第69話 向こう側から来る線が見つかっても、その先に誰かがいるとはまだ決められませんでした
名前の分からない子供が「ぼくが、いくっていう」と自分の言葉で決めた翌朝、旧保養施設の表示板は動かなかった。
青白い光も戻らず、初めに記録した位置からおよそ六ミリずれた金属板だけが、錆びた呼び出し盤の上で静かに止まっている。夜間には地下の微弱振動が二回、細管側で一回記録されたが、いずれも表示板や光に変化はなく、低い共鳴も確認されなかった。
昨日、俺たちは帰還管理所の古い点検記録と旧保養施設の設備を見比べ、呼び出し盤の右側から壁内へ延びている古い線が、地下ではなく建物中央方向へ向かっていることを確認した。
ただし、その先は分からない。
図面が途中で欠けているからだ。
俺が塔の食堂で朝食を食べながら聞いた報告も、結局はそこから一歩も進んでいなかった。
「夜中に誰か触った形跡は?」
『ありません』
「表示板の位置は?」
『変化なしです』
「昨日見つけた線は?」
『接触、張力測定、魔力測定とも行っていません』
「フェリクスは?」
『資料室にいます』
「朝から?」
『旧保養施設の保管庫で見つかった設備台帳を確認しています』
「触ってない?」
『紙には触れています』
「それはいいよ」
『リディアが同席しています』
「信用されてないなあ」
『昨日、配線を「見るだけです」と言いながら工具箱へ手を伸ばしましたので』
「駄目じゃん」
俺が笑うと、向かいでセリーが温かなスープを置いた。
「主様も以前、古代魔導具を『少し見るだけ』と仰った後、エルへ三十七件の質問をなさいました」
「触ってないだろ」
「はい」
「ならフェリクスより上」
「比較対象として適切でしょうか」
「勝ってるならいい」
パンをちぎり、スープへ浸す。
昨日、俺自身が旧保養施設へ行った。
それでも帰ってきたあとに「あそこへ行かなければ何も進まなかった」とは思わなかった。
子供は俺が来る前から自分で旧職員詰所へ向かっていたし、リディアは安全確認をしていた。ガルムは調査範囲を守り、普段の職員は子供の言葉を急かさなかった。
俺がしたのは、その中へ一人分として加わったことだけだ。
それくらいが、今は心地よかった。
「名前の分からない子は?」
『まだ睡眠中です』
「昨日の紙は?」
『自室の机上にあります』
「葉っぱは?」
『四角形の上へ置いた一枚を含め、本人が残したものはそのままです』
「木片は?」
『布鞄内と思われます。確認していません』
「うん」
『昨日の発言について、夜間の追加発言はありません』
「なら、今日こっちから続きを聞かない」
『共有済みです』
「外へ行くかも今日決める」
『はい』
そこで一度報告を切り、スープを飲む。
今日は白鴉療養所へ行く予定だ。
旧保養施設へは、今のところ行かない。
「設備台帳で何か出たら?」
『緊急性がなければ、まとめて報告します』
「それで」
「主様」
セリーが俺の皿を見る。
「野菜が残っております」
「食べるよ」
「昨日、名前の分からないお子様は落ち葉を選んでおられました」
「それと俺の野菜に何の関係が?」
「必要なものを選ぶことと、必要なものを避けることは別です」
「朝から深いこと言ってるようで、ただ野菜食えって言ってるだけだろ」
「はい」
「認めるんだ」
笑いながら残っていた野菜を食べる。
朝食を終える頃、旧保養施設から子供が起きたと連絡が入った。
『本人は普段通り起床。頭痛、吐き気等の訴えなし。朝の挨拶にも返答しています』
「窓辺?」
『はい』
「葉っぱ見てる?」
『机上の紙を見ています』
「昨日の四角?」
『はい』
俺は外套を着ながら聞く。
『本人が四角形の上に置いていた葉を持ち上げました』
「うん」
『紙を見ています』
少し間が空いた。
『本人が炭筆を取りました』
「職員は?」
『離れて見守っています』
「何描いてる?」
『覗き込んでいません』
「本人が見せたら見る。それまではそのまま」
『はい』
さらに少し待つ。
『本人は紙を折りました』
「折った?」
『はい。一度だけ中央で折っています』
