第104話 届いた目録
翌朝、王立魔導研究院からの返書が届いた。
ただし、アルが期待していたような答えではなかった。
「……これは返事なのか?」
朝食を終えたばかりの食堂で、エルが空中へ映し出した文面を眺めながら、アルは首を傾げた。
王都から届いた正式な回答には、古い記録の所在を直接示す文言がほとんどない。代わりに並んでいるのは、保管目録の閲覧申請区分、個人情報を含む資料の制限、旧王家管理資料に関する照会手続き、廃止施設の記録を調査する場合に必要となる目的説明などだった。
「返事ではございます」
隣に座ったセリーが淡々と答える。
「『その資料があります』とも『ありません』とも書いてないよね」
「はい」
「『この手続きをしてください』がほとんど」
「はい」
「王都らしいなあ……」
アルが背もたれへ身体を預けると、セリーがわずかに笑った。
「主様も以前は、あちら側にいらっしゃいました」
「それを言われると何も返せない」
窓の外には穏やかな朝日が差している。昨日まで地面に残っていた湿り気もかなり乾き、庭では小鳥が低い枝を行き来していた。
アルはもう一度返書を見る。
『照会対象のうち、旧施設名を起点とした保管目録上の検索は可能。ただし、目録記載名称と原施設における名称が一致しない場合がある』
「これは前に分かってたことと同じだね」
『旧王家保護行政に関連する資料については、現行分類上、行政記録、医療関連記録、研究資料、特殊保管資料へ分割されている可能性がある』
「これも近い」
『個人を特定し得る記録本文については、目録上の存在確認と内容閲覧を別手続きとする』
アルはそこで頷いた。
「これは大事」
「はい」
「あるかどうかを調べるだけなら、本人の記録を読む必要はない」
『その理解で問題ありません』
エルが答える。
「じゃあ、まず存在確認」
「その方針で進められますか?」
「うん。いきなり中身を見せろとは言わない」
返書の後半には、研究院側で照会可能な古い目録項目の一部が添付されていた。
全文ではない。
公開可能な範囲だけを抜き出したものらしい。
アルは姿勢を戻した。
「こっちが本命かな」
『表示します』
文字列が切り替わる。
最初に現れたのは、すでに存在が判明している『保護行政記録群』だった。
次に『個体医療記録群』。
そして『特殊処置関連原記録群』。
いずれも移管元の細かな内訳までは表示されていない。
「やっぱりある」
「はい」
「でも、それだけじゃないね」
さらに下へ目を移す。
『旧施設設備停止・残置関係記録』
「これ」
アルの指が止まる。
セリーも表示へ視線を向けた。
『保管区分――旧技術資料。内容本文閲覧には別途申請を要す。目録上の構成項目のみ照会可能』
「設備側の記録も研究院へ行ってる」
『少なくとも、この名称の記録群が存在することは確認できます』
「旧保養施設のもの?」
『添付目録のみでは特定できません』
「だよね」
アルは先へ進む。
次の項目。
『保持対象照会簿・旧分類』
指が止まった。
今度は、先ほどより長く。
「……保持対象」
昨日見つかった言葉だ。
西補助保持区画の残置理由。
『旧保持対象記録照会未了』
その文字が脳裏へ浮かぶ。
「同じもの?」
『不明です』
エルは即答した。
「うん」
アルもすぐ頷く。
「名前が似てるだけ」
「主様」
「分かってる。つなげない」
「はい」
「でも、照会する理由にはなると思う」
「私もそう思います」
アルは目録の項目を読み直した。
『保持対象照会簿・旧分類』
その下には短い注記がある。
『複数施設分を統合。旧分類名を維持した項目と再分類済み項目が混在』
「厄介だな」
「何がでしょう?」
「これだけじゃ、どの施設の何を保持してた記録なのか分からない」
「はい」
「でも逆に、旧保養施設の記録が入ってないとも言えない」
「はい」
