第110話 意味を決める前に
朝の古の塔には、夜の冷気がまだ石壁の奥へ残っていた。
窓から差し込む光は淡く、食堂の長机に置かれた茶器の縁を白く照らしている。セリーが朝食を整える音を聞きながら、アルはエルから届いた旧保養施設の夜間観測報告へ目を通していた。
午前一時五十七分頃、観測位置から見て中央にある小表示窓と思われる箇所が弱く発光し、約七分後に消えた。
観測者二人の色の認識は一致していない。一人は淡い白、もう一人は白にわずかな黄色を感じたと記録している。発光中、統合盤や受動計器、西壁の金属板に目視可能な変化はなく、音も確認されなかった。
その後、午前三時十一分頃になって、旧夜間詰所のさらに奥にある廊下側から短い音が一度だけ聞こえた。
こちらも音源は不明。
発光との間には一時間以上の隔たりがあり、同時変化も確認されていない。
アルは報告を最後まで読み、椅子の背へ身体を預けた。
「また場所が違うんだ」
『はい』
エルの声が答える。
『直近の観測だけでも、北寄り、西側、東または南東寄り、旧夜間詰所奥の廊下側と、音の推定方向にはばらつきがあります』
「一つの場所から聞こえてるのを、反響で違って感じてる可能性は?」
『可能性は否定できません。ただし、現時点では反響特性を測定していません』
「測ろうとしたら、音を出す必要がある?」
『一般的な方法では、既知の音源を用いて反響を比較する方法があります』
「今はやらない方がいいな」
『ガルムも同じ判断です。未知設備が存在する可能性のある施設内で意図的に音や振動を発生させることは、現在の非接触観測方針と一致しません』
「うん。じゃあ方向が曖昧なまま残そう」
アルは報告書を閉じようとして、最後にもう一度中央表示窓の記録を見る。
「昨日届いた点検簿には、表示が残ってても呼出中とは限らないって書いてあった」
『はい』
「でも、昨夜の光がその設備の表示かは分からない」
『その通りです』
「だから、誰かが呼んでるとも、誰も呼んでないとも言えない」
『はい』
セリーが温かいスープをアルの前へ置いた。
「主様」
「食べるよ」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔が言ってた」
「私は魔導人形ですので、表情の制御は可能です」
「じゃあ、わざと?」
セリーは答えず、パンの皿を隣へ置いた。
その沈黙が答えのように感じられて、アルは小さく笑った。
報告書をテーブルの端へ寄せ、スープへ手を伸ばす。朝食を食べながら考えることと、考えるために食事を止めることは同じではない。その違いを最近になってようやく身体でも理解し始めていた。
「セリー」
「はい」
「俺、前よりちゃんと食べてるよね?」
「はい。報告を受けた際に食事が止まる時間は、明確に短くなっています」
「そこまで観察されてるんだ」
「健康管理に必要ですので」
「記録してる?」
「全ては記録しておりません」
アルはスプーンを止めかけたが、そのまま口へ運んだ。
「……なんか、その答えいいね」
「そうでしょうか?」
「うん。全部残さなくても、俺がちゃんと食べるようになったことはなくならないし」
セリーは少しだけ考え、穏やかに頷いた。
「はい。私が覚えております」
胸の奥が温かくなる。
アルは照れを隠すように、もう一口スープを飲んだ。
◇
朝食後、王立魔導研究院から追加の返答が届いた。
前日までに送付された北系統連絡線改修記録と夜間呼出補助設備点検簿について、さらに関連する資料が存在するという通知だった。
ただし、今回も内容そのものではなく目録情報が中心である。
アル、アンナマリー、ブラートは記録室へ集まり、エルが壁面へ研究院からの回答を表示した。
『照会対象施設に関し、以下の関連資料を確認。第一、「旧施設設備停止・残置関係記録 北・中央系統分冊」。第二、「夜間勤務補助手順改訂履歴」。第三、「旧分類保持対象照会簿 施設別索引」』
