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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第71話 眠っている線を起こさずに、どこで眠らせたのかを探すことにしました


 白鴉療養所へ着いた頃には、朝の薄い雲が東へ流れ、建物の窓から差し込む光も少し明るくなっていた。


 玄関を入ると、薬草を煮る匂いと焼いたパンの香りが混じっている。廊下の奥では朝食を終えた患者たちがそれぞれの部屋へ戻り始めており、職員に付き添われてゆっくり歩く者もいれば、窓際で足を止めて外を眺める者もいた。


 俺は外套を脱ぎながら、エルへ声をかけた。


「旧保養施設から追加は?」


『中央棟の旧布巻き線について、外観上の新たな変化はありません。夜間に確認された埃の途切れについては、前日の記録写真との比較を開始しています』


「触ってない?」


『はい』


「フェリクスも?」


『はい』


「本当に?」


『ガルム隊長が同席しています』


「なら大丈夫か」


『フェリクス様から抗議が届いております』


「後で聞く」


 玄関近くにいた職員が、笑いを堪えるように口元を緩めた。


 最近、フェリクスの名前が出るだけでこういう反応をされることが増えた気がする。本人が知ったら「研究者への不当な印象操作です」と本気で抗議しそうだが、工具箱を抱えて古い設備へ向かおうとした翌朝なので、俺には擁護しにくかった。


「三〇八号室は?」


『起床後の状態確認を終えています。頭痛なし、吐き気なし。身体の重さ一。怖さ一です』


「薬を減らした影響は?」


『現時点で明確な悪化はありません』


「今日の薬は?」


『まだ決めていません』


「本人が?」


『はい。「朝ご飯のあとで決める」と』


「分かった」


 階段へ向かいかけたところで、廊下の向こうから小さな足音が聞こえた。


 保存されていた幼いアルフォンスが、ヨアヒムと並んで歩いてくる。少年の歩幅は以前より少し安定しているが、まだ長く歩けば疲れる。ヨアヒムもそれを分かっているので、手を引くのではなく、転びそうになった時だけ支えられる距離を保っていた。


 少年は俺を見つけると、足を少し速めた。


「アル」


「おはよう。走るなよ」


「走ってない」


「今、ちょっと速くなった」


「歩いた」


「じゃあ速く歩いた」


 少年は俺の前で止まり、少しだけ息を整えた。言い返そうとしたらしいが、自分でも息が上がっていることに気づいたのか、唇を尖らせる。


「今日は何してた?」


「歩く」


「見れば分かる」


「練習」


「どこまで?」


 少年が廊下の奥を指す。


「窓まで行って、戻った」


「結構あるな」


「二回」


「頑張ったじゃん」


「三回でもいいって言った」


 ヨアヒムを見ると、彼は苦笑した。


「私が二回で休憩にしました。本人はまだ行けると言っていますが、昨日より距離を少し伸ばしていますので」


「じゃあ二回でいい」


「アルもそう言う?」


「俺なら一回増やして、明日動けなくなる可能性がある」


「だめじゃん」


「最近そこを怒られるんだよ」


 少年が少し考えてから、俺の横を見た。


「セリー?」


「主にセリー」


「じゃあ、二回」


 納得したらしい。


 それだけの会話なのに、胸の奥が少し温かくなる。


 保存槽の中で、成長することも、外へ出ることもできなかった子供が、今は「もう一回歩きたい」と言っている。だからといって、本人が望むなら限界まで歩かせればいいわけではない。


