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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第66話 まだ戻らないと言った子に、何が呼んでいるのかを答えさせる必要はありませんでした


 名前の分からない子供が「まだ、もどらない」と言った朝、旧保養施設では、その言葉の意味を確かめるための質問を増やさなかった。


 何に対して「まだ」と言ったのか。どこへ戻らないのか。昨日話した古い表示板のことを考えていたのか、それとも布鞄の中にしまっている木片についてなのか。知りたいことはいくつもあったが、子供が自分から口にしたのはそこまでだった。


 だから、記録もそこまでにした。


 朝食を終えた俺が塔の食堂で二杯目の水を飲んでいる間にも、旧保養施設では普段と同じ朝が続いていた。子供は温めたパンを半分食べ、薄いスープの中に入っていた柔らかな芋を先に選び、最後に残した人参をしばらく眺めてから食べたらしい。


 その報告までエルが読み上げたところで、俺は思わず眉を上げた。


「人参まで記録してるの?」


『食事摂取量の記録に含まれています』


「食べた順番も?」


『担当職員の備考です。「芋を先に食べ、人参は最後。拒否なし」と』


「地下の謎より細かいな」


『療養記録としては、こちらの方が日常的です』


「確かに」


 向かい側で食器を片づけていたセリーが、ほんのわずかに口元を緩めた。


「主様も、嫌いなものを最後まで残されることがございます」


「今その情報いる?」


「日常的な観察記録です」


「俺は患者じゃない」


「健康管理の対象ではございます」


「範囲が広いな……」


 そう言いながら、残っていた水を飲み干す。


 セリーは何も褒めなかった。ただ空になった杯を見てから、静かに回収した。その反応が以前より自然に感じられるようになったことに気づき、俺は少しだけ笑った。


 旧保養施設で何かが起きている。


 それでも、そこで暮らしている子供の朝食は続く。


 地下の振動が一回増えたからといって、パンが消えるわけではない。古い表示板が数ミリ動いたからといって、眠る時間や起きる時間まで調査へ差し出す必要もない。


「表示板は?」


『夜明け以降、位置変化なしです』


「昨日から動いた分のまま?」


『はい。初期記録位置から約五ミリの変位を維持しています』


「触れた人は?」


『いません』


「呼び出し線は?」


『露出部に目視上の変化なし。張力については接触測定を行っていません』


「地下の微弱振動は?」


『夜間に二回。朝になってからはありません』


「低い共鳴?」


『夜間に一回。いずれも表示板の移動時刻とは一致していません』


「細管は?」


『微弱振動の二回については旧送風路側と同時記録ですが、誤差範囲を超える方向差は得られていません』


 昨日までと大きくは変わらない。


 分からないものが、分からないまま並んでいる。


 けれど、それでいい。


「非接触の残留魔力測定、条件案できた?」


『はい。リディアとフェリクスから提出されています』


「内容は?」


『旧呼び出し盤から一腕半以上の距離を保ち、能動的な魔力照射を行わず、周囲に自然残留している魔力の偏りのみを受動観測する方式です』


「刺激は?」


『測定器側から対象へ魔力を送ることはありません』


「表示板に触れない?」


『はい』


「壁も?」


『開けません』


「線も?」


『操作しません』


「子供の部屋側は?」


『測定対象に含めません。旧職員詰所のみです』


 そこまで聞いてから、俺はすぐに許可を出さなかった。


 できる。


 危険は低い。


 だからやる。


 その順番に慣れすぎると、結局また同じところへ戻る。


「急ぐ理由は?」


『現時点ではありません』


「ガルムは?」


『「今日やる必要があるかを先に決めろ」と』


「同じこと考えてるな」


『はい』


「フェリクスは?」


『実施を希望しています』


「だろうな」


『ただし、「今日でなくても測定条件は変わらない」とも述べています』


「成長してる」


『本人へそのまま伝えますか?』


「やめて。調子に乗る」


『承知しました』


 俺は空になった皿を見た。


 旧呼び出し盤は逃げない。


 少なくとも、今のところは。


 表示板がまた動く可能性はある。だからこそ、何もしない状態でどれだけ動くのかを見る意味もある。


「今日は午前中、測らない」


『はい』


「表示板の位置だけ記録継続。周囲の温度、湿度、建物の振動、職員の通行、扉の開閉、暖房設備の動作時刻も今まで通り」


『はい』


「昼まで変化がなかったら、その時もう一度考える」


『ガルム隊長へ共有します』


「子供には測定の話しなくていい。まだやるって決めてないから」


『承知しました』


 通信を切る。


 セリーが俺の前に果物を少し置いた。


「追加?」


「朝食の一部です」


「もう食べ終わったと思ってた」


「果物が残っております」


「俺も最後に残してるじゃん」


「人参ではございません」


「そういう問題?」


 小さく笑いながら食べる。


 今日は白鴉療養所へ行く。


 旧保養施設へは行かない。


 昨日は三ミリだった表示板が五ミリになったと聞けば、自分の目で確かめたい気持ちはある。でも昨日すでに見ているし、現地にはガルムもリディアもいる。


 俺が行かなければ判断できないことは、今のところ一つもなかった。


 白鴉療養所へ着く頃には、朝の冷たさが少し和らいでいた。


 古い建物の外壁には斜めから日が当たり、中庭では洗った布が風に揺れている。以前なら白い服を着た人間が歩くだけで身体を固くしていた患者もいたが、今は色の違う上着や腕章を使い、誰が治療担当で誰が生活支援なのかを見分けられるようにしていた。


