第108話 動いたように見えたもの
夜明け前の旧保養施設には、夜間観測を終えた者たちの低い話し声と、朝の冷え込みを含んだ空気が残っていた。
午前三時四十一分、西壁の低い位置にある細長い金属板が、それまでよりわずかに右下がりに見えた。最初に気づいたトーマス・ベルンは近づかず、もう一人の観測者にも具体的な場所を教えないまま壁全体を見てもらい、二人が独立して近い位置の違和感を記録している。
それ以上の変化はなかった。
統合盤は光らず、旧夜間詰所側の小表示窓も暗いまま、音も聞こえなかった。受動計器にも基準範囲を超える変化はなく、夜が明けるまで西壁へ近づいた者はいない。
ガルムが現場へ来たのは、窓の外が薄く白み始めた頃だった。
「写真は?」
「こちらです」
リディアが前日までの記録写真を机へ並べる。
写真は設備調査を始めた当初から、可能な限り同じ場所、同じ高さから撮影されている。ただし完全な固定撮影ではなく、照明や撮影者の立ち位置に多少の違いがあった。
ガルムは昨夜の記録と写真を交互に見た。
「分かるか?」
「まだ何とも言えません」
リディアは即答した。
「昨日の昼に撮ったものでは、問題の金属板はほぼ水平に見えます。ただ、一昨日の写真はわずかに右下がりにも見えます」
「戻った可能性もある?」
「それを言うには早いです。撮影角度の違いだけでも説明できます」
ガルムは頷き、少し離れた場所で待っているトーマスを見る。
「お前は今、見に行ったか?」
「いいえ。夜に見た印象を、昼の見え方で上書きしたくなかったので」
「なるほど」
「でも、写真で比較した方がいいなら参加します」
「先に記録を確定してからだな」
トーマスは昨夜の記録板を差し出した。
そこには「西壁低位置、細長い金属板と思われる箇所が、それ以前の観測時より右下がりに見えた」とだけ書かれている。動いた、ずれた、外れたという言葉は使われていない。
もう一人の記録も似ていた。
「よし」
ガルムは二枚を重ねず、並べたまま置いた。
「これで残す」
そこへフェリクスがやって来た。
寝起きらしく髪の一部が跳ねているものの、目だけは完全に覚めている。
「動いたんですか?」
「そういう聞き方するなら帰れ」
「まだ何もしていませんよ」
「今した」
フェリクスは一瞬きょとんとしたあと、自分の言葉を振り返った。
「ああ……なるほど。『動いたんですか』では、既に動いたことを前提にしていますね」
「二人には違って見えた。それだけだ」
「了解です」
フェリクスは机へ近づきすぎない位置で止まった。
「では、違って見えた金属板について、過去写真との比較をしても?」
「触らないならな」
「写真を?」
「壁もだ」
「もちろんです」
リディアが古い記録箱から、さらに数日前の写真を取り出した。
こうした「何も起きなかった日」の写真は、以前なら重要度が低いとして省かれていたかもしれない。だが今は、変化がないことも比較の基準になるため、一定間隔で残されている。
フェリクスは四枚を年代順に並べた。
「これは……面白いですね」
「何がだ?」
「動いたかどうか、写真だけでは全然分かりません」
ガルムが眉を寄せた。
「面白いのか、それ」
「ええ。人間は比較資料があれば分かると思いがちですが、比較方法が揃っていなければ、資料が増えても判断できないことがある」
フェリクスは一枚を指ささず、視線だけを移していく。
「この二枚は板の右端が下がって見える。こちらはほぼ水平。しかし壁の縦目地を見ると、撮影位置自体が少し傾いています」
リディアも写真を見比べた。
「撮影基準を追加しますか?」
「また基準が増えるな」
ガルムが低く唸る。
「増やせば正確になるとは限りません」
フェリクスが言った。
「撮影のために現場へ物を増やしすぎれば、今度はそれ自体が観測条件を変える可能性もあります。設備へ触れない場所に固定台を置く案はありますが、それもまず安全確認が必要でしょう」
「今夜までに作る必要はないな」
「ありません」
リディアが記録板へ追記する。
