第107話 光っていた窓
古の塔の備品庫は、生活に必要な品を収める場所というより、長い年月のあいだに「いつか使うかもしれない」と判断された物が静かに積み重なった場所だった。
朝の光が細長い窓から差し込み、棚の上に積もった薄い埃を淡く照らしている。セリーが扉を開けると、乾燥させた布や木箱、油を染み込ませた革、それに古い紙の匂いが混ざった空気が流れ出した。
「思ってたより多いな」
アルは入口で足を止め、奥まで続く棚を眺めた。
「長期間使用していない物もありますので、本日は状態確認を行いたいと思います。廃棄するかどうかについては、確認後に決めればよろしいかと」
「セリーが全部決めるんじゃなくて?」
「私が管理してきた物ではありますが、現在は主様も使用される塔ですから」
「俺が来る前からある物ばっかりなのに?」
「それでも、今はお二人で生活しております」
さらりと言われ、アルは返事をするまでに少し時間がかかった。
お二人で生活している。
事実としては何も間違っていない。それなのに、セリーがそれをあまりにも自然な言葉として口にしたせいで、胸の奥が妙に温かくなる。
(こういう言い方に、まだ弱いな)
アルは照れを隠すように近くの棚へ目を向けた。
「じゃあ、勝手に捨てないで一緒に見るか」
「はい」
先ほどまで廊下で重ねていた指は、備品庫へ入る前に自然と離れていた。箱を運ぶのに邪魔になるからであり、どちらかが嫌になったわけではない。少し前なら、その程度の変化にまで意味を探していたかもしれないが、今は互いに何も確認しなかった。
セリーが手前の木箱を机へ運び、アルが蓋を開ける。
中から出てきたのは、同じ形の金属製の匙だった。
「……これ、何本ある?」
「三十二本です」
「なんで三十二本も?」
「古い来客用です」
「そんなに客が来てたの?」
「時期によっては」
セリーは一本を持ち上げ、柄の状態を確かめた。
「こちらは表面の処理が劣化しています。食事用として再利用する場合は整備が必要です」
「今すぐ三十二人来る予定はないよね」
「ございません」
「じゃあ保留」
「承知しました」
次の箱には小さな燭台が大量に入っており、その次からは色の違う布、未使用の留め具、古い清掃道具が出てきた。明確に壊れている物だけを分け、用途が分からない物はその場で捨てずに残す。作業そのものは地味だったが、アルは意外と嫌いではなかった。
王宮にいた頃、自分の生活に必要な物がどこから出てくるのかを考える機会は少なかった。服が汚れれば交換され、食事をすれば食器が片づけられ、部屋に必要な物は誰かが準備した。
今は、一つの匙を残すかどうかまで自分で考えている。
それを自由と呼ぶのは少し大げさかもしれない。それでも、アルにはこの小さな作業が心地よかった。
「主様」
「ん?」
「楽しそうです」
アルは手にしていた古い布から顔を上げた。
「そう見える?」
「はい」
「備品整理してるだけなんだけどな」
「楽しむ理由は、特別でなくてもよいのではありませんか?」
「……それもそうか」
セリーは次の棚へ向かい、アルも後を追った。
午前の作業が半分ほど終わったところで、エルから再び声が届いた。
『アル。旧保養施設から追加報告があります』
アルは手にしていた木箱を床へ置いた。
「朝の発光の件?」
『はい。現場から、古い配置図との照合結果について共有されています』
「危険は?」
『現時点で緊急性を示す変化は確認されていません』
それを聞いてから、アルは肩の力を抜いた。
「じゃあ聞く」
『フェリクス、リディア、ガルムによる確認では、昨夜発光したと推定される位置の近くに、旧図面上では複数の小型表示部が存在します。ただし、現在露出している表示窓との対応関係は確定していません』
「昨日言ってた略号は?」
『複写状態が悪く、確定読み取りは行っていません。フェリクスは三文字について候補を提示していますが、現場では意味を付与せず記録しています』
「それでいい」
『また、別年代の図面が一枚見つかりました』
アルの表情がわずかに変わった。
「違いがある?」
『あります。同じ場所と思われる範囲に、小型表示部が二つしか描かれていません』
「昨夜見た図面は?」
『四つです』
アルはすぐには口を開かなかった。
同じ場所に、ある年代では四つ、別の年代では二つ。
