第100話 開けるためではなく、守るために
朝を迎えた旧保養施設の中央棟では、西側の物品庫だけが普段とは少し違う空気に包まれていた。
昨夜、壁の向こうから聞こえた三度の小さな音。その三度目と同じ時刻帯に、壁面から距離を取って設置していた受動式の記録具が、ごく短い残留魔力の変化を拾っている。
警報が鳴るほど強い反応ではない。
壁が震えたわけでも、統合盤が光ったわけでもない。
それでも、これまで記録されてきた現象とは少し違っていた。
「最初から確認するぞ」
物品庫へ入る前、ガルムは廊下に集まったリディア、フェリクス、夜間担当者二名を見回した。
「昨夜、西壁側から小音を三回確認。一回目が三時十七分、二回目が三時十八分、三回目が三時二十分」
「はい」
夜間担当の男が頷く。
「三回目と同じ三時二十分の記録枠で、西壁付近の受動計器が基準値を一時的に上回りました」
「同時?」
「秒単位では記録できていません」
「じゃあ同時とはしない」
「はい」
「音が原因で魔力が変化した?」
「分かりません」
「魔力変化が原因で音がした?」
「分かりません」
「そもそも同じ設備?」
「分かりません」
ガルムはそこで頷いた。
「よし」
フェリクスが横から口を挟む。
「全部分からないのに『よし』なんですね」
「分からないところが分かってるからな」
「最近、その状態を喜ぶようになっていません?」
「お前に言われたくない」
「私は昔から未知を喜びます」
「だから止めてるんだ」
リディアが小さく笑い、それから物品庫の扉を見る。
「今朝の確認は目視と受動測定だけでいいですか?」
「まずはな。壁に触らない。点検口らしき輪郭も開けない」
「棚は?」
「昨日の位置を維持。壁から離して固定してあるなら動かさない」
「了解です」
物品庫へ入る。
昨夜の間、誰も中へ入っていない。
扉には簡易封印が施され、開閉記録も残っていた。封印そのものに異常はなく、床に新しい破片も見当たらない。
西壁には、後年の塗材で覆われた縦長の輪郭がある。
古い図面と内装改修記録を照合した結果、かつての「機械保持部点検口」である可能性が高まっている場所だ。
だが、まだ「点検口」と断定してはいない。
「見た目の変化なし」
リディアが距離を保ったまま確認する。
「塗材の剥離も増えていません。輪郭周囲に新しい亀裂なし」
「床は?」
「破片なし。錆粉も目立った増加なし」
「受動計器」
昨夜使ったものとは別の測定具を追加し、二系統で確認する。
しばらく待つ。
「現在は通常範囲です」
「昨夜の変化が計器故障だった可能性は?」
「あります」
「同型をもう一台置けば?」
「比較できます」
「じゃあ置く。ただし壁に近づけるな」
「はい」
フェリクスは輪郭を見つめたまま、腕を組んでいた。
「何かあるか?」
「いえ」
「その顔は何か考えてる」
「開けたいな、と」
「昨日も聞いた」
「今日は昨日より開けたいです」
「正直なのはいい」
「でも、開けません」
ガルムがフェリクスを見る。
「自分で言えるようになったな」
「子供扱いされている気がします」
「設備に関しては似たようなもんだ」
「研究者ですよ?」
「だからだよ」
フェリクスは肩を落としたが、それ以上は言わなかった。
代わりに、昨日見つかった内装改修記録の複写を取り出す。
「問題はこれです」
『設備休止に伴い、誤操作防止のため表面閉鎖。内部機械部は撤去せず。再開時は管理責任者二名以上立会いのもと状態確認後、開放可』
「昨日の続きだな」
「はい。ただ、私は『管理責任者二名』という人数より、その理由を調べたい」
「探した?」
「朝食前に少し」
ガルムの眉が動く。
「少し?」
「起床してから朝食までの間です。食事は抜いていません」
「ならいい」
「そこが審査基準なんですか?」
「セリー殿に知られたら、俺まで怒られそうだからな」
「なぜガルムさんが?」
「お前を止められる位置にいたのに止めなかったって言われそうだ」
「否定できませんね」
「だろ」
リディアが二人を止めるように資料へ指を置いた。
「それで、何か見つかったんですか?」
「一つだけ」
フェリクスが紙を広げる。
同時代の別設備で使われていた保守規則だった。
「『休止設備再開前確認』」
「同じ施設?」
「違います。同時代の王立中継設備です」
「じゃあ参考まで」
「はい」
フェリクスも素直に頷く。
「ここでは、二名以上の立ち会い理由が書かれています。一人は機械状態を確認する者。もう一人は記録と周囲安全を確認する者」
「役割分担か」
「少なくとも、この設備では」
リディアが続きを読む。
「『確認者は同一操作へ同時に手を触れないこと』」
「どういう意味だ?」
「一人が操作、一人が監視ということでは?」
フェリクスが答える。