「では現状は、『過去写真との単純比較では位置変化を確定できず』。次回以降、既存の推奨観測位置の一つから、壁面全体を同じ画角で記録できるか試す。それ以上はしない」
「それでいこう」
ガルムは西壁を遠くから見た。
そこに何かがあるのかもしれない。
何もないのかもしれない。
今の彼らが持っているのは、「二人には少し違って見えた」という小さな事実だけだった。
◇
古の塔では、アルが朝食を食べ終えた頃に夜間報告を受け取った。
エルの説明を最後まで聞いたあと、アルはすぐに西壁について尋ねなかった。
「怪我人はいない?」
『いません』
「患者の様子に変化は?」
『夜間の設備観測と関連づけられる体調変化は報告されていません』
「分かった。それなら、今の観測方法を続けて」
『ガルムも同様の判断です』
「写真で分からないなら、分からないままでいい。板を真っすぐに戻して比較するとかはしないで」
『現場も接触を予定していません』
アルはそこでようやく、テーブルに置いていたパンへ手を伸ばした。
向かいではセリーが果物を切り分けている。
「主様」
「ん?」
「今日は食事を止めたままになりませんでしたね」
アルは自分の手元を見た。
「前は止まってた?」
「長い時には、報告終了後もしばらく」
「そうだったか」
「はい」
責めるような声ではない。
アルはパンを一口食べ、少し考えた。
「気にならなくなったわけじゃないんだけどね」
「はい」
「でも、俺が今食べるのをやめても、西壁の板がどうなってるかは変わらないし」
「その通りです」
「……セリー、今ちょっと嬉しそう?」
「少し」
「健康管理担当として?」
セリーのナイフが止まった。
アルは彼女を見る。
以前なら、「そうです」と即答されていたかもしれない。
「それもあります」
「それも?」
「主様が、ご自分の生活を途中で捨てなくなったことが嬉しいです」
アルは言葉を失った。
セリーは切った果物を皿へ移し、何事もなかったように続ける。
「こちらも召し上がりますか?」
「……食べる」
皿を受け取る。
(こういうの、ずるいな)
本人にそのつもりがないことは分かっている。
それでも胸の奥が温かくなり、少しだけ顔を伏せたくなった。
◇
午前中、リューネ町役場から昨日の相談について続報が届いた。
過去の記録を消してほしいと申し出た男性について、町側ではその場で削除も拒否もせず、既存の保存制度を確認した。その結果、会計や支援金支給に関する一部の記録には法定保存期間があり、本人の希望だけで即時削除することはできないと分かった。
一方、生活相談の詳細な聞き取り内容については、通常の相談時に自動表示させない設定が可能だった。
ただし、それは過去にほとんど使われていない機能だった。
「機能としてはあったの?」
アルが尋ねる。
『はい』
エルが答える。
『役場の旧記録管理手順では、「閲覧制限付記」という処理が存在します。主に家庭内暴力、保護対象者の所在、医療上の秘匿情報等を扱うための機能として設けられています』
「今回みたいな本人希望でも使える?」
『現行手順には明確な禁止も許可もありません』
「また曖昧なところだな」
アルは記録を読み直した。
町側は勝手に適用せず、本人へ説明したうえで選択肢として提示している。
法定保存が必要な記録は消せない。
生活相談記録も今すぐ完全削除できるかは審査が必要。
しかし、通常相談で過去内容を自動表示させず、必要な場合にも本人への確認を挟む「閲覧制限付記」は技術的に可能。
男性は説明を聞いたあと、その方法を希望した。
ただし、「永久に絶対見せない」ではなく、「普段は開かない。自分が使っていいと言った時は使えるようにしたい」と話したという。
「昨日、本人は『全部消してほしい』って言ってたよね」
『はい』
「今日は、残ってても普段見ないならそれでいいって?」
『正確には、「消せない理由があるなら、勝手に使われないようにしてほしい。その方が今はいい」と述べています』
アルはその言葉をゆっくり読んだ。
「理由を知って、選び方が変わったんだ」
『そのように解釈することは可能ですが、記録上は本人の発言のみを保存しています』
「そうだね」
