第111話 残っているもの、動いているもの
朝食を終えてからしばらくして、塔の食堂には焼いた卵と香草の匂いがまだわずかに残っていた。
窓から差し込む朝の光は昨日よりも柔らかく、石造りの床を斜めに照らしている。食器を片付けていたセリーが最後の皿を重ねる横で、アルは湯気の薄くなった茶を飲みながら、腕輪に届いた新しい報告へ目を通していた。
昨夜の旧保養施設についての観測記録だった。
新しく置かれた自立式の基準板を使った観測が始まってから、発光位置についての記述は以前よりも具体的になっている。しかし、それによってすべてが分かりやすくなったわけではない。
むしろ、以前なら「右寄り」と一つの言葉にまとめられていたものが、観測者によって少し違う位置として見えていたことまで分かるようになった。
「……便利になったから、答えに近づいたとは限らないんだな」
アルが呟くと、食器を運び終えたセリーが向かい側ではなく、自然な動きで彼の隣の椅子へ腰を下ろした。
「ですが、違って見えていたことが分かったのは、以前より情報が増えたということではありませんか?」
「うん。たぶん、そういうことなんだと思う。みんなが同じものを見てると思い込んで、一つの記録にまとめちゃうよりずっといい」
アルは報告をもう一度読み返した。
夜間、統合盤の右寄りに弱い光が現れた。基準板を用いた記録では、二人の観測者の位置認識にはわずかな差があったものの、以前のような「右側」「中央より右」といった曖昧な表現より比較しやすくなっている。
発光が消えたあと、少し時間を置いて旧夜間詰所側の廊下奥から小さな音が一度だけ聞こえた。
同時ではない。
音が光を生じさせたのか、光に関係する何かが音を生じさせたのか、それともまったく関係がないのか。それを判断できる材料は、今のところ何もなかった。
そして、それでいい。
少なくとも今は、分からないものを分からないまま置いておける。
「主様」
「ん?」
「眉間に皺が寄っています」
セリーの指が持ち上がったものの、そのままアルの額へ触れることはなかった。途中で止まった指先を見て、アルは少しだけ笑う。
「直してくれないの?」
「触れてもよろしいですか?」
「うん」
許可を得てから、セリーは人差し指でアルの眉間を軽く押した。
「ここです」
「そこ押したら皺って消えるの?」
「少なくとも、主様は今、変な顔をされています」
「そっちが目的だったのか……」
セリーの口元がわずかに緩んだ。
指はすぐに離れる。
その短い接触を、アルは追わなかった。昨日は小指を触れ合わせて歩いた。今朝は肩が触れた。そして今は、眉間を一度押されただけだった。
(毎回、前より先に進まなくてもいいんだよな)
そう思えることが、以前より自然になっている。
触れたい日もあれば、触れなくても隣にいたい日もある。どちらかが正しく、どちらかが後退しているわけではない。
セリーとの間だけではなく、自分たちが今扱っている多くの問題にも、それは似ているような気がした。
腕輪が淡く光った。
『アル。ガルムより追加連絡です』
エルの声に、アルは茶器を置いた。
「旧保養施設?」
『はい。昨夜の観測そのものではなく、観測方法についてです。トーマス・ベルンから追加提案があり、ガルム、リディアが確認しています』
「提案?」
『音の方向についても基準を作れないか、という内容です。ただし、現時点では導入しない方針になっています』
アルは思わず少し笑った。
「もう決めてるんだ」
『はい』
「じゃあ、俺に許可を聞いてるわけじゃない?」
『情報共有です』
「……うん」
以前なら、ほんの少しだけ引っ掛かっていたかもしれない。
自分の知らないところで判断が進んでいることに、置いていかれたような感覚を覚えたこともあった。だが今は、胸の中に生じたものが不安ではなく、むしろ安堵に近い。
(俺が寝てても、朝飯食ってても、ちゃんと誰かが考えて決めてる)
王太子だったころは、決定が自分のところへ集まることが当然だと思っていた。
集まるほど重要な人間なのだと、どこかで考えていたのかもしれない。
