第101話 閉じたまま分かること
朝の散歩を終えて塔へ戻ったあとも、アルの右手にはしばらくセリーの手の感触が残っていた。
庭を一周しただけだった。昨日より長く歩いたわけでも、特別な場所へ行ったわけでもない。途中で大切な話をしたわけでもなければ、二人の関係に名前をつけたわけでもない。
それでも、昨日とは少し違っていた。
今日は庭へ出て間もなく、アルが手を差し出すより先に二人の手が近づいた。互いに気づいて顔を見合わせ、セリーがわずかに指を開いたので、アルもそこへ自分の手を重ねた。
それだけだった。
それだけなのに、塔へ戻って食堂の椅子へ座った今も、妙に意識してしまう。
(昨日は俺から言った。今日は、どっちからだったんだろう)
考えてから、アルは自分で小さく笑った。
どちらからでもいい。
少なくとも、セリーは嫌がらなかった。それどころか、朝食の時には自分から「私もです」と言ってくれた。
「主様」
「ん?」
「先ほどから右手を見ておられますが、何かございましたか?」
「……見てた?」
「はい」
向かい側で食器を片づけていたセリーが、不思議そうに首を傾げている。
アルは一瞬だけ誤魔化そうか迷ったが、やめた。
「さっき手をつないだなって思ってた」
セリーの手が止まる。
「はい」
「それだけ」
「そうですか」
彼女は再び皿を重ね始めたものの、ほんの少しだけ動きがゆっくりになった。
長く彼女を見てきたアルだからこそ気づける程度の変化だった。
「セリーも意識してる?」
「しております」
今度は迷いなく返ってきた。
「そっか」
「はい」
それ以上は言わない。
けれど沈黙は気まずくなかった。
窓から差し込む朝の光が卓上を照らし、洗い終えた茶器の縁で小さく反射している。庭から戻った時に開けた窓からは、まだ少し冷たい風が入っていた。
『アル』
エルの声が響いた。
「どうした?」
『旧保養施設より、夜間記録の正式整理版と、追加資料発見の連絡です』
「追加資料?」
『はい。内部構造図の一部と思われる資料を、フェリクス・ハルトマンが発見しました。ただし欠損が多く、西壁内部との対応は未確認です』
アルは反射的に立ち上がりかけた。
腰が椅子からわずかに浮く。
その瞬間、向かいにいるセリーと目が合った。
何も言われていない。
止められてもいない。
ただ、セリーは静かにこちらを見ている。
アルはそのまま、もう一度椅子へ腰を下ろした。
「……危険?」
『現在確認されている新たな危険はありません』
「誰か、俺に来てほしいって言ってる?」
『その要請はありません』
「ガルムは?」
『「資料を先に読む。来る必要が出たら呼ぶ」とのことです』
「じゃあ行かない」
『了解しました』
セリーが重ねた皿を持ち上げる。
「早くなりましたね」
「何が?」
「座り直すまでが」
「見てたの?」
「はい」
「全部見てるなあ」
「主様が目の前にいらっしゃいますので」
アルは苦笑した。
「行きたいとは思ったよ」
「はい」
「今も気になる」
「はい」
「でも、俺が行ったら資料が増えるわけじゃない」
「おそらくは」
「フェリクスが触りそうになったら?」
「ガルム様とリディア様がおられます」
「……俺より止めるの上手そう」
「否定はいたしません」
「そこは否定してよ」
セリーの口元が少し上がった。
アルは椅子の背へ身体を預ける。
(行かなくていい場所が増えたんじゃない。俺が行く必要のある場所を選べるようになったんだ)
その違いを、最近ようやく実感できるようになっていた。
◇
同じ頃、旧保養施設ではフェリクスが大きな紙片を机いっぱいに広げていた。
「触らないでくださいね」
リディアが言う。
「紙にも?」
「壁にです」
「分かっています」
「今、西壁を見ましたよね?」
「比較のためです」
「目だけならどうぞ」
フェリクスは少し不満そうだったが、両手を机の端へ置いた。
昨夜、資料棚の最下段から見つかったのは、一枚の完全な図面ではなかった。
数枚に分かれた保守用構造図。
端が欠けているもの。
水染みで文字が読めないもの。
別年代の修正線が重なっているもの。
