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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第103話 残っていた理由



 翌朝、アルが目を覚ました時、古の塔はまだ静かだった。


 窓の向こうには薄い朝靄が残り、庭の木々は白く霞んでいる。昨夜のうちに雨が少し降ったらしく、窓枠を開けると湿った土と葉の匂いが冷たい空気に混じって流れ込んできた。


 寝台から起き上がったアルは、最初に机へ目を向けた。


 昨夜、旧保養施設から届いた比較図は片づけてある。


 北へ伸びる古い線と、昨夜より前に小さな音が聞こえたと推定される場所。その二つが近いかもしれないという資料だった。


(朝になった)


 昨夜は、明日のことを明日の自分に任せた。


 ならば、今がその時だ。


 旧保養施設へ行きたいかと問われれば、答えは変わっていない。


 行きたい。


 実際の廊下を見て、図面と位置を比べ、壁の向こうに何が残っているのかを知りたい。


 けれど、今すぐ行く必要があるかは別だった。


 アルは寝間着のまま部屋を出た。


 廊下を歩いて食堂へ向かう途中、厨房の方から香ばしい匂いが漂ってくる。焼いたパンと、何か甘いものの匂いだ。


「おはようございます、主様」


 食堂へ入ると、セリーが卓上へ皿を並べていた。


「おはよう。甘い匂いする」


「蜂蜜を少量使いました」


「朝から?」


「昨夜、旧施設へ向かわず休まれましたので」


 アルは椅子を引く手を止めた。


「ご褒美?」


「そのようなものです」


「子供扱いされてない?」


「嫌でしたか?」


「……嫌じゃない」


 セリーの口元がわずかに緩む。


 薄く焼いたパンの上には、蜂蜜と細かく砕いた木の実が載っていた。甘さは控えめだが、湯気とともに立ち上る香りだけで空腹を刺激する。


 アルは席へ座った。


「旧施設から連絡は?」


「ございます」


「何か起きた?」


「夜間の大きな変化はありませんでした。午前三時過ぎに統合盤の左下部でごく弱い光を確認したとのことですが、継続時間は短く、音、受動計器、西壁、北側区画に同時変化は確認されておりません」


