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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第67話 消えるまで待つと言っていない子に、その先の約束まで作る必要はありませんでした

 名前の分からない子供が「きえたら」と言いかけ、その先を口にしなかった朝、旧保養施設の職員は続きを求めなかった。


 何が消えたらなのか。青白い光なのか、別の何かなのか。そして消えたあとに行くのか、戻るのか、それともただ安心するのか。問いを重ねれば、子供はどれかを選んで答えようとするかもしれないが、それが本人の中に最初からあった言葉なのか、大人の質問に形を与えられた答えなのかは分からなくなる。


 だから記録には、途中で終わった言葉も途中のまま残された。


 子供は自分で部屋へ戻り、扉を閉めなかった。布鞄は寝台の端に置き、しばらく窓の外を見たあと、朝食を食べるために普段の職員と生活区画へ向かったという。


 その報告を聞いたのは、俺が塔の食堂で朝食を食べ始めてからだった。


 今日は最初からそうすると決めていたわけではない。ただ、目を覚ました直後にエルから「緊急ではない」と聞き、ならば着替えて、顔を洗って、食堂へ行ってから聞けばいいと思えた。


 昨日なら少し褒められたところだろう。


 そう思いながら席につくと、セリーが温かなスープと焼いたパン、それに卵料理を並べた。窓の外では厚かった雲が少しずつ切れ、森の梢へ薄い朝日が落ち始めている。


「今日は何も言わないの?」


「何についてでしょうか」


「朝起きてすぐ報告を聞かなかった」


「昨日もできておりましたので」


「もう普通扱い?」


「継続されておりますので」


「評価期間が短いな」


「良い習慣は早めに通常化した方がよろしいかと」


「褒めて伸ばす期間は?」


「主様には十分かと」


「厳しい」


 パンをちぎってスープへ浸す。


 それからエルへ声をかけた。


「旧保養施設の報告、お願い」


『はい。夜間から現在まで、旧職員詰所の表示板に新たな位置変化はありません。初期位置から約六ミリの変位を維持しています』


「青白い光は?」


『継続しています』


「明るさは?」


『発見時から大きな変化はありません。ただし、ごく緩やかな揺らぎが記録されています』


「点いたり消えたり?」


『いいえ。消灯するほどではありません。明度がわずかに上下しています』


「周期ある?」


『現時点では確認できません』


「地下の振動は?」


『夜間に二回。いずれも光の明度変化とは時刻が一致していません』


「低い共鳴?」


『一回。こちらも一致なしです』


「暖房とか送風路は?」


『通常運用です。既知の動作時刻と光の変化に明確な一致はありません』


「呼び出し線の打音は?」


『ありません』


 卵を一口食べながら考える。


 光はある。


 表示板は止まっている。


 地下の振動も、低い共鳴も、今のところ同じ時刻には重ならない。


 何か一つが動けば全部が連動する、という分かりやすい仕組みではなさそうだった。


「子供は?」


『先ほどお伝えした発言の後、朝食へ移動しました』


「食べてる?」


『現在食事中です』


「何か変わった様子は?」


『強い不安、呼吸の乱れ、拒食などはありません』


「鞄は?」


『本人が椅子の背へ掛けています』


「木片は確認しなくていい」


『はい』


「『きえたら』の続きを聞こうとした人は?」


『いません』


「それでいい」


 そこで一度スープへ視線を落とした。


 気になることはある。


「光について、子供には伝えてないまま?」


『はい』


「本人から聞かれたら隠さない。でも、こっちから『何か点いたよ』とは言わない」


『承知しました』


「あと、本人が旧職員詰所へ行きたいって言った場合は?」


『現地からも確認事項として挙がっています』


「止める理由は今ある?」


『旧職員詰所そのものに直ちに生命を脅かす危険は確認されていません。ただし、呼び出し盤周辺は未解明の設備であり、近接時の安全性は確定していません』


「なら、行きたいって言っただけでそのまま盤の前まで連れていくのはなし」


『はい』


「でも『危ないから絶対駄目』ともまだ言えない」


『はい』


「希望が出たら、どこまで近づきたいのかを確認して、廊下から見るだけとか、距離を取る方法を先に考える」


『ガルム隊長へ共有します』


「俺が行くかどうかは?」


『どうされますか?』


「今は行かない」


『承知しました』


 セリーがスープを食べ終えた俺の前へ果物を置いた。


「今日は白鴉?」


「うん」


「旧保養施設へ向かわれないのですね」


「本人が俺を呼んでないし、現地も回ってる」


「はい」


「光は見たいけど」


「はい」


「すごく見たいけど」


「二度おっしゃる程度には」


「でも写真みたいな記録は取れてるんだろ?」


『視覚記録は保存されています』


「ならまずそれ見る」


 エルが食堂の卓上へ淡い光の板を展開する。


 旧職員詰所の壁。


 錆びた呼び出し盤。


 そこから横へわずかにずれた表示板。


 六ミリという数字だけなら小さい。しかし最初の位置を重ねて表示すると、確かに動いていることが分かる。


 その下。


 髪の毛よりは太いが、指一本には到底届かないほどの細い隙間から、青白い光が滲んでいた。


「思ったより細いな」


『はい』


「これ、表示板が動かなかったら見えなかった?」


『正面からの目視では、ほぼ確認できなかったと推定されます』


「光が昨日点いたのか、前から点いてたのかも分からない?」


『その通りです。表示板が隙間を覆っていた期間の発光状態は確認できません』


「……大事だな」


 昨日の夜、光がついた。


 そう言いたくなる。


 でも、正確には違う。


 昨日の夜、俺たちが光を見つけた。


 その時に点いたとは限らない。


「記録の表現、『発光開始』になってない?」


『「発光確認」としています』


「よし」


 果物を口へ入れる。


 甘い。


 窓の外では、朝日が少し強くなっていた。


「今日は、帰還管理所の『呼出表示』を調べる?」


『アンナマリー様が同年代資料の索引整理を進めています』


「じゃあ白鴉で聞く」


『はい』


「旧保養施設の光は、現地で非接触観測の案だけ作ってもらって。まだ実施は決めない」


『承知しました』


「昨日みたいに、できるからすぐやるはなし」


『はい』


「……フェリクスにも」