しかも、どれが最終状態を示すのかも確定していない。
ガルムは入口近くの椅子へ座り、腕を組んでいる。
「で?」
「まず、期待されている答えは出ません」
フェリクスが言った。
「何を期待してると思ってる?」
「西壁の向こうに何があるか」
「俺は期待してない」
「私はしています」
「知ってる」
リディアが一枚の図を指す。
「これが一番古い?」
「確認できた範囲では」
図面の上部には『西部補助区画・保持機構配置』と記されている。
ただし「保持」が何を保持するのかは書かれていない。
魔力か。
物品か。
通信状態か。
転送状態か。
あるいは別の何かか。
「この縦長の部分」
リディアが図面の左側を示す。
「現在の西壁の輪郭と形は近いですね」
「寸法も、おおよそ」
フェリクスが別紙を重ねず、横へ並べる。
「ただし現在の壁面測定値と完全一致はしません。古い図面側の縮尺誤差か、後年の改修か、そもそも別の位置を見ているか」
「つまり?」
「似ています」
「それだけ?」
「それだけです」
ガルムは満足そうに頷いた。
「よし」
「またそれですか」
「似てるものを同じだと言わなかったからな」
フェリクスはため息をついた。
「褒められている気がしません」
「かなり褒めてる」
リディアは二人を放置して次の紙を見る。
「こっちは?」
「同じ区画の改修後と思われます。日付の上半分が欠損していますが、記載方式から少なくとも最初の図より後です」
そこには先ほどの縦長区画から細い線が三本伸びていた。
一つは中央棟方向。
一つは北側。
そして一つは紙の欠損部分へ消えている。
「線が三本」
ガルムが立ち上がる。
「はい。ただし――」
「分かってる。何の線か不明」
「先に言われました」
「魔力導線とは限らない?」
リディアが尋ねる。
「はい。設備配管、信号線、保守経路の表示、系統上の関連を示すだけの線、いくつか可能性があります」
「旧第二線との関係は?」
「不明です」
「北壁の金属片は?」
「不明です」
「統合盤は?」
「不明です」
「昨日の音は?」
「もちろん不明です」
ガルムは少し笑った。
「今日は気持ちいいくらい分からんな」
「研究者にとっては楽しい状態です」
「だから壁を見るな」
「まだ何もしてません」
リディアが図面の下部に顔を近づける。
「ここ、文字が残ってませんか?」
フェリクスも覗き込む。
薄い文字。
半分ほど水染みに消えている。
『……開放前……保持側……停止確認……』
読めるのはそこまでだった。
「『保持側停止確認』?」
「そう読めます」
フェリクスの声から、先ほどまでの軽さが消える。
「でも前が欠けてる」
「はい」
「後ろもない」
「はい」
「停止させてから開けろって意味?」
「そうかもしれません」
「別の意味は?」
「『保持側を停止しないことを確認』の一部かもしれませんし、『保持側停止確認を行わない』という禁止文の途中かもしれない」
ガルムが眉を寄せた。
「そこまで変わるのか」
「前後が欠ければ」
リディアが頷く。
「『扉を開ける』と『扉を開けるな』も、最後の一文字がなくなるだけで逆になりますから」
「じゃあ、この文は使えないな」
「少なくとも操作判断には」
フェリクスは複写用紙へ、読めた文字だけをそのまま転記した。
推測した文章は別欄へ書く。
「原文と推測を混ぜない」
「はい」
「候補が複数なら全部残す」
「はい」
「一番それっぽいやつだけ選ばない」
「分かっています」
ガルムは西壁のある方向を見る。
紙一枚隔てた向こうではない。
廊下を挟み、物品庫を挟み、そのさらに壁の向こうだ。
今朝も何の音もしていない。
(開ければ早い)
その考えはガルムにもあった。
壁を開ければ、中に何があるか少なくとも目では確認できる。
だが、目で見るために何かを壊したら戻らない。
兵士として扉を破る必要がある場面なら、迷わない。
向こうに人が閉じ込められている。
火が迫っている。
今開けなければ命が失われる。
そういう時なら。
今は違う。
「フェリクス」
「はい?」
「この図面だけで開けられると思うか?」