アルの視線が三件目で止まった。
「保持対象照会簿……」
「以前の目録にあったものね」
アンナマリーが答える。
『はい。「保持対象照会簿・旧分類」の施設別索引に、旧王室管理保養施設を示すと考えられる項目が存在するとの回答です』
「考えられる?」
『旧名称と後年の管理名称が併記されておらず、施設番号による照合が必要なためです』
ブラートが腕を組んだ。
「つまり、まだ旧保養施設の記録だと確定していない」
『はい』
「中身は?」
『施設別索引の閲覧は可能です。ただし個別の保持対象照会内容については、分類確認後に閲覧権限を審査するとあります』
アルは少し考えた。
「索引だけお願いしよう」
「三件とも?」
アンナマリーが尋ねる。
「一件目の設備停止・残置関係記録も見たい。二件目の手順改訂履歴も。三件目は索引まで」
「保持対象の中身は申請しない?」
「まだしない」
アルは壁面に並んだ文字を見る。
「俺たちが今必要なのは、壁を開ける理由じゃなくて、壁を開けずに安全を判断できる材料だから。設備資料と手順改訂で分かることが残ってるなら、先にそっちを見たい」
ブラートが頷く。
「それに、『保持対象』が何を指すか分からない段階です」
「うん。薬棚かもしれないし、記録かもしれないし、人かもしれない。それ以外かもしれない」
「分類を確認する前に人物を想定すると、後の資料までその想定で読んでしまうわ」
アンナマリーが言った。
「だから索引まで」
アルはエルへ視線を向ける。
「通常の調査経路で申請できる?」
『第一、第二資料は可能です。第三の施設別索引についても、目録確認の範囲として通常申請が可能です』
「じゃあ、それで」
『承知しました』
エルが申請文を作成している間、アンナマリーは少しだけアルを見つめていた。
「何?」
「いえ。昔のあなたなら、三件目を最初に開けたがったかもしれないと思って」
「俺もそう思う」
「否定しないのね」
「だって気になるもん」
アルは苦笑する。
「今だって一番気になるよ。保持対象って何なのか。あの子たちと関係あるのか。壁の向こうに何があるのか。でも、気になる順に調べるのと、安全のために必要な順に調べるのは違うから」
「ええ」
「それに……」
アルは一度言葉を止めた。
「俺が知りたいってだけで、誰かの記録を開けるのは違う気がする」
アンナマリーの表情が少し柔らかくなる。
「そうね」
それ以上は言わなかった。
褒められすぎると、かえって落ち着かないことを彼女も知っているのだろう。
◇
旧保養施設では、朝の観測終了後、リディアが新しい基準器具の設置試験を行っていた。
設置といっても、床や壁へ固定するものではない。
トーマスが提案した方法をもとに作られた、低い自立式の目印である。木製の小さな台座に細い棒を立て、その上部へ白い板を取り付けただけの簡素なものだった。
床へ釘を打たない。
壁へ接触させない。
魔力も流さない。
夜間観測の邪魔にならず、緊急時にはすぐ撤去できる。
「ここならどうです?」
トーマスが観測位置から尋ねる。
リディアは表示窓側から距離を確認し、首を横へ振った。
「もう少し手前へ。そこだと、見る位置が少し変わっただけで表示窓と重なります」
「分かりました」
トーマスは台座を持ち上げ、指示された位置へ移動させる。
ガルムは少し離れた場所で見ていた。
「これを置くと、何が変わる?」
「観測者が『右寄り』『中央より少し左』と書く代わりに、目印との位置関係を残せます」
リディアが答える。
「ただし、過去記録との比較を切らないため、しばらくは従来表現も併記します」
「例えば?」
トーマスが記録板を見せる。
「『観測位置から見て中央よりやや右。基準板Aの左端と重なる位置』という形です」
「Aって名前に意味は?」
