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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第112話 残された窓が示すもの



翌朝、アルが目を覚ましたとき、塔の外では細い雨が降っていた。


窓硝子を叩くほど強くはなく、灰色の空から落ちてくる雨粒が石造りの外壁を静かに濡らしている。部屋の中には夜の冷気がまだ少し残っていたが、廊下へ出ると食堂の方から温かな匂いが漂ってきて、焼いたパンと香草、それから煮込んだ野菜の香りが混じり合っていた。


食堂へ入ると、セリーが鍋からスープを器へ注いでいるところだった。


「おはようございます、主様」


「おはよう。今日は雨か」


「夜明け前から降り始めました。強くなる可能性は低いようですが、気温は昨日より下がっています」


「じゃあ今日は中にいるかな」


椅子へ座りながら答えると、セリーがこちらを見た。


「資料が届いているから、ではありませんか?」


「……半分くらいは」


「もう半分は?」


「雨だから」


「それでしたら安心しました」


アルは苦笑した。


以前なら、資料が届いたと聞けば食事より先に確認していたかもしれない。今も気になっていないわけではない。昨夜、研究院から届いた資料にはまだ読めていない部分が残っている。


特に気になっているのは、撤去済みの内部器に対応する表示窓についてだった。


古い記録では、北第二補助線の主内部器が撤去されたあとも、構造壁と一体化していた表示窓そのものは残されていた。その窓には隣接する補助線から微弱な魔力が流れ込むことがあり、発光したからといって内部器が作動していると判断してはならない、と明確に記されている。


現在の旧保養施設で確認されている弱い発光と関係している可能性はある。


しかし、まだ可能性にすぎない。


「主様」


セリーの声で、アルは目の前へ意識を戻した。


スープの器が置かれている。


「冷めます」


「ごめん」


「謝る必要はありませんが、考えるのでしたら食べながらではなく、食べ終わってからにしてください」


「はい」


素直に匙を取る。


口へ運んだスープは、野菜の甘みが強く、冷えた身体へゆっくり熱が広がっていった。


「おいしい」


「ありがとうございます」


「今日はセリーが作りたかったやつ?」


「はい。雨でしたので、温かいものにしたいと思いました」


「俺のため?」


聞いてから、少しだけ期待している自分に気づいた。


セリーは鍋の蓋を閉じながら、わずかに首を傾ける。


「主様にも食べていただきたいと思いましたが、私自身も作りたかったのです」


「そっか」


「残念でしたか?」


「いや」


アルは笑った。


「むしろ、そっちの方が嬉しいかも」


セリーが自分で作りたいと思ったものを作り、それを一緒に食べる。


以前なら彼女は、アルの身体に必要だから、主人に食事を提供する役割だから、という理由を先に挙げていただろう。


その役割が消えたわけではない。


けれど今は、そこへ彼女自身の好みや意思が加わっている。


アルはそれを心地よく感じながら、温かな朝食を最後まで食べた。


食後の茶が用意されたところで、腕輪が淡く光った。


『おはようございます、アル』


「おはよう、エル」


『王立魔導研究院から許可された資料の追加部分が到着しています。アンナマリー、ブラートにも共有済みです』


アルは反射的に立ち上がりそうになり、それをやめた。


まだ茶が残っている。


「急ぎ?」


『緊急性を示す情報はありません』


「じゃあ、これ飲んでから行く」


『承知しました』


セリーが向かいで静かに微笑んでいる。


「今、ちょっと褒めた?」


「まだ何も申し上げておりません」


「顔がそんな感じだった」


「主様も、人の表情を読むのがお上手になられましたね」


「やっぱり褒めてたじゃん」


雨音を聞きながら茶を飲み終えるまで、エルから追加の催促はなかった。


そのことが、妙に嬉しかった。


          ◇


資料室へ入ると、アンナマリーとブラートはすでに来ていた。


窓の外では雨が細く降り続けており、曇天のせいで室内はいつもより暗い。壁際の魔導灯が柔らかな光を落とし、中央の大きな机には研究院から届いた記録がエルによって整理されていた。