 やりたいことを止める時にも、理由がいる。


 守るという言葉で全部を奪わないために。


「休んだら何する?」


「パン」


「また作るの?」


「今日は食べる」


「昨日も食べてたじゃん」


「今日も食べる」


「それは大事だ」


 少年は満足そうに頷き、ヨアヒムと休憩場所へ向かった。


 俺はその後ろ姿を少しだけ見送ってから、三〇八号室へ向かった。


 扉を叩く。


「アル?」


「そう」


「入っていい」


 中へ入ると、少年は寝台ではなく卓の前に座っていた。


 窓は閉じているが、カーテンが半分だけ開いている。朝の光が卓上へ斜めに入り、赤い布に包まれた手紙と、何枚かの紙を照らしていた。


 父からとされる手紙は、今日も包まれたままだ。


 代わりに、少年は絵を広げていた。


 道。


 途中にある、疲れた者が休むための小さな場所。


 蓋のついた箱。


 箱の中にある、呼ばない音。


 そして昨日描き足した四角。


「おはよう」


「おはよう」


「調子は?」


「普通」


「普通って便利だな」


「アルも使う」


「使う」


 俺は向かいの椅子へ座った。


「薬、どうする?」


 少年はすぐには答えなかった。


 炭筆を指の間で転がしながら、卓の上の薬容器を見る。


「昨日、減らした」


「うん」


「変じゃなかった」


「今のところは」


「今日も減らせる?」


「安全にできる範囲があるかはセリーとヨアヒムに確認する」


「あるなら?」


「お前が決める」


「アルは?」


「俺が決めるのは、減らしてもいい範囲まで」


「昨日と同じ」


「そう」


 少年は薬容器を見たまま、しばらく黙っていた。


「同じにする」


「昨日減らした量のまま?」


「うん」


「もう一回減らさない?」


「今日はしない」


「分かった」


「遅い?」


 声が少しだけ小さくなった。


 俺はすぐに否定しそうになって、やめる。


 少年が聞きたいのは、たぶん「正しい進み方」ではない。


「何と比べて?」


「なくすまで」


「今日もう一回減らせば、なくなる日は近くなるかもしれない」


「うん」


「でも、昨日減らした後の身体が今日どうなるかは、まだ全部分からない」


「うん」


「だから同じ量で過ごしてみるのも、ちゃんと進んでると思う」


 少年は薬容器から俺へ視線を移した。


「止まってない?」


「止まるのが悪いとも思わないけど、今日は止まってるというより確かめてる感じかな」


「何を?」


「昨日決めた量で、自分がどう過ごせるか」


 少年は少し考えた。


「じゃあ、今日これ」


「うん」


「明日は明日」


「そうしよう」


 それで薬の話は終わった。


 セリーへ伝えれば、昨日と同じ量が用意される。青と紫の薬は引き続き使わない。


 少年は炭筆を持ち直した。


「外は?」


「あとで」


「手紙は?」


「読まない」


「今日は決まるの早いな」


「これは昨日から決めてた」


「じゃあ何で今まで言わなかったの?」


「聞かれてない」


「確かに」


 少年が少し得意そうな顔をする。


 俺は絵を見る。


「それ、昨日の四角?」


「うん」


「中身決まった?」


「まだ」


「線の先にあるの?」


「うん」


「道?」


「違う」


「じゃあ聞かない」


「聞いてる」


「今のは確認」


「同じ」


「厳しいな」


 少年が笑った。


 その笑いが消える前に、廊下から小さな足音が近づいてきた。


 扉が叩かれる。


「どうぞ」


 入ってきたのはミナだった。


 手には、色の違う布を縫い合わせた小さな袋のようなものを持っている。青、茶、薄い黄色。形は少し歪んでいるが、口の部分には紐まで通してあった。


「できた?」


 俺が聞くと、ミナは一瞬だけ袋を胸元へ隠した。


「まだ」


「見えたけど」


「まだなの」


「分かった」


 三〇八号室の少年がミナの手元を見る。


「袋?」


「まだ決めてない」


「形、袋」


「……形だけ」


 俺は吹き出しそうになった。


 少年も俺を見る。


「同じ」


「お前ら気が合うんじゃない?」


「違う」


「違う」


 二人の声が重なった。


 今度は我慢できなかった。


「何で笑うの」


「いや、何でもない」


 ミナがむっとした顔をする。


 三〇八号室の少年も少し不満そうだ。


 それでも部屋の空気は軽かった。


 少し前まで、この場所でこんなやり取りができるとは思っていなかった。


 ミナは窓際の椅子へ座り、袋の続きを縫い始める。


 三〇八号室の少年は絵を描く。


 俺は何もしない。


 それでも、ここにいていい時間だった。


 しばらくして、エルから通信が入った。


『主様。旧保養施設の旧線について、記録写真の比較結果が出ました』


 俺は二人を見る。


「仕事の話、聞こえてもいい?」


 ミナは少し迷ってから頷く。


 三〇八号室の少年も「いい」と答えた。


「お願い」


『北壁方向へ延びる旧布巻き線について、露出部分の位置に変化がある可能性が高いと判断されました』


「埃だけじゃなく?」


『はい。固定された壁面の傷、支持金具、線の縁を基準に前日写真と重ねたところ、線の下縁が最大で約二ミリ低下しています』


「二ミリ」


『撮影角度の誤差を補正しても、完全には一致しません』


「金具が外れた?」


『外観上は外れていません』


「線が切れた?」


『確認できません』


「いつ動いたかは?」


『夜間の擦過音が記録された前後である可能性がありますが、写真が連続撮影ではないため確定できません』


「危険?」


『現時点で発熱、魔力増大、壁面亀裂、異臭、煙、放電、周辺設備の作動はありません』


「なら触らない」


『はい』


「封止記録は?」


『関連する可能性がある設備台帳が一冊見つかっています』


 俺は少し姿勢を正した。


「もう読んだ?」


『ガルム隊長、リディア様、フェリクス様が確認中です』


「原本?」


『はい』


「持ち出してない?」


『記録保管室内で閲覧しています』


「状態は?」


『一部劣化していますが、読める箇所があります』


