第106話 返ってきた目録
朝食を終えたあとも、アルはすぐに記録室へ向かわなかった。
昨日までなら、王立魔導研究院から返書が届いていないかを確認するため、食器を片づけた直後にエルへ尋ねていたかもしれない。けれど今朝は、セリーが自分で作りたいと言って選んだ卵料理の余韻を残したまま、二人で食堂の窓を少しだけ開け、庭から入り込んでくる涼しい風にしばらく当たっていた。
空は薄い雲に覆われているものの雨の気配はなく、塔を囲む木々の葉が風に揺れるたび、乾いた擦れ合う音が窓辺まで届く。食卓にはまだ二人分の茶が残っており、セリーは片づけを急がず、アルもそれを手伝おうとはせずに椅子へ座っていた。
「主様」
「ん?」
「先ほどから、三度ほど廊下をご覧になっています」
茶器へ伸ばしかけていたアルの手が止まった。
「……見てた?」
「はい」
「三回?」
「正確には四回です。一度目は食事中でしたので、数えない方がよいかと思いまして」
「そこまで分かってるなら、もう聞かなくてもいい気がする」
苦笑しながら茶を口へ運ぶと、セリーもわずかに目元を和らげた。研究院からの返事を待っていることを隠すつもりはない。ただ、待つことを覚えたからといって、気にならなくなったわけでもなかった。
(待てることと、気にしないことは別なんだよな)
昨日、自分でそう思えるようになったばかりだった。それなのに「待てる人間なら平然としていなければならない」と考え始めれば、結局は別の形で自分を縛ることになる。
「気になるよ」
アルが素直に言うと、セリーは頷いた。
「はい」
「かなり」
「存じております」
「返事が来たら、すぐ見たい」
「それもよろしいと思います」
「でも、まだ来てないなら催促はしない」
「はい」
「……こうやって口に出すと、すごく普通のこと言ってるだけだな」
「普通のことを普通に行えるようになるまで、時間が必要な場合もあります」
アルは返事の代わりに肩をすくめた。少し前の自分なら、その言葉を褒められたように感じて居心地が悪くなったかもしれないが、今はそこまで構えずに受け取れる。
やがてセリーが空になった皿を重ね、アルも自分の茶器を持って立ち上がった。二人で厨房へ向かおうとした、その時だった。
『アル』
エルの声が食堂へ響いた。
アルは足を止めたものの、持っていた茶器を落とすほど慌てはしなかった。ただし、セリーから見れば、振り向く速度が普段より明らかに速い。
『王立魔導研究院より、照会に対する返書が到着しました』
「来た?」
『はい』
アルの顔が一瞬で変わる。
セリーはその横顔を見ながら、口元へ小さな笑みを浮かべた。
「主様」
「なに?」
「茶器を置いてからになさってください」
「あ」
自分がまだ食器を持っていたことに気づき、アルは少しだけ気まずそうに厨房へ向かった。
◇
記録室には、アンナマリーとブラートも呼ばれた。
照会を送る段階から関わっていたアンナマリーは、到着した返書をエルから受け取り、机の上へ広げている。ブラートはその向かい側へ座り、アルとセリーは並んで長机の横へついた。
返書は一枚ではなかった。
研究院の正式な回答文に加え、公開可能な範囲で抽出された所蔵目録の写しが数枚添付されている。ただし、資料そのものの内容が送られてきたわけではなく、現時点で確認できた資料群の名称、年代、保存区分、閲覧条件の概要が並んでいるだけだった。
「最初に確認しておくわね」
アンナマリーは書類を押さえながら、全員へ視線を向けた。
「これは『私たちが探している答えが研究院にあった』という返事ではないわ」
「うん」
アルが頷く。
「所蔵目録の中に、こっちが指定した旧施設名や制度名と関連する可能性のある項目が見つかった、だね」
「そう。しかも、目録上の名称が一致しているものと、移管元だけが一致しているものが混ざっている」
ブラートが一枚を手に取り、目を細めた。
「古い記録の分類を途中で変えたという話とも一致しますね」
「一致する可能性がある、くらいにしておこう」