『強調して共有します』


「そこ一番大事」


 食器を片づけ始めたセリーが、わずかに笑った。


 白鴉療養所へ着くと、中庭には昨日拾いきれなかった落ち葉が風に寄せられていた。


 空はまだ雲が多いが、その隙間から差す光は昨日より明るい。洗濯場では数人の職員が布を干しており、建物の中からは食器を重ねる音と、誰かの笑い声が小さく聞こえてくる。


 入口でブラットと会った。


「おはようございます」


「おはよう。何かあった?」


「大きなものは。保存されていた幼い殿下は、今朝は少し足が重いとのことで、ヨアヒムが歩行訓練を短くしております」


「どのくらい?」


「本人申告で疲れ二。痛みはなし。朝食は通常通りです」


「なら休み優先で」


「本人もそう選びました」


「そっか」


 以前なら、俺が「休ませて」と言わなければいけないような気がしていた。


 でも今は、本人とヨアヒムで決められている。


「三〇八号室は?」


「朝食後、自室です。今のところ外出希望なし」


「分かった」


 廊下を歩いている途中、ミナが窓際の椅子に座っていた。


 布袋から昨日の布切れを出し、膝の上へ並べている。今日は針も糸も持っていない。ただ色の違う布を重ねたり、離したりしていた。


「おはよう」


「おはよう」


「決まった?」


 俺が布へ目を向けると、ミナは少し考えて首を横へ振った。


「まだ」


「そっか」


「でも、これ」


 薄い青の布を一枚持ち上げる。


「これは使う」


「一個決まったんだ」


「うん」


「何に使うかは?」


「まだ」


「そこはまだなんだな」


 ミナが少しだけ笑う。


「決めたら言う」


「楽しみにしてる」


 それ以上は聞かない。


 三〇八号室の扉を叩く。


「どうぞ」


 中へ入ると、少年は卓の上へ昨日の絵と俺の塔の絵を並べていた。


「おはよう」


「今日は普通」


「何が?」


「来る時間」


「基準が分からないって昨日も言ったぞ」


「今日はお腹減ってない」


「朝飯食べただろ」


「食べた」


「やっぱり分からない」


 少年が笑う。


 俺の塔の絵を見ると、昨日増やした窓の横に、知らない線が一本足されている。


「これ何?」


「道」


「勝手に描いた?」


「駄目?」


「俺の紙だぞ」


「塔だけアルの」


「土地の所有権みたいになってるな」


「道は俺」


「強い」


 椅子へ座る。


 状態確認は今日も短く済んだ。


 頭痛なし。吐き気なし。身体の重さ一。怖さ一。夜中に目を覚ますこともなく眠れた。


 白い薬をどうするか尋ねる前に、少年は少し考えてから容器を見た。


「今日も同じでいい?」


「いいよ」


「減らさなくて平気?」


「平気」


「増やさなくて?」


「今の状態なら、増やす理由も出てない」


「じゃあ同じ」


「うん」


 セリーが薬を用意する。


 少年は受け取って飲み、蜂蜜水を続けた。飲み終えたあとに顔をしかめるところまで、いつもと変わらない。


「苦い」


「知ってる」


「毎日言ってる」


「毎日苦いからな」


「慣れない」


「慣れなくていいんじゃない?」


「何で?」


「苦いものは苦いだろ」


「薬だから我慢する」


「それは偉い」


「蜂蜜増やして」


「そこはセリーに交渉して」


 少年がセリーを見る。


「増やせる?」


「薬剤摂取後の蜂蜜水については、現在量で十分かと」


「けち」


「健康管理です」


「アルと同じこと言う」


「私は以前から申し上げております」


「じゃあアルが真似した?」


「俺を巻き込むな」


 少年が笑う。


 空気が少し緩んだところで、彼は赤い布に包まれた手紙へ視線を向けた。


 昨日までも、何度か見ていた。


 今日は少し長い。


「読む?」


 俺からは聞かなかった。


 少年自身が手を伸ばし、赤い布の端へ指を置く。


「……今日、読むかもって言った」


「言ってたな」


「今読んでもいい?」


「いいよ」


「読まなくても?」


「いいよ」


「途中まででも?」


「もちろん」


 少年は封筒を取り出した。


 すでに途中まで読んでいる二通目。


 最初から読み直す必要はない。前に止めた場所には、本人が分かるよう細い紙片を挟んである。


 少年はそれを開き、少しだけ息を吸った。


 俺は隣へ寄りすぎない。


 セリーも卓から離れた位置にいる。


 しばらく、紙の擦れる音だけがした。


「ここ」


 少年が指を置く。


 前に止めたところ。


「『迷いが生じた場合は、自ら判断せず、教師へ申し出ること』」


 声に出して読み、そこで一度止まる。


「うん」


「この次」


「読みたい?」


「……一行」


「分かった」


 少年の指が下へ動く。


 目で文字を追う。


 唇が少し動いたが、すぐには声にならなかった。


「何て書いてある?」


 そう聞きそうになって、やめる。


 俺が読む必要はない。


 少年が紙を少しこちらから隠すように傾けた。


 意識してやったのかは分からない。


 でも、それならなおさら見ない。


 やがて少年が小さな声で読んだ。


「『教師の判断は、王宮への帰還を妨げるものではなく――』」


 そこで止まる。


 眉が寄った。


「続ける?」


「待って」


「うん」


 少年は同じ行をもう一度目で追った。


「……『正しい帰還のために必要な導きである』」


 部屋が静かになる。


 外では風が窓を軽く鳴らした。


 少年の指が紙の上に残っている。


「正しい帰還って何?」


「分からない」


「間違った帰還もある?」


「この手紙を書いた人が何をそう呼んでたかは、まだ分からない」


「帰るだけじゃないの?」


「そうかもしれないし、何か条件を含めて『正しい』って書いてるのかもしれない」


「教師の言うこと聞くのが?」


「そう書きたい文章には見える」


「……嫌だ」


 声は強くなかった。


 でも、はっきりしていた。


「うん」


「帰りたいって思っても、教師が駄目って言ったら?」


「この手紙だけじゃ分からない」


「でも自分で決めるなって書いてる」


「書いてるな」


「正しいの、教師が決める?」


 少年は紙を見たまま言う。


 俺はすぐに否定も肯定もしなかった。


「少なくとも、この文章は教師の判断をかなり強く信じさせようとしてる」


「父上が書いた?」


「それもまだ分からない」


「印ある」


「ある。でも、印があることと、父上自身が全部書いて封をしたことは別だ」