「おはよう、アル」


「おはよう。早いね」


アンナマリーが少し呆れたような目を向ける。


「あなたが遅くなったのよ」


「朝ご飯食べてた」


「それなら良いことね」


「そこ、疑わないんだ」


「以前だったら疑ったかもしれないわ」


アルは何も言い返せず、セリーが隣でわずかに笑った。


ブラートは挨拶を済ませると、机上に表示された資料へ視線を戻した。


「まだ概要だけ確認しています。本文を順番に読むのはアルが来てからにしました」


「待たなくてもよかったのに」


「全員で見る意味がある部分だと思いましたので」


それなら、とアルは椅子へ座った。


セリーはその隣へ座る。


以前なら自然にアルの後ろへ立っていた彼女が、今では同じ机を囲む一人として座ることが増えている。その変化をアンナマリーは一瞬だけ見たものの、何も言わず資料へ目を戻した。


「エル、お願い」


『はい。今回届いたのは、「撤去済内部器に対応する表示窓の残置について」の本文、および「中央内部器休止後の補助線監視」の一部です』


古い記録が机上へ拡大表示される。


保存状態は良いとは言えなかった。文字の欠けた部分や、紙面の傷みによって読めない箇所があり、研究院側の復元注記も付けられている。


エルは判読可能な部分から読み始めた。


『「内部器撤去後も構造壁一体型表示窓を撤去しない場合、当該窓は表示対象を失う。ただし、隣接線、共通導路、残存保持部より微弱魔力が流入することがあり、点灯または変色をもって撤去内部器の再作動と判断してはならない」』


アルは腕を組まず、机の上へ両手を置いたまま文章を見つめた。


昨日確認した概要より、かなり具体的だ。


「共通導路と残存保持部……」


アンナマリーが呟く。


「隣接補助線だけじゃないのね」


「うん」


アルも頷いた。


「光ってる窓と、その奥に元々あった設備が直接つながってるとは限らない」


ブラートが文章の一部を指した。


「それに、『表示対象を失う』とあります。窓そのものは残っていても、何を表示しているのかという本来の対応関係がなくなるわけですね」


「なのに光ることがある」


「はい」


アルはゆっくり息を吐いた。


現在の旧保養施設で起きている発光が、この現象だと決まったわけではない。


それでも、考え方は大きく変わる。


これまでは無意識に、光った場所の奥に何かがあると考えていた。


だが、窓が単なる残骸で、別の場所から漏れ込んだ魔力によって光っている可能性もある。


「……俺たち、光った場所を見すぎてたかもしれない」


アルの言葉に、アンナマリーがすぐ反応した。


「それは、今までの観測が間違っていたという意味?」


「違う。場所を記録したのは必要だったと思う。でも、光った位置と原因の位置を同じだと思いかけてたかもしれないってこと」


「なるほど」


アンナマリーは自分の紙へ書き込んだ。


「観測位置と原因位置を分離する、と」


「それ、ガルムたちにも共有した方がいいかな」


ブラートが少し考える。


「資料そのものを送れば十分ではありませんか? こちらで解釈まで付けると、それが新しい前提になる可能性があります」


アルは一度口を閉じた。


確かにそうだ。


「じゃあ資料をそのまま。あと、今の俺たちの話は『検討中』として必要なら別に送る」


『その形式で共有可能です』


エルが答える。


「お願い」


『承知しました』


続きの記録が表示された。


『「夜間確認においては、表示窓の発光位置と推定流入元を同一欄へ記載しないこと。発光は観測事実として、推定流入元は考察欄へ分離する。流入元不明の場合、空欄とせず『不明』と記載すること」』


アルは思わずアンナマリーを見る。


アンナマリーもこちらを見ていた。


「昔の人、相当苦労したのね」


「たぶん」


「空欄と不明を分けろって、かなり具体的よ」


「空欄だと、調べ忘れたのか、分からなかったのか、後から見た人には分からないからかな」


ブラートが頷く。


「あり得ます。ただし、なぜこの規則が追加されたのかは、改訂履歴を確認しないと分かりません」


「事故があったって決めないようにしよう」


アルが言うと、アンナマリーが小さく笑った。


「今、自分に言ったでしょう?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「フェリクス」


ブラートが咳払いで笑いを隠した。


セリーだけは真面目な表情を保っていたが、その目元がわずかに柔らかい。


「フェリクス様も、最近は以前より慎重になられています」


「分かってるよ」


アルは苦笑する。


「だから本人に言うんじゃなくて、ここで思っただけ」


「それでしたら問題ありません」


「セリーまで厳しくない?」


「主様がおっしゃったことを確認しただけです」


そんなやり取りを挟みながらも、資料の確認は急がず続いた。


やがて、「中央内部器休止後の補助線監視」と題された別資料へ移る。


こちらには、さらに気になる記述があった。


『「中央内部器休止後、左補助線は継続使用。右内部器撤去済。旧三窓表示器は改修せず残置。左窓は補助線状態を継続表示するが、中央および右窓については表示信頼性なし」』


