第114話 開ける前に知るべきこと
翌朝、アルが食堂へ入ったとき、セリーは窓際に立って空を見ていた。
前日の雨はすっかり上がり、塔を囲む木々の葉には朝露が残っている。低い位置に漂っていた薄雲も東から差し込む光に押されるようにほどけ始めており、窓をわずかに開けた隙間からは、湿った土と草の匂いを含んだ冷たい風が流れ込んでいた。
「おはよう、セリー」
「おはようございます、主様」
振り返ったセリーは、いつものように穏やかな表情をしていた。
昨夜、二人はかなり長い時間、食堂で手を握っていた。
途中でどちらからともなく離し、そのあと特別な言葉を交わしたわけでもない。それでもアルは、今朝セリーの顔を見るだけで昨夜の手の温度を思い出してしまい、わずかに視線を逸らした。
(意識しない方が無理だよな……)
けれど、恥ずかしいからといって昨夜のことをなかったように扱いたくはない。
アルはいつもの席へ向かいながら、セリーへ尋ねた。
「昨日、手を握ったの……嫌じゃなかった?」
質問してから、自分で少し迷った。
昨日すでにセリーは「嬉しい」と言っている。毎朝同じことを確認するようになれば、それは相手へ安心を求め続けることにもなりかねない。
アルが言葉を足そうとしたところで、セリーが先に答えた。
「嫌ではありませんでした。私は嬉しかったです」
「うん」
「ただ、主様」
セリーは朝食の皿を置くと、アルの向かいではなく隣の椅子へ腰を下ろした。
「毎朝、昨日の選択が正しかったかを確認しなくてもよろしいと思います」
アルは目を瞬かせたあと、苦笑した。
「やっぱりそうだよな」
「はい。私が嫌だった場合や、あとから気持ちが変わった場合は、お伝えします」
「俺もそうする」
「それでよろしいのではないでしょうか」
セリーはそこで会話を終え、焼いたパンへ果実の煮詰めたものを少量載せた。
昨日の気持ちを今日もう一度証明する必要はない。
昨日の選択が存在したことと、今日どうしたいかは別である。
自分たちが調査や支援の場で何度も向き合ってきたことが、二人の間でも少しずつ自然なものになっている。
「じゃあ、今日は聞かない」
「何をでしょう?」
「手を握るかどうか」
セリーはパンを持ったまま、少し考えた。
「それは、聞いてはいけないという意味ではありません」
「え?」
「主様が聞きたいときは聞いてください。私も触れたいときにはそうします。ただ、昨日が良かったかどうかを、今日のために確認し続けなくてもよいという意味です」
「……難しいな」
「そうでしょうか?」
「いや、言ってることは分かるんだけどさ」
アルは笑いながら、自分のパンを手に取った。
「決まりにしすぎない方がいいってことかな」
セリーは少し考えてから頷いた。
「私は、その方が好きです」
その答えを聞いて、アルも頷いた。
昨日は握った。
今日はまだ分からない。
それでいい。
朝食を食べ終えたころ、腕輪のエルが淡く光った。
昨夜届いた王立魔導研究院からの通知は、まだ開いていない。
「エル、昨日の資料、緊急性に変化は?」
『ありません。受信後に追加通知もありません』
「じゃあ、資料室でみんなと見よう」
『アンナマリーとブラートへ連絡しますか?』
「お願い。都合が悪かったら待つから、急がなくていいって付けて」
『承知しました』
アルは席を立とうとして、食器を片づけ始めたセリーを見る。
「手伝う?」
「今日は私が行いたいです」
「分かった。じゃあ先に資料室に行ってる」
「はい。終わりましたら向かいます」
それだけのやり取りをして、アルは一人で食堂を出た。
以前なら、セリーが後ろにいないことを少し不自然に感じたかもしれない。
今は違う。
同じ場所へ行くからといって、必ず同じ瞬間に動く必要はなかった。
◇
資料室へ着いてしばらくすると、ブラートが先に入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう。早かったね」
「ちょうどこちらへ来る予定でしたので」