「前も言った」


「うん」


 少年の肩が少し下がる。


 怒っているのか、怖いのか、自分でもまだ分からないのだろう。


「今日はここまでにする」


 自分から紙を閉じた。


「分かった」


「一行じゃなかった」


「二つに分かれてただけだろ」


「二行」


「細かいな」


「約束破った?」


「お前が自分で読んだんだから、破ってない」


「……そっか」


 赤い布へ戻す。


 今日はそれで終わった。


 続きを読みたくなるかもしれない。


 ならなくてもいい。


「地下、聞く」


 手紙を置いたあと、少年が言った。


「今?」


「うん。違う話したい」


「分かった」


 俺は朝までに分かっていることだけを話した。


 表示板はそれ以上動いていないこと。


 細い隙間から青白い光が見えていること。


 ただし、昨日その時に点いたのか、それ以前から点いていたのかは分からないこと。


 名前の分からない子供には、光のことを伝えていないこと。


 そして朝、子供が廊下の向こうを見て「いかない」「まだ、いかない」「きえたら」と言い、そこで止めたこと。


 少年はしばらく黙っていた。


「何が消えたら?」


「聞いてない」


「光?」


「分からない」


「でも光ついてる」


「うん」


「子供は知らない」


「少なくとも、こっちからは教えてない」


「昨日『ついた』って言ったんだよね」


「うん」


「変じゃない?」


「気にはなる」


「聞かない?」


「今のところは」


「また?」


「また」


 少年は少し不満そうに頬を膨らませたが、昨日ほど苛立ってはいない。


「もし俺が『きえたら』って言って止めたら?」


「待つ」


「ずっと?」


「その時の状況による」


「手紙見ながらだったら?」


「手紙に何か危険があると分かってなければ、続きを言えとは言わない」


「俺が困ってても?」


「困ってるように見えたら、『何か手伝える?』くらいは聞くかも」


「何が書いてあるかは?」


「お前が見せたくなければ見ない」


 少年は赤い布へ目を向けた。


「さっき、隠した」


「うん」


「見なかった?」


「見なかった」


「気づいた?」


「気づいた」


「何で言わなかったの?」


「隠したかったんだろ」


「……ちょっとだけ」


「ならそれでいい」


 少年はしばらく黙り、やがて俺の塔の絵を引き寄せた。


「道、もっと描く」


「俺の土地が減っていく」


「塔はアル」


「入口までお前の道になったら出られないだろ」


「通っていいよ」


「許可制?」


「うん」


「厳しい領主だな」


 また笑う。


 その笑いが出るまで、手紙を閉じてから少し時間が必要だった。


 それでよかった。


 昼前、アンナマリーが整理した帰還管理所の記録を見るため、小さな資料室へ移った。


 今日は帳簿を何冊も開くのではなく、すでに索引化された「呼出表示」という語の候補だけを見る。


 アンナマリーは机の上へ三枚の転記紙を並べた。


「同じ語が三件?」


「完全一致は二件です。残る一件は『呼出盤表示』となっています」


「年代は?」


「三件とも比較的初期ですが、同一年ではありません」


「旧保養施設との年代照合は?」


「まだです。設備台帳が欠けているため、呼び出し盤そのものの設置年を確定できておりません」


「じゃあ同じもの扱いしない」


「はい」


 一枚目。


 外区に滞在する人物が帰還を希望しているが、身体状態の確認待ち。


 その備考に「呼出表示未作動」。


「帰りたいって言ってるのに、表示は動いてない?」


「記録上はそうです」


「それでも帰還意思は有効?」


「はい。表示未作動を理由に本人意思を無効とはしていません」


「じゃあ表示が『本人が帰りたいと思ったら動く』ものではなさそう」


「少なくとも、この一例だけを見るなら、本人の帰還希望と表示作動は一致しておりません」


 二枚目。


 本人は帰還を保留。


 呼出表示が作動。


 しかし本人申告なし。


 再確認を行わず、外区保護継続。


 昨日見たものとよく似ている。


「これ、別人?」


「はい」


「表示が動いても聞きに行ってない例、二件目か」


「そうなります」


「その後は?」


「三日後、本人から帰還希望の申告があります」


「表示は?」


「その時点では『表示解除済』とあります」


「解除したの誰?」


「不明です」


「本人が帰りたいって言った時には、もう表示は消えてた?」


「文面上は」


 俺は紙を見直す。


「じゃあ表示が点いてる間に帰らなきゃいけない、でもない?」


「少なくとも、この人物は表示解除後に本人申告し、その申告を受けて確認手続きへ進んでいます」


「表示が消えたから帰れない、にもなってない」


「はい」


 胸の中で、今朝の言葉が浮かぶ。


 きえたら。


 けれど、それをここへ繋げるのは早い。


「三枚目は?」


「『呼出盤表示』です」


 読む。


 文章は短かった。


 内区側の受け入れ準備に遅延あり。


 呼出盤表示を一時停止。


 外区滞在者への帰還意思確認は、本人申告があった場合のみ継続。


「……受け入れ準備?」


「はい」


「表示って、戻る本人側じゃなくて、向こう側の都合を知らせるもの?」


「可能性はあります」


「でも確定じゃない」


「はい。『受け入れ準備』が人員なのか、設備なのか、処置なのかも不明です」


「一時停止できるんだな」


「この『呼出盤表示』が旧保養施設のものと同種であれば、ですが」


「そこもまだ」


「はい」


 俺は三枚を並べて見た。


 一つの形が見えそうになる。


 帰還希望があっても表示未作動。


 表示が作動しても本人申告がなければ再確認しない。


 表示が解除されたあとでも本人が帰還希望を出せば手続きへ進む。


 受け入れ準備の遅延で表示を一時停止した記録。


「もし同じ系統なら、呼出表示は『戻れ』って命令じゃないかもしれない」


「そう考えられる材料は増えました」


「帰還の手続きを進められる状態とか、向こうが受け入れられる状態とか」


「候補にはなります」


「でもまだ候補」


「はい」


「名前の分からない子には、今これを伝える?」


 アンナマリーはすぐには答えなかった。


「本人が『呼ばれたら戻る』と話している以上、将来的には本人に関係する可能性がある情報だと思います。ただ、旧保養施設の表示板と同じ設備である確認が取れておらず、現時点で説明すると、かえって本人の理解へこちらの仮説を混ぜる恐れがあります」


