第68話 消えた表示が戻らなくても、昨日の続きを今日選ばなければならないわけではありませんでした
青白い光が消えた翌朝になっても、旧保養施設の古い表示板は元の位置へ戻らなかった。
初めに記録した位置から、およそ六ミリ。錆びた金属板はわずかに横へずれたまま止まり、その下に露出した古い文字の一部も変わらず残っている。昨日まで光が滲んでいた細い隙間は暗く、夜間の記録にも新たな発光はなかった。
地下の微弱振動は二回。
細管側では一回。
低い共鳴は記録されず、呼び出し線からのものと思われる打音もなかった。
そして、名前の分からない子供は眠っていた。
俺がその報告を聞いたのは、今日も塔の食堂だった。
「三日?」
温かな粥を口へ運びながら尋ねると、エルが答える。
『何がでしょうか』
「起きてすぐ報告を聞かずに朝飯まで待てた日」
『数え方によります』
「そこ厳密にする?」
『途中で緊急性の確認だけ行った日を含めるかどうかで変わります』
「じゃあいいや」
『記録しますか?』
「しなくていい」
向かい側でセリーが焼いた肉を小皿へ取り分けている。
「主様」
「何?」
「お食事中の行動を数値化なさる必要はございません」
「薬の量とか疲れは数字にするのに?」
「必要なものと不要なものがございます」
「朝飯前に調査報告を聞かなかった回数は不要?」
「はい」
「でも褒めてくれてもいい」
「すでに通常化しております」
「早いなあ」
セリーの表情はいつも通りだったが、目元だけが少し柔らかい。
俺も笑って粥を食べる。
「名前の分からない子は、まだ寝てる?」
『はい』
「昨日、葉っぱの下に置いた木片は?」
『窓辺にそのままです。赤茶色の葉も上に載っています』
「誰も触ってない?」
『はい』
「本人が起きるまでそのまま」
『承知しました』
「昨日『あした』って外へ行く話したよね」
『はい』
「今日、職員から『昨日行くって言ったよね』って連れ出さないで」
『すでに共有済みです』
「本人が行きたいって言ったら?」
『通常の外出条件で対応可能です』
「雨は?」
『旧保養施設周辺は曇り。降水なし。風も弱い状態です』
「なら行けるな」
昨日、子供は「また、そと」と言い、暗くなるから明日にするかと聞かれて「あした」と答えた。
だからといって、それが今日の予定表になるわけではない。
昨日行きたかった。
今日も行きたいかもしれない。
今日は行きたくないかもしれない。
それを今日決めればいい。
「旧呼び出し盤は?」
『ガルム隊長から本日の観測案が届いています』
「聞く」
『午前中は現状維持。表示板位置、自然光条件、室温、湿度、建物振動、地下微弱振動のみ継続記録。昨日消失した青白い光については、能動的な再現試験を行わない』
「午後は?」
『午前の記録を確認後、必要であれば受動魔力観測を一回。表示板、壁、呼び出し線への接触なし』
「いいと思う」
『決定でよろしいですか?』
「午前はそれで。午後は昼に決める」
『承知しました』
「帰還管理所の方は?」
『アンナマリー様が「呼出表示」「呼出盤表示」に加え、「受入準備」「表示解除」の語を索引化しています』
「何件くらい?」
『現在、候補十一件です』
「多いな」
『完全一致ではありません』
「今日は全部見ないよ」
『はい』
「……何、その即答」
『昨日までの傾向から推測しました』
「俺、信用されてる?」
『休息に関しては以前より』
「限定的だな」
セリーが水の入った杯を置く。
「十分な進歩かと」
「二人とも同じ側だな」
「健康管理上は」
俺は水を飲んだ。
旧保養施設では、光が消えた。
子供は昨日、自分から安全な距離まで見に行った。
そして「むこうが、つく」「ついたら」と言いかけ、そこで止めた。
それだけだ。
今朝になったからといって、その続きを回収しに行く必要はない。
白鴉療養所へ向かう前に、エルから名前の分からない子供が起きたと連絡が入った。
『本人は起床後、窓辺へ向かいました』
「葉っぱ?」
『はい』
「職員は?」
『普段の職員が室内入口付近にいます』
「何か言ってる?」
『挨拶のみです』
少し待つ。
『本人が赤茶色の葉を持ち上げました』
「木片は?」
『下にあります』
『本人は木片を見ています』
俺は塔の玄関近くで外套を整えながら聞いていた。
『木片を布鞄へ戻しました』
「葉っぱは?」
『二枚とも窓辺に残しています』
「何か言った?」
『「きょうも、ある」』
「何が?」
口にしてから、自分で笑った。
「……って聞かないんだよな」
『現地職員も質問していません』
「そのまま記録」
『はい』
「外の話は?」
『本人からはまだありません』
「昨日の約束みたいに扱わない」
『承知しています』
セリーが俺の外套の襟を直す。
「自分でできる」
「曲がっております」
「今直そうとしてた」
「私の方が早いので」
「選ぶ余地は?」
「襟を曲げたまま外出なさる選択でしょうか」
「それは嫌だな」
「では問題ございません」
「強い」
塔を出る。
朝の森は湿った土の匂いがした。