アルがすぐに言い直す。
「今分かってるのは、分類変更があった記録が存在することと、この目録に違う分類名があることだけだから」
「失礼しました」
「いや、俺もすぐつなげそうになるから」
ブラートは小さく笑った。
「だから私もいるのでしょう」
「そういうこと」
室内に張り詰めかけた空気が少し和らぐ。
アンナマリーは一枚目を指でなぞった。
「まず、以前確認した三つの移管先について。『保護行政記録群』は、現在の目録でも研究院資料保存部の旧行政資料として存在が確認されている」
「中身は?」
「まだ見ていないわ。今回分かったのは、資料群として残っていることだけ」
「閲覧できる?」
「一部は通常の研究照会で目録閲覧可能。内容閲覧は資料ごとに審査」
「じゃあ、全部見せろとは言えないね」
「ええ」
アンナマリーが次の欄へ移る。
「『個体医療記録群』については、王立医務局との共同保管という記載が残っている。ただし個人情報を含むため、原則非公開。本人、正当な代理人、治療上の必要性が認められた医療関係者、または特別審査を通過した調査に限定されるそうよ」
アルは迷わず頷いた。
「そこは触らない」
「少なくとも今は?」
「うん。誰の記録かも分からない状態で、古い謎を調べたいから個人医療記録を見せてくれっていうのは違う」
保存されている少年、三〇八号室の少年、旧保養施設にいる名も定まっていない子供。それぞれに「アルフォンス」や王家、帰還、古い施設という要素が重なる部分はある。
だが、それだけだ。
(似てるから同じだって決めた瞬間に、誰かの記録を誰かのものとして扱うことになる)
それは避けたい。
「三つ目は?」
アルが尋ねると、アンナマリーは一拍置いてから次の紙を手元へ寄せた。
「『特殊処置関連原記録群』」
室内の空気が少しだけ変わる。
「見つかった?」
「資料群の完全一致はしていない」
アンナマリーの答えに、アルは身を乗り出しかけた姿勢を戻した。
「完全一致してない?」
「ただし、近い名称が二つあるわ。一つは『旧王室保護関連・特殊処置資料』。もう一つは『第三地下保存区・未再分類原資料』」
ブラートの視線が書類へ落ちる。
「第三地下」
「そう」
以前見つかった移管記録には、『別棟地下第三――』までしか残っていなかった。
西側別棟の地下二階には、フェリクスが研究院にいた当時利用していた旧資料保存区があり、さらに下へ続く施錠階段も存在していた。しかし、その階段の先が何だったのか、フェリクス自身は知らない。
「これで地下三階が確定したわけじゃない」
アルは自分へ言い聞かせるように口にした。
「『第三地下保存区』が、階数としての地下三階なのかも分からないし、昔の『別棟地下第三――』と同じ場所かも分からない」
「その通りよ」
アンナマリーが頷く。
「研究院側もそこを注意書きしている。現行目録の『第三地下保存区』という名称が、建物の階層を示すのか、保存区分番号を示すのか、今回回答した担当者では確認できなかったそうよ」
「良かった」
アルが呟いた。
ブラートが怪訝そうに見る。
「良かった、ですか?」
「ちゃんと分からないって書いてくれたから」
「ああ」
「分からない部分を、それっぽい答えで埋められるよりずっといい」
セリーは隣で黙って聞いていたが、アルの肩から余計な力が抜けたのを見ていた。謎へ近づくほど、以前のアルなら答えを出す責任まで自分で抱え込んでいた。今は「分からない」と書かれた返事を、停滞ではなく情報として受け取っている。
アンナマリーは回答文の最後へ視線を移した。
「それと、研究院側から確認事項が来ているわ」
「何?」
「追加の目録照会を希望する場合、検索対象をもう少し絞ってほしいそうよ。現在の照会条件だと、王室保護、帰還管理、療養施設、特殊処置、長距離伝送設備まで範囲が広すぎる」
アルは思わず天井を見た。
「……まあ、そうなるよね」
「向こうも困ったでしょうね」
「書いてる本人たちは全部別々に確認してるつもりでも、受け取った側からしたら『何を探してるんだ』ってなるか」