「色は?」


「白に近い淡黄色。ただし観測者二名のうち一名は『黄白』、もう一名は『ほぼ白』と記録しております」


「別々に残した?」


「はい。統合しておりません」


「よかった」


 アルはパンを一口食べた。


 蜂蜜の甘さのあとから、木の実の香ばしさが広がる。


「おいしい」


「ありがとうございます」


「で、フェリクスは?」


「夜明け前に資料を一件見つけたそうです」


 パンを噛む動きが止まりかけた。


 セリーがじっと見る。


 アルはそのまま噛んだ。


「食べるよ」


「何も申しておりません」


「顔が言ってる」


「そうでしょうか」


「長い付き合いだから分かる」


 アルはパンを飲み込み、茶を一口飲んだ。


「何を見つけたの?」


「旧保養施設の設備撤去に関する記録の一部です」


「西壁?」


「そこまでは確定していないとのことです」


「……ちゃんと注意書き付きなんだ」


「フェリクス様ご本人からです」


「本当に変わったなあ」


 アルは思わず笑った。


「内容は?」


「朝食後にエルから全文をご覧になりますか?」


「うん」


「では今は?」


「食べる」


「はい」


 その返事に満足したらしいセリーが、自分も向かいではなくアルの隣へ座った。


 アルの視線が自然とそちらへ向く。


 昨日も隣だった。


 今日も隣だ。


 セリーは茶器へ手を伸ばしながら、こちらを見る。


「何でしょう?」


「今日も隣だなって」


「はい」


「座りたかった?」


「はい」


 短い返事なのに、胸の奥が温かくなる。


「そっか」


「主様は?」


「嬉しい」


 今度は迷わなかった。


 セリーの指が茶器の取っ手に触れたまま、少しだけ止まる。


「……私も、嬉しいです」


 それだけ言って茶を飲む。


 アルも食事へ戻った。


 急ぐ必要はなかった。


     ◇


 朝食後、エルが表示した資料は、思っていたより古びたものだった。


 原本を直接転送したのではなく、フェリクスが保存規定に従って作成した複写である。端には欠損箇所が明示され、読めない文字は無理に補われていない。


『旧設備整理・撤去判断記録』


 表題の一部が欠けている。


 年代は、旧保養施設がまだ正式運用されていた時期の後半に当たる可能性が高い。ただし日付の一桁が不鮮明なため、確定とはされていなかった。


「撤去判断……」


 アルは表示へ顔を近づける。


 セリーは隣に立ち、エルが読み上げる。


『対象設備の停止後、以下のいずれかに該当するものは現地残置を認める』


 その下に条件が並んでいた。


 撤去によって建物構造へ影響が出る場合。


 隣接する現行設備へ損傷を与える可能性がある場合。


 取り外しによって未確認の保持状態が変化する可能性がある場合。


 原記録が不足し、安全な撤去方法を確定できない場合。


 そして最後に、


『保護対象との関連を否定できない場合』


 アルの目がそこで止まった。


「……これ」


「はい」


「保護対象って何?」


『当該文書内には定義がありません』


 エルが答える。


「別の規定では?」


『同時代文書における「保護対象」は、人、物品、記録、生命保持中の個体、移送待機者、証拠保全物など複数の意味で使用されています』


「人だけじゃない」


『はい』


「名前のない子供と結びつけるのも駄目」


『根拠がありません』


「保存槽の少年とも」


『同様です』


 アルは息を吐いた。


 言葉だけなら、いくらでもつなげられる。


 保護対象。


 保持状態。


 移送待機。


 生命保持。


 今まで見つかった謎へ、どれも都合よく当てはめられる。


(だから危ないんだ)


 答えに近づいているように感じる時ほど、実際には自分から答えを作っているだけかもしれない。


「続き」


『残置時は、可動部を固定し、不要な張力を解放し、識別札を付す。ただし保持状態不明の設備については、固定・張力解放そのものが状態変化を生じる可能性を確認した場合、操作を行わず現状保持とする』