ブラートは机の上へ数枚の紙を置いた。
「昨日までの研究院照会内容を、こちらでも整理していました。新しい返答を見る前に、何を質問していたか確認できるようにしてあります」
「助かる」
アルは紙を受け取った。
そこには、これまで研究院へ送った照会内容が簡潔にまとめられていた。
旧施設設備停止・残置関係記録の中に旧保養施設由来の資料が存在するか。
存在する場合、まず記録構造、年代、移管元だけを確認したい。
保持対象照会簿・旧分類については、旧保養施設分の存在確認までとし、個人名や内容には踏み込まない。
設備の開放方法は問い合わせていない。
西側の壁を開ける方法も聞いていない。
そして、直近で見つかった「外部確認札」については、まだ研究院へ新規照会していない。
「こうして見ると、意外と聞いてないな」
「意図的に絞ってきましたから」
「うん」
そこへアンナマリーが入ってきた。
「おはよう。セリーは?」
「片づけしてから来るって」
「そう」
アンナマリーは自然に答えたものの、一瞬だけアルを見た。
以前の二人なら、セリーがアルより後から来るというだけで珍しかった。
しかし、アンナマリーは何も言わなかった。
その変化を言葉にして評価すること自体が、二人を必要以上に意識させるような気がしたからだ。
少し遅れてセリーも到着し、四人が揃った。
「エル、開いて」
『はい』
机の中央に、研究院から届いた文書が表示される。
今回は前回よりも量が多かった。
ただし冒頭には、研究院側からの注意書きがある。
『「本回答は、照会された資料群の存在および分類構造に関する範囲で作成したものであり、個別対象、現存設備、現在確認されている施設構造との同一性を保証するものではない」』
アルは思わず笑った。
「向こうも相当慎重だな」
「むしろ助かるわ」
アンナマリーが答える。
「最初にこれを書いてくれているなら、資料の名前だけで現在の設備へ結びつける危険が少し減るもの」
エルが続きを表示する。
最初の回答は、「旧施設設備停止・残置関係記録」についてだった。
旧保養施設に由来する資料は、少なくとも一部存在する。
ただし、施設名そのものではなく、王室管理下にあった複数の療養・保護施設の設備記録を統合した分類の中へ移されている。
現時点で確認できた年代範囲には、旧保養施設が閉鎖されたとされる時期より前の資料も含まれていた。
しかし、移管後に再分類されたものがあり、原施設単位の完全な一覧は残っていない。
「存在は確認できた」
アルが呟く。
「でも、どれがあの施設のものか全部分かるわけじゃない」
「そういうことね」
アンナマリーは資料を読みながら、自分の紙へ書き込んでいく。
続いて表示されたのは、記録構造だった。
設備記録は大きく、稼働設備、停止設備、残置設備、撤去判断、事故・異常報告、定期点検、照会中、分類未確定という項目に分けられている。
その中でアルの目が止まったのは、「照会中」という分類だった。
「これ、何を照会してたんだろう」
『研究院側の注記があります』
エルが該当部分を拡大する。
『「照会中は、設備の物理状態のみでは処理判断を完了できず、他記録群への照会を必要としたものを含む。照会対象は設備履歴、建築記録、医療記録、保護行政記録、保持対象記録等。『照会中』のみをもって人的対象との関連を意味しない」』
「先回りされた」
アルが言うと、ブラートがわずかに笑った。
「研究院にも、同じ誤解をする人がいたのかもしれません」
「それも決めない方がいいわね」
アンナマリーがすぐに返す。
ブラートは苦笑しながら頷いた。
「その通りです」
さらに資料を進める。
保持対象照会簿・旧分類についても、旧保養施設由来と推定される項目が存在していた。
しかし、ここでも「保持対象」という言葉は人間だけを指していない。
薬品。
原記録。
温度維持が必要な素材。
移送待ちの生体。
一時保管された魔導具。
構造保持に関係する設備群。
異なる時期、異なる施設で、同じ言葉が複数の意味に使われている。