「担当者はかなり丁寧よ。拒否ではなく、優先順位を指定してほしいと書いてある」
ブラートが資料を見比べる。
「では、特殊処置関連を優先しますか?」
アルはすぐには答えなかった。
目の前には複数の道がある。
旧保養施設で続いている発光や音を考えるなら、長距離伝送設備や機械式張力逃がしに関する資料が役立つかもしれない。
一方で、古い帰還管理制度や特殊処置の記録には、保護された子供たちへ何が行われていたのかを知る手掛かりがある可能性もある。
どちらも気になる。
だが、気になる順番と、先に調べるべき順番が同じとは限らない。
「旧設備の方からにしよう」
アルが言った。
アンナマリーが顔を上げる。
「理由は?」
「今も動いてる可能性があるから。旧保養施設には人がいるし、音や発光が続いてる。危険があるかどうかも分かってない」
「特殊処置の方は?」
「消さない。ただ、今すぐ誰かの安全に関わってるって確認できてるわけじゃない。それに個人記録へ近づく可能性もある」
アルは書類の『第三地下保存区・未再分類原資料』という文字へ目を落とした。
「こっちは、急がない方がいい気がする」
セリーが静かに尋ねる。
「怖いですか?」
アルは少し考えた。
「うん。たぶん、それもある」
以前なら理由として認めたくなかった感情だった。
「でも、怖いから後回しにするだけじゃない。今いる人の安全に直接つながる可能性が高い方から確認する。その順番なら、自分でも納得できる」
「はい」
セリーはそれ以上言わなかった。
◇
同じ頃、旧保養施設では、自立式の観測目印を置くための最終確認が行われていた。
昨夜の青白い発光と東寄りの音については、すでにガルムたちが記録を確認している。音源を探すための移動や壁への接触は行われず、今朝になっても新たな破損箇所は見つかっていなかった。
中央棟の廊下には、トーマス・ベルンとリディア、それから夜間観測へ入る別の兵士が立っている。床へ直接線を引く代わりに用意されたのは、膝よりも低い細長い木製台だった。
台そのものは古い設備から十分離れた位置に置かれ、上面には観測位置から見えるよう、小さな記号が刻まれている。記号は設備の区分を意味するものではなく、あくまで「どこから見たか」「どの方向を指しているか」を揃えるための基準だった。
「ここから見ると、統合盤中央と基準の零がほぼ重なります」
トーマスが観測位置へ立ち、片目を細めながら確認する。
リディアは彼の隣ではなく、少し後方から位置関係を見た。
「『ほぼ』を消さないでください」
「はい。完全一致ではありません」
「それから、この目印を置いたことで、統合盤の中央が定義されたわけでもありません」
「観測上の基準点ですね」
「そうです」
もう一人の兵士が別の観測位置へ移動した。
「こっちからだと少しずれます」
「どれくらい?」
「零の印が、盤中央と思われる位置より指一本分くらい左に見えます」
トーマスがそちらへ移動し、自分でも確認する。
「本当ですね」
「なら、観測位置も一緒に残さないと駄目ですね」
リディアは記録板へ書き込んだ。
「目印だけ統一しても、見る場所が違えば表現が変わる。今までの記録との差も、その可能性があります」
トーマスは昨夜の二枚の記録を思い出した。
一人は「中央より右」、もう一人は「右側だが中央寄りか外側寄りか不明」と残している。同じものを見ていた可能性は高いが、それさえ断定されていない。
「目印を増やしますか?」
「増やす前に、観測位置を二か所に固定する案を試しましょう。ただし、固定という言葉は少し強いですね。設備の異常や患者の移動などで、その位置に立てない場合もありますから」
「推奨位置?」
「それがいいでしょう」
トーマスは頷いた。
提案した時には、基準線さえ作れば表現差を減らせると思っていた。実際に置いてみれば、見る位置によって基準そのものがずれる。
(案を出した時点で完成じゃないんだな)