けれど、一人にすべてが集まる仕組みは、その一人が間違えたときに弱い。疲れていても判断しなければならなくなるし、周囲は自分で考えるより、上から答えが降りてくるのを待つようになる。
今のアルが望んでいるのは、それとは違う。
「理由は?」
『視覚位置は固定された観測位置と基準板によって比較できますが、音は反響、観測者の向き、壁材、距離などの影響を受けるため、同じ方式をそのまま転用すると精度があるように見えてしまう危険がある、とリディアが指摘しています』
「なるほど」
『トーマス本人も了承しています。音については当面、各観測者が比較前に独立して記録し、無理に一つの方向へ統合しない方法を継続します』
「それがいいと思う」
答えてから、アルは少し考えた。
「……いや、今のも俺の承認として扱わないでね」
『感想として記録しますか?』
「記録しなくていいよ」
『承知しました』
セリーが隣で小さく笑った。
アルはそちらへ顔を向ける。
「何?」
「主様が、ご自分で訂正されるのが早くなりました」
「褒められてる?」
「はい」
「なんか微妙な褒め方だなあ」
「以前でしたら、もう少し後になってから気づかれていたと思います」
反論しようとして、やめた。
たぶん、その通りだからだ。
「……成長したってことで」
「そういうことにしておきます」
「そこは素直に認めてよ」
セリーの表情がもう少しだけ柔らかくなった。
朝の静かな食堂に、二人の声が穏やかに残る。
そのとき、腕輪が再び淡く明滅した。
今度のエルの声には、先ほどとは少し違う響きがあった。
『王立魔導研究院から返信を受信しました』
アルの手が止まった。
隣のセリーも、すぐに表情を引き締める。
「昨日の追加目録について?」
『関連しています。ただし、資料本文ではありません。申請した資料群について、閲覧可能範囲と保存状態の回答です』
「分かった。アンナマリーたちにも?」
『同時共有済みです。ブラート、ガルムにも閲覧権限のある範囲を送信しています』
以前なら、自分が最初に読むことを当然と思ったかもしれない。
今は、それぞれが同じ情報を持ったうえで考えられることの方が安心できる。
「読んで」
『まず、「旧施設設備停止・残置関係記録 北・中央系統分冊」。保存状態は一部欠損。本文閲覧については、現行施設安全調査を理由とする限定閲覧申請が受理されました』
「受理された?」
アルは思わず背筋を伸ばした。
『はい。ただし、すべてではありません。個人情報および旧王家機密指定に該当する付属資料を除き、設備構成、停止手順、残置理由、事故報告のうち安全調査に関係すると判断された範囲のみです』
「それで十分だよ」
むしろ、その方がいい。
知りたいからといって、関係のない誰かの記録まで覗く必要はない。
『次に、「夜間勤務補助手順改訂履歴」。こちらは設備運用資料として、ほぼ全範囲の閲覧が許可されています。ただし一部の付属名簿は除外されています』
「うん」
『最後に、「旧分類保持対象照会簿 施設別索引」。施設別索引そのものについては閲覧可能。ただし、個別照会簿の内容については別途申請が必要です』
アルはすぐには答えなかった。
昨日の時点で、そこまでは求めないと決めていた。
索引によって、旧保養施設に関係する記録が存在するかどうかを確認する。それ以上の内容は、その存在と必要性を確認してから考える。
「予定通り、索引まででいい」
『承知しました』
「設備資料と夜間勤務の改訂履歴を先に見たい。保持対象の方は、旧保養施設に関係する項目があるかどうかだけ確認しよう」
『その方針はアンナマリー、ブラートからも同様の意見が届いています』
「早いな、二人とも」
『アンナマリーからは、「アルが全部読む前に送っておきます」と付記されています』
「……信用されてるのか、されてないのか分からない」
「信用されているからこそ、止める必要があると考えていらっしゃるのではありませんか?」
セリーの言葉に、アルはしばらく黙ったあとで苦笑した。
「それ、たぶん一番逃げられないやつだ」
『ブラートからは、「一人で全部背負おうとしたら止めます」とあります』
「もっと直接的だった」
食堂に少しだけ明るい空気が戻った。
だが、エルが次の報告を読み始めると、アルの意識は自然と資料へ戻っていった。