アルは苦笑した。
「すぐ意味をまとめたくなるな、俺」
近くで書類を読んでいたアンナマリーが顔を上げた。
「でも今回は、説明を聞いたことと選択が変わったことは事実でしょう?」
「うん。ただ、説明されたから納得した、とまで決めない方がいいかなって」
「本人は『今はいい』と言っているものね」
「明日また全部消したいって言うかもしれない」
「その時は?」
「また聞く」
アルは即答した。
「ただし、法定保存分まで消せるみたいには言わない。できないものはできないって説明する。その上で、変えられるところを一緒に探す」
アンナマリーは頷き、報告の最後へ目を移した。
「町側から、この機能を試行中の他の相談者にも知らせるかどうか聞かれてるわ」
「全員に?」
「候補としてね」
アルは考え込んだ。
便利な機能が見つかった。
ならば全員へ知らせる。
一見すると良いことに思える。
だが、相談へ来るたび「過去記録を見せますか、見せませんか」と選ばされるようになれば、それ自体が新しい負担になる可能性がある。
「今すぐ全員に聞くのはやめよう」
「理由は?」
「選ばなくてよかった人にまで、新しい選択を毎回させることになるから」
「では、どうする?」
「窓口で『過去記録の扱いについて希望がある場合は相談できる』って分かるようにする案はどうかな。でも、それも張り紙を増やす前に、町の代表たちに見てもらう」
「また張り紙を増やさないために?」
「うん。壁が説明だらけになったら、今度は何を読めばいいか分からなくなる」
アンナマリーが小さく笑う。
「役場の壁を心配する元王太子なんて、あまりいないでしょうね」
「元を強調しないでよ」
「事実でしょう?」
「そうだけど」
アルも笑った。
以前なら、制度を整えることは規則を増やすことだと思っていた。
今は、選択肢を増やしすぎないことも制度の一部なのだと分かり始めている。
◇
白鴉療養所では、三〇八号室の少年が朝から小箱へ触れていなかった。
赤い布に包まれた残りの手紙も、昨日一行だけ読んだ手紙も、同じ場所に置かれている。
ヨアヒムは診察を終えると、今日の白い薬について説明した。
「昨日と同じ量にしますか。それとも、今日は減らすことについて話しますか?」
少年はすぐには答えず、自分の腕を見た。
「減らしたら、どうなる?」
「必ず何かが起こるとは言えません。今までより記憶や感情が強く出る可能性がありますし、眠りにくさや不安が増える可能性もあります。逆に、大きな変化がないこともあります」
「増やすこともできる?」
「必要があれば。ただし、あなたが嫌だと言っているのに、理由なく元の量へ戻すことはしません」
「具合悪くなったら?」
「その時は一緒に考えます。急いで戻す必要がある状態なら、その理由を説明します」
少年は眉を寄せる。
「一緒にって、俺が分かんなかったら?」
「分からないと言って構いません」
「それで決められるの?」
「命に関わるような緊急時なら、私たちが最低限必要な処置を判断する場合があります。でも、今はそういう状況ではありません」
ヨアヒムはそこで言葉を切り、少年の表情を見た。
「今日の薬については、急いで決める必要はありません」
少年はベッドの端へ座ったまま、床へ視線を落とした。
「減らしたい」
「はい」
「でも、怖い」
「はい」
「両方でもいい?」
「もちろんです」
「どっちが本当とかじゃなくて?」
「どちらも今のあなたの気持ちでしょう」
少年は少し黙った。
やがて、小箱の方へ目を向ける。
「手紙も、読みたいけど怖い」
「そうですか」
「昨日、一行読んだら……知らない花が出てきた」
ヨアヒムは頷くだけで、王宮の庭について話を広げなかった。
「知らないのが怖かった。俺が本物なら知ってなきゃいけない気がして」
「昨日は、そこで読むのを止めましたね」
「うん」
「今日はどうしますか?」
「今は読まない」
「分かりました」
「薬は……」
少年はまた迷った。
ヨアヒムは待つ。
「今日は同じでいい」
「はい」
「でも、次は減らしたいって言ってもいい?」
「もちろんです」
「今日同じにしたのに?」