少し恥ずかしい気持ちもあったが、それ以上に面白かった。
「リディアさん」
「はい?」
「昨日の案、そのままじゃ駄目でしたね」
「そうですね」
あっさり言われ、トーマスは苦笑した。
「もう少し慰めてもらえるかと思いました」
「なぜです?」
「いえ」
リディアは彼の表情を見てから、わずかに口元を緩めた。
「でも、駄目な部分が分かったのは、置いて確認したからです。提案しなければ分かりませんでした」
「それ、先に言ってくださいよ」
「必要でしたか?」
「少しだけ」
近くで聞いていた兵士が笑いを堪え、廊下の緊張が少し和らいだ。
目印はその日のうちに正式運用へ移さず、夕方まで複数の観測担当に同じ位置から見てもらうことになった。基準を作るために、新たな誤差を見落とすわけにはいかない。
◇
白鴉療養所では、三〇八号室の少年が昼食を終えたあと、机の上の小箱を見ていた。
昨日、読まないと決めた手紙はまだ中にある。
残りの手紙が入っている赤い布包みへ戻してはいない。
ヨアヒムは午前の診察を終えたあと、手紙について尋ねなかった。白い薬についても、体調と睡眠、食欲を確認したうえで、今日の量をどうするかだけを話している。
現在の量で大きな異常は出ていない。
少年はさらに減らしたい気持ちを以前から口にしているが、今日は変更しないことを選んだ。
窓から入る風がカーテンをわずかに揺らしている。少年は小箱へ手を伸ばし、蓋へ指を置いたものの、開けずにそのまま手を引いた。
「ヨアヒム」
「はい」
部屋の隅で診療記録を整理していたヨアヒムが顔を上げる。
「昨日、俺が怒ったこと、書いた?」
「書きました」
少年の眉が寄る。
「何て?」
「読みますか?」
「見せて」
ヨアヒムは記録を閉じず、そのまま少年のところへ持っていった。
ベッド脇の椅子へ座り、本人が読める向きに置く。
少年は文字を追った。
自分が王太子であるという認識について話している途中、感情が強くなり、声量と呼吸数が増えたこと。本人が水を希望し、自分で飲んだあと、呼吸が落ち着いたこと。
それ以上は書かれていない。
「『興奮状態』って書いてない」
「はい」
「前は書かれてた」
ヨアヒムはすぐに質問しなかった。
少年は記録から目を離さない。
「怒ると、そう書かれた」
「以前いた場所で?」
「……たぶん」
「今、そのことを詳しく話したいですか?」
少年はしばらく黙り、やがて首を横へ振った。
「まだいい」
「分かりました」
「これ、あとから俺が『違う』って言ったら?」
「どの部分を?」
「例えば、俺は怒ってなくて、怖かったんだって思ったら」
「元の記録を消さずに、後からあなたがそう考えたことを追加できます」
「なんで消さない?」
「その時、私が観察したことまで無かったことにすると、記録がどう変わったか分からなくなるからです。ただし、私が『怒っていた』と断定した記録ではありません」
少年はもう一度文字を見る。
「声が大きくなった。息が速くなった」
「はい」
「これは本当?」
「少なくとも私はそう観察しました」
「俺も息速かったの覚えてる」
「はい」
「でも、何でそうなったかは書いてない」
「あなたが王太子だという話をしている途中だったことは残しています。ただ、それが原因だったと決めてはいません」
少年は記録の端を指でなぞった。
「……変なの」
「何がです?」
「前より細かいのに、決めてない」
「細かく書くことと、意味を決めることは同じではありませんから」
「面倒くさい」
「それは否定しません」
少年の口元が少し緩んだ。
やがて彼は小箱を見る。
「手紙、今日は……」
そこで言葉を止めた。
ヨアヒムは待つ。
「一行だけ読んでもいい?」
「もちろんです」
「一行読んだら、全部読まないと駄目?」
「いいえ」
「途中で閉じても?」
「はい」
「読んだあと、戻したくなったら?」
「戻せます」
「戻したあと、また出しても?」
「あなたの手紙ですから」
少年は蓋へ手を置いた。
昨日は開けなかった。
今日は、一行だけ読みたい。