「前に見つかった一般規則と似てる」


『はい。ただし同一規則の別版か、施設内補則かは未確認です』


「うん」


 さらに下には手書きの追記があった。


『残置理由を後任が判別できる形で記録すること。「不要につき残置」とのみ記載しない』


 アルは眉を上げる。


「これ、わざわざ書いてあるってことは……」


「過去に問題があった可能性を考えられますが、確定はできません」


 セリーが先に言った。


「言おうとした」


「失礼いたしました」


「いや、正しい」


 アルは笑ってから、もう一度文章を見る。


「『不要だから残した』と『危なくて外せなかった』じゃ全然違うもんな」


「はい」


「でも後から見たら、どっちも『残ってる古い設備』になる」


「記録が失われれば」


「そうだね」


 アルは腕を組む。


 西壁の向こうに何かが残っているとしても、それが残っている理由は一つではない。


 単に撤去が面倒だった。


 建物を壊す危険があった。


 隣の設備へ影響した。


 何かを保持していた。


 記録がなくて触れなかった。


 保護対象との関連を否定できなかった。


 そして、そのどれでもない可能性もある。


「ガルムたちは?」


『同文書を確認済みです。現在、残置設備一覧と照合しています』


「西壁は?」


『開放しておりません』


「北側は?」


『昨夜の小音推定位置についても接触調査は行っておりません』


「じゃあ、俺が行っても同じか」


『現時点で主様の現地判断を求める要請はありません』


「分かった」


 アルは表示を閉じてもらった。


 行かない。


 少なくとも今は。


「主様」


「ん?」


「本日は町へ行かれる予定でしたね」


「ああ。試行の途中確認」


「予定を変更されますか?」


 アルは少し考えた。


「しない」


「承知しました」


「セリーも来る?」


「はい」


「仕事だから?」


 聞いてから、アルは昨日までにも似た問いをしたことを思い出した。


 何度も同じ確認をするのは違う。


「あ、いや。今のなし」


「よろしいのですか?」


「前に聞いたから」


 セリーは静かにアルを見る。


「今日の気持ちをお伝えしてもよろしいですか?」


「……うん」


「今日は、主様と町へ行きたいです」


 アルの口元が自然に緩んだ。


「じゃあ一緒に行こう」


「はい」


 昨日の答えが今日の命令ではない。


 だからといって、毎回確認しなければ何もできないわけでもない。


 言いたい時に言える。


 変わった時に変わったと言える。


 そのくらいの余白が、二人の間にも少しずつ生まれていた。


     ◇


 旧保養施設の資料室では、フェリクスが一冊の薄い台帳を机へ置いた。


 ガルムとリディアが両側から覗き込む。


「これが残置設備一覧?」


「一部です」


「また一部か」


「完全な資料が簡単に出てくるなら、私はもっと早く寝ています」


「寝てないのか?」


「三時間ほど」


「今日は昼寝しろ」


「話が変わっています」


「変わってない。寝不足で資料を読み間違えたら困る」


 フェリクスは反論しようとしたが、リディアまで無言で見ていることに気づいて口を閉じた。


「……昼食後に休みます」


「二時間」


「一時間」


「二時間」


「一時間半」


「二時間」


「交渉になっていません」


「体調管理だからな」


 ガルムは当然のように言い切った。


 フェリクスは諦めたように肩を落とす。


「二時間休みます」


「よし」


「それで、台帳を見ても?」


「どうぞ」


 台帳には、施設内で運用停止となった設備がいくつも並んでいた。


 名称。


 位置。


 停止理由。


 撤去・残置。


 残置理由。


 確認年月。


 再確認予定。


 ただし全欄が埋まっているわけではない。


 空白も多い。


 後から線を引いて修正した場所もある。


「北系統」


 リディアが指を止める。


『北系統第二線・機械保持部』


 以前見つかった名称だ。


「残置」


 ガルムが読む。


「理由は?」


「その右です」


 文字は薄い。


『壁内経路との分離困難。隣接線への影響未確認。現状保持』


「張力逃がし爪は?」


「部品台帳では同じ機械保持部の補助部品とされています」


「じゃあ、床で見つかった破片とつながった?」


 ガルムが尋ねる。


 フェリクスはすぐには答えない。


「設備の種類としては、つながる可能性がさらに上がりました」


「その破片がここから落ちた?」


「分かりません」


「最近壊れた?」


「分かりません」


「音の原因?」


「分かりません」


「よし」


「その『よし』にも慣れてきました」


「成長だ」


 リディアはさらに下を見る。


「その次」


『西補助保持区画』


 三人の空気が変わった。


「西」


 ガルムが呟く。


「はい」


「現在の西壁と同じ?」


「まだです」


 フェリクスは即座に答えた。


「位置欄が欠けています。名称に『西』とあるだけです」


「残置?」


「はい」


「理由」


 三人が文字を追う。


『撤去時影響範囲不明。旧保持対象記録照会未了。開口せず残置』


 誰もすぐには話さなかった。


 窓の外で風が吹き、古い窓枠が小さく鳴る。


 ガルムが最初に口を開いた。


「『保持対象』」


「はい」


「さっきの規則にあったな」


「あります」


「人とは限らない」


「はい」


「何を保持してたか分からない」


「はい」


「記録照会が終わってなかった」


「少なくとも、この記載時点では」


 リディアが文字を指す。


「『開口せず残置』」


「そう読めます」


「つまり当時も開けなかった?」


「この記録が対象にしている設備については、そうです」


「今の西壁かは不明」


「はい」


 ガルムは腕を組んだ。


「でも、調べるものは増えたな」


「旧保持対象記録」


「残ってる?」


「分かりません」


「研究院へ移された可能性は?」


「あります。ただし『保持対象記録』が、以前見つかった『特殊処置関連原記録群』と同じとは限りません」


「そこ大事だな」


「はい」


 フェリクスは複写紙へ記載を移しながら、少しだけ唇を噛んだ。


 見たい。


 西壁の向こうを。


 もし現在の輪郭がこの西補助保持区画なら、その向こうには当時の設備が残っているかもしれない。


 しかし、記録にははっきりと書かれている。


 影響範囲不明。


 記録照会未了。


 開口せず残置。


(昔の担当者も、分からないから開けなかったのか)