研究者はすぐに答えなかった。
図面を見て、西壁の方向を見て、もう一度図面へ視線を落とす。
「研究者としては、開けて確認したいです」
「うん」
「でも、判断材料としては足りません」
「何が?」
「開口そのものが内部保持状態へ与える影響が分からない。内部に何があるか分からない。現在の輪郭と図面の箇所が同一か確定していない。それに、昨日見つけた規則の後年変更もまだ確認できていません」
「なら今日は?」
「閉じたまま調べます」
ガルムは頷いた。
その答えを聞いたリディアは、ほんの少しだけフェリクスを見る目を柔らかくした。
以前なら、彼が「開けたい」と言えば、次の瞬間には腕をつかめる位置へ移動していた。
今も警戒を解いたわけではない。
けれど、止められる前に自分で止まれる回数が増えている。
それは小さな変化だったが、リディアにはよく分かった。
「じゃあ、私は壁の外側測定を続けます」
「私も――」
「フェリクスさんは資料」
「なぜ?」
「今、自分で閉じたまま調べるって言ったでしょう」
「……言いましたね」
「三十秒前です」
「覚えています」
ガルムが笑った。
◇
リューネの町役場では、五日間の試行に関する小さな紙が一枚増えていた。
『過去記録の確認方法について、本人の負担が少ない方法を固定せず確認する』
正式規則ではない。
試行中の注意事項として、受付内側の壁へ貼られている。
イーダはその紙を眺めながら腕を組んでいた。
「これも増えすぎたら駄目よね」
隣にいた受付職員が苦笑する。
「私も思いました」
「注意書きだらけになったら、結局誰も読まなくなる」
「昨日の改善を残そうとすると、増やしたくなるんですけどね」
「五日終わったら整理しましょう」
「はい」
そこへ、一人の若い男が入ってきた。
仕事着の袖に乾いた土が付いている。
窓口へ近づく足取りは遅く、何度か掲示板へ目を向けてから受付前で止まった。
「どうされました?」
受付職員が尋ねる。
「……相談」
「はい」
「仕事の」
職員は新しい用紙を出しかけて、男の視線がそれを追ったことに気づいた。
「書くのは後でも大丈夫です」
手を止める。
男が少しだけ肩の力を抜いた。
「前に来たことは?」
「ある」
「以前の記録を確認してもいいですか? こちらから内容を読み上げることもできますし、ご自分で話したいところだけ話していただいても構いません」
「……読まないで」
「分かりました」
「俺が言う」
「はい」
職員は用紙を裏返した。
記録欄を男の正面から見えない向きにする。
「今、一番困っていることだけでも大丈夫です」
「仕事、減った」
「はい」
「でも前と同じじゃない」
男は膝の上で拳を握る。
「前は、雇ってもらえなかった。今は、仕事はある」
受付職員は急いで書かず、男が続けるのを待った。
「あるんだけど……長くできない」
「身体がつらい?」
「違う」
男は首を振った。
「人が多いと、帰りたくなる」
職員が少し迷う。
昨日までの分類なら「就労困難」「健康」「生活支援」のどれへ置くかを考えただろう。
しかし試行中の今は、分類は入口を探すためのもので、本人の言葉を分類へ押し込めるためのものではない。
「今のお話を、『仕事はあるけれど、人が多い場所では続けるのが難しい』と残してもいいですか?」
「……病気って書く?」
「あなたがそう言っていないので、今は書きません」
男が顔を上げる。
「怠け?」
「それも、あなたが言っていません」
「前に言われた」
職員の表情が変わる。
「ここで?」
「違う。仕事場」
「そうでしたか」
「人が多いだけで帰るなら、怠けだって」
受付職員は何かを言いかけたが、止めた。
目の前の男が求めているのは、誰かを今すぐ悪者にすることではないかもしれない。
「今、希望していることはありますか?」
「……分かんない」
「分からないままでも相談できます」
「仕事はしたい」
「はい」
「金、いるから」
「はい」
「でも、前みたいに一日ずっとは無理」
「では、まず『仕事はしたい。ただ、今は一日続けるのが難しい』でいいですか?」
男は少し考えてから頷いた。