「今日の選択は、次回の量を固定する命令ではありません」
少年の目が少し大きくなる。
「……そういう言い方、変だな」
「そうですか?」
「でも分かる」
ほんの少し笑った。
ヨアヒムも表情を緩める。
薬は今日も同じ量になった。
それは後退ではない。
減らさなかった日として、そのまま一日が続いていく。
◇
旧保養施設の子供は、昼前になると窓際の低い机の前へ座っていた。
木片の横には「みち」。
少し離れた新しい机には「やすみ」。
配置は変わっていない。
ナディアは部屋の隅で布を畳んでおり、子供の手元を見張るようなことはしていなかった。
子供はしばらく木片を眺めていたが、やがて「みち」と書かれた紙を手に取った。
「ナディア」
「なあに?」
「これ、しまってもいい?」
ナディアは布を置いた。
「『みち』の紙?」
「うん」
「いいよ。どこにしまいたい?」
子供は少し考え、首を横へ振った。
「どこでもいい?」
「なくならない場所なら、箱でも引き出しでも選べるよ」
「見えなくても?」
「あなたがそうしたいなら」
子供は紙を胸元へ持ってきた。
「見えなくしたら、みち、なくなる?」
ナディアはすぐに「なくならない」と答えかけ、言葉を選び直した。
「紙が見えなくなっても、紙は残るよ。でも、この紙があなたにとって何を意味しているかは、私が勝手に決められない」
子供は難しそうな顔をした。
「……わかんない」
「じゃあ、分からないままでもいいよ」
「しまいたい。でも、なくなるのはいや」
「紙そのものは、しまってもなくならないようにできる」
「あとで出せる?」
「出せるよ」
「ほんと?」
「うん。自分で出してもいいし、届かない場所なら私に頼んでもいい」
子供は机の小さな引き出しを見る。
以前、自分で作った紙の輪や箱を入れている場所だ。
「ここ」
「そこにする?」
「うん」
子供は自分で引き出しを開け、「みち」の紙を入れた。
閉める前に一度だけ迷い、木片を見た。
「これは、ここ」
「木片は動かさない?」
「うん」
「分かった」
引き出しが閉じる。
机の上には木片だけが残った。
子供はしばらくそれを見ていた。
「……みち、見えない」
「うん」
「でも、ある?」
「引き出しの中に紙はあるよ」
「ぼく、しまった?」
「うん。あなたがしまった」
子供は引き出しへ手を置いた。
「あとで、ちがうって言ってもいい?」
「出したくなったら出せるよ」
「しまったの、うそになる?」
「ならないよ」
子供は何度か瞬きをした。
その言葉が何かに触れたようだったが、ナディアは理由を尋ねなかった。
「……先生は」
子供が小さく呟く。
ナディアは待つ。
「しまったら、終わりって……言った?」
疑問の形だった。
「そう言われた記憶があるの?」
「わかんない」
「そっか」
「言ったかも。ちがうかも」
「じゃあ、今はそれでいいよ」
ナディアは記録用紙へ手を伸ばさなかった。
子供も何も言わない。
少し経つと、彼は新しい机へ移り、「やすみ」の紙を持って戻ってきた。
「これは、ここにする」
木片の横へ「やすみ」を置く。
「今はそうしたい?」
「うん」
ナディアは頷いた。
「分かった」
「書く?」
「書いてほしい?」
子供は首を横へ振った。
「いらない」
「じゃあ書かない」
机の上には、木片と「やすみ」が並んだ。
昨日までそこにあった「みち」は引き出しの中にある。
消えたわけではない。
捨てられたわけでもない。
ただ、今は見える場所に置かないことを、子供自身が選んだ。
◇
午後になり、王立魔導研究院から技術資料の目録抜粋が届いた。
正式な本文資料ではなく、照会した名称に該当または類似する項目の一覧である。
アル、アンナマリー、ブラート、セリーが記録室へ集まり、エルが壁面へ一覧を表示した。
『該当候補は十四件です』
「多いな」
アルが思わず言う。
『うち、旧保養施設を設置元または使用施設として明記しているものは三件です』
「まずそこから見よう」
表示が切り替わる。
一件目。
『旧王室管理保養施設・北系統連絡線改修記録』
二件目。
『旧王室管理保養施設・夜間呼出補助設備点検簿』