 そう考えると、自分たちが今やっていることは臆病なのではない。


 少なくとも、この記録を書いた誰かも、同じように止まった。


「隊長」


「なんだ?」


「開けたい気持ちは増えました」


「そうか」


「でも、開けない理由も増えました」


 ガルムは少し笑う。


「なら今は、それでいい」


     ◇


 リューネの町役場では、試行の中間確認が始まっていた。


 アルとセリーが会議室へ入った時、すでにハンス、イーダ、マルタ、エド、ベンノが揃っている。受付職員も二名参加し、机の中央には数日分の試行記録が積まれていた。


「アル、遅い」


 イーダが言う。


「時間ぴったりだけど」


「私たちが早かった」


「じゃあ俺は悪くないよね?」


「そうとも言う」


 アルは笑いながら空いている椅子へ座る。


 セリーは当然のように隣を選んだ。


 イーダの視線が一瞬だけ二人の距離へ向く。


 何も言わない。


 ただ、少しだけ眉が上がった。


 アルは気づかなかったが、向かいのマルタは気づいた。


 彼女も何も言わず、口元だけをわずかに緩める。


「じゃあ始めよう」


 ハンスが記録を開いた。


「まず、今まで出た問題。過去記録の使い方が人によって違う」


「昨日の件ね」


 イーダが続ける。


「読み上げてもらった方が楽な人もいる。読み上げられたくない人もいる。同じ内容を何回も話したくない人もいる。でも勝手に前の記録を開かれるのも嫌な人がいるかもしれない」


「結論は?」


 アルが尋ねる。


「まだない」


「うん」


「何よ、その嬉しそうな顔」


「いや、いいなと思って」


「結論がないのが?」


「急いで決めてないのが」


 エドが椅子の背へ身体を預ける。


「一応、案はあるぞ」


「聞きたい」


「受付の最初に、『前の相談記録がある場合、それを使って話を進めてもいいか』だけ確認する」


「毎回?」


「同じ相談が続いてる間は、本人が『もう一度聞いて』って言わない限り、最初の希望を参考にする」


 アルは少し考える。


「参考?」


「命令にしないため」


「なるほど」


「ただし、別の相談になったらまた聞く」


 マルタが口を挟む。


「でも『別の相談』かどうかを職員が決めると、また分類の問題が出る」


「そうなんだよ」


 エドが頭を掻く。


「だから詰まった」


 受付職員の一人が手を上げる。


「私は、もっと単純でもいいと思います」


「どういうの?」


「最初に『前に話したことを使ってほしい時は言ってください。使ってほしくない時も言えます』とだけ説明して、毎回選ばせない」


「それだと、言い出せない人は?」


 ベンノが尋ねる。


「そこなんです」


 職員は困った顔になる。


「結局、何もしなくても誰かが困る」


「完璧なのはないか」


 ハンスが呟く。


 会議室に短い沈黙が落ちた。


 アルは机の上の記録を見る。


 ここで自分が案を出すこともできる。


 だが、出せることと出すべきことは違う。


「試してみたら?」


 アルが言う。


 イーダがこちらを見る。


「どれを?」


「一つじゃなくて」


「え?」


「受付職員ごとに勝手に変えるのは困るけど、本人に説明したうえで二つくらいの方法を短期間試して、どっちが負担になったか聞くとか」


 ハンスが腕を組む。


「制度の試行の中で、聞き方も試行する?」


「うん。ただ、嫌だったら途中でやめられるようにする」


「期間は?」


「それも俺が決める?」


 アルが笑う。


 ハンスもつられて笑った。


「いや。俺たちで決める」


「お願い」


 イーダがアルを見る。


「昔なら全部決めたでしょ」


「たぶん」


「今、暇じゃない?」


「結構忙しいよ」


「でも決めてない」


「決めないのも忙しいんだよ」


「何それ」


「決めなくていいか考えてるから」


 会議室に笑いが広がった。


 セリーも隣で小さく微笑んでいる。


 マルタは二人を見ながら、さきほどから感じていた違和感の正体に気づいた。


 距離が近い。


 ただ椅子が近いという意味ではない。


 アルが話している時、セリーは以前のように常に「主を支える者」として彼だけを見ているわけではない。自分の意見を持った一人として会議を聞き、それでも時折アルへ向ける視線だけが柔らかい。