だが、それだけでは二つが撤去されたのか、図面の省略なのか、設備そのものが交換されたのかは分からない。
「年代は?」
『四つ描かれた図面の方が古い可能性が高いものの、正確な作成年は未確認です。紙質と併記された設備名称からの推定に留まります』
「分かった。古い、新しいも確定にしないで」
『了解しました』
セリーは少し離れたところで聞いていた。
「現地へ向かわれますか?」
「今は行かない」
アルはほとんど迷わず答えた。
「俺が見ても、図面が急に読めるようになるわけじゃないし。フェリクスとリディアが見てるなら、まずそっちでいい」
「はい」
「それより研究院の返事が来るまでに、こっちでも古い塔の設備資料に似たものがないか確認できるかな」
『可能です』
エルが答える。
『ただし、塔内資料における名称体系と、旧保養施設および王立魔導研究院の名称体系が一致する保証はありません』
「そこは分けよう。似た構造があっても、同じ設備とは扱わない」
『承知しました』
アルは床の木箱を持ち上げた。
「じゃあ、備品整理続けよう」
エルから報告を受けたからといって、その瞬間に一日の予定をすべて変更する必要はない。
セリーはそんなアルを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
◇
旧保養施設では、午前中からフェリクスが二枚の図面を並べていた。
ガルムは彼の正面に座り、リディアは少し離れた場所で昨夜の観測記録を確認している。
「似てるんですよねえ」
フェリクスが唸る。
「何がだ」
「この壁の厚みと、窓の間隔です。こちらの図面では表示部が四つ。こっちは二つ。でも壁そのものの長さはほぼ同じです」
「だから二つ外した?」
「とは限りません」
フェリクスはすぐに首を横へ振った。
「描かなかっただけかもしれませんし、内部だけ残して表示面を塞いだ可能性もあります。あるいは図面の用途が違って、必要な設備だけ記載した可能性もある」
「なら今分かるのは?」
「図面によって表示数が違う」
「それだけだな」
「はい」
フェリクスは残念そうではなかった。
むしろ、以前なら一つの仮説へ飛びついていた自分が、複数の可能性を並べたまま止まれることを少し面白がっているようだった。
リディアが記録板から顔を上げる。
「昨夜の観測位置を現地で再確認します。ただし表示窓へは近づきません」
「私も」
「フェリクスはここにいてください」
「なぜです?」
「図面を見ていてください」
「私も現物を見た方が比較しやすいと思いますが」
「見たら触りたくなるでしょう」
「触りません」
ガルムが低い声で言う。
「お前は昨日も同じこと言ってたな」
「昨日も触っていません」
「それは俺たちがいたからだろ」
「信用がありませんねえ」
「積み重ねだ」
フェリクスは反論しかけたが、やがて諦めたように椅子へ座り直した。
「では、位置と見え方をできるだけ詳しくお願いします」
「それはする」
リディアはトーマスを呼び、昨夜立っていた推奨位置へ案内してもらった。
昼の廊下は夜とは印象が違う。窓から差し込む自然光によって壁の凹凸が見えやすくなり、夜には黒く沈んでいた旧夜間詰所側の設備も輪郭が分かる。
「ここです」
トーマスが足元の目印を示した。
「この位置から、基準台の零を確認していました」
リディアが同じ場所へ立つ。
「発光した位置を指で示せますか? ただし設備へ近づかず、ここから」
「はい」
トーマスは腕を伸ばした。
「あの辺りです。ただ、夜は輪郭がほとんど見えなかったので、今見えている窓のどれだったかまでは言えません」
「今ならどれに見えます?」
「……これを答えると、昨夜の記憶まで今の見え方に引っ張られそうです」
リディアが彼を見る。
「では、答えなくて構いません」
「いいんですか?」
「昨夜の記録は昨夜の記録として残っています。今ここで推測を加える必要はありません」
トーマスは少し安心したように息を吐いた。
「昨夜は、旧夜間詰所側の小表示窓付近としか分かりませんでした。それ以上は今も分かりません」
「それで十分です」
もう一人の観測者も呼ばれ、別々に位置を確認した。
二人が指した範囲は大きく重なっていたが、完全には一致しなかった。
