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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第70話 夜中に鳴った金属音の場所が分かっても、壁の向こうまで確かめる理由にはなりませんでした

旧保養施設の中央棟で小さな金属音が記録された翌朝、俺が最初に聞いたのは、その音についてではなかった。


『名前の分からない子供は、通常通り起床しています』


「体調は?」


『発熱なし。頭痛、吐き気、身体の痛みについても訴えはありません』


「朝ご飯は?」


『現在、食堂へ移動中です』


「鞄は?」


『本人が持っています』


「昨日の紙と木片も?」


『布鞄の内部は確認していません』


「うん。それでいい」


 塔の食堂には、焼いたパンと卵の匂いが漂っている。


 窓の外は昨日より雲が少なく、森の上から差し込んだ朝日が長い卓の端を照らしていた。夜の冷気はまだ石壁に残っているものの、温かなスープから上がる湯気を見ていると、それほど寒くは感じない。


 俺はパンを一口食べてから、ようやく本題へ移った。


「それで、夜の音」


『午前零時四十七分、中央棟一階設備管理室に設置していた音響記録器が、単発の金属音を記録しています』


「旧職員詰所で前に聞いた音とは?」


『音域、長さとも異なります』


「似てない?」


『金属同士の接触音という大きな分類では共通します。ただし、同一機構によるものと判断できるほどの一致はありません』


「地下の振動は?」


『最も近い微弱振動は約二十三分前です』


「低い共鳴?」


『夜間は確認されていません』


「中央の設備盤に見た目の変化なし?」


『はい。警備担当二名が外観確認を行っています。盤扉、表示窓、露出線、床面、周囲の壁に新たな変化は確認されていません』


「人が入った形跡も?」


『ありません』


「窓は?」


『施錠状態を維持しています』


「外から何か当たったとか」


『該当時刻の外周警備記録では確認されていません』


 そこまで聞いて、スープを飲む。


 金属音がした。


 それだけだ。


 場所は分かった。


 時刻も分かった。


 けれど、何が鳴ったのかは分からない。


「ガルムは?」


『夜間の現場確認後、追加調査を朝まで保留しています』


「フェリクスは?」


『まだ起床していません』


「珍しい」


『昨夜、設備資料を遅くまで確認していたため、ガルム隊長から睡眠を命じられました』


「命じられないと寝ないの?」


『本人は「あと一冊だけ」と主張していました』


「……何か親近感あるな」


 向かいで食器を整えていたセリーが俺を見る。


「主様?」


「何でもない」


「本当に?」


「俺は寝たよ」


「はい。昨夜は規定時間内にお休みになりました」


「なら勝ち」


「競争ではございません」


「最近フェリクスと比較されること多くない?」


「主様から比較を始めておられます」


「そうだっけ」


「はい」


 セリーが俺の前へ果物を置く。


 今日は最初から残さないように一切れ食べた。


「中央棟の設備管理室、朝からどうする予定?」


『ガルム隊長からは、夜間記録の照合、設備室外観の再確認、旧図面および設備台帳の検索を先行する案が提出されています』


「盤は開けない?」


『はい』


「壁も?」


『はい』


「古い線も触らない?」


『はい』


「それでいい」


『主様は現地へ向かわれますか?』


「今は行かない」


『承知しました』


「音がしただけなら、俺が見ても音の跡は見えないし」


『はい』


「記録を先に見てもらう」


『共有します』


 自分でも、以前より判断が早くなったと思う。


 何かが起きた。


 だから行く。


 その間にあったはずの「俺が行く必要はあるか」を、少しずつ考えられるようになった。


 もちろん、気にはなる。


 中央中継盤へ入らず、北壁方向へ抜けているらしい最も古い布巻き線。


 その近くで夜中に鳴った金属音。


 昨日、名前の分からない子供が眠る前に口にした「せんは、ある」という言葉。


 並べれば、いくらでも意味を作れる。


 だからこそ、並べたままにしておく。


「主様」


「ん?」


「パンが止まっております」


「考えてた」


「食事中です」


「分かってる」


 パンを食べる。


 食事が終わる頃、旧保養施設からもう一つ報告が入った。


『名前の分からない子供が朝食を終えました』


「食べられた?」


『ほぼ全量です』


「何か言った?」


『食事中はありません』


「食後は?」


『本人が窓際へ移動し、昨日置いた葉を見ています』


「紙は出した?」


『いいえ』


「木片も?」


『いいえ』


 少し間が空く。


『本人が普段の職員へ「きょう、そと」と発言しました』


「庭?」


『職員が「庭へ行きたい?」と確認し、本人は頷いています』


「安全なら行っていい」


『すでに準備しています』


「中央棟のことは?」


『本人には伝えていません』


「聞かれたら?」


『隠さず、分かっている範囲だけ伝えます』


「うん」


 そこで通信を切った。


 俺は白鴉療養所へ向かった。


 朝の街道は乾いていた。


 昨夜の風で道端の葉がいくらか落ちており、馬車の車輪が通るたび、薄茶色の葉が道の端へ押しやられていく。御者台の横から森を眺めながら、俺はエルがまとめてくれた設備情報を腕輪の表示で読み直していた。