雨は降っていないが、夜露が葉の先に残っている。枝の間を抜ける風は冷たすぎず、歩いているうちに身体が少し温まった。
白鴉療養所へ着くと、玄関近くでミナが職員と話していた。
昨日まで布切れを並べていた布袋を抱えている。
「おはよう」
「おはよう」
「今日は何か決まった?」
俺が尋ねると、ミナは袋の口を開いた。
中には薄い青の布と、白い布、それから細い紐が入っている。
「これ」
「何作るか決まった?」
「小さい袋」
「袋の中に袋?」
ミナが少し笑う。
「うん」
「何入れるの?」
「まだ」
「そこは決まってないんだ」
「作ってから決める」
「いいと思う」
ミナは職員と一緒に作業室へ向かっていく。
その後ろ姿を見送っていると、ブラットが階段から下りてきた。
「殿下」
「おはよう」
「三〇八号室は起床済みです。朝食も終えております」
「状態は?」
「大きな変化なし。本人から『今日は昨日より身体が軽い気がする』との申告がありました」
「数字は?」
「重さ零か一で迷い、本人が『一より少ないけど零じゃない』と」
「数字にしづらい日もあるよな」
「記録はそのまま残しています」
「それでいい」
三〇八号室へ向かう。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「入っていいよ」
中では少年が床に紙を広げていた。
卓ではない。
昨日まで描いていた道の絵と、俺が描いた塔の絵、それから新しい白紙が数枚並んでいる。
「おはよう」
「今日は早い」
「また?」
「今日は本当に早い」
「時計見た?」
「見た」
「何時?」
少年が壁の時計を見る。
「……今?」
「見てないじゃん」
「さっき見た」
「何時だった?」
「忘れた」
「駄目じゃん」
少年が笑う。
俺も床へ座った。
「何してるの?」
「並べてる」
「絵を?」
「うん」
「繋げる?」
「まだ」
少年の道の絵。
途中の休む場所。
六本脚の椅子。
音が入っているという箱。
分かれ道。
俺の塔と、少年が勝手に足した道。
別の紙には、まだ何も描かれていない。
「手紙は?」
「今日はまだ読まない」
「分かった」
「地下は?」
「先に身体の確認してから」
「分かってる」
短く状態を確認する。
頭痛なし。
吐き気なし。
怖さ一。
身体の重さについては、ブラットから聞いた通り「一より少ないけど零ではない」。
「無理に数字決めなくていいよ」
「でも記録するんでしょ」
「言った通り記録すればいい」
「長い」
「『一未満、零ではない』でいいんじゃない?」
「それなら短い」
「じゃあそれで」
白い薬について尋ねる。
少年は少し考えた。
「今日も同じ」
「うん」
「ずっと同じじゃないよね?」
「必要なら変える」
「いつ?」
「身体の状態と、お前がどうしたいかと、薬を変えることで何が起きそうかを見て決める」
「今日減らしても平気そう?」
「平気かもしれない」
「じゃあ減らす?」
「減らしたい?」
少年は容器を見る。
すぐには答えない。
「……今日はいい」
「じゃあ同じ」
「遅くない?」
「急いで減らさなきゃいけない理由が今ある?」
「ない」
「なら大丈夫」
少年は頷く。
セリーから薬を受け取り、飲む。
蜂蜜水を続ける。
「苦い」
「今日もな」
「蜂蜜増えてない」
「交渉失敗したからな」
「セリー、もうちょっと」
「現在量で十分です」
「毎日言ったら?」
「回答は変わりません」
「強い」
「俺もそう思う」
「主様」
「俺は味方しただけ」
「健康管理上、適量です」
少年が笑った。
それから俺を見る。
「地下」
「聞く?」
「うん」
俺は朝までのことを話した。
青白い光は戻っていない。
表示板も動いていない。
地下の振動はあったが、光との関係は分からない。
名前の分からない子供は起きたあと、昨日木片へ載せた葉をどけて木片を鞄へ戻し、「きょうも、ある」と言った。
「何がある?」
「聞いてない」
「木?」
「木片を見たあとだから、そう見えるけど、本人は『木がある』とは言ってない」
「葉っぱ?」
「それもある」
「自分?」
「それもあるな」
「何でもあるじゃん」
「そうなんだよ」
「面倒」
「今日一回目」
「昨日の続きで数えてよ」
「日をまたいだら数え直すんだろ?」
「俺が言うのは」
「ずるい」
少年は紙を一枚引き寄せた。
「昨日の子、外行くって言ってた?」
「昨日は『明日』って言った」
「じゃあ今日行く?」
「まだ本人から言ってない」
「行くんじゃないの?」
「昨日行くって言ったから?」
「うん」
「昨日の気持ちが今日も同じとは限らないだろ」
「でも約束」
「約束かな」
少年が止まる。
「『明日』って言った」
「うん」
「約束じゃない?」
「場合によるけど、昨日の会話は『暗くなるから明日にする?』『明日』だった。誰かと時間を決めて待ち合わせしたわけじゃない」
「じゃあ行かなくてもいい?」
「いいと思う」
「職員、怒らない?」
「怒る理由ないだろ」
「昨日言ったのにって」
「言わない」
「……そっか」
少年は炭筆を持つ。
白紙に一本だけ線を引いた。