 そしてアルも、無意識にセリーが隣にいることを確かめるような瞬間がある。


(あら)


 マルタは声には出さなかった。


 今ここでからかう必要はない。


 何かが変わっている。


 それだけ覚えておけば十分だった。


     ◇


 会議を終えて町役場を出ると、空は朝より明るくなっていた。


 雲の切れ間から陽が差し、濡れていた石畳の一部が乾き始めている。


「少し歩く?」


 アルが尋ねた。


「塔へ戻る前に、でしょうか」


「うん。仕事じゃなくて」


 セリーは一瞬だけ考える。


「歩きたいです」


「じゃあ行こう」


 二人は大通りから一本外れた道へ入った。


 市場の喧騒が少し遠くなり、小さな住宅と工房が並ぶ通りをゆっくり歩く。


 すぐには手をつながない。


 昨日つないだから、今日も最初からつながなければならないわけではない。


 肩が近い。


 時々、歩幅が揃う。


 それだけでしばらく歩いた。


 やがて小さな橋へ差しかかった時、セリーの手がアルの手の甲へ軽く触れた。


 偶然かもしれない程度の接触。


 けれどセリーは離さなかった。


 アルも歩調を緩める。


 顔を見る。


 セリーもこちらを見ていた。


「手」


 アルが言う。


「はい」


「つなぐ?」


「はい」


 今度はセリーから手を差し出した。


 アルが握る。


 橋の下を細い水路が流れている。


 昨夜の雨で水量が少し増え、陽光を細かく反射していた。


「主様」


「ん?」


「先ほどの会議で、楽しそうでした」


「そう?」


「はい」


「俺が決めなくても進んでたからかな」


「寂しくはありませんでしたか?」


 以前なら、その問いに少し迷ったかもしれない。


 今も、寂しさが全くないわけではない。


「ちょっとだけ」


「はい」


「でも嬉しい方が大きい」


「そうですか」


「あと」


「はい」


「俺が何も必要とされなくなったわけじゃないって、最近は分かるから」


 セリーの指がわずかに動く。


「はい」


「前に、たまには必要とされたいって言っただろ」


「覚えております」


「あれ、今もそう」


「はい」


「でも全部を俺がやらなくても、必要としてくれる人はいる」


 アルは隣を見る。


「セリーとか」


 セリーの歩みがほんの少し遅くなる。


「私は、必要としております」


「うん」


「お仕事のためだけではありません」


「……うん」


 以前にも近い言葉を聞いた。


 それでも今日は、聞こえ方が少し違う。


 手をつないでいるからかもしれない。


 町を二人で歩いているからかもしれない。


 あるいは、自分の気持ちが前よりはっきりしているからかもしれない。


(俺、やっぱりセリーのこと好きなんだろうな)