「破ってない?」
『破損はありません』
『折った紙を布鞄へ入れました』
「木片と一緒?」
『鞄内ですが、収納位置までは確認していません』
「葉っぱは?」
『昨日四角形の上へ置いていた一枚だけ、手に持っています』
何か言うだろうか。
しかし子供は、その葉を窓辺へ戻しただけだった。
『本人から関連発言はありません』
「なら終わり」
『はい』
俺は塔を出た。
白鴉療養所へ着くと、昨日より空が明るかった。
薄い雲はあるものの、秋へ近づきつつある陽射しが中庭の石畳へ落ち、建物の壁際には洗った寝具が干されている。薬草を煮る匂いに朝食の残り香が混じり、玄関近くでは職員二人が新しく届いた食料箱を確認していた。
以前なら、この建物へ入るたびに誰かの緊張が伝わってきた。
今もなくなったわけではない。
知らない足音を嫌う人。
扉を閉めていないと眠れない人。
逆に、閉じた扉を怖がる人。
白い布を見ただけで身体を固くする人。
それぞれ違う。
だから、全員に同じ「安心できる療養所」を押しつけることはできない。
「アル」
声をかけられて振り向く。
保存されていた幼いアルフォンスが、廊下の端にいた。
今日はヨアヒムと一緒ではない。
生活支援の女性職員と歩いている。
「おはよう」
「おはよう」
「どこ行くの?」
「パン」
「食堂?」
「ちがう」
少年は少し考え、手で何かをこねる仕草をした。
「つくる」
「パン作るの?」
「みる」
「作るところを見るのか」
「さわってもいいって」
「よかったな」
「アルも?」
「俺は三〇八号室行く」
「そっか」
それだけで少年は頷いた。
以前なら、同じ名前を持つ子供同士を見れば、何か意味を探したくなったかもしれない。
今は違う。
この子はパン作りを見に行く。
三〇八号室の少年は多分、今日も絵を描いている。
俺は俺で、そこへ会いに行く。
それぞれの朝だ。
三〇八号室の扉を叩く。
「入っていいよ」
中へ入ると、少年は寝台の上で赤い布に包まれた手紙を見ていた。
開いてはいない。
膝の上に置き、指先で布の端を触っている。
「おはよう」
「おはよう」
「今日は手紙?」
「まだ」
「分かった」
「聞かない?」
「読むのかって?」
「うん」
「読みたくなったら読むだろ」
「……そうだけど」
「先に身体の方」
「はいはい」
状態確認は短く済んだ。
頭痛なし。
吐き気なし。
怖さ一。
身体の重さは今日は一。
昨夜は一度も起きずに眠れた。
白い薬について尋ねると、少年は容器を見たまま少し長く考えた。
「減らしたら、どうなる?」
「分からない部分もある」
「前に減らした時は?」
「大きく崩れなかった。でも、それだけで今回も同じとは言えない」
「ちょっとだけなら?」
「減らすなら少量にする」
「戻せる?」
「状態を見て必要なら調整する。ただ、身体の変化を完全になかったことにはできないから、減らす前に考える」
「……今日、減らしたいって言ったら?」
「理由を聞く」
「何で?」
「減らしたい理由が、薬が嫌だからなのか、早く終わらせたいからなのか、身体が楽になったから試したいのかで、考えることが少し変わる」
少年は黙った。
赤い布から手を離す。
「早く減らした方がいいと思った」
「誰に言われた?」
「誰にも」
「じゃあ自分で?」
「うん。ずっと同じだと、進んでないみたいだから」
俺はすぐには答えなかった。
窓から入る光が、卓の上の絵を照らしている。
道。
休む場所。
六本脚の椅子。
蓋のついた箱。
行き先のない線。
昨日のままだ。
「薬が減ることだけが進むことだと思う?」
「違う?」
「俺は違うと思う」
「でも薬なくしたい」
「それは分かる」
「ずっと飲みたくない」
「うん」
「だったら減らす」
「それも理由にはなる」
少年が俺を見る。
「じゃあ?」
「今日は減らしたい?」
少し間が空く。
「……ちょっと」
「怖さは?」
「二」
「さっき一だった」
「減らすって決めたら二になった」
「それも大事だな」
「駄目?」
「駄目とは言ってない」
俺はセリーを見る。
セリーも少年を見ている。