「うん」
「どんな条件なら働きやすいかは、今日決めなくてもいいです」
「決めないと仕事ないんじゃない?」
「今ここで決めた条件が、本当に合うか分からないでしょう?」
「……うん」
「短い時間の仕事を試す方法もありますし、人が少ない場所を探す方法もあります。でも、それがあなたに合うと今ここで決める必要はありません」
男の拳が少し緩む。
離れた場所から見ていたイーダは、受付職員の背中を見ながら小さく息を吐いた。
昨日の女性には、過去記録を読み上げる方法が負担を減らした。
今日の男は、読み上げられることを嫌がった。
(やっぱり一つに決めなくてよかった)
昨日うまくいった方法を、そのまま「正しいやり方」にしなかった。
たった一日で、その意味が見えた。
イーダは壁の注意書きへ視線を戻す。
そして、そこへ新しい文を追加しようとして――やめた。
「あとで会議に出そう」
小さく呟く。
貼り紙を増やす前に、まず残す。
誰かと確認する。
それから必要なら変える。
それで十分だった。
◇
昼前、アルは町役場を訪れた。
今日は最初から来る予定だった。研究院への照会文に返答が届いた場合の受け取り手順と、町側で保管している旧支援記録の閲覧権限を確認するためだ。
受付を通り過ぎようとしたところで、イーダに呼び止められる。
「アル」
「ん?」
「ちょうどいい。試行でまた一個出た」
「問題?」
「問題っていうか、違い」
イーダは朝の相談内容そのものを必要以上に話さず、確認方法についてだけ説明した。
「昨日は過去の記録を読んでもらった方が楽な人だった。今日は読まれたくない人」
「うん」
「昨日の方法をすぐ決まりにしなくてよかった」
「そうだね」
「でもさ」
イーダが壁の紙を見る。
「こういうの、一個見つかるたびに注意書きを増やしてたら、また面倒になるよね」
「俺もそう思う」
「どうする?」
アルは一瞬考えた。
以前なら、すぐ案を出したかもしれない。
紙を一枚にまとめる。
優先順位をつける。
担当者向け手引きを作る。
けれど今は、イーダが何を考えているのかを先に聞きたかった。
「イーダは?」
「五日終わるまでは、気づいたことを別紙に貯める」
「うん」
「途中で危ないことが出たらすぐ変える。でも、ちょっと不便とか、やり方が人によって違う程度なら、毎回ルールを増やさない」
「いいと思う」
「じゃあそうする」
「俺の許可いる?」
「いらない」
即答だった。
アルが笑う。
「だよね」
「聞いただけ」
「何で?」
「あなた、こういうの好きそうだから」
「制度の話が?」
「違う。自分の許可がいらないって言われるの」
アルは言葉に詰まった。
イーダはその顔を見て笑う。
「当たり?」
「……最近は」
「変な元王太子」
「自覚ある」
少し離れた窓口では、さきほどの若い男が職員と話を続けていた。
アルはそちらへ近づかなかった。
相談内容を知る必要がない。
町がどう対応するかをすべて自分で確認する必要もない。
ただ、受付職員が一度書く手を止め、相手の言葉を待っている姿だけが見えた。
それで十分だった。
◇
午後、白鴉療養所。
保存槽から出た少年は、廊下の窓辺で足を止めていた。
今日は歩行練習の日だったが、まだ何周するかは決めていない。
ブラートが少し後ろを歩き、ヨアヒムはさらに離れた位置から様子を見ている。
「パン」
少年が突然言った。
「パン?」
ブラートが聞き返す。
「朝の」
「はい」
「半分、残した」
「そうでしたね」
「昨日は全部食べた」
「はい」
少年は窓の外を見る。
「弱くなった?」
ブラートはすぐには答えなかった。
「なぜそう思いました?」
「昨日できたのに、今日はできなかった」
「食べきることを?」
「うん」
「今日は食べきりたかったのですか?」
「……途中で、お腹いっぱい」
「なら、食べきれなかったというより、そこでやめたのでは?」
少年は黙る。
窓の外では療養所の庭木が風に揺れている。
「やめた」
「はい」
「歩くのも?」
「今、やめたいですか?」
少年は自分の脚を見る。
一歩動かす。
もう一歩。
「まだ」