「これ、昨日の道?」
「違う」
「じゃあ何?」
「まだ」
「線だけ?」
「うん」
「行き先は?」
「ない」
「どこから来たの?」
「それもない」
「難しいな」
「アル、決めたがる」
「……そうかも」
「地下の子には聞かないのに」
「絵だから油断した」
少年が少し得意そうに笑った。
「聞かなくていい」
「分かった」
午前中、父からの手紙は開かなかった。
少年は床に座ったまま絵を描き、ときどき俺へ炭筆を渡してきた。
俺の塔の横へ木を一本描くと、「細い」と言われた。
「木まで?」
「森なんでしょ」
「一本しか描いてないから」
「もっと」
「面倒だな」
「描いて」
「自分で描けば?」
「アルの森」
「道はお前なのに?」
「うん」
「境界が複雑すぎる」
結局、木を五本増やした。
「まだ少ない」
「これ以上は描かない」
「けち」
「森全部描いてたら日が暮れる」
そんなことをしている間に、旧保養施設から午前の中間報告が届いた。
『表示板位置、変化なし』
「光は?」
『消失状態を維持しています』
「背面側の魔力は測った?」
『まだです』
「地下振動?」
『午前中に一回』
「細管は?」
『近い時刻に一回。ただし完全な一致ではありません』
「低い共鳴?」
『ありません』
「名前の分からない子は?」
『朝食後、自室で過ごしています』
「外は?」
『本人から希望なし』
「昨日の『明日』は?」
『職員からは触れていません』
「うん」
『本人は窓から庭を何度か見ています』
「それだけ?」
『はい』
「ならそのまま」
少年が聞いていた。
「行きたいけど言わないのかも」
「かもしれない」
「聞けば?」
「『外行きたい?』って?」
「うん」
「普段から外出の希望を聞く時間ならいいと思う。でも昨日の話があるからって今だけ聞きに行くと、答えを促すことになるかもしれない」
「難しい」
「本人が窓見ただけで全部意味にしたくないし」
「外見たかっただけかも」
「うん」
「葉っぱ見てたかも」
「うん」
「雨降るか見た?」
「それもある」
「何でもある」
「そうなんだよ」
少年は少し考え、俺の塔の絵へ窓をもう一つ描いた。
「増やしたな?」
「外見るかもしれないから」
「勝手に窓増設するな」
「いいじゃん」
「構造に影響するだろ」
「二千年立ってるから平気」
「そういう問題じゃない」
笑いながら炭筆を取り返す。
昼食の時間になり、少年と一緒に食堂へ向かった。
今日は豆を数える老人はいなかった。
代わりに、窓際の席でミナが昼食を食べている。布袋は隣の椅子に置かれ、作りかけの小さな袋が少しだけ覗いていた。
少年が気づく。
「袋」
「うん」
ミナが答える。
「何入れるの?」
「まだ」
「作ってから決めるんだって」
俺が横から言うと、少年は納得したように頷いた。
「それでも作るんだ」
「うん」
「入れるものないかも」
「それでもいい」
ミナはそう言ってスープを飲む。
少年はしばらく考えていた。
「空でも?」
「うん」
「じゃあ箱も空でいい?」
ミナは少年の絵を知らない。
少し困った顔をした。
「箱?」
「俺の」
「……空でも、いいんじゃない?」
「そっか」
それだけで少年は満足したらしい。
俺は口を挟まなかった。
食堂には食器の音が響き、窓から入る光が床を明るくしている。保存されていた幼いアルフォンスは今日は別の卓で赤いジャムをパンへ塗っていた。
昨日、自分で厨房へ希望を伝えたのだろう。
量は多くない。
それでも、赤い色を見ながら嬉しそうに食べている。
目が合った。
「アル」
「ジャムあった?」
「言った」
「自分で?」
「うん」
「よかったな」
「明日は分かんない」
「毎日じゃなくてもいいもんな」
「うん」
パンを一口食べる。
それだけで会話は終わる。
昼食後、俺はアンナマリーと資料室へ入った。
机の上には十一件の候補から絞った四件が置かれている。
「四件?」
「本日すべて確認なさいますか?」
「二件」
「承知しました」
「迷わないんだ」
「残りは明日以降で問題ございません」
「じゃあ二件」
一件目。
外区滞在者三名。
内区側の「受入準備未了」。
呼出盤表示は停止。
その間、三名のうち一名が帰還希望を申告。
記録担当は本人意思を受理したが、内区移送は行わず、理由を説明して外区保護を継続。
翌日、受入準備完了。
呼出盤表示再開。
しかし――。
「本人、帰らないって?」
「はい」
アンナマリーが行を示す。
前日に帰還希望を出した人物は、表示再開後の確認で「今日は帰らない」と意思を変更している。
「それで?」
「保留です」
「前日の希望は?」
「記録として残っていますが、移送根拠にはされていません」
「表示が再開してるのに?」
「はい」
「その次は?」
「二日後、本人から再び帰還希望。そこで内区移送へ進んでいます」
俺は紙を見つめた。
「やっぱり、表示だけじゃ動かしてない」
「少なくとも、この記録では」
「受入準備と表示はかなり近そうだな」
「関連を示す記録は増えています」
「でも『受入準備完了を知らせる表示』とまでは言えない?」