「今の量からさらに少量減らす場合、身体的には?」
「これまでの経過だけで申しますと、実施可能な範囲です。ただし、現在量を維持する医学的な不利益も確認されておりません」
「つまり、今日絶対減らさなきゃいけない理由もない」
「はい」
少年が眉を寄せる。
「また待つ?」
「お前が決める」
「アルなら?」
「俺の薬じゃない」
「ずるい」
「そう言われると思った」
少し笑う。
「でも、俺が『減らした方がいい』って言ったら、お前はそれを気にするだろ」
「気にする」
「だから言わない」
「……面倒」
「今日は一回目?」
「地下より薬の方が面倒」
少年は容器を見る。
しばらく考えたあと、小さく息を吐いた。
「今日は同じ」
「分かった」
「明日は減らすかも」
「明日決めればいい」
「それ言うと思った」
「便利だからな」
少年が少し笑った。
薬を飲み、蜂蜜水を続ける。
いつものように苦いと言ったあと、赤い布へもう一度手を置いた。
「手紙」
「うん」
「今日は読む」
俺は姿勢を変えない。
「分かった」
「少しだけ」
「うん」
「前に読んだところから」
「うん」
少年は布をほどいた。
二十三通の手紙。
そのうち二通目。
すでに途中まで読んでいるものを取り出す。
紙を開く指が少しだけ硬い。
「怖さ?」
「二」
「やめる?」
「まだ読む」
「分かった」
少年は以前読んだ最後の行まで目を動かす。
『迷いが生じた場合は、自ら判断せず、教師へ申し出ること』
声には出さない。
目だけがそこで止まる。
「やっぱり嫌」
「うん」
「でも今日は、その次見る」
「うん」
指が紙を少し下へずらす。
まだ読んでいなかった行。
少年の目が動く。
そして止まった。
「……アル」
「何?」
「これ」
「読んでほしい?」
「うん」
「声に出す?」
「……俺が読む」
少年は息を吸った。
「『帰還の準備が整った際は、担当者より知らせがある。それまでは、不必要に帰還の時期を尋ねてはならない』」
部屋が静かになる。
俺は何も言わない。
少年はもう一度読む。
「『帰還の準備が整った際は、担当者より知らせがある』」
指が震えているわけではない。
でも、紙を持つ力は少し強い。
「どう思った?」
聞いてから、少しだけ言葉を足す。
「言いたくなければ言わなくていい」
「……地下」
「うん」
「似てる」
「そう見える?」
「準備できたら知らせる」
「うん」
「表示」
「帰還管理所の古い記録には、受け入れ準備と呼出表示が近く書かれてるものがある」
「この手紙も同じ?」
「分からない」
「父さん、知ってた?」
「分からない」
「これ、父さんが書いた?」
「それも分からない」
少年の顔が歪む。
「全部分かんない」
「うん」
「嫌」
「うん」
「父さんの手紙なのに」
その声は怒っているようにも、寂しそうにも聞こえた。
俺は答えを埋めない。
少年は紙を見つめる。
「これ読んだら、待たなきゃって思う」
「何を?」
「知らせ」
「うん」
「帰っていいって言われるの」
「帰りたい?」
少年が止まる。
「……分かんない」
「それでいい」
「でも手紙は、帰るって決まってるみたい」
「そう読める部分はある」
「俺が帰りたくなかったら?」
「その時は、お前がどうしたいかを聞く」
「手紙より?」
「手紙がお前の代わりに今日の気持ちを決めることはできない」
少年は紙を見た。
「父さんでも?」
「誰が書いたとしても」
「……怒られるかも」
「誰に?」
「父さん」
「そう思う?」
「分かんない」
また分からない。
でも今度、少年はその言葉を嫌がらなかった。
「ここまで」
「うん」
自分で紙を閉じる。
まだ先には文章がある。
けれど読まない。
赤い布へ戻す。
「記録は?」
「どうする?」
「読んだところ」
「文章も?」
「うん」
「気持ちは?」
少年は少し考える。
「『似てると思った』」
「地下と?」
「うん。でも同じとは書かない」
「分かった」
「あと……帰りたくないかは分かんない」
「それも?」
「書く」
「うん」
セリーが静かに記録する。