「俺もそう思う」


「ですが、本人が『あれは何』と尋ねた場合は?」


「分かってる範囲を言う。古い記録に似た言葉があることも、同じものか分からないことも」


「はい」


「『あれは戻れって意味じゃないよ』とは言わない」


「まだ言えませんから」


「逆も言わない」


「はい」


 三枚を閉じる。


「今日はここまで」


「承知しました」


「少ない?」


「昨日は調査をなさらなかったので、今日は十分かと」


「基準がよく分からない」


「アルフォンス様が疲れていらっしゃらない範囲です」


「それなら分かる」


 資料室を出る。


 廊下の途中で、保存されていた幼いアルフォンスと会った。


 ヨアヒムと一緒に、短い距離を歩いている。


 朝は足が重かったと聞いていたが、今はゆっくりなら歩けているようだった。


「あ、アル」


「おはよう。調子どう?」


「朝よりいい」


「疲れは?」


「いま、一」


 すぐに答える。


「歩くの、あとちょっと」


「自分で決めた?」


「うん。あそこまで」


 子供が指したのは、廊下の先に置かれた長椅子だった。


 遠くない。


「じゃあ邪魔しないように見てる」


「一緒に来る?」


「いいの?」


「うん」


 横へ並ぶ。


 手を引かない。


 歩幅も急かさない。


 子供は一歩ずつ進み、長椅子まで着くと、自分から腰を下ろした。


「疲れた」


「いくつ?」


「二」


「増えたな」


「だから休む」


「正解」


 ヨアヒムが笑う。


「今日は本人の方が先に申告しました」


「俺より上手い」


「アルは休まないの?」


 子供が俺を見る。


「最近は休んでる」


「ほんと?」


「何で疑うんだよ」


「セリーがいるから?」


「……かなり大きい」


 子供が笑った。


「赤いジャム、今日ない」


「残念?」


「果物もおいしかった」


「じゃあいいじゃん」


「でも明日は赤いのがいい」


「それ、厨房に自分で言える?」


「言う」


「じゃあ俺からは言わない」


「うん」


 少し休んでから、子供はヨアヒムと戻っていった。


 その後ろ姿を見送る。


 自分で疲れを言う。


 自分で休む。


 明日の食べたいものを自分で伝える。


 大きな謎とは何も関係ない。


 でも、こういうことの方が、もしかすると今は大事なのかもしれない。


 昼食のあと、旧保養施設から連絡が入った。


『青白い光について、非接触観測案がまとまりました』


「内容だけ聞く」


『光学記録と受動魔力観測のみです。呼び出し盤から一・五メートル以上離し、能動照射なし。表示板、壁、呼び出し線には接触しません』


「何が分かる?」


『発光強度の時間変化と、昨日確認された背面側残留魔力の変動が一致するかを比較できます』


「今日やる必要は?」


『ガルム隊長は「急がない」としています』


「リディアは?」


『光が継続している間に基準値を取る意味はあるが、数時間遅れても安全上の問題はないとの意見です』


「フェリクスは?」


『今すぐ実施したいと』


「知ってた」


『ただし、分解案は口にしていません』


「成長してるな」


『本人へ――』


「言わなくていい」


 三〇八号室の少年が向かいで笑った。


「また?」


「また」


「褒めればいいのに」


「調子乗るぞ」


「アルも褒められると乗る?」


「場合による」


「セリーに褒められたら?」


「……ちょっと嬉しい」


「じゃあフェリクスも嬉しい」


「嫌な説得の仕方するな」


 少年は満足そうに笑った。


 俺は少し考える。


「今日はやらない」


『承知しました』


「光が今夜まで残るなら、何もしない状態での明るさの変化を先に取る。明日の朝、それを見てから」


『はい』


「消えた場合も、消えた時刻と周辺記録だけ残す」


『はい』


「消えそうだから慌てて測る、はなし」


『ガルム隊長へ共有します』


「子供は?」


『午前中は室内で落ち葉を並べています』


「昨日の三枚?」


『はい』


「何か作ってる?」


『まだ並べ替えているだけです』


「『きえたら』の続きは?」


『発言なしです』


「聞いてない?」


『はい』


「そのままで」


 通信を切った。


「何で測らないの?」


 少年が聞く。


「今何もしない状態で光がどう変わるかも情報だから」


「消えたら測れない」


「そうだな」


「もったいなくない?」


「ちょっとは」


「じゃあやれば?」


「でも、全部の情報を取らなきゃいけないわけじゃない」


「何で?」


「取るために何かを変えるなら、その変えたこと自体が次の結果に混ざることがあるから」


「今回は見るだけ」


「見るだけでも測定器を置く。人が入る。扉も開く。完全に何も変えないわけじゃない」


「……面倒」


「三回目」


「数えてるじゃん」


「そこは数える」


 少年は自分の箱の絵へ目を落とした。


「音、まだいる」


「うん」


「でも蓋は開けない」


「今日は?」


「うん」


「明日は?」


「知らない」


「それでいい」


「アルも?」


「俺も明日のことは明日決める」


「同じ」


「真似した?」


「違う」


 午後は、何も大きく動かなかった。


 少年は外へ出なかった。


 父からの手紙も、もう一度開くことはなかった。


 代わりに絵の道を少し伸ばし、俺の塔へ続く道とは別に、小さな分かれ道を描いた。


「こっちは?」