「はい。表示が何を示すかの定義文がまだ見つかっておりません」
「二件目」
次の紙を開く。
こちらは設備点検記録だった。
人物の帰還記録ではない。
「呼出盤表示灯……?」
「はい」
俺は文字を追う。
呼出盤表示灯。
内区準備線。
外区表示板。
点検時、内区準備線へ模擬信号。
外区表示板作動確認。
「……これ」
「かなり具体的です」
「内区から信号が来て、外区の表示板が動く?」
「この設備では、そのように読めます」
「光は?」
「表示灯という語があります。ただし旧保養施設で確認された青白い光が、この表示灯と同じものかは分かりません」
「模擬信号って、何を送った?」
「詳細は欠損しています」
「外区表示板は?」
「作動確認後、手動復帰」
「手動?」
「はい」
そこが引っかかった。
「旧保養施設の表示板、戻してないよな」
「はい」
「自然に戻るものかも分からない」
「はい」
「この点検記録の設備は、確認後に人が戻してる」
「少なくとも点検時は」
「同じ型か?」
「判断できません」
似ている。
けれど、違いもある。
それがむしろ大事だった。
「これ、ガルムたちに共有」
「はい」
「でも旧呼び出し盤を手動復帰させるのは禁止のまま」
「当然です」
「フェリクスが『記録では手動です!』って言いそう」
「すでに申し上げておきます」
「助かる」
俺は椅子へ深く座った。
内区準備線。
外区表示板。
呼出盤表示灯。
少なくとも古い帰還管理のどこかには、内区側の状態を外区へ伝える設備が存在したらしい。
それなら、名前の分からない子供が言った「むこうが、つく」は――。
「アルフォンス様」
「分かってる」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に出てた?」
「少々」
「子供の言葉と繋げた」
「はい」
「でも記録には書かない」
「はい」
「旧保養施設の盤と同型とも決めない」
「はい」
「ただ、調べる方向としては使える」
「設備台帳の探索を進めます」
「それで」
資料を閉じる。
「三件目は?」
「明日です」
「俺が聞く前に止めた」
「二件とお決めになりましたので」
「ちょっと見たい」
「明日も残っております」
「エルみたいなこと言うな」
「良い判断かと」
資料室を出たあと、廊下を歩きながら少し笑った。
止めてくれる人がいる。
俺が止まれることも増えた。
どちらかだけでいいわけじゃない。
午後、旧保養施設では予定していた受動魔力観測を行わなかった。
昼の時点で、ガルムから「今日でなくていい」と意見が届いたからだ。
理由は単純だった。
光が消えてから半日も経っていない。
まず何もしない状態で、背面側の残留魔力がどう変化するかを見る。
測定器を置くことすら明日でいい。
「フェリクス納得した?」
『「観測しなければ変化が分からない」と主張しました』
「それも正しい」
『ガルム隊長が「だから今日は昨日までの記録を見ろ」と』
「そっちも正しい」
『現在、記録整理をしています』
「触ってない?」
『リディアが監視しています』
「信用がない」
『本人は「研究者としての信頼と手癖は別問題」と述べています』
「自覚あるじゃん」
三〇八号室の少年が笑う。
「フェリクス、触りたい?」
「かなり」
「何で?」
「分からないものを見ると調べたくなるんだろ」
「アルも?」
「なる」
「じゃあ同じ」
「俺は触らない」
「フェリクスも止められてる」
「自力か他力かは大きい」
「でも触ってない」
「……そこは評価するか」
『伝えますか?』
「エル、最近それ好きだろ」
『確認です』
「伝えなくていい」
午後の三〇八号室では、少年が珍しく窓際へ立った。
「外?」
「見るだけ」
「うん」
窓から中庭を眺める。
今日は風が弱い。
職員が干した布が、わずかに揺れている。
「出る?」
俺は聞かなかった。
少年はしばらく外を見ていたが、やがて自分から言った。
「今日は出ない」
「分かった」
「聞かないんだ」
「何を?」
「何でって」
「言いたい?」
「別に」
「じゃあいい」
「……寒そうだから」
「言ったじゃん」
「言ってもいい」
「もちろん」
少年が少し笑う。
「明日は出るかも」
「明日決めればいい」
「分かってる」
「最近先に言われるな」
「老人だから」
「誰が」
少年は卓へ戻った。
父の手紙には触れない。
絵の箱も閉じたまま。
新しい線には、まだ行き先がない。
それでも今日は、それで十分らしい。
夕方前。
旧保養施設から、名前の分からない子供について連絡が入った。
『本人が窓辺で外を見ています』
「外へ行きたいって?」
『まだ発言はありません』
「昨日の話は出してない?」
『はい』
少し待つ。
『本人が窓を離れました』
「うん」
『布鞄を持ちました』
「外かな」
『まだ判断できません』
俺も黙る。
数十秒後。
『本人が普段の職員へ「そと」と発言しました』
「本人から言った?」
『はい』
「行ける?」
『天候、安全条件とも問題ありません』