 それでも、白い布そのものを嫌う人はいる。


 無理に慣れさせてはいない。


 三〇八号室へ向かう途中、廊下の向こうからミナが歩いてきた。片手には例の布袋を持っているが、今日は中に何かが入っているらしく、歩くたびに小さく形が変わっている。


「おはよう」


 俺が声をかけると、ミナは足を止めた。


「……おはよう」


 以前より返事までの間が短い。


 それだけで十分だった。


「袋、今日は空じゃないんだ」


 ミナが袋を抱え直す。


「布」


「布?」


「小さいの」


 少しだけ口を開け、中を見せてくれた。


 色の違う布切れが数枚入っている。


「何にするの?」


「まだ」


「決めてない?」


 頷く。


「そっか」


 そこで終える。


 何を作るのか聞き続ければ、答えを決めさせることになるかもしれない。


 ミナは少し歩いたあと、振り返った。


「アル」


「何?」


「決めたら言う」


「うん」


 今度こそ行ってしまう。


 その背中を見送ってから三〇八号室へ入ると、少年は窓際ではなく卓に座っていた。昨日までの絵を広げ、炭筆を持っている。


「おはよう」


「遅い」


「そんな遅くないだろ」


「昨日より遅い」


「時計見た?」


「見てない」


「じゃあ何で分かるんだよ」


「お腹減ったあとに来たから」


「もう朝ご飯食べた?」


「食べた」


「じゃあ俺が来る時間と関係ないだろ」


 少年は少し考え、それから笑った。


「でも遅い」


「はいはい」


 椅子へ座る。


 今日の身体の確認は短かった。


 頭痛なし。吐き気なし。身体の重さは一。怖さも一。昨夜は途中で一度目が覚めたが、水を少し飲んでまた眠れたという。


 白い薬について尋ねると、少年は容器を見る前に答えた。


「同じ」


「分かった」


「早い?」


「決めるのが?」


「うん」


「昨日から考えてた?」


「寝る前にちょっと」


「じゃあ、今思いついただけじゃないんだな」


「うん」


「それなら十分」


 セリーが薬を用意する間、少年は自分の絵へ視線を戻した。


「地下は?」


「聞く?」


「うん」


「昨日動いた小さい表示板は、その位置のまま。夜から朝にかけては動いてない」


「戻してない?」


「戻してない」


「子供は?」


「朝ご飯食べた」


「何食べた?」


「パンとスープ。芋を先に食べて、人参を最後に食べたらしい」


 少年が顔を上げる。


「そこまで聞いたの?」


「報告に入ってた」


「アル、地下より人参調べてる」


「俺が調べたんじゃない」


「何個?」


「人参?」


「うん」


「知らない」


「調べてないじゃん」


「調べなくていいんだよ」


 少年が笑い、薬を飲む。


 蜂蜜水を口にしたあと、いつものように少し顔をしかめた。


「苦い」


「今日も?」


「今日も」


「薬が急に甘くなったら逆に怖いな」


「蜂蜜入れれば?」


「薬に?」


「うん」


「勝手に混ぜるなってセリーに怒られそう」


「主様」


 すぐ横から声が飛んできた。


「まだ何もしてない」


「先に申し上げておきます。薬剤へ任意に蜂蜜を混入しないでください」


「ほら」


 少年が楽しそうに笑う。


 こういう時間があるから、昨日の地下の話も今日の薬の話も、全部が一つの重たい塊にならずに済むのかもしれない。


 少年は絵へ炭筆を置いた。


 一本目の道。


 途中の休む場所。


 短い二本目の線。


 六本脚の椅子。


 小さな箱。


 箱の中には音を表す丸が一つあり、横には蓋のような線が描かれている。


「今日は何描く?」


「決めてない」


「じゃあ見てる」


「アルも描けば?」


「俺?」


「うん」


「どこに?」


「別の紙」


「同じ紙じゃないんだ」


「俺のだから」


「そこははっきりしてるな」


 別の紙と炭筆を渡される。


 何を描くか考える。


「塔でも描くか」


「描ける?」


「多分」


「変だったら言う」


「塔見たことないだろ」


「でも変なのは分かる」


「理不尽だな」


 俺が線を引き始めると、少年は自分の絵より俺の方を見ていた。


 塔の外形。


 窓。


 入口。


 森。


 上手いかと言われれば微妙だ。


「細い」


「何が?」


「塔」


「こんなもんだよ」


「倒れそう」


「二千年以上立ってる」


「じゃあ絵が変」


「言ったな?」


 少年が笑う。


 俺も笑った。


 父からの手紙は卓の端に置かれたままだった。


 少年は一度だけそちらを見たが、手を伸ばさなかった。


 俺も触れない。


 今日は絵を描く日なのかもしれない。


 あるいは午後になれば読みたくなるかもしれない。


 どちらでもいい。


 昼前、エルから連絡が入った。


『主様。旧保養施設から中間報告です』


「聞く」


 少年も炭筆を止めた。


「一緒に聞く?」


「うん」


『旧呼び出し盤の表示板は、朝から位置変化ありません』


「温度は?」


『旧職員詰所は朝から約二度上昇しています』


「湿度?」


『わずかに低下』


「暖房?」


『一度作動しています』


「その時に表示板は?」


『変化なしです』


「職員の出入り?」


『通常通り。最も近い扉の開閉時にも変化なし』


「建物の振動?」


『荷車が外周路を一度通過しています。記録器には弱い振動が残りましたが、表示板は動いていません』


「じゃあ少なくとも、普通の温度変化とか扉の開閉だけで毎回動くわけじゃない」


『その範囲までは言えます』


「地下?」


『微弱振動一回。表示板変化なし。低い共鳴なし』


「子供は?」


『午前中は紙遊び。その後、窓際で外を見ています』


「何か言った?」


『地下・表示板・帰還に関する発言はありません』


「朝の『まだ、もどらない』以降は?」


『ありません』


「それでいい」


 そこで通信を終えようとしたが、エルが続けた。


『非接触測定について、ガルム隊長から確認です。午後に実施するか、本日も見送るか』


 俺は少し考えた。


 三〇八号室の少年がこちらを見ている。


「やるの?」


「まだ決めてない」


「何する?」


「表示板に触らず、その周りに残ってる魔力を見る」


「見るだけ?」


「こっちから魔力を当てない方法」


「触らない?」


「触らない」


「動かさない?」


「動かさない」


「じゃあやれば?」


「簡単に言うな」


「何で?」


「今日やる必要があるか考えてる」


 少年は炭筆を指先で転がした。


「明日でも同じ?」


「多分」


「じゃあ明日でもいい」


「そうなる?」


「でも今日見たいなら今日」


「どっちだよ」


「アルが決めるんでしょ」


 笑ってしまう。


「そうだった」


 しばらく考えてから、エルへ答える。


「午後、やろう。ただし一回だけ」


『理由を記録しますか?』


「うん。表示板が自然環境の変化では動かなかった時間を半日取れたこと。受動測定だけなら今の状態を崩さず確認できること。それから、明日に延ばす特別な理由も今のところない」