「まだ決めてない」


「また?」


「駄目?」


「いや」


 決まっていないものが紙の上にあってもいい。


 名前がない場所があってもいい。


 行き先を決めてから道を引かなければならないわけでもない。


 夕方が近づいた頃、旧保養施設から定時報告が届いた。


『表示板、位置変化なし。青白い光は継続』


「明るさは?」


『昼過ぎに一度、ごく緩やかに低下しました。その後、元の範囲へ戻っています』


「時間は?」


『約十八分かけて低下し、約二十五分で回復しています』


「地下振動との一致?」


『ありません』


「暖房?」


『開始・停止とも一致しません』


「外気温?」


『低下開始時はほぼ一定です』


「人の出入り?」


『旧職員詰所への入室なし』


「子供は?」


『生活区画にいました』


「何か言った?」


『光の変化と同時刻には発言なしです』


「ならそれだけ」


『もう一点あります』


「何?」


『本人が落ち葉三枚のうち一枚を、普段の職員へ渡しました』


「理由は?」


『職員は尋ねていません。本人から「これ、あげる」と』


「職員は?」


『「ありがとう」と受け取っています』


「残り二枚は?」


『本人が保管しています』


「……普通だな」


『はい』


 少し笑った。


 光が点いている。


 古い表示板が動いている。


 地下には説明できない振動がある。


 その同じ建物で、子供は拾った落ち葉を一枚、人にあげた。


 どちらか一方だけをその子の一日にする必要はない。


「夕食後は?」


『本人が希望すれば通常通りです』


「うん」


 白鴉から塔へ戻る。


 今日は旧保養施設へ行かなかった。


 これで三日続けて、現地へ行かずに済んでいる。


 塔へ戻ると、セリーが食堂で夕食を用意していた。


「お帰りなさいませ」


「ただいま」


「本日も旧保養施設へは?」


「行ってない」


「はい」


「もう褒めないんだろ」


「通常になりつつありますので」


「ちょっと寂しい」


「では、主様」


「うん?」


「よくお任せになれました」


「……急に言われると照れるな」


「ご希望でしたので」


「言わせた感じがすごい」


「事実でもございます」


 椅子へ座る。


 今日は魚と根菜の焼き物、それに温かなスープだった。


「セリー」


「はい」


「子供が『きえたら』って言ったの、どう思う?」


「何が消えるのか分かりません」


「そうだよな」


「そして、その後に続く言葉も分かりません」


「うん」


「『消えたら行く』とも、『消えたら戻る』とも、『消えたら安心する』とも発言しておりません」


「俺も考えた」


「はい」


「頭の中だと勝手に続きを作れるんだよな」


「人は途中の情報を見ると、意味を補おうとする傾向がございます」


「『きえたら、行く』が一番繋がりそうに見える」


「直前に『まだ、いかない』と発言しておりますので」


「そう。でも、それだって決まってない」


「はい」


「もしかしたら『消えたら怖い』かもしれない」


「可能性はございます」


「『消えたら困る』かもしれない」


「はい」


「何でも作れるな」


「ですから、作らない方がよろしいかと」


「簡単に言う」


「実行は難しいですね」


 セリーが俺の皿へ追加の野菜を置いた。


「それも勝手に補ってない?」


「何をでしょう」


「俺が野菜を欲しいって意思」


「こちらは健康管理上の判断です」


「本人意思は?」


「食べたくありませんか?」


「……食べる」


「では問題ございません」


「強い」


 笑いながら食べる。


 食事を終えた頃、エルから夜の報告が入った。


『旧保養施設、青白い光は継続。表示板変化なしです』


「子供は?」


『夕食後、自室で過ごしています』


「今日はもう何も聞かなくていいかな」


『もう一点、本人から自発発言があります』


「何て?」


『布鞄から木片を出し、机へ置いた後です』


「うん」


『本人は木片ではなく、開いた扉の向こうを見ていました』


「そのまま」


『「まだ、いる」』


 以前にも聞いた言葉だった。


 ただし、同じものを指している保証はない。


「どこ見てた?」


『生活区画廊下方向です。旧職員詰所そのものは見えません』


「指差した?」


『いいえ』


「木片は?」


『机上に置いたままです』


「続きは?」


『ありません』


「質問してない?」


『はい』


「記録だけ」


『承知しました』


「本人の様子は?」


『強い恐怖反応なし。その後、木片を鞄へ戻し、就寝準備へ移っています』


「なら今夜もそのまま」


『はい』


 通信が終わる。


 以前、「まだ、いる」と言った時は金属音のあとだった。


 今回は、目立つ音もない。


 同じ「いる」なのか。


 違う「いる」なのか。


 分からない。


 俺は食堂の椅子へ座ったまま、少しだけ天井を見た。


「行きたくなりましたか?」


 セリーが聞く。


「かなり」


「はい」


「でも行かない」


「はい」


「何か起きたら現地から連絡来る」


「はい」


「子供が俺を呼んだら、その時考える」


「はい」


「明日、光が消えてたら?」


「明日お考えになればよろしいかと」


「最近そればっかりだな」


「主様がお決めになった方法です」


「便利に使われてる気がする」


 自室へ戻り、今日は早めに横になった。