「何が書いてある?」


『表題は「夜間受信設備保全記録」と読めます』


 三〇八号室の少年が炭筆を止めた。


 ミナも縫う手を少しだけ止める。


 俺は二人の反応を見てから、通信を続けた。


「受信?」


『はい。「受所」ではなく「受信設備」という語が使用されています』


「北受所は?」


『記載があります。ただし、人が常駐する受付のような意味か、設備名称としての受所かはまだ判別できません』


「夜間線は?」


『あります』


「同じ名前?」


『「第一夜間線」「第二夜間線」という記載があります』


「二本?」


『少なくとも記録上は』


 俺は眉を寄せた。


「今見えてる古い線は一本」


『はい』


「もう一本は?」


『不明です』


「壁の中か、撤去済みか」


『その可能性があります』


「続けて」


『保全記録には、第一夜間線について「常時張力保持」、第二夜間線について「休止時弛緩」と読める箇所があります』


「……張力」


 昨夜の擦過音。


 線が二ミリほど下がった可能性。


 そこへ簡単に結びつけたくなる。


「今見えてるのが第一か第二か分かる?」


『分かりません』


「じゃあ保留」


『はい』


「休止時弛緩って、使わない時は緩める?」


『文字通りならその可能性があります。ただし、どの程度の弛緩を指すのか、操作方法が何かは不明です』


「『寝る』とは書いてない?」


『ありません』


「うん」


 それは大事だった。


 子供の「線が寝ている」という言葉と、記録の「休止時弛緩」。


 似たものを感じる。


 だからといって、同じ意味にしてはいけない。


「封止の記録は?」


『後半にあります。ただし、まだ全文を確認できていません』


「急がなくていい。読めるところから」


『承知しました』


 通信を切る。


 三〇八号室の少年が俺を見る。


「線、緩んだ?」


「そう見えるかもしれないってだけ」


「二ミリ」


「聞いてたな」


「小さい?」


「かなり小さい」


「でも動いた?」


「動いた可能性は高くなった。でも、何で動いたかは分からない」


「寝てるから?」


「それも分からない」


 少年は自分の絵を見る。


「寝てる線って何?」


「俺も知りたい」


「子供が言った?」


「うん」


「聞けば?」


「今すぐ聞かなくても危なくないから」


「知りたいのに?」


「ものすごく」


「我慢してる?」


「ものすごく」


 少年が少し笑う。


「大変」


「大変だよ」


「アル、すぐ聞きそう」


「失礼だな」


「聞かないの?」


「聞かない」


「じゃあ、ちょっと違う」


「何が?」


「前のアル」


 思わず黙った。


「前の俺?」


「最初、いっぱい聞いた」


「お前に?」


「うん」


 確かにそうだった。


 三〇八号室で初めて話した頃、俺は知りたいことが多すぎた。


 名前。


 記憶。


 誰に何をされたか。


 何を信じているか。


 その一つ一つが必要だと思っていた。


 必要なこともあった。


 でも、全部がその瞬間に必要だったわけではない。


「嫌だった?」


「分かんない」


 少年は炭筆を置いた。


「でも、今は待つ」


「うん」


「何で?」


「待てるって分かったからかな」


「何を?」


「答えが出るまで」


 少年は少し考えてから、赤い布に包まれた手紙へ目を向けた。


「これも?」


「それはお前が読むまで」


「読まなかったら?」


「読まないままでもいい」


「ずっと?」


「お前の物なら」


 少年の指が、赤い布の端へ少しだけ近づく。


 触れない。


「……今日は読まない」


「うん」


 今度の返事は、それだけにした。


 昼前。


 旧保養施設では、古い設備台帳の確認が続いていた。


 保管室の窓は小さく、昼でも薄暗い。石壁には湿気が染み込み、棚に並ぶ帳面の背表紙は茶色く変色している。フェリクスは机の上へ布を敷き、その上に台帳を置いていた。


 今日は工具箱を持っていない。


 正確には、持ち込ませてもらえなかった。


「ページを押さえるだけでも器具があった方が安全なんですが」


 フェリクスが不満そうに言う。


 向かいのガルムは腕を組んでいる。


「手で読める範囲だけ読め」


「紙の保存には適切な支持具が必要です」


「それは文書保全用か?」


「もちろんです」


「昨日持ってた細い金属棒は?」


「設備確認用です」


「却下だ」


「今日は使いませんよ」


「なら必要ない」


 リディアが二人の間でため息をついた。


「続けますよ。紙が傷む前に」


「はい」


 フェリクスも切り替える。


 夜間受信設備保全記録。


 日付の多くは擦れている。


 初期の記録では、第一夜間線と第二夜間線の両方が使われていたらしい。


 第一夜間線。


 常時張力保持。


 北受所。


 中央棟。


 複数の部屋番号。


 第二夜間線。


 休止時弛緩。


 別の区画名。


 途中から記載が減る。


「ここ」


 リディアが指先を近づける。


 触れない位置で止める。


「『第二夜間線、対象区画縮小につき常用停止』」


「その下は?」


「『線端は……』」


 文字が滲んでいる。


 フェリクスが顔を近づける。


「『線端は北受所内、休止位置にて保持』でしょうか」


「保持の前が違うように見える」


「『固定』?」


「それなら文字数が合いません」


 ガルムは二人の横から見る。


「読めないなら読めないで残せ」


「はい」


 ページを進める。


 数枚後。


 フェリクスの表情が変わった。


「ありました」


「何が?」


「閉鎖時の記録です」


 ガルムも身を寄せる。


 紙の下半分が破れている。


 それでも数行は読める。


「『夜間監視統合に伴い北受所を閉鎖』」


「前に見つかった記録と同じだな」


「はい。続きがあります」


 フェリクスは声を少し落とした。


「『第一夜間線は中央系へ移管』」


 リディアが眉を寄せる。


「第一は移管?」


「そのようです」


「じゃあ、切断せず封止された旧線は第二?」