アルは少し考え、エルへ向けて言う。
「アンナマリーとブラートに共有して。ガルムにも」
『承知しました』
「それから、フェリクスには……」
そこで止まった。
「何でしょう?」
「いや、普通に共有して」
『はい』
「『勝手に調べるな』って付けようかと思ったけど、最近ちゃんと守ってるし」
「信用されるのですね」
「全部任せるのとは違うけどね」
「はい」
セリーは穏やかに頷いた。
アルは目録へもう一度目を戻す。
答えは届かなかった。
だが、探す場所が少し増えた。
それで十分だった。
◇
旧保養施設へ目録が届いた頃、フェリクスは約束した休憩時間を終えたばかりだった。
資料室へ戻ると、ガルムが先に椅子へ座っている。
「おはよう」
「もう昼です」
「寝起きだろ」
「二時間休んだだけです」
「なら寝起きだ」
「隊長は私を何歳だと思っているんです?」
「壁を触りたがる年頃」
「その年頃は存在しません」
リディアが机の向こうで書類を整理しながら、二人を見ずに言った。
「始めるなら静かにしてください」
「はい」
「すみません」
また二人の返事が重なった。
フェリクスが席へ着くと、エルを通じて届いた研究院の目録抜粋が表示される。
最初はいつものように興味深そうに文字を追っていたが、『保持対象照会簿・旧分類』へ到達したところで表情が変わった。
「これは……」
「似てるな」
ガルムが言う。
「はい」
「同じ?」
「分かりません」
「よし」
「先回りしましたね?」
「慣れてきた」
フェリクスは苦笑しながら、目録の注記まで読む。
「複数施設分を統合、旧分類名と再分類済み項目が混在……。これでは名称検索だけだと取りこぼしますね」
「どうする?」
「施設名から探す方法と、移管元部署から探す方法、それから記録群の旧分類名から探す方法を分けた方がいいでしょう」
「全部一気に?」
「いえ」
フェリクスが自分で首を振った。
「広げすぎます」
ガルムの眉がわずかに上がる。
「自分で止まったな」
「最近、皆さんが驚く基準が低すぎませんか?」
「昔のお前が悪い」
「否定しづらいですね」
リディアが目録の別項目を指した。
「こっちは?」
『旧施設設備停止・残置関係記録』
「昨日見つけた台帳と関連する可能性はあります」
フェリクスが答える。
「でも、同じものとは限らない」
「はい。こちらが研究院へ移された別資料かもしれませんし、複数施設をまとめた記録群かもしれません」
「優先するなら?」
「設備記録です」
その答えにガルムが少し意外そうな顔をする。
「保持対象じゃなく?」
「保持対象は個人記録や医療記録に触れる可能性があります。今必要なのは、西壁や北系統の安全性を確認するための情報でしょう」
「なるほど」
「設備停止・残置関係記録なら、開口せず残置した理由や、壁内設備へ触れてよい条件が残っている可能性があります」
「それで安全を確認してから、必要なら保持対象側?」
「はい」
フェリクスは一度言葉を切る。
「……知りたいのは保持対象の方ですが」
「正直だな」
「興味まで消えたわけではありません」
「消せとは言ってない」
ガルムは腕を組み、少しだけ笑った。
「興味があることと、先に調べていいことは別だろ」
「そういうことです」
リディアは二人の会話を聞きながら、手元の記録へ視線を落とした。
以前のフェリクスなら、目立つ言葉を見つけた瞬間に飛びついていたかもしれない。
今は、自分が何を知りたいのかを認めたうえで、それを後へ回している。
それは好奇心を失ったのではない。
好奇心に順番をつけられるようになったのだ。
「じゃあ、設備側を照会候補に追加します」
リディアが言う。
「お願いします」
「ただし」
ガルムが続ける。
「研究院の返事を待つ間も、現場条件は変えない」
「はい」
「昨夜は光だけだった。音なし」
「はい」
「今夜も同じ位置、同じ人数、同じ観測方法」