「なら普通に」
『はい』
旧保養施設の小さな庭へ、子供は自分から出た。
昨日の「あした」を職員に思い出させられたからではない。
朝すぐでもない。
昼でもない。
夕方に近い時間になってから、自分で決めた。
肩には布鞄。
中に木片があるかどうか、誰も確かめない。
庭には昨日より少し多く落ち葉があった。
夜の風で運ばれたらしい。
黄色。
茶色。
まだ緑の残るもの。
子供はしゃがみ込み、一枚ずつ拾う。
全部は持たない。
気に入ったものだけを手に取って、違うと思えば地面へ戻す。
普段の職員は少し離れている。
リディアもさらに遠くで周囲を見ている。
地下のことは話さない。
呼び出し盤のことも。
昨日消えた光のことも。
子供は庭の端まで歩き、低い柵の前で止まった。
その向こうには、旧保養施設の別棟へ続く石畳が見える。
地下へ降りる道ではない。
旧職員詰所へ行く道でもない。
ただの庭の端だ。
「むこう、いける?」
子供が尋ねた。
職員は柵の先を見る。
「今日はここまでなら安全って決めてるよ」
「なんで?」
「向こうはまだ床が割れてるところがあるかもしれないから、先に大人が調べてる途中」
「こわい?」
「落ちたら怪我するかもしれない」
曖昧にしない。
でも必要以上に怖がらせない。
子供は柵を見た。
「なおったら?」
「安全になったら、行きたいかまた聞いてもいい?」
子供はすぐに答えなかった。
職員も待つ。
「……ぼくがいう」
やがて子供が言った。
「うん」
職員は頷く。
「言いたくなったら教えて」
子供は柵から離れた。
落ち葉をまた拾う。
そのやり取りをエルから聞いた時、俺は少しだけ笑った。
「本人から言う、か」
『はい』
「帰還管理所の古い記録みたいだな」
『類似する考え方はあります』
「でも本人はそんな記録知らない」
『はい』
「だから繋げない」
『はい』
「……先に言われると思った?」
『少々』
「俺も学習してる」
その日の夕食前、子供は庭から戻った。
今日は四枚の葉を持ち帰った。
昨日の二枚と合わせれば六枚になる。
しかし、本人は全部を残さなかった。
一枚は途中で破れていたため捨てると言った。
もう一枚は普段の職員へ渡した。
残った二枚を自室へ持ち帰る。
窓辺には昨日の黄色と赤茶色の葉がある。
子供は新しい二枚をその横へ並べた。
木片は布鞄から出さなかった。
「今日は隠さないんだ」
俺が報告を聞きながら呟く。
『職員はその点について質問していません』
「うん」
『本人は葉を並べた後、夕食へ向かっています』
「何か関連発言?」
『ありません』
「それでいい」
塔へ戻ったのは、日がほとんど沈んだあとだった。
セリーが夕食を準備している。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「本日も旧保養施設へは?」
「行かなかった」
「はい」
「もう何日目か数えない」
「良いかと思います」
「でもちょっと行きたい」
「はい」
「表示板の文字も見たいし、光が消えた隙間も見たいし、今日見つけた帰還管理所の点検記録も現物と比べたい」
「はい」
「明日は?」
「主様がお決めください」
「止めない?」
「行くこと自体が問題なのではございません」
「そうなんだよな」
「必要以上にご自身だけで抱え込むことと、現地へ足を運ぶことは別です」
「じゃあ、明日の朝考える」
「はい」
食事を始める。
今日は煮込んだ鶏肉と豆。
パンをちぎりながら、昼に見た設備点検記録を思い返す。
「セリー」
「はい」
「内区準備線から信号が来て、外区表示板が動く設備があった」
「帰還管理所の記録でしょうか」
「うん。表示灯もある」
「旧保養施設のものと同一でしょうか」
「分からない」
「はい」
「でも、もし似た仕組みなら……」
そこで止める。
「言ってもいい?」
「仮説としてでしたら」
「子供の『むこうが、つく』と合うように見える」
「はい」
「向こう側の準備ができると表示がつく」
「その可能性を想像しやすくはなります」
「『ついたら』の続きは?」
「分かりません」
「だよな」
「帰る、行く、待つ、怖い、隠れる、誰かへ知らせる。どの言葉も本人は発しておりません」
「うん」
「ですから、設備側の仕組みが分かっても、本人の意思まで分かったことにはなりません」
「……そこ大事だな」
仮に呼び出し盤の仕組みを完全に解明できたとしても。
仮に表示板が「受け入れ準備完了」を示すものだと分かったとしても。
それは設備の意味だ。
子供がどうしたいかとは別だ。
「表示が命令じゃなくても、本人が命令だと思ってる可能性もある」
「はい」
「昔そう教えられたとか」
「可能性はございます」
「逆に、本人が自分で戻る目安として使ってた可能性も」
「はい」
「だから仕組みだけ見て安心しちゃ駄目か」
「そう思います」
俺は豆を一つ口へ入れた。
「今日の豆、何個?」
「数えておりません」
「老人なら数えるのに」
「主様は数えたいのですか?」
「いや」
「ではお召し上がりください」
「はい」