研究院から先行して送られてきたのは、閲覧可能になった資料の目次と、数行程度の概要だった。
その中に、昨日確認した「北第二補助線・旧表示三窓」に関係しそうな項目が複数ある。
「旧表示器の機能分離に伴う夜間確認手順」。
「中央内部器休止後の補助線監視」。
「撤去済内部器に対応する表示窓の残置について」。
最後の項目で、アルの視線が止まった。
「エル。今の、もう一回」
『「撤去済内部器に対応する表示窓の残置について」です』
「表示窓は残ることがあったってこと?」
『題名からは、その可能性が示唆されます。ただし、本文未確認のため具体的な意味は判断できません』
「そうだよな」
昨日までなら、「右内部器撤去」と「右寄りの発光」が食い違うこと自体が大きな謎に見えていた。
しかし、内部器が撤去されても表示窓そのものが物理的に残される場合があったのなら、少なくとも「窓があるから内部器もある」という前提は崩れる。
それでも、現在の光が何によって生じているのかは分からない。
残った窓に別の系統の光が回り込んでいるのかもしれないし、後世の改修で別の設備と接続されたのかもしれない。そもそも今見ている三つの窓が、資料に記されたものと同じなのかさえ確定していない。
「分かることが増えると、分からないところも細かくなるんだな」
アルがそう言うと、セリーは少し考えてから頷いた。
「以前は大きく『分からない』だったものが、今は『ここまでは分かる』『ここからは分からない』に分かれているのではありませんか?」
「……それ、いいな」
「何がですか?」
「分からないことが減った、じゃなくて、境目が見えるようになったって考え方」
アルは資料名を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。
(昔の俺だったら、答えが出ないことに焦ってたかもしれない)
今は違う。
分からない部分が残っていても、その手前まで確認できたことには意味がある。
そして、確認できていない境界を越えて、勝手に答えを作らないことにも意味がある。
◇
同じころ、旧保養施設では、ガルムが壁際に置かれた自立式の基準板を眺めていた。
板と呼ばれてはいるものの、実際には床へ固定されていない細い支柱に、小さな目盛り板を取り付けた簡素な構造だ。床や壁には触れず、観測位置から統合盤を見る際の視覚的な基準だけを提供する。
その横では、提案者であるトーマス・ベルンが記録紙を持ち、昨夜の記述と以前の記述を見比べていた。
「便利になった気はするんですが……」
トーマスが言い淀む。
ガルムは腕を組んだまま彼を見た。
「気はするが?」
「前の記録が雑に見えてきます」
「雑だったのか?」
問い返されて、トーマスはすぐには答えなかった。
少し離れたところで資料を確認していたリディアも顔を上げる。
「……そのときできる範囲で記録していました。今の方法ができたからといって、以前の記録が間違いになるわけではないと思います」
トーマスは自分の紙へ視線を落とした。
「そうですね。ただ、昨日なら基準板の三番と四番の間って書けたものを、前は『右寄り』としか書いてないから……」
「だから移行期間は両方書くことにしたんでしょう」
リディアが穏やかに続けた。
「新しい記録だけ残したら、以前との比較ができなくなります。今の方法の方が細かくても、古い記録を今の尺度へ勝手に置き換えることはできません」
「はい」
トーマスは頷き、古い記録を消さずに紙を並べ直した。
ガルムはその様子を見ながら、統合盤へ目を向ける。
昨夜、弱い光が見えた場所。
今は何もない。
光っていない盤面を見ても、何かを読み取ることはできなかった。
「音の方は、しばらく今のままだ」
ガルムが言うと、トーマスは素直に頷いた。
「基準を作った方がいいかと思ったんですが、リディアさんに言われて納得しました。音って壁で変わるんですよね」
「変わります。それに、基準を作ったことで『この方向に違いない』と思い始める方が危険かもしれません」
リディアは廊下の奥へ視線を向けた。
これまで音は北、西、東寄りと、異なる方向から聞こえたように記録されている。