「さらに、『状態不明時は再開操作を行わず、閉鎖状態を維持』」
「今の俺たち向きだな」
「ええ。ただし別施設です」
「分かってる」
ガルムは資料を机へ戻した。
「同じ規則をそのまま使うんじゃなく、当時も『二人いること』自体じゃなく役割を分けてた例がある。それだけ覚えとく」
「はい」
「この施設の規則を探す」
「続けます」
ガルムは西壁へ視線を戻した。
薄暗い物品庫。
古い壁。
そこに何があるのかは、まだ誰にも分からない。
「今日は開けない」
ガルムが改めて言った。
「了解です」
リディアが答え、フェリクスも頷く。
「今日は、開けない理由を増やすんじゃない」
ガルムは続けた。
「開けるにしても開けないにしても、判断できる材料を増やす。それだけだ」
◇
名前のない子供は、朝食を終えたあと自分の部屋へ戻ってきた。
今朝は木片を持って食堂へ行かなかった。
起きた時、一度は手に取った。
けれど、パンを食べる時に両手を使いたいと思い、低い台へ戻した。
昨日は持ちたかった。
今日は朝食には持っていきたくなかった。
理由はそれだけだった。
「まだ、ある」
部屋へ入るなり、子供は低い台を見る。
木片は朝置いた位置にある。
隣には「みち」と「やすみ」。
少し離れた元の卓には、丸の紙と名前のない短い線が残されている。
昨日までと同じように、物が増えて少し窮屈だった。
「ナディア」
「うん?」
「きょう、みる?」
「何を?」
「つくえ」
以前話していた、小さな脇台のことだった。
「見たい?」
「うん」
「じゃあ、持ってきてもらおうか」
「ここに?」
「いくつか候補を廊下に置いてもらって、見に行くこともできるよ」
子供は少し考える。
「ここに、いれる?」
「選ぶ前に?」
「うん」
「全部?」
「……いっぱい?」
「三つくらいあるみたい」
「せまい」
「そうだね」
「じゃあ、そと」
「分かった」
ナディアは職員へ伝える。
少しして、廊下の広い場所へ三種類の小さな台が並べられた。
一つは丸い。
一つは四角く、低い。
もう一つは少し背が高く、下に小さな棚がある。
どれも古い施設に元からあったものではなく、町から持ち込まれた普通の家具だった。
子供は廊下へ出ると、少し離れた場所で止まった。
「これ?」
「うん」
「ぼくの?」
「まだ違うよ。使いたいものがあれば、部屋で使っていい」
「つかわなかったら?」
「戻す」
「えらばないでも?」
「いいよ」
子供は三つを見る。
丸い台へ近づく。
触れない。
四角い台へ移る。
しゃがみ込んで高さを見る。
最後に、棚のついた台の前で止まった。
「ここ」
下の棚を指す。
「うん」
「いれる?」
「物を?」
「うん」
「入れられるよ」
子供の表情が少し曇る。
「みえなくなる」
「棚は前が開いてるから、置いた物は見えるよ」
ナディアは実際に何かを置こうとはしなかった。
子供が自分で覗く。
「……みえる」
「うん」
「でも、した」
「下に置くのが嫌?」
「わかんない」
「じゃあ、まだ選ばなくてもいいよ」
子供は三つをもう一度見る。
四角い低い台の前へ戻る。
「これ」
「これがいい?」
「いまは」
「分かった」
「あとで、ちがうっていっていい?」
「もちろん」
「もどす?」
「戻してもいいし、別のを試してもいい」
「これ、ぼくのになる?」
ナディアは少し考えた。
「施設の物だけど、ここにいる間、あなたが使う台として扱うことはできる」
「ぼくのじゃない?」
「木片みたいに、あなた個人の持ち物になるわけではないかな」
「でも、つかうのはぼく?」
「うん」
「かってに、もってく?」
「必要がなければ持っていかない。何か理由があって動かす必要が出たら、先に話すよ」
子供は四角い台を見つめる。
「それなら、これ」
「分かった」
職員二人が台を部屋へ運ぶ。
子供は後ろからついていった。
置く場所も本人に確認する。
「こっち」
寝台と元の卓の間。
「もう少し右?」
「……そこ」
台が置かれる。
子供は低い台にあった木片へ手を伸ばす。
一度持ち上げる。
新しい四角い台へ置こうとして、止まる。
「どうしたの?」
「どれ、こっち?」
「どれを置きたい?」
「……」
木片。
「みち」。
「やすみ」。
丸。
短い線。
子供は一つずつ見る。
「ぜんぶ、うごかす?」
「動かしたい?」
「わかんない」
「じゃあ、一つだけでもいいよ」
子供は考える。
そして木片ではなく、「みち」と書いた紙を取った。
新しい台へ置く。
「これ」
「うん」
次に「やすみ」。
それも隣へ置いた。
木片には触れない。
「これは、こっち」
木片は今までの低い台に残した。
「分かった」
「ちがっても、いい?」
「何が?」
「おなじところじゃない」
「いいよ」
「せんせいは、いっしょにいれた」
ナディアは表情を変えずに待つ。