三件目。
『旧王室管理保養施設・保持系統設備停止前確認書』
アルの視線が三件目で止まった。
「保持系統」
ブラートも同じ箇所を見ている。
「以前の『西補助保持区画』と似た語ですね」
「似てる。でも同じとは限らない」
「はい」
アンナマリーが目録の年代を見る。
「三つとも年代が違うわ。北系統連絡線改修記録が最も古い可能性が高く、夜間呼出補助設備がその後。保持系統設備停止前確認書はさらに後だけれど、正確な年号は一部欠損」
「内容閲覧できる?」
『一件目と二件目は通常技術資料として閲覧申請可能です。三件目は「関連保護記録参照あり」のため、追加審査が必要とされています』
「保護記録って、何の?」
『目録上は不明です』
アルは椅子へ深く座った。
また同じ言葉が現れた。
保持。
保護。
しかし、これまで確認した古い記録では「保護対象」が薬棚を指すことも、記録群を指すことも、人やそれ以外の移送待機個体を指すこともあった。
「三件目だけ急いで見ようとしない方がいいかな」
アンナマリーが尋ねる。
「俺はそう思う。まず一件目と二件目」
「理由は?」
「普通に見られる資料だから。それに今起きてる音と発光に、連絡線と夜間呼出設備が関係する可能性もある。保持系統が気になるからって、審査が必要な資料だけ先に追う理由はない」
ブラートが頷く。
「研究院へ二件の閲覧申請を?」
「うん。三件目は存在と条件だけ残しておこう」
『承知しました』
エルが申請案を作り始める。
セリーは壁面の目録を見ながら、静かに尋ねた。
「主様は、三件目をご覧になりたいですか?」
「見たい」
アルは隠さなかった。
「かなり気になる」
「では、なぜ今は申請されないのですか?」
「見たいことと、先に見る理由があることは別だから」
少し考え、アルは続けた。
「それに、『関連保護記録参照あり』って書いてある。もし誰かの個人情報につながるなら、こっちが何を調べたいのか整理してから申請した方がいい」
「はい」
「……我慢してる感じはあるけどね」
セリーの口元が少し緩んだ。
「我慢されているのですね」
「そこ笑うところ?」
「いいえ」
「笑ってたよ」
「少しだけです」
アンナマリーも小さく笑い、記録室の緊張がほどけた。
◇
閲覧申請を送ってから一時間ほど経った頃、旧保養施設から昼間の追加確認が届いた。
昨夜違って見えた西壁の金属板について、推奨観測位置から同じ画角になるよう試験的に撮影したところ、少なくとも現在は右下がりに見えることが確認された。
ただし、過去の写真が同条件ではないため、「以前からこの角度だった可能性」を排除できない。
それだけなら、朝とほとんど状況は変わらない。
だが、リディアが別のことに気づいた。
問題の金属板のすぐ脇に、古い塗装の剥がれがある。
その剥がれの形が、数日前の写真とわずかに違って見えたのだ。
「剥がれ?」
アルはエルへ聞き返した。
『はい。現在の写真では、金属板右端付近の壁面に、細い明色部が確認できます。過去写真では影に隠れている可能性があり、存在しなかったとは断定できません』
「近づいて調べた?」
『していません』
「触っても?」
『いません』
「なら、そのままで」
アルは写真を拡大表示させた。
確かに、金属板の右端付近に髪の毛ほど細い明るい筋がある。
何かがずれて、下に隠れていた壁面が見えたようにも見える。
だが、それは「そう見える」だけだ。
「フェリクスは何て?」
『「動いた可能性は上がったが、いつ動いたかは全く分からない」としています』
「まともだ」
『ガルムも同様の発言をしています』
「そこまで報告しなくてもいいよ」
『発言記録に含まれています』
アルは苦笑した。
「でも、もし本当に動いてたとしても、夜中に動いたとは限らないんだよね」
『はい。過去の比較写真の条件が揃っていないため、変化時点を特定できません』
「昨夜は音も光もなかった」
『その通りです』
つまり、金属板が実際に動いていたとしても、これまで観測してきた発光や音との関係は分からない。
時間が近いという材料すら今回はない。
「今夜も見る?」