それが本当に複数の場所で起きているのか、同じ音が反響によって違って聞こえたのかさえ分からない。
「分からないなら、分からないと書く」
ガルムの低い声が廊下に響いた。
「二人が違う方向だと思ったなら、二つ残す。後からどちらかに揃えるな」
「はい」
トーマスは記録紙の余白へ何かを書きかけ、途中で手を止めた。
「隊長」
「なんだ」
「『方向不一致』ってまとめるのも、駄目ですか?」
ガルムは少し考えた。
「元の二人の記録を残したうえで、その状態を示す見出しとして使うなら構わん。ただ、それだけに置き換えるな」
「分かりました」
その返答を聞きながら、リディアはわずかに口元を緩めた。
以前のガルムなら、自分で最も適切な書き方を決めて指示していたかもしれない。今はトーマスに考えさせ、その案の危険な部分だけを止めている。
アルだけが変わっているわけではない。
一緒に動いている人間も、少しずつ変わっていた。
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいた。
フェリクスだった。
手には紙の束を持っているが、珍しく走ってはいない。
「研究院から追加資料の閲覧許可が出たそうです」
「知っている」
「ですよね。エルさん仕事早いですから」
フェリクスは統合盤へ近づこうとして、床に置かれた目印の手前で自分から足を止めた。
以前ならガルムが声を掛ける距離だった。
ガルムの眉がわずかに動く。
フェリクスはそれに気づいたらしく、苦笑した。
「何ですか、その顔」
「いや」
「触りませんよ」
「何も言っていない」
「言ってるような顔でした」
リディアが小さく息を吐いた。
緊張の続く場所でも、以前よりこうした会話が増えている。
フェリクスは持ってきた紙を近くの机へ置いた。
「面白い題名がありました。『撤去済内部器に対応する表示窓の残置について』」
「面白い、で近づくなよ」
「近づいてませんって」
言いながら、フェリクスは実際にその場から動かなかった。
「ただ、これがもし資料名そのままの意味なら、内部器が撤去されても表示窓が残る例はあったことになります。もちろん、現在の三窓がその表示窓だという証明にはなりませんし、今の発光源についても何も分かりません」
ガルムが目を細める。
「随分慎重になったな」
「褒めてます?」
「たぶんな」
「アル殿下と同じ反応しないでくださいよ」
「殿下と呼ぶな」
「そこですか?」
トーマスが思わず笑いそうになり、慌てて口元を引き締めた。
ガルムはそれを咎めなかった。
フェリクスは資料へ視線を戻す。
「本文が届くまでは、現場で試すことはありません。光を当てるとか、角度を変えるとか、叩くとかもなしです」
「当然だ」
「先に言っておけば信用が増えるかと思いまして」
「自分で言うと減る」
「厳しいなあ」
それでもフェリクスの表情は明るかった。
以前の彼にとって、分からないものは触って確かめたくなる対象だった。
今でも好奇心そのものは消えていない。
ただ、触れないまま待つことも、調査の一部として受け入れ始めている。
それはガルムにも分かっていた。
◇
午後、研究院から許可された資料の最初の一部が届いた。
塔の資料室にはアル、セリー、アンナマリー、ブラートが集まっていたが、誰も最初から結論を求めようとはしなかった。
机の中央に表示された古い記録は、一部が欠け、文字が潰れている箇所もある。
エルが読める部分だけを整理して表示した。
『資料名、「旧施設設備停止・残置関係記録 北・中央系統分冊」。対象施設名は一部旧称ですが、位置情報および移管記録から、現在調査中の旧保養施設を含む可能性が高いと研究院は注記しています』
「含む可能性、か」
ブラートが確認する。
『はい。同一施設と断定する注記ではありません』
「そこ大事ね」
アンナマリーは自分の紙へ、「施設同一未確定」と先に書いた。
アルはその文字を見て、少しだけ安心する。
一つずつ、先に境界を作っておく。
それだけでも、後から魅力的な仮説に引っ張られにくくなる。
エルが次の部分を表示した。
『「北第二補助線。主内部器撤去後、表示窓は構造壁との一体化につき残置。表示機能については隣接補助線からの微弱流入を完全遮断できず、無点灯を停止確認条件としない」』