「木片と?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「うん。ふくろに」
「前にも、先生が木片を袋に入れたと思うって話してたね」
「うん」
「今、それ以上思い出した?」
子供は目を閉じるように考える。
「……ない」
「じゃあ、『たぶん』のままでいい」
「うん」
子供は新しい台の上の「みち」と「やすみ」を指で整える。
「これは、ぼくがつくった」
「うん」
「木片は」
振り返る。
「せんせいが、もってろって」
「うん」
「でも、ぼくの」
「今はそう扱ってるね」
「ちがうところでも?」
「一緒の袋や台に置かないと、あなたの物じゃなくなるの?」
子供は木片を見る。
それから紙を見る。
「……ならない」
「そっか」
「たぶん」
「それでもいい」
子供は少し笑った。
「たぶん、ぼくの」
「うん」
ナディアも笑う。
子供は新しい台をしばらく眺めたあと、突然言った。
「これ、きろくする?」
「台を選んだこと?」
「うん」
「残してほしい?」
「……いらない」
「分かった」
「でも、木片と、ちがうところにしたのは?」
「それは?」
「……」
子供は考える。
「いらない」
「分かった」
「だって」
「うん?」
「ぼくのへや」
「うん」
「おいただけ」
ナディアは頷いた。
「そうだね」
それ以上、紙を取り出さなかった。
子供は自分で選んだ新しい台へ「みち」と「やすみ」を置き、満足したように床へ座った。
何をどこへ置いたか。
そのすべてが記録される必要はなかった。
◇
町の支援窓口では、五日間の試行が続いていた。
午前中、アルは町役場へ研究院宛ての照会文を預けるために来ていた。
本来なら、それだけで帰るつもりだった。
だが受付の近くで、少し困ったような声が聞こえる。
「前にも話したんだけどね」
六十代ほどの女性だった。
受付職員が書類を見ている。
「はい。前回の記録はこちらにあります」
「じゃあ、それでお願いできない?」
「もちろん参考にします。ただ、現在も同じ状況かだけ――」
職員が言いかけて止まる。
女性の表情が硬くなったからだ。
「また全部言うの?」
「いえ」
「前も三人に話したのよ。夫が寝込んで、畑に出られなくなって、息子は南へ働きに出てるって」
「はい」
「また話すの?」
アルは少し離れた場所で足を止めた。
受付職員も困っている。
五日間の試行では、以前の記録を参照して本人の説明負担を減らすことになっている。一方で、過去の状態をそのまま現在の状態として扱わないため、必要な部分だけ現在の状況を確認する。
その「必要な部分」の聞き方が、今まさに問題になっていた。
受付職員は少し考えたあと、書類を閉じた。
「すみません。聞き方を変えます」
女性が顔を上げる。
「前回のお話を、こちらから読み上げてもいいですか?」
「……読み上げる?」
「はい。違うところだけ、違うと言ってください。話したくないところは答えなくても構いません」
女性は少し迷った。
「それなら」
「ありがとうございます」
職員が記録を見る。
「前回、旦那さんが体調を崩して畑仕事が難しくなっていると伺いました」
「そこは同じ」
「息子さんは南の町で働いている」
「戻ってきた」
職員の手が止まる。
「今は戻っているんですね」
「三日前にね」
「分かりました。息子さんが戻ったことで、支援が不要になった、という意味ではありません」
女性の表情が少し緩む。
「そうなの?」
「はい。今の困り事がどう変わったかだけ、必要なら確認します」
「息子も仕事を辞めて戻ってきたわけじゃないの。父親が心配で、一月だけ休みを取ったって」
「分かりました」
「だから、一月したらまた南へ戻る」
「そのことは残していいですか?」
「うん」
「旦那さんの体調について、今日は話せますか?」
女性は少し考える。
「今日は……細かいのは嫌」
「分かりました。では、前回から大きく悪化したか、緊急に医者が必要かだけ確認してもいいですか?」
「それなら。悪くはなってない。医者にも行ってる」
「ありがとうございます」
職員が記録する。
前回の説明を消さない。
今の情報で上書きもしない。
息子が南にいる、という過去の状態。
三日前に一時帰宅した、という現在の状態。
一月後に戻る予定。
夫の詳しい体調は今日は話したくない。
緊急悪化なし。
それぞれを別に残す。
「今日はここまでで大丈夫です」
職員が言う。
女性が少し驚いた。
「もう?」
「はい」
「また誰かに同じこと話さない?」
「今日の記録を、支援に必要な担当者が参照することについては、前回と同じ範囲でよろしいですか?」
「うん。それなら」
「分かりました」
女性は立ち上がり、少ししてから受付職員を見る。
「前より楽だった」
職員の顔に安堵が浮かぶ。
