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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第105話 前と同じでなくても



 王立魔導研究院へ追加照会を送った翌朝、古の塔の食堂には焼きたてのパンと野菜のスープの匂いが満ちていた。


 アルは窓際の席に座り、まだ少し眠そうな顔で湯気の向こうを眺めている。


 昨夜は旧保養施設で目立った変化がなかった。


 統合盤の発光も、北側や西壁からの金属音もなく、受動計器にも基準値を超える変化は出ていない。観測担当はその「何も起きなかった」という事実を、他の日と同じように記録していた。


 そして今朝も、研究院から新しい返書は届いていない。


「静かだね」


 アルがパンをちぎりながら言った。


「はい」


 向かいではなく隣に座ったセリーが答える。


「旧保養施設も静か。研究院からも返事なし。町から緊急連絡もなし」


「良いことでしょうか?」


「たぶん」


 アルは少し考えてから、スープを口へ運んだ。


「昔の俺だったら、何も進んでないって思ったかもしれない」


「現在は違いますか?」


「何も壊れてないし、誰も無理してないし、待つものを待ててる。それも進んでるって思えるようになった」


 セリーは小さく頷く。


「それなら、本日は少し休まれますか?」


「……その流れでそれ言う?」


「自然な流れかと」


「俺が自分から『暇だ』って言ったみたいになってる」


「暇なのですか?」


「違うよ」


「では、午前中は何を?」


「町の試行記録を見る。昨日までで何か増えてるはず」


「承知しました」


「その後は……」


 アルが考える。


 研究院の返書を待つ。


 旧保養施設から何か来れば確認する。


 だが、返事が来るかもしれないからと一日中机の前へ座っている必要はない。


「昼からは決めてない」


「はい」


「決めてないままでもいい?」


「もちろんです」


 アルは笑った。


「じゃあ、そうする」


 食事へ戻ろうとしたところで、エルの声が響いた。


『アル』


「ん?」


『リューネ町役場より通常連絡があります。緊急性はありません』


「内容は?」


『試行中の相談記録運用について、一名の住民から要望がありました』


「問題?」


『担当職員は「問題と断定せず、本人の要望として確認したい」と記録しています』


 アルの手が止まった。


「いい書き方だね」


『はい』


「何を希望してる?」


『過去の相談記録を、今回の相談では使用しないでほしいとのことです』


 アルはセリーを見る。


 昨日まで話し合っていた問題と、少し違う。


 前の記録を使えば、本人が同じ説明を何度も繰り返さずに済む。


 それは負担を減らすために考えた仕組みだった。


 けれど。


「行ってみようかな」


 アルが言う。


「町へ?」


「うん。ただし、その人と直接話す必要があるかは向こうで確認する。俺に会いたいわけじゃないかもしれないし」


「同行いたします」


「セリーは?」


「私も行きたいです」


「じゃあ一緒に行こう」


 アルは残っていたパンを口へ運んだ。


 研究院の返事はまだ来ていない。


 旧保養施設も静かだ。


 だからこそ、今起きている小さな問題へ時間を使える。


 それは悪くない朝だった。


     ◇


 リューネ町役場へ着いた時、相談窓口はすでに開いていた。


 入口近くには数人の住民が待っており、受付職員が一人ずつ話を聞いている。試行開始前と比べれば机の配置も少し変わり、相談者同士の声が聞こえにくいよう、簡易の仕切りも置かれていた。


