第102話 開けないために知ること
旧保養施設の北側廊下で二度の小さな音が確認された翌朝、塔へ届いた報告は、驚くほど短かった。
『午前一時三十二分頃、北側廊下東寄りと思われる位置より小音二回。音源位置未確定。人影、扉開放、新規落下物なし。統合盤、各受動計器、西壁に同時変化なし。その後、朝まで追加変化なし』
アルは食卓でその文章を二度読み、三度目には進まなかった。
「短いですね」
向かいに座ったセリーが言う。
「うん。でも、これでいいんだと思う」
窓の外には薄い雲が広がっていた。雨が降るほど暗くはないものの、朝の光は柔らかく、庭の草木には昨夜の露がまだ残っている。
卓上には焼いた薄パンと卵、温めた野菜、それからセリーが淹れた茶が並んでいた。
アルは報告書を卓上の端へ置く。
「音がした。それ以外は何も確認できなかった。場所も確定してない。だったら、それ以上書けないよね」
「はい」
「前だったら、『西壁の次は北側で何かが動いた』とか考えてたかもしれない」
「現在も考えておられますか?」
「ちょっとだけ」
「少しなのですね」
「少しは考えるよ」
アルは薄パンをちぎった。
「でも、それと記録は別」
「はい」
「俺がそう思ったからって、施設で何かが順番に動いてることにはならない」
セリーが小さく頷く。
アルはパンを口へ運びながら、卓上の報告書へもう一度目を向けた。
西壁ではない。
統合盤でもない。
北壁の金属片そのものからとも確定していない。
ただの建物の軋みかもしれないし、古い設備の一部が温度変化で鳴っただけかもしれない。小動物という可能性さえ完全には否定できない。
(分からないまま残すのって、前より難しく感じなくなったな)
以前なら、不明点を見ると埋めたくなった。
王太子だった頃からそうだった。
分からないことがある。
判断しなければならない。
ならば調べ、考え、答えを出す。
それが責任だと思っていた。
けれど今は、答えを急いで作らないことも責任なのだと分かる。
「主様」
「ん?」
「パンが止まっております」
アルは手元を見る。
「……ほんとだ」
「報告書を読むことと朝食を召し上がることは、同時に行わなくてもよろしいかと」
「読んじゃった」
「では、今は?」
「食べる」
「はい」
セリーが満足そうに自分の茶器へ手を伸ばす。
アルもパンを食べ始めた。
しばらくは報告書へ手を伸ばさない。
食事を終えてから考えても、北側廊下の音は逃げない。
◇
旧保養施設では、夜間監視を終えたリディアが仮眠に入る一方、ガルムとフェリクスが北側廊下の確認を始めていた。
もちろん、触れない。
昨夜の記録地点から十分な距離を取り、床、壁、天井、扉、既存設備を目視する。
朝の光が小さな窓から斜めに差し込み、長く使われていない廊下の埃を淡く照らしていた。
「何か落ちてる?」
ガルムが尋ねる。
「見える範囲では、新しいものはありません」
フェリクスはしゃがみ込まず、立ったまま床を観察している。
「古い破片は?」
「あります。ただし昨夜以前の写真にも写っています」
「位置は?」
「変化なし」
「壁?」
「見た目の変化なし」
「天井?」
「同じく」
ガルムは少し先にある扉を見る。
「あれは?」
「閉鎖状態。封印線にも目視できる変化はありません」
「じゃあ終わり」
「早いですね」
「他に見るものあるか?」
「近づけばもっと――」
「近づかなくても確認できる範囲を確認するんだろ?」
「そうですが」
「じゃあ終わり」
フェリクスは名残惜しそうに廊下の奥を見た。
以前なら、ガルムが腕をつかんででも止めたかもしれない。
だが今日は一歩も進まない。
「……分かりました」
「素直だな」
「昨夜の音だけを理由に接近するほどの材料がありませんから」
「よし」
「またそれですか」
「褒めてる」
「もう少し研究者が喜ぶ褒め方を覚えてください」
「壁を触らなかったら菓子でもやるか?」
「子供ですか、私は」
「触らない?」
「触りません」
「じゃあ菓子なし」
「なぜです?」
「いらないんだろ?」
「論点が違います」
後方で記録を取っていた近衛兵が、口元を隠して俯いた。