「ありがとうございます」
「でも最初は、また全部聞かれるのかと思った」
「そこは改善点として残してもいいですか?」
「私の名前も?」
「改善点だけなら、名前を外して残せます」
「じゃあ、それで」
「ありがとうございます」
女性が去ったあと、受付職員は大きく息を吐いた。
「緊張した……」
「お疲れさま」
アルが声をかける。
職員が驚く。
「アルさん。いつから?」
「途中から」
「聞いてたんですか?」
「聞こえた範囲だけ。内容は俺の方では記録しないよ」
「あ……はい」
職員は少し安心したあと、眉を寄せた。
「試行の決まり通りにしようとして、最初の聞き方が駄目でした」
「駄目だった?」
「だって、不安にさせました」
「でも途中で変えた」
「はい」
「それ、試行の記録に残す?」
「残します。『現在状態確認』って言い方だと、また全部話さなきゃいけないと思わせる場合があるって」
「うん」
「前回記録を本人の許可でこちらから提示して、違う部分だけ確認する方法も使える、と」
アルは頷いた。
「それを今すぐ正式ルールにする?」
「……いえ」
職員は考える。
「合わない人もいるかもしれません。過去のことを読み上げられたくない人もいる」
「そうだね」
「じゃあ、選べるようにする?」
近くで話を聞いていたイーダが加わった。
「『前の記録をこちらから確認する』『本人が話す』『今日は確認しない』とか」
職員が頷きかける。
しかしアルは口を挟まなかった。
二人が考えるのを待つ。
「でも選択肢を毎回ずらっと出したら、それも面倒か」
イーダが自分で言う。
「そうですね」
「なら、五日間は方法を固定しないで、どう聞いたら負担が少なかったかも記録しよう」
「はい」
アルは少し笑った。
イーダが気づく。
「何?」
「いや」
「言って」
「俺、何も言わなくて済んだなって」
「いたのに?」
「いたのに」
イーダが呆れたように笑う。
「いいんじゃない? あなたの町じゃないんだから」
「うん」
アルはその言葉を聞きながら、不思議なくらい穏やかな気持ちになった。
(俺の町じゃない)
昔なら、少し寂しく感じたかもしれない。
今は違う。
自分がいなくても、職員が迷い、本人の顔を見て聞き方を変え、その失敗を改善点として残す。
代表がそれを聞き、すぐに完璧な規則へ固めず、試行期間の材料にする。
それでいい。
「アルさん」
「ん?」
「何しに来たの?」
イーダに聞かれ、アルは持っていた封書を見せた。
「あ。これ渡しに来たんだった」
「忘れてたの?」
「ちょっと」
「元王太子様が?」
「元王太子でも忘れるよ」
「じゃあ受付へどうぞ」
「はい」
◇
昼過ぎ。
塔へ戻ったアルは、少し遅めの昼食を取っていた。
セリーが向かいに座っている。
「今日は町で何かございましたか?」
「窓口で試行の問題が一個出た」
「問題ですか?」
「うん。でも、たぶん良い問題」
「良い問題?」
「やってみたから分かったやつ」
アルはスープを飲む。
「前の記録を使って説明の負担を減らすって決めたけど、今の状態を確認しようとしたら、『また全部話すの?』って不安にさせちゃった」
「なるほど」
「でも職員が途中で聞き方を変えた。前の記録を読み上げて、違うところだけ教えてもらった」
「その方法が正解だったのですか?」
「その人には良かったみたい。でも、他の人には嫌かもしれない」
「過去の記録を読み上げられること自体が負担になる方もいらっしゃるでしょう」
「うん。だから、まだ決めないって」
セリーは静かに頷いた。
「町の方々が?」
「そう」
「主様は?」
「見てただけ」
「何も?」
「最後にちょっと話したくらい」
「それは」
セリーの口元が柔らかくなる。
「嬉しかったのでは?」
「分かる?」
「はい」
「ちょっと悔しい」
「なぜです?」
「セリー、俺のこと分かりすぎ」
「長く見ておりますので」
「それだけ?」
アルが聞く。
セリーの動きが少しだけ止まった。
「主様」
「うん」
「最近、そのような尋ね方が増えましたね」
「嫌だった?」
「いいえ」
「じゃあ答えて」
「長く見てきたから、だけではないと思います」
アルの匙が止まる。
「……そっか」
「はい」
セリーは平然と食事を続ける。
アルだけが少し困った。
(またそれだ)
セリーは時々、こちらが構える前に一歩だけ近づいてくる。
けれど、二歩目を急がない。
だから余計に意識する。
「セリー」
「はい」
「食べ終わったら、ちょっと外歩かない?」
「塔の庭ですか?」
「うん。仕事じゃなくて」
「散歩?」
「そう」
セリーは少し考える。
「行きたいです」
「即答?」
「今日は決まっておりますので」
「そっか」
アルは笑った。
「じゃあ行こう」
◇
午後の庭は、風が少し強かった。