 中央棟の設備管理室。


 三面の大型盤。


 外から確認できる線は五系統。


 被覆の違いから、少なくとも三つの時期に設備が追加、変更された可能性がある。


 そして最も古く見える布巻き線の一本だけが、中央中継盤へ接続せず、盤の背後を通って北壁方向へ抜けている。


 今のところ分かっているのはそこまでだ。


「エル」


『はい』


「昨日の台帳に、中央中継盤の設置時期はある?」


『正確な年は欠損しています。ただし、旧保養施設の増築前から存在した可能性が高いです』


「北壁の向こう、昔から同じ間取り?」


『いいえ』


「やっぱり?」


『現存する最古の平面図と、後年の改修図では中央棟北側の形状が異なります』


「どのくらい?」


『最古図面では、現在の北壁からさらに約六メートル先まで細長い区画が存在します』


「今は?」


『該当部分の大半が撤去され、外庭および石敷き通路になっています』


「いつ撤去?」


『正確な工事記録を検索中です』


「地下じゃないんだな」


『最古図面上では一階です』


「部屋?」


『用途記載が欠損しています』


「都合よく欠けるなあ」


『保存状態が良くありません』


「線はそこへ行ってた可能性?」


『あります。ただし、北壁を通過した後の配線記号が欠損しているため、確定できません』


「今の壁の中で切れてる可能性も?」


『はい』


 それなら、昨夜の音が古い線から鳴ったとしても、向こう側に誰かがいるとは限らない。


 撤去された建物部分に残った金具。


 壁の中で切断された線。


 古いばね。


 気温による収縮。


 建物自体の歪み。


 考えられるものはいくつもある。


「まず撤去記録か」


『ガルム隊長も同じ方針です』


「なら任せる」


 白鴉療養所へ着く。


 玄関を入ったところで、甘い匂いがした。


 昨日、保存されていた幼いアルフォンスが見学していたパンが焼き上がったのだろう。


 そう思った直後、廊下の向こうから本人が歩いてきた。


 小さな皿を両手で持っている。


「アル」


「おはよう」


「これ」


 皿の上には、小さな丸いパンが二つ。


 一つは俺の拳よりかなり小さい。


 もう一つは、それより少し大きい。


「昨日言ってたやつ?」


「うん」


「大きい方、セリー?」


「うん」


「やっぱり俺の小さいんだ」


「アル、きのう食べたって」


「誰から聞いた?」


「セリー」


「情報が筒抜けだ」


 少年が笑う。


 俺は小さい方を受け取った。


 少し形が歪んでいる。


 でも焼き色はきれいだ。


「ありがとう」


「ぼく、まるくした」


「これ?」


「うん」


「上手じゃん」


「ちょっとへん」


「塔の絵より上手」


「塔?」


「何でもない」


 少年は大きい方を皿へ残したまま、セリーを探しに行く。


 後ろ姿を見送ってから、俺はパンを一口食べた。


 少し硬い。


 でも香ばしい。


「主様」


 背後から声がする。


「何でここにいるの?」


「本日は同行しております」


「そうだった」


「私の分は?」


「本人が持っていった」


「主様がお預かりにならなかったのですか?」


「直接渡したいんじゃない?」


「では、待ちます」


「俺より大きいよ」


「存じております」


「聞いてた?」


「昨日のお話を」


「……何か悔しい」


「大きさはお気持ちの差ではないかと」


「分かってるけどさ」


 三〇八号室へ向かう。


 扉を叩くと、少し間があった。


「入っていい」


 中へ入る。


 少年は窓際に立っていた。


 外を見ている。


 卓の上には赤い布。


 手紙は包まれたまま。


 絵も広げられていない。


「おはよう」


「おはよう」


「外?」


「見てた」


「出たい?」


「まだ分かんない」


「そっか」


 状態を確認する。


 頭痛なし。


 吐き気なし。


 身体の重さ一。


 怖さは一。


 昨夜もよく眠れた。


 白い薬を前にすると、少年は昨日より長く迷わなかった。


「今日は減らす」


「昨日から考えた?」


「うん」


「今の怖さは?」


「……二」


「減らしたい気持ちは?」


「ある」


「早く進まなきゃって思ってる?」


 少年は少し考えた。


「ちょっと」


「それだけ?」


「薬、少なくしたい」


「うん」


「なくしたい」


「うん」


「でも今日なくすのは怖い」


「今日はそこまで減らさないよ」


「知ってる」


「身体の変化があったら言える?」


「うん」


「怖くなって、やっぱり同じにしたいって言ってもいい」


「うん」


 俺はセリーを見る。


「予定してた範囲で?」


「はい。これまでの経過を踏まえ、最小量の調整が可能です」


「じゃあ、それで」


 少年がこちらを見る。


「決めた?」


「最後はお前が決めた」


「アルも」


「俺たちは安全にできる範囲を決めただけ」


「じゃあ一緒?」


「そうだな」