「待ってください」


 フェリクスが次の行を見る。


「『第二夜間線は休止。復帰必要時に備え、張力を抜いた状態で北端を封止』」


 部屋が静かになった。


 ガルムが先に口を開く。


「もう一回」


「第二夜間線は休止。復帰必要時に備え、張力を抜いた状態で北端を封止」


「北端」


「はい」


「今見えてる線が第二だとは?」


「まだ言えません」


 フェリクス自身がそう答えた。


 ガルムが少しだけ眉を上げる。


「今日は慎重だな」


「私だって学習します」


「工具箱は?」


「それは別問題です」


 リディアが苦笑しながら記録を続ける。


「その下」


「破損しています」


「一部だけ読める」


 紙の裂け目の上に、数語が残っている。


「『……休止表示……』」


「表示?」


「その次がありません」


「他は?」


「『張力復帰……北……確認……』」


 それ以上は読めなかった。


 フェリクスはしばらく紙を見ていたが、無理に文字を補わなかった。


「ここまでですね」


「記録しろ」


「はい」


「それと、この情報だけで線を引っ張る案は却下だ」


「まだ何も言っていません」


「顔が言ってる」


「研究者の顔に対する偏見が深刻です」


「昨日までの積み重ねだ」


 保管室の外で待機していた兵士が、とうとう小さく笑った。


 フェリクスが振り返る。


「今、笑いました?」


「いえ」


「笑いましたよね?」


「記録には残しません」


 今度はリディアまで笑った。


 張りつめた調査の中に、ほんの少しだけ空気が緩む。


 それでも台帳は大切に閉じられた。


 そこから先を急いで開く者はいなかった。


 昼過ぎ、俺は白鴉の食堂でその報告を受けた。


 今日の昼食は白身魚の煮込みとパンだった。


 三〇八号室の少年も同じ卓にいる。


 ミナは少し離れたところで食べている。


 豆を数える老人は今日は戻ってきていた。


「五つ」


 老人が自分の皿を見て言う。


 三〇八号室の少年がすぐ反応する。


「昨日は?」


「昨日は静かな部屋で食った」


「豆は?」


「四つだったと思う」


「大きさは?」


 老人は目を細めた。


「お前さん、そこまで気にするのか」


「同じ数でも大きさ違う」


「今日は大きいぞ」


「本当?」


「たぶんな」


「測ってない?」


「飯の豆を測る奴がいるか」


 三〇八号室の少年が俺を見る。


「アルなら?」


「腹減ってたら先に食う」


「じゃあ分かんない」


「分からなくて困る?」


「ちょっと」


 老人が笑う。


「明日から定規でも持ってくるか」


「食べ物に定規つけるの?」


「それは嫌だな」


「じゃあ駄目」


「厳しいなあ」


 周囲の患者たちも笑う。


 俺はその中で、エルから共有された閉鎖記録を読み直した。


 第一夜間線は中央系へ移管。


 第二夜間線は休止。


 復帰必要時に備え、張力を抜いた状態で北端を封止。


 休止表示。


 張力復帰。


 北。


 確認。


 断片。


 まだ断片だ。


「アル」


「ん?」


「魚冷める」


 三〇八号室の少年に言われた。


「最近みんなセリーみたいになってない?」


「食べないから」


「食べるよ」


「止まってた」


「考えてた」


「昨日も」


「よく見てるな」


「見える」


 魚を食べる。


 少し冷めていた。


 食事を終えてから、俺はガルムへ通信をつないだ。


「記録見た」


『どう思う』


「今見えてる線が第二夜間線なら、子供の『寝てる』と似て見える」


『ああ』


「でも、まだ『なら』だ」


『そうだな』


「第一夜間線は中央系へ移管されてる」


『今の中央設備盤には複数時期の線が入っている。どれが第一由来かも分からん』


「第二が北端で封止」


『封止位置はまだ不明だ』


「現在の北壁の中かもしれない」


『可能性はある』


「撤去された北受所側かもしれない」


『それもある』


「外の基礎金具も関係あるか分からない」


『ああ』


「じゃあ今日はこれ以上触らない」


『元からそのつもりだ』


「フェリクスは?」


『不満そうだ』


 遠くから声が入る。


『不満ではありません! 追加資料の検索を提案しているだけです!』


「何探すの?」


『設備図です。保全記録に第一・第二の区別があるなら、線種記号が別の可能性があります。現存する線の被覆や支持金具を、接触せずに図面と比較できます』


「それはいい」


『ほら!』


 ガルムの低い声が続く。


『ただし、図面だけだ』


『分かっています』


「今日はそれで」


『了解』


 通信を切る。


 俺は廊下へ出た。


 午後の白鴉は静かだった。


 中庭から鳥の声が聞こえる。


 窓の外では薄い雲が流れ、日差しが出たり隠れたりしている。誰かが干した白い布が風に揺れ、その影が廊下の床をゆっくり横切っていた。


 俺は少し迷ってから、保存されていた幼いアルフォンスのところへ向かった。


 少年は休憩室でパンを食べていた。


 朝言っていた通り、本当に食べている。


「おいしい?」


「うん」


「何つけてる?」


「赤いの」


「やっぱりジャムか」


「アルも?」


「もらえるなら」


 少年は自分の皿を見る。


 残りは一切れ。


 俺を見る。


 また皿を見る。


「……半分」


「くれるの?」


「半分だけ」


「十分」


 ヨアヒムが小さなナイフでパンを分ける。


 赤いジャムのついた半分を受け取る。


「ありがとう」


「全部はだめ」


「分かってるよ」


 一口食べる。


 甘い。


「おいしい」


「ぼくの」


「半分くれたじゃん」


「残りはぼくの」


「取らないって」


 少年は残った半分を両手で持った。


 俺が奪うとでも思っているような持ち方に、ヨアヒムが笑う。


 こんなやり取りも、少しずつ増えている。


 王家。


 精神安定化計画。


 分離体。


 原体。


 そんな言葉を知らなくても過ごせる時間が、この子には必要なのだと思う。


 もちろん、いつか知らなければならないことはあるかもしれない。