塔を囲む木々の葉が揺れ、乾いた音を立てている。空には薄い雲が流れていたが、雨の気配はない。
アルとセリーは並んで歩く。
目的地はない。
何かを確認するためでもない。
「前にここで休んだよね」
アルが言う。
「はい」
「あの時、俺、休むの下手だった」
「今も得意とは申し上げにくいですね」
「そこは上達したって言ってよ」
「上達はしております」
「じゃあいい」
セリーが小さく笑う。
二人は中庭の端まで歩き、折り返す。
「今日は手、つながないの?」
アルが尋ねた。
セリーが足を止める。
「主様はつなぎたいのですか?」
「……うん」
言ってから、アルは少し照れた。
「たぶん」
「たぶん?」
「いや、つなぎたい」
「では」
セリーが手を差し出した。
アルは一瞬その手を見る。
これまでは卓の上で触れるだけだった。
小指。
手の甲。
ごく短い接触。
今は、セリーから手そのものを差し出している。
アルは自分の手を重ねた。
指が触れる。
そのまま、軽く握る。
セリーの指も閉じた。
「……普通につないだ」
「はい」
「なんか」
「はい?」
「緊張する」
「離しますか?」
「いや」
アルはすぐに答えた。
「このままがいい」
「分かりました」
二人はまた歩き出す。
手をつないだまま。
誰もいない庭。
風の音。
塔の壁へ落ちる午後の光。
大きな出来事ではない。
名前をつける必要もない。
けれどアルは、つないだ手を意識せずにはいられなかった。
(俺、セリーとこうして歩きたかったんだな)
言葉になった心情を自覚すると、少し恥ずかしくなる。
セリーを見る。
彼女は前を向いている。
「セリー」
「はい」
「緊張してない?」
「しています」
アルが驚く。
「してるの?」
「はい」
「全然見えない」
「主様も、以前よりは見えません」
「俺も?」
「はい」
「じゃあ、お互い様か」
「そうですね」
少し歩く。
セリーの親指がわずかに動いた。
アルの手の側面へ触れる。
「今のわざと?」
「秘密です」
「またそれ?」
「はい」
アルは笑った。
答えを求めなかった。
◇
旧保養施設では、午後になってフェリクスがようやく目的の記録を見つけた。
「これです」
資料室の机へ、厚い帳面を置く。
ガルムが顔をしかめる。
「一冊だけって言ったよな」
「一冊です」
「厚い」
「冊数は守っています」
「そういう問題か?」
「規則上は」
「お前、町の窓口に送るぞ」
「なぜです?」
「規則の穴を探すやつが必要らしい」
「それは研究では?」
リディアが二人の間に帳面を開く。
「何が見つかったんですか?」
「旧保養施設そのものの休止設備確認規定です」
空気が変わった。
「同じ施設?」
「表紙上は。年代も、西壁の表面閉鎖記録より少し前から少し後まで重なっています」
「読むぞ」
三人で確認する。
休止設備を再確認する場合。
封鎖理由を先に確認。
周辺の現行用途を確認。
内部状態が不明な場合、開口前に外部から確認可能な異常を記録。
立会者は二名以上。
そして、その理由が欄外に残されていた。
『開放判断者と状態記録者を分けること。判断者単独による開放・再開を禁ず』
「これか」
ガルムが呟く。
「人数じゃない」
リディアが続ける。
「判断する人と、記録する人を分ける」
フェリクスが次の行を読む。
『開放は再開を意味しない。内部確認後、再閉鎖を選択可』
三人が黙る。
「開けたら使わなきゃいけないわけじゃない」
ガルムが言う。
「はい」
「さらに」
リディアが指を滑らせる。
『状態確認の目的を事前記録。目的外操作を行わない』
「……いい規則ですね」
フェリクスが言った。
「昔の規則はな」
ガルムの声は少し重かった。
彼らはもう知っている。
最初に丁寧な規則があっても、それが永遠に丁寧なままとは限らない。
本人の意思を残すための記録。
負担を減らすための説明保留。
緊急時だけの代理判断。
どれも始まりには理由があった。
そして理由が忘れられ、形式だけが残り、範囲が広がれば、人を守る仕組みが人の声を押し込めることもある。
「続きがあります」
フェリクスが頁をめくる。
『内部に不明な保持状態を認めた場合、解除・切断・移動を行わず閉鎖を維持し、原記録照会を優先』
「不明なら触るな」
「はい」
「今の俺たち、そのままだな」
リディアがさらに読む。
「『生命保持、保護対象、転送待機その他の継続状態が否定できない場合、設備再開より対象保護を優先』」
ガルムの目が細くなる。
「生命保持?」
「書いてあります」
「この点検口の先に生命保持設備があるって意味じゃないぞ」
ガルムがすぐに釘を刺す。
「はい。休止設備全般の規則です」
「でも、開ける時に考える危険が一個増えた」
「そうですね」
フェリクスは珍しく興奮を抑えていた。