 アルとセリーは裏手の会議室へ入る。


 そこにはハンスとイーダ、それから今朝の相談を担当した女性職員が待っていた。


「来たわね」


 イーダが言う。


「呼ばれてないけどね」


「じゃあ帰る?」


「ひどくない?」


「冗談よ」


 ハンスが苦笑する。


「朝から元気だな、お前ら」


「それで、相談した人は?」


 アルが席へ座りながら尋ねた。


「今は帰ってもらってる」


 ハンスが答える。


「本人が、俺と話したいって?」


「いや」


「じゃあ直接会わない方がいいね」


「俺たちもそう思った」


 アルは頷いた。


「何があった?」


 担当職員が手元の記録を開いた。


「相談者はエルザ・ノイマンさん。以前、生活支援の相談で何度か役場を利用されています」


 新しく耳にする名前だった。


「今回も生活支援?」


「一部は関係しますが、主な相談は仕事です。以前より勤務日数が増えたため、現在受けている支援の一部をどうするか相談したいとのことでした」


「それなら前の記録が役に立ちそうだけど」


「はい。ですので、私は最初に『以前の相談記録を参考にしてよいですか』と確認しました」


「エルザさんは?」


「最初は『あるなら』と答えました」


 アルの眉が少し動く。


「最初は?」


「記録を確認しながら話を進めたところ、途中で『やっぱり前のは見ないでほしい』と言われました」


「理由は聞いた?」


「はい。ただ、答えたくなければ答えなくてもよいと伝えています」


「それで?」


「『あの時と今は違うから』と」


 会議室が静かになる。


 アルはその言葉を頭の中で繰り返した。


(あの時と今は違う)