 でも、ジャムのついたパンを誰にどれだけ分けるか決めることだって、この子自身の人生だ。


「午後も歩く?」


「一回」


「朝二回だったから?」


「うん」


「自分で減らした?」


「ヨアヒムが言った」


「本人にも聞きましたよ」


 ヨアヒムが補足する。


「疲れは?」


「ちょっと」


「なら一回でいいな」


「明日は?」


「明日の身体に聞こう」


「身体しゃべらない」


「痛いとか重いとかで教えてくれる」


「それ、しゃべる?」


「広い意味では」


「変」


「俺も今言ってて思った」


 少年が笑う。


 午後の時間がゆっくり流れる。


 旧保養施設の謎を調べている最中なのに、俺はパンを食べていた。


 以前なら、それを無駄な時間だと思ったかもしれない。


 今は違う。


 こっちも必要な時間だ。


 旧保養施設では、その頃、名前の分からない子供が庭にいた。


 今日は風が弱い。


 子供は布鞄を肩へかけ、地面へしゃがみ込んでいる。


 昨日集めた葉とは違う、細い枝を拾った。


 普段の職員は少し離れたところにいる。


「それ、持って帰る?」


 子供は枝を見る。


「まだ」


「分かった」


 枝を地面へ置く。


 別の葉を拾う。


 並べる。


 しばらくすると、中央棟側から二人の職員が歩いてきた。


 設備担当だ。


 子供のいる庭を通る予定ではなかったが、遠回りの廊下が清掃中で、一時的に外側通路を使っていた。


 二人とも子供へ近づかない。


 設備の話もしない。


 ただ通り過ぎる。


 そのうち一人が、丸めた古い図面を抱えていた。


 子供の手が止まる。


 顔を上げる。


 図面を持つ職員を見る。


 怖がった様子ではない。


 逃げない。


 鞄にも触れない。


 ただ、見ている。


 職員たちはそのまま建物へ入る。


 子供はしばらく扉を見たあと、地面の葉へ視線を戻した。


「せん」


 普段の職員は急いで聞き返さない。


 子供が続けるか待つ。


「ふたつ」


 葉を二枚取る。


 地面へ並べる。


 一本目はまっすぐ。


 二本目は少し曲げる。


 もちろん葉なので、正確な線ではない。


「二つあるの?」


 職員は、子供が置いたものについて尋ねる形にした。


 子供は頷いた。


「こっち」


 まっすぐ置いた葉を指す。


「おきてた」


 次に、曲げた方を見る。


「こっち、ねてる」


 職員は息を呑みそうになった。


 けれど表情を大きく変えない。


「そうなんだね」


「うん」


 子供は曲げた葉の端を指で少し押す。


「ねると、ゆるい」


 職員はそこで質問を増やさなかった。


 ただ記録する。


 子供は葉から手を離した。


 風が吹く。


 曲げて置いた方の葉が少し動いた。


「あ」


 子供が手を伸ばす。


 でも、押さえない。


 葉は数センチ動いて止まった。


「うごいた」


「うん」


「でも、ねてる」


 子供はそう言うと、今度はさっき拾った細い枝を手に取った。


 もう線の話はしなかった。


 その報告が届いたのは、俺が保存されていたアルフォンスの歩行練習を見終えた後だった。


『主様。名前の分からない子供から、自発発言がありました』


「体調は?」


『変化ありません』


「怖がってる?」


『いいえ』


「何か設備が動いた?」


『現時点では確認されていません』


「じゃあ聞く」


 エルが発言をそのまま読み上げる。


「……二つ」


『はい』


「一つは起きてた。一つは寝てる」


『はい』


「寝ると緩い」


『そのままの発言です』


 俺は廊下の窓際で立ち止まった。


 保全記録。


 第一夜間線。


 常時張力保持。


 第二夜間線。


 休止時弛緩。


 そして子供は、二つの線を葉で表し、一つを「起きてた」、もう一つを「寝てる」「寝ると緩い」と言った。


 似すぎている。


 偶然で済ませるには、また一つ近づいた。


 でも、まだ決められない。


「その前に、図面を持った職員を見てるんだよな」


『はい』


「図面の中身は見えた?」


『丸めた状態です。表面に文字や線が見えていた可能性はありますが、距離があり、内容を読み取れたとは考えにくいです』


「職員同士で夜間線の話は?」


『子供の近くではしていません』


「じゃあ……」


 言いかけて止める。


 じゃあ、どうして知っている。


 その質問は今、俺が口にする必要がない。


「記録だけ」


『はい』


「ガルムには?」


『共有します』


「フェリクスにも。ただし、これを理由に線へ触らない」


『了解しました』


「絶対に『子供が第二夜間線を知ってる』って書かないで」


『記録しません』


「『寝ると緩い』まで」


『はい』


 通信を終える。


 窓の外で白い布が揺れている。


 俺はその動きを見ながら、しばらく考えた。


 もし子供が本当に昔の設備を知っているなら。


 どこで知った。


 誰から聞いた。


 使ったことがあるのか。


 使われる側だったのか。


 それとも、まったく違う何かを話しているだけなのか。


 聞けば、何か答えるかもしれない。


 でも答えられないかもしれない。


 答えたくないかもしれない。


 そして、俺たちは今、別の方法で調べられる。


「アルフォンス様」


 アンナマリーの声がした。


 振り返る。


 彼女は書類を数枚抱えていた。


「難しいお顔をなさっています」


「最近それ言われる」


「実際になさっていますから」


「旧保養施設」


「何かありましたか?」


「子供が、線は二つあって、一つは起きてた、一つは寝てる、寝ると緩いって」


 アンナマリーの表情が変わる。


「それは……」


「記録と似てる」


「はい」


「聞きたい」


「でしょうね」


「でも聞かない」


 彼女は少しだけ目を細めた。


「以前でしたら、すでに馬車へ乗っていたかもしれませんね」


「そんなに?」


「はい」


「即答だな」


「ブラット様も同じことをおっしゃると思います」


「聞かなくていい」


「では聞きません」


 アンナマリーは俺の隣へ立つ。