ガルムがそちらを見る。
「笑ったか?」
「いえ」
「今、肩が動いたぞ」
「埃が」
「廊下の埃で肩だけ動くか?」
フェリクスが小さく咳払いする。
「隊長。調査を続けましょう」
「お前が言うのか」
わずかな笑いが廊下へ落ちる。
張り詰めた空気が少しだけ緩んだ。
それでも誰も壁には近づかない。
ふざけていいところと、ふざけてはいけないところは別だった。
やがてガルムは、昨夜の音が聞こえたと推定される方向と北壁の金属片の位置関係を確認する。
「思ったより離れてるな」
「はい」
「同じ壁ではある?」
「建物構造上は北側区画ですが、同じ設備に属するとは言えません」
「音の聞こえ方で位置がずれた可能性は?」
「あります。廊下ですから反響します」
「じゃあ、金属片が鳴ったとも言えない」
「はい」
「西壁とは?」
「もっと言えません」
ガルムは頷く。
「なら昨夜の記録のままだな」
「追加するなら、『朝の遠隔目視でも変化確認なし』程度でしょう」
「それでいい」
二人が戻ろうとした時だった。
フェリクスが足を止める。
「隊長」
「なんだ?」
「昨日の構造図に、北へ伸びる線がありましたよね」
「あったな」
「現在位置と重ねたくなります」
「重ねたい?」
「はい」
「重なる?」
「まだ分かりません」
「なら?」
「図面側から位置を計算します」
「現場で探さない?」
「はい」
ガルムは少しだけ目を細めた。
「本当に変わったな、お前」
「そう何度も言われると、以前の私が相当ひどかったように聞こえます」
「ひどかったぞ」
「即答しないでください」
記録係の兵士が、今度こそ笑った。
◇
午前中、名前のない子供は自分の部屋の床へ座り、新しい低い台をじっと見ていた。
昨日選んだ四角い台。
その上には「みち」と「やすみ」が置かれている。
少し離れた元の低い台には木片。
別の場所には丸と短い線。
物が増えたのではない。
置く場所が増えた。
けれど子供にとって、その違いはまだ少し不思議だった。
ナディアは窓際で布を畳んでいる。
子供が何も言わないので、こちらから尋ねない。
やがて子供が立ち上がった。
新しい台へ近づき、「みち」を持ち上げる。
少し考えたあと、それを木片の隣へ置いた。
次に「やすみ」を持ち、こちらは新しい台へ残す。
また考える。
「ナディア」
「うん?」
「かえていい?」
「何を?」
「ばしょ」
「もちろん」
「きのう、ここ」
子供は「みち」があった場所を指差す。
「昨日そこに置いたね」
「きょう、こっち」
「うん」
「きのう、えらんだ」
「そうだね」
「でも、きょう、かえていい?」
「いいよ」
「きのう、まちがい?」
ナディアは畳んでいた布を膝の上へ置いた。
「昨日は昨日で、そこに置きたかったんじゃない?」
「うん」
「なら、間違いじゃないと思うよ」
「きょう、ちがう」
「今日は違う場所に置きたい?」
「うん」
「それもいいと思う」
子供は木片の隣に置いた「みち」を見る。
「きのう、ほんと?」
「昨日そこに置きたかったこと?」
「うん」
「本当だったと思う」
「きょうも、ほんと?」
「今日こっちに置きたいことも?」
「うん」
「うん。両方残っていいよ」
子供はしばらく黙っていた。
それから、木片と「みち」を交互に見る。
「せんせいは、さいごが、ほんと」
ナディアの手がわずかに止まった。
声には出さない。
「先生がそう言ったの?」
「……うん」
「覚えてる?」
子供は眉を寄せた。
「たぶん」
「たぶん?」
「ことば、ちがうかも」
「じゃあ、先生が『最後が本当』みたいなことを言った気がする?」
「うん」
「そのくらい?」
「うん」
「分かった」
ナディアはそれ以上聞かない。
子供が自分から話した範囲だけを受け取る。
「ここではね」
少し間を置いてから続けた。
「昨日言ったことが、今日変わってもいいよ」
「きえる?」
「昨日言ったこと?」
「うん」
「消さない」
「きょうが、ほんとなら?」
「今日のことも本当として残せる。でも、昨日のことを嘘にしなくていい」
子供は唇を結ぶ。