 その言葉が、頭の中に自然と浮かんだ。


 アルは驚かなかった。


 否定もしなかった。


 ただ、今ここで口にするかどうかは別だ。


 自分の中で言葉になったからといって、すぐ相手へ渡さなければならないわけではない。


 セリーにも、セリーの速度がある。


「どうされました?」


「ううん」


 アルは少し笑った。


「今、嬉しいなって思ってた」


 それだけを伝える。


 セリーはつないだ手を少しだけ握り返した。


「私もです」


     ◇


 夕方。


 白鴉療養所の三〇八号室では、少年が赤い布に包まれた手紙を見ていた。


 ヨアヒムは机から少し離れた場所に座っている。


 今日は薬の確認だけを行い、手紙については尋ねなかった。


 少年自身が布包みを取り出したのだ。


「……読んでもいい?」


 ヨアヒムは顔を上げる。


「あなたの手紙です」


「でも、昨日は読まないって」


「昨日はそう決めましたね」


「今日読んだら、昨日のは何だったの?」


「昨日、読みたくない、あるいは読まないと決めたことが、今日読むことで消えると思いますか?」


 少年は黙る。


「先生は」


 言いかけて止まる。


 ヨアヒムは待った。


「先生は、決めたら変えるなって……」


 少年の眉が寄る。


「……言った?」


「私に聞いていますか?」


「分かんない」


「では、分からないままにしましょう」


「でも、そんな気がする」


「その気がすることは、そのまま大事にしていいと思います」


「本当じゃなくても?」


「思い出そうとして出てきた感覚まで、嘘にする必要はありません。ただ、それを確かな記憶だと決めなくてもいい」


 少年は赤い布へ視線を戻した。


「読む」


「はい」


「一通だけ」


「分かりました」


「途中でやめてもいい?」


「もちろんです」


「読んだら、最後までじゃなくて?」


「最後まで読みたいなら読めます。途中でやめたいなら、そこでやめられます」


「……変えても?」


「はい」


 少年は赤い布をゆっくり開いた。


 二十三通。


 整然と重なった封筒を前に、指が止まる。


 どれを選ぶか。


 ヨアヒムは指示しない。


「これ」


 少年が上から三番目の封筒を取った。


「上からじゃなくていい?」


「あなたがそれを読みたいなら」


「順番、違うかも」


「日付を確認しますか?」


 少年は封筒の表を見る。


 日付らしき記載がある。


「……先じゃない」


「どうします?」


「これ読む」


「分かりました」


 封を開く。


 すでに一度開封された跡があり、糊は弱くなっている。


 少年は中から紙を取り出した。


 最初の数行へ目を落とす。


 顔が強張る。


 ヨアヒムは動かない。


 少年の唇がわずかに震えた。


「……『我が息子アルフォンスへ』」


 声に出したのはそこまでだった。


 目が次の行へ移る。


 呼吸が浅くなる。


 ヨアヒムが静かに尋ねる。


「続けますか?」


 少年は紙を握ったまま、しばらく答えなかった。


「……やめる」


「はい」


「まだ最初だけ」


「はい」


「読んでない」


「少し読みました」


「でも全部じゃない」


「全部読む必要はありません」


 少年は手紙を封筒へ戻そうとして、うまく入らず手が震える。


 ヨアヒムは手を出さない。


「手伝いが必要なら言ってください」


「……やる」


「分かりました」


 何度か試して、ようやく封筒へ戻す。


 赤い布の上へ置く。


「戻す?」


「どこへ?」


「二十三の中」


「戻したいですか?」


「……別」


「別に置きたい?」


「うん」


 ヨアヒムは空の小箱を一つ示した。


「これを使いますか?」


「手紙の箱?」


「今は何も入っていません。使いたければ」


 少年は箱を見る。


「あとで戻してもいい?」


「はい」


「じゃあ、ここ」


 読みかけた一通だけを小箱へ入れる。


 残り二十二通は赤い布へ包み直した。


「今日、読んだ」


「はい」


「昨日、読まなかった」


「はい」


「どっちも?」


「どちらも、その日のあなたが決めたことです」


 少年は小箱へ触れる。


「途中でやめた」


「はい」


「……できた」


 その声は小さかった。


 けれどヨアヒムには、十分聞こえた。


「できましたね」


 少年は少しだけ笑った。


     ◇


 日が落ちる頃、旧保養施設から塔へ緊急ではない優先報告が届いた。


 アル、セリー、アンナマリー、ブラートが記録室へ集まる。


 白鴉療養所から戻ったブラートは、まだ外套を脱いだばかりだった。


『残置設備一覧より、「西補助保持区画」の記載を確認』


 エルが原文を表示する。