 セリーが白い薬を準備する。


 見た目ではほとんど分からないほどの違いだ。


 それでも少年は、容器を受け取る前に一度深く息をした。


「怖さ?」


「二」


「やめる?」


「飲む」


「分かった」


 少年は薬を口へ入れ、蜂蜜水で流し込む。


 飲み終わったあと、しばらく自分の身体を確かめるように座っていた。


「すぐ何か変わる?」


「必ずすぐとは限らない」


「じゃあ今分かんない?」


「うん」


「面倒」


「薬も地下も?」


「今日は薬」


「日替わりだな」


 少年が少し笑った。


「手紙は?」


 俺からではなく、少年自身が赤い布を見ながら言った。


「今日は読まない」


「うん」


「昨日読んだから」


「休み?」


「分かんない。でも読まない」


「分かった」


「外は……あとで決める」


「うん」


「絵は描く」


「決まってるじゃん」


「これは決めた」


 卓へ移動する。


 昨日途中で止めた二本の線がある。


 少年はそのうち一本の先へ、小さな四角を描いた。


「何?」


「まだ決めてない」


「四角なのは決めたんだろ」


「形だけ」


「中身は?」


「まだ」


「なるほど」


 俺も椅子へ座る。


 その時、エルから旧保養施設の朝の調査結果が届いた。


『主様。中央棟北側の旧区画について、撤去記録の一部が確認されました』


「聞く」


 三〇八号室の少年が顔を上げる。


「一緒に聞く?」


「うん」


『撤去は一度ではありません。旧保養施設の運用期間中に二段階で行われています』


「最初は?」


『中央棟北側の細長い区画のうち、外側約三分の一を撤去。その後、残存部分も別用途へ改修されています』


「用途は?」


『最初期の記録では欠損しています。第一回撤去後の記録には「旧夜間受所」と読める記載があります』


「夜間……受所?」


『文字の一部が摩耗していますが、その可能性が高いです』


「呼び出しを受ける場所?」


『名称だけでは確定できません』


「設備台帳は?」


『同時期の別紙に「夜間線」の記載があります』


「昨日の古い線と同じ?」


『まだ照合できていません』


「夜間線って何するもの?」


『記載は「夜間線、北受所経由。昼間系統と分離」とあります』


 俺は少し姿勢を変えた。


「分離」


『はい』


「中央中継盤を通らない?」


『その可能性があります』


「だから一本だけ盤へ入ってなかった?」


『整合はします。ただし、同一線である証拠はまだありません』


「北受所の場所は、撤去された部分?」


『最古図面との照合では、その可能性が高いです』


「じゃあ今は建物がない」


『大部分はありません』


「大部分?」


『第一回撤去後に残った内側部分が、現在の北壁の一部へ取り込まれている可能性があります』


「壁の中?」


『はい』


「開けない」


『ガルム隊長も同意しています』


「昨夜の金属音、そこから?」


『記録器の位置情報だけでは、設備盤周辺から北壁側までの範囲しか絞れません』


「線が鳴ったとは言えない」


『はい』


 少年が聞く。


「夜だけ使う線?」


「昔の記録にはそういう名前がある」


「今も?」


「分からない」


「建物ないのに?」


「線だけ残ってることはある」


「誰もいない?」


「今、見える範囲には職員以外いない」


「じゃあ音、誰?」


「誰かが鳴らしたとも決まってない」


「風?」


「それも分からない」


「線が勝手に?」


「古い金属や線なら、温度とか建物の動きで音が出ることもある」


「じゃあ呼んでない?」


「呼び出しの音かどうかも分からない」


 少年は自分の絵にある蓋つきの箱を見る。


「ただ鳴ったかも」


「うん」


「呼ばない音」


「そうかもしれない」


 少年は炭筆で、さっき描いた四角の横へ小さな点を置いた。


「それは?」


「音」


「箱じゃないんだ」


「外」


「呼ぶ?」


「まだ決めてない」


「便利だな、それ」


「アルが言うから」


 笑う。


 通信の向こうで、エルが待っている。


「ごめん。続きある?」


『はい。北受所の撤去理由について、短い記録があります』


「何て?」


『「夜間監視統合に伴い閉鎖。旧線は切断せず、復帰可能状態で封止」』


「切ってない?」


『記録上は』


「復帰可能状態って、また使えるように残した?」


『そのように読めます』


「封止した場所は?」


『記載なしです』


「つまり古い線は、使わなくなったけど撤去してない可能性がある」


『はい』


「今も物理的に繋がってるかは分からない」


『はい』


「封止した端がどこかも分からない」


『はい』


 それなら昨夜の音について、一つだけ候補が増える。


 使われなくなった古い線が、切断されず壁の中に残っている。


 長い年月の間に張力が変わった。


 金具が動いた。


 それで音がした。


 説明としてはあり得る。


 でも、それだけで決める理由はない。