「別の方法で調べられるのですね?」


「設備図を探してる」


「でしたら、まずはそちらでしょうか」


「うん」


「お子様が話したくなれば、また話すかもしれません」


「話さないかもしれない」


「はい」


「それでも、守れるなら」


「待てます」


 短い言葉だった。


 でも、その「待てます」は俺一人へ向けたものではない気がした。


 俺たち全員が、少しずつ待てるようになっている。


 夕方近く。


 旧保養施設の記録保管室で、フェリクスが別の筒を見つけた。


 古い図面が数枚入っている。


 外側には、かすれた文字。


「中央棟夜間設備」


 ガルムが横に立つ。


「開けられる状態か?」


「紙の端は傷んでいますが、慎重に広げれば」


「一枚ずつ」


「はい」


 布を広げる。


 リディアも来る。


 三人で一枚目を見る。


 中央棟。


 北側へ伸びる旧区画。


 今は存在しない細長い部屋。


 北受所。


 そこへ二本の線が描かれていた。


「……本当に二本だ」


 リディアが呟く。


 一本は中央棟の複数区画から集まり、北受所へ入る。


 もう一本は経路が違う。


 中央棟を通ってはいるが、中継盤を避けるように北へ抜けている。


 フェリクスが顔を近づける。


「記号があります」


「触るなよ」


「触りません」


 線の横。


 小さな記号。


 第一。


 第二。


 文字は古いが読める。


「中継盤を避けてる方が……第二」


 ガルムの声が低くなる。


「今見えている線と経路が似ているな」


「かなり」


 リディアが現在図面を横へ置く。


 基準点を合わせる。


 完全には重ならない。


 増改築で壁位置も変わっている。


 それでも、中央設備盤の背後を通り、北壁方向へ抜ける経路は一致していた。


「同一線だと言えるか?」


 ガルムが聞く。


 フェリクスはすぐには答えなかった。


「可能性は高くなりました。ただ、二千年……ではありませんが、かなり長期間の改修があります。途中で線が交換されている可能性もあります」


「つまり?」


「現在見えている布巻き線が、第二夜間線の経路を引き継いだ線である可能性は高い。しかし、当時の線そのものかは分かりません」


「それでいい」


 次の図面。


 北受所内部。


 二本の線が別々の機構へ繋がっている。


 第一夜間線は大きな表示盤へ。


 第二夜間線は、もっと小さな機構へ。


「これは?」


 リディアが指す。


 小さな箱。


 その横に、文字がある。


 フェリクスが読む。


「『休止保持器』」


 ガルムが眉を寄せる。


「保持器」


「第二夜間線の線端に接続されています」


「北端を封止って、この機械ごと?」


「まだ分かりません」


 図面の下に説明欄がある。


 ただし一部が破れている。


「読めるところだけ」


「はい」


 フェリクスがゆっくり追う。


「『第二夜間線休止時は、線張力を……』ここ欠損。『保持器へ……』欠損。『表示窓……青……』」


 三人が止まった。


「青?」


 リディアが聞く。


「そう見えます」


「もう一度」


「『表示窓』の後に欠損、その後『青』。続きは破れています」


 ガルムがすぐ言う。


「旧職員詰所の青白い光と結びつけるな」


「分かっています」


「本当に?」


「さすがに分かっています」


 フェリクスは少し不満そうだったが、視線は真剣だった。


「そもそも場所が違います。これは北受所内の第二夜間線休止保持器です。旧職員詰所の表示板とは、現時点で接続関係がありません」


「そうだ」


「ただ、青色系の表示を使う設備がこの施設に存在した可能性は――」


「そこまでならいい」


 次の行。


 さらに欠損が多い。


「『復帰時……保持器……解除……張力……』」


「解除すると張る?」


「そう読めなくはありません」


「断定するな」


「はい」


「今の線が二ミリ下がったのは?」


「張力が抜ける方向には見えます」


「それも断定するな」


「分かっています」


 フェリクスがとうとう笑った。


「隊長、今日は私より慎重ですね」


「お前がいるからだ」


「私の存在が安全性を高めています」


「反面教師としてな」


 リディアが図面を記録しながら首を振る。


 その日の調査はそこで止められた。


 休止保持器が何だったのか。


 青という文字が何を示すのか。


 復帰時に何を解除するのか。


 まだ欠けている。


 けれど、第二夜間線が単なる廃線ではなく、「休止」という状態を前提に残される設備だった可能性はかなり高くなった。


 その報告が俺へ届いた時、俺は塔へ戻る馬車の中だった。


 夕方の空が赤くなり始めている。


 森の影が道へ長く伸びていた。


「第二の経路と似てる」


『はい』


「休止保持器」


『はい』


「表示窓と青」


『はい』


「でも場所は北受所」


『はい』


「旧職員詰所の青白い光と同じとは言えない」


『はい』


「第二夜間線は休止時に張力を抜く可能性」


『記録断片からはその可能性があります』


「子供は『寝ると緩い』」


『はい』


「……似てるな」


『はい』


 エルは否定しなかった。


 否定できないくらい、似ている。


「でも、まだ本人には聞かない」


『承知しました』


「明日は休止保持器の資料を探す」


『はい』


「北受所の跡を開けない」


『はい』


「線も触らない」


『はい』


「今見えてる線が本当に第二か、記号とか被覆とか、非接触で比べられるものだけ」


『ガルム隊長へ共有します』


 少し黙る。


「エル」


『はい』


「もし、子供が本当にこの設備を知ってるとして」


『はい』


「本人が話したくないんじゃなくて、言葉にできないだけだったら?」


『可能性はあります』


「待つだけでいいのかな」


『待つことと、何もしないことは同じではありません』


「うん」


『本人が話しやすい環境を維持する。日常を守る。本人の言葉を勝手に意味づけしない。設備側の情報を別経路から集める。危険がないか観察する。それらはすでに行われています』