「……三窓」


アルが小さく呟いた。


『続きます。「ただし、共通導路の残留流および左補助線負荷変動により、中央・右窓に一時発光を認める場合あり。発光順序、色、継続時間に一定性なし」』


資料室の空気が変わった。


誰もすぐには口を開かなかった。


現在の旧保養施設では、右寄り、中央付近、左寄りと、異なる位置で弱い発光が確認されている。


色も青白、黄白、淡黄色、橙に近いものまで一定していない。


継続時間もばらつきがある。


似ている。


かなり似ている。


だからこそ、アルは胸の奥に生じた興奮をそのまま結論へ変えないよう、意識して呼吸を整えた。


(これで決まったわけじゃない)


「似てるな」


最初に言ったのはブラートだった。


「はい」


アルは頷いた。


「でも、今の施設がこの状態のまま残ってる証拠はない」


アンナマリーも続ける。


「現在の三窓が、この資料の旧三窓表示器と同じだという確定もまだないわ」


「うん。それに、昔の時点で一定性なしって書かれてるなら、今の発光順を並べて規則を探すのも慎重にした方がいいかも」


セリーが資料を見つめたまま口を開く。


「これまでの発光記録を、この資料へ合うように並べ直すことも避けた方がよろしいのではありませんか?」


アルは彼女を見た。


「そうだね」


それは重要だった。


資料が見つかったあとで過去の観測を読み返せば、似ている部分だけが目につきやすい。


合わない記録まで「例外」として押し込め始めれば、結局は自分たちが欲しい答えへ資料を曲げることになる。


「これまでの記録はそのまま残す。資料を知る前に書かれた観測だから、むしろその方が価値がある」


アンナマリーが頷いた。


「後から表現を直すのは禁止ね」


「うん」


『その方針を観測班へ共有しますか?』


「お願い。ただし命令じゃなくて、記録を改変しないための提案として。現場でも確認してもらって」


『承知しました』


資料確認はそこで一度止めた。


まだ続きはある。


しかし、全員が一度に読み進めるより、今判明した部分を整理する必要があると感じていた。


アルは椅子の背へ身体を預け、窓の外を見た。


雨はまだ降っている。


答えへ近づいた感覚はある。


けれど、その感覚に急かされてはいけない。


          ◇


旧保養施設へ資料が届いたのは、昼を少し過ぎたころだった。


ガルムは詰所として使っている部屋で、リディア、フェリクス、トーマスとともに内容を確認していた。


フェリクスは最初の数行を読んだ時点で目を輝かせたものの、立ち上がることはなかった。


「これは……かなり面白いですね」


「座っていろ」


「座ってますよ」


「先に言っておく」


「信用が育ってきたと思ったのに」


「育っているから、言うだけで済んでいる」


フェリクスは一瞬きょとんとしてから、口元を緩めた。


「それ、褒めてます?」


「たぶんな」


「最近それ多くないですか?」


ガルムは答えず、資料へ視線を戻した。


リディアは現在の観測記録と古い資料を机の左右へ分けて置いている。


「似ています」


彼女は慎重に言った。


「特に、中央と右の表示信頼性がないこと、左補助線だけが継続していたという部分は、これまで確認した別の記録ともつながります」


トーマスが尋ねる。


「じゃあ、今の光もその残留流ってやつなんですか?」


リディアはすぐに首を横へ振らなかった。


代わりに、資料の該当箇所を指す。


「そうかもしれません。でも、この資料に書かれている設備と、私たちが見ている設備が同じだと確認できていません。それに、二千年近く経っている設備が当時と同じ状態である保証もありません」