「今日は図面と記録だけ続けて」


『はい』


「北壁を叩いたりしない」


『はい』


「線を引かない」


『はい』


「封止箇所探すために壁へ強い魔力当てない」


『はい』


 少年が俺を見る。


「いっぱい駄目って言う」


「フェリクスがいるから」


『聞こえております』


「起きたんだ」


『とっくに起きています!』


「寝た?」


『寝ました』


「何時間?」


『そこは本件と関係ありません』


 少年が笑う。


『アル殿下。記録だけでなく、外壁側から目視できる旧基礎部分の確認程度であれば――』


「安全?」


『はい』


「掘らない?」


『掘りません』


「触らない?」


『目視だけです』


「ガルムは?」


 少し間がある。


『……今、こちらを見ています』


「本人に聞く」


 ガルムの声が入る。


『外から見るだけなら許可する。地面を掘る、石を外す、線を引く、穴へ道具を入れるのは禁止だ』


「ならいい」


『俺が監視する』


「よろしく」


『何で俺までフェリクスの監視役になってるんだ』


『研究者に対する偏見です』


『昨日工具箱に手を伸ばした奴が言うな』


 通信が少し騒がしくなる。


 三〇八号室の少年は肩を揺らして笑っていた。


 午前中、旧保養施設では北側外庭の目視確認だけが行われた。


 かつて細長い区画が伸びていた場所は、今では石敷き通路と小さな植え込みになっている。


 建物が撤去された痕跡は、注意して見なければ分からない。


 現在の北壁から数歩離れたところに、地面とほぼ同じ高さまで削られた古い基礎石が残っている。苔に覆われ、一部は後から敷かれた石板の下へ潜り込んでいた。


 フェリクスはしゃがみ込んだが、手は出さない。


「ここが旧壁線でしょうか」


 リディアが図面を見る。


「位置は近いです。ただし増改築で基準点がずれているので、半メートル程度の誤差があります」


「北受所がこの先」


「可能性があります」


 ガルムは周囲を見る。


 現在は誰も使っていない庭の端。


 少し先には木々。


 地下へ降りる入口はない。


 古い扉もない。


「線は見えるか?」


「外からは」


 フェリクスが基礎の端へ顔を近づける。


「……待ってください」


「触るな」


「触りません」


 基礎石の側面。


 苔の隙間。


 そこに小さな金属片が見えている。


 ほんの指先ほど。


 錆びている。


「線?」


「分かりません」


 リディアが横から灯りを当てる。


「輪金具の一部に見えます」


「呼び出し線の固定具?」


「形状は似ています。ただ、これだけでは」


 フェリクスが身体を少し傾ける。


「周囲の苔を取れば――」


「取るな」


「言うと思いました」


「なら言わせるな」


 ガルムは記録担当へ合図する。


「位置だけ残せ」


 写真。


 距離。


 方角。


 見えている範囲の形。


 それだけで終える。


 誰も苔を剥がさない。


 金具を引かない。


 基礎石を外さない。


 そこに何かが残っていることだけを持ち帰る。


 昼前、俺はその報告を聞いた。


「金属片一つ?」


『はい』


「昨夜の音と同じ材質?」


『採取していないため分かりません』


「採取しなくていい」


『はい』


「北受所があった場所に近い?」


『推定位置とは一致します』


「でも金具の用途は不明」


『はい』


「それで十分」


 三〇八号室の少年は薬を減らしたあとも、大きな変化を見せていなかった。


 昼前の確認では頭痛なし、吐き気なし、身体の重さ一。怖さは一へ戻っている。


「減らした感じする?」


「分かんない」


「それならそれでいい」


「何も変わらないと変?」


「変じゃない」


「じゃあ昼ご飯」


「切り替え早いな」


「お腹減った」


「それは分かりやすい変化だ」


 食堂へ向かう。


 今日は豆を数える老人がいない。


 少年は席へ着くなり隣の器を見た。


「いない」


「誰が?」


「豆」


「老人じゃなくて豆なの?」


「両方」


「今日は別のところで食べてるんじゃない?」


 職員へ確認すると、老人は中庭側の小部屋で食事を取っているらしい。


 体調不良ではない。


 今日は静かな場所で食べたいと本人が希望しただけだった。


「そっか」


 少年はそれで納得した。


「行かない?」


「何で?」


「豆、何個か聞く」


「今日は静かに食べたいって選んだんだろ」


「じゃあ行かない」


「うん」


 自分の器を見る。


「俺は四つ」


「数えたの?」


「うん」


「大きさは?」


 少年が豆を一つずつ見比べる。


「違う」


「じゃあ得したか分からないな」


「老人に言う」


「今じゃなくてな」


「うん」


 離れた席では、ミナが例の布切れを二枚重ねている。


 何かを縫い始めたらしい。


 保存されていた幼いアルフォンスは、セリーへパンを渡し終えたのか、満足そうに果物を食べている。