『承知しました』


「結果が出ても、その場で追加測定しない」


『はい』


「何か反応があっても一回で止める」


『共有します』


「子供には?」


『どうしますか?』


「測定場所は生活区画じゃない。刺激も送らない。本人の物にも触らない」


『はい』


「だから事前に許可を取る必要はないと思う。でも、何か聞かれたら隠さない」


『承知しました』


 通信を終える。


 三〇八号室の少年が俺を見る。


「決めた」


「決めた」


「俺が決めた?」


「違う。参考にはした」


「じゃあ半分」


「そんなにあげない」


「けち」


「責任まで半分渡すぞ」


「いらない」


「ほら」


 少年が笑った。


 昼食は食堂で取った。


 今日は豆を数える老人が先に座っている。少年が近づくと、老人は何も言われる前に器の中を覗き込んだ。


「五つだ」


「まだ聞いてない」


「今日は覚えている」


「昨日は四つ」


「そうだ」


「覚えてるじゃん」


「今日はな」


 少年が向かいへ座る。


「一個増えた」


「得した」


「大きさ同じ?」


 老人が止まった。


 俺はパンを持ったまま横を向く。


 ブラットも近くの席で肩を震わせている。


「……そこまでは見ていない」


「じゃあ得したか分かんない」


「お前は細かいな」


「豆数えてる人に言われたくない」


 老人がしばらく少年を見たあと、声を上げて笑った。


 食堂の空気が少しだけ明るくなる。


 離れた席ではミナが布袋を膝へ置き、布切れを一枚ずつ並べていた。保存された幼いアルフォンスは今日はヨアヒムと一緒で、赤いジャムではなく薄く切った果物を食べている。


 同じ場所に、違う時間が流れている。


 誰かにとっては薬を維持すると決めた日で、誰かにとっては豆が一つ増えた日で、誰かにとっては袋の中身を決める途中の日だ。


 そして旧保養施設では、錆びた表示板が数ミリ動いたまま止まっている。


 全部を同じ重大さで扱う必要はない。


 昼食を終えたあと、俺は談話室の窓際でエルから旧保養施設の測定開始報告を受けた。


 三〇八号室の少年は少し離れた卓で絵を描いている。聞きたいと言われたので、通信は切らずにそのまま共有した。


『測定器の設置位置を確認。旧呼び出し盤から一・七メートル。対象への能動照射なし』


「表示板の位置は?」


『測定前記録完了。変化なし』


「周囲に誰がいる?」


『リディア、フェリクス、ガルム隊長、記録担当一名です』


「触れられる距離にフェリクスいる?」


『ガルム隊長から二歩下がるよう指示されています』


 遠くでフェリクスの声が入った。


『私だけ扱いが――』


『黙ってろ』


 ガルムの声が重なる。


 三〇八号室の少年が吹き出した。


「怒られてる」


「いつものこと」


『いつもではありません!』


「聞こえてるぞ」


『アル殿下まで――』


『始めるぞ』


 リディアの落ち着いた声で会話が切れた。


 俺は窓の外を見る。


 午後の日差しが中庭へ落ち、干していた布の影が石畳の上でゆっくり揺れている。こちらは穏やかだ。


『受動観測開始』


 何か劇的な音がするわけではない。


 待つ。


 測定器が周囲の自然な魔力の揺らぎを拾うだけだ。


 一分。


 二分。


 その間、少年は絵を描いていた。


「アル」


「何?」


「喋っていい?」


「いいよ」


「静かだから駄目かと思った」


「向こうとは通信してるだけだから大丈夫」


「じゃあ塔、窓少ない」


「まだ言う?」


「少ない」


「増やすよ」


 俺は自分の絵へ窓を二つ追加した。


 その時、エルが声を出した。


『観測値に偏りがあります』


 炭筆が止まる。


「どこ?」


『表示板そのものではありません』


「じゃあ?」


『呼び出し盤の背面側。壁内部方向です』


「強い?」


『いいえ。非常に弱い残留です』


「動いてる?」


『現時点では変化なし』


「年代は?」


『受動観測だけでは確定できません』


 リディアが説明を引き継ぐ。


『魔力が現在も流れているとは言えません。古い術式の残留痕跡でも説明可能です』


「表示板を動かせる量?」


『分かりません。そもそも、この残留が表示板の作動系統に関係しているかも不明です』


「他には?」


『盤の右端にも別の弱い偏りがあります』


「同じ?」


『性質が少し違います』


「一つの術式じゃない?」


『断定できません。年代の異なる改修が重なっている可能性があります』


 帰還管理所でも見た。


 古い仕組みの上へ、新しい仕組みが足される。


 さらに別の都合で変更される。


 最終的に残ったものだけを見れば、最初からそういう制度だったように見える。


「測定時間は?」


『予定の十分間まであと四分です』


「続けて」


『はい』


 それ以上、大きな変化はなかった。


 十分が終わる。


『測定終了』


「表示板?」


『位置変化なし』


「打音?」


『なし』


「地下振動?」


『測定時間中はありません』


「低い共鳴?」


『ありません』


「じゃあ今日は終わり」


 フェリクスが何か言う前に伝える。


『追加で位置を変えて――』


「終わり」


『ですが右端の偏りだけでも――』


「明日残ってるかもしれないだろ」


『消えていたら?』


「消えたって情報になる」


 一瞬、向こうが静かになる。


 ガルムの笑うような息が聞こえた。


『聞いたな、フェリクス』


『……はい』


「今日取った記録を先に見て。追加はそれから」


『承知しました』


 通信が終わる。


 三〇八号室の少年が炭筆を置いた。


「何かあった?」


「弱い魔力の跡みたいなのが二か所」


「呼んでる?」


「分からない」


「動かした?」


「何も」


「じゃあ分かんないまま?」


「うん」


「最近ずっとだね」


「言うな」


 少年が笑った。


「でも一個分かった」


「何?」


「フェリクス、怒られる」


「それは前から分かってる」


「じゃあ新しくない」


「残念だったな」


 午後はそのまま穏やかに過ぎた。


 少年は外へ出なかった。


 行きたくないというより、今日は絵を描きたいらしい。


 父の手紙にも触れなかった。


 俺の描いた塔には、最終的に窓が七つ増えた。少年が「まだ少ない」と言ったが、これ以上増やすと塔というより穴だらけの棒になるので断った。


 夕方近くになって、俺はアンナマリーと帰還管理所の記録を見るため別室へ移った。


 今日は最初から二件だけと決める。


「三件ではなく?」


「昨日三件見たから」


「関連はございませんが」


「気分」


「では二件で」


 アンナマリーは反対しなかった。


 机の上には古い帳簿が二冊。


 紙は黄ばみ、端が脆くなっている。窓から入る西日が直接当たらないよう薄い布を引き、エルの補助光だけで文字を追った。


 一件目は、本人が帰還を希望したものの、高熱のため身体負荷確認ができず、処置確認者が移送を保留した例だった。


 翌日も熱が下がらず保留。


 さらに翌日。


 本人が「帰りたい」と再度意思を示している。


 それでも保留。


「本人は三回帰りたいって言ってる」


「はい」


「でも身体が駄目だから止めた」


「記録上はそうなっています」


「本人、怒ってない?」


「備考があります」


