第113話 答えではなく、確かめる順番
中庭から戻ったあとも、アルの指先にはセリーの小指が触れていた感覚がしばらく残っていた。
雨上がりの冷たい空気から塔内へ入ったため、廊下の温度は普段よりも暖かく感じられる。濡れた靴底を入口の布で拭き、外套を預けてから食堂へ戻ると、セリーは当然のように二人分の温かい茶を用意し始めた。
「資料室へ持っていきますか?」
湯気の立つ茶器を前に尋ねられ、アルは少し考えた。
「いや、ここで飲んでからにしようかな」
「分かりました」
セリーはそれ以上急かさず、向かいではなくアルの隣の椅子へ腰を下ろした。
散歩の間は小指が触れていたものの、今は二人の手の間にわずかな隙間がある。それを寂しいとは思わなかった。触れていないからといって、さっきまでの時間が消えるわけではないと、もう分かっている。
アルは茶器を両手で包み、立ち上る香りを吸い込んだ。
「セリー」
「はい」
「さっきの散歩、楽しかった?」
「はい。楽しかったです」
即答したあと、セリーは自分の茶器へ視線を落とした。
「主様と歩けたことも、水滴の色が見る位置によって変わったことも、私は好きでした」
「そっか」
胸の奥が温かくなる。
(こういうの、ずっと覚えていたいな)
そう思ったところで、アルは少しだけ笑った。
何でも記録に残す必要はない。
紙に書かなければ消えるわけでもない。
二人の間にあった時間は、誰かへ証明するために存在しているわけではなかった。
「主様?」
「なんでもない。俺も楽しかった」
「はい」
セリーの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
その穏やかな時間を壊すようなものではなかったが、しばらくすると腕輪のエルが淡く光った。
『アル。旧保養施設から朝の追加報告です』
「何か変化?」
『緊急性はありません。昨夜の左寄り発光について、ガルムたちが観測記録と研究院資料を比較するための整理方法を決めました。確認を求めるものではなく、共有です』
その最後の一言に、アルはわずかに眉を上げた。
以前なら、現場の方法変更は自分へ許可を求める形になっていたかもしれない。
しかし今は違う。
「共有だけ?」
『はい。ガルムは「現場で決めた。問題があると思ったら言え。ただし、アルの許可待ちにはしない」と』
「ガルムらしいな」
思わず笑う。
「内容は?」
『過去の観測記録そのものには手を加えません。別紙として比較表を作成します。ただし、研究院資料と一致する現象だけを抽出せず、発光がなかった夜、発光のみ確認された夜、音のみ確認された夜、発光と音が近接した夜、方角が従来と異なった音なども同じ形式で並べるとのことです』
アルは茶器を置いた。
それなら、現在持っている記録を都合の良い形へ寄せる危険は少なくなる。
「比較項目は?」
『時刻、発光位置、観測者ごとの色の認識、継続時間、音の有無と推定方向、受動式測定器の変化、その他の目視変化です。原因推定は別欄とし、空欄ではなく、推定しない場合は「未評価」、判断できない場合は「不明」と区別する案です』
「細かいな」
『トーマス・ベルンの提案が一部採用されています』
「トーマスが?」
『はい。彼は「分からない」と「まだ考えていない」が同じ空欄になると、後から見た者が区別できないと指摘しました』
アルは少し驚いた。
昨日読んだ古い資料にも似た発想があった。
けれど、だからといってトーマスが古い規則をそのまま真似したわけではない。現場で記録を取っている本人だからこそ、同じ問題へ行き着いた可能性もある。
「いいと思う。……いや、俺がいいって言う必要もないか」
「意見を持つことと、許可を出すことは別ではありませんか?」
隣のセリーが静かに言った。
アルは彼女を見る。
「それもそうか」
自分が責任を集中させないよう意識するあまり、今度は意見を言うことまで避ける必要はない。
「じゃあ、良い方法だと思うって伝えて。ただ、俺の承認として扱わなくていいとも」
『そのように伝えます』
エルの光が少し弱まった。
『もう一点あります』
「うん」
『フェリクスから、研究院資料について追加の確認提案が届いています』
アルは思わず笑ってしまった。
「何を見つけた?」
『まだ何も見つけていません』
「珍しい」
『本人も同じことを言っていました』
セリーが小さく息を漏らした。