夕食を終え、自室へ戻る前に旧保養施設の夜間報告を聞いた。
表示板、変化なし。
青白い光、再発光なし。
地下微弱振動一回。
低い共鳴なし。
呼び出し線打音なし。
子供は夕食後、自室へ戻っている。
「木片は?」
『布鞄内と思われます。確認していません』
「葉っぱは?」
『窓辺に四枚』
「何してる?」
『紙に何か描いています』
「何?」
『職員は覗き込んでいません』
「そっか」
『本人から「みる?」と声をかけられました』
「自分から?」
『はい』
「じゃあ見た?」
『職員が「見てもいい?」と確認し、本人が頷いたため見ています』
「何描いてた?」
『線が二本と、四角形が一つです』
少しだけ胸がざわつく。
「意味は?」
『本人から説明はありません』
「聞いてない?」
『はい』
「色は?」
『炭筆のみです』
「呼び出し盤に似てる?」
『判断しません』
「正解」
『本人は職員へ紙を渡さず、自分の机へ戻しています』
「記録は?」
『形状についての詳細な複写は行っていません。本人が見せた事実と、線二本・四角形一つという一般的記述のみです』
「それでいい」
子供の絵は証拠品ではない。
見せてくれたからといって、勝手に写し取る必要はない。
「他は?」
『就寝前に一言あります』
「そのまま」
『「あした、まだだったら」』
俺は黙る。
『そこで発言を止めています』
「職員は?」
『続きを求めていません』
「……うん」
『本人はその後、「おやすみ」と言い、就寝準備へ入りました』
「それで終わり?」
『はい』
「記録だけ」
『はい』
通信を切る。
また途中だ。
明日、まだだったら。
何がまだなのか。
表示板か。
光か。
向こうか。
自分か。
何も分からない。
「主様」
セリーが水を差し出す。
「飲む」
「はい」
一息で半分ほど飲む。
「今、続きを考えた」
「何通りでしょう」
「五つくらい」
「少ない方でしょうか」
「増やさないで」
「はい」
「明日、本人が続き言わなかったら?」
「そのままですね」
「言ったら?」
「聞けばよろしいかと」
「簡単だな」
「本人が自分から話すのであれば」
「うん」
水を飲み終える。
今夜はそれ以上考えないことにした。
寝台へ入る。
旧保養施設の表示板は止まったまま。
光は消えたまま。
子供の言葉も途中のまま。
全部、途中だ。
それでも夜は来る。
翌朝。
俺が目を覚ました時、窓の外には薄い朝日が差していた。
今日は雲が少ない。
寝台から起き、水を飲み、着替える。
『主様。おはようございます』
「おはよう。緊急?」
『いいえ』
「じゃあ朝飯」
『はい』
食堂へ向かう。
セリーがパンを切っている。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は晴れそう」
「はい。旧保養施設周辺も晴れの予報です」
「予報まで把握してる」
「主様が向かわれる可能性がございますので」
「まだ決めてないよ」
「ですので、情報のみ用意しております」
「できる人だな」
「存じております」
「自分で言った」
席へ座る。
朝食を始める。
数口食べてから、エルへ声をかけた。
「夜間報告お願い」
『表示板、位置変化なし。青白い光、再発光なし』
「地下?」
『微弱振動三回。うち一回は細管側と近接。低い共鳴一回』
「時刻一致?」
『低い共鳴とは一致していません』
「呼び出し線?」
『打音なし』
「残留魔力?」
『能動・受動とも追加測定なしです』
「子供は?」
『まだ睡眠中です』
「昨日の『あした、まだだったら』はそのまま?」
『はい。解釈を付していません』
「よし」
パンを食べる。
「今日は現地行こうかな」
セリーが俺を見る。
「理由は?」
「点検記録で分かった内区準備線と外区表示板の構造が、現物の呼び出し線の配置と似てるかを自分でも確認したい」
「主様でなければ確認できませんか?」
「できる」
「では?」
「行きたい」
セリーは少しだけ目を細めた。
「それなら、よろしいのではないでしょうか」
「いいの?」
「主様が行かなければ進まないから行く、ではございません。現地を見たいから行くのでしょう?」
「うん」
「ガルム様やリディア様へ役割を任せたうえで、ご自身も確認に参加されるのであれば、問題ないかと」
「……そっか」
「ただし」
「来た」
「朝食後です」
「分かってる」
「昼食も現地で抜かれませんよう」
「持ってく?」
「すでに用意いたします」
「決める前から?」
「可能性があると申し上げました」
「強い」
笑いながら食べる。
朝食が終わる少し前。
『主様』
「起きた?」
『はい』
「名前の分からない子?」
『はい』
俺はパンを皿へ置いた。
「普通?」
『起床時の様子に大きな変化なし。本人は窓辺へ向かいました』
「葉っぱ?」
『四枚あります』
「木片は?」
『布鞄内です』
少し待つ。
『本人が窓を開けたいと希望しました』
「安全?」
『職員が少しだけ開けています』
「うん」
朝の風が入ったのだろう。
『本人が外を見ています』
「何か言った?」