 アンナマリーが指先を少しずらす。


 そこには、本人が「なぜ帰れないのか説明を求めた」と記録されていた。


 担当者が身体負荷について再説明。


 本人は不満を示した。


 それでも移送は行われていない。


「怒ったことも症状になってない」


「少なくとも、この記録では」


「後の時代なら?」


「感情不安定として処置優先へ分類された可能性はあります」


「可能性ね」


「はい」


 言い直す必要もなかった。


 アンナマリー自身が区別している。


 さらに記録を追う。


 四日目、熱が下がった。


 身体負荷許容。


 本人意思を再確認。


 ところが、そこには予想していなかった言葉があった。


「……帰還希望、撤回?」


「はい」


 前日まで三回帰りたいと言っていた人物が、身体的に帰れるようになった日に「今日は帰らない」と答えている。


「それで?」


「処置確認者は移送保留」


「理由は?」


「本人意思変更」


「再確認した?」


「翌日はしていません」


「その次は?」


「本人から申し出あり」


 指で行を追う。


 六日目。


 本人が再び帰還を希望。


 説明。


 身体確認。


 資格確認。


 内区移送。


「昨日まで帰りたかったから、熱が下がった瞬間に連れていってない」


「はい」


「帰れるようになった日の『帰らない』を残した」


「はい」


「その次の日に聞き直してもない」


「本人から言うまで待ったようです」


 しばらく紙を見つめる。


 制度の最初が完璧だったとは思わない。


 この一件だけで、すべての職員が善良だったとも言えない。


 それでも。


 昨日の意思を今日の命令にしない。


 今の俺たちが患者に対して守ろうとしていることと、よく似ている。


「次」


 二件目を開く。


 こちらは帰還拒否。


 身体状態は良好。


 説明完了。


 資格あり。


 本人意思だけが拒否。


 処置確認者は保留。


 そこまでは、すでに見た例と大きく変わらない。


 違ったのは、その下に追記された短い文だった。


「『呼出表示作動時も、本人申告なき場合は再確認を行わず』……?」


 俺の声が止まった。


 アンナマリーも紙へ顔を近づける。


「呼出表示」


「呼び出し……表示?」


「同じ設備とは限りません」


「分かってる」


 胸が速くなるのを自覚しながら、文章を最初から読む。


 帰還拒否者。


 外区保護継続。


 本人からの再確認申告なし。


 そして。


 呼出表示作動時も、本人申告なき場合は再確認を行わず。


「これ、何を意味してる?」


「文面だけなら、何らかの呼出表示が作動しても、それだけでは本人へ帰還意思を再確認しない、という運用に見えます」


「呼出表示が何かは分からない」


「はい」


「旧保養施設の表示板と同じかも分からない」


「はい」


「でも、『呼出表示』って言葉自体はある」


「あります」


 俺は椅子の背へ身体を預けた。


 窓の外では夕暮れが近づき、白鴉の庭を歩く職員の影が長く伸びている。


 旧保養施設。


 古い呼び出し線。


 勝手に動いた表示板。


 子供の「よばれたら、もどる」。


 繋げたくなる。


 あまりにも繋げたくなる。


「アルフォンス様」


「分かってる」


 アンナマリーに言われる前に答える。


「同じものとは決めない」


「はい」


「年代は?」


「この記録は、帰還管理所の比較的初期です。ただし旧保養施設の呼び出し盤の設置年代とは、まだ直接照合できていません」


「文言だけ記録」


「はい」


「『呼出表示』が何かを別に探す」


「はい」


「それと……」


 もう一度文章を見る。


「この規則、大事なのはそこだけじゃない」


「どこでしょう」


「表示が作動しても、本人が言ってないなら再確認しない」


 アンナマリーの目が少し細くなる。


「はい」


「つまり少なくともこの記録を書いた人は、表示が動いたことと、本人が戻りたいと言うことを同じにしてない」


「そのように読めます」


「表示が何のために動くかは分からない。でも、動いたからって『戻りますか』って聞きに行ってない」


「本人からの申告を待っています」


「……名前の分からない子が『まだ、もどらない』って言った」


「はい」


「表示板は動いた」


「はい」


「でも俺たちは、それを見せて『呼ばれてるんじゃない?』って聞いてない」


「はい」


「今のところ、それでいい」


 アンナマリーは静かに頷いた。


 二件で終える予定だった。


 だから終える。


 すぐに周辺帳簿を探したくなるが、今日は開かない。


「エル。この『呼出表示』の語だけ索引に入れて。明日以降、同年代の別記録から探す」


『承知しました』


「旧保養施設へは?」


『共有しますか?』


「ガルムには共有。子供には今は言わない」


「理由は?」


 アンナマリーが確認する。


「同じ設備か分からないから。本人に関係ある情報だとまだ言えない」


「承知しました」


「隠すんじゃなくて、まだ本人へ持っていく段階じゃない」


「はい」


 帳簿を閉じた。


 白鴉を出る前、三〇八号室へ寄る。


 少年は絵を片づけていた。


「帰る?」


「塔に」


「地下は?」


「今日は行かない」


「表示板は?」


「さっきまで動いてない」


「測ったやつは?」


「弱い魔力の跡が二つ。でも何かは分からない」


「手紙は?」


「俺の?」


「違う。俺の」


「今日は読んでないだろ」


「うん」


「それでいいんじゃない」


 少年は赤い布を見た。


「明日は読むかも」


「明日決めればいい」


「また老人」


「最近それ言うの好きだな」


「アルが言うから」


「俺は老人って言ってない」


「言ってるみたい」


 少年が笑った。


「明日来る?」


「来るつもり」


「来れなかったら?」


「連絡する」


「うん」


 以前と同じようで、少し違う。


 絶対に来るとは言わない。


 少年も絶対を求めなくなっている。


「じゃあ、来れたら明日」


「うん」


 白鴉を出る。


 塔へ戻る道の途中で、エルからガルムの返答が来た。


『「呼出表示」の記録について了解。旧保養施設の設備と同一視せず、呼び出し盤の現状観測を継続するとのことです』


「フェリクスは?」


『同型設備の資料を探したいと』


「それはいい」


『ただし旧呼び出し盤を分解すれば早いとも』


「駄目」


『ガルム隊長がすでに却下しています』


「さすが」


 塔へ戻ると、セリーが夕食の準備をしていた。


 今日は煮込んだ肉と野菜。


 香草の匂いが食堂へ広がっている。


「お帰りなさいませ」


「ただいま」


「旧保養施設へは?」


「行かなかった」


「はい」


「今日は珍しいって言わない?」


「二日続けば、珍しさは薄れます」


「基準厳しくない?」


「継続とはそういうものです」


 席へ座る。


 セリーが皿を置く。


「でも、行きたかった」


「表示板でしょうか」


「うん。それと帰還管理所で『呼出表示』って言葉が出た」


 セリーの手が一瞬だけ止まる。


「旧保養施設の設備と同一でしょうか」


「分からない」


「では、まだ別ですね」


「うん」


「名前の分からないお子様には?」


「伝えてない」


「はい」