少年はしばらく赤い布を見ていたが、やがて卓の端へ置いた。
「今日はもう読まない」
「分かった」
「絵描く」
「うん」
「アルも」
「また森?」
「今日は違う」
「何描く?」
「まだ決めてない」
「俺まで?」
「うん」
少しだけ笑いが戻る。
その時、エルから連絡が入った。
『主様。旧保養施設の設備台帳について報告があります』
「緊急?」
『いいえ』
「少年も聞きたい?」
「聞く」
「じゃあお願い」
『フェリクスとリディアが、旧保養施設の設備台帳から、旧職員詰所の呼び出し盤に関連する可能性がある記載を確認しました』
「可能性?」
『台帳の部屋番号記載が一部欠損しており、完全な同定ができていません』
「内容は?」
『「中央中継盤より東側呼出表示盤へ接続。旧式二線。復帰は受側にて行う」』
俺は眉を寄せた。
「中央中継盤」
『はい』
「受側って?」
『文面だけでは、表示を受ける側を指す可能性があります』
「旧職員詰所が受側なら、そこで戻す?」
『可能性はあります』
「でも同じ盤かは未確定」
『はい』
「中央中継盤の場所は?」
『別の台帳に記載があります』
「どこ?」
『旧施設中央棟、一階設備管理室』
「現存してる?」
『部屋自体は現存しています』
「入ったことある?」
『はい。安全確認時に開放済みです』
「盤は?」
『大型の設備盤が残っています。ただし、これまで暖房・照明・給水系統の旧管理盤と判断され、表面確認のみでした』
「呼び出し線もそこへ?」
『今回の台帳が同じ設備を指すなら、その可能性があります』
少年が聞いている。
「地下じゃない?」
「少なくとも台帳の通りなら、一回中央棟へ行く」
「じゃあ人いる?」
「今、中央棟には職員以外いない」
「昔は?」
「分からない」
「誰かが呼ぶ?」
「それも分からない」
少年が少し考えた。
「線があるだけ?」
「今分かったのはそれに近い」
「そっか」
俺はエルへ戻る。
「中央設備管理室、今日は触らない」
『はい』
「まず現状写真と既存図面だけ比較」
『ガルム隊長も同意見です』
「盤の扉も?」
『開けません』
「外から読める文字だけ」
『はい』
「名前の分からない子には?」
『本人へ直接関係する情報か未確定です』
「なら今は持っていかない」
『承知しました』
通信を終える。
三〇八号室の少年が自分の紙へ二本の線を描いた。
「また線?」
「うん」
「今度は何?」
「一本はこっち」
片方を指す。
「もう一本は?」
「向こう」
「繋がってる?」
「途中まで」
「何で?」
「まだ描いてないから」
「そういう理由?」
「うん」
俺は笑った。
旧保養施設では、その頃、ガルムとリディア、フェリクスが中央棟一階の設備管理室へ入っていた。
扉は以前の安全確認で開けてある。
中には埃を被った大型盤が三面。
暖房。
給水。
照明。
そう判断していた。
しかし古い設備台帳を持って改めて見ると、右端の盤だけ構造が違う。
盤面には小さな金属窓が十数個。
ほとんどは錆で読めない。
下部には、古い線を通したと思われる細い穴が複数ある。
「触るなよ」
ガルムが言う。
「分かっています」
フェリクスは両手を背中へ回している。
「何でその姿勢なんだ」
「疑われるので、自主的に」
「成長したな」
「アル殿下と同じことを言わないでください」
リディアは台帳と盤面を見比べる。
「この配置……東側呼出表示盤だけではありません」
「何本ある?」
「台帳上は、北側、東側、西側。少なくとも三系統」
「南は?」
「欠損しています」
フェリクスが盤へ顔を近づける。
触れない。
「中継盤というなら、複数の場所から来たものをここでまとめていたのでしょう」
「あるいは、ここから複数へ出していた」
リディアが訂正する。
「方向はまだ分かりません」
「なるほど」
「それと」
リディアの指が、盤の右下を示す。
埃の下。
擦れた古い文字。
完全には読めない。
しかし、一部だけ残っている。
「『受……待』?」
「触らず読めるか?」
「光を横から当てます」
魔力ではなく、小さな手持ち灯。
斜めから照らす。
