止している線には、休止したまま待つべき時があった。


 俺たちは知らずに、その時間を守っていた。


 名前の分からない子供が「寝ている」と呼んだものを、好奇心だけで起こさなかったから。


 そして今も、もう一つだけ、眠っていないらしいものが残っている。


 だから次に探すべきなのは、子供へ答えを求める言葉ではない。


 古い紙の中に残された、「箱側表示」が何を待っていたのかという記録だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。