「では続けましょう」
二人は再び歩き始める。
ヨアヒムは後ろからその様子を見ていた。
以前なら、少年が何周できたかを治療記録の中心に置いていたかもしれない。
今も歩行距離は必要だ。身体機能を確認する以上、数値を捨てるわけにはいかない。
けれど、「何周歩けたか」と「どこで本人が止めると決めたか」は同じ情報ではない。
一周目を終える。
少年は少し息を弾ませている。
「どうします?」
ブラートが尋ねる。
「もうちょっと」
「どのくらい?」
「分かんない」
「では、分からないまま歩きましょう。止めたくなったら言ってください」
「うん」
二周目の半分ほどで、少年の歩幅が小さくなった。
ブラートは急かさない。
少年は数歩進み、壁際の椅子を見る。
「座る」
「はい」
椅子まで歩き、腰を下ろす。
少年は大きく息を吐いた。
「一周と半分」
「そうですね」
「昨日より?」
ブラートは少し笑う。
「昨日と比べたいですか?」
「……ちょっと」
「昨日は一周でした」
「増えた」
「増えました」
少年の顔が明るくなる。
だがブラートは続けた。
「ただ、明日一周でも減ったことにはしません」
「なんで?」
「明日は明日の身体だからです」
少年は自分の膝へ手を置く。
「今日、一周半できたのは消えない?」
「消えません」
「明日、半分でも?」
「今日の一周半は今日の記録として残ります」
「じゃあいい」
少年は背もたれへ身体を預けた。
少し離れていたヨアヒムは、その言葉を聞きながら記録板へ視線を落とす。
歩行距離、一周半。
呼吸状態、許容範囲。
本人申告、途中で座ることを選択。
そこまで書いてから、筆を止める。
「昨日より改善」と書きかけて、やめた。
数値は増えている。
だが明日減るかもしれない。
回復を一本の上向き線にする必要はない。
ヨアヒムは代わりに、今日確認できたことだけを書いた。
◇
夕方、旧保養施設から塔へ追加資料が送られてきた。
アルはセリー、アンナマリーとともに記録室で確認する。
ブラートは白鴉療養所に残っているため、今日は不在だった。
「内部構造図の一部」
アンナマリーが紙を広げる。
「かなり欠けてるわね」
「うん」
アルはフェリクスたちの注記を読む。
現在西壁輪郭との形状類似。
寸法完全一致せず。
図面年代差あり。
三本の線の用途不明。
欠損文言。
『……開放前……保持側……停止確認……』
「これは怖いね」
アルが呟く。
「何がですか?」
セリーが尋ねる。
「意味が分かりそうに見えるところ」
アンナマリーが頷いた。
「『開放前に保持側の停止を確認せよ』と読みたくなる」
「うん。でも違うかもしれない」
「『停止していないことを確認』かもしれませんし、禁止文の一部かもしれません」
「これだけで操作したら危ない」
「そうね」
アンナマリーは複写の端にあるフェリクスの注記を見る。
「原文と推測を別欄にしたのは良いわ」
「フェリクス、変わったよね」
アルが言う。
「主様もです」
「俺?」
「以前でしたら、この資料が届いた時点で旧施設へ向かわれていた可能性が高いかと」
「……否定できない」
「今朝は椅子から少し浮いただけでした」
「そこまで見てたの?」
「はい」
アンナマリーが顔を上げる。
「何の話?」
「主様が旧施設へ向かおうとして、自分で座り直された話です」
「セリー」
「事実です」
アンナマリーは一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「成長したわね、アルフォンス」
「子供扱いしないで」
「王太子だった頃より、今の方がそういうところは上手になったと思う」
アルは返す言葉を探したが、結局見つからなかった。
昔のアンナマリーなら、こんな言い方はしなかっただろう。
自分も、こんなふうに聞けなかった。
元婚約者。
それだけでは説明できない時間が、二人の間にも積み重なっている。
「アンナマリーは、開けたい?」
アルが尋ねる。
「西壁?」
「うん」
「見たいとは思う」
「だよね」
「でも、私は中身より、規則の後年変化の方が気になる」