浮き出た文字は三文字。
「……『受信待』」
ガルムが低く読む。
フェリクスの表情が変わる。
「受信待機、ではなく?」
「後ろに文字があった可能性はあります」
リディアが答える。
「ただ、今見えるのは『受信待』までです」
「旧職員詰所の表示板の下は?」
「『戻』または『返』に近い文字と、『待』に近い文字でした」
「同じじゃない」
「はい」
「少なくとも、同じ語ではなさそうだ」
「現時点では」
ガルムは盤から離れる。
「写真。位置記録。今日は終わりだ」
「内部を見れば――」
「終わりだ」
「まだ言い切っていません」
「顔で分かる」
フェリクスが不満そうに口を閉じた。
その報告が俺へ届いたのは昼前だった。
「中央中継盤に『受信待』」
『はい』
「旧職員詰所の文字とは違う」
『少なくとも露出している範囲では』
「三系統以上」
『はい』
「つまり旧職員詰所だけの仕組みじゃない可能性が高い」
『はい』
「中央盤からどこへ行くか、まだ分からない」
『はい』
「逆に、どこから中央盤へ来るかも」
『はい』
俺は少し考える。
「受信ってことは、何かを受ける側?」
『一般的にはその意味ですが、この設備での正式用語かどうかは未確定です』
「昔の用語だしな」
『はい』
「誰かがいるって意味でもない」
『はい』
「自動設備から信号が来ることもある」
『考えられます』
「帰還管理所の内区準備線みたいに」
『可能性の一つです』
「……少しだけ、整理できてきた」
三〇八号室の少年が聞く。
「何が?」
「旧保養施設の表示板が、地下の何かと直接繋がってるって考えなくてもよくなってきた」
「中央の部屋?」
「そこを通ってる可能性がある」
「じゃあ地下の音は別?」
「別かもしれない」
「ずっと一緒だと思ってた?」
「最初は繋げたくなった」
「何で?」
「同じ建物で、同じ時期に起きたから」
「でも違う?」
「違う可能性が増えた」
「じゃあ音は音?」
「かもしれない」
少年が自分の箱の絵を見る。
「呼ばない音」
「うん」
「ただ鳴るやつ」
「そういうのもある」
「全部意味あったら疲れる」
「本当にな」
少年は笑った。
昼食後、俺はアンナマリーと資料室へ向かった。
今日は昨日残した二件のうち、一件だけ見る。
「一件でよろしいのですか?」
「三〇八号室で手紙も進んだし、旧保養施設でも中央中継盤が出たから」
「承知しました」
「もう一件は?」
「逃げません」
「みんなそれ言う」
「事実です」
開いた記録は、帰還管理所の設備不具合報告だった。
古い。
かなり初期のもの。
外区表示が作動しない。
内区準備完了。
本人は帰還希望。
しかし表示不良。
「これ、どうした?」
「続きがあります」
本人意思確認済み。
資格確認済み。
処置説明済み。
身体負荷許容。
それでも内区移送は保留。
「表示が壊れてるから?」
「そのようです」
「本人は帰りたいのに」
「はい」
翌日。
設備修理。
表示復旧。
ところが、本人はその日の再確認で帰還希望を撤回している。
「……まただ」
「はい」
「前日は帰りたかった」
「はい」
「設備が直った日は帰りたくない」
「はい」
「それで?」
「移送保留」
「表示が直ったのに」
「はい」
俺は息を吐く。
「表示は条件の一つだった。でも、本人意思の代わりじゃない」
「そのように読めます」
「表示が壊れてたら、本人が帰りたいと言っても止める」
「安全上、あるいは処置上必要な条件だった可能性があります」
「表示が直っても、本人が帰りたくないなら止める」
「はい」
「両方いる」
「少なくともこの記録では」
記録の最後。
二日後。
本人から帰還希望。
再確認。
内区移送。
「これ、昨日の手紙とも似てる」
「手紙?」
「三〇八号室の二通目。今日、続きを一行読んだ」
内容を共有する。
アンナマリーの表情が少し変わった。
「『帰還の準備が整った際は、担当者より知らせがある』」
「うん」
「年代は?」
「手紙そのものの正確な作成年代は分からない」
「筆者も」
「分からない」
「ただ、帰還準備と通知という考え方は一致しますね」