アルは額へ手を当てた。
「また増えたな」
「何がですか?」
セリーが尋ねる。
「『保持対象』の意味」
「一つへ絞れなくなったということでしょうか」
「うん。でも、たぶん絞れないって分かった方がいいんだろうな」
以前なら、意味の候補が増えることを調査が遠のいたように感じていたかもしれない。
今は、間違った一つへ決めるよりずっといいと思える。
そして、その次に表示された記述で、四人の空気が変わった。
『「旧施設設備停止・残置関係記録のうち、原施設記載が部分的に残存する索引項目を確認。該当候補として『北系統第二線』『西補助保持区画』『外部状態確認部』の記載あり。ただし、三項目が同一施設・同一時期・同一設備系統に属するかは索引のみでは確認不能」』
アルは身を乗り出しかけた。
だが、その姿勢のまま止まる。
「外部状態確認部……」
昨日見つかった「外部確認札挿入部」という言葉が頭に浮かぶ。
似ている。
けれど同じとは書かれていない。
「エル、研究院は俺たちが外部確認札って言葉を見つけたこと、知らないよね?」
『はい。昨日は追加照会を送っていません』
「じゃあ、向こうがこちらに合わせて出した言葉じゃない」
『その通りです。ただし、語が類似していること自体は同一設備を示す証拠にはなりません』
「うん」
アルは椅子へ深く座り直した。
アンナマリーが資料を見つめながら言う。
「少なくとも、こちらが昨日見つけた言葉とは独立して、研究院の索引に『外部状態確認部』という記載が存在していた。それだけね」
「今はそれで十分だと思う」
ブラートが次の部分を指した。
「続きがあります」
エルが表示を進める。
研究院側では、これらの索引に紐づく資料のうち、個人情報や特別保護指定に直接触れない設備管理資料について、追加閲覧が可能か確認しているという。
ただし、一部資料には「開口前確認」「保持状態確認」「内部状態変化の可能性」という記載が含まれるため、現地設備への操作を想定する場合は、資料の一部だけを参照して実行しないよう注意が添えられていた。
「……開口前確認」
アルが低く言った。
西側の壁。
まだ開けていない区画。
これまで何度も「開ける」という選択肢が頭をよぎり、そのたびに止めてきた。
今度の資料には、まさに開口前の確認に関係する可能性がある言葉が出ている。
それでも、これは「開け方」ではない。
「ここ、重要だね」
「開けられるという意味ですか?」
セリーの問いに、アルは首を横へ振った。
「逆かな」
彼は文章をもう一度読む。
「開ける前に確認しなきゃいけないことがあった、って可能性が出てきた。だったら、確認方法も意味も分からないまま開けるのは、もっと駄目だ」
ブラートも頷く。
「『内部状態変化の可能性』が何を指すか分かりません。構造物かもしれませんし、魔力状態かもしれません。人的対象と結びつける理由も現時点ではありません」
「うん」
アンナマリーがアルを見る。
「現場へは?」
「資料をそのまま共有しよう。あと、研究院が追加閲覧可否を確認してるなら、今は待つ」
「外部確認札について問い合わせない?」
アルは少し考えた。
昨日なら、もう少し待とうと答えた。
今は、研究院側から独立して類似語が出てきた。
状況は変わっている。
だから昨日と同じ判断にこだわる必要もない。
「聞いていいと思う。ただし、『外部確認札と外部状態確認部は同じですか』って聞くのはやめたい」
「誘導になるから?」
「うん。『外部状態確認部に関する用語一覧や設備名称が確認できるか』くらいにして、こっちで見つけた言葉は先に出さない方がいいんじゃないかな」
アンナマリーは少し考えてから頷いた。
「比較するなら、向こうから出てくる名称を先に確認したいということね」
「そう」
「では草案を作るわ。送信前に私とブラートで確認して、必要ならガルムたちにも見てもらう」
アルは反射的に「俺も見る」と言いかけた。
だが、その必要があるか考える。
「俺は……最終確認しなくていいや」