『提案内容を読みます。「旧三窓表示器と現施設の統合盤が同一系統かを確かめるため、現物へ接触する前に、資料上の寸法、窓間隔、壁面基準位置、改修履歴を照合したい。現物側の新規測定は行わず、既存写真および非接触記録のみを使用する」』
アルはすぐには答えなかった。
現物へ近づかない。
壁も開けない。
新しい刺激も加えない。
既存の情報だけで、まず「同じものを見ている可能性があるか」を確かめる。
順番としては妥当に思える。
「ガルムは?」
『許可済みです。リディアが同席し、資料上の一致と不一致を両方記録する条件です』
「じゃあ俺から言うことはないな」
『承知しました』
通信が終わったあと、アルは残っていた茶を飲んだ。
少しぬるくなっていたが、それでも香りは残っている。
「なんかさ」
「はい」
「俺が何もしなくても進んでるね」
「はい」
セリーは迷わず答えた。
アルは以前なら少し寂しさを感じていたかもしれない。実際、今もまったくないわけではない。必要とされたい気持ちは、王太子という立場を失ったから消えたわけではなかった。
けれど、それより強いものがある。
自分が眠っていても、食事をしていても、散歩をしていても、誰かが自分で考えて動ける。
その事実に、今は安心する。
「主様」
「ん?」
「それでも、私は主様と一緒に散歩したいと思います」
一瞬、意味を考えてから、アルは笑った。
「仕事がなくても?」
「仕事の有無とは関係ありません」
「……それ、結構すごいこと言ってるよ」
「そうでしょうか?」
セリーは本当に分かっていないような顔をしている。
アルはそれ以上説明しなかった。
(やっぱり好きなんだよな)
以前より、ずっと自然にそう思える。
けれど、それを今すぐ言葉にする必要はない。
セリーが自分といたいと言ってくれた現在を、別の答えへ急いで変える必要もなかった。
◇
同じころ、旧保養施設ではフェリクスが床いっぱいに資料を広げそうになり、ガルムに止められていた。
「机を使え」
「並べた方が全体が見えるんですよ」
「人が通る」
「壁際なら」
「駄目だ」
「はい」
以前なら不満を口にしながら何枚か置いていたかもしれないが、フェリクスは素直に資料を机へ戻した。
その様子を見ていたリディアは、少しだけ目を細める。
フェリクスは変わった。
好奇心が弱くなったわけではない。むしろ資料を見ているときの目は以前と同じで、気になる記述を見つければ食事を忘れかねない。
変わったのは、知りたいという気持ちと、実際に手を伸ばす行動との間に、以前より長い距離を置けるようになったことだった。
「リディア、ここの寸法を見てもらえます?」
「どこですか?」
「旧三窓表示器の外枠です。幅が一・八三古尺、高さが〇・六二。現施設の記録写真から推定した外枠比率と近い気がします」
リディアは隣へ移動し、資料を覗き込んだ。
「近いですが、写真から正確な寸法は出せません。遠近もありますし、改修で外枠だけ変わっている可能性もあります」
「ですよね」
フェリクスは残念そうな声を出したものの、「一致」とは書かなかった。
代わりに比較表へ、「外形比率は近似の可能性あり。現物寸法未確認」と記入する。
ガルムは向かいからそれを見ていた。
「今、測りに行きたいと思ったか?」
「思いました」
「正直だな」
「思うことまで禁止されたら困りますよ」
「禁止してない」
「だから行きません」
フェリクスは顔を上げ、統合盤がある廊下とは反対側へ椅子を少し向け直した。
「測りたいですけどね。でも今やったら、新しい資料を手に入れた直後に現物へ触れることになる。たぶん一番興奮してる時ですから、判断するには向いてません」
ガルムの眉がわずかに動いた。
「自分で分かるようになったか」
「褒めてます?」
「今日は褒めてる」
「……怖いですね」
「じゃあ取り消すか?」
「それはそれで嫌です」
少し離れた場所で記録を整理していたトーマスが、笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
リディアも表情を緩めたが、すぐ資料へ視線を戻した。
「窓の間隔についてはどうですか?」
「古い図面では等間隔じゃないんですよ。中央から右だけ少し広い」
フェリクスが別の紙を差し出す。
リディアは既存の記録写真と見比べた。
現在の統合盤も、一見すると三つの表示部が並んでいるように見える。しかし右側だけ、枠の境界が摩耗していて正確な中心位置を判断しにくい。
「似ているとは言えます。でも、同一だとはまだ言えません」
「同意します」