「そう見える」
「同じ制度を指している可能性は」
「ある。でもまだ決めない」
「はい」
「手紙の少年本人は、『地下と似てる』って言った」
「彼自身が?」
「うん」
「記録は?」
「本人の希望で、そのまま残した。同じとは書かないって本人が言った」
アンナマリーは静かに頷いた。
「良いと思います」
「それと、少年は『帰りたくないかは分からない』って」
「はい」
「そこも残した」
「はい」
資料を閉じる。
「今日はこれで終わり」
「承知しました」
「褒めて」
「なぜでしょう」
「一件で止めた」
「ご自身で一件とお決めになったのでしょう?」
「達成したじゃん」
「では、お疲れ様でした」
「何か違う」
アンナマリーの口元が少し緩んだ。
資料室を出る。
午後は町から届いた書類へ目を通し、白鴉の患者用物資の確認を手伝った。
何も大きな発見はない。
でも、それでいい。
夕方近くになり、旧保養施設から名前の分からない子供について連絡が来た。
『本人が外出を希望しました』
「庭?」
『はい』
「安全?」
『問題ありません』
「昨日と同じ?」
『本人は普段の職員と移動しています』
「鞄は?」
『肩から下げています』
「紙も?」
『鞄内と思われます。確認していません』
子供は庭へ出た。
今日は落ち葉を拾わない。
庭の中央に置かれた古い木の長椅子へ座る。
普段の職員も少し離れて腰掛ける。
風が弱い。
空には薄い雲。
子供はしばらく何も言わなかった。
それから布鞄を膝へ置く。
「きょう、つかない」
職員は旧職員詰所の方向を見ない。
「うん」
「しってる?」
「何を知ってるか聞いてもいい?」
子供が少し考える。
「ひかり」
「今日は光ってないのは知ってるよ」
「うん」
「それのこと?」
「うん」
初めて、本人が「光」を指した。
職員はそれ以上広げない。
「今日は光ってないね」
「うん」
子供は鞄を撫でる。
「ついたら、わかる」
「君が?」
確認は最小限。
子供は頷く。
「どうして分かるか、話したい?」
少し考える。
首を横へ振る。
「分かった」
職員は終える。
しかし、子供の方が続けた。
「みる」
「光を?」
「うん」
「点いたら見る?」
「うん」
「近くまで行く?」
子供は少し迷った。
「そのとき」
「その時決める?」
「うん」
昨日の「ぼく、いく」から、また少し変わった。
点いたらすぐ行くのではない。
まず見る。
近づくかは、その時決める。
その報告を聞いた俺は、白鴉の廊下でしばらく立ち止まった。
「変わったな」
『はい』
「昨日は『ぼく、いく』って言った」
『はい』
「でも、そのあと『すぐいかない』『ぼくがいくっていう』になった」
『はい』
「今日は『ついたら見る』『近くへ行くかはその時』」
『はい』
「記録、全部残して」
『すでに』
「昨日と違うから訂正扱いにはしない」
『はい』
「昨日は昨日の気持ち。今日は今日」
『そのように記録しています』
少し笑う。
「本人の方が制度より柔らかいな」
『どういう意味でしょう』
「昔の制度って、一回書いたらそのまま使いたくなるだろ」
『後期には、その傾向が強まった可能性があります』
「でも人は変わる」
『はい』
「昨日行くって言って、今日は見るだけでもいい」
『はい』
「明日、やっぱり見たくないでもいい」
『はい』
通信を終える。
三〇八号室へ戻ると、少年は絵を描いていた。
「子供?」
「うん」
「何か言った?」
「聞く?」
「うん」
庭での会話をそのまま話す。
少年は炭筆を止めた。
「行かないの?」
「光が点いたら、まず見るって」
「昨日は行くって言った」
「うん」
「変えていい?」
「本人が変えたんだから」
「約束じゃない?」
「誰と?」
「……分かんない」
「少なくとも、俺たちは『絶対行け』って約束させてない」
「じゃあいい?」
「いいと思う」
少年は赤い布を見る。
「俺も」
「何?」
「手紙、明日読むって言ってない」
「言ってないな」
「でも今日読んだ」
「うん」
「明日は?」
「明日決める」
「それ」
「何?」