「本人に関係するって分かってないから」


「妥当かと思います」


 食事を始める。


 温かい。


 少し濃い味の煮汁がパンに合う。


「セリー」


「はい」


「もしさ」


「はい」


「表示板が『戻る人を呼ぶもの』だったとして」


「仮定ですね」


「仮定」


「はい」


「それが動いたら、戻らないといけないと思う?」


 セリーはすぐに答えなかった。


 俺の皿へ視線を落とし、それからこちらを見る。


「誰が決めた規則かによります」


「規則なら従う?」


「いいえ。規則の目的、対象、現在も有効か、本人へどのような説明がなされているか、安全上の必要性があるか。それらを確認する必要がございます」


「だよな」


「何より、その表示が何を意味するかすら分かっておりません」


「うん」


「そして、仮に『戻る準備ができた』という表示であったとしても、『本人が戻りたい』という意思とは別です」


「帰還管理所の古い記録もそうだった」


「はい」


「表示が動いても、本人が言わなきゃ再確認しない」


「興味深い記録ではあります」


「でも同じ仕組みとは決めない」


「はい」


「今日何回言ったかな」


「数える必要はないかと」


「最近、分からないとか決めないとか多すぎる」


「必要であれば何度でも」


「読者に怒られそう」


 口に出しかけた言葉を、俺は飲み込んだ。


 代わりにパンをちぎる。


 自分でも妙なことを考えた気がしたが、疲れているのだろう。


「主様?」


「何でもない」


 夕食を終える頃、旧保養施設から定時報告が入った。


『表示板、位置変化なし』


「残留魔力は?」


『測定終了後は追加測定していません』


「それでいい」


『旧送風路側の微弱振動が一回。低い共鳴なし。呼び出し線由来と思われる打音なし』


「子供は?」


『夕食済みです』


「何食べた?」


『パン、魚の煮込み、温野菜です』


「人参は?」


『入っていません』


「そこまで聞いてない」


 セリーがこちらを見る。


「今のは主様からお尋ねになりました」


「……そうだった」


『本人は食後、布鞄を自室の椅子へ置いています。木片は鞄内と思われますが、確認していません』


「扉は?」


『開いています』


「何か関連発言?」


『ありません』


「ならそのまま」


『はい』


 通信を終えようとしたところで、エルが一度間を置いた。


『主様。ガルム隊長から一件、判断を求められています』


「何?」


『本日の受動測定結果を受け、明日は旧呼び出し盤の右端に確認された別種の魔力偏りについて、同じ条件で再測定する案です』


「位置を変える?」


『測定器を約四十センチ移動させます。対象への照射なし』


「表示板には?」


『触れません』


「急ぐ?」


『いいえ』


「じゃあ明日の朝決める」


『承知しました』


 今日決めなくていい。


 明日のことだから。


 自室へ戻る。


 窓の外には森が広がり、夜の風が枝を揺らしている。塔の壁は厚く、外の音はかなり弱くなるが、完全に消えるわけではない。


 寝台へ腰掛けたところで、セリーが水を持ってきた。


「飲むよ」


「まだ何も申し上げておりません」


「顔で分かる」


「長くお仕えしておりますので」


「それ俺が言われたやつ」


「はい」


 水を飲む。


 セリーが杯を受け取る。


「今日は?」


「何がでしょう」


「必要とされたいって話」


 昨日、自分で口にした。


 俺がいなくても現地が回るのは嬉しい。


 でも、少し寂しい。


「旧保養施設へ行かずとも、一日は進みました」


「うん」


「白鴉でも、主様がすべてを決めたわけではありません」


「うん」


「帰還管理所の記録も、アンナマリー様とエルが整理しております」


「うん」


「それでも、主様は必要ではなかったとお考えですか?」


 少し考える。


「……必要ではあったと思う」


「はい」


「でも、俺だけじゃない」


「はい」


「そのくらいがいいのかな」


「私は、その方が主様がお休みになれるので助かります」


「結局そこ?」


「重要です」


 セリーが淡々と言う。


 笑う。


 少しだけ肩が軽くなる。


「おやすみ」


「おやすみなさいませ、主様」


 夜は大きく動かなかった。


 少なくとも、俺が眠るまでは。


 翌朝。


 目を覚ました時、窓の外はまだ薄暗かった。


 雨ではない。


 雲が厚いらしい。


 身体を起こし、寝台脇の水を飲む。


 着替えて食堂へ向かう途中、エルが声をかけた。


『主様。おはようございます』


「おはよう。何かあった?」


『旧保養施設から夜間報告が届いています』


「緊急じゃない?」


『はい』


「朝食の時でいい?」


『問題ありません』


「じゃあそうする」


 自分で言ってから少し驚く。


 以前ならその場で聞いていた。


 セリーが食堂で俺を見る。


「何かございましたか?」


「旧保養施設の夜間報告」


「お聞きにならないのですか?」


「朝飯食べながらでいいって」


「素晴らしい判断です」


「そんな褒める?」


「はい」


「昨日より評価高いな」


「継続しておりますので」


 席へ座る。


 パンと卵、温かなスープ。


 一口食べてから、エルへ頼む。


「お願い」


『夜間、旧送風路および細管で微弱振動三回。低い共鳴一回。相互の時刻一致はありません』


「表示板?」


『午前零時までは変化なし』


「その後?」


『午前三時十二分の定時位置確認で、さらに約一ミリ変位していることが確認されました』


 パンを持つ手が止まる。


「動いた瞬間は?」


『記録器では特定できていません。前回確認は午前二時四十分。その間、詰所への人の出入りはありません』


「打音?」


『記録なし』


「温度?」


『約〇・三度低下』


「扉?」


『開閉なし』


「外の風?」


『一時的にやや強まりましたが、建物記録器の振動値は表示板が動かなかった別時間帯より低い値です』


「じゃあ風だけじゃ説明できない」


『現時点では』


「魔力測定はしてない?」


『していません』


「子供は?」


『睡眠継続。起床はまだです』


「……そのまま」


『はい』


 さらに一ミリ。


 合計で、およそ六ミリ。


 大きな動きではない。


 でも、戻ってはいない。


 少しずつ一方向へ進んでいる。


「文字は?」


『変位により、昨日「待」に近いと推定した文字の一部がさらに露出しています』


「確度上がった?」


『はい。ただし完全ではありません』


「他の字は?」


『その後ろに、さらに線の一部が見えています』


「読める?」


『まだです』


「触らない」


『はい』


「戻さない」


『はい』


「今日の測定は?」


『ガルム隊長は、主様の判断待ちです』


 スープを一口飲む。


 急ぐ必要はない。


 でも昨日の測定で、盤の背面に二種類の弱い魔力偏りがあった。


 夜にまた表示板が動いた。


 同じ条件でもう一度測れば、偏りが変化しているか比較できる。


「朝一番ではやらない」


『はい』


「まず昨日の測定結果を整理。表示板が動いた推定時間帯の周辺記録と照合」


『はい』


「そのあと、同じ受動測定をする意味が残るなら昼前に一回」


『承知しました』