誰も、すぐには口を開かなかった。
アルは文章を二度読み返した。
右内部器撤去。
表示窓残置。
隣接補助線からの微弱流入。
昨夜までに確認していた記録と、現在の現象へつながりそうな言葉がいくつも並んでいる。
胸の奥で、答えに近づいたような感覚が生まれた。
同時に、アルはその感覚そのものを警戒した。
(似てる。でも、似てるだけだ)
「……これ、かなり近く見えるな」
アルが言うと、ブラートが頷いた。
「見えます。ただし、現在の右寄りの光がこれだとは書いていません」
「うん」
アンナマリーも記録を見たまま続ける。
「そもそも、この北第二補助線が現在見ている場所と一致するかも、まだ完全には確認できていないわ。昨日の記録との組み合わせで可能性は上がったけれど」
「それに、微弱流入が当時の状態で起きる現象なのか、設備がさらに劣化した今でも同じなのかも分からない」
アルがそう付け加えると、セリーが静かに頷いた。
「ですが、少なくとも『撤去されているのに表示窓が光るのは矛盾している』と考える必要はなくなった可能性があります」
「そうだね」
それは小さいようで大きな違いだった。
謎が解けたわけではない。
ただ、一つの矛盾に見えていたものが、必ずしも矛盾ではない可能性が出てきた。
エルがさらに記録を進める。
『続きがあります。「当該表示窓の発光をもって内部器作動と判断することを禁ず。夜間勤務者は発光位置、継続時間、同時発生事象を個別に記録し、原因推定を勤務記録本文へ混在させないこと」』
今度は、アルだけではなくアンナマリーまで目を見開いた。
「……今やってることと、かなり似てる」
ブラートが低く呟く。
古い記録の中に書かれているのは、現在の彼らが試行錯誤しながら辿り着いた観測方法と驚くほど近い考え方だった。
発光位置。
継続時間。
同時発生事象。
そして、観測と推定を分ける。
アルは椅子の背にもたれず、机の上の文字を見つめた。
「昔の人も、同じところで困ったのかな」
「その可能性はあります」
アンナマリーが答えた。
「でも、困った理由まではこれだけじゃ分からない。実際に誤認事故があったのか、単に予防として決められたのか……」
「事故報告の方に何かあるかもしれないけど、まだそこまで届いてないんだよね」
『はい』
エルが応じる。
アルは続きを急かさなかった。
今あるものだけを見る。
それでも十分だった。
「ガルムたちに送ろう。ただし、観測方法を変えるためじゃなくて、昔にも似た注意事項があったっていう参考資料として」
『了解しました』
「あと、フェリクスには――」
アルは途中で止まった。
アンナマリーがこちらを見ている。
「何?」
「いえ。『興奮して触るな』と付け加えるのかと思って」
「……ちょっと思った」
「でしょうね」
「でも、たぶんガルムが言う」
ブラートが静かに笑った。
「本人も先ほど、自分から触らないと言っていたそうです」
「じゃあ言わなくていいか」
そう決めることにも、少しだけ嬉しさがあった。
誰かが変わったのなら、昔の扱いを永遠に続ける必要はない。
警戒を全部捨てるわけではない。
けれど、過去に問題を起こしたからといって、今も必ず同じことをすると決めつける必要もない。
「……記録と同じだな」
アルが呟いた。
「何がですか?」
セリーが尋ねる。
「前にこうだったっていう情報は残していい。でも、それだけで今も同じだって決めちゃ駄目なんだなって」
アンナマリーが少し考え、それから小さく頷いた。
「人についても、設備についても?」
「たぶん」
「主様ご自身についても、ではありませんか?」
セリーの言葉に、アルは一瞬だけ黙った。
王太子だった自分。
全部を自分で判断しようとしていた自分。
塔へ送られたばかりのころ、自分が何者なのかさえ分からなくなりかけていた自分。
それらは消えない。
間違いだったことも、苦しかったことも、なかったことにはならない。
けれど、それだけが今の自分を決めるわけでもない。
「……そうかも」
アルはゆっくり笑った。
◇
夕方、資料室を出たあと、アルとセリーは塔の中庭へ向かった。