木片へ手を伸ばしかけ、触れずに止めた。
「いや、も?」
「うん?」
「きのう、いや。きょう、いい」
「どっちも、その時の気持ちだったなら、どっちもあっていい」
「きょう、いいなら、きのうのいや、いらない?」
「いるかどうかを私が決めることじゃないよ」
ナディアは子供を見る。
「大事なことについて『嫌だった』って言ったなら、あとで気持ちが変わっても、嫌だったことをなかったことにはしない」
「……せんせいは」
子供の肩が少し上がる。
ナディアは待った。
「けした」
「うん」
「ぼく、あとで、いいって」
ナディアの呼吸が一瞬だけ浅くなる。
けれど声は変えなかった。
「あなたがあとで『いい』って言ったから、前の『嫌』を消したの?」
「……わかんない」
「分からない?」
「せんせい、さいごが、ほんとって」
「それは覚えてる?」
「たぶん」
「分かった。たぶんのままにしよう」
子供は顔を伏せた。
ナディアは椅子から立たない。
抱きしめもしない。
近づくかどうかを、今は自分から決めない。
「ナディア」
「うん」
「いま、いやっていったら?」
「何か嫌なことがある?」
「ちがう」
「試してみたい?」
子供が頷く。
「じゃあ、言ってみてもいいよ」
子供は少し息を吸った。
「いや」
「うん」
沈黙。
「……おわり?」
「終わり」
「けさない?」
「今の『嫌』を記録してないから、消すものもないよ」
子供が顔を上げる。
「きろく、ない?」
「今のは、言ってみたかっただけでしょう?」
「うん」
「なら、私は覚えてるけど、紙には書かない」
「わすれたら?」
「私が忘れても、あなたが言ったこと自体がなかったことになるわけじゃないよ」
子供は目を瞬いた。
その答えは、記録を絶対のものとして扱う考えとは少し違う。
紙に残さなくても存在した言葉がある。
紙に残ったからといって、それだけが本人の全部になるわけでもない。
「じゃあ」
「うん」
「みち、こっち」
子供は木片の隣を指す。
「分かった」
「やすみ、ここ」
「うん」
「きょう」
「今日はそうしたい?」
「うん」
「じゃあ、それでいいよ」
「きろく?」
「必要ないと思うけど、残したい?」
子供は少し考える。
「いらない」
「分かった」
ナディアは布を畳む作業へ戻った。
子供もまた床へ座る。
木片と「みち」は並んでいる。
けれど、それだけで二つが同じ意味になったわけではない。
ただ今日は、そこへ置きたかった。
それだけでよかった。
◇
昼過ぎ、リューネ町役場の試行記録を確認していたマルタは、紙束を机へ置いて眉をひそめた。
「これ、同じ人?」
向かいに座っていたイーダが身を乗り出す。
「どれ?」
「この二枚」
一枚には『就労相談』。
もう一枚には『生活相談』。
同じ人物の記録だった。
「同じね」
「なんで分かれてるの?」
「受付した人が違うからじゃない?」
「でも内容、つながってるよ」
マルタは文字を指で追う。
「仕事時間を減らしたら収入が減る。だから生活費が足りなくなるかもしれない。これ、仕事の話でも生活の話でもあるでしょ」
「そうね」
「分類、邪魔してない?」
イーダが腕を組む。
分類は、相談を適切な担当へ回すために残した。
分類そのものを拒否理由にはしない。
それは試行開始時に決めている。
だが、拒否に使わなくても、記録が分断されれば別の問題が生まれる。
「本人、二回説明した?」
「そこまでは分からない」
「確認しよう」
イーダはすぐ受付へ向かおうとしたが、途中で止まった。
「いや」
「どうしたの?」
「本人の相談内容まで、私たちが勝手に広げて読む必要ある?」
マルタも止まる。
「……ないか」
「問題は、同じ人の関連する相談が分類で分かれた時、職員同士でどう扱うかよね」
「じゃあ内容じゃなくて、受付した人に聞く?」
「それがいい」
二人は受付担当者を呼んだ。
午前と午後で別の職員が対応していたことが分かる。
「二回説明してもらった?」
イーダが尋ねる。
午後の職員が困った顔をした。
「途中で、午前にも仕事のことで相談したと本人が言ったので、記録があることは分かりました。ただ、生活相談の記録から就労相談の詳細を開いていいのか迷って」
