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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第109話 残る表示と、残らない意味



 古の塔に朝の光が入り始めた頃、アルは食堂で旧保養施設から届いた夜間報告を読んでいた。


 昨夜確認されたのは、午前三時三十八分頃の北寄りから聞こえた一度の低い短音だけだった。統合盤の発光はなく、旧夜間詰所側の小表示窓にも変化はなく、受動計器も基準範囲内。西壁の細長い金属板についても、観測位置から確認できる範囲では角度の変化が認められていない。


 さらに、フェリクスが古い資料から見つけた「夜間勤務時・呼出補助設備」の注意書きが添えられている。


『設備停止後も、保持表示が残る場合あり。表示残存のみをもって呼出継続と判断せず、主線状態を別途確認すること』


 アルはその一文を読み終えても、すぐには次へ進まなかった。


「保持表示……」


 向かいで朝食を準備していたセリーが顔を上げる。


「気になる言葉でしょうか?」


「うん。でも、気になるからこそ同じ意味にしない方がよさそう」


 アルは報告書をテーブルへ置いた。


「西補助保持区画、保持系統設備、保持表示。それに古い記録には保護対象って言葉もある。似た言葉が増えてきたけど、全部が同じ仕組みの話とは限らない」


「はい」


「むしろ今回の記録だと、保持って単に表示を残す意味かもしれない」


「設備が停止していても、表示だけ残る場合があるのですね」


「そう書いてある。ただ、今見てる表示窓がその設備かは分からない」


 セリーは焼いたパンと温かいスープを並べた。


「でしたら、朝食を召し上がりながらお考えください」


「報告を閉じろとは言わないんだ」


「読みながらでも食事が止まらなくなりましたので」


「信用が少し上がった?」


「観察結果に基づく暫定評価です」


「言い方が研究者みたいになってきたよ」


 アルが笑うと、セリーもわずかに目元を和らげた。


 スープを口へ運ぶ。温かさが喉から胸へ落ちていき、まだ完全には目覚めていなかった身体が少しずつ朝へ追いついてくる。


「フェリクスは?」


『現在休息中です』


 エルが答えた。


「ちゃんと四時間?」


『ガルムが休息開始時刻を確認しています』


「厳しいな」


『フェリクスは三時間への短縮を二度提案しましたが、却下されています』


「そこまで報告されてるの?」


『旧保養施設側の日誌に記録されています』


 アルは笑いながらパンをちぎった。


「起きたら文句言いそう」


『既に休息前に述べています』


「何て?」


『「研究者の睡眠時間まで警備隊長に管理されるとは思いませんでした」』


「ガルムは?」


『「自分で管理できてから言え」と返答しています』


 アルはとうとう声を立てて笑った。


 セリーも口元を少し緩めている。


 旧保養施設では、今も正体の分からない設備や記録を調べている。笑い話だけで済ませられる場所ではない。それでも、そこで働く者たちが四六時中緊張し続けなければならないわけでもなかった。


 アルは朝食を食べ終えてから、改めて報告書へ目を戻した。


「エル。研究院へ出した二件の閲覧申請は?」


『受理済みです。「旧王室管理保養施設・北系統連絡線改修記録」は本日中に複写可能との回答があります。「旧王室管理保養施設・夜間呼出補助設備点検簿」は保存状態確認後に複写可否を通知するとのことです』


「三件目はまだ申請してないよね?」


『はい。「旧王室管理保養施設・保持系統設備停止前確認書」については、存在と追加審査が必要であることのみ確認しています』


「そのままでいい」


 気にはなる。


 むしろ、三件の中では最も見たい。


 だが、見たいという気持ちだけを理由に順番を変える必要はない。


(気になるものを後に残しておけるようになったのは、少しは進歩なのかな)