「それから、ここ」
リディアは古い図面の下部を指した。
三つの表示窓のさらに下に、小さな長方形が描かれている。
「これは何ですか?」
フェリクスが資料へ顔を近づけた。
「……記号が潰れてる」
「説明欄は?」
二人で対応する記述を探す。
しばらくして、フェリクスの指が一行で止まった。
「『外部確認札挿入部』……?」
ガルムが視線を上げた。
「何を入れる場所だ?」
「まだ分かりません」
フェリクスは即座に答えた。
「名前だけなら、確認札を入れる場所に見えます。でも、何を確認するための札なのか、誰が使うのか、差し込むことで何が起きるのか、そもそも機械的な札なのか魔導具なのかも、この一行だけじゃ分からない」
「現物に似た穴は?」
ガルムが尋ねる。
リディアは首を横に振った。
「今までの記録写真では判断できません。下部は汚れと補修材が多く、細部が見えにくいです」
フェリクスが何か言いかけ、口を閉じた。
ガルムはその様子を見逃さなかった。
「言え」
「近づいて見たい、と思いました」
「却下だ」
「まだ提案してませんよ」
「顔に書いてある」
「でも、私も今は行かない方がいいと思います」
フェリクスは古い図面を机へ戻した。
「まず資料側で『外部確認札』を探します。同じ言葉が別資料にあるかもしれない。それで用途が分かれば、現物を見る必要自体がなくなる可能性もあります」
ガルムは数秒黙ってから頷いた。
「そうしろ」
トーマスが比較表へ新しい欄を作ろうとして、手を止めた。
「これは観測表には入れない方がいいですよね?」
リディアが彼を見る。
「なぜそう思いますか?」
「まだ夜間観測と関係あるか分からないからです。欄を作ったら、みんなそこを気にして見るようになりそうで」
リディアはゆっくり頷いた。
「私もそう思います。調査資料側へだけ残しましょう」
「分かりました」
新しい情報を見つけたからといって、すべてを観測項目へ増やせばいいわけではない。
見る項目を増やすことは、見え方そのものを変える。
ガルムはそのことを口にせず、トーマスが既存の観測表をそのまま閉じるのを見届けた。
◇
午後、塔の資料室へフェリクスたちの途中報告が届いた。
アルはアンナマリー、ブラートとともに確認したが、「外部確認札挿入部」という新しい言葉に飛びつくことはしなかった。
「札、か」
アンナマリーが資料へ目を細める。
「識別札とは別なのかしら」
「分からない」
アルは答えた。
以前の資料には「識別札 壁内側」という記述があった。
だが、同じ「札」という言葉が使われているからといって、同じものとは限らない。
「エル、研究院から来た資料の中で『外部確認札』って言葉は他にある?」
『現在許可されている範囲では二件あります。ただし、同一設備に関するものかは確認できません』
「読める?」
『はい。一件目は別施設の搬送設備点検表です。「外部確認札を用い、内部開放前に保持状態を確認」とあります。二件目は旧保養施設由来と推定される断片資料ですが、施設名欄が欠損しています。「確認札欠損時、代替札を使用せず、記録照会を優先」とあります』
アルは眉を寄せた。
「代替札を使うな……」
ブラートが腕を組む。
「少なくとも、何でも差し込めばよいものではなさそうですね」
「そうだね」
アンナマリーが二件目の文章を読み返した。
「でも、『記録照会を優先』ということは、札がなくても確認する別の手段があった可能性がある」
「あるいは、確認そのものを止めて記録を探せ、という意味かもしれない」
ブラートが補足する。
「どちらもあり得ます」
アルは資料から目を離した。
答えが増えたというより、分からないことが一つ増えた。
それでも以前のような焦りはない。
「フェリクスには、この二件だけ送ろう。解釈は付けないで」
『承知しました』
「研究院には?」
アンナマリーが尋ねる。
アルは少し考えた。
すでに改訂履歴や設備停止記録について追加照会を出している。そこへ新しい単語を見つけるたびに問い合わせを重ねれば、調査の軸そのものが散らばるかもしれない。
「今は待とう」
「理由は?」
アンナマリーが確認する。
アルは質問を責められているとは感じなかった。
「この言葉が重要かどうか、まだ分からないから。今出してる照会への返事の中に出てくるかもしれないし、フェリクスが既存資料で見つけるかもしれない。それでも必要なら、そのとき聞けばいい」
「分かったわ」
アンナマリーは新しい照会文を書き始めなかった。