「本人には聞いた?」
「……聞いていません」
「なんで?」
「過去記録を読むかどうかを毎回聞くのも負担になるかと思って」
イーダはすぐに責めなかった。
昨日、過去記録を読み上げることが負担になる人もいると分かった。
だから職員は、勝手に開かなかった。
間違った意図ではない。
「本人は?」
「自分から、午前に話した内容と関係あると言ってくれました。それで、必要なところだけもう一度話してもらいました」
「嫌そうだった?」
「少し疲れているようには見えました」
マルタが息を吐く。
「難しいねえ」
「うん」
イーダも同意する。
「勝手に読むなってのも正しいし、同じ説明を何度もさせるなってのも正しい」
「両方やろうとすると、毎回許可を聞くことになる」
「それがまた面倒かもしれない」
三人とも黙った。
答えはすぐに出ない。
そこへ、住民代表の一人であるエドが入ってきた。
「何してる?」
「困ってる」
「珍しいな。いつも困ってるだろ」
「今日は制度で困ってるの」
「もっと珍しくないな」
エドは空いている椅子へ座った。
説明を聞いたあと、少し考える。
「本人に最初に選んでもらうのは?」
「何を?」
「今日の相談で、前の記録を使っていいか」
「毎回聞くのが負担って話してたところ」
「毎回じゃなくて、受付の最初に一回」
エドは机を指で軽く叩く。
「『前の相談と関係あるなら、その記録を見てもいい』『今日は見ないで』『必要になったら聞いて』とか」
イーダが考える。
「選択肢を増やしすぎると、それも面倒じゃない?」
「じゃあ三つも言わなくていい。『前の記録を使ってもいい?』だけ聞いて、嫌なら使わない」
「昨日の人みたいに、聞かれただけで『また全部説明するのか』って思う人もいるかも」
「なら、聞き方の問題じゃないか?」
マルタが首を傾げる。
「どんな?」
「知らん」
「そこ考えてよ」
「俺、今来たばっかりだぞ」
三人の間に小さな笑いが起きる。
結局、その場では新しい決まりを作らなかった。
今日の事例を試行記録へ残し、夕方の代表会議で扱う。
危険がある問題ではない。
今すぐ一つの正解へ固定する必要もない。
職員の一人が、壁の注意書きへ新しい紙を貼ろうとする。
イーダがそれに気づいた。
「待って」
「はい?」
「それ、まだ貼らなくていい」
「でも忘れませんか?」
「試行記録に書いて。壁は増やさない」
職員は紙を見てから頷く。
「分かりました」
昨日までなら、改善点を見つけるたびに規則を増やすことが安心につながったかもしれない。
今は、増やさないことも一つの選択だった。
◇
夕方、アルは塔の記録室で、王都へ送る照会文の下書きを読んでいた。
作成したのはアンナマリーである。
『旧王家管理下保養施設における休止設備確認規定について、制定時版以降の改訂履歴、運用補則、事故報告、廃止・統合記録の所在確認を求む』
その下には、西壁そのものの開放方法ではなく、規則の変化を追うために必要な資料だけが列挙されている。
「開け方は聞かないんだ」
アルが言う。
「今必要なのはそこじゃないでしょう?」
アンナマリーは向かいの椅子で別紙を整理していた。
「うん」
「開け方を先に知ると、開けることが前提になりかねないし」
「それ、俺に言ってる?」
「全員に」
「フェリクスにも?」
「特にフェリクスには」
アルが笑う。
「本人が聞いたら抗議するよ」
「聞かせてもいいわ」
そこへセリーが茶を運んできた。
三人分ある。
「アンナマリー様もどうぞ」
「ありがとう」
セリーはアンナマリーの前へ茶器を置き、次にアルの隣へ座った。
向かいではない。
最近、それが少しずつ増えている。
アルは気づいているが、わざわざ指摘しなかった。
セリーがそこを選んだ。
それで十分だ。
「主様」
「ん?」
「先ほどから照会文より私を見ておられます」
アンナマリーの手が止まる。
アルも止まる。
「……そんなに?」
「三度ほど」
「数えてたの?」
「はい」
「何か付いてる?」
「いいえ」
「じゃあ」
言いかけて、アルは迷った。