「もし危険が近づいたら?」


『その時点で、必要な範囲の質問や保護行動を検討できます』


「今は?」


『現時点では、直ちに本人へ回答を求めなければ安全を維持できない状況ではありません』


「そっか」


 窓の外を見る。


 赤い空の下、木々がゆっくり流れていく。


 知りたい。


 それは変わらない。


 でも、知りたいという気持ちを、相手が答えなければならない理由にしてはいけない。


 塔へ戻ると、セリーが夕食を用意していた。


「お帰りなさいませ」


「ただいま」


「本日の調査はいかがでしたか?」


「線が寝るって、設備として本当にありそう」


 セリーの手が一瞬止まる。


「詳しく伺っても?」


 俺は今日分かったことを話した。


 二本の夜間線。


 第一は中央系へ移管。


 第二は休止。


 張力を抜いた状態で北端を封止。


 古い図面では、現在見えている線と似た経路を第二夜間線が通っている。


 北受所には「休止保持器」と記された小さな機構があった。


 表示窓。


 青という断片。


 そして子供の「二つ」「一つは起きてた」「一つは寝てる」「寝ると緩い」。


 セリーは最後まで口を挟まなかった。


「どう思う?」


「一致する要素は増えております」


「うん」


「しかし、同じものを指していると確定する情報はございません」


「うん」


「主様は?」


「聞きたい」


「はい」


「でも、まだ聞かない」


「はい」


「その代わり、設備側から調べる」


「よろしいかと存じます」


「簡単に賛成するね」


「主様ご自身で、すでに理由を整理なさっておりますので」


「昔なら止めた?」


「馬車へ乗る前に止めました」


「アンナマリーにも似たこと言われた」


「皆様、同じ主様を見ておりますから」


「何か恥ずかしいな」


「成長を知られることがですか?」


「昔が分かりやすすぎること」


 セリーが少し笑った。


「主様」


「何?」


「お食事を」


「今日はまだ止めてない」


「今から止まりそうでした」


「先回りするのやめて」


「長くお仕えしておりますので」


 夕食を食べる。


 途中で三〇八号室から報告が入ったが、緊急ではなかったので食後に聞いた。


 白い薬は前日と同じ量。


 頭痛なし。


 吐き気なし。


 身体の重さ一。


 怖さ一。


 午後、外へは出なかった。


 本人が「今日はいい」と選んだ。


 父からとされる手紙も読んでいない。


 絵は少し進んだ。


 四角の中には何も描かず、その横に小さな椅子を一つ増やしたらしい。


「椅子?」


『はい』


「何のため?」


『職員は尋ねていません』


「そっか」


『本人からも説明はありません』


「それでいい」


 保存されていたアルフォンスは午後の歩行練習を一回で終えた。


 疲れは軽度。


 夕食も食べた。


 赤いジャムをまた希望した。


「好きになったな」


『はい』


「明日も出していい範囲?」


『ヨアヒム様が食事量とのバランスを見て判断します』


「俺の許可いらないね」


『はい』


「最近その返事ちょっと嬉しいんだよな」


『良い変化かと』


 夜が深くなる。


 旧保養施設では、昨日と同じように音響記録器だけが中央棟設備管理室に残された。


 線へ新しい器具は取り付けない。


 壁にも何もしない。


 北側基礎の金具にも触れない。


 旧職員詰所の表示板もそのまま。


 青白い光は点いていない。


 名前の分からない子供は、自分の部屋へ戻っていた。


 今日は扉を半分ほど開けている。


 布鞄は椅子。


 紙も木片も中にある。


 寝る前、普段の職員が水を置く。


「明かり、どうする?」


「ちいさく」


「分かった」


 灯りを落とす。


 完全には消さない。


 子供は寝台へ入った。


 少しして、廊下の方を見る。


「きょう」


 職員は待つ。


「ねてる」


「うん」


「まだ」


 それだけだった。


 何が寝ているのか。


 何がまだなのか。


 職員は聞かない。


「おやすみ」


「おやすみ」


 子供は目を閉じた。


 夜半。


 中央棟では変化がなかった。


 擦過音もない。


 線の見た目も変わらない。


 地下の微弱振動が一度。


 旧職員詰所の表示板は動かない。


 青白い光も点かない。


 午前一時を過ぎる。


 二時を過ぎる。


 何もない。


 夜勤の職員が記録をつける。


 静かな夜だった。


 午前三時十二分。


 中央棟の音響記録器が、ごく小さな音を拾った。


 昨日の擦過音よりさらに短い。


 金属音ではない。


 布か革が少し引かれたような音。


 警備担当はすぐに設備室へ入らない。


 まず廊下から異臭、煙、光、魔力変動がないことを確認する。


 異常なし。


 二人で入る。


 線へ近づきすぎない。


 灯りを上げる。


 昨日二ミリほど下がった可能性がある古い布巻き線。


 見た目では分からない。


 支持金具。


 変化なし。


 埃。


 新しい筋は見えない。


 一人が前日の記録写真を確認する。


「動いてない……ように見える」


「触るなよ」


「触らない」


 その時だった。


 設備盤の奥。


 北壁へ向かう線とは反対側。


 誰も注目していなかった小さな金属板の隙間から、一瞬だけ光が漏れた。


 青白い。


 ほんの一瞬。


 二人とも動きを止める。


「今……」


「見た」


「旧職員詰所じゃない」


「ここだ」


 光は消えている。


 警備担当は近づかない。


 金属板を開けない。


 触らない。


 時刻だけを記録する。


 午前三時十三分。


 ガルムへ報告が飛ぶ。


 ガルムが来る。


 リディアも来る。


 フェリクスは呼ばない。


 夜中に呼ぶと余計なことをしそうだからではなく、緊急性がなく、朝まで待てると判断したからだ。


「場所は?」


「中央設備盤の左下です」


「昨日まで光った記録は?」


「ありません」


「色は?」


「青白く見えました」


「何秒?」


「一秒未満です」


「二人とも見た?」


「はい」


「その前の音は?」


「約一分前です」


「同時じゃない」


「はい」


 リディアが距離を保ったまま、魔力計を見る。


「今は目立った変化ありません」


「表示板は?」


「旧職員詰所は変化なしです」


「地下は?」


「直近の振動は二時間以上前です」


 ガルムは腕を組む。


「開けるな」