「内部の機械部が、現在も何かを保持している可能性を先に否定できるか」
「否定できないなら?」
「少なくとも、開口そのものが保持状態へ影響する構造かを調べる必要があります」
「図面」
「はい」
「またか」
「またです」
ガルムは椅子へ深く座った。
「今日は開けない」
「はい」
「明日も開けるとは決めない」
「はい」
「でも」
西壁の方角を見る。
「開けるなら、何を守るためにどう開けるかは見えてきたな」
リディアが頷く。
「開けることが目的ではない」
「中を見ることも最終目的じゃない」
フェリクスも言う。
「現在の状態を壊さず確認すること」
「それだ」
ガルムは帳面の複写を指示した。
「原本は戻せ。必要頁だけ複写。あと、この規則が後年どう変わったかも探す」
「後年?」
「良い規則だったからって、最後まで同じだったとは限らん」
フェリクスの顔から笑みが消える。
「……確かに」
「最初だけ見て安心するな」
「はい」
◇
夕方。
三〇八号室では、少年が赤い布を膝へ置いていた。
今日は手紙を読むつもりではない。
ただ、持っている。
ヨアヒムが薬の確認を終える。
「白い薬は今日も同じ量でいい?」
「うん」
「減らしたい気持ちは?」
「ある」
「今日は?」
「減らさない」
「分かった」
少年は赤い布を指で撫でる。
「これも」
「手紙?」
「読みたい気持ちはある」
「うん」
「でも読まない」
「分かった」
「変?」
「何が?」
「読みたいのに読まない」
「別に」
「なんで?」
「読みたい気持ちと、今読むかどうかは別だから」
少年は黙る。
「薬も?」
「減らしたい気持ちと、今日減らすかは別だろ?」
「……うん」
「なら同じじゃない?」
少年は赤い布を見る。
「先生は」
そこで止まる。
ヨアヒムは待つ。
「先生は、やりたいならやれって」
「そう言ってた?」
「たぶん」
「たぶん?」
「……うん」
「じゃあ、たぶんのままにしよう」
「ブラートもそう言う」
「何を?」
「覚えてないなら、覚えてないって」
「それでいいと思う」
「みんな、答えないね」
ヨアヒムが少し笑う。
「何を?」
「先生が悪いか」
「今の話だけで決めてほしい?」
少年はすぐには答えない。
「……分かんない」
「じゃあ決めない」
「またそれ」
「便利だぞ、分からないって」
少年は少し笑った。
「偽物も言う?」
「アル?」
「偽物」
「よく言う」
「王子なのに?」
「元王太子だけどな」
「王子は全部知ってるんじゃないの?」
「そんな人間いたら怖いだろ」
少年は想像したらしい。
「……怖い」
「だろ?」
少しだけ空気が軽くなった。
少年は赤い布を膝から机へ戻す。
「今日は読まない」
「うん」
「明日は?」
「明日決めればいい」
「聞く?」
「お前から言わなかったら、必要がなければ聞かない」
「薬は?」
「身体の安全があるから、薬は必要な時に確認する」
「手紙は?」
「安全上の理由がないなら、毎日聞かなくてもいい」
少年は頷いた。
「じゃあ、ぼくが言う」
「分かった」
◇
夜になり、アルは旧保養施設から届いた新しい規則の複写を読んでいた。
セリーも隣にいる。
ブラートとアンナマリーも卓を囲んでいた。
「『開放判断者と状態記録者を分ける』」
アンナマリーが読む。
「かなり明確ね」
「一人に決めさせない」
ブラートが続ける。
「しかも、開ける人と記録する人を分けるだけではなく、開放判断そのものと記録を分けている」
「どう違う?」
アルが尋ねる。
「たとえば、ガルム殿が『開ける』と判断し、フェリクスが実際に開け、リディアが記録する。それでも判断自体はガルム殿一人です」
「なるほど」
「当時の文言だけでは、判断者が複数必要だったかまでは分かりませんが」
「今の俺たちがそのまま真似する必要もない」
「はい」
アンナマリーが別の箇所を見る。
「私はここが気になる」
『状態確認の目的を事前記録。目的外操作を行わない』
「開ける前に、何をするためか決める」
「そう」
「じゃあ、今の目的は?」
誰もすぐに答えなかった。
アルは紙を見る。
西壁からの音。
微弱な魔力変化。
北壁で見つかった金属片。
旧第二線。
休止保持器。
統合盤の発光。
どれも気になる。
だが「気になるから中を見たい」は、目的として広すぎる。
「……西壁の中に、旧第二線の機械部が残っているか確認する?」
アルが言う。
アンナマリーが首を傾ける。
「残っているか確認して、どうするの?」
「それは」
アルが止まる。
「音の原因を知る?」
「原因がその設備とは限らない」
「うん」
ブラートが言う。
「現在の状態を確認し、危険がないか確かめる、では?」
「それなら分かる。でも『危険』も広いな」
「そうですね」
セリーが静かに口を開いた。
「主様」
「うん?」
「今、開けなければ困る方はいらっしゃるのですか?」