「異論ありません」
「壁?」
「触りません」
「床?」
「開けません」
「統合盤?」
「操作しません」
「よし」
フェリクスは額へ手を当てた。
「毎日確認する必要あります?」
「お前が『もう聞かなくていい』って言い始めたら、あと三日は聞く」
「理不尽です」
「信用の積み立て期間だ」
資料室に小さな笑いが広がった。
◇
同じ頃、旧保養施設の別棟では、名前のない子供が朝から木片を持っていなかった。
木片は低い台の上。
昨日移動した「みち」がその隣にあり、「やすみ」は新しい台へ置かれている。
ナディアは何も尋ねない。
子供も何も言わないまま朝食を食べ、顔を洗い、窓際で紙を折っていた。
午前の半ばになってから、子供はふいに顔を上げる。
「ナディア」
「うん?」
「き、ある?」
ナディアは一瞬だけ何を尋ねられたのか分からなかった。
「木片?」
「うん」
「あるよ」
「どこ?」
「昨日あなたが置いたところ」
子供は振り返る。
低い台の上に木片がある。
「あった」
「うん」
「みてなかった」
「そうだね」
「ナディア、うごかした?」
「動かしてないよ」
「だれも?」
「私が知っている範囲では、誰も動かしてない」
断定できる範囲だけを答える。
夜間も職員が部屋へ入ることはあるが、木片へ触れないという本人の希望は共有されている。ただし、ナディア自身が一晩中見張っていたわけではない。
「なくならなかった」
「うん」
子供は木片へ近づく。
触れない。
ただ眺める。
「もたなくても」
「昨日も持たない時間が長かったね」
「うん」
「今日はどうする?」
聞いてから、ナディアは少しだけ眉を寄せた。
子供がこちらを見る。
「きかないって」
「あ」
ナディアは思い出した。
持つかどうかを何度も聞いてほしくない。
子供はそう言っていた。
「ごめん」
「……ごめん?」
「うん。前に、何度も聞かないでほしいって言ってたでしょう?」
「うん」
「今、私から聞いちゃった」
子供は不思議そうにナディアを見る。
「ナディアも、まちがう?」
「間違うよ」
「せんせいは」
言いかけたところで、子供の声が止まる。
ナディアは待った。
「せんせい、まちがわない」
「先生がそう言ってた?」
「……わかんない」
「そう思ってた?」
「うん」
「そっか」
子供は床へ座る。
「ナディア、まちがった」
「うん」
「なおす?」
「直せるところなら」
「どうする?」
「今はもう、持つかどうかを聞かない。あなたが言いたくなったら教えてもらう」
「それで、なおる?」
「全部なかったことにはならないよ。私は一回聞いちゃったから」
「けさない?」
「消さない」
子供は少し考える。
「でも、つぎ、きかない?」
「気をつける」
「ぜったい?」
ナディアは口を開きかけ、閉じた。
「絶対とは言わない」
「なんで?」
「また間違うかもしれないから」
「……また?」
「うん。その時は、また直す」
子供の目がゆっくり大きくなる。
「まちがっても?」
「間違っていい、とは少し違うかな。間違えないようにする。でも間違えた時に、間違ってないことにはしない」
「おこられる?」
「誰に?」
「……わかんない」
「私は、今あなたに教えてもらえてよかったよ」
「ぼくが?」
「うん。『聞かないって言った』って教えてくれたでしょう?」
「いっていい?」
「もちろん」
子供は自分の膝へ視線を落とした。
「せんせいは、いったら……」
その先が出てこない。
ナディアは促さない。
しばらくして、子供は首を振った。
「わかんない」
「分かった」
「いま、のこす?」
「今の話?」
「うん」
「残したい?」
子供は考え込む。
以前なら、ここで「残す」「残さない」のどちらかを選ぶこと自体が大きな負担になっていた。
今日は少し違った。
「ナディア、まちがったの、のこす?」