(昨日と違っても、昨日が間違いになるわけじゃない)
誰かにそう教えられたわけではない。けれど、昨日読まなかった手紙が今もここにあり、自分が読まなかったせいで取り上げられてもいないことが、その事実を少しずつ教えていた。
蓋を開く。
折られた紙を取り出し、少年は昨日まで読んでいた続きへ視線を落とした。
一行。
そこには、王都の庭に咲く花について書かれていた。
少年の眉が寄る。
「……知らない花だ」
ヨアヒムは何も言わない。
「王宮の庭にあるって」
「そう書かれていますか?」
「うん」
「見覚えは?」
「ない」
少年はもう一度その一行を読んだ。
「俺が王子なら、知ってるはず?」
問いかける声は、昨日よりずっと小さかった。
ヨアヒムは急いで答えを与えない。
「知っている可能性はあります。でも、王宮にいた人間が庭にあるすべての花を知っているとは限りません」
「じゃあ、知らなくても何も分からない?」
「少なくとも、その一つだけでは」
「また分かんない」
「はい」
少年は不満そうに唇を尖らせたが、怒鳴らなかった。
「今日はここまで」
「分かりました」
自分で手紙を折り、小箱へ戻す。
赤い布包みへは戻さない。
「一行読んだ」
「はい」
「でも全部は読んでない」
「はい」
「……これも記録する?」
「手紙をどこまで読んだかは、あなたが残してほしいなら残します。治療上、必ず必要な情報ではありません」
少年は考えた。
「残さなくていい」
「分かりました」
ヨアヒムは診療記録へ手を伸ばさなかった。
◇
午後、古の塔では、研究院へ送る追加照会の文面作りが続いていた。
アルは一度「旧保養施設北系統」と書きかけ、手を止めた。
「これ、北って限定しない方がいいかな」
向かいのアンナマリーが書きかけの文を見る。
「昨夜は東寄りから音が聞こえたから?」
「それもあるけど、そもそも古い資料で『北系統第二線』って言葉が出たから、今見てるもの全部を北系統だと思い始めてる気がする」
「では、施設名と設備種別から?」
「うん。旧保養施設に設置されていた長距離伝送、呼出、保持、張力調整に関する設備資料。年代は……」
「広くしすぎると、また絞ってくださいと返されるわよ」
「そうなんだよね」
二人が紙を前に唸っていると、ブラートが横から覗き込んだ。
「既に確認できている名称だけを並べるのはどうでしょう。『機械式張力逃がし』『張力逃がし爪』『北系統第二線』。ただし、これらが同一設備を指すと仮定しない旨を添える」
アルは顔を上げる。
「いいかも」
「さらに、現在稼働しているかを知りたいのではなく、旧設計と廃止・残置手順を確認したい、と目的を限定すれば通りやすいかもしれません」
「今の設備を動かすためじゃないって分かるもんね」
「ええ」
アンナマリーが文面を書き直していく。
「それなら、研究院側も技術資料として扱える可能性が高いわ。個人記録や特殊処置記録と切り離せる」
アルは頷いた。
「それでいこう」
書類が整っていく間、セリーは窓際で茶を用意していた。今日はアルの隣に座らず、少し離れた小机で自分の分も淹れている。
アルは何度かそちらへ視線を向けた。
昨日までなら、近くにいないことへ小さな違和感を覚えたかもしれない。
けれど、セリーは離れたいわけではない。ただ、今はそこで茶を飲みたいのだろう。
(聞かなくてもいいこともあるか)
そう思って書類へ戻る。
しばらくすると、セリーの方から声が飛んできた。
「主様」
「ん?」
「こちらの方が日当たりがよいので移動しました」
アルは思わず笑った。
「説明しなくても大丈夫だったのに」
「ですが、主様が三度こちらをご覧になりましたので」
「朝も同じこと言われた気がする」
「本日は視線が分かりやすいようです」
「恥ずかしいな……」
アンナマリーが書類から顔を上げずに口を挟む。
「私も気づいてたわよ」
「仕事して」
「してるわよ」
ブラートまで咳払いに見せかけて笑いを隠したため、アルはますます居心地が悪くなった。