「そうですよね」


「ただし」


フェリクスが言葉を継いだ。


「発光位置そのものを原因位置だと考えない方がいい、という資料はかなり有用です。つまり、右が光ったから右の壁を調べよう、という発想にはならなくていい」


ガルムがフェリクスを見る。


「元から調べさせるつもりはない」


「分かってます。私も行きません」


「本当か?」


「そこ疑います?」


フェリクスは不満そうにしながらも、統合盤のある方向へ身体を向けようとはしなかった。


トーマスは古い観測記録を取り出した。


「これ、書き直さない方がいいんですよね」


「そのままにしておけ」


ガルムが答える。


「でも、新しい資料に合わせて分類した一覧を別に作るのは?」


「それは……」


ガルムがリディアを見る。


リディアはしばらく考えた。


「元記録を変更せず、後から作った比較資料だと明記するなら役に立つと思います。ただ、資料に合う記録だけを抜き出さないことが条件です」


「合わないのも?」


「むしろ、そちらが大事かもしれません」


トーマスは少し意外そうな顔をした。


「合わない記録が?」


「はい。仮に現在の設備が古い資料と同じ仕組みなら、資料と一致しない現象には別の理由があるかもしれません。反対に、一致しないものが多すぎれば、そもそも別の設備を見ている可能性も考えなければなりません」


トーマスは納得したように頷いた。


「じゃあ全部並べます」


「一人でやるな」


ガルムがすぐに言った。


「はい?」


「抜き出す段階で判断が入る。二人で確認しろ」


「分かりました」


「俺も見ますよ」


フェリクスが手を挙げる。


ガルムが眉を寄せた。


「なんでその顔するんですか」


「お前が見ると、分類を増やしそうだと思った」


「……三つくらい候補を考えてました」


「却下だ」


「まだ言ってないのに!」


トーマスが今度こそ笑った。


リディアも小さく息を漏らす。


旧保養施設の廊下には、以前ほど張り詰めた空気ばかりが流れているわけではない。


危険が消えたわけではない。


壁の向こうに何があるのかも分からない。


それでも、分からないものの前で誰か一人が焦って動かない仕組みは、少しずつ形になっていた。


          ◇


その夜、雨は止んだ。


雲の切れ間から月が見え始めたころ、旧保養施設の夜間観測が始まった。


自立式の基準板は昨日と同じ位置に置かれている。固定はされていないが、昼間に二人以上で位置を確認し、床へ触れない方法で観測点との関係だけを記録してある。


トーマスは今夜も観測役の一人だった。


古い資料の内容は知っている。


だからこそ、彼は意識して統合盤を「資料に書かれた三窓」だと思わないようにしていた。


似ている。


だが、同じとは決まっていない。


夜が深くなっても、しばらく変化はなかった。


基準板も、統合盤も、廊下も静かなままだ。


もう一人の観測者と必要な確認だけを交わしながら、トーマスは定められた位置を離れなかった。


やがて日付が変わり、さらに時間が過ぎた。


弱い光が見えたのは、夜半をかなり回ってからだった。


トーマスは身体を前へ出しかけ、それを止める。


統合盤の三つの窓のうち、基準板で確認すると左側に近い位置だった。


色は白に近い。


しかし、わずかに黄色を含んでいるようにも見える。


隣の観測者はまだ何も言わない。


互いの認識を先に混ぜないためだ。


トーマスは自分の記録紙へ、見えたままを書き込んだ。


発光位置。


時刻。


色。


強さ。


そのあとで、継続時間を測る。


古い資料には、左窓は補助線状態を継続表示すると書かれていた。


その知識が頭へ浮かぶ。


(これが左窓なら、補助線が動いてる?)