 食堂にいる全員が、同じことを考えているわけではない。


 それが今は当たり前になっている。


 午後、俺は旧保養施設へ行かなかった。


 アンナマリーと町の仮運用報告を確認し、帰還管理所の資料は開かなかった。


「本日はご覧にならないのですね」


「中央棟の情報が増えたから」


「はい」


「三〇八号室の薬も減らした」


「はい」


「手紙は今日は読まなかった」


「それは、アルフォンス様がお決めになったことではございませんね」


「そうだけど」


「ご本人がお決めになったことです」


「うん」


「でしたら、なおさら一日に詰め込む必要はないかと」


「そうだな」


 町からの報告では、保留になっていた医療支援の一件について、確認員が本人宅へ出向くことになっていた。


 申請者は足を悪くしており、不足書類を取りに役所へ来るのが難しい。


 以前なら、それで申請が止まっていた。


 今は町側から行く。


「俺の許可?」


「不要です」


「費用は?」


「仮運用予算内です」


「担当は?」


「マルタ様と医療担当職員一名です」


「護衛は?」


「不要と判断されていますが、通常巡回の兵が近隣を通る時刻を共有しています」


「ちゃんと回ってるな」


「はい」


「俺いらないな」


 口にすると、アンナマリーが書類から顔を上げた。


「また寂しくなりましたか?」


「ちょっとだけ」


「でしたら、この七件の報告をすべてお読みになりますか?」


「それは多い」


「では三件」


「急に仕事増やすじゃん」


「必要とされたいとのことでしたので」


「そういう必要じゃない」


「難しいですね」


「俺もそう思う」


 アンナマリーが笑う。


 俺も笑った。


 夕方、旧保養施設から定時報告が届いた。


 表示板は動いていない。


 青白い光も点いていない。


 地下の微弱振動は一回。


 低い共鳴なし。


 中央棟の金属音も再発していない。


「子供は?」


『午後も庭へ出ています』


「今日二回目?」


『はい。本人から希望しました』


「誰と?」


『普段の職員一名です』


「鞄は?」


『持っています』


「中央棟の北側?」


『いいえ。生活区画に近い小庭です』


「何してる?」


『昨日持ち帰った葉と、今日拾った葉を並べています』


「また紙?」


『紙は出していません』


「何か言った?」


『現時点ではありません』


「ならそのまま」


 俺は通信を切り、白鴉を出る準備をした。


 その少し後。


 馬車へ乗る前に、エルがもう一度声をかける。


『主様。名前の分からない子供から自発発言があります』


「聞く」


『本人は庭で葉を並べた後、普段の職員へ「きのうの、おと」と話しかけました』


 足を止める。


「昨日の音?」


『職員は「どの音のことか分からないから、教えてもらっていい?」と確認しています』


「うん」


『本人は「よる」と答えました』


「夜の……」


 中央棟の金属音。


 子供は眠っていたはずだ。


「職員は?」


『それ以上推測せず、「夜に聞こえた音?」と確認しました』


「本人は?」


『首を横へ振りました』


「聞いたんじゃない?」


『その後、「きいてない」と発言しています』


 俺は黙った。


「じゃあ何で知ってる?」


『職員はその質問をしていません』


「……うん。それでいい」


『本人は続けて、「あっち」と中央棟方向を指しました』


「旧職員詰所じゃなく?」


『はい。方角記録では中央棟寄りです』


「そのまま」


『「よる、なった」と発言』


 胸の奥が少しざわつく。


 本人は聞いていないと言った。


 それでも「夜、鳴った」と言う。


「誰か教えた?」


『本人へ夜間の金属音について説明した記録はありません』


「職員同士の会話を聞いた可能性は?」


『生活区画内で夜間音について会話しないよう共有されています。現時点では、本人が聞いたと確認できる会話記録はありません』


「絶対聞いてないとは言えない」


『はい』


「本人に『どうして知ってる』って聞かない」


『はい』


「続きは?」


『普段の職員が「夜に、あっちで何か鳴ったと思ってる?」と確認しました』


「それなら答えは?」


『本人は少し考えた後、「うん」と』


「それだけ?」


『続いて、「でも、よばない」と発言しています』


 俺は目を閉じる。


 また「呼ばない」。


 旧職員詰所の表示板。


 木片。


 夜の金属音。


 全部を同じ「呼ぶ」にまとめるのは早い。


「記録は?」


『発言そのままです』


「『中央棟の音を感知した』とか書かないで」


『記録していません』


「『呼び出しではないと判断した』もなし」


『はい』


「本人が『でも、よばない』と言った。それだけ」


『はい』


 少し間が空いた。


『本人からさらに発言があります』


「教えて」


『「せん、ねてる」』


「……線が?」


『はい』


「職員は?」


『「どの線のこと?」とは聞いていません』