『撤去時影響範囲不明。旧保持対象記録照会未了。開口せず残置』


 アンナマリーの表情が引き締まる。


「西補助保持区画」


「でも、今の西壁とは確定してない」


 アルが先に言う。


「ええ」


「位置欄が欠けてる」


「はい」


 ブラートが表示へ近づく。


「『旧保持対象記録照会未了』」


「気になるよね」


「かなり」


「でも『保持対象』が人とは限らない」


「物品、記録、生命保持、移送待機、証拠物など複数用例があります」


 アンナマリーが確認する。


「それに、この記載時点で照会が未了だっただけ。後に照会が完了した可能性もある」


「そう」


 アルは頷いた。


「だから探すなら、その続き」


「研究院への照会項目へ追加しますか?」


 ブラートが尋ねる。


「どう思う?」


「追加自体は妥当だと思います。ただし、『特殊処置関連原記録群』と同じものだと仮定しない形で」


「うん」


 アンナマリーが照会文を引き寄せる。


「『旧保養施設において「保持対象記録」または同義分類で管理された記録群の移管・廃棄・再分類履歴』」


「広すぎる?」


 アルが尋ねる。


「広い。でも、今は狭める根拠がない」


「じゃあ、それで」


 言ってからアルは少し止まる。


「いや。ガルムにも確認してから追加」


 アンナマリーが笑う。


「ええ」


 セリーは黙って表示を見ていた。


「セリー?」


「はい」


「何か気になる?」


「『残っていた』ことと、『残したかった』ことは同じではないのだと思いまして」


 アルが彼女を見る。


「どういうこと?」


「この設備は、誰かが大切に残そうとしたのではなく、危険だから触れなかっただけかもしれません。逆に、守るために残した可能性もあります」


「うん」


「外から見れば、どちらも『残っている』だけです」


 ブラートが静かに頷く。


「人も制度も似ていますね」


「人?」


「今ここにいる理由が、本人が望んだからとは限らない」


 その言葉に、部屋の空気が少し変わった。


 アルは保存槽の少年を思い出した。


 三〇八号室の少年。


 名前のない子供。


 そして、自分自身。


 王都を離れ、塔に来た時。


 望んで来たわけではなかった。


 けれど今ここにいることまで、過去に強制された一つの理由だけで決まっているわけでもない。


「だから、今を聞くんだね」


 アルが呟く。


「はい」


 セリーが答える。


「残っているから、残りたいとは限らない」


「でも、残されたからって、今も出たいとも限らない」


「はい」


 アルは表示された古い文字を見る。


『開口せず残置』


 その設備が何を意味するのかは、まだ分からない。


 ただ、残っているという事実だけから、その理由を決めることはできない。


     ◇


 その夜。


 旧保養施設の観測は、前夜と同じ位置、同じ人数、同じ受動計器で始まった。


 ガルムは監視担当へ条件変更なしを確認したあと、資料室へ戻る。


 フェリクスは約束どおり午後に二時間眠ったらしく、朝より顔色がいい。


「寝たか?」


「寝ました」


「二時間?」


「一時間五十八分」


「細かいな」


「研究者ですので」


「二分足りない」


「誤差です」


「都合のいい時だけ誤差って言うな」


 リディアが資料をめくりながらため息をつく。


「お二人とも静かにしてください」


「はい」


「すみません」


 二人同時に返事をした。


 フェリクスは別の残置設備記録を追っている。


 西補助保持区画だけを特別扱いしないためだった。


 同じ時代に「保持」という語がどのように使われていたのか。


 残置された他設備は何だったのか。


 理由はどう書かれていたのか。


 一つの記録だけを見れば特別に見えるものも、十件並べれば普通の表現かもしれない。


「ありました」


 フェリクスが言う。


「何が?」


「『保持対象』の別例」


 三人が紙を見る。


『南倉庫温度保持設備。保護対象:薬剤保管棚三列』


 ガルムが目を瞬く。


「薬?」


「はい」


「人じゃない」


「少なくともこれは」


 次。


『記録保管室湿度保持設備。保護対象:原本記録群』


「記録」


「はい」


 さらに一件。


『移送準備室生命保持補助。保護対象:移送待機個体』


 ガルムの表情が変わる。


「これは人?」


「『個体』が人を意味する用例はあります。ただし、この一文だけでは人間かどうか確定できません」


「魔獣とかも?」


「可能性があります」


 リディアが三件を並べる。


「同じ『保護対象』でも全然違いますね」


「はい」


「じゃあ西補助保持区画も、言葉だけじゃ何も決められない」


「そうなります」


 フェリクスは少し残念そうだった。


 だが、その顔に焦りはない。