「もういい。照会文を完成させよう」
「はいはい」
それでも室内の空気は柔らかかった。
誰かが離れた席に座った理由を、関係が悪くなった証拠として読み取る必要はない。気になるなら聞いてもいいし、聞かずに待ってもいい。セリー自身が伝えたいと思えば、自分から言うこともできる。
その程度の余白が、今の二人には心地よかった。
◇
夕方近く、旧保養施設から観測目印の試験結果が届いた。
複数の観測担当が推奨位置二か所から統合盤を確認したところ、同じ基準台を使っても立つ場所によって見え方に差が出ることが分かった。そのため、今夜からは試験的に「観測位置」と「基準台上の方向記号」を併記し、従来の「中央より右」「右側」といった表現も残すことになった。
「情報増えてない?」
報告を読んだアルが苦笑する。
エルが答える。
『一時的には増えます』
「簡単にするための仕組みだったよね?」
『将来的に表現を揃えるため、移行期間中は情報量が増えるという説明です』
「町の試行と似てるな」
新しい仕組みを入れれば、すぐに簡単になるとは限らない。
むしろ最初は、古いやり方と新しいやり方を両方残す必要があり、手間が増えることもある。それでも、なぜ変えたのかが分からなくならないようにするには、その過程を残す必要がある。
「トーマスは?」
『本人は継続して試験観測へ参加しています。また、提案者として氏名を記録へ残すことについて、「自分だけで決めた案ではないので、最終案の考案者としては残さないでほしい」と希望しています』
アルは少し目を見開いた。
「じゃあ、どう残したいって?」
『「観測担当から位置表現の差について提案あり。その後、複数名で修正」とすることを希望しています』
「いいね」
『ガルムも了承しています』
「じゃあそれで」
自分が考えたことを、自分の手柄として固定したくない。
だからといって、誰からも困り事が出なかったことにもしない。
トーマスらしい選び方なのかもしれないとアルは思ったが、まだ彼のことをよく知らない。そこまで性格を決めつけるのも早いだろう。
その時、エルの声が続いた。
『もう一点あります』
「何?」
『リューネ町役場より、エルザ・ノイマンの相談記録について本人から追加希望がありました』
アルの表情が変わる。
「何か問題が?」
『本人は、本日の相談で過去記録を一部だけ使用したいと申し出ています』
「一部?」
『はい』
昨日は、以前の記録を使わないでほしいと言った。
今日は、一部だけ使いたい。
アルはすぐに答えず、エルの続きを待った。
『本人の希望は、「以前の収入額や支援額については確認に使ってよい。ただし、当時の家族関係については今回の相談へ持ち込まないでほしい」です』
「担当は?」
『その場で過去記録を開く前に、使用範囲を本人と確認しています。家族関係に関する欄は参照せず、金額と支援期間のみ確認したとのことです』
アルは椅子の背へ体を預けた。
昨日の選択が、今日の命令になっていない。
しかも今日の選択は、昨日を否定しているわけでもない。
「エルザさん、昨日は全部使わないって言ってたんだよね」
『正確には、「今日は前の記録を閉じる」という対応に本人が同意しています。今後すべて使用しないという恒久的意思表示は確認されていません』
「そうだった」
アルは小さく息を吐いた。
「俺の方が勝手に『使わない選択』としてまとめかけてた」
『その可能性はあります』
「エル、容赦ないね」
『確認を求められましたので』
「うん。ありがとう」
昨日のエルザは、昨日の相談では過去を使わなかった。
今日のエルザは、必要な部分だけ使った。
どちらも本人の選択であり、矛盾として処理する必要はない。
(人の希望を記録するって、その人を固定することじゃないんだ)
アルはその考えを、すぐに制度の標語へするのをやめた。
今はただ、一人の住民がそう選んだという事実を残せばいい。
◇
夜になり、旧保養施設では新しい観測方法の試験が始まった。