 アルはそんなことを考えながら立ち上がった。


     ◇


 白鴉療養所では、三〇八号室の少年が朝食を終えたあとも、昨日一部だけ読んだ手紙を入れた小箱へ時折視線を向けていた。


 赤い布に包まれた残りの手紙とは分けられている。


 小箱の中には、一度開封し、冒頭の「我が息子アルフォンスへ」という一文だけを読んで閉じた手紙が一通。


 残りは読んでいない。


 ヨアヒムは診察を終えても、少年の視線について尋ねなかった。


「熱はありません。脈も昨日と大きく変わっていません」


「薬は?」


「昨日と同じ量を予定しています」


「昨日、俺がそうしたから?」


「昨日そう決めたことは参考にします。ただ、それだけで今日も同じ量に決まるわけではありません」


 少年は少し考えた。


「今日は減らしたいって言ったら?」


「まず、どのくらい減らすか、今の体調で問題がないかを一緒に確認します」


「じゃあ……今日は?」


「今、どうしたいですか?」


 少年は自分の両手を見た。


 昨日は減らしたいと思いながら、怖さもあって同じ量を選んだ。


 今日も怖くないわけではない。


「少し減らしたい」


「分かりました」


「でも、いっぱいは嫌だ」


「一度に大きく減らす予定はありません。前に量を調整した時と同じように、小さな変更にします」


 少年はそこでヨアヒムを見る。


「前に減らした時、俺、何て言った?」


 ヨアヒムはすぐに答えず、記録を確認する。


「量を減らしたいという希望はありました。ただ、その時々で不安や迷いも話しています」


「俺が言ったこと、全部覚えてる?」


「全部を私個人が覚えているわけではありません。必要な医療記録は残しています」


「……じゃあ、俺が違うこと言ってたら?」


「違う時に違うことを言っていても、それだけでおかしいとは考えません」


 少年の眉が寄った。


「昨日は同じで、今日は減らすのに?」


「はい」


「どっちかが間違いじゃなくて?」


「昨日は昨日の状態で選び、今日は今日の状態で選んでいます。薬ですから、身体への影響は私たちも確認しますが、昨日と同じことを言い続けなければならないわけではありません」