「ありません。複数置く場合の識別用です」
「一つなら?」
「Aもいらないですね」
トーマスは素直に記録案から文字を消した。
ガルムが僅かに口元を緩める。
「余計な意味を付けないなら、それでいい」
「今夜から使いますか?」
「昼のうちに何人か同じ場所から見て、邪魔にならないことを確認してからだ」
「はい」
フェリクスは少し離れた机で、研究院から届いた前日の資料を読み返している。
ガルムが視線を向けた。
「今日は寝たか?」
「四時間も」
「少ない」
「昨夜より増えましたよ」
「自慢するな」
フェリクスは不満そうな顔をしたが、机から立ち上がろうとはしなかった。
「私は今日は資料担当です。壁にも表示窓にも近づきません」
「珍しいな」
「信用を積み立てている最中ですので」
「自分で言うな」
リディアが小さく笑う。
以前なら、フェリクスが未知の設備へ近づこうとするたび、誰かが止めなければならなかった。
今は自分から距離を取る場面が増えている。
それでも、誰も「もう大丈夫」とは決めない。
信頼が増えたことと、確認をやめることは同じではなかった。
◇
昼前、三〇八号室では、少年が減らした白い薬を飲んでから数時間が経過していた。
ヨアヒムは体温と脈を確認し、睡眠不足や吐き気、強い頭痛がないかを尋ねる。
「頭は?」
「ちょっと重い気がする」
「痛みは?」
「痛いってほどじゃない」
「気持ち悪さは?」
「ない」
「眠気は?」
「いつもより少ない……かも」
少年は答えたあと、自分から付け加えた。
「でも、薬減らしたからかは分かんない」
ヨアヒムは頷いた。
「その通りです。今の時点では結びつけません」
「じゃあ書かない?」
「身体の状態としては書きます。ただ、『薬を減らしたため』とは書きません」
「そっか」
少年は納得したように枕へ背を預ける。
小箱はまだ机の上にある。
ヨアヒムがそちらを見ていないのに気づいたのか、少年の方から話した。
「手紙、まだ読んでない」
「はい」
「気にならない?」
「私がですか?」
「うん。何が書いてあるか」
「気にならないと言えば嘘になります」
少年が意外そうな顔をする。
「読みたい?」
「あなたが読んで、話したいと思った内容なら聞きたいです。でも、私が知りたいから読むように勧めるつもりはありません」
「なんで?」
「あなた宛ての手紙だからです」
少年は小箱を見る。
「俺宛てって、決まってる?」
ヨアヒムは答える前に少し間を置いた。
「封筒の中の手紙には、『我が息子アルフォンスへ』と書かれていました」
「俺はアルフォンスだ」
「あなたはそう名乗っていますね」
「なら俺宛てだろ」
「その可能性はあります。ただ、手紙だけであなたの身元全体を確定できるとは、私はまだ考えていません」
少年の表情が硬くなる。
以前にも触れた話題だった。
「またそれ」
「はい」
「俺が嘘ついてるって言いたいの?」
「いいえ。あなたが自分をアルフォンスだと考えていることを、嘘だとは言っていません」
「でも信じてない」
少年の呼吸が少し速くなる。
ヨアヒムは椅子から立たず、声も変えなかった。
「私が分けているのは、あなたがそう思っていることと、外から確認できている事実です」
「俺には同じだ」
「今はそう感じているのですね」
「そう感じてるんじゃない!」
少年の声が大きくなる。
廊下にいた職員が一瞬足を止めたが、ヨアヒムが扉の方へ目を向けて小さく首を振ると、そのまま離れていった。
怒ったからといって、人を増やす必要はない。
少年は自分の胸元を押さえた。
「俺は……」
息が浅い。
ヨアヒムはすぐに質問を重ねなかった。
「水を飲みますか?」
少年は数回呼吸したあと、頷いた。
水差しから自分で杯へ注ぎ、少しずつ飲む。
しばらくすると、肩の力が落ちた。
「……怒った」
「はい」
「薬減らしたから?」
「分かりません」