アルは答えようとして、止まった。
「……いない」
「西壁の向こうに何かがあることで、現在苦しんでいる方は?」
「確認されてない」
「設備が壊れ続けている証拠は?」
「ない」
「では、開ける理由は今のところ調査ですか?」
「たぶん」
「なら」
セリーは複写を指す。
「調査のために開けることで、保護すべき何かへ影響する可能性があるのでしたら、急ぐ理由は少ないのではありませんか?」
アルはしばらく黙った。
「そうだね」
フェリクスなら、開けたいと言うだろう。
アルだって見たい。
(俺も知りたいんだ)
西壁の向こう。
古い設備。
二千年前の仕組み。
それが今も動いているのか。
自分や子供たちの過去につながっているのか。
知りたい。
けれど、知りたいことと、今開けるべきことは別だ。
「俺、開ける条件ばっかり考えてた」
アルが言う。
「はい」
「でも、開けないまま調べられることがまだある」
「はい」
「後年の規則変化。内部構造図。保持状態に影響するか。現行設備との干渉。あと、昔の点検口が本当に今見つけた輪郭なのか」
「そうですね」
「じゃあ、そこまで先」
ブラートが頷く。
「ガルム殿も同じ判断をされると思います」
「でも俺から命令はしない」
「連絡は?」
「意見として送る。『塔側では急いで開ける必要を認めていない』って」
「それがいいでしょう」
アンナマリーが言う。
アルはエルへ伝達を頼んだ。
『送信します』
少しして、返事が来る。
『ガルム・ライスより返信。「こっちも同じ。今日は寝ろ」』
アルが眉をひそめる。
「最後いらなくない?」
「必要です」
セリーが即答する。
「セリー?」
「ガルム様の判断を支持します」
「そこ同盟組まないでよ」
「すでに組んでおります」
「いつ!?」
「かなり以前からです」
アンナマリーが笑い、ブラートも顔を背けた。
「ブラート、笑った?」
「いいえ」
「絶対笑った」
「気のせいです」
少し前まで、こんな空気の中で古い施設の重大な謎を話すことなど想像できなかった。
けれど、今はそれでよかった。
深刻なことを考えるために、ずっと深刻な顔をしている必要はない。
◇
深夜。
旧保養施設の監視は続いていた。
西壁は開けない。
北壁も触らない。
統合盤にも触れない。
今夜も、起きたことだけでなく、起きなかったことを残す。
午後十一時三十分。
変化なし。
午前零時十五分。
変化なし。
午前一時〇一分。
西壁音なし。
午前一時四十二分。
北壁音なし。
午前二時十九分。
統合盤発光なし。
午前三時〇六分。
変化なし。
昨夜、最初の西壁音が記録された時刻を過ぎる。
三時十七分。
何も起きない。
三時十八分。
何も起きない。
三時二十分。
受動計器にも変化なし。
夜間担当者の一人が時刻を書き込む。
「今日はないね」
「今のところ」
「昨日と同じ時刻に起きるわけじゃないか」
「そう決める記録はなかったし」
「うん」
三時四十分。
変化なし。
四時十分。
変化なし。
空がわずかに白み始める。
結局、その夜は何も起きなかった。
発光も。
音も。
魔力変化も。
壁の破片も。
何一つ確認されない。
それでも、夜間担当者は最後に「異常なし」とだけ書かなかった。
各時刻。
各設備。
各観測位置。
確認した範囲。
起きなかったこと。
それぞれを残す。
昨日は三度音がした。
今日はしなかった。
昨日は微弱な魔力変化があった。
今日はなかった。
違いが残る。
◇
翌朝。
報告を受けたフェリクスは、意外にも残念そうな顔をしなかった。
「何もなし、ですか」
「何も確認されなかった、な」
ガルムが訂正する。
「そうですね」
「がっかりした?」
リディアが尋ねる。
「少しは」
「少しなんだ」
「でも、昨夜も同じ現象が起きたら、周期性を考え始めていたと思います」
「まだ早い」
「はい。だから起きなかったことにも意味があります」
「意味がある、まで言う?」
ガルムが聞く。
フェリクスは考え直す。
「比較材料になります」
「それならいい」
ガルムは夜間記録を閉じる。
「今日は後年の規則変化を探す。あと内部構造図」
「点検口は?」
「開けない」
「了解」
「不満は?」
「あります」
「あるのかよ」
「見たいですから」
「でも?」
「今開ける理由にはなりません」
ガルムは少し笑った。
「成長したな」
「今度こそ褒めました?」
「半分」
「残り半分は?」
「開ける時に勝手に触らなかったら」
「先が長いですね」
「信用ってそういうもんだ」
フェリクスは肩をすくめた。
◇
その朝、名前のない子供は二つの台を見比べていた。
古い低い台には木片。
新しく選んだ四角い台には「みち」と「やすみ」。
元の卓には丸と短い線。
三つの場所に分かれている。
ナディアが朝食へ誘いに来る。