「子供が起きても、表示板が一ミリ動いたってわざわざ伝えに行かない」


『はい』


「聞かれたら隠さない」


『はい』


 朝食を続ける。


 半分ほど食べた頃だった。


 エルがもう一度声を出した。


『主様』


「今度は?」


『名前の分からない子供が起床しました』


「うん」


『普段の職員が挨拶し、本人も返事をしています』


「普通?」


『はい』


「なら――」


『その後、本人が布鞄を開けました』


 俺は黙る。


「職員は見てるだけ?」


『はい』


『本人が木片を取り出し、手に持っています』


「何か聞いた?」


『いいえ』


 食堂には朝の光が少しずつ入り始めていた。


 セリーは俺の向かいに立ったまま、口を挟まない。


『本人から自発発言があります』


「そのまま教えて」


『「まだ」』


 昨日と同じ言葉。


『続いて、木片を見ながら「まだ、よばない」と発言しました』


 胸の奥で、昨日まで別々に置いていた言葉が近づこうとする。


 でも、近づくことと繋がることは違う。


「職員は?」


『質問していません』


「それでいい」


『本人は木片を布鞄へ戻しました』


「他には?」


『窓を見ています』


「表示板のことは?」


『伝えていません』


「うん」


 俺はパンを皿へ置いた。


「今から行く?」


 セリーが尋ねる。


 少し考える。


「行かない」


「はい」


「本人は俺を呼んでない」


「はい」


「それに、『まだ、よばない』って言っただけで、俺が駆けつけたら変だ」


「そうですね」


「でも……」


 気になる。


 何が「まだ」なのか。


 何が「呼ばない」のか。


 木片を見ながら言った。


 今回は対象が昨日より近いようにも見える。


 それでも「木片が呼ぶ」とは言っていない。むしろ昨日、本人は明確に「これ、よばない」と言った。


「記録だけ残す」


『はい』


「木片を見ながら『まだ、よばない』。解釈なし」


『記録しました』


「本人が何か聞いてきたら答える」


『はい』


 通信を終える。


 セリーが俺の皿を見る。


「冷めます」


「食べる」


 再びパンを取る。


 食べながら考える。


 表示板は夜に一ミリ動いた。


 子供はそれを知らない。


 朝、木片を見て「まだ、よばない」と言った。


 関係があるかもしれない。


 ないかもしれない。


 偶然かもしれない。


 本人だけが知っている何かがあるのかもしれない。


 でも、今の時点で大人ができるのは、本人の言葉を本人の言葉のまま残すことだけだ。


 白鴉へ着く頃には、雲の切れ間から薄い光が落ち始めていた。


 三〇八号室の少年は、俺を見るなり言った。


「今日は昨日より早い」


「時計見た?」


「見てない」


「またかよ」


「お腹減ってない時に来た」


「朝飯は?」


「食べた」


「じゃあその基準やっぱり分からない」


 少年は笑う。


 状態確認を終える。


 大きな変化はない。


 白い薬の容器を見る。


 今日は少し迷った。


「どうする?」


「……同じ」


「うん」


「三日同じ?」


「数えなくていい」


「遅くない?」


「昨日も聞いたな」


「うん」


「今日も同じ答え。急ぐ理由がなければ、維持していい」


「じゃあ同じ」


「分かった」


 薬を飲む。


 蜂蜜水。


 苦い。


 そこまで終わってから、少年が俺を見る。


「地下は?」


「聞く?」


「うん」


「表示板が夜にもう少し動いた」


「どのくらい?」


「一ミリくらい」


「全部で?」


「最初からなら六ミリくらい」


「戻してない?」


「戻してない」


「子供は知ってる?」


「その一ミリは知らない」


「何か言った?」


「朝、木のやつを見ながら『まだ、よばない』って」


 少年の顔から笑いが消える。


 怖がったわけではない。


 考えている。


「木が呼ぶ?」


「昨日は『これ、よばない』って言ってる」


「じゃあ呼ばない」


「少なくとも、本人はそう言った」


「でも『よばれたら、もどる』」


「うん」


「何に呼ばれる?」


「分からない」


「聞かない?」


「今は」


 少年は少し唇を尖らせた。


「聞けばいいのに」


「聞いた方がいいと思う?」


「俺なら聞く」


「何て?」


「『何に呼ばれるの?』」


「答えられなかったら?」


「分かんない」


「答えたくなかったら?」


「……聞かない方がいい?」


「そうとも限らない」


「じゃあ何なの」


 少し苛立った声になる。


 俺はすぐに答えず、少年の顔を見る。


 これは地下の子供だけの話ではない。


 多分、少年自身にも関係する。


「聞くこと自体が悪いわけじゃない」


「うん」


「でも、何のために聞くかは考えた方がいい」


「知りたいから」


「俺も知りたい」


「じゃあ聞けばいい」


「知ったら、今すぐ何か変えられる?」


 少年が止まる。


「……分かんない」


「危険が迫ってて、答えがないと守れないなら聞くと思う」


「今は?」


「今のところ、そこまでじゃない」


「じゃあ待つ?」


「待てる」


「ずっと?」


「必要になったら変える」


 少年は椅子の背へ身体を預けた。


「面倒」


「うん」


「答えないのも選べる?」


「聞かれた時?」


「うん」


「選べる」


「でも危なかったら?」


「答えられるなら教えてほしいって言うことはある。でも、答えないから悪いにはしない」


「……そっか」


 少年は絵を引き寄せた。


 箱。


 中の丸。


 蓋。


「これ、開けろって言われたら?」


「お前の絵の箱?」


「うん」


「嫌なら嫌って言えばいい」


「何入ってるか知りたいって言われたら?」


「見せるか決めるのはお前」


「危なかったら?」


「危ないって分かる理由があるなら、一緒に考える」


「勝手に開ける?」


「命に関わるほど切迫してたら、そういうこともあるかもしれない」


「でも今は?」


「今は絵だろ」


 少年が少し笑った。


「じゃあ開けない」


「うん」


 炭筆を持つ。


 箱の蓋を、昨日より少し太くする。


「閉めた?」


「うん」


「音は?」


「いる」


「出てこない?」


「まだ」


 俺は何も言わなかった。


 少年も続けない。


 窓の外では、雲の切れ間から射した光が中庭の一角だけを明るくしていた。


 昼前。


 旧保養施設で二回目の受動測定が始まった。


 今回は俺も白鴉から通信で立ち会う。


 測定器の位置は昨日より右へ四十センチ。


 表示板には触れない。


 壁も開けない。


 魔力も送らない。


 ただ、そこに残っているものを見る。


『観測開始します』


 リディアの声。


 昨日と同じように静かな時間が流れる。


 最初の数分は変化なし。


 右端にあった魔力偏りは今日も残っている。


「昨日と強さは?」


『わずかに低下していますが、測定誤差との区別がつきません』


「背面側は?」


『こちらも残存しています』


「二つは繋がってる?」


『分かりません』


 さらに時間が過ぎる。


 予定終了まで二分。


 その時。


『……待ってください』


 リディアの声が少し変わった。


「何?」


『表示板には触れていません』