「私があなたに、持つかどうかを聞いてしまったこと?」
「うん」
「業務の記録として必要なら、私の方の記録に残すよ。あなたの言葉を全部書く必要はない」
「ぼくの、いわない?」
「あなたが『何度も聞かないでほしいと以前伝えていた』ということは、次の人が同じことをしないために必要かもしれない。でも、今の先生の話まで残す必要があるとは思ってない」
子供は黙った。
「いやなら言って」
「……きかないで、は、のこす」
「うん」
「せんせいは、いらない」
「分かった」
「あとで、いるっていってもいい?」
「いいよ」
子供は頷いた。
それから木片には触れず、「みち」だけを持ち上げる。
「これ、もってく」
「どこへ?」
「そと」
「庭?」
「うん」
「分かった」
ナディアは立ち上がった。
木片は低い台へ残されたままだった。
◇
白鴉療養所の三〇八号室では、赤い布包みと小箱が机の上に並んでいた。
昨日、少年は一通の手紙を途中まで読んだ。
『我が息子アルフォンスへ』
そこまで声に出し、その先を少し目で追ったところで読むことをやめた。
今日は朝から小箱へ触れていない。
ヨアヒムも尋ねなかった。
代わりに確認したのは薬のことだけだった。
「今日も白い薬は今の量でいきます」
「減らさない?」
「今朝の時点では、あなたから減らしたいという希望は聞いていません」
「前は減らしたいって言った」
「はい」
「じゃあ、減らすんじゃないの?」
「『いつか減らしたい』と『今日減らしたい』は同じではないでしょう?」
少年は少し考える。
「……今日は、まだ」
「分かりました」
「でも、ずっとこれ?」
「それも決まっていません」
「明日?」
「明日、考えたくなったら考えられます」
「聞く?」
「毎朝必ず聞いてほしいですか?」
少年の眉が寄る。
「毎朝……」
「負担なら、あなたから言ってくれた時に確認する方法もあります。ただ、体調の変化はこちらから確認します」
「薬を減らすかは?」
「毎日選ばなくてもいい」
少年は少しだけ安心したように息を吐いた。
「じゃあ、言う」
「減らしたくなった時に?」
「うん」
「分かりました。ただ、体調によってはすぐ減らせない場合もあります。その時は理由を説明します」
「俺が決めても?」
「あなたの希望だけで薬の安全性が変わるわけではありませんから」
少年は不満そうに口を尖らせる。
「じゃあ俺が決める意味ない」
「あります」
「なんで?」
「あなたが減らしたいかどうかを知らずに、こちらだけで減らすのと、あなたの希望を知ったうえで安全を確認して一緒に進めるのは違います」
「でも駄目って言うかもしれない」
「はい」
「それ、選べてない」
ヨアヒムはすぐには否定しなかった。
「そう感じることはあると思います」
「……ある」
「薬については、何でも本人の希望どおりにできるとは約束できません。急に止めれば身体へ負担が出る可能性があるからです」
「じゃあ先生が決める?」
「私一人でも決めません」
少年が顔を上げる。
「誰?」
「あなたと、私と、必要なら他の医療担当者。それから、あなたの身体の状態です」
「身体?」
「熱がある、眠れない、吐き気がある、頭が痛い。そういうものは、あなたが『減らしたい』と思っていても無視できない」
「俺の身体なのに」
「あなたの身体だからです」
少年は黙り込んだ。
しばらくしてから、机の小箱へ視線を向ける。
「手紙は?」
「手紙?」
「これは俺が決める?」
「読むかどうかは、基本的にはあなたが決められます」
「身体は?」
「読んでひどく具合が悪くなるようなら、休むことを勧めます。でも、薬とまったく同じ扱いにはしません」
「……全部、同じじゃないんだ」
「はい」
少年は赤い布と小箱を見比べた。
「面倒」
「そうですね」
「そこは否定しろよ」
「面倒なものを簡単だと言っても仕方ありません」