アンナマリーが顔を上げた。
「見たくないの?」
「見たいよ。でも、俺が見ないと送れない形にはしたくない。内容で意見が必要なら呼んで」
ブラートが静かに頷いた。
「分かりました」
その言葉だけで話は終わった。
◇
旧保養施設では、研究院から届いた資料を読んだフェリクスが珍しく長い間黙っていた。
ガルムは向かいの椅子に座り、急かさず待っている。
リディアは窓際で資料の写しを読み、トーマスは昨夜の観測記録を整理していた。
「どうした」
しばらくしてガルムが尋ねる。
フェリクスは資料から顔を上げた。
「開けないで正解でしたね」
「今さらか?」
「いえ。今までも開けるべきじゃないと思ってましたよ。少なくとも、今すぐは」
フェリクスは「開口前確認」という文字を指で示したものの、紙面そのものには触れなかった。
「でも、もしこれが現施設と関係する資料なら、単に鍵や封印を解除すればいい設備じゃなかった可能性があります。開けることで内部状態が変わるから、その前に外から何かを確認する手順があったのかもしれない」
「何か、とは?」
「分かりません。圧力か、魔力負荷か、構造張力か、保持状態か、それ以外か。ここで候補を増やしすぎるのも良くないですね」
自分で言って、フェリクスは候補を書き始めようとしていた手を止めた。
ガルムはそれを見て口元を少し緩める。
「成長したな」
「今日は素直に受け取ります」
「気持ち悪いな」
「褒めておいてそれ言います?」
少し離れたところでトーマスが笑った。
リディアは資料を机へ置くと、昨日確認した旧三窓表示器の図面を隣へ並べた。
「もう一つ気になることがあります」
フェリクスがすぐに身を乗り出したが、椅子からは立たない。
「何です?」
「昨日の図面にあった外部確認札挿入部は、表示窓の真下に描かれています。一方、今日の研究院索引にあるのは『外部状態確認部』です。もし同じ設備だとしても、札を入れる場所そのものが確認部なのか、確認部を操作するための入口なのかで意味が変わります」
「確かに」
「ただし、同じ設備とはまだ確認できません」
「はい」
フェリクスは即答した。
ガルムが少し意外そうに彼を見る。
「何ですか」
「いや。ちゃんと最後まで待てるようになったと思ってな」
「私、どんな扱いだったんです?」
「壁に穴があったら覗く研究者」
「否定しにくいのが腹立ちますね」
トーマスがとうとう声を出して笑った。
張り詰めていた部屋の空気が少し緩む。
しかしリディアは、笑みを残しながらも図面から目を離さなかった。
「現物確認はしません」
「分かってます」
「念のためです」
「今日はみんな私に念を押しますね」
ガルムが腕を組む。
「必要なくなるまで言う」
「はいはい」
フェリクスはそう答えたものの、統合盤の方向へ行こうとはしなかった。
代わりに古い資料を一枚ずつ確認し、「外部」「確認」「状態」「札」という単語が使われている箇所を探し始める。
しばらくして、トーマスが昨夜分の整理を終えた。
「隊長、比較表できました」
ガルムが受け取る。
表には、発光が確認された夜だけではなく、何も起こらなかった夜も並んでいた。
北側の音。
西側の音。
東寄り、あるいは南東と感じられた音。
発光のみ。
音のみ。
両方が近い時刻に起きた例。
何も起こらなかった例。
そして昨夜の左寄りの弱い発光。
一つの規則へきれいに収まってはいない。
「見事にばらばらだな」
ガルムが言う。
「はい」
トーマスは少し不安そうに答えた。
「でも、ばらばらなのを確認するための表でもいいんですよね?」
リディアが振り返る。
「もちろんです」
「規則が見つからなくても?」
「見つからないという結果と、まだ見つけられていないという状態は同じではありません。ただ、今の記録から一定の規則を確認できない、とは言えます」
トーマスは表を見下ろした。
「じゃあ、そのまま残します」
「それがいい」
ガルムは表を返した。
答えを作るための比較ではない。