 夜中に一度だけ目を覚ました。


 何か音がした気がしたが、塔の外で風が枝を揺らした音だった。


 エルは何も言わない。


 緊急ではない。


 なら眠る。


 そう思って目を閉じると、意外なほど早く再び眠れた。


 翌朝。


 目を覚まし、寝台の脇の水を飲む。


 エルから声がかかった。


『主様。おはようございます』


「おはよう。緊急?」


『いいえ』


「じゃあ朝飯」


『はい』


 食堂へ行く。


 セリーはもう準備を終えていた。


「おはようございます」


「おはよう」


「夜間にお目覚めになりましたね」


「一回だけ」


「再入眠は早かったようです」


「そこまで分かるの?」


「生活音で」


「怖いな」


「長くお仕えしておりますので」


「便利な言葉になってない?」


「事実です」


 席につく。


 今日は温かな粥と焼いた肉を少し。


 数口食べてから、エルへ頼む。


「夜の報告お願い」


『旧送風路側の微弱振動二回。細管側一回。うち一回は近い時刻ですが、完全一致ではありません』


「低い共鳴?」


『一回。関連不明』


「表示板?」


『位置変化なしです』


「光?」


 一瞬だけ間があった。


『午前四時二十六分の確認時点では発光継続』


「今は?」


『午前五時十一分の確認で、消失していました』


 粥をすくっていた手が止まる。


「消えた瞬間は?」


『特定できていません。連続光学記録はありますが、発光が非常に弱く、夜間の記録感度では完全な消失時刻を秒単位で確定できません』


「大体は?」


『午前四時四十八分から五時二分の間に、段階的に暗くなった可能性があります』


「急に消えたんじゃない?」


『記録上は、緩やかな低下に見えます』


「表示板はその間動いてない?」


『はい』


「打音?」


『ありません』


「地下振動?」


『その時間帯には記録されていません』


「共鳴も?」


『ありません』


「人の出入り?」


『なし』


「暖房?」


『直前直後とも作動なし』


 俺は粥を一口食べる。


 冷める前に。


「子供は?」


『まだ睡眠中です』


「光が消えたこと、起きてもこっちから言わない」


『はい』


「昨日『きえたら』って言ったからって、反応を見るために知らせるのもなし」


『承知しました』


「旧職員詰所は?」


『ガルム隊長が現状維持を指示しています』


「いい」


 朝食を続ける。


 光は消えた。


 だから何だ。


 まだ何も分からない。


 表示板は六ミリ動いた位置のまま。


 露出した文字もそのまま。


 呼び出し盤の背後に何があるのかも分からない。


 そして子供は、光が消えたことをまだ知らない。


「今日は旧保養施設へ行く?」


 セリーが聞く。


 俺は少し考えた。


「……午前は行かない」


「はい」


「子供が起きて、普通に朝飯食べて、それから」


「はい」


「現地の光学記録も先に見る」


「はい」


「行くとしても、光が消えたから答えを聞きに行くんじゃない」


「はい」


 それだけは自分へ言い聞かせるように口にした。


 食事が終わる頃。


『主様』


 エルが呼ぶ。


「起きた?」


『はい。名前の分からない子供が起床しました』


「様子は?」


『普段と大きな違いはありません。自分で着替えを選び、現在は寝台を整えています』


「鞄は?」


『椅子にあります』


「木片は?」


『確認していません』


 少し待つ。


『本人が部屋を出ました』


「職員は?」


『普段の職員が廊下にいます』


「何か聞いてる?」


『いいえ』


 俺は食後の水を飲む。


 セリーが何も言う前に。


「見た?」


「はい」


「先に飲んだ」


「良い習慣です」


「今日は褒めた」


「適切な場面ですので」


 その時、エルの声が続いた。


『本人が、昨日と同じ廊下の分岐で止まりました』


 杯を卓へ置く。


「うん」


『旧職員詰所方向を見ています』


「職員はそのまま?」


『はい』


 数秒。


 エルが伝える。


『本人が「きえた」と発言しました』


 食堂が静かになる。


「……光のことは誰も言ってない?」


『確認済みです。伝えていません』


「旧職員詰所は見えない?」


『見えません』


「音とか、生活区画から分かる変化は?」


『現時点で確認されていません』


「続きは?」


『本人が布鞄へ手を置きました』


「木片は出してない?」


『はい』


『続いて、「もう、いない」と』


 昨日の夜。


 まだ、いる。


 今朝。


 もう、いない。


 俺は息を吐く。


「職員、質問するな」


『はい』


『本人はそのまま廊下に立っています』


「怖がってる?」


『強い恐怖反応なし。ただし、旧職員詰所方向を見続けています』


「行こうとしてる?」


『まだ動いていません』


 さらに少し間が空いた。


『本人が職員を見ました』


「何て?」


『「あっち」』


「うん」


『「みてもいい?」』


 今までとは違った。


 大人が誘ったわけではない。


 表示板を見せようとしたわけでもない。


 光が消えたことも伝えていない。


 本人が、自分から見たいと言った。


「ガルムは?」


『本人の希望を確認したうえで、安全な距離から廊下側を見る案を提示しています。旧職員詰所への入室はさせず、呼び出し盤へ近づけない方針です』


「本人への説明は?」