少年は一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。
「変な医者」
「よく言われます」
「誰に?」
「主にフェリクスさんに」
「誰だよ」
「知らなくて大丈夫です」
少年の笑みが少しだけ続いた。
今日は小箱を開けない。
だが、それを「読まないと決めた」と記録する必要もなかった。
机にある。
本人も知っている。
読みたくなれば読める。
今はそれだけで十分だった。
◇
午後、塔へ戻ったアルは、アンナマリーとブラートを交えて研究院への追加照会文を確認していた。
ガルムからも意見が届いている。
優先順位は明確だった。
まず『旧施設設備停止・残置関係記録』について、旧保養施設由来の目録が含まれるか確認する。
次に、該当する場合は資料本文へ踏み込む前に、構成項目と年代、移管元だけを確認する。
『保持対象照会簿・旧分類』については、旧保養施設分が含まれるかどうかだけを照会し、個別の対象名や本文閲覧は現時点では求めない。
「これならいいと思う」
アルが言う。
アンナマリーも頷いた。
「私も。個人記録へ踏み込む可能性があるところは明確に止めてある」
「ブラートは?」
「問題ありません。ただ一つ」
「何?」
「研究院側から、照会権限の根拠を求められる可能性があります」
アルは椅子の背へ少し身体を預けた。
「旧王家関連だから?」
「それもあります。現在は廃止された部署の資料でも、旧王家機密区分が残っている可能性がありますから」
「俺の元王太子って立場を使えば早い?」
「早い可能性はあります」
「でも使わない方がいい?」
ブラートは少し考えた。
「私が決めることではありません」
「それ最近みんな言うね」
「主がそういう形を望んでおられますので」
「返ってきたなあ」
アンナマリーが笑う。
「一般の安全調査として照会できるところまでは、それで進めた方がいいと思うわ」
「理由は?」
「あなたが元王太子だから見られた記録なら、次に同じ問題が起きた時、あなたがいなければ調べられないでしょう?」
アルの表情が変わる。
「……それだ」
「でしょう?」
「うん」
自分だけが開けられる扉を増やすことは、問題を解決しているようで、別の依存を作る。
今のリューネでやろうとしていることとは逆だ。
「普通の施設安全調査として必要な資料が、普通の手続きで確認できるか試そう」
「はい」
「それで駄目だったら?」
ブラートが尋ねる。
「その時に考える。王家機密だから見られないのか、個人情報だから駄目なのか、制度上の申請者資格が足りないのか。理由を分けて」
「承知しました」
アンナマリーが照会文へ最後の修正を加える。
「送るわね」
「お願い」
アルはそこで手を離した。
自分で封をしない。
自分の名だけを特別に大きく書かない。
正式な安全確認の照会として、必要な者たちの確認を経て送られる。
それでよかった。
◇
夕方、旧保養施設では、夜間監視へ入る前の引き継ぎが行われていた。
昨夜の記録が読み上げられる。
「午前零時四十一分、統合盤中央よりやや右に微弱発光。色について観測者二名の記載差あり。午前零時四十四分消失。発光中および前後に、音、受動計器の基準値超過、西壁・北側区画の目視変化なし」
ガルムが頷く。
「今夜も同条件」
「了解」
「昨日光った場所へ近づく必要なし」
「了解」
「何も起きなかった時間も記録する」
「了解」
引き継ぎを受けた兵士たちが散っていく。
リディアは残ったガルムへ、小さな紙を差し出した。
「これ、観測担当からです」
「何?」
「提案」
ガルムが読む。
『発光位置の表現について、右・左・中央のみでは観測者差が大きいため、統合盤を接触せず視認可能な範囲で外部基準線を設けたい』
「外部基準線?」
「盤には触れません。床側に離して目印を置き、観測位置から見た区分を統一したいそうです」