「うん」


『本人は葉を一枚持ち上げ、地面へ横に置いています』


「何か描いた?」


『いいえ』


『その後、「いま、ねてる」と』


 俺はしばらく何も言えなかった。


 線が寝ている。


 それが設備の線を意味するのか。


 紙に描いた線なのか。


 本人だけが知る別の何かなのか。


 分からない。


「そこで終わった?」


『はい。本人は葉を並べる遊びへ戻っています』


「質問増やさない」


『はい』


「俺も今から行かない」


『承知しました』


「でもガルムには共有」


『すでに共有されています』


 馬車へ乗る。


 塔への帰路で、俺は何度もその言葉を思い返した。


 線が寝ている。


 今は寝ている。


 妙に設備へ結びつけたくなる言葉だ。


 夜間線。


 使われなくなった北受所。


 切断せず、復帰可能状態で封止された旧線。


 もし、それを子供が知っているなら。


 どうして。


 そこまで考えて止める。


 知っているとはまだ決まっていない。


 塔へ戻った頃、ガルムから通信が入った。


『聞いたか』


「うん」


『どう見る?』


「見ない」


『は?』


「今は解釈しない」


 一瞬の沈黙のあと、ガルムが笑った。


『そう来たか』


「だって、『線が寝てる』だけじゃ何も分からない」


『設備資料を見た後だと、どうしても旧夜間線を思い浮かべる』


「俺も」


『だろうな』


「でも子供に資料見せてない」


『ああ』


「夜の音も教えてない」


『ああ』


「だから気になる。でも、それだけ」


『明日、旧線を調べるか?』


「資料で」


『壁は?』


「開けない」


『基礎は?』


「掘らない」


『金具は?』


「取らない」


『線は?』


「引かない」


『先に全部言われたな』


「フェリクス対策」


『本人が横で嫌そうな顔してる』


『聞こえております』


「明日は封止記録を探す。それで何か分かるなら、まずそっち」


『了解』


 通信が切れる。


 夕食の席で、セリーへ今日のことを話した。


 子供が夜の音を聞いていないと言ったこと。


 それでも中央棟方向を指し、「よる、なった」と言ったこと。


 そして「でも、よばない」「せん、ねてる」「いま、ねてる」と話したこと。


 セリーは煮込み料理を取り分けながら、しばらく黙っていた。


「主様は、何をお知りになりたいですか?」


「全部」


「では、優先順位を」


「厳しいな」


「全部を一度に知ろうとなさると、またお休みにならなくなります」


「まず……」


 考える。


「子供が危険かどうか」


「はい」


「今は?」


「本人の体調、行動、発言だけを見る限り、直ちに避難を必要とする変化は報告されておりません」


「次に、建物が危険か」


「夜間の金属音一回のみ。設備の破損、発熱、魔力増大、構造変化は確認されておりません」


「じゃあ急がない」


「はい」


「その次に、旧線が何なのか」


「資料から調べられます」


「うん」


「お子様がなぜその言葉を知っているかは?」


「……今すぐ聞かなくても守れる」


「はい」


「なら後」


 口にしてみると、少し整理できた。


 知りたい順番と、調べるべき順番は同じではない。


 俺が一番知りたいのは、子供が何を知っているかだ。


 でも、それを一番最初に聞く必要はない。


「主様」


「何?」


「冷めます」


「また?」


「本日は考える時間が長いようです」


「食べるよ」


 煮込みを口へ運ぶ。


 温かい。


 夕食後、自室へ戻る前に白鴉から三〇八号室の状態報告が届いた。


『白い薬を減量した後も、大きな状態変化はありません』


「頭痛?」


『なし』


「吐き気?」


『なし』


「怖さ?」


『就寝前確認で一』


「身体の重さ?」


『一』


「本人は?」


『明日も同じ量にするかは明日決める、と』


「分かった」


『父親からとされる手紙には触れていません』


「うん」


『午後、中庭へ出ることを本人から希望しました』


「出たの?」


『はい。屋根のない場所へ短時間』


「水たまりは?」


『昨日までのものは乾いていました』


「そっか」


『本人は地面を見て、「ない」と発言しています』


「何て返した?」


『職員が「今日は乾いてるね」と』


「それだけ?」


『はい』


 少し笑う。


 外へ出ることも、薬を減らすことも、手紙を読むことも、全部同じ日に進める必要はなかった。


 でも本人が選んだ結果、今日は薬を少し減らし、短時間だけ外へ出た。


 手紙は読まなかった。


 その組み合わせでいい。


「明日も同じように」


『はい』


 夜。


 旧保養施設では、中央棟の音響記録器を昨日と同じ位置に残した。


 新しい測定器は増やさない。


 旧職員詰所の表示板にも触れない。


 青白い光は消えたまま。


 北側の基礎石も、その脇からわずかに見える錆びた金具も、そのままだ。


 名前の分からない子供は、夕食後に自室へ戻った。