 少年はしばらく黙っていた。


「……じゃあ、少し減らす」


「はい」


「怖くなったら言う」


「お願いします」


 ヨアヒムは量を確認し、急激な変更にならない範囲で白い薬をわずかに減らした。


 少年は薬を受け取り、しばらく眺めてから飲んだ。


 すぐに何かが起きるわけではない。


 ヨアヒムも、変化を期待するように見つめ続けたりはしなかった。


「今日はこのあと、どうしますか?」


「分かんない」


「では、決めなくても構いません」


 少年は小箱へ目を向けた。


「手紙、読むかもしれない」


「はい」


「読まないかもしれない」


「はい」


「決めてないって書く?」


「医療上必要なことではないので、今の発言を必ず記録する必要はありません」


「そっか」


 少年は少し安心したように枕へ背を預けた。


 何かを言うたび、それが自分を縛る記録になるわけではない。


 少なくとも、この部屋では。


     ◇


 同じ頃、旧保養施設の子供は机の引き出しを開けていた。


 昨日しまった「みち」の紙が、中にある。


 ナディアは少し離れた場所で朝の片づけをしていたが、引き出しの音に気づいても近づかなかった。


 子供は紙を取り出さず、指先で端へ触れる。


「ナディア」


「なあに?」


「ある」


「うん」


「きのう、しまった」


「そうだね」


「なくなってない」


「うん」


 子供は引き出しを閉じた。


 それから、机の上に残していた木片と「やすみ」の紙を見る。


「出さなくてもいい?」


「『みち』を?」


「うん」


「いいよ」


「ずっと?」


 ナディアは少し考えた。


「ずっと出さなくてもいいし、あとで出してもいい。でも、今ここで『ずっと』を決めなくてもいいよ」


 子供は首を傾げる。


「きょう、出さない?」


「今日は出さないって決めることもできる」


「じゃあ、きょう出さない」


「分かった」


 子供はそれだけ言うと、木片の隣に置いてある「やすみ」の紙を少しだけ自分側へ寄せた。


 ナディアはその動きを見たが、何も書かなかった。


 昨日、子供自身が「書かなくていい」と選んでいる。


 配置が変わるたび記録することは、今の彼にとって必要ではない。


 しばらくして、子供がもう一度口を開いた。


「先生は、いっぱい書いた」


 ナディアの手が、畳んでいた布の上で止まる。


「前にも、そう話してくれたね」


「うん」


「今日は、そのことを話したい?」


 子供は木片を見る。


「ちょっと」


「分かった。聞くよ」


「ぼくが、いやって言ったのも?」


 問いかけだった。


「先生が書いたかどうか?」


「うん」


「覚えてる?」


「……わかんない」


「じゃあ、分からないでいいよ」


「でも、消した」


 ナディアは呼吸を浅くしないよう、ゆっくり息を吸った。


 以前、子供は「いや」と書かれた記録を先生が消したと話している。


 それと今の話が同じ出来事なのかは分からない。


「何を消したのか、今思い出した?」


「いやって」


「紙に書いてあった?」


「……たぶん」


「先生が消したところを見た?」


 子供は黙った。


 ナディアはそれ以上続けず、待つ。


「見た……かも」


「『見たかも』なんだね」


「うん」


「それでいいよ」


 子供は眉を寄せた。


「ほんとに?」


「うん。見たって決めなくてもいいし、見てないって決めなくてもいい」


「でも、ほんとはひとつ?」


「昔、本当に何が起きたかは一つかもしれない。でも、今あなたが思い出せることがはっきり一つじゃなくてもいいよ」


 子供は長い間黙っていた。


「……先生、さいごがほんとって」


 以前にも出た言葉だった。


 ただし、今回も確信のある言い方ではない。


「そう言ったと思う?」


「たぶん」


「言葉はそのまま?」


「わかんない」


「分かった」


 ナディアはその不確かさを消さなかった。


「きのう、みち、しまった」


「うん」


「きょうも出さない」


「うん」


「でも、みち、あった」


「引き出しの中にあったね」


 子供は小さく頷く。