「前の記録に間違いがあった?」


「そこも確認しました。本人は『間違ってない』と答えています」


「間違ってないけど、使ってほしくない」


「はい」


「その後は?」


「記録を閉じました。今回の相談は、本人から改めて話していただいた内容だけで進めています」


「支援上の危険は?」


「現時点では確認されていません。緊急性もありません」


 アルは椅子へ深く座り直した。


 過去の記録が正しい。


 それでも使ってほしくない。


 少し前までなら、非効率だと感じたかもしれない。


「本人は、今後も全部使わないでほしいって?」


「そこまでは言っていません」


「じゃあ、今回だけ?」


「それも確認できていません」


「聞かなかった?」


 職員は少し不安そうな顔になる。


「聞こうか迷いました。ただ、その場で細かく決めてもらうこと自体が負担になる気がして……」


「うん」


「ですので、『今日は前の記録を閉じます。次に来られた時も同じようにしてほしければ、その時に言ってください』とだけ伝えました」


「エルザさんは?」


「『それでいい』と」


 アルはしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり頷く。


「俺は、それでよかったと思う」


 職員の肩から少し力が抜ける。


「ただ」


 アルが続けると、再び背筋が伸びた。


「俺がそう思うだけだから、これをそのまま全員の規則にはしない方がいい」


「はい」


「一人が前の記録を使ってほしくなかったから、これから全員に毎回『使いますか、使いませんか』って聞き始めたら、それはそれで疲れる人が出る」


 イーダが腕を組む。


「結局そこよね」


「うん」


「記録を使うことで説明を繰り返さなくて済む人もいる。でも、前の自分を毎回持ち出されたくない人もいる」


 ハンスが記録を見ながら呟く。


「正しい記録でも、か」


「むしろ正しいから嫌なこともあるのかも」


 アルが言う。


「どういう意味?」


「例えば、すごく困ってた時のことが正確に残ってる。それを今の自分の説明に毎回使われたら、『今もその時と同じ人として見られてる』って感じる人もいるんじゃないかな」


 もちろん、エルザがそう感じたと決めつけることはできない。


 本人が言ったのは「あの時と今は違うから」だけだ。


「今のは俺の想像ね」


 アルは付け加えた。


「エルザさんがそう思ってるって記録にはしないで」


「はい」


 担当職員が頷く。


 セリーはそれまで黙って聞いていたが、机の上の記録へ目を向けた。


「一つ、よろしいでしょうか」


「うん」


「以前の記録を使用しないことと、以前の記録を消すことも分けた方がよいと思います」


「そうだね」


 ハンスが顔を上げる。


「本人は消してほしいとは言ってない」


「はい。今回の相談では参照しない。しかし、過去にその相談があった事実まで消えたわけではありません」


「じゃあ記録には?」


 職員が尋ねる。


 アルはすぐ答えず、彼女を見る。


「あなたはどう書こうと思った?」


「……『本人希望により過去記録参照中止』です」


「俺は分かりやすいと思う」


 イーダも頷く。


「私も」


「理由は?」


「本人が残していいと言った範囲だけなら、『本人より「あの時と今は違う」との発言あり』を別に残そうかと思いました」


「本人に確認した?」


「まだです」


「なら、そこは確認してからだね」


「はい」


 話し合いは続いた。


 過去記録を使わない選択をどこまで次回へ引き継ぐのか。


 受付時に毎回確認するのか。


 相談者が自分から言えるよう、窓口に簡単な案内を置くのか。


 だが、その場で最終的な規則は決めなかった。


 まずはエルザの要望を、その人自身のものとして扱う。


 そこから他にも同様の希望が出るかを見ていく。


「試行なんだから、試行中に仕組みを直してもいいのよね?」


 イーダが確認する。


「そのための試行でしょ」


 アルが答える。


「途中で変えたら失敗、じゃない?」