トーマスは推奨位置の一つへ立ち、木製の基準台を視界へ入れる。隣では別の観測担当が、少し離れたもう一つの推奨位置についていた。
設備そのものには何もしていない。
統合盤にも、壁にも、床にも触れていない。
変えたのは、見る側の記録方法だけだった。
夜が深まる。
最初の数時間、変化はない。
トーマスは「変化なし」と記録し、時間を置いて再び確認する。何も起きない時間も、観測から消さない。
日付が変わり、さらに時間が過ぎた。
午前二時を回っても、統合盤に光は出ない。
昨夜と同じ時刻が近づいたからといって、何かが起きるとは限らない。トーマスは無意識に盤を凝視していた自分へ気づき、視線を一度外して呼吸を整えた。
(待ってると、起きてほしいみたいになるな)
異常が起きない方がいい。
それでも観測を続けていると、何かを見つけたい気持ちが生まれる。
その気持ち自体をなくすことはできない。だからこそ、見たいものを見たことにしないため、二人で別々に記録する。
午前二時四十八分。
変化なし。
午前二時五十三分。
変化なし。
昨夜、東寄りの音が聞こえた時間を過ぎても、廊下は静かなままだった。
トーマスは時刻を書き込み、盤から目を離す。
そして午前三時七分。
もう一人の観測担当がわずかに姿勢を変えた。
トーマスもほぼ同時に気づいた。
統合盤ではない。
廊下の奥、古い夜間詰所の方向にある小さな表示窓の一つが、ごく弱く光っているように見える。
トーマスは声を出さず、まず自分の位置を確認した。
推奨位置一。
基準台の零から見て、統合盤ではなく北西方向。
従来表現なら「旧夜間詰所側」。
色は青ではない。
白とも言い切れない。
薄い黄白色に見える。
隣の観測者も記録している。
互いに内容は見ない。
午前三時九分。
光は続いている。
音はない。
受動計器にも基準範囲を超える変化はない。
トーマスは以前の記録を思い出しかけた。
左側の弱い黄白色。
古い表示。
しかし、すぐにその連想を記録へ書くのをやめた。
今見えているものが以前の発光と同じだとは分からない。
午前三時十二分。
表示窓らしき場所の光が消えた。
それ以外の変化はなかった。
◇
夜明け後、ガルムは新しい形式の観測記録を机へ並べた。
「情報が多いな」
最初に出た感想は、それだった。
フェリクスが隣から覗き込む。
「ですが、位置はかなり分かりやすくなっています」
「お前、近い」
「触っていません」
「紙にも近い」
「紙は設備ではありません」
「そういう問題じゃない」
リディアが二人を無視して記録を比較する。
「観測者二名とも、旧夜間詰所側の小表示窓付近としています。色は、一人が『淡黄白色』、もう一人が『白色にわずかに黄味があるように見えた』」
「同じ色とする?」
ガルムが尋ねる。
「しません。近い表現だった、とだけ」
「時間は?」
「開始認識に十数秒の差があります。消失も同程度」
「それもそのまま残す」
「はい」
フェリクスは古い配置図を開いた。
「夜間詰所側の小表示窓……」
指を伸ばしかけ、ガルムに見られて止める。
「触りませんよ」
「誰もまだ何も言ってない」
「顔が言っていました」
フェリクスは手を引き、図面の文字だけを追った。
「古い図面では、この位置に小型表示が複数あります。ただし、現在見えている窓と一対一で対応するとは限りません」
「用途は?」
「この図では略号だけです。『待』『保』『呼』のように見えますが、複写が薄く、読み間違いの可能性があります」
リディアが顔を上げた。
「推測で補わないでください」
「分かっています」
「『待』に見えるから待機、『呼』に見えるから呼出、と決めない」
「はい」
ガルムは腕を組んだ。
「研究院の資料が必要になりそうだな」
「まさに」
フェリクスの目が少し輝く。
「楽しそうにするな」
「資料ですよ?」
「だからだよ」
フェリクスは咳払いをして表情を整えた。
新しい観測方法を入れた最初の夜に、これまで注目していた統合盤とは別の場所で光が見えた。