「さいごだけじゃなかった」


 ナディアは胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。


 だが、それを答えに変えない。


「そう思ったの?」


「うん。きのう、しまったのも、あった」


「うん」


「きょう出さないのも、ある?」


「あなたが今日そう決めたことは、今日のこととしてあるよ」


「あとで出しても?」


「うん」


 子供は木片の横の「やすみ」を見た。


「……じゃあ、いい」


 それが何に対する「いい」なのか、ナディアには分からなかった。


 だから尋ねなかった。


 少し経つと、子供は紙を使って小さな箱を折り始めた。


 話はそこで終わった。


 ナディアは後になっても、すぐに共有記録へ書かなかった。


 本人が話したことの中には、以前から共有を許していない内容と近いものが含まれている。今ここで「重要そうだから」という理由だけで外へ出すことはできない。


 必要なら、本人に改めて聞く。


 今はまだ、その必要性すら急いで決めなくてよかった。


     ◇


 昼前、王立魔導研究院から最初の複写資料が届いた。


『旧王室管理保養施設・北系統連絡線改修記録』


 記録室にはアル、アンナマリー、ブラートが集まり、セリーは少し離れた場所で茶の準備をしている。


 資料は十数枚。


 古い紙を複写したものらしく、一部は文字が薄い。


「まず何が書いてあるかだけ見よう」


 アルが言った。


「今の施設に当てはめるのは後」


「ええ」


 アンナマリーが頷く。


 改修記録によれば、北系統連絡線は元々、施設内の複数区画を結ぶ呼出・状態通知用の線路として設けられていたらしい。


 ただし、一枚目から重要な注意書きがあった。


『北系統と称するも、増設により東寄り区画及び中央補助区画を含む。方角名称を現行配置と混同せぬこと』


 アルは思わず顔を上げた。


「北系統なのに、北だけじゃない」


「増設で名称と実際の配置がずれたのね」


 アンナマリーが図面へ目を落とす。


「これなら、以前見つかった北へ伸びる線が東寄りへ曲がっていても、名称だけではおかしくない」


「でも、今の線がこれとはまだ言えない」


「もちろん」


 ブラートが次の頁をめくった。


「こちらに改修理由があります」


『夜間人員減少に伴い、呼出及び状態保持表示を統合。旧表示は一部残置するが、主線停止後に旧表示のみ残光する場合あり。旧表示の点灯をもって呼出状態と判断しないこと』


 アルの目が止まる。


「状態保持表示」


「朝の注意書きと近いですね」


 ブラートが言う。


「でも、これなら『保持』は人や物を保持する意味じゃない」


「表示を保持する意味に読めるわね」


 アンナマリーが答える。


「少なくとも、この文脈では」


 アルは大きく息を吐いた。


 似た言葉が出るたび、一つの意味へまとめたくなる。


 しかし資料を一枚増やしただけで、「保持」という言葉の使われ方がまた増えた。


「西補助保持区画の『保持』までこれと同じとは言えないね」


「逆も同じです」


 ブラートが静かに言った。


「西側の記録に別の意味があるとしても、この北系統の『保持』をそれへ引き寄せるべきではありません」


「うん」


 次の頁には改修後の簡略図があった。


 北系統から複数の支線が伸び、その一つが旧夜間詰所へ接続している。


 さらに別の支線は中央側へ回り込んでいる。


 ただし、現在の建物図と完全には一致しない。


「壁が違う?」


 アルが尋ねる。


 アンナマリーが二枚を重ねず、横へ並べる。


「現在図では、この辺りに後年の補強壁がある。古い図面ではまだないみたい」


「じゃあ線が壁の中に見えるのは、後から壁を作ったからって可能性もある?」


「可能性としては。でも、実際に旧線を残したまま補強したかどうかは分からないわ」


 エルが補足する。


『現時点の資料のみでは、旧線の撤去・移設・残置を判定できません』


「そこは次の資料かな」


 アルは続きを見る。


 終盤に、短い手書きの追記があった。


『第二線、停止後も三窓のうち中央表示残る。線路異常にあらず。翌保守時に解除』


「三窓」