「うん」


『測定器からの照射もありません』


「分かってる。何があった?」


『背面側の残留魔力に、ごく小さな変動があります』


 俺は窓際の椅子から立たない。


「表示板は?」


『動いていません』


「打音?」


『ありません』


「地下振動?」


『ありません』


「変動だけ?」


『はい』


「強くなった?」


『一時的に上がり、戻りました』


「どのくらい?」


『約二秒です』


「何か周期?」


『一回だけでは判断できません』


 フェリクスの声が低く入る。


『自然残留なら、周囲の魔力環境で揺れること自体はあります』


「じゃあ特別とは限らない」


『はい。ただ――』


「ただ?」


『右端側は変化していません』


「二つが同じものじゃない可能性?」


『可能性の一つです』


 予定の時間が来る。


「終わり」


 俺が言う。


 誰も反対しなかった。


『観測終了します』


「追加なし」


『はい』


「表示板の位置記録」


『変化なし』


「今日取った分を比較して、次はそれから」


『承知しました』


 通信が切れる。


 三〇八号室の少年は少し離れた場所で聞いていた。


「動かなかった」


「うん」


「魔力だけ動いた?」


「少し変わった」


「じゃあ魔力が板を動かしてるんじゃない?」


「そうかもしれない」


「違うかも?」


「うん」


「面倒」


「今日二回目だぞ」


「本当に面倒だから」


 少年が笑う。


 午後、俺は帰還管理所の「呼出表示」という言葉について追加調査を始めなかった。


 アンナマリーには少し驚かれた。


「本日は確認なさらないのですか?」


「昨日二件見た」


「はい」


「今日は旧保養施設の測定もあった」


「はい」


「だから明日」


「承知しました」


「止めないんだ」


「アルフォンス様がご自身で止まっておられますので」


「成長した?」


「そこまでご自分で言われますと評価しづらいですね」


「昨日からみんな厳しい」


「昨日だけではございません」


 代わりに、町から届いた支援制度の仮運用報告へ目を通す。


 新しい申請が七件。


 医療支援二件。


 食料支援三件。


 一時雇用二件。


 代表五人のうち、今日はマルタとベンノが確認役になっている。


「却下は?」


「一件もありません。ただし、医療支援一件は必要書類不足で保留です」


「本人には?」


「不足している書類と、代替できる証明方法を伝えています」


「取りに行けない場合は?」


「町側で確認員を出す案があります」


「いいね」


 昔の制度では、書類が足りない。


 だから却下。


 それで終わった人もいた。


 今は、足りないなら何が足りないのか伝える。


 別の方法があるなら示す。


 それでも確認できなければ、その時考える。


「俺の承認いる?」


「不要です」


「本当に?」


「仮運用規則の範囲内です」


「そっか」


 少し嬉しい。


「寂しいですか?」


 アンナマリーが不意に言う。


「何で知ってるの」


「何をでしょう」


「いや」


 セリーが言ったわけではないだろう。


 俺の顔に出ているのかもしれない。


「少しだけ」


「でしたら、報告を読む役目は残っています」


「それ役目?」


「知ることも必要です」


「決めなくても?」


「はい」


 書類をもう一度見る。


 自分の印は必要ない。


 それでも俺は内容を知る。


 何かおかしければ言える。


 でも、俺がいなければ支援が止まる仕組みではない。


「この方がいいな」


「はい」


 夕方。


 旧保養施設から定時報告。


 表示板は動いていない。


 地下微弱振動一回。


 低い共鳴なし。


 呼び出し線の打音なし。


 名前の分からない子供は、午後に外の小さな庭へ出た。


「外?」


『はい。本人から「そと」と希望しました』


「誰と?」


『普段の職員一名。リディアが離れて警戒しています』


「鞄は?」


『本人が肩から下げています』


「木片?」


『確認していません』


「何してる?」


『落ち葉を拾っています』


「普通だな」


『はい』


「関連発言は?」


『ありません』


「じゃあ普通のままで」


『はい』


 それから一時間ほどして、もう一度連絡が来た。


 今度も緊急ではない。


『本人が庭から戻りました』


「うん」


『落ち葉を三枚持ち帰っています』


「それ報告いる?」


『本人が保管を希望したため生活記録に含まれています』


「何に使うって?」


『まだ決めていないそうです』


「ミナみたいだな」


『はい』


「他は?」


『自室へ戻る途中、旧職員詰所へ続く廊下の分岐で一度足を止めました』


 俺の表情が少し変わる。


「そっちへ行った?」


『いいえ』


「職員は?」


『何も促していません』


「本人は何か言った?」


『はい』


「そのまま」


『「まだ」』


 また。


「それだけ?」


『その後、「あっち、まだ」と』


「どっち指した?」


『旧職員詰所方向です』


 今までより一つだけ具体的になった。


 でも、意味はまだ広い。


「あっちがまだ、何?」


『職員は尋ねていません』


「うん」


『本人はそのまま自室へ戻っています』


「表示板のこと知ってる?」


『昨日、動いた小さなものをアル様が見たこと、元へ戻していないことまでは本人自身との会話で共有されています。本日さらに一ミリ動いたことは伝えていません』


「じゃあ『あっち』が表示板とは限らない」


『はい』


「呼び出し盤かもしれないし、廊下そのものかもしれない」


『はい』


「記録だけ」


『承知しました』


 通信を終える。


 今日は塔へ戻る。


 白鴉の玄関を出る前、三〇八号室の少年が廊下まで見送りに来た。


「地下の子、外出たんだ」


「庭だけ」


「何した?」


「落ち葉拾った」


「何枚?」


「三枚」


「そこは知ってるんだ」


「報告されたから」


「人参の数は知らなかったのに」


「まだ言う?」


「葉っぱ何にするの?」


「決めてないって」


「俺の箱と同じ」


「何でも自分に繋げるな」


「アルもやる」


「……そうだな」


 少年は笑った。


「明日、手紙読むかも」


「うん」


「読まないかも」


「うん」


「外も行くかも」


「うん」


「行かないかも」


「うん」


「薬は?」


「それも明日」


「全部明日」


「今日決める必要がないなら」


 少年は少し考える。


「でも明日になったら今日になる」


「そうだな」


「じゃあずっと今日」


「急に難しいこと言うな」


 少年が楽しそうに笑った。


「また明日」


「来れたらな」


「うん。来れたら」


 塔へ戻る。


 夜。


 食事を終え、風呂にも入り、自室で今日の記録を軽く整理していた。


 旧保養施設。


 表示板は合計約六ミリ変位。


 古い文字はまだ完全には読めない。


 受動測定では、呼び出し盤背面側と右端側に性質の異なる可能性がある弱い魔力偏り。


 背面側だけ一度、約二秒の変動。


 表示板はその時動かなかった。


 地下振動とも同期しなかった。


 名前の分からない子供。


 朝、木片を見ながら「まだ、よばない」。