リディアはそれを「誤差」として消さず、二つの範囲を別々に記録した。
そこへガルムがやって来る。
「何か見つかったか?」
「昼間に見ると、表示窓らしき部分が三つ確認できます」
「図面は四つと二つだったな」
「はい。ただし、三つあるから中間年代だとは考えません」
「フェリクスなら言いそうだ」
「聞こえていますよ」
離れた部屋から声が飛んできた。
ガルムが呆れた顔で振り返る。
「耳だけはいいな」
「研究者に必要な能力です」
「今のお前に必要なのは座ってる能力だ」
トーマスが思わず吹き出し、リディアも小さく息を漏らした。
だが、笑いが収まったあと、リディアは壁の一部へ視線を止めた。
表示窓らしき三つの部分のうち、一番端のものだけ、縁の形が少し違う。
近づかずに見える範囲では、他の二つが壁面とほぼ同じ高さなのに対し、端の一つはわずかに奥へ沈んでいるように見えた。
「ガルム」
「どうした?」
「あれ、どう見えます?」
ガルムは彼女の横へ立ち、指された先を見る。
「端のやつか。……少しへこんでる?」
「私にもそう見えます。ただ、光の加減かもしれません」
「記録だけしておくか」
「はい」
触れない。
近づきすぎない。
それでも、見えるものまで無視する必要はない。
リディアは「右端表示部と思われる箇所、他二箇所より奥まって見える。距離を保った目視のみ。構造差か光学的見え方か不明」と記した。
◇
リューネの町役場では、五日間の試行をめぐって別の問題が起きていた。
相談窓口へ来たのは、五十代ほどの男性だった。
男は受付で名を告げたあと、以前の相談記録があると聞くと、明らかに表情を曇らせた。
「それ、今日は見ないでくれ」
担当職員は手を止めた。
「承知しました。今日は過去の記録を参照せずにお話を伺います」
「いや……今日だけじゃなくて」
男はそこで言葉を切り、周囲を気にするように視線を動かした。
待合には数人の住民がいる。声が聞こえるほど近くはないが、落ち着かないのだろう。
「別室へ移りますか?」
職員が尋ねると、男は少し迷ってから頷いた。
小さな相談室へ移動し、扉を閉める。
「以前の記録を、消してほしい」
男は椅子へ座るなり言った。
担当職員はすぐに否定しなかった。
「どの記録でしょうか?」
「全部だ。昔ここに相談したやつ」
「内容を確認せず、全部というご希望でよろしいですか?」
「……たぶん」
その「たぶん」を、職員は聞き流さなかった。
「今すぐ削除するかどうかを決めなくても大丈夫です。まず、どの記録があるかをご本人が確認することもできます」
「見たくない」
「では、見なくても構いません」
「でも消してほしい」
「そのご希望は記録できます。ただ、すぐに完全削除できるかどうかについては、確認が必要です。支援金の支給記録など、制度上保存が必要なものが含まれている可能性があります」
男の顔が険しくなる。
「結局、消せないのか」
「今ここで、全部消せますとも、全部残しますとも言えません」
「面倒だな」
「申し訳ありません。ただ、残す理由がある記録と、本人の希望で非参照にできる記録が同じとは限りません」
男は腕を組み、しばらく黙った。
「……昔、仕事がなくなった時に来たんだ」
「はい」
「その時、酒のことも話した」
職員は続きを待つ。
「今は飲んでない。何年も前の話だ。でも、ここに来るたび、それを見られるんじゃないかって思う」
声が少し低くなった。
「何か相談しても、『酒飲んでた人』って見られるんじゃないかって」
担当職員は机上の記録用紙へ視線を落としたが、まだ書かなかった。
「今日、その過去について記録へ残すことは希望されますか?」
「……今言ったこと?」
「はい。『過去の飲酒に関する記録が、現在の相談で先入観につながることを心配している』という内容です」
男は眉を寄せた。
「それを書いたら、また残るだろ」
「残ります」
「じゃあ嫌だ」
「分かりました。今の内容は相談記録へ書きません」
職員はそこでペンを置いた。
「ただ、過去記録の扱いを変えてほしいという希望そのものを、どう扱うかは決める必要があります。希望を残さないと、次回の担当者が知らずに開く可能性があります」
男は困ったように顔をしかめた。
「残したくないから、残さないでほしいって残すのか?」
「……そうなりますね」