 アンナマリーが呟く。


「今、昼間に確認できる表示窓らしきものも三つだったわね」


 アルの胸が一瞬だけ高鳴る。


 だが、そのまま口にする前に一度止まった。


「似てる。でも同じ窓とはまだ言えない」


「ええ。現在の壁面が、この記録の第二線表示部と同じ位置だという確認がない」


「年代も違うかもしれない」


「その通りです」


 ブラートが図面の端を見る。


「ただ、現地へ伝える価値はありますね。三窓という記載が存在したこと自体は」


「うん。全文を送ろう」


 アルはエルへ指示した。


「『三窓』だけ抜き出さないで。方角名称が実配置とずれること、旧表示が残光すること、全部一緒に」


『承知しました』


 都合のいい部分だけを抜けば、簡単に物語を作れてしまう。


 三つの窓。


 北系統。


 夜間呼出。


 保持表示。


 それらを並べれば、今見えている設備の説明ができたように思える。


 だが資料自身が、名称と位置がずれることを警告している。


 ならば、その警告まで含めて読むべきだった。


     ◇


 旧保養施設で資料を受け取ったリディアは、現場へ行く前にフェリクスを起こした。


 正確には、四時間の休息を終えたところで起こした。


「時間です」


「三時間五十八分では?」


「四時間です」


「秒まで数えました?」


「ガルムが」


 フェリクスが顔をしかめる。


「彼は警備隊長ですよね?」


「はい」


「研究者の睡眠監督官ではないはずですが」


「起きたなら資料を見てください」


 寝台から起き上がったフェリクスは、文句を言いながらも資料を受け取るとすぐに表情を変えた。


「これは……」


「三窓に飛びつかないでください」


「まだ何も言ってません」


「顔に出ています」


「研究者の顔を読むのはよくありませんよ」


「触りたそうな顔は何度も見ましたから」


 フェリクスは反論を諦め、最初から資料を読み始めた。


 ガルムも合流し、三人で記録を確認する。


「北系統って名前でも東や中央を含むのか」


「はい」


 リディアが古い図面と現行配置図を並べた。


「以前、北方向へ伸びると思われた線が少し東寄りへ向かっていることを不自然に感じていましたが、この資料が同一系統なら説明可能です」


「同一なら、だな」


「はい」


 フェリクスは手書き追記を見る。


「三窓の中央表示が停止後も残る……」


「今見えてる三つの窓の中央が光ったら同じ設備、とは言うなよ」


 ガルムが先に釘を刺す。


「言いませんよ」


「本当か?」


「私の信用、増えたんじゃなかったんですか?」


「増えたから先に言ってる」


「それは増えたと言うんでしょうか」


 リディアが二人を無視して記録を続ける。


「今夜の観測項目は変えません。ただ、表示窓については三つそれぞれを区別できるよう、位置だけ仮番号を振りませんか?」


「番号が意味を持ち始めないようにできるなら」


 ガルムが答えた。


「左、中、右でもいいんじゃないか?」


「その方がいいですね。番号順が設備順序と誤解される可能性があります」


 フェリクスも頷いた。


「左・中央・右。ただし観測位置から見た左右、と明記しましょう」


「決まりだ」


 リディアは新しい記録様式を作った。


 左。


 中央。


 右。


 ただそれだけ。


 どれが何の設備なのかは書かない。


 まだ分からないからだ。


     ◇


 リューネの町では、昨日見つかった「閲覧制限付記」の扱いについて、臨時代表たちが小さな会議を開いていた。


 ハンス、イーダ、マルタ、エド、ベンノ。


 役場職員も二人参加している。


「俺は、希望する人には使えるようにした方がいいと思う」


 ハンスが言った。


「ただ、全員に毎回聞くのは嫌だな。相談に来るたび『昔の記録を見せるか』なんて聞かれたら、それだけで何か隠してるみたいな気分になる」


 イーダが頷く。


「私も。必要な人が言えるようにはしたいけど、窓口で毎回選ばせるのは違うと思う」


「じゃあ掲示?」


 エドが尋ねる。


 マルタはすぐには賛成しなかった。


「また壁に紙を増やすの?」


「小さくすれば」


「小さかったら読まれないでしょう」