「危ないって分かったのに変えない方が失敗じゃないかな」


 ハンスが笑った。


「それ、役場の壁に貼りたいな」


「やめて。俺の言葉みたいに残すの恥ずかしい」


「じゃあ名前なしで」


「もっと嫌だよ。格言みたいになる」


 担当職員が思わず笑う。


 緊張していた会議室の空気が、少しだけ柔らかくなった。


     ◇


 その頃、旧保養施設では、前夜に提案された観測用の外部基準線について検討が行われていた。


 統合盤へ直接触れず、床側の離れた位置に目印を設け、観測者が「中央」「右」「左」と表現する際の基準を揃える。


 単純な改善案に見える。


 だが、リディアはすぐには設置しなかった。


「過去記録と比較できなくなる可能性があります」


 廊下の机へ図面を広げながら説明する。


 ガルム、フェリクス、それから提案を出した観測担当兵のトーマス・ベルンが立っていた。


 トーマスは第三分隊所属の若い兵士で、夜間観測へ複数回入っている。今後も観測担当として継続する可能性が高いため、ガルムは今回から名前で記録へ残すことにした。


「例えば、今まで『中央よりやや右』って書いてた場所が、新しい区分だと『第二右区画』になるとするだろ?」


 ガルムが尋ねる。


「はい」


「前の『中央よりやや右』と同じ場所か?」


「完全には保証できません」


 トーマスが答えた。


「ですので、今までの記録を新しい区分へ書き換えるつもりはありません」


 フェリクスが顔を上げる。


「それは重要ですね」


「新しい基準を使い始めた日から、記録方法が変わったこと自体を残すつもりでした」


「過去記録は過去の表現のまま?」


「はい」


「新しい記録には、新基準と、可能なら従来表現も併記?」


「最初の数日はその方がいいと思っています」


 リディアが頷いた。


「それなら比較の断絶は少なくできます」


 ガルムはトーマスを見る。


「なんでこれ考えた?」


「昨夜の引き継ぎで、同じ発光を見た二人の表現が少し違っていたので」


「困った?」


「困ったというより……」


 トーマスは少し考える。


「後から記録を読む人が、別の場所が光ったと思うかもしれないと感じました」


「なるほど」


「ただ、私たちが勝手に床へ線を引くのも違うと思ったので、提案にしました」


 ガルムの口元が少し上がる。


「いい判断だ」


 トーマスがわずかに姿勢を正した。


「ありがとうございます」


「でも線は引かない」


「はい?」


「床へ直接は書かない。何が床下にあるか分からん」


「あ……」


「盤に触れないよう気をつけて、床をいじって何か起こしたら笑えない」


 フェリクスが真面目な顔で頷く。


「完全に同意します」


「お前が言うと妙に不安だな」


「なぜです?」


「床を開けたい顔してる」


「開けませんよ」


「今は?」


「今後も許可なく開けません」


「よし」


 リディアが図面の端を指す。


「自立式の目印にしましょう。床にも壁にも固定せず、観測位置から見えるところへ置く。設備から十分距離を取る」


「倒れたら?」


 トーマスが尋ねる。


「軽い紙じゃなく、低い木製台に印を付ける。人がぶつからない位置で」


「それなら設備への影響はほぼないですね」


 フェリクスが言う。


「ただし、『ない』じゃなくて『現時点で想定される影響は極めて小さい』くらいにしておきましょう」


 ガルムがフェリクスを見る。


「本当にお前か?」


「失礼ですね」


「昔なら『大丈夫です、やりましょう』だった」


「人は変わります」


「そうだな」


 ガルムは笑った。


「じゃあ試す。ただし今夜からじゃない」


「なぜです?」


「昼間に設置位置を決めて、全員が同じ場所から見えるか確認する。過去記録との対応表も作る。それからだ」


 トーマスが頷く。


「了解しました」


「提案したお前も最後まで付き合え」


「はい」


 自分が出した案が、上官に取られて勝手に別物へ変わるのではない。


 危険を確認し、他の者と修正しながら形になっていく。


 トーマスは図面を見ながら、ほんの少しだけ嬉しそうに息を吐いた。