 今日は扉を閉めた。


 鍵はかけない。


 本人がそう選んだ。


 布鞄は椅子。


 窓辺には葉。


 寝る前、普段の職員が明かりを落としていいか尋ねる。


「うん」


 室内が暗くなる。


 子供は布団へ入る。


 しばらく天井を見ていた。


「きょう、ねてる」


 職員は、それが何を指しているか聞かなかった。


「うん」


「ぼくも、ねる」


「おやすみ」


「おやすみ」


 それで終わった。


 夜が深くなる。


 中央棟の設備管理室。


 誰もいない。


 三面の古い設備盤。


 閉じた扉。


 北壁へ抜けているらしい古い線。


 音響記録器だけが静かに動いている。


 午前零時を過ぎる。


 変化なし。


 一時。


 変化なし。


 二時。


 旧職員詰所の表示板も動かない。


 地下では微弱な振動が一度あったが、中央棟には対応する音がない。


 そして午前二時三十八分。


 音響記録器が、ごく小さな音を拾った。


 昨日の金属音とは違う。


 さらに弱い。


 何かが鳴ったというより、張っていた細いものがほんの少し緩んだ時のような、短い擦過音だった。


 警備担当が記録を確認し、二人で設備管理室へ入る。


 何も触れない。


 盤を見る。


 表示窓。


 変化なし。


 扉。


 閉じている。


 床。


 異常なし。


 北壁。


 見える範囲に変化はない。


 一人が灯りを少し上げた。


 そこで初めて気づいた。


 中央中継盤へ入らず北壁へ向かっている古い布巻き線。


 その露出部分に、昨日まで見えていなかったものがある。


 線そのものが切れたわけではない。


 壁から抜けたわけでもない。


 線を支えている小さな金属金具の脇。


 長年の埃が、ごく細い筋だけ途切れていた。


 幅は指先にも満たない。


 何かが大きく動いた痕跡ではない。


 金具か線が、ほんのわずかに位置を変えた可能性。


 それだけだった。


 警備担当は近づきすぎない。


 触れない。


 埃を払わない。


 線の位置を戻さない。


 灯りの角度を変えて記録し、ガルムへ報告する。


 ガルムも現場へ来た。


 眠そうな顔のまま、しばらく線を見る。


「動いた距離は?」


「測っていません。接触が必要になるため」


「それでいい」


「明るくして写真だけ撮りました」


「昨日の写真と比較できるか?」


「できます」


「朝になってからやれ」


「はい」


「今は何もするな」


 設備管理室を出る。


 扉を閉める。


 夜はそのまま続いた。


 名前の分からない子供は起きなかった。


 呼び出し盤の表示板も動かなかった。


 青白い光も点かなかった。


 朝。


 俺は塔の食堂でパンを食べていた。


『主様。夜間報告があります』


「緊急?」


『いいえ』


「じゃあ食べながら聞く」


『はい』


 セリーが何も言わず、俺の前へスープを置く。


「褒めないの?」


「何をでしょう」


「先に朝飯食べてる」


「すでに習慣になりつつありますので」


「評価が厳しくなってる」


「継続とはそういうものです」


「前にも聞いたな、それ」


 スープを一口飲む。


「お願い」


『中央棟設備管理室で、午前二時三十八分に微弱な擦過音を記録しました』


「昨日と同じ?」


『いいえ。より小さく、音質も異なります』


「何か変わった?」


『北壁方向へ延びる旧布巻き線の露出部に、ごく小さな位置変化の可能性があります』


 匙を持つ手が止まる。


「可能性?」


『線を支持する金具周辺の埃に、昨日の記録写真にはない細い途切れが確認されています』


「線が動いた?」


『まだ断定していません』


「触ってない?」


『はい』


「戻してない?」


『はい』


「子供は?」


『夜間を通して睡眠しています』


「表示板?」


『変化なし』


「光?」


『点灯なし』


「地下振動?」


『一回。擦過音とは時刻不一致です』


「低い共鳴?」


『なし』


 俺は匙を置かなかった。


 そのままスープをもう一口飲む。


「昨日の写真と比較して」


『はい』


「でも線の位置を測るために触らない」


『はい』


「外から分かる範囲だけ」


『はい』


「それと、封止記録を優先」


『ガルム隊長も同じ判断です』


「フェリクスは?」


『まだ現場へ入れていません』


「何で?」


『本人が起床直後から工具箱を持って向かおうとしたためです』


「全然成長してないじゃん」


『「使わない工具もあります」と主張しています』


「持っていく意味ないだろ」


 思わず笑ってしまう。


 セリーも小さく息を漏らした。


「主様」


「何?」


「パン」


「食べてる」


「止まっております」


「今から食べる」


 パンをちぎる。


 旧線が動いたかもしれない。


 気になる。


 けれど、朝食を途中で放り出すほどではない。


「名前の分からない子が起きたら、普段通り」