「じゃあ大きく?」


「それだと他の案内が見えなくなるわ」


 ベンノが腕を組む。


「そもそも、字が読めない人もいる」


 全員が黙った。


 良い仕組みを見つけた。


 だから知らせる。


 それだけでも簡単ではない。


「受付の最初の説明に入れる?」


 役場職員が案を出す。


「『記録の扱いについて希望があれば相談できます』と一度だけ伝える」


「毎回?」


「初回だけなら?」


「初回って何を基準にするの」


 マルタが尋ねる。


「相談内容が変わったら新しい初回? 一年空いたら?」


 職員が困った顔になる。


 そこへイーダが小さく笑った。


「また完璧な決まりを作ろうとしてない?」


 ハンスが彼女を見る。


「じゃあどうする?」


「二つくらいやってみたら?」


「二つ?」


「窓口の一つでは最初に口頭で伝える。別の窓口では、相談票の端に『過去の記録について希望がある場合は職員へ』って一行だけ書く。それで、どっちが困るか聞いてみる」


「相談する人に?」


「うん。嫌だったら答えなくていいって言って」


 ベンノが頷いた。


「試行中なんだから、それでいいか」


「途中でやめてもいいし」


 役場職員が記録を取り始める。


 塔へ判断を求める者はいなかった。


 アルがそこにいなくても、話し合いは進んでいた。


     ◇


 夕方、その報告を受け取ったアルは、最後まで読んでから笑った。


「俺たちより先に決めたね」


 アンナマリーが隣から覗き込む。


「不満?」


「逆。嬉しい」


「本当に?」


「ちょっと寂しいのもある」


 アルは隠さず答えた。


「俺に聞かなくても決まることが増えると、たまに『もう俺いらないんじゃない?』って思う」


「以前も似たことを言っていたわね」


「うん。でも、そのあと大体ほっとする」


「どちらもあるのね」


「ある」


 アンナマリーは報告を閉じた。


「それでいいんじゃない?」


「何が?」


「必要とされたい気持ちと、全部背負いたくない気持ちが両方あっても」


「……そうだね」


 アルは窓の外を見る。


 夕方の光が塔の石壁を赤く染めていた。


「昔は、どっちかにしないと駄目だと思ってた気がする」


「王太子だったから?」


「それもある。必要とされるなら全部できなきゃいけない、みたいな」


「今は?」


「できないことは任せたい。でも、たまには頼られたい」


 アンナマリーが吹き出した。


「ずいぶん普通になったわね」


「悪口?」


「褒めてるのよ」


「微妙だな」


 扉の近くで茶器を持っていたセリーが、二人の会話を聞きながら静かに入ってくる。


「主様」


「ん?」


「私は頼りにしております」


「ありがとう」


「ただし、ご自分でできることまで全て行っていただく必要はありません」


「そこまでセットなんだ」


「はい」


 アンナマリーがまた笑った。


 アルも笑い、セリーから茶を受け取った。


     ◇


 日が完全に沈んだあと、王立魔導研究院から二件目の通知が届いた。


『旧王室管理保養施設・夜間呼出補助設備点検簿』について、保存状態に問題なし。


 複写可能。


 ただし、全頁ではなく、照会目的に関連する箇所を先に抜粋して送付するという。


 届いたのは六頁だった。


 アルたちは夕食後、再び記録室へ集まった。


 一頁目は通常点検。


 二頁目も異常なし。


 三頁目には、呼出表示の残光時間について書かれている。


 四頁目で、アンナマリーの指が止まった。


「これ」


 そこには、設備不調時の記録があった。


『夜間呼出補助線、主線応答なし。左表示弱光、中央表示無灯、右表示弱光。現場呼出実態なし。翌朝、機械保持部の張力偏りを確認。調整後、表示消失』


 アルは読み返した。


「機械保持部」


「張力偏り」


 ブラートも資料へ顔を近づける。


「張力逃がしに近い機構でしょうか」


「可能性はあるけど、まだ分からない」


 アルは続きへ目を移した。


 五頁目。


『同設備は呼出内容を保存するものにあらず。線路状態により表示が一時保持される。表示のみを根拠に利用者の呼出意思を判断せぬこと』