     ◇


 町役場での確認を終えたアルとセリーは、昼前の通りを歩いていた。


 今日は手をつないでいない。


 昨夜もつながなかった。


 それでも二人の間に気まずさはなかった。


 市場近くの焼き菓子屋から甘い匂いが漂ってくると、アルの足がわずかに遅くなる。


 セリーが気づいた。


「召し上がりますか?」


「いや」


「そうですか」


「……見るだけ」


「はい」


 二人は店先へ近づいた。


 木の台には小さな焼き菓子が並び、蜂蜜を塗ったもの、乾燥果実を混ぜたもの、木の実を載せたものなど種類が多い。


「これ新しいな」


 アルが指差す。


 薄く焼いた生地の中央に赤い果実の煮詰めたものが載っている。


「お買いになりますか?」


「見るだけって言ったから」


「考えを変えてはいけないのですか?」


 アルが横を見る。


 セリーは真顔だった。


「……昨日から、そういう使い方上手くなってない?」


「何のことでしょう?」


「絶対分かってるよね」


「分かりません」


「ちょっと笑ってる」


 セリーの口元は確かにわずかに上がっていた。


「一つ買う」


「はい」


「セリーも食べる?」


「半分いただきたいです」


「一個ずつじゃなく?」


「主様と同じものを食べたいです」


 アルは一瞬だけ黙った。


「……そういうの急に言うのずるい」


「何がでしょう?」


「何でもない」


 一つ購入し、近くの広場にある長椅子へ座る。


 菓子を二つに割る。


 アルの方が少し大きい。


「これ、俺の方が大きい?」


「はい」


「交換する?」


「そのままで結構です」


「本当に?」


「はい」


 セリーは小さい方を受け取った。


 二人で同時に食べる。


 果実の酸味が思ったより強く、そのあとから蜂蜜の甘さが来た。


「うまい」


「はい」


 セリーも満足そうだった。


 広場では子供たちが走り回り、荷車を引く商人が大通りを通り過ぎていく。少し離れたところでは二人の婦人が立ち話をしており、その向こうでは犬が日向で寝ていた。


 アルは隣を見る。


 セリーは残った菓子をゆっくり食べている。


「セリー」


「はい」


「昨日、手つながなかったじゃん」


「はい」


「今日も今はつないでない」


「はい」


「でも、別に遠くなった感じしないな」


 セリーは食べ終えた指先を布で拭きながら、少し考えた。


「私もです」


「前は、何か変わったら、その変化を続けないと戻っちゃう気がしてた」


「手をつないだなら、次もつながなければならない、と?」


「たぶん」


「現在は?」


「つなぎたい時につなげばいいと思ってる」


「はい」


「セリーがつなぎたくない日があっても、嫌われたって意味じゃない?」


「少なくとも、昨日は違います」


「昨日は?」


「今後、私が主様を嫌いになった場合まで、今ここで否定することはできません」


 アルが固まった。


「そこは『ずっと嫌いになりません』とか言ってくれない?」


「嘘になる可能性のある約束をお望みですか?」


「……いや」


「では」


「でも結構刺さるなあ」


 セリーが少し困ったようにアルを見る。


「現在は、嫌いではありません」


「それは知ってる」


「とても大切です」


「……うん」


「一緒にいたいです」


「うん」


「これでは足りませんか?」


 アルは頬を掻いた。


「十分です」


「よかったです」


 その時、セリーの手が長椅子の上を少し動いた。


 アルの小指へ触れる。


 昨日は触れなかった指が、今日は自然に重なった。


「今日は?」


 アルが小さく尋ねる。


「今日は、少し触れたいです」


「俺も」


 小指だけ。


 手のひらまでは重ねない。


 それで十分だった。


     ◇


 旧保養施設の子供は、昼食のあとも木片を持たなかった。


 庭へ出た時に持っていったのは「みち」だけだった。


 ナディアは少し離れた位置から見守っている。


 子供は庭の端にある石畳をゆっくり歩き、途中でしゃがみ込んだ。