「そればっかり」
「便利なんだよ」
少年は笑った。
「明日は読まないかも」
「うん」
「外出るかも」
「うん」
「薬減らすかも」
「うん」
「全部決めてない」
「忙しいな」
「決めてないのに?」
「選べるものが多いから」
「……前は少なかった」
声が少し低くなる。
「薬飲む」
「うん」
「先生に言う」
「うん」
「帰る」
「うん」
「本物になる」
俺は黙って聞く。
「今は?」
「お前が決めていいことは増えたと思う」
「全部?」
「全部じゃない。命に関わる治療とか、他の人を傷つけることとか、安全のために止めることはある」
「でも手紙読むのは?」
「お前」
「外は?」
「お前」
「薬は?」
「一緒に考える」
「帰るのは?」
少し間を置く。
「帰る場所や方法が何なのか分かって、安全も確認できて、その時お前がどうしたいかを聞く」
「俺だけじゃ決められない?」
「行きたいって言えば何でも危険な場所へ送る、って意味では決められない。でも、お前が嫌だって言ってるのを無視して勝手に帰すつもりもない」
「……そっか」
少年は絵へ視線を戻す。
新しく描いた二本の線。
片方は途中で止まっている。
「これ、繋げない」
「決めた?」
「今日は」
「うん」
「明日は分かんない」
「それでいい」
夕方、塔へ戻る前に保存されていた幼いアルフォンスとまた会った。
両手に白い粉がついている。
「パン?」
「さわった」
「作った?」
「ちょっと」
「食べた?」
「まだ。やいてる」
「じゃあ楽しみだな」
「アルにも?」
「くれるの?」
少年は少し考えた。
「ちいさいの」
「ありがとう」
「セリーにも」
「俺と同じ大きさ?」
「セリーの、ちょっとおおきい」
「何で?」
「セリー、いっぱいくれるから」
「俺も色々してるんだけど」
少年が笑う。
その笑顔を見て、俺も笑った。
同じ名前。
同じような顔。
王家の血。
似た魔力。
それでも、今この子が考えているのは、焼いているパンを誰へどれだけ渡すかだ。
それをそのまま大事にしたかった。
塔へ戻ったあと、夕食前にガルムから中央中継盤の追加報告が届いた。
『外観記録の比較が終わった』
「どうだった?」
『盤の下部から出ている線は、確認できるだけで五系統』
「台帳は三系統以上だったよな」
『ああ。二本は台帳記載が見つかっていない』
「後から増えた?」
『可能性はある』
「線の年代は?」
『外から見える被覆だけなら、三種類ある』
「三種類?」
『一番古い布巻き線。その上から追加された樹脂処理線。それと、魔力伝導材を混ぜた後期型らしい細線』
「全部同じ盤に?」
『外から見る限りはな』
また重なっている。
古い仕組み。
途中の改修。
後から足された魔力設備。
「右端の盤も、一つの時代のものじゃない?」
『その可能性が高いとリディアは見てる』
「じゃあ青白い光が最初からあったとも限らない」
『ああ』
「表示板の機械部分は古くて、光だけ後から足したとか」
『あり得る』
「帰還管理所の点検記録にあった表示灯との年代比較は?」
『これからだ』
「今日はもう触らない?」
『触ってない』
「フェリクスは?」
『資料に埋まってる』
「安全だな」
『紙を壊さなければな』
ガルムが笑う。
「明日は?」
『古い設備図面をもう一度洗う。壁は開けない。盤も開けない』
「それで」
『それと一つ』
「何?」
『五系統のうち、一番古い布巻き線の一本だけ、中央中継盤へ入ってないように見える』
「……どこへ?」
『盤の裏を通って、そのまま北壁側へ抜けてる』
「追える?」
『外から見える範囲では、隣の壁までだ』
「図面は?」
『ない』
「地下?」
『今のところ下へ向かってはいない』
「じゃあ壁開けない」
『分かってる』
「線を引っ張らない」
『分かってる』
「信号も――』
『分かってる。お前は俺をフェリクスだと思ってるのか』
「念のため」
『明日は記録だけ探す』
「頼む」
通信が切れる。
一本だけ、中継盤へ入らない古い線。
気になる。
けれど、それだけだ。
誰かが使っているとは言えない。