『現場は同条件での観測継続を予定しています』
「それでお願い」
◇
夕食後、アルは塔の資料室へ向かった。
目的は、研究院の資料を待つあいだに、エルが見つけた塔内の古い設備資料を確認することだった。
セリーも一緒に来ている。
資料室の奥には、古代の魔導具に関する設計記録や整備手順が残されている。ただし塔そのものが二千年前の遺産であるため、王国の旧施設で使われた設備とは時代が大きく異なる。
似た言葉や構造があっても、直接つなげることはできない。
『該当候補を三件抽出しました』
エルが机上へ光の文字を浮かべる。
一つは、塔内の遠隔呼出装置。
一つは、転送室の負荷分散機構。
もう一つは、生命維持区画の圧力保持補助具。
「全部違う用途だね」
『はい』
「でも、共通する部品がある?」
『構造は異なりますが、「急激な張力変化を逃がす」という目的を持つ機構が三種すべてに存在します』
アルは図面を見る。
細部は理解できないが、一本の線に過剰な力がかかった時、それを別方向へ逃がして本体の破損を防ぐ仕組みらしい。
「じゃあ研究院の返事と似てるんだ。用途が違っても、同じような目的の部品が使われる」
『概念としては類似します。ただし、塔の機構と王国の旧設備に技術的連続性があるかは不明です』
「そこは分ける」
アルは三つの図を眺めた。
「エル、この部品が壊れたらどうなる?」
『どの設備についてでしょうか』
「全部」
『遠隔呼出装置では、線路の一部に負荷が集中し、信号伝達が不安定になる可能性があります。転送室では安全停止が働きます。生命維持区画では補助機構が切り替わり、保守警告が発生します』
「同じような役割でも、結果は違うんだ」
『はい』
「王国の古い設備なら?」
『設計資料なしには判断できません』
「だよね」
アルは椅子へ背を預けた。
同じ部品名。
似た役割。
それでも、何に使われているかによって壊れた時の意味は違う。
(あの金属板も同じだ)
もし動いていたとしても、それだけでは危険なのか、安全装置が働いたのか、単に古い部品が緩んだのかすら分からない。
セリーが隣の椅子へ座った。
「主様」
「ん?」
「今日は、かなり長く資料をご覧になっています」
「疲れてるように見える?」
「少し」
「じゃあ終わりにしようかな」
アルはあっさり記録を閉じた。
セリーが一瞬だけ目を瞬かせる。
「もっと抵抗されるかと思いました」
「俺、そんなに信用ない?」
「以前の実績がございます」
「ガルムがフェリクスに言ってたのと同じだ」
「では、適切な表現なのですね」
「二人してひどいな」
立ち上がると、セリーも続いた。
資料室を出て廊下を歩き始める。
昨日の夜は袖が触れる距離で中庭に座った。
今夜はまだ触れていない。
アルは隣を歩くセリーの手を一度見たが、すぐに前へ視線を戻した。
「主様」
「何?」
「今、私の手をご覧になりましたか?」
「……見た」
「つなぎたいですか?」
アルは少し考える。
「今は、ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、とは?」
「手のひら全部じゃなくて、指一本くらい」
セリーが右手を少し持ち上げた。
「では」
アルも左手を上げ、小指だけを触れ合わせる。
最初にこうした時には、それだけで心臓がうるさいほど鳴っていた。
今も嬉しい。
けれど、以前とは少し違う。
触れること自体に驚くより、「今日はこれがいい」と互いに選べることの方が心地よく感じられた。
「昨日より遠いですね」
セリーが言う。
「うん」
「嫌ですか?」
「全然。セリーは?」
「私もです」
「じゃあいいね」
小指だけを触れたまま歩く。
昨日は袖が触れた。
朝には三本の指を重ねた日もあった。
手のひら全体を合わせたこともある。
近づいたり、少し離れたりするたびに、関係まで後戻りしたと考える必要はなかった。
◇
その夜、旧保養施設の観測は前夜と同じ条件で始まった。
西壁の金属板を特別扱いしすぎないよう、統合盤、旧夜間詰所側、北側通路、西壁を順番に確認する。
午前零時台。
変化なし。