違いを消さずに並べた結果、規則が見えないのなら、それもまた現在分かっていることの一つだった。
◇
午後、塔にはリューネの町からも報告が届いた。
支援窓口の試行運用に関するものだった。
以前相談に来たエルザ・ノイマンは、過去の生活支援記録を今回の相談では見ないでほしいと途中で希望を変えた。過去の記録そのものが間違っているわけではなく、「あの時と今は違う」というのが彼女自身の言葉だった。
その出来事を受けて、現場の職員たちは二つの案を小規模に試していた。
相談開始時に、「以前の記録を使ってよいか」と必ず尋ねる方法。
そしてもう一つは、最初から質問するのではなく、「過去の記録を使ってほしい、あるいは使ってほしくない場合は途中でも伝えられる」と説明だけしておく方法だった。
結果は、きれいには分かれなかった。
最初に聞いてもらった方が安心したという住民がいた一方、「毎回選ばされる感じがして疲れる」と答えた住民もいる。
説明だけの方が気楽だったという人がいる一方で、「言い出すのが難しいから聞いてほしい」と話した人もいた。
アルは食堂の机で報告を読みながら、思わず息を吐いた。
「正解、一個じゃないな」
隣でセリーが茶を注いでいる。
「困りましたか?」
「ちょっと。でも、前ほどじゃない」
「なぜでしょう?」
「どっちか一つを町全体の正解にしなくてもいいって分かってきたからかな」
報告の最後には、現場職員からの提案があった。
相談窓口ごとに完全に別の方式を採用するのではなく、まず利用者へ短く説明し、その人が「聞いてほしい」「自分から言いたい」「今は決めたくない」を選べる形を試したい。ただし、それすら選択負担になる可能性があるため、職員側が反応を見て説明方法を調整できる余地を残したいというものだった。
完成した制度ではない。
むしろ、まだかなり曖昧である。
だが、その曖昧さを失敗とは感じなかった。
「町の人たちだけで続けられそうだな」
『現在、アルへの判断依頼はありません』
エルが補足する。
「うん。共有だけでいい」
アルは報告を閉じた。
セリーが向かいの椅子へ座ろうとして、途中で止まる。
それから少し考え、アルの隣へ座った。
肩が触れるほどではない。
けれど、手を伸ばせば届く距離だった。
「今日は隣なんだ」
「はい。今日はここに座りたいと思いました」
「そっか」
アルは笑った。
それ以上の理由は聞かなかった。
◇
夜になっても、旧保養施設から緊急連絡は来なかった。
王立魔導研究院への新しい照会草案も、アンナマリーとブラート、それから現場側の確認だけで送信された。アルには送信後の写しが共有されたが、修正を求められることも、許可を求められることもなかった。
塔の一日は、静かに終わろうとしていた。
食事を終えたアルとセリーは、食堂から中庭へ出た。
雨の名残はほとんど乾いており、石畳にはところどころ小さな水たまりが残っているだけだった。雲のない夜空には星が多く、塔の高い外壁が月明かりを受けて青白く浮かんでいる。
二人は並んで歩いた。
今夜は、まだ手をつないでいない。
アルはそれを意識していたものの、聞くべきかどうかで悩み続けることはなかった。
少し歩いたところで、セリーが足を止めた。
「主様」
「ん?」
「今日は、手を握りたいですか?」
アルは驚いて彼女を見る。
「セリーから聞くんだ」
「聞いてはいけませんか?」
「いや。嬉しい」
アルは自分の右手を見た。
「握りたい」
「私もです」
セリーが手を差し出す。
アルはその手を取った。
昨夜より自然だった。
けれど、昨夜と同じだからそうしたわけではない。
今日の二人が、今そうしたいと思ったから手を握った。
指を絡めるほど強くはないものの、手のひら同士が触れ、互いの温度が伝わってくる。
「昨日より緊張しないな」
「私は少し緊張しています」
「そうなの?」
「はい」
セリーは正面を向いたまま答えた。
「嫌だからではありません」
「うん」
「嬉しいことでも、緊張することはあるのですね」