誤魔化す理由もない。
「隣に座ったなって思ってた」
セリーが一度瞬きをする。
「はい」
「最近、向かいじゃなくて隣が増えたから」
「嫌でしたか?」
「逆」
答えたあとで、自分でも少し早かったと思った。
アンナマリーが無言で茶器を持ち上げる。
明らかに会話へ入らないことを選んでいる。
「嬉しい」
アルが続ける。
セリーは膝の上で両手を重ねた。
「……そうですか」
「セリーは?」
「私は」
少しだけ間が空く。
「こちらに座りたいと思いました」
「そっか」
「はい」
それ以上は進めない。
アルは照会文へ視線を戻す。
しかし頬に残る熱はなかなか引かなかった。
向かい側のアンナマリーは茶を飲みながら、二人を見ないようにしていた。
(これは私が口を挟まない方がいいわね)
そう思う一方で、昔のアルなら「隣に座ってくれて嬉しい」などと素直に言えただろうかとも思う。
おそらく無理だった。
セリーもまた、自分の希望を「役目ですから」で隠さなくなっている。
アンナマリーは不思議な気持ちになった。
寂しさが全くないと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に二人が自分で選んで近づいていることへ、静かな安堵があった。
「照会文」
アンナマリーが声を出す。
「うん」
「問題なければ明朝送るわ」
「俺はいいと思う。でもブラートにも見てもらおう」
「そうね」
「ガルムにも?」
「現場側で必要な資料があるか確認してもらった方がいいわ」
「じゃあ、エル」
『はい』
「複写をブラートとガルムへ。意見があれば追記してもらって、明日の朝までにアンナマリーへ戻して」
『承知しました』
アンナマリーが少し笑う。
「あなたが決めなかったわね」
「何を?」
「この文章で送るって」
「俺だけで決めることじゃないし」
「そうね」
アルは茶を飲む。
以前なら、決めることこそ仕事だった。
今は、決めなくていいものを自分の手から離すことも仕事になっている。
◇
夜になって、旧保養施設から新しい資料が届いた。
西壁に関するものではない。
フェリクスが昨日の構造図にあった北へ伸びる線を、現場へ近づかず図面上だけで追った結果だった。
複数年代の平面図を重ねず、縮尺と基準柱の位置を一枚ずつ比較したところ、北へ伸びる線は現在の北壁金属片の位置とは一致しなかった。
むしろ、その少し東側を通っていた可能性がある。
昨夜、音が聞こえたと推定された方向に近い。
アルは報告を読んで、しばらく黙った。
セリーも隣で同じ紙を見ている。
「近いね」
「はい」
「でも一致はしてない」
「はい」
「音源位置も推定」
「はい」
「図面の線が何かも不明」
「はい」
「年代も現在設備と一致するか分からない」
「はい」
アルは紙を机へ置いた。
「……気になる」
「そうですね」
「すごく気になる」
「はい」
「行きたい」
「はい」
セリーは止めない。
アルが自分で続きを言うのを待っている。
「でも、今行ってもやることない」
「私もそう思います」
「見るだけなら?」
「主様がご自分で決めることかと」
「ずるいなあ」
「何がでしょう?」
「止めてくれた方が楽な時もある」
セリーは少し考えた。
「では、止めてほしいですか?」
アルはその問いにすぐ答えなかった。
行きたい。
見たい。
昨夜の音と図面の線が近い場所にある。
何かがつながっているのかもしれない。
けれど、その「かもしれない」のために自分が夜の施設へ行く必要はない。
「……いや」
「はい」
「自分で決める」
アルは椅子へ深く座り直した。
「今日は行かない」
「承知しました」
「明日は?」
「明日の主様がお決めください」
「今日決めちゃ駄目?」
「決めても構いません。ただ、明日変更してもよろしいかと」
「そうだね」
アルは笑った。
「じゃあ明日は決めない」
「はい」
「朝になってから考える」
「はい」
そこで会話は終わるはずだった。
しかしアルは、隣にいるセリーの手を見た。
机の上に置かれている。
昨日と今朝、自分たちは手をつないだ。