『まだです』
俺はスープを飲む。
待つ。
『本人が「きょう、そと」と』
「外行きたい?」
『職員が「今日も外へ行きたい?」と確認しました』
「本人は?」
『頷いています』
「なら普通に行ける時間に」
『はい』
「昨日の途中の言葉は?」
『触れていません』
そこで通信は終わるかと思った。
しかし、エルが続けた。
『本人が布鞄を開けました』
「うん」
『木片を取り出しています』
俺は黙る。
『本人は木片を見た後、昨日描いた紙を持ちました』
「線二本と四角?」
『はい』
「職員には?」
『本人から「もってく」と』
「どこへ?」
『職員は「外へ?」と確認しました』
「それなら誘導少ないな」
『本人は首を横へ振りました』
俺の指が止まる。
『続いて、「あっち」と』
「旧職員詰所?」
『本人が廊下方向を指しています。現時点では方角のみで断定していません』
「職員は?」
『「どこまで行きたいか、廊下で教えてくれる?」と』
「本人は?」
『頷きました』
俺はセリーを見る。
セリーも静かにこちらを見ている。
「俺、今から行く予定だった」
「はい」
「本人は知らないよな?」
『伝えていません』
「俺が来るまで待たせない」
『はい』
「俺が行くことも今は言わなくていい」
『承知しました』
「安全確認は現地で」
『ガルム隊長へ共有します』
俺は残っていた朝食を食べる。
急がない。
子供は自分で行き先を決めようとしている。
俺が間に合うかどうかは関係ない。
食べ終わり、塔を出る。
転移設備を使えば旧保養施設近くまで短時間で行ける。
それでも到着する頃には、子供はすでに生活区画を出ていた。
ガルムから先に連絡が入る。
『本人は普段の職員と移動中だ。リディアが前を確認している』
「どっちへ?」
『旧職員詰所方向だ』
「止める理由は?」
『今のところない。前と同じ安全距離までは問題ない』
「紙と木片持ってる?」
『ああ。どっちも本人が持ってる。誰も触ってない』
「俺が着いたことは?」
『まだ伝えてない』
「そのままで」
旧保養施設の玄関をくぐる。
中は以前と同じ、古い石と薬草、それに暖房設備の乾いた匂いが混ざっていた。
ガルムが廊下の角で待っている。
「来たか」
「うん」
「珍しく、自分で来たいから来たらしいな」
「エルから聞いた?」
「セリーからだ」
「何で共有されてるの」
「お前が無茶で来たんじゃないか確認した」
「監視が広い」
「必要だろ」
「否定できない」
リディアが少し先から戻ってくる。
「本人は前回止まった位置まで来ています」
「俺、行っていい?」
「姿を見せるだけなら。本人が嫌がれば下がってください」
「分かった」
俺は歩く。
曲がり角の向こう。
名前の分からない子供がいた。
普段の職員の隣。
肩には布鞄。
右手に木片。
左手に紙。
俺を見つける。
「アル」
「おはよう」
「きた」
「うん。俺もここを見に来た」
「ぼくの?」
「違うよ。古い設備を見に来た」
子供は少し考え、頷いた。
それでいい。
俺が自分のために来たことと、子供が自分のために来たことは別だ。
「そこにいて」
「ここ?」
「うん」
「分かった」
近づかない。
子供は旧職員詰所の方を見る。
青白い光はない。
表示板は六ミリずれたまま。
子供が持ってきた紙を床へ置いた。
自分でしゃがみ込む。
紙には、昨日聞いた通り、二本の線と四角形が一つ。
けれど実物を見るのは初めてだ。
俺は勝手に近づかない。
子供が顔を上げる。
「みる?」
「見てもいい?」
「うん」
「ここから?」
「もっと」
一歩だけ進む。
「ここ?」
「うん」
紙を見る。
二本の線は平行ではない。
一方は四角へ繋がっている。
もう一方は四角の手前で止まっている。
ただ、それが何を描いたものなのかは分からない。
「何か描いたんだね」
「うん」
それ以上は言わない。
「これ」
子供が木片を持ち上げる。
「うん」
「ここ」
紙の上へ木片を置いた。
四角形の中ではない。
二本の線の間。
「そこに置くんだ」
「うん」
子供は旧職員詰所を見る。
「まだ」
昨日から何度も聞いている言葉。
俺は待つ。
「まだ、つかない」
胸の奥が動く。
何が。
聞きたい。
でも子供は続けた。
「むこう」
自分から。
「むこうが、ついたら」
そこで一度息を吸う。
普段の職員も、ガルムも、リディアも動かない。
俺も口を挟まない。
子供の指が紙の四角へ触れた。
「ここ、あく」
廊下の空気が一瞬だけ変わったように感じた。
けれど誰も言葉を重ねない。
子供は紙から指を離す。
「ぼく、いく」
初めて、途中で止まらなかった。
俺はすぐに「どこへ」と聞きそうになった。
止める。
本人が言いたいなら、続く。
続かなければ、今はそこまでだ。
子供は木片を紙の上から取り上げた。
「でも」
布鞄へ戻す。
「まだ」
「うん」
俺はそれだけ答えた。
子供が俺を見る。
「いま、いかない」
「分かった」
「ついても」
また言葉が続く。
「すぐ、いかない」
俺は少しだけ息を吐いた。
「うん」
「ぼくが、いくっていう」