「観測条件変わる?」
「床に目印を置くだけなら設備への影響はないと思います。ただ、今までの記録との比較方法は変わります」
「じゃあ今夜はやらない」
「私もそう思います」
「でも却下もしない」
「明日、過去記録とどう接続するか考えてから?」
「ああ」
ガルムは提案書へ『保留・比較方法検討』と書き込む。
改善案が出たからといって、すぐ採用しない。
今までと違うからといって、拒否もしない。
「面倒だな」
ガルムがぼやく。
「何がです?」
「ちゃんと考えるの」
「今さらですか?」
「今さらだよ」
リディアが笑う。
「でも、隊長」
「ん?」
「前より皆、提案するようになりましたね」
ガルムは廊下の先を見る。
確かにそうだった。
最初は、アルや自分が決めた規則を守らせる形だった。
今は監視担当の兵士からも、「この記録方法では曖昧ではないか」「こうした方が比較しやすいのではないか」という意見が出る。
「俺が全部考えなくて済む」
「嬉しいですか?」
「かなり」
「アル様と同じことを言っていますね」
「やめろ」
「なぜです?」
「なんか負けた気がする」
「何の勝負ですか」
リディアの笑い声が、薄暗くなり始めた廊下へ静かに響いた。
◇
夜。
塔の居間では、セリーが自分の左腕の点検をしていた。
机の上には小さな工具が並んでいる。
アルは少し離れた長椅子で本を読んでいたが、ページはあまり進んでいない。
セリーが腕の外装をわずかに開き、内部の接続部を確認する。
以前なら、必要な点検を最後まで終えるまで止めなかった。
だが今日は途中で手を止めた。
「主様」
「ん?」
「お茶にしたいです」
アルは本から顔を上げる。
「点検途中じゃない?」
「はい」
「大丈夫?」
「急を要する異常はありません。残りは明日でも問題ありません」
「じゃあお茶にしよう」
セリーは工具を片づけ始める。
アルも立ち上がった。
「俺が淹れる?」
「……主様が?」
「その間が気になる」
「失礼いたしました」
「そんなに信用ない?」
「お茶を淹れる能力については、私の方が高いと判断しております」
「否定できない」
「ですが」
セリーは少し考える。
「今日はお願いしてみたいです」
「本当に?」
「はい」
「失敗しても?」
「飲めないほどでなければ」
「条件ついた」
アルは笑いながら厨房へ向かった。
湯を沸かし、茶葉を量る。
後ろからセリーがついてくる。
「見張るの?」
「見学です」
「それ、ほぼ見張りじゃない?」
「口は出しません」
「絶対?」
「必要なら出します」
「絶対じゃなかった」
セリーの口元が緩む。
アルは教わった記憶を頼りに茶を淹れた。
湯の温度。
茶葉の量。
待つ時間。
普段ならセリーが何気なくやっていることが、自分でやると意外に気を使う。
「できた」
二つの茶器へ注ぐ。
居間へ戻り、向かいではなく隣へ座る。
セリーが一口飲んだ。
アルは反応を待つ。
「どう?」
「少し濃いです」
「やっぱり?」
「ですが、おいしいです」
「気を遣ってない?」
「気を遣う必要がありますか?」
「俺が落ち込むかもしれない」
「では、正確に申し上げます」
「うん」
「私が淹れた方がおいしいです」
「そこまで正確じゃなくていい」
セリーが笑った。
アルも笑う。
「でも飲める?」
「はい」
「じゃあ成功」
「そうですね」
しばらく二人で茶を飲む。
今日は手をつないでいない。
それでも距離は近い。
アルはそれを不満に思わなかった。
つなぎたい時につなぐ。
つながない時間があるからといって、昨日までの時間が消えるわけではない。
「主様」
「ん?」
「今日、研究院から目録が届きましたね」
「うん」
「嬉しかったですか?」
「かなり」
「答えはありませんでした」
「そうなんだけどね」
アルは茶器を両手で包む。