けれど、一度つないだからといって、今もつないでいいことにはならない。
「セリー」
「はい」
「今、手つないでもいい?」
彼女の目が少し大きくなる。
それから、柔らかく細められた。
「はい」
セリーが手を少し動かす。
アルも自分の手を重ねた。
指先が触れ、やがて自然に重なる。
昨日より緊張は少ない。
それでも、何も感じなくなったわけではない。
「慣れた?」
アルが尋ねる。
「少し」
「俺も」
「ですが」
「うん?」
「慣れたからといって、何も思わなくなるわけではないようです」
アルは彼女を見る。
セリーは前を向いたまま、つないだ手だけをほんの少し握った。
「私も、今はこうしていたいと思っています」
胸の奥がゆっくり温かくなる。
(嬉しい)
その気持ちは、もう誤魔化さなくてよかった。
「俺も」
二人はしばらくそのまま座っていた。
机の上には旧施設の図面と報告書。
分からないことは増えている。
西壁の向こうも、北へ伸びる古い線も、昨夜の音も、まだ答えは出ていない。
それでも今夜、答えを出さなければならないものは一つもなかった。
◇
同じ頃、旧保養施設ではガルムがフェリクスの作成した比較図を眺めていた。
「近いな」
「はい」
「音の推定位置と」
「ただし誤差があります」
「分かってる」
「図面の線の用途も不明です」
「それも分かってる」
「現在設備との連続性も――」
「分かってるって」
フェリクスが口を閉じる。
ガルムは比較図を机へ戻した。
「でも、調べる理由にはなる」
「はい」
「開ける理由には?」
「なりません」
「触る理由には?」
「なりません」
「壁を剥がす?」
「しません」
「床を開ける?」
「しません」
「よし」
「試験を受けている気分です」
「お前の場合、定期試験が必要だ」
「信用がありませんね」
「増えてはいる」
フェリクスが顔を上げる。
ガルムは真面目な顔をしていた。
「前よりはな」
「……そうですか」
「だから、減らすなよ」
フェリクスは一瞬だけ黙った。
それから小さく笑う。
「努力します」
「努力じゃなくて触るな」
「分かっています」
リディアは少し離れた場所で夜間監視表を確認しながら、そのやり取りを聞いていた。
フェリクスを完全に信用しているわけではない。
おそらくガルムも同じだ。
けれど、信用するかしないかの二択ではなくなっている。
任せられる部分が増えた。
止める必要がある部分は残っている。
それでいいのかもしれない。
「今夜の観測位置」
リディアが声をかける。
「昨夜と同じでいいですか?」
「同じにしよう」
ガルムが答える。
「北側の音があったからって、そこへ人を増やす必要はない」
「比較条件を変えない?」
「少なくとも今夜は」
「了解です」
フェリクスが比較図を閉じる。
「では、私は資料室へ戻ります」
ガルムが目を細める。
「夜間監視に残りたいって言わないのか?」
「残っても、壁には触れないのでしょう?」
「当たり前だ」
「なら資料を読んだ方が進みます」
「……本当に変わったな」
「今日二度目です」
「数えてたのか」
「研究者ですから」
フェリクスは紙束を抱え、資料室へ向かった。
その背中を見送ってから、ガルムは小さく笑う。
「人間、変わるもんだな」
「隊長もですよ」
リディアが言う。
「俺?」
「以前なら、あの人を資料室へ一人で戻しました?」
「……戻さなかったな」
「ですよね」
ガルムは少し考える。
資料室には触れてはいけない原本もある。
だがフェリクスは最近、複写手順も原本保護も守っている。
それでも完全な無監視ではない。
巡回もあるし、持ち出し記録も必要だ。
信用したから何も確認しないのではなく、確認の仕組みがあるから任せられる。
「俺たちも、ちょっとずつだな」
「何がです?」
「任せ方」
リディアは返事の代わりに、小さく頷いた。
夜は静かに深くなっていく。
今夜も何かが鳴るかもしれない。
何も起きないかもしれない。
そのどちらでも、記録する。
分からないものを開くためではなく、開かなくていい時間を守るために。
閉じた扉や壁の向こうを知る方法は、一つではなかった。