それだけで決定は終わった。
◇
夕方になると、雨雲は完全に東へ流れていた。
塔の食堂には西日が差し込み、石壁が淡い橙色に染まっている。
セリーは夕食の準備をしていたが、今日はアルも厨房にいた。
料理を任せてもらったわけではない。
野菜を洗うだけである。
「これくらいならできる」
「昨日、根菜の皮を厚く剥きすぎました」
「今日は洗うだけだから大丈夫」
「水を飛ばしすぎないでください」
「子供扱いしてない?」
「事実を申し上げています」
アルは桶の中で野菜を洗いながら、不満そうにセリーを見る。
彼女は平然と鍋をかき混ぜていた。
「王太子だった頃、料理なんてやったことなかったんだから仕方ないだろ」
「現在は王太子ではありませんので、覚える時間はあります」
「厳しいなあ」
「嫌でしたら、やめても構いません」
その言葉に、アルは手を止めた。
やめてもいい。
続けてもいい。
それをセリーが自然に言うようになったことが嬉しかった。
「いや、やる。俺がやりたいから」
「では、お願いします」
野菜を一つずつ洗い終え、布の上へ並べていく。
最後の一つを置いたところで、セリーがこちらを見た。
「綺麗に洗えています」
「やればできる」
「水はかなり飛びましたが」
「そこは見ないで」
床の一部が濡れている。
セリーが布を取りに行こうとしたので、アルが先に取った。
「これは俺が拭く」
「はい」
止められない。
それもまた少し嬉しい。
夕食を終えたあと、二人はいつものように食堂に残った。
窓の外では雲が切れ、星が見えている。
「今日は手、どうする?」
アルは自分の手を机の上へ置いたまま尋ねた。
以前なら、こんなことを聞くだけでひどく緊張していた。
今も少しは緊張する。
けれど、それ以上に、聞いてもいいのだと思えるようになっていた。
セリーは自分の手を見たあと、アルへ視線を戻した。
「今日は、握ってみたいです」
胸が一度だけ大きく鳴った。
「俺も」
アルは手のひらを上へ向けた。
セリーはすぐには触れず、その手をしばらく見ている。
それから、自分の手をゆっくり重ねた。
指先だけではない。
小指だけでもない。
手のひら同士が触れ、セリーの指がアルの指の間へ少しだけ入る。
アルは強く握らなかった。
セリーも同じだった。
「これくらい?」
「もう少しだけ、握っていただいても大丈夫です」
「分かった」
指へ少し力を加える。
セリーの手が、それに応えるように握り返した。
(嬉しい)
言葉にしなくても、顔には出ていたらしい。
セリーがこちらを見ている。
「主様、嬉しそうです」
「うん。嬉しいよ」
隠す必要はない。
「セリーは?」
「私も嬉しいです」
その答えを聞いても、アルは次を求めなかった。
もっと近づきたいと思わないわけではない。
抱きしめたらどうなるだろうと、ほんの少し考える。
けれど、その想像を今のセリーへ背負わせる必要はない。
今日は手を握りたいと彼女が言った。
アルもそうしたいと思った。
それで十分だった。
しばらく二人は、何も話さず窓の外を眺めた。
沈黙は気まずくなかった。
やがて腕輪が淡く光ったが、緊急通知ではないことを示す穏やかな光だった。
アルは握っている手を離さず、エルへ尋ねる。
「急ぎ?」
『いいえ。王立魔導研究院から受信通知のみです。本文は明朝でも問題ありません』
「じゃあ明日にする」
『承知しました』
光が消える。
セリーの指が、わずかに動いた。
「見なくてよろしいのですか?」
「うん」
アルは握った手を見てから、セリーへ笑った。
「今はこっちにいたい」
セリーはしばらく何も言わなかった。
その頬にほんのわずかな変化が現れたのを、夕暮れの残光が照らしている。
「……私もです」
二人の手は、そのまま重なっていた。
明日の朝になれば、新しい資料を読む。
そこに答えがあるかもしれないし、また別の手順しか書かれていないかもしれない。
旧保養施設の三つの窓が古い資料と同じものなのかも、壁の内側に何が残されているのかも、外部確認札が何のために存在したのかも、今はまだ分からない。
けれど、分からないものを前にしたとき、すぐ手を伸ばす必要はない。
何を先に確かめるべきか。
何をまだ確かめなくてもいいのか。
そして、何を確かめるより先に大切にしたいのか。
アルは少しずつ、その順番を自分で選べるようになっていた。
窓の外で最初の星が明るさを増していくなか、二人はしばらく手を握ったまま、静かな夜を過ごした。