「そっち?」
「最初の規則があれだけ慎重なら、いつまで守られていたのか知りたいもの」
「じゃあ王都側の記録?」
「照会してみる。旧保養施設内の記録だけでは、施設内部で残った版しか分からないかもしれないから」
「頼める?」
「ええ。ただし」
アンナマリーがアルを見る。
「返事が来ても、一人で読んで結論を出さないこと」
「俺?」
「あなたも、私も」
「ああ」
アルは頷く。
「分かった」
セリーが二人を見ている。
その視線に気づいたアルが首を傾げた。
「どうした?」
「いえ」
「何かある顔」
「お二人とも、以前より自然に話されるようになったと思いまして」
アンナマリーが少し目を見開く。
「そう?」
「はい」
「セリー、それ嫌?」
アルが聞く。
セリーは一度瞬きをした。
「嫌ではありません」
「そっか」
「ただ」
「ただ?」
「少しだけ、気になります」
今度はアルが止まった。
アンナマリーも黙る。
セリーは自分の言葉を確かめるように続けた。
「何が、と聞かれると、まだ上手く説明できません」
「……そっか」
「はい」
アルは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
それを喜んでいいのか、まだ分からない。
セリー自身も分からないと言っている。
なら、決めつける必要はない。
「分かったら教えて」
「はい」
「教えたくなったらでいい」
「……はい」
アンナマリーは二人を交互に見たあと、ほんの少しだけ口元を緩めた。
アルには見えなかったが、彼女には分かる。
二人の距離が以前とは違う。
昔、婚約者としてアルの隣に立っていた頃、彼は誰かに「どうしたい」と尋ねることはあっても、自分自身の望みを口にするのがひどく下手だった。
今のアルは、セリーに手を伸ばすことも、行きたい場所へ行かないことも、自分で選べる。
(変わったのね)
少しだけ寂しいような感覚がないわけではない。
けれど、それを理由に昔の関係へ戻りたいとは思わなかった。
今の自分たちは、今の距離で話せる。
それもまた、失ったものではなく、新しく得たものなのだろう。
「それで」
アンナマリーは資料へ視線を戻した。
「王都への照会文、今日中に作るわ」
「手伝う?」
「必要なら頼む。でも最初は私が作る」
「分かった」
アルは素直に引いた。
その様子を見て、アンナマリーはまた少し笑った。
◇
夜。
名前のない子供の部屋では、新しい四角い台の上に「みち」と「やすみ」が並んでいた。
木片は別の低い台。
元の卓には丸と短い線。
ナディアが寝る前の水を持ってくると、子供は床に座ったまま三つの場所を見比べていた。
「どうしたの?」
「いっぱいになった」
「物が?」
「ばしょ」
「場所が増えた?」
「うん」
「嫌?」
「……わかんない」
ナディアは水差しを置き、少し離れた椅子へ座った。
「減らしたい?」
「なくす?」
「減らすって言っても、捨てるとは限らないよ。まとめたり、別の場所に置いたりもできる」
子供の顔が強張る。
ナディアはすぐに続けた。
「今しなくていいよ」
「……うん」
「このままでも困ってない?」
「あるける」
「じゃあ今日はこのままでいいんじゃないかな」
子供は床を見る。
台が増えたことで、以前より通れる場所は少し狭くなった。
それでも寝台から扉までの通路は十分ある。
「せんせいは」
子供が言う。
「うん」
「いっぱいだと、へらした」
ナディアは黙って待つ。
「何を減らしたの?」
「……わかんない」
「覚えてる?」
「ちがう」
「考えた?」
「うん」
「じゃあ、考えたこととして聞くね」
「うん」
「いっぱいだと先生が減らしたんじゃないか、って思った?」
「……うん」
「それ以上は?」
「ない」
「分かった」
子供は新しい台を見る。
「ここ、いっぱいになったら?」
「どうしたい?」
「また、つくえ?」
「増やしてもいいし、並べ方を変えてもいいし、いらないと思うものができたら、それをどうするか考えてもいい」
「すてる?」
「捨てたいなら。でも、捨てなきゃいけないわけじゃない」
「いっぱいでも?」