「今日はどうする?」
「なにが?」
「朝ごはん」
「いく」
「パンは?」
「おおきい」
「昨日も大きいの食べきったね」
子供が少し考える。
「きょうは、のこすかも」
「うん」
「きのうできたから、きょうもってならない?」
ナディアはすぐに意味を理解した。
「ならないよ」
「きのう、おおきいのぜんぶたべた」
「うん」
「きょう、ぜんぶたべなくても?」
「いいよ」
子供は安心したように頷く。
扉へ向かう。
木片は持たない。
「みち」も「やすみ」も持たない。
部屋を出る直前、少しだけ振り返る。
全部そこにある。
「いってくる」
誰に言ったのかは分からない。
ナディアも尋ねなかった。
二人で廊下を歩き出す。
食堂からはパンの匂いがしていた。
◇
塔でも朝食が始まっていた。
アルは昨夜の報告を読み終え、卓の端へ置く。
「何も起きなかったって」
「そうですか」
セリーがパンを切る。
「今日は旧施設へ?」
「行かない」
「即答ですね」
「うん」
「理由は?」
「俺が行っても、今できること増えないから」
「はい」
「それより今日は町の試行の様子と、研究院から返事が来た時の扱いをもう少し整理したい」
「承知しました」
アルはパンを一口食べる。
「あと」
「はい?」
「昨日の散歩」
セリーの手が止まる。
「はい」
「今日もしたい」
「仕事のあと?」
「いや」
アルは少し考えた。
「仕事の合間でもいいかな」
「主様からその言葉を聞ける日が来るとは思いませんでした」
「そんなに?」
「はい」
「昔の俺、ひどくない?」
「熱心でした」
「言い換えた」
「配慮です」
アルは笑う。
「セリーは?」
「私も行きたいです」
「じゃあ行こう」
「はい」
「手も?」
セリーがアルを見る。
「主様は?」
「つなぎたい」
「私もです」
昨日より早く答えが返ってくる。
アルは少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、パンへ視線を落とした。
(これも、急いで名前をつけなくていい)
けれど、名前をつけないことと、感じているものを無かったことにするのは違う。
嬉しい。
セリーと歩きたい。
手をつなぎたい。
その気持ちは、今の自分のものだ。
アルは顔を上げた。
「セリー」
「はい」
「今日もよろしく」
「はい、主様」
セリーが微笑む。
「今日も、一緒に」
窓の外では朝の光が塔の庭へ落ちていた。
古い壁の向こうには、まだ分からないものが残っている。
王都の記録庫にも、白鴉療養所にも、三〇八号室にも、名前のない子供の記憶の中にも、答えの出ていないことはたくさんある。
それらを全部、一度に開く必要はなかった。
開けられるから開けるのではない。
知りたいから暴くのでもない。
誰かを守るために必要なら、何を守るのかを先に確かめる。
開けたあとに戻せないものがあるなら、その前に止まる。
昨日できたことを、今日も強制しない。
昨日の答えを、今日の命令にしない。
記録は人を縛るためではなく、消さないために残す。
規則は守らせるためだけではなく、なぜ必要なのかを忘れないために置く。
そして、何も起きなかった夜も残しておく。
答えだけを集めれば、答えに見えるものばかりが増えていく。
迷った時間も、止まった日も、変わらなかった夜も残しておけば、違いを違いのまま見ることができる。
アルは窓の向こうを見ながら、静かに息を吐いた。
王太子だった頃の自分なら、もっと早く答えを出そうとしたかもしれない。
今は、急がなくていい。
自分一人で決めなくていい。
開けないことも、止まることも、誰かに任せることもできる。
そして、自分が望んだ時には。
大切な人へ、自分から手を伸ばしてもいい。
朝食を終えたあと、アルとセリーは並んで庭へ出た。
今日はどちらからともなく手が近づいた。
指先が触れたところで、二人は一度だけ互いの顔を見る。
言葉で確認する必要はなかった。
セリーが手を開き、アルも手を重ねる。
指が自然に絡むほど深くはない。
けれど、昨日より少しだけ近い。
二人はそのまま歩き始めた。
塔の中ではエルが記録を整理し、町では人々が試しながら制度を直し、旧保養施設では壁を開けずに調査が続いている。
白鴉療養所では少年が自分で歩く距離を決め、三〇八号室では赤い布に包まれた手紙が、読まれないまま持ち主のそばにある。
名前のない子供の部屋では、木片と「みち」と「やすみ」が別々の場所に置かれていた。
離れていても、どれかが消えたわけではない。
答えが出ていなくても、何も進んでいないわけではない。
塔の庭を歩きながら、アルは隣の温度を確かめるように、つないだ手へほんの少しだけ力を込めた。
セリーの手も、同じくらいの強さで返してきた。
それだけで、今は十分だった。