考えた直後、トーマスは記録紙から目を離した。


推測は推測だ。


今見ているのは光だけである。


彼は考察欄へ、「旧資料との対応未確認。原因不明」と書いた。


数分後、光は消えた。


音はなかった。


受動式の測定器にも明確な変化はない。


壁、床、廊下の奥にも目視できる変化は確認されなかった。


観測を終えてから、もう一人の兵士と記録を比較する。


相手は発光位置についてほぼ同じ場所を記していた。


ただし色は「黄白」ではなく、「白。黄色味は判断不能」と書いている。


「直しますか?」


相手が尋ねる。


トーマスは一瞬迷った。


以前なら、二人で相談して同じ表現へ揃えた方が良い記録になると思ったかもしれない。


けれど、今は違う。


「いや、このままにしましょう。俺には少し黄色く見えた。そっちは分からなかった。それでいいと思います」


「分かった」


二枚の紙は、そのまま残された。


その夜、ほかに目立った変化は起きなかった。


          ◇


翌朝。


塔では、夜間報告を受け取ったアルが食堂の窓辺に立っていた。


雨上がりの空はまだ雲が多いものの、東の端から薄い光が差し始めている。庭の石畳には水が残り、朝日を受けて小さく光っていた。


「左寄りか」


アルは報告を読みながら呟いた。


昨夜確認した古い資料には、左窓だけが補助線状態を継続表示するとあった。


その直後に、現在の施設で左寄りの発光が観測された。


あまりにも、つなげたくなる。


「主様」


隣に立つセリーが声を掛けた。


「うん」


「何を考えていらっしゃいますか?」


アルは少し迷ってから、そのまま答えた。


「資料の左窓と、昨日の光が同じだったらって考えた」


「はい」


「でも、まだ分からない」


「はい」


セリーは否定も肯定もしなかった。


ただ、同じ窓の外を見ている。


アルは報告の続きを読んだ。


二人の観測者は位置についてほぼ一致した。


色については一致しなかった。


そして、どちらの記録も修正されていない。


「これ、いいな」


「何がでしょう?」


「色を揃えなかったこと」


セリーが報告へ目を落とす。


「違って見えたものを、違ったまま残したということですか?」


「うん。あとで本当に色に意味があるって分かるかもしれないし、全然意味がないかもしれない。でも今の時点で一つにしちゃったら、その違い自体がなくなるから」


アルは窓の外へ視線を戻した。


雨上がりの庭では、同じ水滴でも朝日の当たり方によって白く見えるものと、淡い金色に見えるものがある。


見る場所が違えば、同じものでも少し違って見える。


だからといって、どちらかが必ず嘘になるわけではない。


「主様」


「ん?」


「今日は、外へ出られますか?」


唐突に話題が変わり、アルはセリーを見た。


「庭?」


「はい。雨は止みましたので」


「行きたい?」


「少し歩きたいです」


その言葉に、アルは自然に笑った。


「じゃあ行こう」


「資料は?」


「逃げないでしょ」


セリーの目が少しだけ丸くなった。


「どうしたの?」


「いえ」


「また褒めようとした?」


「少しだけ」


「ちゃんと言ってよ」


「主様は、資料より先に散歩を選べるようになられました」


「……やっぱり褒め方が微妙だな」


それでも、悪い気はしなかった。


二人は外套を羽織り、中庭へ出た。


雨上がりの空気は冷たく、濡れた土と草の匂いが濃い。葉の先から落ちる水滴が小さな音を立て、塔の高い壁の向こうでは雲がゆっくり流れていた。


並んで歩き始めても、二人の手は触れない。


昨日と同じだった。


けれど今日は、アルからその距離を意識することも少なかった。


しばらく歩いたところで、セリーが立ち止まる。


植え込みの葉に、大きな水滴が一つ残っていた。


朝日を受け、見る角度によって白にも淡い黄色にも見える。


セリーが少し身体を動かして眺める。


「こちらから見ると白いです」


アルも隣から覗き込んだ。


「俺のところからだと、ちょっと黄色い」


「では、どちらが正しいのでしょうか?」


「……どっちも、今見えてる色としては正しいんじゃない?」


答えてから、アルは笑った。


「なんか、今日の報告みたいだな」


「私もそう思いました」


二人はしばらく同じ水滴を眺めた。


セリーがほんの少し位置を変える。


「あ」


「どうした?」


「黄色く見えました」


「じゃあ俺の勝ち?」


「勝負だったのですか?」


「違うか」


「はい」


セリーの声には、はっきり笑いが混じっていた。


アルも笑う。


そのまま歩き出したとき、セリーの手の甲がアルの手へ軽く触れた。


偶然だったのかもしれない。


だが、離れたあと、今度はセリーの小指が少しだけ近づいてきた。


アルは歩きながら彼女を見る。


セリーもこちらを見た。


「今日は?」


アルが尋ねると、セリーは少し考えたあと、小指だけをアルの小指へ触れさせた。


「今は、これくらいがいいです」


「うん」


握らない。


引き寄せない。


小指が触れているだけだった。


それでも、濡れた庭を歩く足取りは自然と揃っていく。


塔の中には、まだ読んでいない資料が残っている。


旧保養施設では、昨夜見えた左寄りの光について、誰も答えを出していない。


王立魔導研究院には、まだ届いていない改訂履歴や事故記録もある。


分からないものは、たくさん残っていた。


けれどアルは、それを以前ほど怖いとは思わなくなっていた。


分からないからこそ、見えたものを見えたまま残す。


違ったものを、無理に一つへ揃えない。


そして、答えが届くまでの時間を、答えを待つことだけに使わなくてもいい。


雨上がりの庭を歩きながら、アルは小指に伝わるセリーのわずかな温度を感じていた。


今は、それで十分だった。

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