 地面に小さな蟻がいる。


「ナディア」


「なあに?」


「これ、どこいく?」


「蟻?」


「うん」


「分からないなあ」


「みち、ある?」


「蟻の道?」


「うん」


「たぶんあるんじゃないかな。私にはよく見えないけど」


 子供は手に持っている紙の「みち」を見る。


「これと、ちがう?」


「違うと思う」


「これは、ぼくの」


「うん」


「ありのじゃない」


「そうだね」


 子供は少し考え、それから「みち」を膝の上へ置いた。


 蟻は石の隙間を通り、そのまま草の陰へ消えていく。


「いなくなった」


「見えなくなったね」


「なくなった?」


「見えないだけかもしれない」


「わかんない?」


「うん」


 子供はしばらく草の陰を見ていた。


「わかんない、いっぱい」


「そうだね」


「いや?」


「私は?」


「うん」


「嫌な時もあるよ」


「いまは?」


「今は、蟻がどこへ行ったか分からなくても平気」


「なんで?」


「困ってないからかな」


 子供は紙の「みち」を持ち直す。


「ぼく、き、どこあるか、わかる」


「うん」


「へや」


「うん」


「みてない」


「今は見えないね」


「でも、ある?」


 ナディアは一瞬考えた。


「部屋を出る時にはあったよ。そのあと誰かが動かしたという連絡も受けてない。でも、今ここから見て確かめることはできない」


 子供の眉が少し寄る。


「あるって、いわない?」


「絶対あるって見たみたいには言わない。でも、あると思ってるよ」


「……むずかしい」


「うん」


「ナディア、へん」


「それはたまに言われる」


「だれに?」


「同僚に」


「どうりょう?」


「一緒に働いてる人」


「おこる?」


「時々」


「ナディア、まちがうから?」


「それもある」


 子供が小さく笑った。


 ナディアも笑う。


 そのあと、子供は木片を確かめるために部屋へ戻ろうとは言わなかった。


 蟻が消えた草の陰をもう少し見てから、今度は庭の反対側へ歩いていく。


 ナディアはその背中を追いながら、何も記録しようとはしなかった。


 木片を確認しに戻らなかった。


 以前なら意味のある変化として残したくなったかもしれない。


 けれど今日は、ただ庭で蟻を見た。


 それだけでもいい。


     ◇


 午後遅く、白鴉療養所では、三〇八号室の少年が窓際に座っていた。


 机の上には赤い布包みと、一通だけ入った小箱がある。


 ヨアヒムが診察を終えようとした時、少年が言った。


「なあ」


「はい」


「手紙、今日読まない」


「分かりました」


「でも」


 少年は小箱を見る。


「戻さない」


「残りの手紙のところへ?」


「うん」


「分かりました」


「変?」


「いいえ」


「昨日、途中でやめたから」


「はい」


「今日読まないなら、戻した方がいい?」


「あなたはどうしたいですか?」


「ここに置いときたい」


「なら、そうしましょう」


「明日も読まないかも」


「はい」


「ずっとかも」


「はい」


「……気にならない?」


「私は?」


「うん」


「何が書いてあるかは気になります」


 少年が少し驚いた顔をする。


「気になるの?」


「人間ですから」


「医者なのに?」


「医者でも気になります」


「じゃあ読めば?」


「私宛てではありません」


「俺がいいって言ったら?」


「その時に、なぜ私に読ませたいのかを確認します」


「すぐ読まない?」


「たぶん」


「面倒」


「昨日も言われました」


 少年が少し笑う。


 その笑みが消えたあと、小箱を指先で軽く押した。


「俺さ」


「はい」


「『我が息子』って書いてあった」


「はい」


「王様が書いたなら、俺が王子ってことだよな」


 ヨアヒムは慎重に答える。


「その手紙が誰によって、誰へ向けて書かれたものなのかを確認できれば、判断材料にはなります」


「書いてあるじゃん」