日が傾き、石壁の上部だけが淡い橙色に染まっている。昼間より冷えた風が植え込みを揺らし、葉が触れ合う小さな音が庭の端から聞こえていた。
二人は並んで歩いていたが、手は触れていなかった。
それでも距離は近い。
しばらく歩いたところで、セリーがアルを見た。
「主様」
「ん?」
「今日は、手をつなぎたいですか?」
予想していなかった問いに、アルは歩調を少し緩めた。
以前なら、すぐに「つなぎたい」と答えていたかもしれない。
今も、つなぎたくないわけではない。
ただ、聞かれたからそう答えるのではなく、自分の今の気持ちを少し確かめてみる。
(どうしたいんだろう)
隣にいる。
声が聞こえる。
肩が触れそうな距離で歩いている。
それだけでも十分に心地よかった。
「……今日は、このままでもいいかな」
アルが答えると、セリーは少しだけ目を細めた。
「はい」
「セリーは?」
「私も、今はこのまま歩きたいです」
「そっか」
それ以上の確認はしなかった。
二人の手は触れないまま、同じ速さで揺れている。
少し前までなら、その間にあるわずかな隙間が気になっていたかもしれない。今は、その隙間まで二人が選んだ距離のように感じられた。
庭を半周したところで、セリーの肩が一度だけアルの肩へ触れた。
避けるほどでもなく、寄せるほどでもない、小さな接触だった。
「セリー」
「はい」
「昨日、大切って言ってくれたの、嬉しかった」
セリーの歩みがほんの少しだけ遅くなった。
アルもそれに合わせる。
「私も、主様から言っていただけて嬉しかったです」
「今日も変わってない?」
聞いた直後、アルは自分で少し笑った。
「……いや、毎日確認するのも変か」
セリーはすぐには答えず、夕暮れの庭を数歩進んでから口を開いた。
「毎日答える必要がある質問にされたら、少し困るかもしれません」
「だよね」
「ですが、今聞かれたこと自体は嫌ではありません」
「じゃあ……今は?」
セリーが立ち止まった。
アルも隣で足を止める。
夕日を受けた彼女の横顔は、いつもより少し柔らかく見えた。
「今も、主様は私にとって、とても大切な方です。一緒にいたいと思っています」
胸の奥が温かくなる。
アルはその感覚を急いで言葉へ変えようとはしなかった。
(好きなんだよな)
それはもう、自分の中ではかなりはっきりしている。
けれど、今この瞬間に告げなければならないわけではない。
言わないことが逃げになるときもあるだろう。
反対に、自分が分かったからといって、すぐ相手へ答えを求める形で差し出さなくてもいいときもある。
今は、後者だと思えた。
「俺も。セリーと一緒にいたい」
「はい」
二人は再び歩き始めた。
手はつながない。
けれど、そのことを寂しいとは思わなかった。
塔の中庭を抜けるころには空の橙色が薄れ、東側から夜の青がゆっくり広がり始めていた。
腕輪のエルは新しい通知を告げなかった。
旧保養施設でも、王立魔導研究院でも、リューネの町でも、今この瞬間にアルの判断を必要とするものはないらしい。
以前なら、何も起きていない時間を落ち着かなく感じたかもしれない。
今は、その静けさの中にも誰かが考え、働き、休み、自分の選択をしているのだと分かっている。
古い設備には、撤去されたものと残されたものがある。
残された表示窓が、元の役割とは違う形で光ることもあったらしい。
過去の記録は残っていても、現在の判断を自動的に決めるものではない。
人も、きっと同じだった。
過去が消えるわけではない。
昨日選んだことも、今日選んだことも、どちらか一方だけが本物になるわけではない。
アルは隣を歩くセリーへ視線を向けた。
セリーも気づき、こちらを見る。
「どうされました?」
「いや」
アルは小さく笑った。
「今日もここにいてよかったなって思っただけ」
セリーは一度瞬きをしてから、穏やかに微笑んだ。
「私もです」
二人はそれ以上言葉を重ねず、夜へ変わり始めた中庭を並んで歩いていった。
触れていなくても、離れてはいない。
答えが出ていなくても、何も進んでいないわけではない。
そして塔の奥では、王立魔導研究院から届いた古い資料が、まだ読まれていない続きの部分を静かに残していた。