だからといって、目印を置いたことが発光を起こしたわけではない。
観測方法を変えたから見つけられたとも、まだ言えない。
たまたまその夜に光っただけかもしれない。
「記録には、新方式導入初夜って書くか?」
ガルムが尋ねる。
リディアは少し考えた。
「観測条件としては必要です。ただし、発光との関連を示す書き方にはしない方がいいでしょう」
「じゃあ、『位置記録試行開始後の観測。ただし設備への操作なし』」
「それで」
ガルムは頷き、記録を閉じた。
◇
朝の塔では、アルがセリーと並んで廊下を歩いていた。
まだ旧保養施設から夜間報告は届いていない。
研究院への追加照会は昨日のうちに送付済みで、次の返事がいつ来るかも分からない。
「今日は何する?」
アルが尋ねる。
「主様がお決めになるのですか?」
「セリーにも聞いてる」
セリーは少し考えながら歩く。
「午前中は塔内の備品確認をしたいです」
「手伝おうか?」
「主様がなさりたいのであれば」
「じゃあやる」
「午後は?」
「まだ決めてない」
「私もです」
角を曲がったところで、アルの手がセリーの手の近くへ下がった。
触れてはいない。
セリーも気づいているが、すぐには手を重ねない。
二人はそのまま数歩進む。
「セリー」
「はい」
「今日、手つなぎたい?」
セリーは歩みを止めず、少しだけ考えた。
「今は、はい」
「俺も」
アルの指がそっと近づき、セリーの指先へ触れる。そこで一度止まり、互いに離れないことを確かめてから、今度は小指だけではなく二本、三本と自然に重なっていった。
手のひらまで完全に合わせる前に、セリーがアルを見る。
「主様」
「ん?」
「今日は、ここまでがいいです」
指は重なっている。
けれど手のひらは離れている。
アルは一瞬だけ自分たちの手を見たあと、笑った。
「うん。俺もこれでいい」
昨日より近いのか、以前手のひらを重ねた時より遠いのか。
そんな比較は、今は必要なかった。
二人は三本の指を軽く重ねたまま廊下を歩いていく。
その途中でエルの声が響いた。
『アル。旧保養施設より夜間観測報告が届いています』
「何かあった?」
『統合盤ではなく、旧夜間詰所側の小表示窓付近で、弱い黄白色の発光が確認されました。音はありません』
アルは足を止めた。
セリーも止まる。
「統合盤じゃない?」
『はい。観測者二名が独立して近い位置を記録しています。ただし、同一の表示窓を見たことについては、記録照合後の判断です』
「設備への操作は?」
『ありません』
「新しい目印との関係は?」
『不明です。目印は設備から離れた自立式で、接触はありません。現場も因果関係を認めていません』
「分かった」
アルは少し考える。
昨夜まで気にしていた場所とは違うところが光った。
それだけなら、すぐ現地へ行く理由にはならない。
「ガルムたちは?」
『古い配置図との比較を開始しています。現時点でアルの来訪要請はありません』
「じゃあ行かない」
『了解しました』
エルの声が途切れる。
アルは歩き出そうとして、自分の右手を見る。
セリーとの三本の指は、まだ重なっていた。
報告を聞いた瞬間にも、どちらも離していなかった。
「このまま行く?」
アルが尋ねる。
「はい」
「備品確認だよ?」
「問題がありますか?」
「ない」
歩き始める。
研究院から返ってきた目録は、答えではなかった。
新しく見えた光も、答えではない。
エルザが昨日と今日で違う選び方をしたことも、矛盾ではない。
三〇八号室の少年が一行だけ手紙を読んだことも、その先まで読む約束にはならない。
そして、昨日とは違う触れ方を選んだ二人の手も、関係の進み具合を測る目盛りではなかった。
今分かっていることを、分かっている範囲で残す。
変わったなら、変わったことを残す。
分からないなら、分からないまま次の情報を待つ。
それは遠回りに見えても、誰かの言葉や選択を、都合のいい答えへ削らずに済む道だった。
窓から入る朝の光の中を、アルとセリーは指を重ねたまま歩いていった。