『はい』


「夜の線のことをこっちから聞かない」


『はい』


「昨日『今は寝てる』って言ってたからって、今朝『起きた?』なんて聞かないで」


『共有済みです』


「俺も今日はまず白鴉」


『承知しました』


 朝食を終え、塔を出る。


 その頃。


 旧保養施設では、名前の分からない子供が目を覚ました。


 扉は昨夜、自分で閉めたまま。


 鍵はかかっていない。


 子供は寝台から降りると、自分で扉を開けた。


 廊下にいた普段の職員が挨拶する。


「おはよう」


「おはよう」


「眠れた?」


「うん」


「朝ご飯、行く?」


「うん」


 布鞄を肩へかける。


 窓辺の葉を一枚だけ見て、そのままにする。


 廊下へ出る。


 食堂へ向かう途中、中央棟へ続く分岐が見える。


 子供は足を止めなかった。


 旧職員詰所の方向も見なかった。


 そのまま食堂へ入る。


 朝食。


 パン。


 卵。


 温かなスープ。


 今日は人参も入っている。


 子供は芋を先に食べた。


 人参を最後まで残した。


 職員は何も言わない。


 最後に、子供は人参を一つ口へ入れた。


 もう一つ残っている。


 しばらく見る。


「のこす」


「うん」


 皿を下げてもらう。


 全部食べなくてもいい朝だった。


 食後、子供は窓際へ行った。


 布鞄を開ける。


 中から折った紙を取り出す。


 昨日、自分で一度折った紙。


 開く。


 そこには四角形がある。


 子供は炭筆を取った。


 四角から伸びるように、一本の線を描く。


 長くはない。


 紙の端までは届かない。


 途中で止める。


 普段の職員は離れたところから見ている。


 子供が顔を上げる。


「みる?」


 職員は少し驚いた。


「見せてくれるの?」


「うん」


 近づく。


 覗き込む。


 四角。


 そこから伸びた一本の線。


 それだけ。


「ありがとう」


 意味は聞かない。


 子供は線を指でなぞらない。


 炭筆の先だけを近づける。


「これ」


「うん」


「ねてた」


 職員は待つ。


 子供は少し考えた。


「ちょっと、うごいた」


 その言葉が、朝の静かな食堂の端へ落ちた。


 職員はすぐに「夜の線?」とは聞かなかった。


 旧設備のことも言わなかった。


「この絵の線が?」


 紙に描かれたものだけを指して確認する。


 子供は首を横へ振る。


「ちがう」


「分かった」


 それ以上は聞かない。


 子供は紙を見た。


「でも」


 少し長い間があった。


「まだ、おきない」


 職員はその言葉も、そのまま受け取った。


「うん」


 子供は紙をもう一度折る。


 布鞄へしまう。


 木片は出さない。


 そして窓の外を見る。


「そと、いく」


「庭?」


「うん」


 朝の生活は続いていく。


 その報告を白鴉へ向かう馬車の中で受けた俺は、しばらく窓の外を見ていた。


「『ちょっと、うごいた』」


『はい』


「絵の線じゃないって否定した」


『はい』


「でも、何の線かは聞いてない」


『はい』


「『まだ、おきない』」


『そのまま記録しています』


「旧線が動いたとは書かない」


『はい』


「本人が夜の設備変化を知っているとも書かない」


『はい』


 気になる。


 ものすごく気になる。


 昨夜、古い線がほんの少し動いた可能性がある。


 朝、子供は「ちょっと、うごいた」と言った。


 偶然と片づけるには近い。


 同じことだと決めるには足りない。


「今日、俺が行ったら聞きたくなるな」


『その可能性はあります』


「だから行かない」


『承知しました』


「本人が俺を呼んだら?」


『その時点で共有します』


「うん」


 馬車は白鴉へ向かう。


 俺は座席へ身体を預けた。


 向こう側から来る線があるのかもしれない。


 昔、夜間だけ使われた線があったのかもしれない。


 それが今も壁の中で眠っていて、何かの拍子に少し動いたのかもしれない。


 でも、その先に誰かがいるとはまだ言えない。


 何かが呼んでいるとも言えない。


 まして、子供を戻そうとしている何かがいると決めることはできない。


 今、確かなことはもっと少ない。


 子供は庭へ行きたいと言った。


 線は「まだ、おきない」と言った。


 そして俺たちは、壁を開けていない。


 それでいい。


 少なくとも、今朝は。


 白鴉療養所の屋根が見えてくる。


 その向こうには薄い青空が広がっていた。


 今日は、古い線の先を無理に引きずり出す日ではない。


 残された記録を探し、線がどこへ繋がっていたのかを、線そのものへ尋ねずに確かめる。


 答えを急がないことが、何もしないこととは限らない。


 眠っているものを、答えが欲しいという理由だけで起こす必要もなかった。

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