「前なら、答えが書いてない返事を見たら苛々したかも」
「現在は?」
「次に何を聞けばいいか分かったから、それでいいかなって」
「はい」
「でもさ」
「何でしょう?」
「『保持対象照会簿』はすごく気になる」
「私もです」
「セリーも?」
「はい」
「珍しいね」
「そうでしょうか」
「もっと『安全確認を優先しましょう』って言うかと思った」
「それも思っております」
「両方?」
「はい。気になりますが、今すぐ見るべきだとは思っておりません」
アルは笑った。
「同じだ」
「はい」
セリーの手が、長椅子の上でアルの手の近くへ置かれる。
触れてはいない。
ほんの少しの隙間がある。
アルはその隙間を見た。
「セリー」
「はい」
「今、手つなぎたい?」
セリーも二人の手を見る。
少し考えたあと、首を横へ振った。
「今は、このままがいいです」
アルの胸がほんの少しだけ揺れた。
寂しい、というほどではない。
だが昨日まで何度も手をつないでいたから、一瞬だけ意外に感じたのは確かだった。
「そっか」
「嫌でしたか?」
「ちょっと意外だった」
「はい」
「でも大丈夫」
アルは自分の手を動かさなかった。
「今つなぎたくない?」
「つなぎたくない、というより」
セリーは言葉を探す。
「触れていなくても、近くにいたいと思いました」
アルは瞬きをした。
「……それ、結構嬉しいこと言ってない?」
「そうでしょうか」
「うん」
「では、嬉しいですか?」
「嬉しい」
セリーの肩から少し力が抜ける。
二人の手の間には、指一本ほどの隙間が残っている。
触れていない。
けれど離れてもいない。
その距離を、今夜はどちらも変えなかった。
◇
深夜。
旧保養施設では、何も起きていなかった。
午前零時を過ぎても統合盤は暗いまま。
北側から音はしない。
西壁も変わらない。
受動計器も基準範囲内。
一時。
二時。
監視担当者は交代しながら、変化なしの記録を続ける。
午前三時二十六分。
それでも何も起きなかった。
午前四時。
空がわずかに白み始める。
最後の記録欄へ、担当兵が文字を書く。
『夜間を通じ、確認可能な新規変化なし』
それだけだった。
朝の引き継ぎを受けたガルムは、その一行を読んで頷く。
「いい夜だったな」
横にいたリディアが少し驚いたように見る。
「何もありませんでしたよ?」
「だからだよ」
「調査としては?」
「何も起きない日があるって分かった」
「なるほど」
ガルムは記録を閉じる。
毎晩光るわけではない。
毎晩音がするわけでもない。
発光があれば音が伴うわけでもない。
北側で何かが起きた次に西側で起きるとも限らない。
何も起きなかった夜もまた、都合の悪い空白ではなく、必要な記録だった。
その時、資料室からフェリクスが出てきた。
「隊長」
「なんだ?」
「研究院へ追加照会を送ったそうですね」
「ああ」
「返事はいつ頃でしょう」
「知らん」
「気になります」
「待て」
「分かっています」
「壁は?」
「触りません」
「研究院へ自分で乗り込む?」
「行きません」
「地下三階を探す?」
「そもそも現在も地下三階と呼ばれているか分かりません」
「よし」
「……最後の質問、試しましたね?」
「気づいたか」
「気づきます」
リディアが二人の横を通り過ぎながら、呆れたように息を吐く。
「朝食にしましょう。二人とも」
「賛成」
「私もです」
三人は資料室を離れた。
その背後には、古い記録が残っている。
壁も閉じたまま。
研究院の地下に何があるのかも、保持対象照会簿に何が記されているのかも、まだ誰も知らない。
けれど、分からないものを前にして、誰も止まっているわけではなかった。
触れないまま調べる。
読まないまま存在を確かめる。
決めないまま考える。
そして、何も起きなかった夜さえ残していく。
答えへ向かう道は、扉を開くことだけではなかった。