午前一時台も、光も音もない。
問題の金属板は右下がりに見えるが、開始時から角度に変化はない。
午前二時十六分。
受動計器に小さな揺れが出た。
観測者はすぐに記録したが、基準範囲内だったため異常とはしなかった。
午前二時二十九分。
旧夜間詰所側の表示窓に変化はない。
午前三時を過ぎる。
昨夜金属板の違いに気づいた時刻が近づくが、西壁に変化はない。
そして午前三時三十八分。
廊下の北側から、低い音が一度だけ聞こえた。
金属が落ちたような鋭い音ではない。
木を軽く叩いたようにも、壁の奥で何かが短く動いたようにも聞こえる。
二人の観測者は互いに表現を相談せず、それぞれ記録した。
一人は「低い短音」。
もう一人は「鈍い小音。材質不明」。
音の方向は、二人とも北寄り。
西壁ではない。
統合盤は光っていない。
旧夜間詰所側の小表示窓も暗い。
受動計器にも変化はない。
西壁の金属板も、観測位置から見る限り動いていない。
午前三時四十二分。
追加の音はない。
午前三時五十分。
変化なし。
その後も朝まで、発光は起きなかった。
◇
翌朝、報告を受け取ったガルムは記録を読み終えると、机へ置いた。
「昨夜は北で音。西壁は変化なし」
リディアが頷く。
「少なくとも、今回の音と西壁の金属板の間に同時変化は確認されていません」
「だから関係ない?」
「それも言えません」
「そうだな」
フェリクスが眠そうな顔で資料室から現れた。
「おはようございます」
「寝たか?」
「二時間ほど」
「戻れ」
「重要な資料を見つけたんですが」
ガルムの顔が険しくなる。
「寝るのとどっちが重要だ」
「……寝ます。ただ、その前にこれだけ」
フェリクスは一枚の複写記録を机へ置いた。
「昨夜、研究院から来た目録の名称を参考に、ここの古い資料を検索し直しました。『夜間呼出補助』という言葉で一件、これまで拾えていなかった記録があります」
リディアが紙へ視線を落とす。
「なぜ今まで見つからなかったんです?」
「『夜間呼出』が一語ではなく、『夜間勤務時・呼出補助設備』と分かれて記載されていたからです」
「内容は?」
「短いです。設備停止時の注意書き」
ガルムが読む。
『夜間勤務時、呼出補助設備停止後も、保持表示が残る場合あり。表示残存のみをもって呼出継続と判断せず、主線状態を別途確認すること』
室内が静かになる。
リディアが最初に口を開いた。
「保持表示」
「ええ」
フェリクスの眠気が少し飛んでいる。
「ただし、この『保持』が、これまで見てきた保持系統や保護対象と同じ意味とは限りません。単に表示状態を一定時間保つという意味かもしれない」
「昨夜光ってないぞ」
ガルムが言う。
「はい。それに一昨日光った小表示窓が、この呼出補助設備の表示だったとも分かりません」
「じゃあ何が増えた?」
フェリクスは少し考えた。
「旧施設には、設備本体の状態と表示が一致しない場合があると注意されていた設備が、少なくとも一種類存在した」
「それだけだな」
「それだけです」
ガルムは紙を机へ戻した。
「なら寝ろ」
「はい」
今度のフェリクスは素直だった。
扉へ向かいかけ、途中で振り返る。
「二時間後に起こしてください」
「四時間寝ろ」
「資料が」
「四時間だ」
「三時間」
「四時間」
フェリクスはしばらくガルムを見たあと、諦めて肩を落とした。
「……分かりました」
彼が出ていくと、リディアが小さく笑った。
「信用、増えているんですよね?」
「増えたから寝かせてる」
「なるほど」
ガルムは窓の外へ目を向けた。
夜が明けている。
西壁の板が本当に動いたのかは、まだ分からない。
一昨日光った小表示窓の意味も分からない。
今夜聞こえた北側の音が何だったのかも分からない。
それでも、分からないもの同士を一つにまとめずに残していけば、少なくとも間違った答えを急いで作ることは避けられる。
そして、答えがまだないからといって、何も進んでいないわけでもなかった。
古い施設の記録は少しずつ増えている。
観測する側の方法も変わっている。
何より、壁を開けなくても得られる情報が、まだ残っていた。