職員自身も、その矛盾に気づいた。
制度として「本人の言葉を残す」ことを大切にしようとしている。
だが、残されたくないという言葉まで無条件に残せば、それもまた本人の望みを踏みにじる可能性がある。
「少し時間をください」
職員が言った。
「今、無理に決めません。あなたが待てるなら、責任者と相談して、過去記録を消さずに通常の相談では開かないようにできるか確認します」
「そんなことできるのか?」
「分かりません。今確認します」
男はしばらく考えたあと、椅子へ深く座り直した。
「待つ」
「ありがとうございます」
職員は相談室を出た。
試行が始まってから、記録を残す方法ばかり考えていた。
今度は、記録を見せないこと、使わないこと、あるいは残すこと自体をどう扱うかが問われている。
◇
その報告が塔へ届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
アルはアンナマリーと一緒に町役場からの相談を読んでいた。
「これは難しいな」
率直な言葉が漏れる。
「そうね」
アンナマリーもすぐには答えを出さなかった。
「支援金の支給記録まで本人の希望だけで消すと、会計や不正防止の問題が出る。でも、過去の生活相談まで毎回見られるのが嫌だっていうのも分かる」
「しかも『見ないでほしい』って希望を残すには、その希望を記録しないと次の担当へ伝わらない」
「そうなのよ」
アンナマリーは額へ指を当てた。
「記録しない権利を守るために記録が必要になる」
「変な感じだね」
「でも、変だからって本人に全部選ばせるのも違うわ」
アルは頷いた。
記録を消すか残すか。
それを本人へ丸ごと投げれば「選択を尊重した」ように見えるかもしれない。だが、制度上必要な保存義務や、消した場合に生じる不利益を説明しないまま選ばせるなら、それは選択肢を渡したとは言いにくい。
「まず、記録を三つくらいに分けて考えた方がいいかな」
「三つ?」
「制度上どうしても保存しなきゃいけないもの。本人が希望すれば通常相談では見ないようにできるもの。それから……本人の希望で消せるものがあるなら、それ」
「今の制度で、本当に三つに分けられるかは確認が必要ね」
「うん。だから案として」
「それと、『通常相談では見ない』って仕組みを作るなら、緊急時や本人が後から使いたいと言った場合をどうするかも必要になる」
「エルザさんみたいに?」
「そう。昨日は閉じて、今日は一部だけ使った。あれができるなら、完全削除と常時閲覧の間に何か作れるかもしれない」
アルはしばらく考え、やがて紙へ短く書いた。
『記録を残すことと、いつでも使うことを分けられないか』
「これを町へ返そう」
「答えじゃなくて?」
「答えにするには早いよ。現場で何ができるか分からないし」
アンナマリーが笑った。
「あなた、本当に変わったわね」
アルは顔を上げる。
「そう?」
「昔なら、ここで規則を一つ作っていたと思う」
「……作ってたかも」
「それも、かなり細かいやつ」
「否定できない」
「そして自分で全部確認してた」
「それはもうやりたくないな」
アルが苦笑すると、アンナマリーの笑みも少し柔らかくなった。
彼女は昔のアルを知っている。
王太子だった頃の、責任を抱えることが正しいと思っていた少年を。
あの頃の彼なら、判断できないことを恥じたかもしれない。誰かへ任せることを、自分の不足だと思ったかもしれない。
今、目の前にいるアルは「分からないから現場へ返す」と言う。
アンナマリーには、その変化が少し眩しく見えた。
同時に、ほんのわずかな寂しさもある。
自分だけが知っていた昔の彼から、ずいぶん遠くへ来たように感じるからだ。
だが、その寂しさを理由に彼を昔へ戻したいとは思わなかった。
「アンナマリー?」
「何?」
「ぼーっとしてた」
「少し考えてただけよ」
「疲れた?」
「あなたほどじゃないわ」
「なんでそこで俺が出るの」
「日頃の実績」
「セリーみたいなこと言わないで」
ちょうど茶を運んできたセリーが足を止めた。
「お呼びでしょうか?」
「呼んでない」
「そうですか」
セリーはアルの前へ茶を置き、アンナマリーの分も並べる。
アンナマリーは二人を見比べた。
「ところで、今日は手をつないでないの?」
アルがむせた。
「急に何を言うの」