「前より怒りやすくなった?」
「今の一回だけでは判断できません」
少年は杯を両手で持ったまま俯く。
「先生は、怒ったら……」
言葉が途中で止まる。
ヨアヒムは待った。
「薬……だった気がする」
「思い出したのですか?」
「分かんない」
「では、今は分からないままにしましょう」
「書かないで」
「先生についての今の言葉は記録しません」
「怒ったことは?」
「強く感情が動いて呼吸が速くなったこと、その後に水を飲んで落ち着いたことは、薬を調整した日の身体状態として必要なので記録します。ただし、『怒ったから判断がおかしかった』とは書きません」
少年はゆっくり顔を上げた。
「怒ってても?」
「怒っていること自体は病気ではありません」
「……王子でも?」
「王子かどうかに関係なくです」
少年は少しだけ口元を動かした。
笑ったわけではない。
それでも、先ほどまで張りつめていた表情は僅かに緩んだ。
「今日は、手紙読まない」
「分かりました」
「箱もここ」
「はい」
「薬は……明日どうするか、明日決める」
「それで構いません」
少年は小箱へ手を伸ばさなかった。
今日の怒りも、今日の薬の量も、明日の選択を先に決める命令にはならない。
◇
旧保養施設の子供は、その日の午後、庭へ出ていた。
ナディアと二人。
木片は部屋に残している。
「みち」の紙も引き出しの中だ。
持ってきたのは、小さな紙の箱だけだった。
子供は花壇の縁へしゃがみ、土の上を歩く蟻を見ている。
「いっぱい」
「いるね」
「どこいく?」
「私は分からないな」
「アリは知ってる?」
「知っているかもしれないし、私たちが考える『知っている』とは違うかもしれないね」
子供は難しそうに蟻の列を見る。
一匹が列から外れ、小さな石の裏へ回り込んだ。
「みえない」
「うん」
「いなくなった?」
「石の向こうへ行ったみたい」
「見えないのに?」
「さっき向こうへ歩いていくところは見えたよ。でも、今どこにいるかは私にも見えない」
子供は石を持ち上げようとしなかった。
しばらく待つ。
やがて反対側から蟻が一匹現れた。
「いた」
「いたね」
「おなじ?」
「さっきの蟻かどうか、私には見分けられない」
「じゃあ、わかんない」
「うん」
子供はそれで満足したように頷いた。
少し経ってから、紙の箱を膝へ置く。
「みちも、見えない」
「引き出しに入っているね」
「木も、見えない」
「部屋に置いてきたね」
「ある?」
「私たちが部屋を出た時にはあったよ。今この瞬間も同じ場所にあるかは、ここからは見えないね」
以前なら、ナディアは安心させようとして「あるよ」と断言したかもしれない。
今は、見えていることと推測していることを分ける。
子供は少し考えた。
「戻って見なくていい」
「うん」
「あとで見る」
「分かった」
それからまた蟻を眺める。
ナディアは、この行動を何かの克服だと記録する必要を感じなかった。
木片を見に戻らなかった。
それは事実だ。
だが、今日戻らなかったことへ「不安が消えた」「執着が減った」「回復した」といった意味を与えるのは、彼女の役目ではない。
子供はただ庭にいて、蟻を見ている。
それで十分だった。
◇
午後遅く、王立魔導研究院から申請した三件のうち、最初の資料が届いた。
『旧施設設備停止・残置関係記録 北・中央系統分冊』
今回は量が多く、全体で四十頁近い。
アルたちは最初から答えを探すのではなく、まず目次と年代を確認した。
「北系統停止手順、中央補助線停止手順、夜間呼出補助設備の部分停止……」
アンナマリーが項目を追う。
「それから、残置判断記録」
「そこは前に見つかった記録と重なるかも」
ブラートが年代を見る。
「こちらの方が少し新しいようです」
「改訂版かな」
「可能性はあります」
アルは目次の中ほどで目を止めた。
『表示部残置時の誤認防止』
「これ、今の調査に関係ありそう」