 アルの表情が変わった。


「利用者の意思を判断するな……」


 アンナマリーも黙って読む。


「設備の注意書きなのに、ずいぶん明確ね」


「昔、間違えたことがあったのかな」


「分からないわ。注意書きがある理由までは、この頁にはない」


 六頁目には改修後の追記があった。


『残光頻発のため右表示を廃止。左及び中央のみ使用。旧右窓は封鎖せず、内部表示器のみ撤去』


 全員がしばらく黙った。


「二つの図面」


 ブラートが静かに言った。


 以前見つかった図面には、小型表示部が四つ描かれたものと二つ描かれたものがあった。


 現在、昼間の遠距離目視では三つの表示窓らしき部分が確認されている。


「待って」


 アルはすぐに手を上げた。


「この資料は夜間呼出補助設備の話。四つと二つの図面が同じ設備を描いたものかは分かってない」


「ええ」


 アンナマリーが頷く。


「現在見える三つの窓とも、まだ対応していない」


「ただ、設備の改修で表示窓の数が変わる例が実際にあったことは分かった」


「そうね」


「それから、表示が光っていても呼出してるとは限らない」


 アルは五頁目へ視線を戻した。


 表示のみを根拠に利用者の呼出意思を判断せぬこと。


 古い設備の取扱注意として書かれた一文。


 だが、アルには別の意味でも引っかかった。


 光っているから、誰かが呼んでいる。


 残っているから、誰かが残したかった。


 持っているから、戻りたい。


 最後に言ったから、それだけが本当。


 人は、見えている結果へ理由を与えたくなる。


(でも、結果だけじゃ理由は分からない)


 アルは資料を閉じなかった。


「これ、全文をガルムたちに送ろう」


『はい』


「特に五頁目だけ強調しないで」


『理由を伺ってもよろしいですか?』


「大事だからこそ。そこだけ見たら、今の発光も『誰かの意思じゃない』って逆に決めつけるかもしれない。今見てる設備がこれと同じかも分からないんだから」


『承知しました』


 アンナマリーがアルを見る。


「あなた、ずいぶん慎重になったわね」


「褒めてる?」


「今回は普通に褒めてる」


「今回はって何」


 少し笑いが起こる。


 だが、アルはもう一度資料へ目を落とした。


 表示は、意味そのものではない。


 記録も、そこに書かれた人間そのものではない。


 残った物だけを見て、過去の意思を決めることはできない。


     ◇


 その夜、アルとセリーは中庭へ出なかった。


 風が強くなっていたからだ。


 代わりに、塔の上階へ続く長い廊下の途中、外を見渡せる窓辺に並んで立っていた。


 ガラスの向こうでは木々が揺れ、雲の切れ間から時折月が見える。


「寒い?」


 アルが尋ねる。


「私は問題ありません」


「そうだった」


「主様は?」


「ちょっと寒い」


「でしたら戻りますか?」


「もう少しだけここにいたい」


「はい」


 セリーは否定せず、アルの隣に残った。


 しばらく外を眺めているうちに、アルの右手が窓枠の上へ置かれた。


 セリーの左手も近くにある。


 昨日は小指だけだった。


 アルはその距離を見てから、セリーへ視線を向ける。


「今日は、どうしたい?」


 セリーは少し考えた。


「手をつなぎたいです」


 アルの胸が温かくなる。


「俺も」


 セリーの手が差し出される。


 アルはその手を取った。


 指先だけではなく、手のひらを合わせる。


 最初にこうした夜より、動きは自然だった。


 それでも慣れきってはいない。


 触れた瞬間、互いの指が少しだけ固くなり、そこからゆっくり力が抜けていく。


「昨日は小指だったのに」


「はい」


「今日は全部」


「はい」


「戻ったとか進んだとかじゃないんだよね」


 セリーはアルの手を握ったまま答える。


「私は、昨日より今日の方が主様を大切に思っているから手のひらを選んだ、というわけではありません」


「うん」


「昨日も大切でした」


 アルは思わずセリーを見る。


 彼女は外を見たままだった。


「……今日も?」


「はい」


 胸の奥が強く鳴る。


(好きだな)