「最近、距離が近いから」
「仕事中だよ」
「じゃあ仕事が終わったら?」
「知らないよ」
アルの耳が赤くなる。
セリーは平然としていたが、茶器を置く指がほんの少しだけ止まった。
「その時に決めます」
アンナマリーは一瞬黙り、それから声を立てて笑った。
「何?」
「いえ。二人とも同じようなこと言うようになったと思って」
「そう?」
「ええ」
アルはセリーを見る。
セリーもアルを見る。
似ているのかどうかは、自分たちにはよく分からなかった。
◇
夕方、王立魔導研究院から予想より早く追加の返信が届いた。
正式な資料送付ではない。
照会を受理したという通知と、担当部署からの補足だった。
『指定された三名称について、旧技術資料目録を確認中。なお「機械式張力逃がし」および「張力逃がし爪」に類似する名称は複数施設の資料に存在するため、特定施設固有の設備名ではない可能性が高い』
アルはその一文を二度読んだ。
「これ、大事だね」
アンナマリーも頷く。
「旧保養施設だけのものじゃない可能性が高くなった」
「うん。少なくとも『張力逃がし』って言葉が出たから旧保養施設の特殊設備だ、とは言えなくなった」
続きには、さらに一つの情報があった。
『同種設備は、旧式の長距離呼出線、医療区画間連絡線、警備信号線、一部の転送補助系統等で使用例あり。用途ごとに構造差が存在するため、部品名称のみで用途を特定することは困難』
「転送補助系統」
アルの目がそこで止まる。
アンナマリーも同じ文字を見た。
帰還管理。
古い転送設備。
木片。
表示。
数。
頭の中で、いくつもの情報が一瞬だけ近づいてくる。
アルは無意識に息を止めていた。
(つなげたくなる)
自分でも分かるほど強かった。
張力逃がし爪が転送補助系統にも使われていた。
旧保養施設には似た部品が落ちていた。
あの子は「もどる」と言っている。
帰還管理所にも似た印がある。
ここまで並べれば、一つの答えに見えてしまう。
「アル」
アンナマリーの声が届いた。
「うん」
「今、何を考えた?」
アルは書類から目を離した。
「全部つながるかもしれないって、一瞬思った」
「私もよ」
「でも、同じ部品が呼出線にも医療連絡にも警備信号にも使われてる」
「そうね」
「だから転送補助にも使われたってだけじゃ、旧保養施設のあれが転送用だったことにはならない」
「ええ」
二人はしばらく黙って書類を見た。
魅力的な仮説ほど、事実のように見えやすい。
「エル」
『はい』
「この返事、ガルムたちにも送って。ただし、転送補助って部分だけ抜き出さず全文で」
『承知しました』
「フェリクスにも」
『同一資料を共有します』
「あと……あの子のところには?」
アルはそこで言葉を止めた。
旧保養施設の子供に、この情報を伝える必要があるのか。
今はない。
設備の用途すら分からない段階で「転送に使われた部品かもしれない」と伝えれば、木片や「もどる」という言葉への恐怖を強める可能性がある。
「共有しないで」
『了解しました』
「必要になったら、その時考える」
『はい』
◇
旧保養施設では、研究院からの情報を受け取ったフェリクスが、珍しくすぐには喋らなかった。
ガルムが怪訝そうに見る。
「どうした?」
「いやあ……」
「何だ」
「これは、危ないですね」
「設備が?」
「私の頭がです」
ガルムの眉間に皺が寄る。
「意味が分からん」
「転送補助系統にも同種部品が使われていた、とあります」
「あるな」
「帰還管理所の資料もあります。子供の証言にも『もどる』がある。木片にも似た印がある」
「それで?」
「全部つなげると、とても綺麗です」
「だからつなげないんだろ」
「はい」
フェリクスは大きく息を吐いた。
「綺麗すぎるんですよ」
リディアが資料を受け取る。
「しかも研究院は、医療連絡線や警備信号線にも使われたと書いています」
「ええ。部品だけでは用途を特定できない」
「なら、今やることは変わりませんね」
「観測継続。図面比較。設備には触れない」
ガルムが頷いた。
「それと、今夜も同じ位置で見る」
「はい」
「昨夜光ったからって、その窓だけ見続けるなよ」
トーマスが少し離れたところから答える。
「全体も見ます」
「それでいい」
新しい情報が増えた。
だが、やることが急に増えたわけではない。