「読みますか?」
「うん。でも前後も」
該当部分だけではなく、その章の最初から確認する。
設備を停止したあとも、壁面表示部そのものを撤去できない場合がある。
理由は、壁内配線との一体化、周辺設備への影響、構造材への固定、撤去作業による危険など複数。
表示器内部を撤去した後も、窓や枠だけが残る場合がある。
逆に、主設備が停止していても、一部の補助線が生きているため表示だけ作動する場合もある。
そして、注意事項が続く。
『外観のみをもって設備稼働・停止を判定せず。残置表示部は識別札と台帳番号を照合すること』
「識別札」
アルが呟く。
以前、古い資料には「識別札 壁内側」という記載があった。
現在の統合盤付近でずれた金属片にも、文字らしき痕跡が一部見えている。
だが、それらを同じ物だとはまだ言えない。
「壁内側に識別札がある設備もあった」
ブラートが言う。
「ただし、今回の資料では識別札の位置までは書かれていません」
「今見えてる金属板を動かして確認する理由にはならないね」
「はい」
さらに頁を進める。
そこには、残置表示部の台帳例があった。
『北第二補助線・旧表示三窓――外枠残置。右内部器撤去、中央内部器休止、左補助線接続継続。』
記録室の空気が変わった。
アルは思わず資料へ身を乗り出したが、すぐに椅子へ座り直した。
「旧表示三窓」
「右内部器撤去」
アンナマリーが前日の資料を開く。
「夜間呼出補助設備点検簿には、残光頻発のため右表示を廃止、旧右窓は封鎖せず内部表示器のみ撤去とあった」
「かなり近い」
アルは言った。
「でも、同じ設備だと確定できる?」
エルが回答する。
『文言、設備名称、改修内容の一致率は高いと評価できます。ただし、台帳番号が今回の複写部分には含まれておらず、同一設備と断定するには不足があります』
「じゃあ『同じ可能性が高くなった』まで」
『妥当です』
ブラートが次の行を見る。
「中央内部器休止、左補助線接続継続……ということは、設備全体が一括で停止していたわけではない」
「そうみたいだね」
アルは前夜の観測を思い出す。
中央位置の表示窓らしき場所が約七分光った。
だが、古い台帳で中央内部器が休止していたからといって、現在の中央窓が光るはずがない、とは言えない。後から再接続された可能性も、別設備へ転用された可能性も、そもそも現在見えている窓がこの三窓ではない可能性もある。
「これも現場へ送ろう」
「どこまで?」
「章ごと。三窓の行だけ抜かない」
アルは即答した。
「表示窓だけ残ってる場合もあるし、一部だけ線が生きてる場合もある。両方書いてあることが大事だと思う」
『送信します』
アルは資料から目を離し、少し息を吐いた。
答えに近づいたようにも感じる。
けれど、本当に増えたのは答えではなく、可能性を区別するための材料だった。
◇
夕方、リューネ町役場では、過去記録の扱いに関する二つの案を小規模に試し始めていた。
一つの窓口では、相談開始時に職員が「過去の相談記録の扱いについて希望がある場合はお伝えください」と短く説明する。
もう一つの窓口では、相談票の端へ同じ趣旨を一行だけ記載する。
どちらも、返答を求めない。
希望がなければ、その話題を続けない。
初日の終わり、職員たちは臨時代表と簡単な振り返りを行った。
「口頭で説明した方では、一人から『何か問題があるんですか』と聞かれました」
職員が報告する。
「説明したことで、逆に不安にさせた可能性があります」
「紙の方は?」
イーダが尋ねる。
「三人のうち、読んだと確認できたのは一人だけです。ただ、読んだかどうかを毎回尋ねるのも違う気がして」
「そりゃそうだ」
ハンスが頭を掻く。
「どっちも完璧じゃないな」
「だから試してるんでしょう?」
マルタが言う。
「一日で決めなくていいわ」
エドも頷いた。