帰還管理所の古い記録が頭をよぎった。
本人申告まで再確認しない。
けれど、それをこの子へ重ねる必要はない。
これは記録の言葉じゃない。
今、この子自身が言った言葉だ。
「分かった」
俺は答える。
「お前が行くって言うまで、勝手に連れていかない」
子供は俺を見た。
「ほんと?」
「うん。ただ、ここで何か危ないことが起きて、今いる場所から逃げないと怪我をするとか、そういう時は安全な場所へ移すことはある」
「もどす?」
「危ない場所から離すだけ。どこかへ戻すって意味じゃない」
「……うん」
「それ以外で、表示が動いたとか、何か光ったとか、それだけで勝手に連れていかない」
子供の肩から、少しだけ力が抜けた。
「ついても?」
「それだけなら」
「よばれても?」
俺は一瞬考える。
「呼ばれたってお前が感じても、それだけで俺たちがお前を運ぶことはしない」
「ぼくが?」
「うん。行きたいか、行きたくないか、その時のお前の言葉を聞く」
「……まだっていったら?」
「待てる状況なら待つ」
「ずっと?」
「危険がなければ、急がせる理由はない」
絶対とは言わない。
できない約束をしない。
子供は紙を拾った。
「じゃあ、まだ」
「うん」
「きょうは、そと」
思わず笑いそうになった。
「庭?」
「うん」
「安全確認してからなら行けるよ」
子供は普段の職員を見る。
「いく」
「じゃあ、準備しようか」
「うん」
それで旧職員詰所の前から離れた。
表示板には触れなかった。
青白い光は戻らなかった。
木片を盤へ近づけなかった。
紙も俺たちへ渡さなかった。
そして何より、子供は「むこうがついたら、ここが開く」「ぼくは行く」と言ったあとで、自分から「ついてもすぐには行かない」「ぼくが行くと言う」と言い直した。
昨日までの言葉が今日の命令にならなかった。
自分で変えた。
自分で条件を足した。
それを、大人が元へ戻す必要はない。
子供が庭へ向かったあと、ガルムが俺の横へ来た。
「聞きたいこと、山ほどある顔だな」
「ある」
「聞かなかったな」
「頑張った」
「自分で言うな」
「本当に頑張ったんだよ」
リディアも旧職員詰所の入口から戻ってくる。
「表示板、発光、周辺魔力に変化ありません」
「子供が近づいた時も?」
「ありません」
「木片を出した時も?」
「観測範囲では」
「なら、それだけ記録」
「はい」
ガルムが呼び出し盤を見る。
「で、お前が見たかった設備の方は?」
「それ」
俺は少し気持ちを切り替える。
「帰還管理所で、内区準備線から信号を入れると外区表示板が動く点検記録が見つかった」
「聞いた」
「この盤の右側にある線、昨日まで『呼び出し線』って呼んでたけど、壁の中でどっちへ行ってる?」
リディアが古い図面を開く。
「追える範囲では、下ではなく建物中央方向です」
「地下の送風路とは別?」
「はい」
「細管とも?」
「別です」
「旧職員詰所から建物中央……」
図面の先は欠損している。
「その先、何がある?」
「現存図面では廊下と倉庫です。ただし壁内配線の記載が途中で切れています」
「未知の地下室方向じゃない?」
「少なくとも直接は」
「帰還管理所と同じなら、どこかの『向こう側』から来る線かもしれない」
「仮説としては」
「今日は開けない」
「分かっています」
「線に信号も送らない」
「はい」
「受動観測だけ?」
ガルムが腕を組む。
「今日やるか?」
俺は呼び出し盤を見る。
子供はもうここにいない。
光も消えている。
急ぐ理由はない。
「今日は配置確認だけ」
「だと思った」
「明日以降、帰還管理所の点検記録と線の構造をもっと比べてから」
「了解」
フェリクスが廊下の向こうから顔を出した。
「では私が配線だけでも――」
「触るな」
俺とガルムの声が重なった。
フェリクスが止まる。
「……まだ何もしていません」
「近づき方が怪しい」
「研究者に対する偏見です」
「実績だ」
リディアが淡々と言う。
俺は笑った。
「今日は記録見るだけ」
「アル殿下まで」
「俺も触りたいけど我慢してる」
「では私も同等に――」
「お前はガルム付き」
「同等ではありません!」
廊下に少しだけ笑いが広がった。
その頃、庭では名前の分からない子供が落ち葉を拾っていた。
昨日「あした」と言ったからではない。
今朝、自分で「きょう、そと」と言ったから。
旧職員詰所へ来たことも。
紙を見せたことも。
木片をどこへ置くか示したことも。
「ぼくが、いくっていう」と言ったことも。
全部、今日の本人が選んだことだった。
そしてその日の昼、子供は拾った新しい葉を一枚だけ紙の四角形の上へ置いた。
普段の職員が見ていると、子供は少し考えてから言った。
「これは、まだ」
職員は頷く。
「うん」
続きを聞かない。
子供も続けなかった。
四角の上に置かれた葉は、午後の風が窓から入るまで、そこに残っていた。
やがて葉の端が揺れた。
子供はそれを手で押さえ、少しだけ笑った。
何かが点く日も。
何かが開く日も。
どこかへ行く日も。
今日である必要はなかった。