むしろ、分からない範囲が広がったことで、急いで触る理由は減っていた。
◇
その夜。
アルは塔の中庭へ出ていた。
昼間の曇り空は夕方から晴れ、頭上には星が見えている。石造りの壁に囲まれた中庭には冷たい風が入り込み、草の匂いと夜露の湿り気が混ざっていた。
隣にはセリーがいる。
仕事は終わっている。
二人は石造りの長椅子へ少し間を空けて座っていた。
「アンナマリーに言われた」
アルが突然口にした。
「何をでしょうか?」
「仕事が終わったら手をつなぐのかって」
「はい」
「セリー、普通に『その時に決める』って言ってたね」
「はい」
「恥ずかしくなかった?」
セリーは少し考える。
「少しは」
「そうなんだ」
「主様は?」
「かなり」
「存じております」
「またそれ言う」
アルは笑いながら夜空を見る。
しばらく二人とも黙っていた。
触れていなくても、居心地は悪くない。
今朝は三本の指を重ねて歩いた。
だから夜も触れなければならないわけではない。
「セリー」
「はい」
「今は?」
何を、とまでは言わなかった。
それでもセリーには伝わったらしい。
彼女は自分の手を膝の上で見つめたあと、アルへ視線を戻した。
「今は、もう少し近くに座りたいです」
アルの胸が少し速くなる。
「手じゃなくて?」
「はい」
「分かった」
アルは長椅子の上で少し横へ移動した。
セリーも同じように距離を縮める。
肩が触れるほどではない。
だが、互いの体温を意識できる距離になった。
「これくらい?」
「もう少し」
セリーがさらに少し近づいた。
今度は、服の袖同士が触れる。
アルは動かなかった。
(近い)
それだけの言葉では足りないほど、意識してしまう。
指を触れ合わせるのとは違う。肩から腕にかけて、隣にいる人の存在がずっと分かる。
「嫌ですか?」
「全然」
アルはすぐに答えたあと、少し照れながら続けた。
「むしろ、好き」
言ってから、自分で固まった。
セリーも動きを止めた。
「……距離が」
アルが慌てて付け足す。
「この距離が好きって意味」
「はい」
「セリーが嫌って意味じゃなくて」
「存じております」
「今のはその言葉に助けられた」
セリーの唇がわずかに緩んだ。
袖が触れたまま、二人は夜空を見る。
名前を付ける必要はない。
今日ここまで近づいたから、明日も同じ距離でいなければならないわけでもない。
触れたい日は触れる。
少し離れたい日は離れる。
それでも、相手を大切に思う気持ちまで毎回測り直す必要はない。
「主様」
「ん?」
「私は、この距離も好きです」
アルは横を向いた。
セリーもこちらを見ている。
「そっか」
「はい」
それ以上は言わなかった。
袖と袖が触れたまま、二人はしばらく中庭に座っていた。
◇
深夜の旧保養施設。
推奨位置には、トーマスと別の観測者が立っていた。
昨夜光った小表示窓だけを見続けないよう、統合盤、旧夜間詰所側、西壁、廊下奥を順番に確認する。
午前一時。
変化なし。
午前二時。
変化なし。
昨夜発光があった時刻を過ぎても、小表示窓は暗いままだった。
トーマスはその事実を記録する。
午前三時二十分。
変化なし。
午前三時四十一分。
トーマスが統合盤から視線を外し、西壁側へ向けた時だった。
何かが光ったわけではない。
音もない。
ただ、西壁の低い位置にある古い細長い金属板の一部が、昨日よりわずかに傾いて見えた。
以前から記録されている、薄い金属片とは別の場所だった。
トーマスは近づかなかった。
隣の観測者へ、どこを見るかを伝えずに尋ねる。
「西壁側で、昨日までの記録と違って見える場所がありますか?」
観測者は時間をかけて壁全体を確認した。
「……低いところの細長い板が、少し右下がりに見えます」
「位置を記録してください」
「はい」
二人は別々に書く。
その金属板が本当に動いたのかは分からない。
昨日までの写真との比較もまだ行っていない。
照明の角度や見る位置による違いかもしれない。
それでも、「違って見えた」という事実だけは残せる。
トーマスは記録を書き終え、再び壁から視線を離した。
何も触らない。
何も確かめに行かない。
朝になれば、昨日までの記録と比較できる。
答えを急がなくても、違いは逃げない。
夜の廊下には、その後も光も音も現れなかった。