その言葉に、アルはすぐ返事をしなかった。
魔導人形として長い時間を生きてきたセリーが、自分自身の感情を一つずつ知ろうとしている。
その隣にいられることが嬉しかった。
「俺も最初はすごい緊張してたよ」
「今は?」
「今も少し。でも、それより嬉しい」
「私も、そうかもしれません」
二人は再び歩き始めた。
しばらくすると、セリーの指へ少し力が入る。
アルも同じくらいだけ握り返した。
「主様」
「なに?」
「今日の研究院の資料を読んでいるとき、主様は少し怖そうでした」
アルの足がわずかに遅くなる。
自分では隠せていると思っていた。
「どの辺?」
「『開口前確認』という言葉が出たときです」
アルは夜空を見上げた。
すぐに否定する必要はない。
「怖かったよ」
口にしてみると、思ったより素直に言えた。
「もし壁の向こうに誰かがいるならって考えた。でも、誰かがいるって証拠はないし、逆に何もないって証拠もない。開けたら助けられるのか、開けたせいで何かを壊すのか、それすら分からない」
セリーは黙って聞いている。
「だから怖い。開けないことで遅れるかもしれないって思うのも、開けて取り返しがつかなくなるかもしれないって思うのも」
「はい」
「でも、怖いから開けるのも違うと思う」
アルは握っている手へ視線を落とした。
「今は、開ける前に知れることがあるなら、そっちを先に知りたい」
セリーはしばらく黙っていた。
やがて、握った手を少しだけ持ち上げる。
「私は、主様が怖いとおっしゃってくださって嬉しいです」
「怖がってるのに?」
「はい。以前の主様は、怖くても一人で決めようとなさっていましたから」
「……そうだったな」
王太子だった頃から、決断することが自分の役目だと思っていた。
正しい答えが分からなくても、迷っている姿を見せてはいけないと思っていた。
今は、違う。
ガルムがいる。
リディアがいる。
フェリクスがいる。
アンナマリーやブラートがいる。
現場で観測を続けるトーマスたちがいる。
エルも、セリーもいる。
そして、壁の向こうに何があるか分からないという事実を、誰か一人の確信で塗り潰す必要はない。
「一人で決めなくていいって、楽だな」
「はい」
「でも、たまに自分が何もしてない気もする」
「主様は今日、朝食を召し上がりました」
「そこ?」
「散歩もされました。資料も確認されました。町からの報告も読みました。夕食も残されませんでした」
「最後、子供みたいじゃない?」
「重要です」
セリーは真面目だった。
アルは堪えきれず笑った。
「分かった。今日もちゃんと生きてたってことにしとく」
「はい」
セリーもわずかに笑う。
二人は中庭をもう一周してから塔内へ戻った。
入口の前で手を離したが、どちらも名残惜しさを隠すようなことはしなかった。
「明日は?」
アルが何気なく言いかけ、途中で止める。
セリーが首を傾げた。
「明日は、何でしょう?」
アルは少し考えてから笑った。
「明日は明日で決めればいいか」
「はい。私もそう思います」
塔の扉が静かに閉じる。
そのころ、遠く離れた王立魔導研究院では、昼間に送られた新しい照会文が受理されていた。
ただし、その事実をアルたちはまだ知らない。
照会を担当した研究員は、保管索引の中から「外部状態確認部」に関連する資料番号を探し、複数の候補のうち一つで手を止めていた。
その資料には、古い分類名が残されている。
しかし研究員は、それだけを見て内容を断定しなかった。
資料番号を照合し、閲覧権限を確認し、同じ索引番号に紐づく別紙が存在することを確かめる。さらに、原本の一部が別分類へ移管されていることを知ると、その日のうちに回答を書くこともやめた。
急げば、一部だけを送ることはできた。
だが、一部だけを送ることで意味が変わる可能性がある。
研究員は回答欄へ、ただ一つだけ状態を記した。
「関連資料照合中。回答保留」
それは答えではなかった。
けれど、分からないまま先へ進まないために必要な、ひとつの停止だった。