「安全に歩けなくなるくらい増えたら、一緒に考えたい。でも『いっぱいだから減らす』だけじゃなくて、どうしたら残したいものを残せるかも考えられるよ」
子供はしばらく何も言わなかった。
やがて、木片へ目を向ける。
「これは、へらさない」
「うん」
「みちも」
「うん」
「やすみも」
「うん」
「まるも」
「うん」
短い線を見る。
「これも」
「じゃあ今は全部残す?」
「うん」
「分かった」
「いっぱい」
「そうだね」
「でも、ある」
「うん」
子供はそこで小さく笑った。
「あるほうがいい」
「今は?」
「いまは」
「分かった」
ナディアはその言葉を記録しようとはしなかった。
安全上の問題はない。
重要証言でもない。
ただ、自分の部屋にある物を、今は残しておきたいという生活上の選択だ。
それを紙へ移さなくても、子供の選択は消えない。
「寝る?」
「まだ」
「何する?」
子供は「みち」の紙を手に取る。
「みる」
「分かった。私は外にいるね」
「ナディア」
「うん?」
「あとで、ねる」
「分かった」
「いわなくても?」
「眠くなったら寝てもいいよ」
「きろく?」
「しないよ」
子供は安心したように紙へ視線を戻した。
◇
同じ夜、旧保養施設では再び監視が始まっていた。
西壁は閉じたまま。
統合盤もそのまま。
北壁の金属片にも触れない。
受動計器だけが、一定の距離から静かに数字を刻んでいる。
午後十一時四十分。
変化なし。
午前零時二十二分。
変化なし。
午前一時十三分。
西壁音なし。
夜間担当の兵士が記録を書き終え、隣に座るリディアを見る。
「今夜も何もないかもしれませんね」
「そうかもしれません」
「前なら、何もない夜って外れだと思ってました」
「私もです」
「今は?」
リディアは暗い廊下の先を見る。
何も光っていない。
何も鳴っていない。
「外れじゃないですね」
「ですよね」
「昨日何も起きなかった。今日も何も起きなければ、それも残す。もし明日何か起きても、『毎晩起きていた』ことにはならない」
「はい」
兵士は記録板へ視線を戻した。
午前一時三十一分。
変化なし。
その直後だった。
かすかな音がした。
兵士の手が止まる。
リディアも顔を上げた。
音は西壁からではない。
「どこ?」
「……北?」
二人とも動かない。
耳を澄ませる。
もう一度。
小さな、硬いものが触れたような音。
だが北壁の金属片がある方向より、少し東寄りに聞こえた。
「時刻」
「一時三十二分」
「位置は?」
「北側廊下、東寄り……ただし音だけでは確定できません」
「そう書いて」
「はい」
三度目はない。
統合盤は光らない。
西壁の受動計器にも変化なし。
北壁側の計器も通常範囲。
リディアは席を立たず、連絡具だけを取った。
「巡回担当へ。北側廊下東寄りで小音二回。接近せず、離れた位置から人影・落下物・扉開放の有無だけ確認してください」
『了解』
数分後。
『人影なし。扉の開放なし。廊下上に新しい落下物は目視できません』
「壁には触れないで」
『了解』
リディアは記録へ追記する。
北側廊下東寄りと思われる小音二回。
音源位置未確定。
北壁金属片との関係不明。
西壁との関係不明。
統合盤変化なし。
魔力計器変化なし。
巡回による遠隔目視で人影・扉開放・新規落下物なし。
原因不明。
そこまで書いて筆を置く。
隣の兵士が小さく息を吐いた。
「調べに行かないんですね」
「朝まで待てる内容です」
「もし何かあったら?」
「危険を示す変化が追加されたら対応を変えます」
「今は?」
「音が二回した。それだけです」
リディアは静かな廊下を見る。
「それ以上にしない」
兵士は頷いた。
午前一時四十五分。
変化なし。
二時。
変化なし。
施設は再び沈黙した。
壁の向こうに何があるのかは、まだ分からない。
けれど、分からないものを急いで開けなくても、残せる情報はある。
音がした夜。
何もなかった夜。
別の場所から音がした夜。
似ているように見えても、同じものとして重ねない。
閉じたままだからこそ、壊さずに見える違いもあった。