「差出人について、あなたは王からの手紙だと聞いている。宛名にはアルフォンスとある。それは分かっています」


「じゃあ」


「ですが、それだけで今のあなたの身元すべてを私が断定することはできません」


 少年の顔から笑みが消える。


「またそれ」


「はい」


「みんな俺を信じない」


「あなたが『自分はアルフォンスだ』と思っていることを、嘘だとは言っていません」


「同じだろ」


「同じではありません」


「何が違うんだよ」


 少年の声が少し強くなる。


 ヨアヒムは姿勢を変えない。


「あなたがそう思っていることと、それを証明するための情報が十分に揃っているかは別です」


「本物がここにいるのに」


「あなたはそう考えている」


「そうだよ!」


 少年の手が小箱の縁を強く掴む。


 呼吸が速くなる。


 ヨアヒムはすぐに手紙へ話を戻さない。


「少し休みますか?」


「話そらすな!」


「そらしていません。息が速くなっています」


「だから何だよ!」


「苦しくなる前に気づいてほしいだけです」


 少年は何か言い返そうとして、止まった。


 肩が上下している。


「……水」


「はい」


 ヨアヒムが水差しを示す。


「自分で取れますか?」


「取れる」


 少年は自分で杯へ水を注ぎ、ゆっくり飲む。


 しばらくすると呼吸が落ち着いてきた。


「俺、怒った」


「はい」


「薬のせい?」


「今の時点で、そう判断する理由はありません」


 少年が顔を上げる。


「じゃあ?」


「あなたが怒った。それだけでも説明は成立します」


「……怒っていい?」


「人を傷つけたり、自分を傷つけたりする行動は止めます。でも、怒ったこと自体を病気にはしません」


 少年は杯を両手で持ったまま黙った。


「先生は」


 また、その言葉が出る。


「怒ると、薬……」


 眉間に皺が寄る。


「分かんない」


「分からない?」


「なんか……あった気がする。でも、分かんない」


「今、思い出そうとしますか?」


 少年は首を横へ振った。


「しない」


「分かりました」


「記録する?」


「『怒った』ことを?」


「うん」


「診療上必要な範囲では、感情が強くなって呼吸が速くなったことと、水を飲んで落ち着いたことは残します。ただ、『怒ったから判断がおかしい』とは書きません」


「先生のことは?」


「今の『何かあった気がするが分からない』という部分?」


 少年は少し迷う。


「……いまは、書かない」


「分かりました」


「あとで変えても?」


「はい」


 少年は小箱から手を離した。


 手紙は読まない。


 戻さない。


 思い出そうともしない。


 今日は、それで終わった。


     ◇


 夕刻。


 塔へ戻ったアルを待っていたのは、研究院からの返書ではなかった。


「旧保養施設?」


『はい』


 エルが答える。


『観測基準改善案について、ガルムより報告があります』


「問題?」


『いいえ。観測位置表現の差を減らすため、設備へ接触しない自立式目印を導入する案です』


 アルは記録室へ入りながら説明を聞いた。


 アンナマリーもすでに来ている。


「現場から出た案なんだって?」


「ええ。トーマス・ベルンという観測担当の兵士から」


「トーマス」


 アルは名前を繰り返す。


「継続して観測に入る?」


「その予定みたい」


「じゃあ覚えとこう」


 エルが表示した図には、統合盤から十分離れた床上へ低い自立式目印を置く案が描かれている。


「床に固定しない」


「ええ」


「壁にも触らない」


「ええ」


「最初は従来表現も併記する」


「過去記録との比較を切らないため」


「いいと思う」


 アルは図を眺める。


「でも、俺の許可いる?」


 アンナマリーが一瞬止まった。


「ガルムも同じことを言っていたわ」


「じゃあ何でこっちに?」


「共有よ」


「あ」


「許可申請ではなく、観測方法が変わるから情報共有」


「……なるほど」


 アルは少し恥ずかしくなった。


(まだ何でも自分に決めさせに来たって思う癖があるんだな)