「口頭説明の言い方を変えてみるのは?」
「どう変える?」
「『過去記録を見られたくない場合』って言うと怖いから、『以前の相談内容を今日の相談で使うかどうか、希望があれば途中でも変更できます』とか」
ベンノが眉を寄せる。
「長い」
「じゃあ短くして」
「俺に振るなよ」
小さな笑いが起こる。
誰も塔へ答えを求めようとはしなかった。
試して、困ったところを見つけて、また直す。
その流れが、少しずつ町自身のものになっていた。
◇
夜。
古の塔では、セリーが自分の左腕の点検をしていた。
机の上には細い工具が並んでいる。
アルは向かいで本を読んでいたが、セリーの手が止まったことに気づいて顔を上げた。
「どうしたの?」
「今日はここまでにします」
「不具合?」
「いいえ。問題はありません」
「じゃあ、疲れた?」
セリーは少し考える。
「飽きました」
アルは目を瞬いた。
「……セリーが?」
「はい」
「自分の整備に?」
「はい」
「そんなことあるんだ」
「以前にも途中でやめたことはございます」
「そうだった。でも理由が『お茶飲みたい』だった気がする」
「今日は、整備を続けるより主様とお茶を飲みたいです」
アルは本を閉じた。
「それ、かなり嬉しいんだけど」
「では、お茶にいたしましょう」
「俺が淹れる」
「私の方が上手です」
「知ってる。でも今日は俺がやりたい」
セリーが少し考え、工具を片づけた。
「では、お願いします」
アルは立ち上がって湯を用意する。
以前なら、セリーに任せた方が早いと考えただろう。
実際、その方が早い。
茶葉の量も湯の温度も、セリーの方が正確だ。
それでも、上手にできる人がいることと、自分がやりたいことは別だった。
少し濃くなった茶を二つのカップへ注ぎ、窓辺の小机へ運ぶ。
「濃い?」
セリーが一口飲む。
「少し」
「やっぱり」
「ですが、嫌ではありません」
「気を遣ってない?」
「今日は濃いものを飲みたい気分でした」
「本当?」
「はい」
アルも飲んでみる。
確かに濃い。
けれど、不味いほどではない。
「じゃあ成功ってことにしよう」
「次回も同じ濃さにするのですか?」
「それは次回決める」
「はい」
セリーが微笑む。
その答えが妙に二人らしく思えて、アルも笑った。
しばらく茶を飲んでいると、セリーの手が机の上へ置かれた。
アルの手との距離は、指二本分ほど。
昨日は手をつないだ。
今日はまだ触れていない。
「セリー」
「はい」
「今日はどうする?」
彼女は自分の手とアルの手を見比べる。
「今は、このままがいいです」
「分かった」
アルは手を動かさなかった。
残念ではない。
少し前なら、自分でも気づかないところで「昨日より遠くなった」と不安になったかもしれない。
今は、昨日つないだ手が嘘になるわけではないと分かっている。
(昨日は昨日。今日は今日だ)
目の前にはセリーがいる。
触れていなくても、一緒に茶を飲んでいる。
それだけで充分に近かった。
「主様」
「ん?」
「明日は、触れたくなるかもしれません」
「うん」
「ならないかもしれません」
「それもいいよ」
「主様も?」
「俺も変わるかも。今日みたいにこのままがいい日もあるし、手をつなぎたい日もあると思う」
セリーは静かに頷いた。
「はい」
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
机の上の二人の手は触れていない。
それでも、離れているとは感じなかった。
◇
その夜、旧保養施設では新しい自立式の基準板を使った観測が始まった。
従来の観測位置は変えない。
記録表現も、しばらくは以前のものを残す。
新しい方法へ切り替えた瞬間に過去との比較ができなくなることを避けるためだった。
午前零時。
変化なし。
午前一時。
三つの表示窓らしき箇所は全て暗い。
西壁金属板にも目視差なし。
午前二時十二分。