どこかの部屋へ繋がっているとも限らない。
切れているかもしれない。
昔の別設備かもしれない。
建物の外へ出ている可能性すらある。
「主様」
セリーが夕食を置く。
「考えておられますね」
「顔で分かる?」
「はい」
「古い線が一本だけ中央盤に入ってない」
「そうですか」
「気にならない?」
「気にはなります」
「じゃあ調べたい?」
「安全な方法であれば」
「壁開ければ早い」
「却下いたします」
「言うと思った」
「主様も開けるおつもりはないのでしょう?」
「ない」
「では、なぜお尋ねに?」
「言ってみただけ」
「フェリクス様に似てまいりましたね」
「それは嫌だ」
セリーの口元が少し上がる。
夕食を食べる。
今日も一日で全部は分からなかった。
でも、いくつかのものが少しずつ分かれてきた。
地下の微弱振動。
細管の反応。
低い共鳴。
古い機械式呼び出し線。
中央中継盤。
後から追加された可能性のある魔力系統。
青白い光。
それらを一つの「何か」にまとめなくてもいい。
夜。
名前の分からない子供は、庭から戻ったあと穏やかに過ごした。
夕食も普段通り。
木片は布鞄。
折った紙も鞄の中。
葉は窓辺。
旧職員詰所へは行かなかった。
そして就寝前。
普段の職員が明かりを落としていいか確認した時、子供は頷いた。
部屋が少し暗くなる。
窓の外には月明かり。
子供は寝台へ入る前に布鞄を見た。
「きょう、こなかった」
職員は聞き返さない。
以前にも似た言葉があった。
何が来なかったのかは、まだ分からない。
子供は続ける。
「ひかりも」
「うん。今日は光らなかったね」
「うん」
寝台へ入る。
布団を胸まで上げる。
「でも」
職員は待つ。
「せんは、ある」
それだけ言った。
「おやすみ」
「おやすみ」
部屋の扉は、本人の希望で半分開けたまま。
職員は廊下へ出る。
誰も部屋へ戻って「どの線?」とは聞かなかった。
その報告を塔で受けた俺も、同じだった。
「『線は、ある』」
『はい』
「紙に描いた線かもしれない」
『はい』
「建物の線かもしれない」
『はい』
「別のものかもしれない」
『はい』
「明日聞かない」
『承知しました』
通信を終える。
自室へ戻る。
セリーから水を受け取る。
「今日は、分からないものが増えた?」
「どうだろ」
「減りましたか?」
「一つだったものが、何個かに分かれた感じ」
「では、整理は進んだのでは」
「答えは増えてないよ」
「答えだけが進展ではございません」
「……それ、今日三〇八号室の子にも似たようなこと言った」
「薬についてでしょうか」
「うん。減らすだけが進むことじゃないって」
「主様にも当てはまるのでは?」
「調査?」
「はい」
俺は水を飲む。
確かに。
一つの大きな謎を無理に一つの答えへ押し込むより、違うものを違うものとして分けられた方がいい。
「じゃあ今日は進んだ」
「はい」
「でも明日、古い線の行き先調べたい」
「資料で」
「資料で」
「壁は?」
「開けない」
「盤は?」
「開けない」
「線は?」
「引っ張らない」
「よろしいかと」
「フェリクスみたいに確認されてる」
「主様はご自身でお答えになれますので」
「それ褒めてる?」
「はい」
少し笑う。
「おやすみ」
「おやすみなさいませ、主様」
その夜、旧保養施設の表示板は動かなかった。
青白い光も戻らなかった。
地下では一度だけ微弱な振動が記録されたが、中央中継盤にも、旧職員詰所にも、目に見える変化はない。
ただ、日付が変わってしばらくした頃。
無人になった中央棟一階の設備管理室で、記録用に置かれていた音響器が、ごく小さな金属音を一度だけ拾った。
旧職員詰所で聞いていた打音より低く、短い。
地下の振動とも時刻は一致しない。
警備担当が確認に入った時、三面の大型盤に外見上の変化はなかった。
表示窓も動いていない。
扉も閉じたまま。
誰かが侵入した痕跡もない。
だから、その夜は何も開けなかった。
何も引かなかった。
音があった時刻と場所だけを残した。
翌朝になれば、調べられる。
今夜、答えを作る必要はなかった。