『「古い設備がある場所だから、今は中までは入れない。廊下の手前から見るならできる」と伝える予定です』


「それでいい」


『主様は来られますか?』


 すぐには答えなかった。


 本人は俺を呼んでいない。


 俺が行けば安心する可能性はある。


 逆に、俺が来たことで「大変なことなんだ」と思わせる可能性もある。


「まず、普段の職員から説明して」


『はい』


「本人がそれで行くなら、俺を待たせない」


『はい』


「俺が必要か聞かないで。選択肢を増やすためだけに名前を出さなくていい」


『承知しました』


「現地の人で対応できる」


 言いながら、胸の奥には少しだけ落ち着かないものが残った。


 でも、それは俺の気持ちだ。


 子供の選択へ混ぜるものじゃない。


 数分後。


『本人は、安全な距離から見ることを希望しました』


「誰と?」


『普段の職員一名。リディアが先行して経路安全を確認。ガルム隊長は旧職員詰所側で待機しますが、威圧しないよう距離を取ります』


「フェリクスは?」


『別室です』


「完璧」


『本人が不満を述べています』


「誰が?」


『フェリクスです』


「そっちは無視していい」


 セリーが小さく笑う。


 俺は塔にいる。


 旧保養施設へ向かわない。


 エルから必要な情報だけを受け取る。


 子供は、自分の足で廊下を歩いた。


 急がなかった。


 普段の職員も手を引かなかった。


 途中で一度止まり、窓の外を見たという。


 庭には昨日拾ったものと同じ色の落ち葉が残っていた。


 それから、また歩いた。


 旧職員詰所へ続く最後の曲がり角。


 そこから先は、以前なら子供が「あけないで」と強く拒んだ地下方向とは別だ。


 けれど古い設備へ近づくことに変わりはない。


 リディアが床と壁、空気中の魔力変化を確認する。


 異常なし。


 子供は曲がり角の手前で止まった。


 そこからなら、旧職員詰所の開いた扉と、その奥の壁の一部が見える。


 呼び出し盤そのものは角度のせいで半分ほどしか見えない。


 普段の職員が尋ねた。


「ここから見る?」


 子供は頷いた。


 それ以上近づかない。


 しばらく、何も言わなかった。


 呼び出し盤の隙間から青白い光はもう見えていない。


 表示板だけが、元の位置からわずかにずれたまま残っている。


 子供は布鞄の紐を握った。


「きえた」


 職員は答えた。


「うん。今は光ってないよ」


 初めて、こちらから光の存在を言葉にした。


 本人が見て、本人が「消えた」と言ったあとだから。


 子供は少しだけ顔を上げる。


「きのう、ついてた?」


「昨日、ここの人たちも光ってるのを見つけたよ」


「いつ?」


「夜」


 余計な推測は足さない。


 子供はまた呼び出し盤を見る。


「ずっと?」


「いつから光ってたかは分からないんだ」


「……わからない?」


「うん。板の後ろに隠れてたから、前から光ってたのか、昨日からなのかは分からない」


 子供は黙った。


 分からないと言われることを嫌がる様子はなかった。


 やがて鞄から木片を取り出す。


 ガルムもリディアも動かない。


 職員も手を出さない。


 子供は木片を胸の前で持ち、呼び出し盤を見た。


「これ、よばない」


「うん」


 職員は、以前本人が言ったことを否定も肯定もせず受け取った。


「でも」


 子供が続ける。


 誰も促さない。


「むこうが、つく」


 俺は塔の食堂で、その報告を聞きながら息を止めかけた。


 むこう。


 何を指す。


 旧職員詰所か。


 呼び出し盤の向こう側か。


 帰還先か。


 地下か。


 それとも、まったく別の場所か。


 現地の職員は尋ねなかった。


 子供は木片を見下ろす。


「ついたら」


 また言葉が止まる。


 昨日の「きえたら」と似ている。


 けれど、今度も続きを作ってはいけない。


 数秒の沈黙のあと、子供は首を横へ振った。


「まだ」


 そして自分から一歩、後ろへ下がった。


「かえる」


 普段の職員が確認する。


「お部屋に?」


 子供は頷いた。


「うん」


 それだけだった。


 旧職員詰所へ入らなかった。


 表示板へ触れなかった。


 木片を近づけなかった。


 何が「むこう」なのかも聞かなかった。


 子供は自分で来て、自分で見て、自分で戻ると決めた。


 俺は長く息を吐いた。


「主様」


 セリーの声で、食堂にいることを思い出す。


「うん」


「朝食が終わっております」


「そうだった」


「旧保養施設へ向かわれますか?」


 俺は考えた。


 子供はもう部屋へ戻る。


 俺を呼んでいない。


 現地は安全を保っている。


「行かない」


「はい」


「でも、今日の記録はちゃんと見る」


「はい」


「『むこうが、つく』は、そのまま」


『すでに逐語記録しています』


「『ついたら』の続きも補わない」


『はい』


「それから、帰還管理所の『呼出表示』と結びつけない」


『はい』


「似てるけど」


『はい』


「すごく似て見えるけど」


『はい』


「……二回言った」


「昨日もございましたね」


「分かってる」


 俺は椅子の背へ身体を預けた。


 知りたい気持ちは消えない。


 むしろ情報が増えるほど強くなる。


 でも、子供は調査道具ではない。


 答えを持っているように見えるからといって、こちらが欲しい順番で取り出していいものでもない。