トーマスが右側表示窓付近に、ごく弱い明るさを感じた。
もう一人の観測者は、すぐには確認できなかった。
トーマスは相手へ場所を指示せず、自分の記録へ「観測位置から見て右寄り。基準板右縁より僅かに内側」と書く。
数十秒後、もう一人も弱い光を確認した。
ただし、彼の記録は「右寄り。基準板右縁とほぼ重なる」。
完全には一致しない。
以前なら、二人で見ながら「この辺だ」と場所を合わせていたかもしれない。
今は合わせない。
午前二時十四分。
光は続く。
色について、トーマスは「青白」と記録し、もう一人は「白」と記録した。
午前二時十六分。
西壁変化なし。
音なし。
受動計器変化なし。
午前二時十七分。
光が消えた。
約五分。
そのまま三十分が経過した。
追加変化なし。
午前三時四分。
旧夜間詰所側の廊下奥から、非常に小さな音が一度聞こえた。
トーマスは顔を上げる。
もう一人も同時に反応した。
しかし、二人が記録した方向は少し違った。
トーマスは「廊下奥、やや東寄り」。
もう一人は「廊下奥中央付近。左右不明」。
音の種類も一致しない。
一人は「硬質物の軽い接触音に近い」。
もう一人は「乾いた小音。材質判断不能」。
基準板は、視覚位置の比較には役立った。
しかし音の方向までは揃えてくれない。
トーマスはそのことも記録した。
午前三時九分。
変化なし。
午前三時二十分。
変化なし。
その後、夜明けまで発光も音もなかった。
◇
朝になり、ガルムは二人の記録を並べた。
「基準板は役に立ったか?」
「光の位置については、以前より比較しやすいです」
リディアが答える。
「ただし、観測者間で完全一致するわけではありません。むしろ、僅かな違いが見えるようになりました」
「それは悪いことか?」
「いいえ」
リディアは首を横へ振った。
「違って見えているものを、同じだったことにしなくて済みます」
ガルムが頷く。
「音は?」
「基準板では改善しません」
「当然だな」
「音について別の基準を作る案も考えられますが、今すぐ必要とは思いません。意図的な音を出して反響を測るのは現在の方針と合いませんし、図面上の区画名で方向を記録するだけでも、ある程度は比較できます」
「なら増やさない」
「はい」
フェリクスが資料を抱えてやって来た。
今朝は昨日より顔色がいい。
「寝たか?」
ガルムが尋ねる。
「五時間」
「まだ少ない」
「昨日より一時間増えました」
「六時間にしろ」
「私の睡眠改善計画まで段階的に進めるんですか?」
「急に増やすとお前が反発するからな」
フェリクスは何か言い返そうとして、結局やめた。
「……それより、研究院の資料を見ました」
「話を逸らしたな」
「設備の話です」
リディアが苦笑しながら先を促す。
「何か気づいたんですか?」
「はい。昨夜光った右寄りの位置ですが、古い台帳にある『右内部器撤去』と単純には合いません」
「それはそうだろう。撤去されたなら光らないはずだ」
「もし同じ三窓なら、ですね」
フェリクスは資料を机へ広げる。
「だから面白いんです。仮に今の三窓が古い三窓と同じ外枠だとしても、右側で光が見えたなら、少なくとも『右内部器撤去の状態が現在までそのまま続いている』とは考えにくくなる。後年に別の表示器が入った、別線が通った、光が奥から回り込んだ、そもそも同じ窓ではない。候補が複数あります」
「増えたな」
「ええ」
「嬉しそうだな」
「研究とはそういうものです」
ガルムは呆れた顔をしたが、止めなかった。
「で、何をする?」
「何もしません」
フェリクスの答えに、ガルムが僅かに眉を上げた。
「資料を待ちます。今ここで右窓を覗き込んでも、得られる情報より壊す危険の方が大きい」
「本当に信用増えたな」
「ようやく認めましたね」
「ただし近づく時は言え」
「そこは変わらないんですね」
「変える理由がない」