 もう、その気持ち自体を誤魔化す必要はなかった。


 ただ、今ここで言葉にする必要があるかは別だった。


 自分が分かったからといって、すぐ相手へ答えを求める必要はない。


「俺も、セリーのこと大切だよ」


 それだけを伝えた。


 セリーがゆっくりこちらを向く。


「ありがとうございます」


「うん」


「嬉しいです」


 指が少しだけ強く重なった。


 告白ではない。


 関係へ名前を付けたわけでもない。


 それでも、言わなかったから存在しないわけではなかった。


     ◇


 旧保養施設では、研究院から届いた点検簿を受け取ったガルムたちが、夜間観測前の確認を行っていた。


「左、中央、右」


 リディアが観測位置から見える三つの表示窓らしき箇所を確認する。


「これはあくまで現在見えている位置の呼称です。資料に書かれた左・中央・右と対応するとは扱いません」


「了解」


 トーマスが記録板へ同じ注意書きを入れる。


 フェリクスは後方の机で資料を読み直していた。


「右表示廃止、旧右窓は封鎖せず内部表示器のみ撤去……面白いですね」


「触るなよ」


「まだ遠いです」


「近づく前に言ってる」


「信用が」


「増えてる」


「毎回それで押し切りますね」


 リディアが笑いをこらえながら、観測開始時刻を記録した。


 午前零時。


 三箇所とも暗い。


 統合盤変化なし。


 西壁金属板、観測位置から見える角度に変化なし。


 北側からの音なし。


 午前一時を過ぎても変化はない。


 午前一時五十七分。


 中央の表示窓らしき箇所が、ごく弱く光った。


 トーマスはすぐに記録する。


 隣の観測者は「淡い白」と書いた。


 トーマスは「白にわずかに黄色」と記録した。


 二人は表現を合わせない。


 光は弱い。


 統合盤には変化がない。


 受動計器も基準範囲内。


 西壁も変化なし。


 北側から音は聞こえない。


 午前一時五十九分。


 光は続いている。


 午前二時一分。


 まだ消えない。


 トーマスは時計を確認しながら、視線を一箇所へ固定しすぎないよう周囲も見る。


 午前二時三分。


 中央の光が弱くなる。


 午前二時四分。


 消えた。


 約七分。


 音は最後までなかった。


 誰も近づかない。


 誰も「呼ばれている」と言わない。


 資料には、表示だけで利用者の呼出意思を判断するなと書かれている。


 だが、そもそも今光ったものが、その資料に記された表示器なのかさえ分からない。


 だから彼らは、意味を書かなかった。


『中央位置の小表示窓と思われる箇所、弱発光。観測者一名は淡白色、一名は白色に微黄を感じる。約七分後消灯。同期する音、統合盤変化、受動計器基準外変動、西壁目視変化なし』


 残したのは、それだけだった。


     ◇


 さらに一時間ほど経った午前三時十一分。


 今度は北側でも西壁でもなく、旧夜間詰所のさらに奥、普段ほとんど変化のなかった廊下側から、かすかな音がした。


 トーマスが顔を上げる。


 隣の観測者も同じ方向を見た。


 短い。


 何かを擦ったようにも聞こえた。


 だが、音源は見えない。


 その直後、表示窓は光らなかった。


 統合盤も変化しない。


 受動計器も変わらない。


 トーマスは時刻と方向だけを記録した。


 これまで、光と音が近い時間に起きた夜もあった。


 光だけの夜もあった。


 音だけの夜もある。


 場所も同じではない。


 その積み重ねは、簡単な答えを遠ざけているようにも見えた。


 しかし、ガルムが以前言った通り、違うものを無理に一つへまとめないためには、こうした一致しない記録も必要だった。


 午前三時二十分。


 追加変化なし。


 午前三時四十分。


 西壁の金属板にも変化なし。


 その後、空が明るくなり始めるまで新たな発光も音も起こらなかった。


 夜間記録の最後に、トーマスは余計な解釈を付けなかった。


 ただ、観測終了時の状態を書いた。


 中央表示窓、消灯状態。


 統合盤、変化なし。


 西壁金属板、開始時との目視差なし。


 北側、追加音なし。


 廊下奥、追加音なし。


 そして記録板を閉じた。


 光は消えていた。


 けれど、光ったという出来事まで消えたわけではない。


 それが何を意味するのかを、まだ誰も決めていないというだけだった。

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