 本人が話したところまで。


 今は、それでいい。


 昼近くになって白鴉へ着くと、三〇八号室の少年が俺を見るなり尋ねた。


「行かなかった?」


「どこに?」


「地下の子のところ」


「行かなかった」


「何で?」


「俺を呼んでなかったから」


「見に行ったんでしょ?」


「本人が自分から見たいって言った」


「光、消えてた?」


「消えてた」


「何て言った?」


 俺は少年に、本人が話した範囲だけを伝えた。


 安全な距離から見たこと。


 木片について「これ、よばない」と改めて言ったこと。


 そして「むこうが、つく」「ついたら」と言いかけ、最後に「まだ」と言って、自分から部屋へ戻ったこと。


 少年は絵の上に置いていた炭筆を指先で転がした。


「聞かなかったんだ」


「何を?」


「『むこう』」


「うん」


「『ついたら何』も?」


「うん」


「知りたい」


「俺も」


「すごく?」


「かなり」


「じゃあ何で聞かないの?」


「今すぐ答えがないと危ない状況じゃなかった。それに、本人が自分で『まだ』って止めたから」


「話すのが?」


「それも分からない」


「また分からない」


「仕方ない」


 少年は少し考え、昨日読んだ手紙へ視線を向けた。


「教師だったら聞くかな」


「何でそう思う?」


「自分で決めるなって書いてたから」


「……そうか」


「俺が途中で止めても、『ちゃんと話せ』って言う?」


「その教師が実際にどうした人かは、まだ分からない」


「でも手紙は?」


「従うように書いてある」


「アルは聞かない」


「必要なら聞くことはあるよ」


「でも今は聞かない」


「うん」


 少年はしばらく黙ってから、赤い布を自分の方へ少し引き寄せた。


「俺も、まだ」


「手紙?」


「うん」


「分かった」


「今日は読まない」


「うん」


「明日も分かんない」


「うん」


「でも捨てない」


「それもお前が決めればいい」


 少年は頷いた。


 そして、自分の絵の箱を指した。


「これも、まだ開けない」


「音は?」


「いる」


「そっか」


「でも、いるから開けるんじゃない」


「うん」


「開けたくなったら開ける」


 その言葉に、俺は少しだけ笑った。


「いいと思う」


「地下の子も?」


「何が?」


「呼ばれたら戻るって言ったけど、戻りたくなかったら?」


 簡単には答えられない。


 本人は「よばれたら、もどる」と言った。


 それが自分の希望なのか、教え込まれた規則なのか、過去の経験からそう思っているのかも分からない。


「その時、本人が何を望んでるかを聞けるなら聞く」


「呼ばれたら絶対じゃない?」


「少なくとも、俺はそう決めない」


「昔の記録は?」


「表示が動いても、本人が言わなければ帰る意思を聞き直さなかった記録がある。それと、表示が消えたあとに本人が帰りたいって言って手続きを進めた記録も見つかった」


「じゃあ表示、命令じゃない?」


「そうかもしれない。でも同じ設備か分からない」


「……面倒」


「四回目」


「今日は初めて」


「日をまたいだら数え直すの?」


「うん」


「都合いいな」


 少年が笑う。


 窓の外では雲がさらに薄くなり、中庭へ広く光が落ちていた。


 旧保養施設の青白い光は消えた。


 けれど、それで何かが終わったわけではない。


 表示板は六ミリずれたまま。


 露出した文字も、まだ全部は読めない。


 地下の振動も続いている。


 そして、名前の分からない子供は「むこうが、つく」と言った。


 その意味を知る日は来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 少なくとも今日、子供は答えを出さなかった。


 だから俺たちも、代わりに答えを作らない。


 その日の夕方、旧保養施設では呼び出し盤に触れないまま、消えた光の経過記録だけが整理された。


 表示板も動かなかった。


 子供は昼食を食べ、昨日拾った残り二枚の落ち葉を窓辺へ並べた。


 一枚は黄色。


 一枚は赤茶色。


 どちらを何に使うのかは、まだ決めていない。


 そして日が傾き始めた頃、子供はその二枚の間へ木片を置いた。


 普段の職員は、少し離れた場所で洗濯物を畳んでいた。


 尋ねない。


 覗き込まない。


 子供は木片の表を上にし、「帰」「還」の二文字をしばらく見つめた。


 それから赤茶色の葉を木片の上へ重ね、文字を隠した。


「きょうは、これ」


 職員が顔を上げる。


「そこに置いておく?」


「うん」


「分かった」


 木片の文字は葉の下に隠れた。


 なくなったわけではない。


 捨てたわけでもない。


 ただ今日は、見えないようにした。


 それから子供は窓の外へ目を向けた。


 旧職員詰所の方角ではなく、夕日に染まり始めた小さな庭の方へ。


「また、そと」


「今日はもう暗くなるから、明日にする?」


 職員が尋ねる。


 子供は少し考えた。


「……あした」


「うん」


「葉っぱ、ある?」


「風で全部飛んでなければ、あると思うよ」


「なくなったら?」


「別のものを探してもいいし、何も拾わなくてもいいよ」


 子供は窓の外を見たまま、小さく頷いた。


「じゃあ、あした」


 その言葉だけが、今度は途中で止まらなかった。

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