フェリクスは少し不満そうだったが、反論はしなかった。
机の上には、昨夜の記録が残っている。
右寄りの弱い発光。
少し時間を置いて聞こえた廊下奥の小さな音。
同時ではない。
場所も一致しない。
古い資料には三窓の記録がある。
だが、今見えている三つの窓がそれと同じだとはまだ決まっていない。
材料は増えた。
意味は、まだ決めない。
◇
古の塔では、その報告を受け取ったアルが中庭へ出ていた。
朝露が草の先に残り、石畳の隙間には小さな水滴が光っている。
セリーも隣にいる。
「基準板、役に立ったみたい」
「はい」
「でも、二人の見え方が同じになる道具じゃなかった」
「違いを確認しやすくする道具だったのですね」
「うん」
アルは少し笑った。
「なんか、それでいい気がする」
「何がでしょうか?」
「全員が同じものを見るようにするんじゃなくて、違って見えた時に、その違いを消さないための基準」
セリーは少し考えた。
「人についても、同じでしょうか?」
「どうだろう」
「主様から見た主様と、私から見た主様は、同じではありません」
「セリーから見た俺ってどんなの?」
「朝食を忘れやすく、考え込みすぎる傾向があり、時々ご自分だけで責任を抱えようとなさいます」
「悪いところばっかりだ」
「まだ途中です」
「まだあるの?」
「最近は以前より食事を止めなくなり、分からないことを分からないまま置けるようになり、他者へ任せることも増えました」
「……それならちょっといい」
「それから」
セリーがアルを見る。
「私にとって、とても大切な方です」
アルの足が僅かに遅くなる。
セリーもそれに合わせて歩調を緩めた。
「朝からそれ言う?」
「いけませんでしたか?」
「駄目じゃない。嬉しい」
アルは照れながら前を見る。
(やっぱり好きだ)
昨日もそう思った。
今日もそう思う。
明日、何か違う感情が加わることはあるかもしれない。それでも今日の気持ちまで嘘になるわけではない。
「セリー」
「はい」
「俺から見たセリーも言っていい?」
「お願いします」
「優しい。たまに厳しい。料理がうまい。俺より俺の体調を見てる。昔より、自分がどうしたいか言うようになった」
セリーは黙って聞いている。
「それから……俺にとって、すごく大切な人」
セリーの目が僅かに見開かれた。
アルはそこで止めた。
その先にある言葉を、知らないわけではない。
けれど、今はこれでいい。
セリーはしばらく何も言わず、やがて右手を少しだけアルの方へ近づけた。
触れる直前で止まる。
「今日は?」
アルが尋ねる。
「今は、少し触れたいです」
「俺も」
互いの小指が触れた。
手のひら全部ではない。
昨日の夜は触れなかった。
その前には手をつないだ。
どれも消えていない。
どれか一つだけが本当になるわけでもない。
二人は小指を触れ合わせたまま、朝の中庭をゆっくり歩いた。
塔の外では、旧保養施設の調査も、リューネの町の試行も、白鴉療養所の治療も続いている。
まだ答えの出ていないことは多い。
壁の向こうに何があるのか。
古い設備がなぜ今になって反応しているように見えるのか。
残された記録の「保持対象」が何を指すのか。
誰が何を望み、何を拒み、それがどのように書き換えられてきたのか。
答えを急げば、きっといくつもの出来事を一つの物語へ押し込めることができる。
けれど、それが本当に起きたことと同じだとは限らない。
アルは隣を歩くセリーの指先の感触を確かめながら、朝日に照らされた塔の庭を見渡した。
分からないものは、まだ分からないままでいい。
ただし、何もせず放っておくのではない。
見たことを残し、見えなかったことも残し、違って見えたならその違いを消さず、必要な資料を一つずつ確かめていく。
誰かの過去も、今の意思も、設備の光も、残された記録も。
意味を決めるのは、それからでよかった。