「じゃあ『了解』だけ返して」


「賛成とも言わないの?」


「現場で危険を確認して決めたなら、それでいい。俺が図だけ見て上から許可する必要ない」


「分かったわ」


「それと、トーマスの名前も記録に残して」


「提案者として?」


「本人が嫌じゃなければ」


「確認してもらう?」


「うん。仕組みだけ残って、誰がどういう困り方をして提案したのか全部消えると、後で理由が分からなくなるかもしれないから」


 アンナマリーが少し考える。


「でも、名前を残す必要があるかは別ね」


「そう。本人が名前まで残したくなければ、役割だけでもいい」


「分かった」


 アルは椅子へ座る。


 今日の町役場で聞いたエルザの言葉を思い出す。


『あの時と今は違うから』


 過去を消さなくてもいい。


 けれど、過去が今を決め続ける必要もない。


 それは人だけではなく、記録や制度にも当てはまるのかもしれない。


     ◇


 その夜、旧保養施設では新しい目印をまだ使わず、従来どおりの観測が続いていた。


 過去との接続表を作るまでは条件を変えない。


 午前一時。


 変化なし。


 午前二時。


 変化なし。


 午前二時四十八分。


 統合盤の右寄りで、ごく弱い青白い光が確認された。


 二名の観測担当が、それぞれ別に記録する。


 一人は『中央より右、以前の右側発光に近いように見えるが同一位置とは断定不能』。


 もう一人は『右側。ただし中央寄りか外側寄りか判断困難』。


 発光は続いた。


 誰も近づかない。


 午前二時五十分。


 音はない。


 受動計器も基準範囲内。


 午前二時五十二分。


 光はまだ弱く残っている。


 そして、午前二時五十三分。


 北側でも西壁でもない方向から、小さな音がした。


 観測担当の一人が顔を上げる。


 もう一人も同時に反応した。


 音は一度だけ。


 乾いた金属音とは少し違う。


 何か硬いものが、遠くで木か石へ軽く触れたような音。


 担当兵はすぐ記録する。


『南東方向と感じた』


 もう一人は、


『東寄り。南北位置は不明』


 と書いた。


 音源を確かめに行かない。


 互いの記録を見せ合わないまま、先に自分の認識を残す。


 午前二時五十五分。


 青白い光が消えた。


 その後、変化なし。


     ◇


 夜明け前。


 ガルムは二枚の観測記録を机の上へ並べていた。


 リディアとフェリクスもいる。


「南東と東」


 ガルムが言う。


「はい」


「北でも西でもない」


「少なくとも観測者の認識では」


 リディアが補足する。


「発光中に音」


「はい」


「だから関係ある?」


「分かりません」


 フェリクスが答えた。


「いい返事だ」


「もう褒めなくて結構です」


「でもさ」


 ガルムは二枚の記録を見る。


「もし前までの音を『北側設備の音』って決めてたら、今日のこれはどうしてたと思う?」


 フェリクスが黙る。


 リディアが先に答えた。


「別現象として切り捨てるか、無理に北側設備から音が伝わったと解釈したかもしれません」


「だよな」


「今は?」


「東で聞こえた。それ以上でも以下でもない」


 ガルムは記録を閉じる。


「新しい目印、早めに役立ちそうだな」


「音の方向にも基準が必要でしょうか?」


 フェリクスが尋ねる。


「いきなり増やすな」


「提案しただけです」


「まず発光位置の方を試す。音は観測者の位置でも変わる」


「はい」


「それに」


 ガルムは窓の外を見る。


 東の空が、わずかに明るくなり始めている。


「前と同じことが起きるって決めて待ってたら、違うものを見落とす」


 フェリクスは記録へ視線を落とした。


 北。


 西。


 今度は東寄り。


 発光がある夜。


 音だけの夜。


 何もない夜。


 古い設備が残っている理由も一つではない。


 同じように見える現象が、本当に同じ原因なのかも分からない。


「研究院の返事が楽しみですね」


 フェリクスが言った。


「話飛んだな」


「飛んでいません。今ある記録だけで一つの説明にまとめるのが難しくなったので、古い設備資料がさらに必要になりました」


「なるほど」


「ただし」


 フェリクスは自分から続ける。


「返事が来ても、書いてあることを現在の設備へそのまま当てはめません」


 ガルムが笑う。


「それならいい」


     ◇


 同じ朝。


 塔では、アルがまだ眠っていた。


 セリーは先に目を覚まし、静かな廊下を歩いて食堂へ向かう。


 昨夜、二人は小指だけを触れ合わせた。


 そのまま少し話し、別々の部屋へ戻った。


 昨日は手をつながなかった。


 その前は、手のひらまで重ねた。


 今日はまだ何も決めていない。


(今日は、どうしたいでしょう)


 セリーは自分へ問いかける。


 すぐに答えは出ない。


 それでも不安にはならなかった。


 昨日と同じでなくてもいい。


 昨日より先へ進まなくてもいい。


 少し戻ったように見えても、それだけで失ったことにはならない。


 厨房へ入り、朝食の準備を始める。


 今日は蜂蜜を使わない。


 代わりに、少し塩気のある卵料理を作ろうと思った。


 主が昨日甘い菓子を食べていたから、という理由もある。


 けれど、それだけではない。


(私が、今日はこれを作りたい)


 そう思った。


 その気持ちに気づいたセリーは、誰もいない厨房でほんの少し微笑んだ。


 やがて廊下の向こうから足音がする。


「おはよう、セリー」


「おはようございます、主様」


 眠そうなアルが入ってくる。


「今日、甘くないんだ」


「はい」


「なんで?」


「私が、こちらを作りたかったからです」


 アルは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、とても嬉しそうに笑った。


「そっか」


「はい」


「じゃあ食べたい」


「どうぞ」


 二人はいつもの席へ向かう。


 今日も隣。


 手はつながない。


 けれど、アルは座る前にセリーの肩へ自分の肩をほんの少しだけ触れさせた。


 セリーがこちらを見る。


「これくらいは?」


「はい」


 それだけ確かめ、二人は席へ着いた。


 前と同じでなくてもいい。


 違うことが、失うこととは限らない。


 町の記録も、古い施設の観測も、薬を減らす時期も、読みかけの手紙も、木片との距離も、二人の触れ方も。


 昨日の形を今日まで守り続けることだけが、積み重ねではなかった。


 窓から朝日が差し込み、湯気の立つ食卓を柔らかく照らしている。


 その朝、王立魔導研究院からの次の返書はまだ届いていなかった。


 だから二人は、返事を待ちながら朝食を食べた。


 待っている時間まで急いで何かに変える必要はなかった。

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