 午後、旧職員詰所方向を見て「あっち、まだ」。


 それ以上は聞いていない。


 帰還管理所。


 古い記録に「呼出表示作動時も、本人申告なき場合は再確認を行わず」。


 同じ設備かは不明。


 それでも、表示の作動と本人意思を別に扱った記録として残る。


「今日は多いな」


 俺が呟くと、エルが答える。


『情報量としては多めです』


「でも何も分かってない」


『複数の可能性を排除せず保持できています』


「それ、褒めてる?」


『はい』


「最近、分からないことを分からないって言うだけで褒められる」


『以前の主様であれば、早期に仮説を一本化されていた可能性があります』


「そんなに?」


『はい』


「セリーも?」


 部屋の入口にいたセリーが即答する。


「はい」


「二対一はずるい」


「事実ですので」


 俺は記録板を置いた。


「寝る」


「はい」


「今日は水飲んだ」


「存じております」


「褒めない?」


「通常の生活行為です」


「昨日は褒めたのに」


「昨日は自己管理の継続についてです」


「基準が細かい」


「必要です」


 笑って寝台へ向かう。


 その時。


『主様』


 エルの声。


「緊急?」


『いいえ』


「旧保養施設?」


『はい』


 俺は寝台へ座った。


「何?」


『旧職員詰所の表示板に変化があります』


「また動いた?」


『いいえ』


「戻った?」


『戻っていません』


「じゃあ?」


『表示板そのものではなく、その下です』


 少しだけ背筋が伸びる。


「下?」


『表示板が移動したことで露出していた細い隙間から、光が確認されました』


「光?」


『非常に弱いものです』


「誰か照らした?」


『いいえ』


「測定器?」


『すべて撤去済みです』


「魔法灯?」


『旧職員詰所の照明を消して確認しましたが、残っています』


「色は?」


『淡い青白色』


「古代術式?」


『不明です』


「表示板に触るな」


『はい』


「隙間を覗き込むな」


『ガルム隊長も同じ指示です』


「強い測定もなし」


『はい』


「子供は?」


『自室で就寝準備中です』


「このことは知らない?」


『はい』


「音は?」


『ありません』


「地下振動?」


『光が確認された前後にはありません』


「低い共鳴?」


『ありません』


 また一つ。


 別の現象。


 あるいは、初めからそこにあったものが、表示板が少しずつ動いたことで見えるようになっただけかもしれない。


「光、変化してる?」


『現在は一定です』


「明るさ記録だけ」


『はい』


「今夜は開けない」


『はい』


「表示板も動かさない」


『はい』


「明日見る」


『承知しました』


 今度こそ寝ようとした。


 けれど、数分もしないうちにエルがもう一度声を出した。


『主様』


 今度は少しだけ声の調子が違った。


「何?」


『名前の分からない子供から自発発言です』


 俺は黙って続きを待つ。


『職員が就寝前の水を渡した際、本人が廊下側を見ました』


「うん」


『その後、布鞄へ手を置いています』


「何て?」


 短い間。


『「ついた」』


 胸の奥が静かに固くなる。


「職員は?」


『何も尋ねていません』


「続きは?」


『本人はもう一度、「あっち、ついた」と発言しました』


 旧職員詰所の方向。


 そこに、今まで見えていなかった淡い青白い光がついている。


 子供には伝えていない。


「見える位置じゃないよな?」


『子供の自室および生活区画廊下から、旧職員詰所内部は見えません』


「誰か話した?」


『確認中ですが、現時点では共有した職員はいません』


「本人、怖がってる?」


『強い恐怖反応はありません』


「行こうとしてる?」


『いいえ』


「何か他に言った?」


『職員が「お水、ここに置く?」と日常の確認だけを行いました。本人は頷いています』


「そのあと?」


『布団へ入りました』


 俺は長く息を吐いた。


 聞きたい。


 どうして分かった。


 何がついた。


 その光を知っているのか。


 表示板を知っていたのか。


 呼ばれるとは、これなのか。


 全部聞きたい。


 でも。


「今夜は聞かない」


『はい』


「光もそのまま」


『はい』


「危険な魔力上昇があれば?」


『生命・施設安全上必要な対応を行います』


「それ以外は観測」


『承知しました』


 通信を切る。


 セリーはまだ部屋にいた。


「行かれませんか?」


「行かない」


「はい」


「でも、すごく行きたい」


「存じております」


「聞きたい」


「はい」


「『何がついたの』って」


「はい」


「でも、今聞かなくても安全は守れる」


「現時点では」


「なら明日」


 セリーが小さく頷く。


「明日になっても、本人が話したくなければ?」


「聞かないかもしれない」


「はい」


「必要になったら聞くかもしれない」


「はい」


「まだ決めない」


「それでよろしいかと」


 部屋の灯りを落とす。


 寝台へ横になる。


 旧職員詰所で、錆びた表示板の下から青白い光が見えている。


 名前の分からない子供は、それを見ていない。


 誰からも聞いていない。


 それなのに「あっち、ついた」と言った。


 だからといって、子供が何か特別な力で感じ取ったと決めることもできない。古い設備の別の場所で同じ変化が起き、生活区画から分かる何かがあったのかもしれないし、俺たちがまだ見つけていない仕組みがあるのかもしれない。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


 朝、子供は「まだ、よばない」と言った。


 夜、何かが「ついた」と言った。


 その二つを、俺たちが勝手に一本の線で結ぶ必要はない。


 少なくとも今夜は。


 翌朝、俺が目を覚ますより先に、旧保養施設では変化が起きていた。


 青白い光は消えていなかった。


 表示板も戻っていない。


 打音もない。


 地下の微弱振動も、その時間には記録されていなかった。


 そして名前の分からない子供は、いつもの時間より少し早く目を覚ました。


 布鞄を抱えたまま、開いた自室の扉の前まで出たという。


 普段の職員が近くにいた。


 急かさない。


 どこへ行くとも聞かない。


 子供は廊下の分岐を見る。


 旧職員詰所へ続く方向。


 昨日、「あっち、まだ」と言った場所。


 しばらく立ったあと、子供は職員を見上げた。


「いかない」


 職員は頷いた。


「うん」


 それだけ答えた。


 子供はもう一度、廊下の向こうを見る。


 布鞄を胸の前で抱き直す。


「まだ、いかない」


「うん」


「でも」


 そこで言葉が止まった。


 職員は待った。


 子供は鞄へ目を落とし、ゆっくり顔を上げる。


「きえたら」


 そこまで言って、黙った。


 何が消えたらなのか。


 その先に何をするのか。


 職員は尋ねなかった。


 子供も続きを言わなかった。


 ただ、自分で部屋へ戻り、扉は閉めなかった。


 旧職員詰所では、青白い光がまだ細い隙間の奥に残っていた。

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