「分からないものが増えました」


 ガルムが笑う。


「嬉しそうだな」


「候補が増えるのは研究としては楽しいです」


「絞れなくなったぞ」


「間違って絞るより良いでしょう」


「それはそうだ」


 その時、監視室から連絡具が鳴った。


『隊長』


「どうした?」


『午前零時四十一分、統合盤に微弱発光を確認』


「位置と色」


『中央よりやや右。観測者一名は青白、もう一名は白に青みと記録』


「他は?」


『現時点で音なし。各受動計器に基準値超過なし。西壁変化なし。北側変化なし』


「そのまま観測。近づくな」


『了解』


 ガルムは連絡具を置いた。


 誰も立ち上がらない。


 フェリクスも資料の前に座ったままだ。


 一分。


 二分。


 再び連絡。


『発光、消失。午前零時四十四分』


「他変化?」


『ありません』


「了解。そのまま記録」


 通信が切れる。


 フェリクスが小さく息を吐いた。


「行かないんですね、と言おうと思いましたが」


「お前も立たなかったな」


「行っても消えた後ですから」


「それだけ?」


「……それと、観測条件を変えたくありません」


 ガルムは頷く。


 窓の外は暗い。


 旧施設の奥で、今夜も一つの光が点いて消えた。


 何かの合図かもしれない。


 単なる古い設備の残光かもしれない。


 別々の系統が偶然動いているだけかもしれない。


 まだ何も分からない。


 だが、少なくとも今夜は音がなかった。


 以前、発光と音が近い時刻に起きた夜があった。


 だからといって、発光すれば必ず音が鳴るわけではない。


 また一つ、「起きなかったこと」が増えた。


「記録に追加ですね」


 リディアが言う。


「ああ」


 ガルムは答える。


「光った。音はしなかった。それだけ残せ」


     ◇


 塔では、アルとセリーが眠る前に庭へ出ていた。


 夜気は少し冷たい。


 昼間の雲は消え、星がいくつも見えている。


 二人は庭の中央まで歩いたところで立ち止まった。


「今日も手、つなぐ?」


 アルが尋ねる。


「はい」


 セリーが手を差し出す。


 アルはその手を取った。


 もう、指先だけではない。


 手のひらが重なる。


 それでも強く握らない。


 相手が離そうと思えば離せる程度の力でつなぐ。


「セリー」


「はい」


「今日、町でさ」


「はい」


「俺、ちょっと考えたことがある」


「何でしょう?」


 アルは夜空を見る。


 口にするか迷う。


 昼間、頭に浮かんだ言葉。


(俺、セリーのこと好きなんだろうな)


 それは今も変わっていない。


 でも、今伝えたいのはそこではなかった。


「昔、塔に来た時は、ここに残りたいなんて思ってなかった」


「はい」


「追い出されて、ここしかなくて、仕方なく来た」


「覚えております」


「でも今は、ここにいたい」


 セリーが静かにアルを見る。


「だから、最初にどうしてここへ来たかと、今ここにいたいかは別なんだなって」


「はい」


「セリーも?」


 問いかけてから、アルは少しだけ緊張した。


 彼女は作られた。


 世話をするために。


 仕えるために。


 それが始まりだった。


「私は、主様に仕えるために作られました」


「うん」


「ですが、今ここにいる理由を、それだけにはしたくありません」


 つないだ手がわずかに温かく感じる。


「今は?」


「ここにいたいです」


「俺と?」


「はい」


 セリーは迷わなかった。


「主様と、ここにいたいです」


 アルの胸の奥が強く鳴った。


 告白ではない。


 恋人になる約束でもない。


 それでも、今のアルには十分すぎるほど大切な言葉だった。


「俺も」


 握る力を少しだけ強める。


 セリーも同じだけ返した。


「俺も、セリーとここにいたい」


「はい」


 塔へ来た理由は選べなかった。


 セリーが生まれた目的も、自分で選んだものではなかった。


 けれど、今ここに残る理由まで、過去だけに決めさせる必要はない。


 古い設備がなぜ残されたのかは、まだ分からない。


 名前のない子供がなぜあの場所へいたのかも、三〇八号室の少年がなぜあれほど強く王太子という名に縛られたのかも、保存槽の少年がなぜ眠っていたのかも、答えは残っている。


 けれど、人については一つだけ分かることがある。


 過去にどう置かれたかと、今どこにいたいかは同じではない。


 アルとセリーは手をつないだまま、夜の庭をゆっくり歩いた。


 古の塔は静かだった。


 誰かに閉じ込められた場所ではなく、今は二人が自分の意思で帰ってくる場所として、夜の中に立っていた。

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