「はい」


「朝まで記録だけ」


「はい」


 誰も金属板へ触れなかった。


 同じ頃。


 名前の分からない子供は眠っていた。


 少なくとも、職員にはそう見えた。


 寝返りを一度打つ。


 目は開けない。


 そのまま眠る。


 そして数分後。


 小さく唇が動いた。


「……まだ」


 職員が顔を上げる。


 子供は目を閉じている。


 起こさない。


 聞き返さない。


 その後は何も言わなかった。


 朝。


 俺は塔で報告を聞いた。


「中央棟で青白い光?」


『はい』


「旧職員詰所じゃなく?」


『中央棟設備管理室です』


「場所は?」


『大型設備盤左下部の小型金属板の隙間』


「昨日見つけた休止保持器の図面と場所は?」


『まだ照合できていません』


「同じって言わない」


『はい』


「線は?」


『外観上の新たな位置変化は確認されていません』


「子供は?」


『夜間、睡眠中と見られる状態で一度「まだ」と発言しています』


「光の時間と?」


『約七分差があります』


「同時じゃない」


『はい』


「本人が光を知ってるとも言えない」


『はい』


 俺は朝食のパンをちぎった。


 昨日なら、青白い光という言葉だけで旧職員詰所の表示板を思い出した。


 今日はさらに、北受所の休止保持器に残った「表示窓」「青」という断片まである。


 似ているものが増えていく。


 だからこそ、一つにまとめるのが怖かった。


「今日は中央設備盤の図面を探す」


『はい』


「光った金属板は開けない」


『はい』


「外から位置だけ記録」


『はい』


「昨日の北受所図面と照合」


『はい』


「それから、子供には?」


『通常通りです』


「うん」


 セリーが向かいから俺を見る。


「主様」


「食べてるよ」


「本日は何も申し上げておりません」


「顔が言ってた」


「長くお仕えしておりますので」


「それ俺の台詞じゃない?」


「いただきました」


 少し笑う。


 その時、エルからもう一つ報告が入った。


『名前の分からない子供が起床しました』


「体調は?」


『問題ありません』


「何か言った?」


『はい』


 パンを持つ手が止まりそうになる。


 でも止めずに一口食べた。


「聞く」


『本人は扉を開け、普段の職員へ挨拶した後、自分の布鞄を持ちました』


「うん」


『その後、鞄から昨日の紙を取り出しています』


「二本の線を描いた?」


『いいえ。昨日の四角と一本の線が描かれた紙です』


「続けて」


『本人は昨日描いた線の横に、もう一本、短い線を描きました』


「二本になった?」


『はい』


「何か言った?」


『最初の線を指して、「こっち、ねてる」』


「うん」


『新しく描いた短い線を指して、「こっちも」』


「……両方?」


『職員が「こっちも寝てる?」と、本人の言葉だけを使って確認しました』


「答えは?」


『頷いています』


「昨日は一つ起きてたって言ってた」


『はい』


「今日は両方寝てる?」


『そのように本人は表現しています』


「それ以上聞いてない?」


『はい』


 俺はゆっくり息を吐いた。


「まだある?」


『あります』


「お願い」


『本人は二本の線の間へ、小さな四角を描きました』


「四角」


『はい』


「何て?」


『しばらく無言でした。その後――』


 エルが一度区切る。


『「ここ、まだねてない」』


 食堂の朝の音が、急に遠くなった気がした。


 パンの香り。


 食器の触れる音。


 窓から入る光。


 全部はそのままなのに、頭の中だけが先へ走りそうになる。


 二本の線。


 どちらも寝ている。


 その間の四角。


 そこはまだ寝ていない。


 休止保持器。


 中央設備盤。


 北受所。


 青白い光。


 いくつもの言葉が勝手につながろうとする。


「エル」


『はい』


「その四角が設備だって書かない」


『はい』


「中央棟とも北受所とも、休止保持器とも結びつけない」


『はい』


「本人は『ここ、まだねてない』と言った。それだけ」


『そのまま記録します』


「ガルムには共有」


『はい』


「フェリクスにも」


『はい』


「でも、紙を見せてくれって頼まない」


『承知しました』


「本人の紙だから」


『はい』


 セリーが静かに待っている。


 俺はパンをもう一口食べた。


「行きたいですか?」


「旧保養施設?」


「はい」


「ものすごく」


「では?」


「朝飯食べる」


 セリーの目元が少し柔らかくなった。


「その後は?」


「白鴉へ行く」


「旧保養施設ではなく?」


「うん」


「理由を伺っても?」


「今、俺が行っても、子供に聞きたくなるだけだから」


「はい」


「設備はガルムたちが見られる」


「はい」


「図面はフェリクスとリディアが読める」


「はい」


「俺がいなくても進む」


「はい」


「だから、必要になったら行く」


 口にすると、まだ少し変な感じがした。


 自分の物語なのに、自分が全部の場面へ行かない。


 でも、たぶんそれでいい。


 これはもう、俺一人だけの問題ではない。


 名前の分からない子供の問題でもある。


 三〇八号室の少年の問題でもある。


 保存されていた幼い俺と同じ名を持つ子供の問題でもある。


 町で制度を立て直している人たちの問題でもある。


 ガルムたちが、自分で考えて動く問題でもある。


「主様」


「ん?」


「スープもございます」


「食べる」


 俺は匙を取った。


 旧保養施設の中央棟では、青白い光が漏れた小さな金属板が、昨夜と変わらない姿で閉じたままになっている。


 北壁へ向かう古い線も、そのままだ。


 誰も起こしていない。


 誰も引いていない。


 誰も壁を開けていない。


 そして、名前の分からない子供が描いた紙の上では、二本の線が静かに横たわり、その間に小さな四角だけが置かれていた。


 子供はもう紙を折り、布鞄へ戻している。


 朝食へ向かうために。


 謎を残したままでも、腹は減る。


 線が眠っていても、朝は来る。


 だから俺たちは、眠っているものを無理に起こす代わりに、それを昔どこで眠らせたのかを記録の中から探すことにした。


 まだ眠っていないという、その小さな四角の正体を、子供の口から無理に引きずり出さないためにも。

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